ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年08月

 
  錆
 
 
忘却したい歴史があるのだろう。
忘却したい過去があるのだろう。
 
傷み続けるよりは・・
 
歴史は記録と記憶の
記憶だ。
 
記憶の中に生きている。
記憶がなければ知性はないから。
 
記憶は海であったり湖であったり
沼であったり澱であったりするが
 
ついに空を望むことはないかもしれぬ。
 
癒そうとしたり病み疲れたり
年月を経て晒されて
 
錆の色と剥離を
糊塗すれば嘘になり
 
偽善になり
語れば慇懃であったとしても
偽善は悪より悪であり
慇懃無礼は無礼より無礼である。
 
此処は幸せの国ではない。
それは誰でも知っていて
かといって逃げることもできず
逃げる場所もなく
幸せの国など何処にもなく
 
拙く此処を掘り返し
石ころでも
擦り減るほどに磨くしかない。
底なしの記憶に
ときおり濡れて
血と水を振りながら
 
空になれない人
見られることもなく一条の
一瞬の光となって消えてゆくまで
軋み続けるしかないのだ。
 
 
(2013年08月27日)
 
 
 
 


 一見簡単そうな問題は 
 答えがいっぱいあり過ぎて 
 答えが何個あるのか 
 数えて整理するのも一苦労 
 それで精一杯になってしまう
 
 
問題: n進法の3桁の整数について
 
     ABC+CBA=DDD
 
 ABCとDの解の組は何個あるでしょう。
 
 
解答例: 
       ABC
     + CBA
    ―――――――
       DDD   という問題
 
 3桁の整数だから、A,C,D、は、0 ではない。
 n進法だから、A,B,C,D、は、nより小さい。
  A+C が、繰り上がるなら、4桁になるので、
 A+C は、繰り上がらない。A+C=D
  したがってC+A も繰り上がらないので、
  B+B が、繰り上がると、下1桁目と3桁目が同じDにならないので、
 B+B は、繰り上がらない。
 ゆえに、2B=D
                 ----------------以上を(1)とする。
 
 
まず十進法で考えてみる。(1)より、1~9を考えればよい。
 
A,B,C、が相異なる整数の場合、(1)より、2B=D=A+C からも、
(A-B)=(B-C) つまり、Bを中心に、AとCは等間隔。
 
  1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9
 
この中で、Bとなりうるのは、2,3,4、のみである。
(1,9、は、端なので、AとCが存在しない。
 また、5以上は、2B=10以上になるので繰り上がってしまう。)
 
(ABC,D)=(123,4)、(321,4)、
  (135,6)、(531,6)、(234,6)、(432,6)、
  (147,8)、(741,8)、(246,8)、(642,8)、
  (345,8)、(543,8)の12通り。
 
次に、A=B=C の場合、1,2,3,4 の4通り。
 
以上を足して、12+4=16個ということになる。---------------(10)
 
 
 
上を参考に、(1)を考えて、
 
       ABC
     + CBA
    ―――――――
       DDD   という問題
 
n進法の場合を考える。n進法1桁の数は、nより小さい。
n進法で、nは、n進法表記では、10という2桁の整数。
n進法1桁の整数は、0を除けば、1から(n-1)まで。
 

Bが中心になるので、 n が偶数か奇数かに分ける。
 
n が偶数のとき、n/2 は、整数である。
 
A,B,C、が相異なる整数のとき、
  
  1,2,3、・・・、(n/2-1)、n/2、・・・、(n-1)
 
Bとなりうるのは、
 2 から (n/2-1)=(n-2)/2 まで。-----------------(2)
 (n/2 以上は、2B=n 以上になるので繰り上がってしまう)
 
ABCの個数は、Bより小さい数、つまり左側にある整数の個数の和、
ただし、AとCは、入れ替え可能なので、その2倍になる。
 
ゆえに(2)より、2×(1+2+3+・・・+((n-2)/2-1))
  =2×「シグマ(k=1から((n-2)/2-1)k」
  =2×「シグマ(k=1から((n-4)/2)k」
  =2×((n-4)/2)((n-4)/2+1)×(1/2)
  =((n-4)/2)((n-2)/2)
  =(n-4)(n-2)/4  ----------------------------------(3)
 
A=B=C の場合、
 1から(n-2)/2 までの個数、すなわち、(n-2)/2 個。-----(4)
 
(3)と(4)を足して、
  (n-4)(n-2)/4 +(n-2)/2
    =((n-2)/2)((n-4)/2 +1)
 
    =((n-2)/2)^2  と、平方数になる。---------------------(5)
 
 
n が奇数の場合、(n-1)/2 は、整数である。
 
 1,2,3、・・・、(n-1)/2、(n+1)/2、・・・、(n-1)
  
Bとなりうるのは、2 から (n-1)/2 まで。------------------------(6)
((n+1)/2以上は、2B=nより大きくなるので繰り上がってしまう)
 
ABCの個数は、Bより小さい数、つまり左側にある整数の個数の和、
ただし、AとCは、入れ替え可能なので、その2倍になる。
 
ゆえに(2)より、2×(1+2+3+・・・+((n-1)/2-1))
  =2×「シグマ(k=1から((n-1)/2-1)k」
  =2×「シグマ(k=1から((n-3)/2)k」
  =2×((n-3)/2)((n-3)/2+1)×(1/2)
  =((n-3)/2)((n-1)/2)
  =(n-3)(n-1)/4  ----------------------------------(7)
 
A=B=C の場合、
 1から(n-1)/2 までの個数、すなわち、(n-1)/2 個。-----(8)
 
(7)と(8)を足して、
  (n-3)(n-1)/4 +(n-1)/2
    =((n-1)/2)((n-3)/2 +1)
 
    =((n-1)/2)^2  と、平方数になる。---------------------(9)
 
 
まとめると、ABC、D の個数は、(5)と(9)より、
 
  nが偶数のとき、((n-2)/2)^2
  nが奇数のとき、((n-1)/2)^2
   という結果でした。いずれも平方数になるようです。----以上(解答例)
   なぜ平方数になるのかな?・・もっと簡単に?・・
 
検算として、十進法の場合、n=10 を
偶数なので、上の式に代入すると、
 ((10-2)/2)^2 = 4^2 =16
これは、上のほうの(10)の結果と一致する。
 
ちなみに、2進法には解はなく、
実際に使われるのは聞いたことがないが、
3進法では、ABC=CBA=111、DDD=222 のみが解になるようです。
 
    **********************
 
もう少し分かりやすく、説明を試みてみると、
 
Bとなりうる最大の整数をNとすると、
Nは、nの2分の1より小さい整数の最大値ということになります。
nが偶数のときN=(n-2)/2、nが奇数のときN=(n-1)/2
 
A,B,C、が等間隔の異なる数値の場合、
Bは、2からNまでの数値を取り、それによってAとなりうる整数が決まり、
それによってCもDも決まるので、解が決まり、解の個数が決まります。
AまたはCの個数が解の個数になります。そして、
 
数えているのは、整数の数値ではなく、解となるAの個数だということです。
 
イメージ 2
イメージ 1
 
   *************************
 
 
勘違い計算間違いなどあるかもしれないので
アドバイスいただければ幸いです。
 
この1週間は1日1回のペースで更新・・珍しい・・
 
(2013年08月21日、同日若干修正)
(2013年08月22日、一部修正加筆)
(2013年08月23日、一部修正)
(2013年08月27日、図の一部修正)
 
 
 
 

 
 30代のときの私の病気についての診断は、
 うつ状態と不眠症だった。
 その後、仕事をやめてから、
 一日のトータルでは睡眠過剰なこともあったので
 不眠症ではなく不規則なパターンの睡眠障害だと思った。
 そして、
 抗うつ薬を服用しても殆ど効果がなく、
 薬や服用の仕方によっては
 却って内的不穏が強くなり落ち着かず
 全く気分がよくなったとは言えないので、
 今では、
 素因があり、
 不潔な暮らしで、
 外出をしようとしないことを考えると、
 引きこもりなど意欲低下が主症状になるような
 遅発性の統合失調症の可能性も考えている。
 なお、
 統合失調症とアルツハイマーなどの認知症の違いは、
 前者においては
 知的機能が全般に衰えるのではなく、
 ある狭い範囲の事柄については
 寧ろ(精神)活動が亢進し
 過敏となる場合があるということだ。
 
 参考までに
 統合失調症の薬についてだが、
 幻覚妄想に効く薬は数々あるようだが、
 意欲低下に著効を示す薬は殆どないと思う。
 だから私は今のところ
 抗精神病薬またはメジャートランキライザー
 と呼ばれる薬は服用していない。
 睡眠薬としての合剤なら以前服用したことがあるが、
 あれは私には強烈で気絶薬のようだった。
 
 そのことを、
 この記事に書く気になった理由については、
 以前、記事を書くことを「発作」
 と書いたりしてきたこととか、
 気が向かないと何もしないとか、
 一方で、
 こだわることがあると、
 しつこく強迫的なくらい長々と書いたりとか、
 いろいろ考えるのだが、
 統合失調症の症状は、
 普通、発作とは呼ばないし、
 強迫性が特徴というわけでもないようだから、
 私の精神の脆弱性に関係しているのかもしれない。
 この記事を読む人の判断に任せるしかないのだが、
 今まさに、ほぼ全開状態で、こだわっている時間だ。
 
 
上は鬱積した気分のために吐き出したかっただけかもしれません。
前の記事のコメント欄のコピペに近いのですが、
大事なことだと思うので、記事にしておきます。
 
私のブログは大体が
人に好まれるような明るいことは殆ど書いてないので、
アクセスもコメントも少ないわけですが、
たまに来るコメントも、
整ったコメントも多いのですが、
中には変わったコメントもあります。
(私にそう見えるのかもしれませんが、
 かなり苦笑~困惑~??、が結構・・あるのです)
 
スルーすることで生じる気持ちはこちらのものか、
双方のもの、一方
ブロックや削除が与える気持ちは相手のもの
ということを考えておく必要はあるでしょう。
 
そこで適当に繕おうとすると
分かってないのに分かったような顔をして、
的外れな押し付けになりかねません。
スルーすることも、分からないと言うことも、
それなりの本音の正直さと勇気が必要なのだと思います。
 
スルーすることで
コメント者が自分の意見が認められたと思って
書き続けるなら、それはそれで今度は
別のレスをする動機が生まれる可能性があります。
 
たった1つのコメントにスルー
ということもあったような気がします。
コメントの内容がですね・・むむむ・・で、
私の知識では全然理解できないのですが、
どうもコメント者は揶揄でも冷やかしでもなく
本気で真面目に書いているようなのです。
しかも私のブログのテーマと全く無縁だと
切り捨てることも出来ないような気がして・・
コメント欄においての処遇としては、
分からないけれど、正式なコメントとして
削除せずに置いておきます。・・ということにしました。
恐らくコメント者は、レスがないのだから、
肯定して認められてもいないわけなので、
話にならん・・と不快だったでしょうけれど、
私としては、それが目一杯ということで
・・今でも、よく分からんです・・
 
重いテーマで長めのコメントを遣り取りする場合には
1コメごとに変わってゆく双方の動的なベクトルがあって、
それは曲がりくねることもありますが、
収拾がついてもつかなくても、なんじゃ?という程度の
興味が生じることもあるかもしれません。
 
建設的な議論は期待しないほうがよいのかもしれない
と最近の私は考える傾向にあります。
 
コメントがつき、また続いている段階で、
建設的かどうかを判断することが難しいように思われます。
相手が求めているものが分からないことが多いから・・
 
例えば攻撃だけのコメントにしても、
それに屈することはできないが、
自分がどう返せるか、返さないでスルーするか、
他にないか、・・等々、・・
相手を説得することは無理だし、
こちらが「分かりました、おっしゃる通り」
なんて言う気にも全然なれないけれど、
自分がどう対応するか、どう動くかどうかを
学習する機会ではあるのでしょう。
無視すれば、そこで相手だけでなく
自分の思考も停止してしまいます。
 
だから相互理解や建設的なもの、それは望ましいけれど、
それを条件や前提とするべきではないような気がしています。
 
そのときは正しいと思って
記事もコメントもレスも書くのですから、
双方が自分の意見を通したいし分かってほしい、
また認めさせたいという気で書くわけです。
 
コメントを受ければ思考に変化が生じることもあり、
さらに感情は動きますから、誰でも、予想しがたく、
相手だけでなく自分もめちゃくちゃになることはあるのですが、
ごく稀に相手の求めることについて、理解ではなくても、
そういうことか・・というヒントをもらうことも
ないとは言えないでしょう。
 
それも遣り取りの中で・・ということになるので、
遣り取りを拒んだ時点で総ての思考は、
賛否にかかわらず、斬られてしまうのです。
残るのは、やり場のない感情だけ・・それは、
誰も知らないところで
極めて個人的でマイナーなトラウマか
残遺症状になってゆくのだと思います。
 
人にとって忌むべきは
自らを不変の存在にしてしまうことでしょう。
 
唯一変わらないことを是とできる存在は、
私にとって神以外にはありません。
しかもその不変の性質を人は理解できないのです。
 
 
(2013年08月20日)
 
 
 

 
私が以前、疑問を持ち、真面目に書いたコメントに、
正面から反論もせず、
 
唐突に承認制にすることで、未承認のまま封じ込める
という一方的な強制力の発動に至ったことで、
やむなく、ここの私のブログで
「讃美の家」批判1
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/10201552.html
から
「讃美の家」批判24
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/11617712.html
までを書き続けて、批判24に至って、
ついに相手を人間と思えなくなって、
批判をやめた「讃美の家」というキリスト教のブログを
久しぶりに見てみると、
 
ブログのタイトルが「讃美の家」から
「その名は不思議」に変わっていました。
(聖書の言葉のようです)
 
そして、その中の、
もはやブログ内検索しないと分からないほど奥の
「7×70=無限」
という記事に書いた問題の私のコメントは、
承認制の前の表れていたコメントも
承認制以後の未承認コメントも
完全に削除されていました。
 
スルーすればよいものを・・
真面目なコメントをブロックするか・・と、
私は憤り、感情的になっていたことは認めるが、
なぜ怒るかを考えながら、批判を続けていたのですが、
批判をやめたのに・・結局、削除でした。
 
やはり、こちらが何も言わなくなってから削除とは、
あの人らしい。・・というか、
何の問題も瑕疵もなかったことにしたいのでしょう。
どこまでも柔和を装い、広く門戸を開けてます
という体裁を保ちたいのでしょうか。
 
あの人が大切にしていたのは、
つまるところ神でもキリストでも信仰でもなく、
話し合いや議論で高めることでも深めることでもなく、
自分のブログという温室のような城であり、
言うには言うが、言うことだけが目的で、
聞く気もなく、聞いて答える気もなく、
答えられないとか分からないとかも言わず、
自分に反対する者は神の敵という被害者意識を持ち、
自分は教える立場であることに固執することに懸命な
自己完結と自己満足で悦にいる自分信仰、
シャロム型確信教とでも呼ぶべきものですが、
賛同意見やお褒めの言葉を歓迎するので、
反対意見を続けて書かない限り、
事はないという仕組みのようです。
 
以前、
私は教会に行かないことは罪だと思っていました。
しかし、あの一件以来、
教会に行く気にも、
行くことを勧める気にもならなくなりました。
 
そして昨日、
あの人のHNが訪問者履歴に残っていたのを見つけて、
いったいどういう気持ちで平気でログインして見にくるのかと、
殆ど、生理的にか、または病理のように気分が悪くなり、
一日、気鬱とイライラが止まらず、
私は元々心にも体にも病を持っていますが、
あの人の schizophrenogenic な影響と経緯を思い出していたのでした。
今のところ、この辺にしておきます。
 
(2013年08月20日現在、同日若干修正)
 


獣性
 
 
自然を食って生きている。
誰かが殺した牛の死体を食らうことを
「牛肉を食べる」と言っている。
植物に至っては首を斬られても
根こそぎ引っこ抜かれても
悲鳴一つ上げることはない。
殺すことと食らうことは同列である。
 
その獣性は
異種なのかもしれないと思うほどに
戦争や犯罪によって殺し合うほどに残酷だ。
 
たまたま戦争のない時代に生きてきたとはいえ、
殺人は絶えることがない。
 
遺体は眠ったように穏やかな姿だけ・・と、
残酷な有様を見なくて済ませるのが望ましい
と思うことのほうが異常である。
 
死体は決して美しくない。
偶然または必然によって
残酷さを見ようとしないことは
存在を見ようとしないことに等しい。
 
存在から非存在の有様を見ようとせずに
未来へ向けて平和を語る資格があるだろうか。
 
 
 
始め
 
 
結論から始まる思考は
罵詈雑言を介して
結論だけを繰り返す。
 
遺伝と環境と教育によって
誰もが何らかの先入観を持っている。
一人称も二人称も三人称も、
そこに例外はない。
 
いかなる妄執に囚われているか。
そこから稚児は考える動物になるだろう。
 
赤ちゃんはミルクを欲しがる。
いつも飲んでいるのと同じような気持ちで
灰汁を飲んでしまわないために
飲ませないために思考は始まる。
 
思想を宗教を信仰を
さらに師を疑うことなしに
思考は存在しない。
 
 
(2013年08月19日、同日一部修正)
 
 
 
 
 

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