理路
言葉を勉強するということは
言葉の頼りなさを知るということだ
自分は出来ると論理の結論らしきものを
決めつけてぶつけるのは
どこかに無意識の過剰な先入観が
当たり前になっている証拠だ
ひとつの単語にしても辞書を引けば
類義語による用例が書いてあるのは
類似表現によって
概念形成を促すことしか出来ないからだ
しかも
ひとりひとりの概念を
直接確認することは不可能だ
そのような言葉で
厳密な論理が成り立つはずはない
すべて整っているかのような
結論だけを石のようにぶつけてくるのは
むしろ作文が苦手です
と言っているのと同じだから
自己満足の末路として
誰にも受け取れないようになったことで
何の気遣いもしたくない人生を表すだけだろう
言葉を使って交流するのは
そういう曖昧なものをぶつけるのだから
自分の概念から
短い文だけを書くだけなら
殆ど通じていないと思うべきだろう
その謙虚さを持つ人は
どんな言葉なら通じるか
共有部分を試行錯誤で考えながら
さらに工夫して
または複数の表現によって
相手の概念形成を刺激するしかないのだろう
(2016年04月22日、同日一部修正)
曖昧(あいまい)
殆ど(ほとんど)

