言葉と心
私たちは、信仰者として、
言葉を覚えるように促されるかもしれない。
最も典型的なのは信条だ。
信条の言葉を覚えたからといって
信仰が不変の確かさを持つわけではない。
私たちの学びは、
言葉ではなく心なのだが、
神の言葉
という言葉に執着するためか、
言葉を過剰に重視して
心から信仰の情感が欠けてゆく。
聖書は神の言葉であっても、
その神の言葉は人の言葉で書かれている。
だから人にも読めるというのに、
神の言葉の神秘性にこだわって
訂正不能に覚えようとするのは殆ど呪文のようだ。
主の祈りのように
私たちの願いに結びつく言葉は大切だが、
讃美に相当する言葉は、
大方、現実感から離れている。
信仰の言葉として述べられるのが
讃美だけではないのは、
ヨブ記や伝道の書において明らかである。
空しさや悲しさの共感であったり、
神を恐れる発言であることもあるだろう。
私の好きなそれら二つの書には、
人間の罪と不全の悲しみへの共感が
忌憚なく語られ、裸のまま表れている。
背教の念が湧いたときに、
言葉だけ讃美にする愚は避けたい。
それは神に対する偽りであるゆえに
神を恐れない罪である。
神の言葉を恐れて
神を恐れなくなってはいけない。
為すべきは、正直な告白と、
なおキリストに望みを託す祈りと忍耐である。
口に出すのに、または、
文章にするまでに時間がかかっても、
それしかないのが信仰者である。
大切な子を失ったときに
神の御心だからしょうがない
とテレビで言っていた外国の人の
冷たい無表情は忘れられない。
大切な人を失ったときに神に気を使う必要はない。
何故なら、そんなとき、どんなに言葉を繕っても
神に気を使ったことにはならないからだ。
神は人には分からないことをなさることがある。
言葉にこだわって心を失ってはいけない。
私たちは血も涙もある人間だ。
神は血も涙も捨てて来いなどとは言っていない。
神は、それゆえにキリストを遣わした。
キリストの悲しみと憐れみの血が私たちの魂を巡っている。
私たちは血も涙もある信仰者でなければいけない。
(2018年01月27日)
忌憚(きたん)
遣わす(つかわす)
繕う(つくろう)
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