ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年11月

 
思考停止
 
 
アダムとエバ(イブ)に始まると
聖書に記されている人間の
原罪を認めながら
なぜ神を信じるという恐れ多い行為において
原罪を認めようとしないのだろう
 
哲学者でなくても神学者でなくても
人として
信仰を考えれば分かるはずだ
祈る相手
考える対象
理解しようとする聖書
いずれも常に
自分の解釈とイメージでしかありえないこと

キリスト
聖霊
いずれも常に人の
思い描く理想化された偶像でしかありえないこと
 
何故いわれもなく気安く
神の名を冠してしまうのだろう
 
さらに 
偶像を信仰から排除することは
人には出来ないということ
 
思い込みでもイメージでも偶像でも
問い祈り
何らかの判断をして
人は行動するしかない
それを繰り返して生きている
 
それを避けては生きられないとき
不可避の原罪であり
 
それが自分と他者を納得させて
安心するためであるとき
また自分を守り
他者の信仰に負けないため
他者に教えるためであるとき
神に対して
人の分を超えた傲慢であると
とんでもない罪であると
なぜ気づかないで
平気でいられるのだろう
 
考えれば分かるはずなのに
いったいどこで人は
思考を停止させてしまったのだろう
 
 
(2013年11月17日、同日一部修正)
 
 
神が偶像か分からない
と書くべきだと思われるかもしれませんが、
 
分からないなら、
見分けなければならないと思いつめたあげく
見分けられないものを見分けてしまって
見分けたという前提で話を進めてしまう人が多いから、
 
人には分からない、かつ見分けられない・・つまり
神か偶像かを見分ける根拠は人の側には与えられていない、
神について
人の立場では偶像から逃れるすべはない
ということになるだろうと思います。
人にはそのようにしか見えない、
それ以上を見たと思ってはならない
ということです。
そこを思い違えることの根源的な危険を問題提起しています。
 
偶像信仰だからといって、
それは人の側の話で、人にはそれしかない、
神の側の話を人は知り得ない
ということですから、
信仰も祈りも捨ててしまえるものではありません。
それで信仰の話が出来なくなるわけでもないと思います。
 
 
(2013年11月17日、同日加筆、さらに修正)
 
 
 
 

 
  滅びゆく姿を語る姿・・?!
 
 
昔々の高校の頃の話なので不正確ですが・・、
教会で聞いた説教の話です。
 
老年期を独りで過ごしている詩人で彫刻家の
高村光太郎に記者が
妻の智恵子が亡くなったことについて尋ねると
光太郎は「智恵子はそこにいる」と答えるのでした。
 
説教では、まるで人が
人の愛におぼれて滅びゆく姿のように語られました。
神の愛を知らない人の滅びの一典型のように・・
少なからず違和感を覚えました。
 
のちに聞いた話ですが、
若いころ既に有名になっていた光太郎は
智恵子が描いた絵を評価せず、しばしば
冷たいことを言ったことがあったらしいです。
それが智恵子を追い詰めたのかどうか・・
智恵子は精神を病んでゆきます。
それが光太郎の悔い~トラウマになっていたのか・・
それは私には分かりませんが、
そういう話は説教ではなかったようでした。
あってもなくても、
まず余計なお世話だろうと思いました。
次に
光太郎と智恵子の何を知っているというのだろう
と思いました。
 
神を知らないがゆえに滅び行く人の話
というのは教会などで
聖書の話や世相の話と結び付けて
よく語られるようです。
私としては、
 
人が滅び行く姿を
神を引き合いに出して話す姿こそ
人が滅び行く姿ではないのか
 
という気持ちを禁じ得ません。
 
いったい人は
神の何を知りうるのだろう
神の何を語りうるのだろう
人さえろくに知り得ないのに・・
ということを考えざるを得ません。
 
 
このブログでは
牧師やキリスト教を批判することが多いですが、
批判している私は、
逸れ者で、教会にも行っていませんが、
(切り捨てられてもいるようですが・・)
今でもキリスト者(クリスチャン)のつもりでいます。
高校3年のときに洗礼を受けました。
聖書に書かれたイエスとは
一生の付き合いになると思うに至った頃のことを、
心の灯も頭の灯も命の灯も消え入りそうな今にあっても、
時々思い出します。
あの頃の受験や恋愛や人生の悩みに
光を与えられたような体験があります。
キリスト者は多く
そのような体験を持っていると思います。
 
それは体験として大切にするべきなのですが、
何故か、その体験をキリスト者は、
いつでもどこでも通用する条文のような
教訓的信条に置き換えてしまいがちです。
しかも
自分の人としての個人的体験であるにもかかわらず、
そこに
神を見たかのような確信を培おうしてしまうのです。
そして
人は人の知識によって
体験以上の尾ひれを付けやすいのです。
 
人が信仰を語るとき、語れるのは、
通用するかどうか分からないことを承知の上で
自らの体験を、恥じらいを持って語ることでしかないのです。
そこには、神について
人が確信できる何ものもないはずなのです。
 
 
使徒信条というものがあります。
そのうち
1.神は全知全能であること。
2.キリストは救い主であること。
については私も信じています。
 
しかし、この2つは信条にはなり得ません。
なぜなら、
1.については、
全知全能を人は知り得ないからです。
2.については、
キリストを想うとき、常にキリストは
自らが描いた理想像でしかありえないからです。
 
 
さて、記事の最初の
高村光太郎について、余談ですが・・
 
私は黙読が極端に遅くて頭に入らず、
読書苦手~嫌いですが、
光太郎の「智恵子抄」には感動して
高校のとき
本屋で詩集などをめくったりしていました。
すると、ある本に
光太郎と智恵子の写真が載っていました。
私は呆気にとられて呟きました。
アザラシだ・・アザラシと・・大福饅頭だ・・
その写真は二人が高齢になってからのものでした。
 
後で知ったのです。
若い時の光太郎は凛としていて精悍でしたし、
智恵子はポチャッとしたかわいい顔をしていました。
読者は残酷なのです。
 
若いころは気軽に、見なしや、決めつけを
私も行っていたということです。
長じてのち、情報による判断が
いかに不正確で独善的で思い込みに満ちているか
ということを痛感し、
そのことにずっと向き合うことになります。
 
人についてそういうことなのですから、ましてや
神についての思い込みや確信は厳に慎むべきだと思っています。
神についての人の確信は
神に対する恐れを知らぬ人の業(わざ)なのです。
 
 
(2013年11月15日、同日若干修正)
 
 
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  TVPV
 
 
TVPV 月見草学園 LEDに
 
盲目少女の足が輝く夜
 
煙のバスが緑のホームタウンを過ぎるころ
 
ホタルの学校でオリオンが死んだ
 
 
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テレビを見ていて
・・記憶が錯綜しているような・・
何かを失った夜の回想か・・
 
 
(2013年11月11日・・恥ずかしくなったら修正?削除?します・・)
 
 
 
 

 
一瞥と一別
 
 
一人が別の一人に出会うというのは
必ず奇遇であります
 
また出会ったすべての人について
一人は別の一人と
必ず永訣の定めを持っています
 
しばしば不愉快になって
一瞥かぎりで早々に
一人は別の一人を切り捨てています
それを選択とも言いますが
恐らく取捨の捨のほうが多いでしょう
それは良かれ悪しかれ一種の欠落です
 
関わらなければ不愉快が減り
無視したほうが楽だからです
それは必然であるかもしれないけれど
 
切り捨てる癖をつけると
折に触れて切り捨てることを繰り返します
 
つまるところ
そこにあるのは時々の安定を求める姿でしょう
快楽原則に従っているのです
 
切り捨てれば衝突や苦難から
害と同時に教訓を得ることもなくなります
 
好ましい別の人に会えば別の教訓を得られるけれど
その教訓は苦を伴わず
しかも快楽追求の選別された出会いによるものなので
自分に似たものを自分に重ねているに過ぎません
 
衝突を避ければ事故は防げるので生きやすい
その代わり
衝突しなければ得られない産物を
一瞥の選択によって
永久に放棄することになります
 
一人は別の一人に必ず永訣の定めを持っています
その定め以上に正当化された永訣によって
人は欠落を育んでしまうのです
 
死活ならば止むを得ず
必要ならば必要悪ですが
 
永訣は告げたのか告げられたのか
 
そうして人は多かれ少なかれ
欠落を増大させながら
自己を増幅してゆくのでしょう
 
 
(2013年11月08日)
 
 
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 自分信仰
 
 
信仰者は
自分が穢(けが)すことで
自分もまた穢れたとき、
その穢れを隠しません。
なぜなら、いかなる穢れも
決して見逃さない御方を恐れること
くらいは知っているからです。
 
 
自分信仰者が一番大事にするは
信仰ではなく、お仲間向けの体面です。
したがって
自分信仰者が恐れるのは
神ではなく、体面が損なわれることです。
 
それゆえ自分が先に人を汚しておいて、
それによって自分の側に生じた汚れを
すべて消去して最初からなかったかのように
自分信仰者は装ってきました。
 
さらに自分が汚したところにわざわざ行って
脅かすためなのか、偵察なのか、
自分信仰者は臆面もなく名前を残したりします。
そしてお仲間向けには
「私も少しは図太くなったようです(笑)」
などと語らうのかもしれません。
そうではないのです。
自分信仰者は
もともと図太く厚かましく傲慢だから
畏れると言いながら、恐れることもなく
そのようなことが出来るのです。
 
脅かされたほうは
脅かされたくらいだから頑丈ではないので
色々な原因が重なれば自殺するかもしれません。
まことに神の運びは理解しがたく
反逆の民となって主の御名を呼びながらも
大罪を犯さない保証はないのです。
それでも自分信仰者に媚びたりはしないのです。
 
そのとき自分信仰者は
「残念な結果になりました
 ・・しかし罪の報いは死なのです」
とでも言いながら内心
ほくそ笑むことでしょう。
 
このように自分信仰者は
信仰者を滅ぼしてきました。
そうして
この世を支配してきた自分信仰の系譜は
信仰を滅ぼしながら今も続いているのです。
 
 
(2013年11月08日、同日若干修正)
 
 
 

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