最後まで残るもの
信仰があっても
お伽話のような
幻のような空約束なら
希望があっても
いつ実現するか分からず
空約束への希望なら
永くは続かない
信仰には愛が必要
希望には愛が必要
温もりと潤いを与えるのは愛
人の愛でも
神の愛でも
大切にするという心は同じである
人の愛でも
ひとときの情熱は本物で
ひとときの志も本物で
少なくともそのとき偽善ではないのです
人は不全だから
純粋な愛を永く保ち得ないのです
人の愛は
保とうとすると傷になりそうなほど
人の愛は
神の愛ほど永くは続かないのです
その問題に対して
信仰と希望と愛はいつまでも存続する
とパウロは言って、さらに
信仰と希望よりも愛を最も大いなるものとしています
これは言葉では分かりにくいことですが、
信仰を持てば希望を併せて持つけれど、
信仰が、すべてを解決してくれる言葉の集まりではない
というようなことでしょうか
(コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:1
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
13:12
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13:13
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
(1コリント13:1―13、新約聖書)
よくは分からないけれど、信仰の中心である神の愛は、信仰の言葉ではなく、人間の愛にのみ反応するのかもしれない。神が救いを与えるのは、信仰を理解したからではなく、人が頭を垂れ、身を低くして神の愛を受け入れ、希望を受けたしるしとして祈りを捧げたそのときの人の音信を、神は見逃さないからかもしれません。鼻の穴を見せるところではなく、人間の本当の愛は、頭を垂れるところに生まれるからでしょう。
つまり、信仰は人の言葉ではなく、聖書の神の言葉面信仰でもなく、形を持たない心の在り方として、言葉を超えて、言語外の心の在り方を示すものになります。したがって、信仰は、信仰による希望が言葉に表されたものではなく、心の在り方と向き方によるのでしょう。ゆえに、その心の在り方と向き方によって大きくゆがんだり壊れたりしないように、大切な心の在り方と向き方を、温もりと潤いを持つ賜物として、息と涙を表象とする命の深みを覗く視線の先に、見えない愛を呼んでいるような気がします。
※
信仰の言葉だけを振り回して、愛を感じさせることのない人もいます。愛を感じないのだろうか、とも思います。大切にする気持を持てないから、希望も、愛も、信仰の言葉面だけで済ませてしまうのです。恐らく愛を真剣に考えたことがないのでしょう。愛を信仰に伴って身につくもの、という気安い考え方をしているのかもしれません。そのように、信仰について多弁だが、観念ばかりで、心に残らないとか、希望を語るけれども、信仰?の空約束の幻想ばかりとか、中身のない思考からは、いろいろな、そのとき中身に値しなくなった言葉が並ぶでしょう。
そういう言葉面信仰者?によって、汚されてゆく必然を持つのが人の世界と人の世界の言葉なのです。ゆえに、パウロは、言葉で表せない最も大いなるものを、人の言葉の固着性や強迫性から救ってくれる信仰を唱えているとも言えるでしょう。愛という言葉が、難しいというか、恥ずかしいというか、なかなか、使うのは勇気が要って、使うと何やら恥ずかしい気持ちになるのは、愛という言葉に相応しい言動が、人には、ためらいを伴うほどには、不全というものを、人が既に感じているからでしょう。人は、愛の前に、いつも恥ずかしく、ゆえに、愛という言葉を、恥を知る人には、愛にまつわる理想と当為を守れない自分に不釣り合いだと、息と涙が教えてくるのでしょう。
いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つだと言う。
信仰には愛が必要で、希望にも愛が必要だから、
このうちで最も大いなるものは、愛である、と思う。
(2017年01月31日、同日一部修正)
頭を垂れる(こうべをたれる)
言葉面(ことばづら)
文中の「鼻の穴」については、