ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年03月


季節に
 
すぐにでも
と誰もが思っている
でも
すぐには出来ない
と誰もが知っている
 
さて桜が咲く頃だから
心に浮かべてみようかな
 
話題になりにくいときもある
季節の便り
 
きれいな花を
皮肉に感じるかもしれない
 
でも私は
私の皮肉な人生が散ってゆくとき
きれいなものを見ていたい

なりたい
という夢でも幻でも
 
(2011年03月31日)
 
 
浮かべる
 
心に花を浮かべられる日は
例えば
いやな顔や物がずらっと並んだり
いまわしい出来事がくりかえし浮かんだり
まるで心が
瓦礫や鉄屑に囲まれているような日よりは
マシな日なんだろう
 
(2011年03月31日)
 
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結局、私事の自己中心のポエムに過ぎないのですが
何となく即興で書いてしまいました・・・
 
 
 
 


  満開の山路
 
山路を行けば
琴の音(ね)が響き渡る
琴柱(ことじ)の両側で
血まみれの絃(いと)が
乙張(めりはり)をつける
ときに襟を立てて
満開の散り急ぐ
おなじときに
 
山路を下れば
いっときも留(とど)まってはいない
絃の響きよ
葛折りの急坂に
散り敷いて重なる音色に
いずれにせよ向きは変わるのだ
舞い曲がり滑り転び落ちる
おなじときに
 
(2000年04月12日)
 
 
  後ろの正面
 
点はあまりに小さすぎて
線はあまりに細すぎて
面はあまりに薄すぎて
立体は時間に負け続け
後ろの正面
誰も見たことがない
点を打てば長さを引いてしまい
線を引けば幅を描いてしまい
面を描けば凹凸が生まれ
立体を造れば時間に流されていて
幾たび振り返っても
いないはずの昔と今が繰り返し
お互いに行きずりの手を伸ばし
行き違いに遡り
行き倒れの未来の
後ろの正面
嫌というほど味わっている
 
(2000年04月12日)
 
 
 
 

ブログ「日常×非日常」で言葉だけ知ったに過ぎないのですが・・・
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ルサンチマン
 
弱者につのる恨み
とも
負け犬の遠吠え
とも
負け犬根性
とも
 
それでニーチェという人が
弱者の道徳として
キリスト教を否定したらしい
また
革命の原動力としても否定したらしい
 
「神は死んだ」は
「神はいない」と違って
「かつて神はいた」ことになるのか
哲学書なんて読めやしないけど
ニーチェの真意は
単純ではないな
くらいには思っている
 
では私はというと
「神は死んだ」にも「神はいない」にも
共感とまではいかないが
無視できないものがあって
 
それでいて何故か
神様に祈ることをやめられないでいる
 
(2011年03月31日)
 

今さらのように思うこと・・・
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  ゴースト
 
他の種類の発電施設のようにはいかない
 
エネルギーが莫大で
壊れた途端
見えない嗅げない触れない
放射能のゴースト
うっかり近づけない
だから
使えないから廃棄しよう
では済まない
 
建てるのも管理するのも廃棄するのも
ゴーストを恐れながら
 
炉心が自然に壊変して
安定した物質に変わるのを待つなら
どれだけ長くかかるだろう
それとも
炉心を冷やして
放射線量が少なくなったら
収拾できるのだろうか
 
今の事態の収拾の先の
廃棄と安定までのプランを
誰か今後の目処を語っただろうか
 
発電効率の代償として
いったん事故が起きてしまうと
時間的にも空間的にも
限定できない影響が残る
その間は避難して
被爆を避けるしかないのだろうか
 
大気も海も水も
まわっている
大地も大地の下も
動いている
 
平和利用すれば夢のエネルギーは今
ゴーストタウンの廃棄物の悪夢なのか
 
人が原子と悪戦苦闘している間も
お変わりなく
くすんだ空に太陽が笑っている
 
(2011年03月28日)
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だんだん漏れる線量が大きくなるな・・・と感じていて、
煽るつもりはないけれど、本当に
今日は暗いことしか書けませんでした。すみません。

前の記事の補足か似たようなものですが・・・
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  関わり
 
動物との区別だけで
人が存在するわけではない
 
関わりが生まれるとき
人称が生まれる
君・彼または彼女
・・・瓦礫の中にいる遠い人々
関わりがなければ
一人称「私」は存在しない
 
近くても遠くても
豊かでも乏しくても
不確かでも繋がりを求める
一人から仁へ
もし愛というものがあるなら
関わることで人は存在している
 
思いの中には多くの人々
知っている人と知らない人
弱く乏しく遠く細く
少しでも関わってみようかと
思いを馳せるとき
ここに在る意識は人間である
 
(2011年03月27日)
 
 
 
 

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