義認
義認とは
信仰が正しいと認められること、
それはそのまま
神によって
信仰によって救われるということ。
キリスト信仰は
こうすれば救われるという信仰ではありません。
つまり行為義認の信仰ではありません。
信仰義認として
信仰によってすべての人が救われる
という信仰であります。
しかし
一部の者たちが言っているように
誰でも何もしなくても
一生罪は赦されて救われる
という信仰では決してありません。
信仰義認において大事なのは
信仰者が罪びとの自覚を持っていることです。
それは信仰の行為というより弁えというべきでしょう。
つまりキリスト信仰は
その行為において厳しくはないが
その弁えにおいて厳しい信仰であります。
私たち人類がいかに正しかったか
歴史を辿るほどに
現実のそして歴史上の醜さによって
私たちは惨めになるしかないのであります。
そこから弁えるに
人は正しさを強く大きく発言するだけの
正しさの実質をその自らにおいて持ってはいない
ということであります。
私たちの出来ることは
その乏しく不完全な知恵によって
判断し行動しその結果を含めて
神の御前に捧げることだけなのです。
つまり
そのことにおいて正直であれば
立派でなくても神は救ってくださるということが
聖書に表されており
それゆえに福音と呼ばれているのです。
しかもそれを
御言葉として伝えているのが
地上の誰よりも
人間に深く共感されるキリストなのです。
あらゆる悲しみを持って祈り
キリストに会う人は
正直に告白し
その御名によって祈ることになるでしょう。
その御方を救い主と呼んで祈る人は
ただ救われるだけでなく
その救いを宣べ伝える伝道者となるでしょう。
救いとは
生きられない人が
生きる人間になることです。
それこそが信仰による義認の賜物であります。
(2018年04月27日)
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