遣り取り
信仰について考えて
コメントの遣り取りをするときも
人によっては
論争において負けることが嫌いで
優位に立ちたいと躍起になって
感情が先立って
教える側の先生でありたいのか
何やら唐突に設問をぶつけて
人の心を見立てようとしてきます
罪人と同じ地平に立つなら
質問でも意見でもいいのですが
文脈から離れて
「どうですか?」という感じの
テストで試されているような
謎かけのような質問には
愉快でないものを感じます
でもそういうときに
負けないぞとばかりに
完璧な答えを書こうと焦る必要はありません
質問の意図を尋ね
なぜ急に問題を出すのか
先生として
相手を生徒として見下したいのかと
疑問を提示しておいて
自分の回答が完璧でないことを告げ
相手も自分も同じでしょうと
貶めるのではなく
確認するようなコメントを書けばよいのです
同じ地平にいることを否むなら
それはそのまま
信仰者が神の下に平等であることを
認めない権威主義だと批判する根拠になります
教理的理屈を振り回す人は
人の限界を弁えず執拗に言うのですが
結局
自分の神を信じよ
と繰り返し言っているようなものです
神を信じることは
信仰について話しているのだから
当たり前のことで
繰り返しても意味がありません
そういうことを
教理に縛られている人は
一番大事なことを言っているつもりで言うのです
付き合うほうは堪りませんが
信仰を妨げる理屈や思い込みに対峙することは
弱くても信仰についての言論を志して
人間として真実を求めてゆく道なら
自分が問題点になることだってあるのですから
そのときに聞く姿勢を持っていられるように
問題点の指摘を怠っては通れません
教理的理屈に固執して
分からないのかとばかり繰り返すのですが
信仰にとって
それはむしろ危険なのです
何故なら
そういう場合こそ人間であることを忘れて
人間離れの神がかりになりやすいからです
そういう人は
聞いてくれる人を探していますから
聞いてくれたらその人を褒め上げるでしょう
その言葉が柔らかいものでも
そういう人は使命感の成就ではなく
自分の言説が通用することを悦んでいるだけなのです
神の正しさに固執して言葉に表す者ほど
自分の間違いの気づきからは遠くなってゆきます
神の正しさについて教理的理屈を捏ね続けるのは危険です
人間は愚かだから
神の正しさを言葉で表すことなど出来ないからです
教理的理屈は
すでに言われたことであり
そこに執着する言説は
掘り下げているつもりでも
実際は退屈な既知を繰り返していることが多い
と経験から思います
それが教理というモンスターですから・・
同じような不自由な思考にならないために
教理べったりに巻き込まれないようにしましょう
罪人としての共感で同じ地平に立つなら
勝つことも優位に立つことも意味がなくなり
人間の世界を掘り下げる努力の
経過においても結果においても
党派的争いを生むことはありません
(2016年02月29日)