与えられて
人の世界には
得るものも失うものも多いが
神事について
与えられたものを
神から得たと言うべきであろうか
人の届かない神事については
神から得たと声高に言わず
思いに留めておくのが信仰なら
これは
神と人の違いによって
我は人である
と言う人間宣言である
人の届かない神事だからこそ
神から得たと確信的に信じて
人に対しても堂々と言うのが信仰なら
これは
人に与えるという神の行為を
人が確認できるというのだから
人の分かる範囲に
神を置いてしまう行為であり
我は神に近い
と言う優越聖人宣言である
自分はどちらであるかを
考えるべきは信仰者である
神事の総てではなく
必要なものを神は与え
人は得ると人が言うなら
その必要なものの中に
自分にとって都合の悪いものは含まれない
という前提を無意識に立てているのが人間である
都合の悪いものも・・と言うなら
都合の良いものも悪いものも・・と言うことだから
そもそも神が与えるものを
必要なもの・・と限定のようなことをわざわざ言って
神から得たと言う必要がないのである
言わなくても人は
善かれ悪しかれ
常に与えられているからだ
恵みか試練かによらず
神が与えたゆえに得たという認識は
確信すれば人には迷妄である
神事と神意を
人が分からないと気が済まない信仰に
返される神殿は
人が住もうとすれば迷宮である
感謝するのは
思いに留めているものを
神に告白して祈るのであって
神が下さったと確信する必要はない
神事の確信もまた神事なのだから
神のなさることである
自分は正しい道を歩いている
という強迫的確認行為に惑わされてはいけない
私たちは運ばれてゆく身であり
荷札を確認する資格はない人として
神が定めた永遠に向かうのだ
(2015年04月30日、同日一部修正)