士師記:エフタ(1)
この記事は、今回(1)と、次回(2)に分けて載せます。ここ(1)では私の感想を中心に、(2)では解釈の引用を中心に書いてみます。
前に、アブラハムが、神に命じられて、イサクを生贄に捧げるために殺そうとして、神に止められた話を書いたことがあります。なぜ、アブラハムは、代わりに私を殺してください、と言わなかったのか、という疑問を書きました。
「人間なら」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17063793.html
「疑問と反応」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18394862.html
ここで改めて、もう一つの疑問について書いておきます。
(士師記、口語訳)
11:30-31
エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、 わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。
11:32-33
エフタはアンモンの人々のところに進んで行って、彼らと戦ったが、主は彼らをエフタの手にわたされたので、 アロエルからミンニテの附近まで、二十の町を撃ち敗り、アベル・ケラミムに至るまで、非常に多くの人を殺した。こうしてアンモンの人々はイスラエルの人々の前に攻め伏せられた。
11:34
やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。
11:35
エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった。わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。 11:36
娘は言った、「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」。
11:37
娘はまた父に言った、「どうぞ、この事をわたしにさせてください。すなわち二か月の間わたしをゆるし、友だちと一緒に行って、山々をゆきめぐり、わたしの処女であることを嘆かせてください」。
11:38
エフタは「行きなさい」と言って、彼女を二か月の間、出してやった。彼女は友だちと一緒に行って、山の上で自分の処女であることを嘆いたが、
11:39
二か月の後、父のもとに帰ってきたので、父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。彼女はついに男を知らなかった。
11:40
これによって年々イスラエルの娘たちは行って、年に四日ほどギレアデびとエフタの娘のために嘆くことがイスラエルのならわしとなった。
(士師記11:30-40、旧約聖書)
神に対して、取引のような気持で誓願をすると、このような恐ろしいことになる、という解釈でいいのでしょうか。名前も書かれていない死んだ娘に対しては、これでいいのでしょうか。
次は、この箇所を取り上げているサイト
https://blogs.yahoo.co.jp/xaris/35195708.html
に書いたコメントです。
「アブラハムがイサクを殺しかけた話は有名ですが、それ以上にこの話を読んだときには、未遂じゃなくて既遂なので、ショックでした。それで、どう説明できるかと考えても、できない、ここは、私にとって、ずっと「分からない保留の箱」に入ったままです。
ネットで調べてみると、娘が一生純潔を守りとおす意味とか書いてあるところがあったような気がします。その辺の原語の意味と解釈が私には分かりません。
2018/2/25(日) 午後 4:42[ st5402jp ]返信する 」
私がずっと、神を畏れる、ではなく、神を恐れる、と書くべきだ、と言ってきたのは、このような話や、イスラエルの民に対しても、神が、背けば滅ぼす話が多いからなのでしょう。
イスラエルについては、全部は滅ぼさず、再び栄えるように導いたから、という説明に対しては、じゃ、イスラエルの中の滅ぼされ殺された人々は、なんで?・・と思います。エフタの娘の場合と似たようなものではないか、という疑問です。
こういうことを考えていて、いちばん思うのは、神の意志と行為の辻褄を合わせて納得することなど人間には出来ない、ということです。
神は、人の世界では辻褄の合わないように見えることをなされる御方であるがゆえに、畏敬の「畏れる」ではなく、恐怖の「恐れる」だと書きました。
謎として分からないと保留することの大切さを思います。人が勝手に、いい話にしようとして、恐れる→畏れる、になったのではないかと危惧いたします。
旧約を読むと、また新約においても終末の有り様などを読んでいると、神をおそれる、ということは、人にとっては、恐怖と区別できないと思います。その恐怖を和らげるのは、人ではなく、神の仕事です。人が勝手に、恐怖を和らげ、優しい神を演出してしまってはいけません。
私は、旧約の神の厳しさゆえに、新約のキリスト・イエスの慈愛がいっそう力強く際立つ、という感想を持っています。
(2018年02月27日)
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