ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年11月

 
  「労苦」
 
 ブログ:その名は不思議
 記事「神は神。人は人。」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27095146.html
 
 
他者の記事の引用と
彼のコメントを記事にしています。
 
 聖句引用:
 人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
(旧約・伝道の書3章1~8節)
(ここは、9~11節です。)
 
そして彼は聖句を逐一解説しています。
 
 
聖句
《人が労苦してみたところで何になろう》
 
>この言葉は人が《神の時》を思うがままに、《人の時》に変えようとする時の、
>人の思い煩い、ストレスで苦しむこと、徒労を表す言葉でしょうか?
>あるいは人が神にかわって、
>自らを神として生きることの労苦の虚しさを表す言葉でしょうか!?
 
「何になろう」という否定的な言葉に
彼は、否定だからこの労苦は神に背くことに違いない
と解釈しているようです。
この「労苦」を、
神に背き、人が思うままに変えようとする労苦だと解釈しています。
だから、思い煩い、苦しむ徒労なのだと言っています。
神に背いて生きることの労苦は空しい・・という話になっています。
 
苦労するときには自分のため家族のため世のため人のため
そして神のため信仰のため・・いろいろですが、
苦労しているとき、人は
神に背いているかどうか分かるでしょうか。
 
神に背いているかどうか信仰者でも
結果として反省するだけでしょう。
 
この労苦には何の形容詞も
限定するような言葉も付いていません。
 
世を生きる人への共感に満ちているのに
 
彼は苦労している人に
そのストレスは神に背いているからだよ
とでも言うつもりでしょうか。
ここでの問題は人生の一般的な問題です。
なのに彼は単純に
罪に帰することでこの聖句を解釈して済ませるのでしょうか。
 
彼には
人が良かれと思って苦労しても悪い報いや
さらなる労苦が訪れることがある
ということが分からないのでしょうか。
 
私から聖句引用:
義人がその義によって滅びることがあり
(同書7章15節)
 
なども現実と歴史と人生を考えれば
共感を持てる箇所なのです。
 
私にも伝道の書には好きな聖句があります。
聖書には
神様は正義を行い正しいということばかりを書くことをせず
人間としての共感に溢れる文章があります。
それによって
聖書をただの神がかりの道徳の本にしていない良さがあります。
 
しかし彼には
神の道が分かっていて彼の行為は空しいことがなく
聖書も空しいことなど書いてあってはならない
と思っているのでしょうか。
だから
共感するところに共感できず
解釈を曲げて彼の善に導こうとするのでしょうか。
 
 
聖句
《わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた》
 
>この言葉は常に人を愛し、最善をなさる神を信頼し、自らの業を手放し、
>明け渡しゆだねることが人のなし得る最善の生き方であるという事を表す言葉でしょうか!?
 
前から述べてきたとおり
彼には、人が背けば懲らしめる神は存在せず
彼には
「常に人を愛し、最善をなさる神」しかいない、いてはならないようです。
彼の聖書と神の見方の特徴が表れていると思います。
 
そういう見方では
「明け渡しゆだねる」信仰の「最善の生き方」が
恐ろしく非現実的になってしまいます。
これを解説として平気で書いてしまうことが信じられないのです。
 
「(自分には)分からない(ことがある)」と言えない人の特徴でしょう。
彼の言う「最善」?になれるのは独善の自己満足だけなのです。
 
 
彼の記事のテーマも記事の中にも
「神は神。人は人。」と彼は書いていますが
人の世の労苦に対する共感のないところで
神に従って完璧を目指せ・・と言っているのと同じような言説では
命のない空気よりも空しいと感じます。
 
つまりあとは
「永遠を思い」「信仰によって生きるように」
「高ぶることなく神に対する信仰、信頼によって生きるべきこと」
「神を求める霊的、宗教的存在」
など・・目一杯の聖書的美辞麗句を並べても
何も変わらないようなことばかりのようなのは
人間的共感を聖書から読み取っていないからだと思います。
 
人が神の属性としての永遠を思い
不全の人の罪について考えないなら
書かないなら言わないなら
これほど空しいことはありません。
 
 
神は完璧である
ということから、
彼は完璧な善を目指すようになってしまったのでしょう。
それが誰にも出来ないことであるにもかかわらず・・。
 
信仰によって彼は善を目指した
それは幸いだと評価するべきだろうか
しかしその善は
たやすく偽善に変わりやすい善だった
それを齎(もたら)したのは
彼が信じ込んだ神と信仰の考え方だった
 
そこを信仰の初期に
罪人である人間という立場の自覚から
赦しと救いへと導いてくれる人がいたなら
こうはなっていないはず・・それが宗教の怖さなのです。
 
聖書は多くの人間的共感を与えてくれます。
神がかった人間離れした言葉ばかりではありません。
受け取り方ひとつで
神を信じて生きようとした多くの人々の
生き様の空しさと尊さを知ることが出来るのだろうと思います。
 
それを知れば
偽善や独善などには陥らずに済むのだろうとも思いますが
そこは私も「空しさ」と書いてしまうほど
到達できず、また備わらないでいるところだろうと思っています。
 
人類が肥大した殺傷能力を持つ時代に
争いと殺戮が世界中で起こって
しかも悪化しているような、
何だか変な話アルマゲドンを思わせるような時代ですが・・
これからの時代を生きてゆく人々に期待を寄せたいと思います。
 
彼からの反論を待つことにしますが
今まで何年も返してこなかったから
これだけ書いても・・こないかもしれません。
 
 
(2015年11月30日)
今朝の深夜にあちらの記事を読んで、また急いで書きました。
誤字脱字また御意見などありましたらコメントください。
 
 
 
 

 
  タイル
 
 
人が教理や信条や説教を
無批判で受け入れるのは
批判するための思考が面倒で
思考を停止して染まってゆくほうが楽だからだろう
 
必ずしも感動して賛同しているからではない
 
感動的で実のある説教は
人々が主体的に考えて掘り下げれば
さらに感動も深くなるだろう
 
聖書的な内容だが
説教者本人も言い飽きたような言葉には
信徒はもっと飽きている
 
そういうことになるのは
聖なる言葉だから文句を言わず
感謝する前提だからだろう
 
疑問やそれぞれの理解をぶつけあうことで
掘り下げる作業を怠り
人の間で活性がなくなっているからだろう
 
思慮を通さない言葉は稚児の言語と大して変わりない
 
人の言葉が拙くても
神の導きがあるから伝わる
という神秘に自分の都合を当てはめる者は
うわごとか信号のような意味不明な声か音でも
心に響く福音が伝わると言うのか
 
信仰について考える
という出来ることすらも怠って
無遠慮に押し出されたのなら
 
その的外れの言説を
はたして神が愛して助けるだろうか
 
聖句「口から出るものが人をけがす」から
自分の発言を除外してはいないか
 
そういう怠慢も罪も考えようとしないのは
神に対して思い上がってはいないだろうか
神に対して自分の思い込みを宛がってはいないだろうか
 
人に出来るのは
神の御心を説くことではない
 
人に出来るのは
信仰と人と神の関係を考えるときに
人間の心に生じる波動のようなものを語ることだ
 
さざ波から荒波まで
人間の動きを考えないで
なぜ決まり文句のタイルを貼り付けようとするのか
 
 
(2015年11月30日)
 
さざなみ(細波、小波、漣)
 前は「さざ波」という書き方があった
 と思ったが、手持ちの辞書には載っていない・・?
 細に「ささ」という読み方があり
 ここでは、そこを「さざ」と書いて
 荒波との対比として「さざ波」と書いています。
 
 
 
 

 
  装飾教会
 
 
説教ではなく
処世を用いる牧師がいる教会では
 
例えば
命の道か死の道かと問われれば
死の道を選ぶ人はいないわけで
逆らわなければ
牧師の教理的信条をそのまま受け入れることになる
 
去ってゆく人は何か反発があるわけだが
はぐらかして、まともな返答がなければ
去る分には、どうぞ、
ということで、止めない、気にもかけていない
 
・・逸れた羊の話はどこへ行った・・
 
そして残った人を教理べったりに漬けてゆく
 
そのようにじっとりと
聖書に対し無頓着で安易な脅迫的言辞のやり方を
伝道の業(わざ)を装いながら
処世の技(わざ)として身に着け施してゆくのだろう
 
信者は信者として
聖書を読んで印象深い聖句については
かなり知っているので
今さら処世の説教を聞いても
感動もしないし深みも感じないのだが
 
説教を聞いているふうを装う処世の信徒と
説教をしているふうを装う処世の牧師によって
装いだけで教会が出来てゆくのだろう
 
ただの一人の人に
聖なる職責を与えてしまう結果はこのようなものだ
 
口下手でも気の利いた話を語れなくても
誠意をもって
疑問を受け止めて共有し共感することが出来れば
信徒が牧師を育てることもあるだろうし
牧師も信徒と交わって共に育ってゆくことも出来るのだが・・
 
 
(2015年11月29日)
 
 
 
 

 
   信仰の心と体?(2)
 
 ブログ:その名は不思議
 記事「誓約と結婚 信仰告白の奥義と洗礼」
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27088943.html
  に書き込んだコメントによる私の批判の続き
 
 
彼は記事に加筆してさらに聖句引用を追加しています。
タイトルに「奥義」という言葉が加わりました。
 
同名の記事の続きで、
今回はまとめずに、コメントの続きをそのまま載せています。
彼からのレスは、前のコメントも含めて、今のところ全くありません。
 
 
記事の追加による修正ですか、珍しい・・
奥義を示したつもりなのですか・・??
 
>イエスの十字架の死によって人のわざを再逆転してくださり、
>神の言葉の本質である神の愛が私たちに注がれているのです。
>なぜなら 
>イエスに神ご自身と完全な人とが一体となった姿と出会うことができるからです
>この出会いに「誓約と結婚 信仰告白と洗礼」の奥義があるのです。
 
どうしても完全でないと気が済まないようです。
どうしてもあなたは
自分は完全な御方に出会ったと言わないと気が済まないようです。
 
「イエスに神ご自身と完全な人とが一体となった姿と出会う」
こう言って、聖句引用で終わらせてしまうと
完全に出会って完全になるのが信仰
・・という意味に受け取られてしまう危険を考えないようです。
 
2015/11/28(土) 午前 4:48 [ st5402jp ] 返信する
 
つまり、どうしても
自分は完全なる御方に出会って、完全になった
ということにしないと気が済まないのでしょうか。
 
出会い方は色々あるでしょうが
完全なる御方に出会った私たちは完全でない
ということを書かないで済ませるのは
 
言葉だけ
完全な神、完全なキリスト、完全な出会い、
ということにしなければ
神を称えたことにならないかのような
済まない、また、足りない気持ちになるのでしょう。
 
2015/11/28(土) 午前 4:49 [ st5402jp ] 返信する
 
聖句
>わたしを見た者は、父を見たのである
>わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか
 
無神論ではないのだから
神を見たのです。神がキリストにおられることを信じているのです。
ただ人は、そして私は、不完全だから誤解している可能性があるので
神に出会った・・などと言葉だけ押し出すことを控えるのです。
そういうところが、あなたには欠けていると申しあげます。
 
聖句
>もしわたしのいましめを守るならば、
>あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである
 
短い聖句引用の危険に直接触れているような気持ちです。
解釈も解説もなしに、これらの聖句引用で終わらせている。
 
あなたはキリストの教えを守っているつもりなのですか。
 
信仰について語るときには
そこがいちばん大事なのではありませんか。
 
2015/11/28(土) 午前 4:50 [ st5402jp ] 返信する
 
やはりあなたは
自分に罪を認めていない・・だから罪について書けない
と言われそうな書き方をしていることに気づかないのですか。
 
罪びとの立場で書けないのですか。
救われて完成した立場からしか書けないのですか。
 
神と信仰について賛美したつもりで
言葉だけで整ったことを探して書いて満足するつもりなのですか。
 
神もキリストも、人に、あなたに、
賛美してもらわないと失踪するような御方ではありません。
 
信仰について気づくためにある聖書を
自分一人で辻褄合わせで納得している言葉を書いて
前から書いているように悪から自分を除外して
人に指図でもするように
説明しにくいことを説明したつもりなのでしょうか。
これが・・奥義なのですか。
 
2015/11/28(土) 午前 4:51 [ st5402jp ] 返信する
 
信仰は聖書を読んで
キリストに出会うことで始まりますが
始まるのであって、そこで奥義を得て
完成するのではありません。
信仰は経過であり成長だと思っています。
 
あなたはそう思わないということでしょうか。
 
出会いを奥義と言って完成したかのように
あなたは満足できるのかもしれないが
他の人々はそうはいかないと思います。
 
削除しますか。
 
2015/11/28(土) 午前 4:51 [ st5402jp ] 返信する
 
コメント欄に書いたこと、と言っても私のコメントだけだが、記事にします。
 
2015/11/28(土) 午前 5:55 [ st5402jp ] 返信する
 
 
コメントが削除されないだけでも違うとは思います。
とはいえ、
記事を見ると、どうしても違和感も、ときに反感も禁じ得ません。
 
 
(2015年11月28日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  信仰の道
 
 
信仰とは
神を信じて
神の義の成就を祈ることだが
信仰とは
信仰を求めることである
 
つまり信仰とは
ある時点で信仰者になることではなく
信仰者になることを求めることである
 
信仰者になっても
信仰を持ったことになっても
なお信仰を求めることである
 
したがって信仰は
手に入れるべきものではなく
死ぬまで求めて行くこと
 
つまり道である
 
信仰の恩恵に甘えて
信仰の恵みを手に入れた気分や
信仰者の立場を常に持っていて
そこから考え語ればよいという気持ちは
厳に戒められなければならない
 
信仰はいつも求める道の途上にあって
歩みを止めないのであって
その歩みは死ぬまで続くのだから
 
一つのところに到達しても
そこから先を目指す気持ちを必要とするだろう
 
命が続くのだから
到達したところは目的地ではなく
距離が測れるわけでもなく
拠りどころでもなく
達し得たと誇れる何ものでもなく
まだ終わっていないことを感謝するべきところだ
 
むしろそう思っていないならば
ましてや人より進んでいると思うときは
危険と考えるべきだ
 
人間として求める気持ちがなくなったら
道は物に変わり
信仰は所有物に変わり
持っているのは慢心に変わり
安らぎは偽善となって人を蝕み
 
信仰を求める動機である不全の自覚
という動機を失ってしまうだろう
 
信仰は
神の運びによって
動かされ砕かれ試されて
日々新しくされてゆき
またその更新を人が求める関係である
 
明日はどうなるか分からない
これは信仰者の希望である
 
 
(2015年11月28日)
 
蝕む(むしばむ、虫食む)
 
 
 
 

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