パンくずの
人がキリストを信じるようになるのは
多くの場合、
聖書を読んで癒やされた
という体験を持つからだろう
それはそのまま
キリストとの縁を感じることであり、
それが忘れられないものとなるからだ
聖書のキリストに癒される
という体験の共感と共有において
キリスト者は交わりを求める
聖書のキリストに出会うことの幸いを知り
キリスト者は福音伝道の志を持つ
それで十分なのに
何故か一部の者たちは
キリストが救い主であるだけでは飽き足らず
その御方に関わる自分を高めないと気が済まない
すなわち
神の領域の言葉を欲するか
神の領域からの働きと
自分を直結させようとする
言葉が欲しいのだ
異言、預言、啓示、
さらに、神と一体、神の子の資格、
そして、聖霊の注ぎ、
これら特別のものを
特別の言葉で
自分に結び付けないと気が済まない
神格の言葉が欲しいのだ
神格を自分に結び付けたら最後
次は自分の言動の絶対化につながってゆく
しばしばこの世を敵視し
この世の人々を上からぼろくそに言い
自分は違うと言いたい
自分と同じにならないと
罪の報いは死だという脅しに近くなる
自分の背きを罪を偽善を棚に上げる
かくして
神格にまつわる言葉は
自分というキリスト者だけが分かっている専門用語となり
この世の一段高い所から
人々を見下ろすようになり
福音伝道は上の自分から下の人への憐れみの施しになる
信仰?の完成を讃美する
カルト的自尊信仰の完成を讃美する
・・いつのまにか地上は
傲り高ぶった悟り顔の預言者だらけ・・
これらすべては
与えられたものにただ感謝して
与えた御方を救い主と信じて
パンくずの奇跡に感謝する信仰に反している
(マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
15:23
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
15:24
するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
(マタイ15:22―28、新約聖書)
※ いくらなんでも、ここを読んで、パンくずの霊力を信じる人はいないでしょうから、解釈は省きます。キリストの言葉に反応して、へりくだる女性の態度に、キリストは反応して義を与えているのです。
「子供たち(イスラエルの民)への恵みを小犬(異邦人)に与えるのは、よろしくない」というキリストの言葉に対して、カナンの女性は、「小犬もその主人(主なる神)の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と返している。これ以上ないほどに、へりくだって、かつ、言うべきことは言う、すなわち、一途に救いを願う、という信仰の態度である。キリスト以外に頼るあてがなく、誇るべき何ものもなく、隠し事も偽りもないから、女性は言えるのだろう。
なかなか言葉に尽くせないが、キリストの言葉に反応した人間の言葉と態度に表れたところの、人間が共感できる心、それを受け取ることのみが信仰である。それは、教理よりも、はるかに、人間が知るべき大切なものである。それが分からない者は、新しい皮袋に入れるものを、知らないか、失っている者である。
(2016年11月25日)

