愛について
 
 
愛についてと言えば、
前に書いたアガペー、フィロス、エロス、という三つを並べて、
神キリストの愛、隣人愛、性愛、と分けるのが一般的なのでしょう。
そして、アガペー即ち神の愛こそ至高であると説くのでしょうか。
しかし、それは、理屈です。
人においては実現されたことのない概念の話なのです。
 
信仰者として神の愛にこだわって、
人の愛については罪であるかのように見なして、
神の愛のほうを学ぶべきだと、
人の愛を汚れたもののように見ていたのでは、
神の愛にも、信仰にも、目をつぶっているようなものです。
 
私たちは、人の愛というベースしか持たないのです。
つまり、神の愛など手に負えません・・がベースなのです。
 
人の愛さえ十分に学んでいないのに
どうして神の愛を説けるでしょう。
 
ただ、まれに、
神の愛と言いたくなるような愛を
私たちは見ることがあるかもしれない。
 
しかし、それは、一つの結果であって、
その愛を、学ぶべきだと対象化することは、
美味しそうな果物だけを見て
見たこともない木を語るようなもので、
思慮深い人なら困難だと分かるものが多いようです。
 
そういうことが信仰には多いです。
素晴らしいからと
言葉にして対象化しようとするけれど、
それは人間の現実から乖離しているような話。
 
人間にとって出発点は
神の国にあるのではありません。
神の国は
いつか行くかもしれない天国であって、
今はまだ夢か幻のように
超常に満ちたところを想像しているだけです。
 
人間にとって出発点は
いつも現世(うつしよ)であり
この地上の現実であります。
 
神の愛について考え語ろうと思うならば
そのベースかモデルとして
人の愛について考えるしかない世界に住んでいます。
 
そこにあるのは、
惹かれる思い、好きになる気持ち、ともにいたい願い、
のみならず、
いつもともにいてほしい、好かれたい気持ち、そして欲望、
のみならず、
数々の失敗、失言、分かれ、孤独、崖っぷち、
のみならず、
愛されたい願望から愛され妄想へ、
愛を得たい願望から完全無欠の無罪妄想へ、
そして復讐の鬼へ
 
つまり、人の世を見ることで、
罪と、その成れの果てとを見るとともに、
人が救われる必要がそこにあるのならば、
 
もっと深く
人が救われる理由はどこにあるのかを
人間に分かるあり方で示していこうとするなら、
現実とそこに生きている心にしか材料はないのです。
 
聖書は、美味しい話ばかりではなかったはずです。
 
華々しいものが興っては去ってゆく世にあって、
正しい聖句には悉く値しない自分に気づいた人たちは、
赦しと癒しと救いに至る道に、
悲しい聖句の一つ一つが
道しるべのような細い光を投げかけてくるのを見るかもしれません。
 
 
(2018年02月26日)
 
乖離(かいり)
興る(おこる)
現世(うつしよ、げんせ、げんせい)
悉く(ことごとく)
道しるべ(みちしるべ、道標)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]