啓示
 
 
啓示だから正しいという言い訳は、もう通用させてはいけない。
 
あまりにカルトに悪用されてきたから。
 
人間の良心に反することは啓示ではない。
 
人間の良心は、神が与えた恵みである。
 
人間の良心に反することは、神の御心に適っていない。
 
人間の良心とは、
豊かな感受性であり、自由な思考である。
それらを阻害する話を、どうして神の与えた啓示などと言えるだろう。
 
人間は、神の啓示かどうかを区別できるほど賢くはない。
 
しかし一方、人間は、厳密ではないが、人間の邪悪や胡散臭さを、
分析的にもまた直感的にも、比較的相対的に判断する良心を持っている。
 
私たちは人間の良心において自分で感じ取り考えるべきである。
信仰は良心を前提とし目的としている。
私たちは、神の奇跡の前においても、
決して良心を捨てたり
良心の外で生きたリするように造られてはいない。
 
悔い改めは人間外の奇跡に対する反応ではない。
悔い改めは人間の務めであり発芽であり結実である。
 
無根拠の言い訳に使われる啓示の主張に振り回されていると、
人間の冷静な分析力も直感力も損なわれてしまうだろう。
 
啓示であることの正しさを説明できないなら、
もう啓示を盾にすることは通用させてはいけない。
説明できず議論できない人の短絡に過ぎないからだ。
 
神がもし
人知で分からないことを啓示するなら
分からなくても信ずるに足る導きがあるはずだ。
 
もはや、知恵足らずの思い上がりが、
のぼせ上がって言い張ることなどは、
主イエスの教えとは深みが全然違うのだから、
しばらく見ておれば、啓示ではないと分からなくてはいけない。
 
少なくとも鵜呑みにせず、肯定を保留するべきである。
 
誰でも、神を味方にしたいから、
中には、そう思い込み、
そういう神の盾を言い張る者も出てくるだろう。
 
主イエスの教えは
温もりと潤いをもって人間の心に響く。
 
本当の啓示は人を生かすだろう。
人を縛るのは啓示ではない。
 
思い上がりの言い張りは、決めつけの冷たさと痛さと、
いかなる涙とも関係のない唾を飛ばすだけである。
 
神の啓示など無いと言っているのではない。
いかさまの根拠に
啓示だという嘘が多いので警戒してほしいのである。
 
現実を考えることをしない者が
超常の言葉だけを言って教えようとするのは、
その者が、教えられる人に対して謙譲をもって
神の導きを説明説得できない限り認めるべきではない。
 
人間として納得できないことを啓示?だと言い張って
啓示?が分からないことを責める者がいたら、
その啓示?が分かって人間をやめるよりはマシですと言うべきである。
 
 
(2018年02月24日、同日一部修正)
 
64歳になりました。(嘆息)
 
鵜呑み(うのみ)
盾(たて)
唾(つば)
 
 
 
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