謙遜
例えば元気で熱心な牧者や信仰者にも
ありがちな発言として
「「神のうちに生き、動き、存在している」
という視点に立つとき、
私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
折に触れて
自分について
神の意思は?と考えるのは
信仰者としては当然だが
「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ
最終的な真偽や正邪を
神の運びに任せる謙遜がありうるのであって
「見極めることが出来る」ならば
神の意思を自ら排他的に確信することになるから
そこに謙遜はない
この場合「謙遜」は
取って付けたような虚飾に過ぎない
また
「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」
などという言葉を
まるで公式のように
常套句のように繰り返し使い
それで真理が伝わると信じていることが多い
その理由は「聖書の真理だから」
しかしその実態は覚えているだけで
その時その場で
与えられた人知としての
知性や情性などを働かせることなく
聖書的な言葉を並べて
知性や情性などを働かせることなく
聖書的な言葉を並べて
伝えた気持ちになってしまう
いずれの場合も
謙遜・謙虚・へりくだる姿勢・敬虔
とは無縁である
聖書が生ける神の言葉であるなら
それを受け取る人は
聖書を生ける人の言葉として
いずれの場合も
謙遜・謙虚・へりくだる姿勢・敬虔
とは無縁である
聖書が生ける神の言葉であるなら
それを受け取る人は
聖書を生ける人の言葉として
伝える努力が大切なのではないだろうか
(2011年07月15日)
(2011年07月15日)