悲しむ人
 
 
間違いを厳しく指摘されて
泣く人はいずれ自分を省みて学習する。
怒る人は相手への復讐の念を燃やす。
 
前者になりたい。
前者がキリスト者らしい。
そして人間らしい。
 
後者の極端なのはサイコパスだろう。
 
でも怒ったのち反省し
怒りを治めて
改めて反省する人もいるから
決めつけてはいけないのだろう。
 
 
キリストは
泣く人や泣ける人や
泣きそうな人に近づいた。
 
キリストは
復讐の念に駆られた人
つまり怒る人によって殺された。
 
 
感情の中で
いちばん大切なものが悲しみであり、
悲しみは反省に通じ
成長につながる。
 
悲しみに押しつぶされることのないように
キリストは近づいて来られるのだろう。
 
聖書の金持ちの青年は
キリストに見捨てられたわけではない。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」
というキリストの言葉が、すでに、
人に、神のごとく、よいことが出来る、などと思ってはいけない
という戒めのような気がする。私は、原語を知らないので、推測だが。
 
青年は、標準的な戒律を守っていたから、祝福を期待していたのかもしれない。
しかしキリストが求めているのは、戒律の型通りの順守ではなかった。
キリストが求めているのは、掟に従うことではなく、愛だった。
愛は、気安く守っているなどとは言えないこと・・。
 
愛について、守っていると言える人は、またしても、キリストだけだ。
 
神の前に、戒めを守っている、と言える人はいない。
その思い上がりに対して
キリストは、恐らく、守れないことを承知の上で、
財産を売り払って貧しい人々に施すようにと言った。
 
キリストは、
祝福を与えられると慢心している者には厳しく、
崖っぷちで泣いている人には優しい。
 
青年は悲しみながら去ったと書いてある。
怒りながらとか、呪いの言葉を吐きながら、
復讐を誓いながら、とは書いてない。
 
青年が、そののち、どうなったのか、
キリスト者となったのか、支援者になったのか、
聖書には書かれていないようだが、
青年は、キリストを殺したパリサイ人とは違うと思われる。
私は、少しばかり希望的観測をもって、この聖句の感想としている。
 
 
(2018年01月19日、同日一部修正)
 
順守(じゅんしゅ、遵守)
 
 
 
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