高ぶる嘘ばかり
新しい命に生きるかぎ(2)
2016/12/30(金) 午前 9:55
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27873482.html
>主イエスを信じるあなたやわたしも聖霊によって新しいいのちが与えられました。
>ただ問題は、そのいのちに生きているかどうかです。
>そのいのちに生きることを妨げているものが、「アダムのいのち」です。
>その問題の解決は十字架にあることが分かってこられたでしょうか。
>このみ言葉は知っていても、それを信じて、自分のものとしている、
>あるいは自分のものとしようとしているクリスチャンたちは意外と少ないようです。
聖書の中の、キリストと、その時代の生きている人々との関わりも、その情緒も、感じることの出来ない者は、前にも言ったように、神のわざである奇跡にのみこだわり、超常についての独善的断定のみに注目し、ここでは十字架に注目し、新しい命に生きる、という言葉だけを言って、しかも、それを自分のものとしているクリスチャンは少ない、と豪語しています。自分がそうだ、十字架の贖いによる新しい命を自分のものにしている自分を見習え、と言わんばかりに。
>ローマ6:6
>わたしたちは、この事を知っている。
>わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
>それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、
>罪の奴隷となることがないためである。(口語訳)
罪の奴隷となることがないため、と聖句が語っているのに、一番やってはならない罪である偽善にまみれて、それを人にも神にも隠蔽しようと謀りながら、この聖句を挙げるとは、大した根性・・。
>主イエスが2000年余り前に十字架につけられたことは歴史的な事実でした。
>しかし、それはまた、全宇宙的な出来事であり、霊的な出来事でした。
>あなたやわたしの「古き人」もその十字架に一緒につけられて死んだのです。
>死んだという実感がないのですか。
>わたしもそういう実感はありません。
>しかし、実感があってもなくても、十字架で「古き人」のあなたは死んだのです。
>これも信仰によって受け取らなければならない霊的な事実です。
二千年前に死んだと言われて、そうですかと、その超常の意味を分かる人がいるのでしょうか。言葉だけを受け入れて、それで、自分は実感がなくても受け入れると、信仰によって受け取るのだと、断言する者は、何か大切なものを言葉だけ、実感があってもなくても受ける、とまで言ってしまうときに、人間らしく罪びとの不全として正直に、分からない、と言う謙譲と温もりを捨てています。彼は、その辺の信仰の芯が全く分かっていない。そして、言葉の辻褄合わせばかりやっている・・。
実感のないものについては、実感がないと言うべきで、分からないのかと言われたら、分からないと答え、それは神に対する罪であると言われたら、確かに私は罪人ですと答えるべきなのです。
>主イエスが十字架で流された血によって罪が赦されたことはどうして分かりましたか。
>実感がありましたか。
>実感はなくても、主イエスを信じ、み言葉を信じて受け取った後、
>平安が与えられ、少しづつ分かってきたのではありませんか。
私たちに信仰の平安が与えられるのは、十字架が贖いで、今の人も、一緒に死ぬ、という、わけが分からないが生まれ変わりで、古い人として罪を犯す者ではなくなり、罪が赦されるから、犯すこともない、と聞いたからでしょうか。教理話の神の超常の辻褄だけに、人は感動できるでしょうか。私たちは、人間の情感も理性もなくなるのが良いのでしょうか。頷くだけの顔と口と顎関節と、事柄の表面だけをなぞって、分かったふりが、救いなのでしょうか。それで、、彼のように、聖書語だけをしゃべり、逆らう者を闇から闇に葬り、隠し事の上に、神を讃美する以外何も考えず、薄笑いを浮かべて物静かに悟ったふうのジジババになればよいと言うのでしょうか。
人間として感動できる心と、人間としての思慮があるからこそ、能力にかかわらず、信仰者は、余計な自尊の支配を受けないので、分かる所は分かり、分からないところは、分からないと、正直に言えるようになるのです。
そもそも、聖書を読んで、惹かれるのは、教理話の辻褄合わせではなかったはずです。聖書に惹かれるのは、キリストを好きだから、キリストに興味を持つようになったからで、このような人がいたのかと驚いたからではなかったでしょうか。その気持ちは、決して超常ではなく、人間ならば誰でも、その心にも響くだけの愛と慰めを、聖書が語るからです。
>古き人が十字架で死んだことも同じです。
>何かある度に、絶えず、この古き人は頭をもたげてきます。
>しかし、その都度、その古き人は十字架に死んでいることを認めるのです。
古きままの人である彼にとっては、罪とか偽善とか隠蔽とか、そういった話題が、自分を指してくるので、邪魔になっているだけです。だから、相手を、返事する価値もない荒らしと見なして、侮辱したのち、無視し続けているのです。古い人、俗の欲と価値基準を持ち続ける人が、この世での自尊を損なう反省をしなくて済むために、二千年の重みではなく、頭の中の軽石に、誰も理解はできない神とキリストの言葉面だけの辻褄を乗せて、さも聖なる尊い話に見せかけているだけなのです。神もキリストも裏切って、偽善の罪を犯し続けていて、バレないように人を無視し続ける自己完結自分信仰者が、ごわごわの衣を振り回しては体臭をまき散らし、文句を言うなと汚い唾を飛ばしているだけなのです。
>十字架の後に何がありますか。
>そうです。復活です。
>あなたやわたしの古い人が死ねば、復活のいのちの希望があります。
>神の新しいいのちに生きることが可能になります。
>ハレルヤです。
そう言う偽者たちは、ことさら、奇跡、特に、肉体の復活にこだわります。そして、肉体の復活を信じている自分は尊く、信じない者はこの世に毒されていると見下し、その分、高ぶっています。
既に、キリストについては、霊的精神的、そして不可知的導きによって、私たちは、既に、キリストの、霊的精神的、そして不可知的復活を信じる者であります。
死人の肉体の蘇りは、人間にとって分かるはずもないこと、神は、わざわざ、そのことを信仰の有無を測る基準となされるでしょうか。
あとは、聖句引用です。
>しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
>その測り知れない力は神のものであって、
>わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
それを知りながら、自分のブログ上の強制力をもって、反対意見を削除し、コメント欄を次々に閉じているのは誰か。
>わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
>迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
反対意見を、自分に加えられた艱難と見なして、窮しない、行き詰らない、と聖句を盾に、彼は言っています。これを、自分中心の信仰による、被害者意識と呼んでいます。自分の至らなさを考えることが出来なくなっているのです。こういう者の闘う敵は、神の敵とは関係なく、すべての彼に対する反対者であり、反対者と手段を選ばず闘い、反対者を封殺し無視することを耐え忍ぶと言い、その滅びを願うのです。それは、神の計画とは全く関係なく、彼は敵をいっぱい作り、反対されることを迫害と呼び、反対者を迫害者と呼びます。つまり、彼は、神の名をみだりに唱えて、偽善の大罪を犯しながら、自分のための偽りの三文芝居を、神に見せているのです。
また、神を、絶対の神ではなく、神を、いつも自分の味方をしてくれる、自分の守り神と信じているのです。信仰は、神を絶対と信じ、ゆえに自分を相対化することですが、彼は、自分の信仰の、相対化ではなく、絶対化に至っているのです。それは、自分自身の絶対化に他なりません。
>いつもイエスの死をこの身に負うている。
>それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
>わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。
>それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
>こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
>(新約・コリント人への第2の手紙4章7~12節)
彼は、イエスの死を負うてはいません。負うていたら、神に対する自らの不全も恥ずかしさも知っているはずですから、他者の異なる意見のブロックや削除など出来ないはずです。彼は、イエスのために死に渡されてはいません。何故なら、彼は、自分の正当性を、他者のブロックや削除という汚い強制力の手段で守ろうとしています。キリストのいのちは、彼のうちに働いていません。言ったように、彼は、この世の価値に仕え続けているからです。
それと、この聖句は、パウロが書いた書簡です。身の程を弁えず、同じことが、自分にも成り立つと思うのか、パウロと肩を並べるかのように、預言者である使徒パウロに自らをなぞらえている、彼なのです。どこまで高く思い上がるのでしょうか。
あくまで推測に過ぎませんが、彼は、すでに、神によって口を奪われているのかもしれません。だから、口を開き、言葉に表せば、反信仰の、心も思慮もない、おかしな記事になるプロセスなのかもしれません。・・という恐るべきことを、最近は感じています・・。
この記事を読まれる方は、批判の部分だけでなく、それよりも、所々に挟んでいる、信仰についての私の信仰観の文章を読んでいただきたいと思います。そして、よかったら、返事を書けるかどうかはわかりませんが、感想をお寄せください。また、私の至らぬ作文ですから、誤字脱字、入力ミスや変換ミスもしばしばあり、ご指摘いただければ助かります。以上。
(2016年12月31日)