ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2016年04月

毎度、半端なことしか書けませんが・・
 
 
  批判精神
 
 
キリスト信仰の批判は
一般の思想や政治の批判とは異なる
 
キリスト者には
キリスト者らしい弱さがある
 
弱く低い立場が信仰には必要だ
というより
弱く低いゆえに信仰に惹かれ
導かれてゆく
 
その弱さを微塵も見せないのは
自分のことを
神に任せることが出来ないので
自分で守ろうとする者だ
 
それは神の導きの力を信じるのではなく
人が自分の神を守ろうとする態度に等しく
信仰とはどこまでも対立する立場である
 
強くなってはいけないということではない
 
キリストに縁づいた人は
強さの中にも弱さを持っていて
そのことを知っている
 
キリスト者は人間だから
・・という以上の理由はない
 
弱い人ほど幸いだというのは
信仰によって
弱さを隠す必要がなくなるからだ
 
強者が弱者に為し得ることを
恐れない勇気こそが
信仰からの瑞々しい賜物である
 
弱さを見せてはならないと
意地の悪い反応しか返さない者を批判している
 
そういう者は
超常の全能の神を知っていて
それに見合う自分を想定して
どこまでも強い立場で
この世に臨もうとしている
 
彼にとって
弱さを誇るとは
弱さが強くなったから誇ることであり
 
それはキリスト信仰とは
かけ離れたスタンスであるから
 
弱さを見せず
どこまでも強い自分を表そうとして
弱さをひたすら隠そうとする者を批判している
 
キリスト者は
弱さが信仰によって強くなるのではなく
弱さのままで
この世のいかなる力にも
屈しないだけの強さを
神が表わすことを信じている人々である
 
 
(2016年04月25日、同日一部修正)
 
瑞々しい(みずみずしい)
臨む(のぞむ)
 
 
 
 

 
 その名は不思議
 福音と宗教
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27409357.html
  の私のコメント、これらは既に削除されています。
  表現など、若干編集、
 
 
何も聞かないことで、ほっとするシャロムさん、何もしないで、ほっとしてください。その方が、まだマシです。シャロムには、隠し事、裏の小細工、闇の悪巧みがあると、知っている者は知っている。誰かと言えば、神様です。あなたが何をやっても、福音伝道にはならない。あなたは、裏切って偽善者になったままだから。反対意見を認めない、無視と、削除の徹底は、「削除します」と言えば正当化されるのですか。美辞麗句しか語れないシャロムさん、どんなに飾っても、あなたは、毎日、いい気持ちになりたい欲望だけで、自分の立場を守ろうとする。反対意見のない片落ちのブログを書いて、いつまで誤魔化せるでしょう。あなたの快感欲望は、ちゃんとした伝道者を気取ったので、その中身の闇を覆ったので、しらばっくれる犯人のように、パンを石に変えています。
 
>神はイエスさまと聖霊さまによって、人を救い、伝えてくださいます
 
その結果が今のあなただ。
 
>人は神の言葉とみわざを人の言葉に変え、石のつぶてに変えてしまいます
 
それは、あなたが、日々語っていること、日々行っていること。神の言葉を偽って、語っていること。ここにも、自分は聖霊に従っているから、自分の言うことは、神の言葉だ、という恐ろしい偽善と、無反省の訂正不能が表れています。だから、ステレオタイプになり、いつも同じ、排せつ物になります。敬虔に見せかけた飾りの偽物しか持つことの出来ないあなたの言動の報いです。
 
>神の言葉は異言であり、人の言葉では説明できない。伝えられない
 
だから、あなたは、何も伝えられない。
 
>福音は神からの良きおとずれ、イエス様ご自身であり、神の言葉
 
そう伝えているのは、偽善を省みないあなただ。それを知ったら、あなたの削除したコメントを見たら、誰が欲しがるだろう。人は人為的に優位を作りうる、という罪と偽善の誘惑を受け入れて、闇に、ほくそ笑むあなただ。もう長いこと、偽ってきたので、偽善で飾るのは、体質になったようで、あなたは、偽善のない国のことを、語れなくなっている。
 
信仰なるものを持ったつもりの者が、堕ちてゆく一つの典型である。真実に対して、改竄された信仰は、あらゆる石で躓いたことをも隠すでしょう。瑕疵はない、瑕疵はない、そう見せかけることによって、瑕疵は日々作られてゆくでしょう。もはや、山のような偽善の数々・・・・それらをどうやって、隠して、御国へ至るというのでしょう・・・。
 
私は、日々、精魂込めて書いています。これらの文章が、あなたによって、ごみのように捨てられることで、あなたの不実は、私の喪失となって、天に積まれるからです。
 
批判する、レスを書く、レスを批判する、すると、あなたは、もう返せない、そして削除する、その繰り返し、・・。人前で恥をかくのが嫌だから、見苦しい部分は、みな消してしまう。返せるはずはない。私の書いたことには、偽ろうという悪巧みはないからだ。そうやって、シャロムは、余生を、隠蔽工作と改ざんに明け暮れて、過ごすことになる。シャローム!・・あなたの白々しい挨拶が、ほんものであったなら、・・は、ずっと仮定法になって、だから、もう使えない・・自己満足なんか、使えないので、誤魔化せないので。温もりの情感と謙遜する繊細さを失ったところに、あなたの、因業と、前科と、報いがあるのでしょう。
 
私が、シャロムを批判するのは、私にまだ、信仰があるから、信仰者として生きたいという心があるからです。それを削除するのは、小さい人が呈した疑問を一喝して黙らせるのと同じで、傲慢牧師の所業であり、キリスト信仰にも、福音にも、背く行為です。それをシャロムは「削除します」と言って、行うのだから、確信犯で、悔いないだけの太い悪意を持っている証です。シャロムが、福音と呼ぶものを、誰が受け取るというのでしょう。
表現に自由を舐めながら、表現の責任を果たさないシャロムは、根っからの悪者で偽善者なのでしょうか。
 
そうとしか思えない事実が積み重なります。天にも、地にも。
 
私は、易坊が決めつけで与える屈辱に耐えたが、シャロムは、私の辛口の批判が結果として与える屈辱に耐えない。自分で守ろうとする。自分で守るには、狡い方法で、なかったことにするしかない。彼は、それを信仰だと思っているから、ますます、罪業のしるしが溜まる。これをいったいどうやって、神の法廷で弁明する気だろう。人に対してさえ弁明の出来ないシャロムが。
 
 
(2016年04月25日)
 
 
 
 

 
  なめられないために
 
 
日本人でも
することがあるらしい
 
異常に接近する男と男
臭いほどに
 
そしてあろうことか
鼻の穴を見せ合う
黒く汚い
 
首を後ろに反らせて相手を見る
どうしても
上から見下ろしたいのだろう
 
そうしないといけない世界に住んでいるのか
 
とうとう胴か腹か
触った
 
さすがに
キスはしない
 
舐めることなど
誰もしない
 
男らしく別れるらしいのだが
 
ナルシシスト
全然治っていない
 
男らしさ
全然見えてこない
 
そうでなくても
睨み合って対峙して
鼻の穴の関係
 
日本人にもあるらしい
 
なめられないために
 
 
(2016年04月24日、同日一部修正)
 
アメリカのドラマで時々見かけるシーン・・
 
触る(さわる)
舐める(なめる、嘗める)
睨む(にらむ)
対峙(たいじ)
 
 
 
 

 
 その名は不思議
 いのちのパン
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html
  のコメント
 
 
私のコメントをいっぱい削除したのちのレスです。
 
> st5402jpさん
 
stさん、私はあなたと違って、あなたのコメントを歓迎していません。くりかえし削除すると伝えています。それでもコメントをするあなたは荒らしなのです。
 易坊さんは易坊さんの考えと易坊さんの責任でstさんにコメントされたのです。易坊さんからのコメントが80コメだと言われましたが、stさんが私に送られたコメントの数は数えてみましたか。
 昨日はstさんの易坊さんを歓迎していない、“いらっしゃ~い”と言っていないというstさんのコメントに偽りがあるので、その証拠としてstさんのコメントをコピペしたのです。
またstさんのコメントをいつも削除していますので、初めてコピペして、送り返してみたのです。stさんは送り返した私を荒らしだと言われましたが、もともと荒らしコメントとしてstさんから送られたものなのです。誰が何を言っても自分の正当化しかできない、他者の非難中傷しかできないstさん、これからもstさんからのコメントは荒らしコメントとして削除することを伝えておきます。
 神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです。
 
2016/4/22(金) 午後 8:37 [ shalom ] 返信する
 
 
以下に私のコメントを載せます。日時省略。表現上一部修正編集。
私の勘違いもありますので、補足しています。
 
 
言論において、双方向を拒み、ブログのルール上の権限によって、コメントを、未承認にしたり、削除したりする人は、言論の常識と民主主義の常識において、一方的な態度と見なされ、法律やルールではなく、言論者として、一方的で、自己中心的な行為です。ネット上のルールや個人の自由を根拠に、信仰について、他者の意見を聞かないのは、返せないか、聞きたくないという文責を放棄する行為であり、正当化できるものではありません。もし議論を拒むのであれば、誰にも見せないことです。公表した時点で文責は生じます。あなたの言い訳は成り立ちません。
 
私は、易坊のコメントを承認しています。削除と不可視化は、言論者として不当だと思うからです。
 
 >易坊さんは易坊さんの考えと易坊さんの責任でstさんにコメントされたのです。易坊さんからのコメントが80コメだと言われましたが、stさんが私に送られたコメントの数は数えてみましたか。<
 
 本来、双方の意見を出して、判断を読者に任せるべきところを、あなたのように、恣意的に取捨選択をして、よく見せようとしたり、削除して無かったかのように見せることが、不当であり、そこをあなたが理解していない間、批判は続くのです。
 
だいたいが、賛同意見だけを見ようとするのは、思想についても、信仰の考え方についても、いい気持ちになりたいだけの偽善的行為であり、キリスト信仰の福音伝道を語るスタンスではありません。そうしたいなら、キリスト信仰の記事は書かないことです。
 
“いらっしゃ~い”と言ったのは、まさにそれを書いたあなたであり、それを今否定するのは、通りません・・・・何を言っているのか。
 
 
※ 間違いがありました。失礼。
 
いらっしゃい、ではなく、お帰りなさい、でした。しかし、
易坊と仲が良いことを私に示すコメントであることは確かでしょう。
これも歓迎か何か知らないが、彼は、ふざけた書き方を時々向けてきます。
 
以前にシャロムの書いたコメントです。記事:「救いは神の恵み」
 
> st5402jpさん
 お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、何も得るものがありませんでしたか。
 ・・・
2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ]
 
※おわり
 
 
 >またstさんのコメントをいつも削除していますので、初めてコピペして、送り返してみたのです。stさんは送り返した私を荒らしだと言われましたが、もともと荒らしコメントとしてstさんから送られたものなのです。誰が何を言っても自分の正当化しかできない、他者の非難中傷しかできないstさん、 <
 
 反対意見を荒らしと決め付けて、自分を正当化し、しかしながら、自分に向けられた意見に弁明の出来ないシャロムさんは、結局、評価を拒否した文章を書くのだから、言論の自由は、成り立ちません。
 
>神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです。 <
 
 神に任せることをしないで、自分で強制力で、偽善を隠蔽したのは、あなたです。いつまで、誤魔化そうとするのですか。隠蔽する必要があれば、神が隠蔽するでしょう・・と考えれば、隠蔽が、あなたの欲望から来ていることは、明らかです。レスすれば、偽善の上塗りにしかならないことを知るべきです。神の裁きが御手にあるのです。誤魔化しも言い逃れも利かないのです。いつまで厚顔でいるつもりなのか。
 
本当に、あなたは、理路も、道理も、気持ちも、流れも、文脈も、全部無視して、被害者面するのは、やめるべきです。批判コメントが多いから荒らしというのは、批判されるようなことを書くからであり、それを罵詈雑言と同じ扱いにしてしまうのは、神を恐れないことであり、その間ずっと、あなたのオリジナルな信仰が何を正当化してくれるのか知らないが、巻き込まれてはならない自分信仰として、批判にさらされるでしょう。あなたの老後に、あなたが上に書いたような言い逃れで、あなたが平安を得ることのないように祈ります。身勝手も、自己中心も、キリスト信仰を説くなら、同じような御託を並べるのは、やめてください。あなたは、返せなかったのです。
 
記事を書くたびに、コメントを書くたびに、コメントをコピペするたびに、あなたの横暴が明らかになってゆきます。何も書かないか、キリスト信仰について書かないか、公表しないか、今のやり方でコメントを拒否す続けるのなら、これら以外には、なくなるでしょう。
 
表現の自由には責任が伴うこと、知らなかったとは言わせません。
 
あなたの言説を読めば、あなたが私の対立軸であり、私が生涯抗わなければならないことが、いつもはっきり決意を新たにされるでしょう。
 
偽りと偽善を振りまくのは、やめてください。
 
私は、好きでもない易坊のコメントを、承認して、評価は、読者に任せています。事の顛末と裁きは、神に任せています。
 
あなたのように、批判されて、まともな反論が出来ない人の書く文章は、批判と合わせて読まれない限り、あなたは、いい気持ちで書いたつもりでも、決してキリスト信仰の文章にはならないということです。
 
あなたのブログについての考え方は、あまりにも、甘い、と言う他ありません。ほかの、政治ブログ、思想ブログ、などは、どうでしょう。散々批判を浴びて、管理人が処理するしかない境遇にあります。誰もが、苦労して、記事を工夫して、辛うじて、ブログを維持しているのです。ネトウヨのコメントにさえ、レス出来ないのに、あなたは、好きなことを書いて何が悪いと思っている。あなたは、ブログについての考え方が甚だしく甘いのです。
 
私たちは、このネットの世界を、例えば、ISが紛れ込んでいるかもしれない、カルトも書いているだろう、政治に至っては、両極端から、様々の、極論を浴びせられる環境と流れの中で過ごしているのです。そういう世界で、好きなことを書けばいい、というような、信仰と趣味を同じに考えるやり方が、通用するわけはないのです。覚悟をもって書くべきだり、覚悟がないなら、宗教については、ここでは、キリスト信仰については、書いてはならないと思います。攻撃がどうの、コメントが多いからどうの、そんなことを云々することで、解決することは、何もありません。
 
 

以上の私のコメントも、すべて削除されました
シャロムは、趣味や日記的ブログでの、好き嫌いの自由を、信仰という、間違えばカルトにもテロにもなりかねない、大きなテーマに、勘違いして混同して当てはめているようです。だから嫌いだったら拒否していいと思っているようです。また歓迎していないとシャロムは言っていますが、批判ですから、それは承知の上です。
 
 
(2016年04月23日、同日一部修正)
(2017年11月21日、一部修正)
 
 
 
 

 
  水滴
 
 
水たまりから跳ねてくるのは
当たって
どう形が変わるか分からない水滴なのに
 
跳ねただけで
必要なものを与えた気になっている
 
その与え方なら
ホースでぶっかけても届きはしない
 
水滴に映る景色も色も
見えないことを知らないまま
跳ね飛ばした水面の行方を尋ねても
もう水滴は発したものではなく
受け取りも拒まれている
 
いかなる姿も形も
水は主張しない
 
一度でも
確定した名をもって到達したことはない
 
水をわきまえよ
 
色と姿を想う切なさは
刺激された情意の川に流されながら
これではならぬと抗って
 
水から水へ跳びはねる
 
 
(2016年04月23日、同日一部修正)
 
跳ねる(はねる)
滴(しずく、雫)
跳ぶ(とぶ)
 
 
 
 

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