双方向の信仰
 
 
私は
信仰は神と人の双方向だと言いました。
つまり
神の導きと人の自由意志との双方向です。
 
人間は自由意志を持っています。
少なくとも現象において
私たちは自分の意志で判断し行動します。
 
 
 神は呼べば応える御方だから
 神の意志によって行動していると誰が言っても
 それは嘘です。
 あるいは大袈裟な信仰自慢です。
 
 私たち人間は預言者ではないのだから
 神の意志を対面するように受け取ることは出来ません。
 神は大方沈黙しておられます。
 
 また
 神が人に
 そして人の心に働きかけても
 私たちは
 それが神の意志だと認識できる能力はありません。
 
 神を恐れる人はそれを知っています。
 
 神を恐れない者ほど
 神、キリスト、聖霊
 という聖三位の名を出して
 自己正当化を誇るので警戒してください。
 
 
人間は自由意志を持っています。
少なくとも現象において
私たちは自分の意志で判断し行動します。
 
神の導きは
現象としては成り行きです。
 
成り行きが神の意志かどうか
あるいは成り行きのどこが神の意志かどうか
人間は
・・かもしれない、だったかもしれない・・
という判断しか出来ません。
その判断で行動するしかありません。
 
信仰者でも
自らの良心によって行動することに変わりはありません。
 
しかも思い切って行動するしかありません。
 
そこが信仰の命なのです。
 
正しさについて
判断以上の固定を遠慮するところに
かつ思い切って決断し
行動し、反省して祈りを捧げるところに
信仰の敬虔があるのです。
 
神の導きがあるはずだが
今の神の御心は?と考えるけれど
神の意志について確定的なことは分からないのが
人間の領分なのです。
 
言い換えれば
神の意志について確定し固定するのは
人間の領分を超えた傲慢であります。
 
 
 そんな、あやふやでは、不確定では信じられない
 と思うなら信じないほうがまだマシでしょう。
 
 この世には
 根拠もなく神の意志?を語る者が多過ぎるからです。
 
 
確定できない生き方であっても
信仰を支えるのは、
人の合理ではなく、
キリストの愛であります。
 
人には神の判断は出来ないということを弁えなければ
自分の正しさの判断を絶対化してどこまでも暴走するのが人間です。
 
それを神のもとに引き戻すのが信仰です。
 
勘違いしないでください。
神の御心の正しさは
ただ神のみのものです。
 
神が、キリストが、聖霊が
人に働きかければ人は正しく働くでしょう。
しかしそれは
不全なる人が、
それはこうだ、それはああだったと
語れるほど明確に決められることではないのです。
 
聖なる御方の導きは
人には秘められて進行する
すなわち神秘だという弁えが必要です。
 
人は正しさを目指し
時々の判断を為して行動し
祈りのうちに神に捧げ
反省して成長し
明確には知らないまま導きから離れないように
神の御心に従う道へ
ときに迷っても戻りながら終末に向かって生きるのです。
 
過ちを犯しても
祈りによって赦されて
キリストの愛によって支えられて
神の道に戻れるかどうかが
神を恐れる不全の自覚
すなわち信仰の有無にかかっています。
 
 
(2018年12月22日アップ)
 
大袈裟(おおげさ)
傲慢(ごうまん)
 
 
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