前の「聖句引用の危険」に続いて私の苦手な聖書解釈の話です・・
ヨハネ17章
わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、
み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、
わたしに下さいました。そして、
彼らはあなたの言葉を守りました。
( ヨハネ 17:6 )
主イエス(キリスト)が父なる神に祈る場面で、
「わたし」はイエス、「あなた」は神です。
ここを引用して
主イエスの言葉を守ることを教えるなら
注意が必要です。
実際にはキリストの教えを守れないことのほうが
大きなテーマであり、多くの教えが
罪なき人は 一人もいない
につながってくると思います。
そこに罪の意識が、
そして救いが生まれるからです。
キリストは罪を認める者には限りない慈しみを表し、
罪を認めない者にはどこまでも厳しかったことを
忘れてはなりません。
そのことを書かず、この部分を引用することは、
原罪は旧約の話で、キリストがいて、
彼らは守ったと書いてあるから守れ
という乱暴な説教になる恐れがあります。
そしてキリストの教えを守ることが信仰という
短絡的な信仰につながる恐れもあると思います。
私は守っている、皆も守れ、とでも言うような
・・やさしい言い回しに変えた傲慢・・
この章には文脈の続きとして
次のような聖句もあります。
・・・
彼らのうち、だれも滅びず、
ただ滅びの子だけが滅びました。
( ヨハネ 17:12 )
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、
彼らを悪しき者から守って下さることであります。
( ヨハネ 17:15 )
ここではっきりしているのは
「滅びの子」が滅びることと、
「悪しき者」による迫害があるということです。
ここでのキリストの祈りには
そういう迫害の時代背景が色濃く表れています。
つまりこの章全体にわたって
滅びる人がいて、なお悪しき者が攻撃してくるので
「一つになること」が強調されています。
そういう情況を前提に書かれたキリストの言葉
ということでしょう。
キリストの言葉を守る
ということだけなら、無理を言っていて、
説得力がないという問題で済みますが、
このヨハネ17章を引用すれば、
読んでみて、この章を今の情況に当てはめて、
悪しき者が来る、
滅びたくなければキリストの言葉を守って
一つになりなさい
という煽りに結び付いてくる恐れがあります。
今は聖書についてもじっくり考える時間があります。
そういう思慮を欠くと
多くの人に向かって危機を煽ることになります。
前にも書きましたが、
聖書にしばしばあるような危機的状況があるなら
それを書くべきなのです。
それをはっきり書けないのは、
何かをほしいままにしたいか
状況を曲解しているか、ということだから、
読む人に、聖句だから文句は言えまいと
ひっそり忍ばせるのでしょう。
こういう成り行きを見ても
罪を犯さない人などいない
罪なき人は 一人もいない
ということが明らかになってくるのです。
人の罪も私の罪も主の前に明らかなのです。
(2014年10月31日)
ヨハネ17章
わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、
み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、
わたしに下さいました。そして、
彼らはあなたの言葉を守りました。
( ヨハネ 17:6 )
主イエス(キリスト)が父なる神に祈る場面で、
「わたし」はイエス、「あなた」は神です。
ここを引用して
主イエスの言葉を守ることを教えるなら
注意が必要です。
実際にはキリストの教えを守れないことのほうが
大きなテーマであり、多くの教えが
罪なき人は 一人もいない
につながってくると思います。
そこに罪の意識が、
そして救いが生まれるからです。
キリストは罪を認める者には限りない慈しみを表し、
罪を認めない者にはどこまでも厳しかったことを
忘れてはなりません。
そのことを書かず、この部分を引用することは、
原罪は旧約の話で、キリストがいて、
彼らは守ったと書いてあるから守れ
という乱暴な説教になる恐れがあります。
そしてキリストの教えを守ることが信仰という
短絡的な信仰につながる恐れもあると思います。
私は守っている、皆も守れ、とでも言うような
・・やさしい言い回しに変えた傲慢・・
この章には文脈の続きとして
次のような聖句もあります。
・・・
彼らのうち、だれも滅びず、
ただ滅びの子だけが滅びました。
( ヨハネ 17:12 )
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、
彼らを悪しき者から守って下さることであります。
( ヨハネ 17:15 )
ここではっきりしているのは
「滅びの子」が滅びることと、
「悪しき者」による迫害があるということです。
ここでのキリストの祈りには
そういう迫害の時代背景が色濃く表れています。
つまりこの章全体にわたって
滅びる人がいて、なお悪しき者が攻撃してくるので
「一つになること」が強調されています。
そういう情況を前提に書かれたキリストの言葉
ということでしょう。
キリストの言葉を守る
ということだけなら、無理を言っていて、
説得力がないという問題で済みますが、
このヨハネ17章を引用すれば、
読んでみて、この章を今の情況に当てはめて、
悪しき者が来る、
滅びたくなければキリストの言葉を守って
一つになりなさい
という煽りに結び付いてくる恐れがあります。
今は聖書についてもじっくり考える時間があります。
そういう思慮を欠くと
多くの人に向かって危機を煽ることになります。
前にも書きましたが、
聖書にしばしばあるような危機的状況があるなら
それを書くべきなのです。
それをはっきり書けないのは、
何かをほしいままにしたいか
状況を曲解しているか、ということだから、
読む人に、聖句だから文句は言えまいと
ひっそり忍ばせるのでしょう。
こういう成り行きを見ても
罪を犯さない人などいない
罪なき人は 一人もいない
ということが明らかになってくるのです。
人の罪も私の罪も主の前に明らかなのです。
(2014年10月31日)