ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年04月

 
  与えられて
 
 
人の世界には
得るものも失うものも多いが
 
神事について
与えられたものを
神から得たと言うべきであろうか
 
人の届かない神事については
神から得たと声高に言わず
思いに留めておくのが信仰なら
これは
神と人の違いによって
我は人である
と言う人間宣言である
 
人の届かない神事だからこそ
神から得たと確信的に信じて
人に対しても堂々と言うのが信仰なら
これは
人に与えるという神の行為を
人が確認できるというのだから
人の分かる範囲に
神を置いてしまう行為であり
我は神に近い
と言う優越聖人宣言である
 
自分はどちらであるかを
考えるべきは信仰者である
 
神事の総てではなく
必要なものを神は与え
人は得ると人が言うなら
その必要なものの中に
自分にとって都合の悪いものは含まれない
という前提を無意識に立てているのが人間である
 
都合の悪いものも・・と言うなら
都合の良いものも悪いものも・・と言うことだから
そもそも神が与えるものを
必要なもの・・と限定のようなことをわざわざ言って
神から得たと言う必要がないのである
 
言わなくても人は
善かれ悪しかれ
常に与えられているからだ
 
恵みか試練かによらず
神が与えたゆえに得たという認識は
確信すれば人には迷妄である
 
神事と神意を
人が分からないと気が済まない信仰に
返される神殿は
人が住もうとすれば迷宮である
 
感謝するのは
思いに留めているものを
神に告白して祈るのであって
神が下さったと確信する必要はない
 
神事の確信もまた神事なのだから
神のなさることである
 
自分は正しい道を歩いている
という強迫的確認行為に惑わされてはいけない
 
私たちは運ばれてゆく身であり
荷札を確認する資格はない人として
神が定めた永遠に向かうのだ
 
 
(2015年04月30日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  大きな報いが・・
 
 
聖書のこの部分の悪用については
前に批判したと思うのですが
批判に無反応の彼は
同じことを繰り返しています。
 
今まで自分で思い込み確信して
信条として人に語ってきたことを
今さら改めることが出来ない状況なのでしょう。
固着した思い込みから
被害者意識いっぱいで
復讐を望んでいることが浮き彫りになっています。
 
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
10:32
あなたがたは、光に照されたのち、
苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、
思い出してほしい。
10:33
そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、
このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。
10:34
さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、
もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、
自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
10:35
だから、
あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。
その確信には大きな報いが伴っているのである。
10:36
神の御旨を行って約束のものを受けるため、
あなたがたに必要なのは、忍耐である。
 (へブル10:32-36、新約聖書)
 
読めば分かるように
この聖句は大いなる迫害の時代に書かれています。
信仰を許さない迫害者は明らかでした。
信仰を守ろうとすれば殺される日々を生きた使徒と人々の話です。
 
それを今の時代にそのまま持ってくれば
自分の絶対正義に反対する者を神の敵にしてしまいます。
 
書いてあるように
この聖句での確信は信仰を守るための忍耐です。
 
自分の解釈の絶対化ではありません。
 
彼が確信しているのは
誰の批判も無視してやまない自己確信に他なりません。
勝手に神の敵を想定したうえでの呪詛に近い忍耐です。
 
彼が「確信」という言葉で守ろうとしているのは
彼の思い込みの言説に他なりません。
前にも書きましたが
そのために聖句を悪用して
あらゆる反対者を
「報いが来る」と呪っているのです。
前に書いた「復讐は神に任せよ」と並んで
自分の敵を呪うには打ってつけの聖句なのです。
 
こういうことを臆面もなくやってのける者は神を恐れていません。
自分が神がかった絶対正義を持っているつもりだからでしょう。
徹底して学習することを放棄した態度のようです。
 
>あの方に信頼し、その言葉を事実として受け取る者は幸いなのですね。
 
「その言葉」とは彼の解釈と彼の言説です。
聖書に書いてあると言って欺く態度に他なりません。
恐ろしいことにそういう者は
聖書を引き合いに出して悪用することを恐れないのです。
 
>聞き及んでいた言葉がすべて事実であったことがわかるのだそうです
 
「聞き及んでいた言葉」も彼の解釈に利用される聖句でしょう。
それを事実だと信じるように言っています。
聖書から都合の良いところを持ち出して
自説の根拠として利用する者は神も聖書も恐れません。
 
信仰による忍耐ではなく
既に破たんしている思い込みの自説によって
あたかも今迫害されているかのような煽りによって
反対者に対する無節操な敵視と疎外が生み出すものは
まさに自説を通そうとする者による暴虐の精神なのです。
迫害と被迫害が逆に近くなってゆくのです。
 
>この方のことばを信用していた者たちは
>誉れと栄光をいただくことになるのだそうです
 
彼の自説と解釈を「この方(神)の言葉」にして
具体的なことは一切言えないことを当てはめて
空約束が常套手段となります。
 
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
10:37
「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
10:38
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。
10:39
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、
信仰に立って、いのちを得る者である。
 (へブル10:37-39、新約聖書)
 
信仰と殉教の覚悟を表している聖句も
「遅くなることはない」・・前にもありましたが、
学習せずに繰り返すことを信仰の美徳としてしまうと
厚顔であることにも慣れてしまうのでしょう。
 
修正不能にすることが信仰だと
優しさも聖句も利用できるもの総てを利用して
逆らう者を次から次に神の敵にして睨みながら
自らと仲間たちを締めながら結社化してゆく集団が
世界に溢れている有り様を垣間見るような気がします。
 
 
(2015年04月30日)
 
 
 
 

 
  ゆがみ
 
 
記憶と予測は知性を基にするが
知性の産物ではない
 
時間は計れることになっているが
時計の産物ではない
 
情性そして感情は認知によって
記憶と予測をゆがめる
 
波動は反射と投げ込まれたものによって
波紋と速度をゆがめる
 
窓や鏡面のゆがみは
映している今の自分を
過去からも未来からも引っ張ってくる
 
ときに内在する時計は
計れない痛みのために
間違った時間を崖っぷちに投影して
悲鳴を上げているのだ
 
 
(2015年04月29日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  体裁
 
 
神の意思はこうです
神様はこう考えておられます
神様はこうなさるのです
と言えば
神に向かって
あなたはこう考えていて
あなたはこうしようと思っている
これは言い換えると
神に向かって
あなたの言いたいことは知ってるし分かってる
ということに等しい。
 
表現を荒くしていくと
いかに神に対して不遜であるかが分かるでしょう。
一方で
神の言いたいことは知らないし分からない
これは人間の不全性から
不遜ではなく常に真実だと言えるでしょう。
 
言うまでもないことですが
私は信仰によって
全く別人に生まれ変わり真理を悟り
神の絶対正義を身に着けた
などということは全然ないので
 
書いて公開した文章を修正することが当然あります。
 
どう修正したかを文章中に逐一書いてゆくと
文章全体の体裁が汚くなるので
多くは修正年月日だけを記すことにしています。
こういうことは不全の人が
重いテーマについて書くときには
不可避なことだと思っています。
 
体裁という言葉を使いましたが
文章について・・
 
必要な体裁:
 本音を本気で文章に表すために整えること
 自分の真意の表現努力
不必要な体裁:
 本音や真意を隠す目的か
 真意がはっきり表せないときに
 質を問わず恣意によって
 間違っていると言われないためだけの目的で
 美辞麗句で飾ったり
 曖昧で優しい言い方を並べることによって
 整っていないことを整っているように見せかけること
 虚栄の表現
 
 
(2015年04月29日)
 
 
 
  秤
 
 
人が信仰について語れるのは
信仰から出た言動が
人の世界で正しいかどうかの判断にとどまる
それは
正しいという判断より
むしろ人として間違っている
としか言えない場合のほうが多い
 
つまり
いやしくも人が考え
判断できるのは人間性だけであって
信仰ではない
 
信仰を裁けるのは神だけだ
 
信仰そのものは人の秤(はかり)に乗らない
 
人の信仰を秤にかける者は
何も載せなくても
自分のほうに傾いてくれる秤を持っているのだろう
 
そういう者はしばしば
人の世界で判断するべきことを語らず
 
最初から神の判断つまり裁きを行っている
 
信仰は
神が与えた愛すべき人間性を問われるという一点において
人としての判断が可能だ
 
信仰を裁く信仰には人間性が欠落している
 
神の関わる信仰そのものを裁けるのは神だけである
 
問うことと裁くこととを混同してはならない
 
 
(2015年04月29日)
 
 
 
 

 
  イエスが・・
 
 
彼の記事のタイトルですが・・
 
>イエスが願っていて下さるので、
>のようですね。
>天の御国に入れるのは。
 
イエスは願っていてくださるのです。
 
>父である方に願って下さっている
 
人が今成就していると決めてはいけないのは
現実を見れば明らかだからです。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
17:21
父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、
わたしがあなたのうちにいるように、
みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、
彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、
それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、
世が信じるようになるためであります。
17:24
父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、
わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい
天地が造られる前からわたしを愛して下さって、
わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい
17:25
正しい父よ、この世はあなたを知っていません。
しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、
あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。
17:26
そしてわたしは彼らに御名を知らせました。
またこれからも知らせましょう。
それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、
またわたしも彼らのうちにおるためであります」。
 (ヨハネ書17:21-26、新約聖書)
 
引用聖句に「・・ください」「・・ため」
という表現が多いのは
 
>父である方に願って下さっている
 
ということだから、
また目的だからです。
 
そしてその願いが叶っているかと言えば
到底叶っているとは言えない現実があります。
 
聖句にあるように
この世は神を知っていません。
 
したがって
今イエスがいるところにいる、または、
いつか分からないのに、いるようになる、
と言って宣伝するのは詭弁になります。
 
>イエスと一緒に歩むことを願う者は、
>イエスがいるところにいるようになるのだそうですね。
 
>イエスと一緒に歩む者は、
>イエスの願いのゆえに、イエスのおられるところにいて、
>イエスの栄光を見せていただけるのだそうです。
>今日も。
 
つまり
これは成り立っていません。
現実を見ない人の詭弁の言い逃れです。
 
比喩だとしても
比喩と事実を混同する作為によって
不必要に思い込みの固着を促す行為でしょう。
 
・・現実認識に欠け
 人間性も感じさせてくれない・・
 
 
>イエスが地獄におられれば一緒に地獄にいるようになり、
>天の御国におられれば、
>私たちも天の御国におらせていただけるということでしょうか。
 
イエスが天国におられ
人が地獄にいる場合を忘れたのでしょうか。
 
叱ってくれる神を信じないで
キリストのことを書くのに
今回の記事のような詭弁を弄して
真摯な態度を持たない人には
 
  (マタイによる福音書、口語訳)
7:22
その日には、多くの者が、わたしにむかって
『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって
預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって
多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、
『あなたがたを全く知らない。
不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
  (マタイ書7:22-23、新約聖書)
 
この聖句をまた引用することになります。
神もキリストも優しいだけではないのです。
神を恐れない人には厳しいのです。
 
私は
神に対する恐れとは何かを考えてきました。
彼は
神と仲良しだから大安心
というのを人にも自分にも当てはめています。
 
この聖句や、
パリサイ人の偽善の賛美の箇所を
私がたびたび引用するのは
神は絶対の創造主ですから
人の有頂天の全能感や人の偽善については
例外なく厳しいことをわきまえていたいからです。
 
 
(2015年04月28日、同日一部修正)
 
 
 
 

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