ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年07月


謙遜
 
 
例えば元気で熱心な牧者や信仰者にも
ありがちな発言として
 
「「神のうちに生き、動き、存在している」
という視点に立つとき、
私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
 
折に触れて
自分について
神の意思は?と考えるのは
信仰者としては当然だが
「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ
最終的な真偽や正邪を
神の運びに任せる謙遜がありうるのであって
「見極めることが出来る」ならば
神の意思を自ら排他的に確信することになるから
そこに謙遜はない
この場合「謙遜」は
取って付けたような虚飾に過ぎない
 
また
「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」
などという言葉を
まるで公式のように
常套句のように繰り返し使い
それで真理が伝わると信じていることが多い
 
その理由は「聖書の真理だから」
しかしその実態は覚えているだけで
その時その場で
与えられた人知としての
知性や情性などを働かせることなく
聖書的な言葉を並べて
伝えた気持ちになってしまう
 
いずれの場合も
謙遜・謙虚・へりくだる姿勢・敬虔
とは無縁である
 
聖書が生ける神の言葉であるなら
それを受け取る人は
聖書を生ける人の言葉として
伝える努力が大切なのではないだろうか
 
(2011年07月15日)
 
 
 
 

数学サイト
http://blog.livedoor.jp/mazra627/
からの問題
第138回「そろばん」
問題1:
そろばんを使って、1から138までの数を足すとき、
そろばんの一の位の一番下の珠(赤い珠)は、
何回動くでしょうか?
(上1珠+下4珠=5珠の算盤)
(下図も、私は下手なので、上記サイトからコピーしたものです)
 
イメージ 1
 
解答例1:
一の位の一番下の珠が動くのは
一の位(下一桁)が4か9の場合だろうということで・・・
 
ここでは、少し広げて一般的に考えて見ます。
ひらめきとは程遠い愚直なやり方ですが・・・
 
 一見無限だが
 有限で考えることができる
 場合もあるということか
 
  「1からnまでの和の下一桁の数」
 
問題2:(少し広げて)
 
1+2+3+・・・の和(三角数というらしい)の
下一桁の数は、いかなる値をとるか。
 
解答例2:
まず、1からnまでの和をSとすると、
S=1  +2  +3+・・・+(n-1)+n 
これを逆に書くと、
S=n+(n-1)+(n-2)・・ +2 +1
2式を足すと、
2S=(n+1)+(n+1)+・・・+(n+1)
項数はnなので、2S=n(n+1)
→ ∴ S=n(n+1)/2 ――――――――――――(1)
 
ここで
 n=10b+p で表すことが出来る。
  (整数b≧0、整数pは0から9まで)―――――――(2)
 
(2)を(1)に代入すると、
S=(10b+p)(10b+p+1)/2
 =((10b+p)^2+(10b+p))/2
 =(100b^2+20bp+p^2+10b+p)/2
 
 =50b^2+10bp+5b+((p^2+p)/2)
 =10(5b^2+bp)+5b+(p(p+1)/2) ―――(3)
 
(3)において下一桁の数値に関係するのは、
 p(p+1)/2 +5b のみである。 ―――――――――(4)
 
(2)よりpは0から9までであり、
5bは、10の倍数か、10の倍数+5 となる。
その範囲で下一桁を調べればよいということになる。
 
つまり(4)より問題の下一桁の数は、
0から9までのpについて、
  p(p+1)/2 の下一桁か、
  それに5を足した数の下一桁となる。
 
p   p(p+1)/2    +5    下一桁の数値
 
0     0          5      0, 5
1     1          6      1, 6
2     3          8      3, 8
3     6         11      6, 1
4    10         15      0, 5
5    15         20      5, 0
6    21         26      1, 6
7    28         33      8, 3
8    36         41      6, 1
9    45         50      5, 0
 
以上より、下一桁は、0,1,3,5,6,8、である。(問題2の答え?)
言い換えると、nが、いかなる数であっても、
1からの和Sの下一桁は、2,4,7,9、にはならない。
 
よって一番上の
問題1において4と9にはならないので、
一桁目の一番下の珠が動く回数は、0回である。(問題1の答え?)
 
(2011年07月15日)
 
 


虫歯を噛む
 
 
完全に麻痺して
何も感じないのか
痛まないのか
慣れたのか
 
こちらは慣れることもなく
ときどき自分でつついてみる
痛い
やはり暗黒の歯髄で熱が疼いている
 
突っ込める痛点は幾つかあるのだが
突き刺される痛みが少なくなった
 
虫歯は腐ると痛みがなくなる
代わりに菌が
歯髄の底から広がって
骨髄炎や敗血症に
さらに脳に詰まることもあるという
 
歯科で真っ白な歯にしたとして
誰に笑顔を見せるのだろう
手遅れにならないように
健康のために
 
根こそぎ白くはなれない
硬さと脆さと
くずれていって
噛み合わせを拒んだのは
こちらではない
噛んで吐き出されては堪らない
しまいに入れ歯で咬みあうか
咬みつくのは生か死か
 
(2011年07月14日)
 
 
 
痛覚の思い
 
 
痛みがなくなることを願う
ひどいときは
痛みよりは死を願うことがある
それは治癒ではないのに
痛いときに声を出す
誰も聞いてはいないくらいに
あらゆる恨み言を吐く
亡父を呪い
先祖を呪う
何故戦争で死ななかった
いつの恨み
いつの怒り
それはそのまま自らを呪っている
いつの吐け口
赤く黒く燃焼している
心の激烈な怯え
昔ひどい痛みで気を失いかけたことがある
強い痛覚は呼吸を抑制する
あれは爆裂の波状攻撃
痛い片側からの反射的流涙
今またしてもワンサイド
夜の片隅が裂ける
 
(2011年07月14日)
 
 
 
 


依存と拒否
 
 
人に依存すると
人に思いがけない忠告をされたとき
自分を否定されて
裏切られたような気になってしまう
 
神に依存すると
神は人に忠告したり否定したり
直接なさらないから
いつも神を裏切っているような気にもなる
 
そうならない信仰者は少しおかしいと思う
 
人は人の助けなしには生きられないが
人に寄りかかってしまうと
寄りかかられた相手は
完全無欠でも全知全能でもないのだから
相手にとっては酷というものだろう
 
寄りかかられて耐えられる人はいない
ということは寄りかかるに値する人はいない
 
しかし
ある程度人は孤島にでも住まない限り
寄りかからなければ生きられないところがあって
依存と独立の距離感は微妙だが
人にもよるし
付き合い方にもよる
 
少なくとも対等に
重要な問題について
話し合おうとするならば
 
同好会の談笑とは違うのだから
 
遠慮や忌憚があるような付き合いは
偽物だと言っておきたい
 
したがってそこに
人と人との依存を当てはめるのは
問題回避か自分の都合に過ぎないもので
そこに自分勝手な距離を一方的に定めるのは
依存の否定ではなく
関係の否定に他ならない
 
そう言えるのは
問題とテーマがそれだけ重要であり
人と人とが正面を向いて対決しない限り
深めることも掘り下げることも出来ないときであり
 
それを一方が依存だ甘えだ
などと受け取るのは
もう一方にとって
「誰があんたなんぞに甘えるか」
という気持ちの悪い陰性の感情と
さらなる対決姿勢を呼び起こすもので
 
依存の距離感と性質を理解していない
という間違いであり
依存が拒否されたことを
依存が裏切られたと見なしてしまう勘違いであり
自分が依存されるに相応しい
という自己陶酔か思い上がりに過ぎないだろう
 
むしろ依存して甘えているのは相手ではなく
相手が期待通りの発言をしてくれる
と思い込んでいる自分のほうなのである
 
(2011年07月13日)
 
 
 
 

数日、歯が痛い。鎮痛剤を飲んでも痛い~鬱陶しい。
頭がボーっとしている・・・
でも書く動機が今あるなら、ボーっとした頭でも考え、
指と手が動くから・・・書いてみる・・・
何度も似たようなことを書いてきたような気はするが・・・
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「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」
(使徒行伝17章28節)。
 
特に何らかの障害や重い病気を持っている信仰者にとっては、
常に神に守られているという意味で、
大いなる慰めとなりうる聖句である。
 
しかし健康な人や、そうでなくても一応
五体と五臓六腑が機能している人においては
人間としての考察抜きでは大きな誤解を生みかねない。
一歩間違えば、
「神のうちに生き、動き、存在している」は、
自分の言動はすべて神のうちにあり、
神に守られていているから神の義であり正しい、
つまり安心して、かつ安易な自己正当化につながりかねない。
 
上の聖句は
「自分の人生と言動は常に神のうちにある」
とも受け取れる。そう受け取るためには、
少なくともだが、次のようなことを
受け入れている信仰者にとってのみ
真実と言ってよいということになる。
あくまで今思いつくことで、少なくとも・・・である。
1.神は、あくまで神のやり方で、人を守られる。
 それが常に人にとって納得できるとは限らない。
2.人が敵意、悪意、被害者意識、などを持つとき、
 神によって試され、ときに懲らしめられ、
 悔い改めに至るであろうし、それを望む。
3.人の存在の終わり、つまり死を
 神は、突然、人に与えることもある。
 
この聖句の前のほうに
「捜しさえすれば、神を見いだせる」という聖句がある。
これは非常に微妙~難解な聖句である。よく分からないが、
二千年前のパウロの伝道のスピーチにおいて
こう語らざるを得なかったということであろうか。
 
この聖句の後のほうに
「死人のよみがえり」という聖句がある。
これはキリストの復活という、これまた微妙で
重要なテーマの話なのである。
 
この聖句を引用した記事を転載して、
御言葉であり聖句だから絶対の真理として、
二千年前の文脈であることを考えず、
引用した記事の転載だけで、
自分が書いたわけではないと、
現代に生きる人間としての考察をしないまま、
使命を果たしたつもりになるのは、
好ましい善い話だけを語るという、何度も書いたが、
傲慢な信仰者の片落ちの伝道話ということになる。
 
そしてそういう信仰者は
世界のどこかで現代の「死人のよみがえり」
といった奇跡のような出来事でもあれば、
信憑性の確認をしないまま、また
誰にでも起こるはずのないことであるのに、
「おいしく好ましい話」として真に受けて
宣伝のように語ることになってしまうのである。
 
(2011年07月11日)
 
 
 
 

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