ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年10月

推測と想像・・
 
  失って
 
 
神は結局いかなる悪人も罪人も
裁かないような気もする・・
死後の世界があると仮定しての話だが
人は望んだとおりの国に行く
(この辺は「大霊界」に似ている)
望んだとおりにそこで生きられる
・・罰は一切ない・・
人がそこで存在することに飽きない間は天国だ
そしてもはや死ぬことはない・・ふっ・・
 
あの世で救われたいと願うのは信仰だが
この世界と死後の世界はこうなっていますと
人に教えるようになると
それはもう願いではなくて信仰ではなくて
自分で信じ込んだ妄想になっている
 
祈り願い感謝することと
願いが叶うと信じ込んで賛美するのは別だ
 
前者は信仰だが
後者は病気に近い
 
後者の
神の御心を自分勝手に決めつけて褒め称えるのは
人の道を著しく外れて
文字通り外道・・
 
世の中の集団の結論はサイコパスのように欠落が多い
人道ではなく理屈と数だけが圧して侵して
血も涙もないことが多い
 
人間を失った人の滅亡への殺戮
人間を失った人の空々しい笑い
人間を失った私の怠惰な絶望
 
民の神への
反逆の歴史は今も続いている
 
 
(2015年10月31日、同日一部修正)
(2015年11月01日、一部修正)
 
妄想(もうそう)、外道(げどう)、
サイコパス、サイコパシー、精神病質(者)、
殺戮(さつりく)、空々しい(そらぞらしい)、
怠惰(たいだ)、・・
 
 
 
 

 
  どんでん返し
 
 
信仰について救いについて
「どんでん返し」という言い方をする人がいたが
その意味は恐らく
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:12
だれでも自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう。
 (マタイ23:12、新約聖書)
 
といったような聖句から
この世での価値と神の定める価値は逆だ、
神の裁きにおいてはこの世の価値はひっくりかえる
という意味なのだろう
どんでん返しが起こって救われる
という言い方をしていたようだが・・
 
しかし
今は低いが
神によって高くされる
と信じて疑わない者の心は
低いのか
むしろ高ぶっているのではないか
 
今は低いという不遇の復讐を
神に約束されている気分ではないか
 
ならばそれは
怨念に基づく信仰ではないか
 
はたしてキリスト者は
すべて救われるのだろうか
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:30
多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。
 ・・・
20:16
あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
 ・・・
21:31
イエスは言われた、
「よく聞きなさい。
取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
 (マタイ19-21章より抜粋、新約聖書)
 
神を信じていると言う人が救われる
というわけではないようです
 
取税人や娼婦は戒律から
神に背く者たちとして
いつも低く見られて責められ軽蔑されて
高いとするための材料が何もなく
思い上がりようがなかったのだろう
ということを考えます
 
彼らに整った信仰があっただろうか
 
彼らは
罪を意識せざるを得ない立場しかないことによって
主の前に謙虚であり得たのだろう
 
彼らが先に救われると
キリストは優先順位みたいに語っている
 
神を信じるキリスト者が救われるのではないのだろうか
この逆転した優先順位みたいなのは
いったい何なのだろう
 
思い上がらないことだ
と言うのは簡単だが
態度と言葉だけ柔和に見せている人を見てきて
うんざりしている私から言えば
 
謙虚でありなさいと
思い上がってはいけませんと
高ぶる者は低くされるからですと
平然と
思い上がった人が語ることもある
 
そしてその偽善からも
自分自身を除外してはならないと思います
 
どんでん返しを信じていたら
どんでん返しのどんでん返しが
起こったりするのではないだろうか・・
 
そもそも
整った信仰を保持すること自体が
人間には無理ではないのか
 
整って保たれている信仰は
人の世界には存在しないのではないか
とさえ思います
 
私たちは、私は、あとになるのか、先になるのか、
それよりもだいたい、神の国に行けるのか・・
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:42
無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。
 (ルカ10:42抜粋、新約聖書)
 
それは分かっている、
こうだよと言う者を警戒してください
 
私たちは、私は、分かってはいないのです・・
自分が何をしているのかさえ分からずにいるのです
・・何も整ってはいない・・
 
整っていないし保たれてもいない信仰には
何の救いがあるだろうと考えると
 
不安定であるがゆえに
折に触れて省みて
修正可能と更新を求めざるを得ない立場であり続けられるなら
その動態のエネルギーとでも言うべき何かは、
自分の信仰を得て守るのではなく、
いつも新鮮な信仰を求め続ける祈りと願いとして
人の年齢や状況にかかわらず成長を願う上で大切だろうと・・
 
・・今のところ、言葉にすれば、この程度です
 
 
(2015年10月30日)
信仰を言葉にしようとするときに
いつも感じる不全感は、ある意味、それこそ
信仰を考える上でのヒントのような気もするのですが・・
 
 
 
 

 
  「人生を生かす常識?」
  
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17995998.html
    に寄せられたコメントです
 
 
おはようございます。
 
 >上の話と関連付けて読む人にどういう印象が伝わるでしょう
 
2つの印象をうけます。
 1つめは・・・
記事にされている牧師さんの、無意識で強烈な差別意識です。
 自分は小学3年生までしか教育を受けれなかった女性より知恵もあり賢い。 その女性は知恵もなく賢くない。
という、記事の牧師さんの根底にある無意識の強烈な差別意識を感じます。
 私はとても不快感を感じますが、牧師さん自身は気が附いていらっしゃらないように感じます。
 
2015/10/29(木) 午前 9:41[ ワインです ]<<コメントに返信する
 
2つめは・・・。
 
 知恵、賢さの否定。そして愚かさへの称賛。
この世の学者さん達への否定と敵意。
 努力に対しての無敬意、などを感じます。
 
 記事の中の女性は、とてもピュアに努力をなさっています。
 記事の女性の努力に対して、真っ向から否定をされているという事実も、こちらの牧師さんは気が付いていらっしゃらないような気がします。
 
2015/10/29(木) 午前 9:55[ ワインです ]<<コメントに返信する
 
最後に・・・。
 
この引用されているコリントの句は、パウロが自分の知恵をしぼり必死に、そして躍起になって宣教していく中、上手くいかず、次第に人の神様との出会いも何もかも全て神に委ねていく経緯の中の句だったと記憶しています。
 
 記事の中の女性の話に持ってくる句としては的外れの様に私は感じます。 持ってくるなら牧師さん自身の感想を書かれなければ・・・と私も思います。
 
 思うのですが、記事の牧師さんは「気が付いていらっしゃらない」のではなく「気が付きたくない。自分の闇は見たくない」のではないかと感じます。
しかし、自分の闇と向き合わなければ光とも出会えないと、思うのですが・・・。
 
 長いコメントになりましたm(__)m
 
2015/10/29(木) 午前 10:10[ ワインです ]<<コメントに返信する
 
 
驚きました・・鋭く、激しい・・
さらに
 
>引用されているコリントの句は、
>パウロが自分の知恵をしぼり必死に、そして躍起になって宣教していく中、
>上手くいかず、
>次第に人の神様との出会いも何もかも全て神に委ねていく経緯の中の句だったと
 
>記事の中の女性の話に持ってくる句としては的外れ
 
この聖書の読解にも感心します。
 
>無意識で強烈な差別意識
 
そうですね・・大方、無意識なのだろうと思います。
長く教理を学んで頭に叩き込んできて
聖書と信仰には自信?過剰になってしまうのでしょう。
本人は当然のごとく敬虔のつもりなのでしょう。
でも文章には表れてしまう
だけでなく
この引用記事の場合のように
自分の文章を書いていないのに
今度は聖句の選択に表れてしまう。
 
このコメントは記事にさせてください。
今回はネット上の著作としてHNも出したいと思います
・・これはたいした権威、ありません・・
 
また今回はワインです様のコメントがメインなので
ブログ村の私のランキングポイントへのリンクも貼らないことにします。
 
2015/10/29(木) 午後 1:13[ st5402jp ]<<コメントに返信する
 
訂正:
これはたいした権威、ありません(誤)

私のブログでのことですから
 これは全然、権威、ありません(正)
・・失礼
2015/10/29(木) 午後 2:58[ st5402jp ]<<コメントに返信する
 
 
(2015年10月29日、同日一部加筆修正)
 
 

 
  熱発
 
 
誰もいない夜一人
シーンと耳鳴りに包まれて
明かりをつけたままの部屋を突き抜けて
きっと細胞質だろう 果てしない
 
鎖のように並んで
核酸だろうか次から次に
付いたり離れたりしながら
底知れぬ闇へ落ちてゆく
 
発熱か 汗ばんで
心臓の鼓動は聞こえなくなり
あがくように昨日を吐き出しながら
体は動かない 棺のように
 
手足は引力に戦犯の辱めを受けながら
眼は暗点に縮小し
顔は仮面に潰されて
体は意志よりも反射で明日を患う空間だ
 
世界の信仰は殺傷されて目を覚まし
世界の心は火の霧に蒸され
世界の魂は坩堝に煮られ
世界の預言は鍋物を愛している
 
 
(2015年10月29日、同日加筆)
漢字復習:
熱発(ねっぱつ)≒発熱、
棺(ひつぎ、かん)、
辱め(はずかしめ)、
坩堝(るつぼ、かんか)
 
 
 
 

 
  真の平和?
 
 
平和と安全というテーマの記事について
一見まともに見えるかもしれない記事を批判するのですが・・
 
>宗教も不安と恐れの解決とはならず、
>むしろ、最も深刻な争いを生み出してきたことも歴史的事実です。
>今日も連日痛ましい出来事が伝えられています。
 
と書いておきながら
 
>目に見える安全と平和、豊かさのみを追い求めている過ちに気づくべき
 
今、世界で起きている悲劇がこの理由によるのでしょうか。
宗教のブログなのに・・彼は
宗教そのものが腐敗して起こる場合については考えないのでしょうか。
 
>人の目に見えないいのち、心や愛を人は造ることができません
 
心と愛については
反省しても失敗するわけですから
日々反省する気持ちすら持たない人は
ますますどうにもならなくなるでしょう。
 
>心は
>目に見えるものの囚われから解放されることによって
>癒され自由になる
 
こういうことはカルトの宣伝文句でも言うことです。
今さらこれを言うことの浅さを思わないのでしょうか。
何度もリピートされた月並みな言葉の
再生機器になっていることに気づかないようです。
 
>見えないいのち、心、人格、愛の源である方を
>人の手による教理にしたり、儀式にかえることはできないでしょう。
>組織や制度に代えることもできないでしょう。
>それはすでに人の手による宗教化されたものだからです。
 
まさに教理と組織を固く動かないほど守り維持することで
自尊心と地位を保とうとしているのは彼なのです。
 
言葉と行動が矛盾しています。
 
>私たちの心がそのような方と出会い、交わることによって
>私たちの心は砕かれ、謙遜させられ、
>その方を畏れる私たちの心と心の互いの間に
>真の安全と平和と豊かさが与えられるのではないでしょうか。
 
「そのような方」とは神とキリストのことですが
「そのような方」によって
心が砕かれた彼も、謙遜な彼も、見たことはありません。
 
また自分の正しさを前提にして
出来ない人たちのために・・みたいに
他人事のように書いている・・
 
しかもキリストと出会い交わることこそが神秘であるのに
これほど簡単に書いてしまうことが信じられません。
自分はいつも交わっていているから心配ない
というニュアンスになるでしょう。
 
その方を恐れる心と心を通わせた彼も見たことはありません。
彼が交わるのは彼に賛同する人だけのようです。
 
彼はこれからも
見るたびに白々しさの詰まった記事を書き続けることでしょう。
 
謙遜ではなく
謙遜に見せる言葉を並べるだけの彼の言辞に従うことは
真の安全と平和と豊かさを与えられる前に
実のない言葉だけの
偽りの安全と偽りの平和と偽りの豊かさへ向かうことになるでしょう。
 
言葉は、貼り付けることで
もっともらしく見せるだけのレッテルに過ぎなくなっています。
 
彼の安全と平和と豊かさは彼において完結していて
もはやそれ以上の訂正も発展もなく
ただ彼は自己満足に付き合ってくれる人を欲しがっているだけです。
 
神が目に見えない以上
人が人に伝えてゆくしかない
という宗教の怖さを警戒してください。
 
このような自己満足や自己完結が宗教的確信となって
宗教がメジャーな国では殺し合いが起こっているのです。
 
まさかと思うでしょうが
都合が悪くなるとネット上の強制力を使う
という短絡的手段をとり
反応も反省もしないということにも表れており
他の宗教と言っている内容が異なっていても
前提からアウトプットだけであり
修正も批判も受け付けないという根底は同じなのです。
 
ただ幸いなことに
この国ではメジャーな宗教ではないから
大きな権力を持ち得ず
極端な分派の出現が目立たず
エスカレートもしにくいというだけなのです。
 
 
(2015年10月29日)
 
 
 
 

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