ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年01月

 
 最後まで残るもの
 
 
信仰があっても
お伽話のような
幻のような空約束なら
 
希望があっても
いつ実現するか分からず
空約束への希望なら
 
永くは続かない
 
信仰には愛が必要
 
希望には愛が必要
 
温もりと潤いを与えるのは愛
 
人の愛でも
神の愛でも
大切にするという心は同じである
 
人の愛でも
ひとときの情熱は本物で
ひとときの志も本物で
少なくともそのとき偽善ではないのです
 
人は不全だから
純粋な愛を永く保ち得ないのです
 
人の愛は
保とうとすると傷になりそうなほど
 
人の愛は
神の愛ほど永くは続かないのです
 
その問題に対して
信仰と希望と愛はいつまでも存続する
とパウロは言って、さらに
信仰と希望よりも愛を最も大いなるものとしています
 
これは言葉では分かりにくいことですが、
信仰を持てば希望を併せて持つけれど、
信仰が、すべてを解決してくれる言葉の集まりではない
というようなことでしょうか
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:1
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
13:12
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13:13
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
 (1コリント13:1―13、新約聖書)
 
よくは分からないけれど、信仰の中心である神の愛は、信仰の言葉ではなく、人間の愛にのみ反応するのかもしれない。神が救いを与えるのは、信仰を理解したからではなく、人が頭を垂れ、身を低くして神の愛を受け入れ、希望を受けたしるしとして祈りを捧げたそのときの人の音信を、神は見逃さないからかもしれません。鼻の穴を見せるところではなく、人間の本当の愛は、頭を垂れるところに生まれるからでしょう。
 
つまり、信仰は人の言葉ではなく、聖書の神の言葉面信仰でもなく、形を持たない心の在り方として、言葉を超えて、言語外の心の在り方を示すものになります。したがって、信仰は、信仰による希望が言葉に表されたものではなく、心の在り方と向き方によるのでしょう。ゆえに、その心の在り方と向き方によって大きくゆがんだり壊れたりしないように、大切な心の在り方と向き方を、温もりと潤いを持つ賜物として、息と涙を表象とする命の深みを覗く視線の先に、見えない愛を呼んでいるような気がします。
 

 
信仰の言葉だけを振り回して、愛を感じさせることのない人もいます。愛を感じないのだろうか、とも思います。大切にする気持を持てないから、希望も、愛も、信仰の言葉面だけで済ませてしまうのです。恐らく愛を真剣に考えたことがないのでしょう。愛を信仰に伴って身につくもの、という気安い考え方をしているのかもしれません。そのように、信仰について多弁だが、観念ばかりで、心に残らないとか、希望を語るけれども、信仰?の空約束の幻想ばかりとか、中身のない思考からは、いろいろな、そのとき中身に値しなくなった言葉が並ぶでしょう。
 
そういう言葉面信仰者?によって、汚されてゆく必然を持つのが人の世界と人の世界の言葉なのです。ゆえに、パウロは、言葉で表せない最も大いなるものを、人の言葉の固着性や強迫性から救ってくれる信仰を唱えているとも言えるでしょう。愛という言葉が、難しいというか、恥ずかしいというか、なかなか、使うのは勇気が要って、使うと何やら恥ずかしい気持ちになるのは、愛という言葉に相応しい言動が、人には、ためらいを伴うほどには、不全というものを、人が既に感じているからでしょう。人は、愛の前に、いつも恥ずかしく、ゆえに、愛という言葉を、恥を知る人には、愛にまつわる理想と当為を守れない自分に不釣り合いだと、息と涙が教えてくるのでしょう。
 
 
いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つだと言う。
 
信仰には愛が必要で、希望にも愛が必要だから、
 
このうちで最も大いなるものは、愛である、と思う。
 
 
(2017年01月31日、同日一部修正)
 
頭を垂れる(こうべをたれる)
言葉面(ことばづら)
 
文中の「鼻の穴」については、
私の記事「なめられないために」参照
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18424294.html
 
 

 

 
  笑う地獄
 
 神による命の道
 2017/1/29(日) 午後 3:23
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27924714.html
 
 釘宮父娘 宣教3題
 2016/7/30(土) 午前 7:01
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27609427.html
 
 讃美と感謝をささげる
 2012/2/27(月) 午前 11:31
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22313057.html
 
 感謝の領収書
 2011/3/6(日) 午前 8:44
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19227151.html
 
 いのちの道
 2010/4/11(日) 午前 8:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/13913962.html
 
 
勘違いに始まった信仰?が、信念というほどのものになり、訂正不能になって、ただ体裁を整えることだけに終始して、自分自身の罪に全く注意を向けなくなり、熱心に、幸いを求めているつもりで災いを振りまいているのが、彼、シャロームです。
 
間違った信仰は、大方、自分信仰になります。大方、訂正不能になります。大方、人の言うことを聞かなくなります。大方、悪いことはみな人のせいにします。大方、人間性を壊してゆきます。大方、これはおかしいだろうとか、どういう意味だろうとか、より深い意味を考え求めることがなくなります。人間としての信仰の良心からの直感が働かなくなります。
 
そのようにして、考えることをやめ、感じることをやめ、聖書に書いてあるということを、人道から脱落してゆく自分の言い訳にして、中身のない言葉面だけで神に赦され救われることを決めつけて、感謝も讃美も、すればするほど、裏の邪悪な心を目立たせるだけの催吐剤にしかならないのです。
 
理由もなく、いつも静かな笑みを浮かべ、ではなく、へらへら笑っていて、丁寧で穏やかな人物に自らを当てはめ、何についてでもなく、感謝、感謝、そして、これまた、理由もなく、讃美、讃美、に明け暮れている彼、シャローム氏は、一方で、彼の罪と偽善については、バレないように証拠を次から次へと隠滅しています。そういう彼を救う神?を信じられますか。そういう人を信頼できるでしょうか。
 
これこそ、今までも、彼の特徴であるところの、悪をなしながら善を語り、神に背きながら神を讃える、という二律背反の矛盾さえも分からない鈍麻と無知と無恥と厚顔だけが残った、言い放つだけの捨て台詞のように、わめく呪いとなって災いを振りまく、彼、シャローム氏の、非人間信仰のもたらす善悪の木の実なのです。
 
迫害が迫って来ていて今日明日の命の保証もないという状況で強い言葉で激励し結束を計らなければならなかったのだろう、という歴史の状況判断による共感もなく、せっせと思考停止を勧めるだけの、彼、シャローム氏らしい?記事です。
 
この聖句については、現代においては、唱えるだけでは神に世辞を言っているようなもので、救いにつながるとは限らないことを前にも書いたのですが、言葉面に魔法を期待し確信する、彼、シャローム氏は、他者の記事など読まないので、感謝と讃美しておればよいと、悪と偽善で空回りする人生から、いったいどんな恐ろしい結末へ、スピンオフしてゆくのでしょう。
 
何を感謝しているのか、何を讃美しているのか、時々に考えるということなどゴミのように捨て去って、背きの道がいよいよ佳境?に入ってきたからか、思い込み信仰が落ちてゆく地獄の典型が、ここに既に表れています。自分だけで完成した確信?の、見かけの言葉面だけで、阿鼻叫喚を現出している惨劇、神様だけは自分を分かっている!、と確信して改めない、という、悪霊の悪例としての、どの世界でも成り立たない自己中心が根っこにあることを見逃してはいけません。・・誰も好意的に関わってはいけないと思います。
 
>私たちの周りには、感謝すべきことがあふれている、というだと思いませんか。
>私たちは「当たり前」という思いがいつも強くて、
>感謝することを見失っているようですね。
>あなたを愛し、あなたの最善を導いてくださる神様へ、
>先ず感謝をささげ、あなたの口に感謝を満たしていきませんか。
>感謝することを探すことも楽しいものですよ。
 
>感謝することを探すことも楽しいものだと思いますが、
>ひょっとしたら喜び、感謝することは探し回ることも必要ないのでしょうね。
>いつも喜んでいなさい
>・・すべての事について、感謝しなさいと書かれているのですから。
 
彼は、感謝するべき理由を何一つ書いていません。彼の言い分は、聖書に書いてあるだろ、文句を言うな、というだけなのです。だから、二律背反の矛盾も平気なのです。このように、彼は、一見冷静な口調で言ってきます。どうして、この世に生きている人間が、理由もないのに、いつも絶えず、神に対して感謝と讃美が出来るでしょう。はっきり申し上げますが、このような常時讃美というのは、現代では、感情を状況によらず一方向に限定するなど、人間ならば出来ないことです。生きた人間ではなくなることを求めて死の証しを立てている彼に惑わされないでください。私たち人間は、まだ動く感情と思慮をもって、生きているのです。
 
彼は、彼の「当たり前」をすり込もうとしています。感謝するべきことが溢れているのならば、なぜ、人の意見を封殺し、しかも、それを隠さなければならなくなっているのでしょう。少し考えれば、上のような彼の「思いませんか」「ですね」で特徴づけられる丁寧語が欺瞞であることは分かるでしょう。感謝と讃美で、自分の罪と偽善を誤魔化しているだけなのです。
 
>この二つの言葉は「絶えず祈りなさい」という言葉でつながっています。
>それはきっと私たちの良し悪しの判断を超えたことなので、
>自分で判断しないで神に祈りなさい、ということかもしれませんね。
 
そう思いたいのが、彼、シャローム氏なのです。「自分で判断しないで」と彼が言うのは、目の前に積まれた罪と偽善の、今にも崩れそうな山を、見ないで済ませたいからでしょう。人を傷つけてもなんとも思わず、どんなに非道な言動も気にせず、バレなければ、相変わらず、聖書の先生として、笑顔を振りまいて世に受け入れられようとしている、とても卑しい処世です。気味の悪い文章です。考えるな、感じるなと、うっすら脅迫していることに気づきませんか。こういう気色の悪い人が、30年余り教会で、牧師として説教をしていたのです。身の毛が弥立ちます。
 
>なによりも祈りをもって、神を信頼し、ゆだねてみなさい。
>そうすれば神がなぜそうするように望んでおられるかきっとわかりますよ。
>わからなくしてしまうのは自分の良し悪しの判断を手放さず、
>善悪の木の実を食べて生きているからですよと言われているようです。
 
嘘ですね・・。神を信頼しているのなら、なぜ、他者のコメントを削除して、不祥事など、何もなかったふりをするのでしょう。批判するのは善悪の木の実を食べているからだと脅迫し、思考停止と感情鈍麻を熱心に勧めています。食えない木の実を。
 
>イエスは十字架の辱め、苦しみ、死をも
>神の御心として受け入れ歩まれたのですから。
>イエスはそれが神による最善の道であり、
>命の道であると信じておられたのです。
 
キリストは神ではなかったのですか。キリストが神の御心を受け入れる必要があったのでしょうか。キリストが神の道が最善だと、キリスト者のように信じる必要があったのでしょうか。キリストまで、自分の独善解釈の掌に置くつもりか。
 
>私たちにとって命の道は自分の良し悪しの判断を手放す
>という十字架の道であることを示し、
>その道は死で終わらず、
>神の命に生かされる道に続いていることを示されたのです。
  
彼は、こういうことを繰り返すだけになっています。あたかも、彼が、神の側にいるかのような、上から教える態度で、彼が目覚めることを、彼自身が、絶望に変えています。何故なら、上のほうに、そして今までの私の記事に、書いたように、彼が、白々しい讃美をして、人に教えようとするとき、その時その場で、彼のしてきたことと言ってきたことが、彼を退けるからです。これは、これからも続くのでしょう。
 
 (ヨハネの第一の手紙、口語訳)
4:7
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
4:8
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
4:9
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 4:11
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
 (1ヨハネ4:7―12、新約聖書)
 
人間同士の愛が、神の愛と無縁でないことを書いてあります。そのことは人間同士の怒りが、神の怒りと無縁でないことをも示しているのかもしれません。人間ならば・・云々、で分かることがあります。それが人間に与えられた直感力です。これがいつも正しいわけではないが、この必要性を求めない人は、悪意と義憤の区別も、善と偽善の区別も、つかなくなって、恐らく、彼、シャローム氏のようになるのかもしれません。
 
人間的共感など必要ないと言ってきたから、シャローム氏には、自分を許し救う神?しか眼中になく、戒める神も懲らしめる神も眼中にありません。相手を決めつけて被愛妄想のストーカーになって、さらに神が愛のストーカーであるかのように、常時平安無罪信仰という、とんでもない地獄の道を宣伝しています。
 
※ 
 
今日は、シャローム氏の記事が、あまりの偽善と、あまりの傲慢で出来ていて、怒りの度合いが、今までより上がって、私のほうが爆発しているところがあると自覚します。ますます、人間としての感性も知性も、彼は、彼の神?のために焼き尽くしてきたのでしょう。彼の言葉面だけの丁寧語と、彼の言行不一致は、まことに有害だと思います。どうか彼の記事を読んでも、彼に近づかないでください。彼に対しては、何度批判しても、読まない人には通じないのは分かっていますが、しばらくは、これからも続くだろう・・と思っています。失礼。
 
 
(2017年01月30日)
(2017年01月31日、一部修正)
 
 
阿鼻叫喚(あびきょうかん)
欺瞞(ぎまん)
身の毛が弥立つ(みのけがよだつ)
掌(たなごころ)=てのひら
 
 

 

・・感想と想像に過ぎません・・
どうも誤解されやすい記事になってしまっているようなので修正しました。
 
 
  AI
 
 
人工知能AIは人格を持つかどうかについて考えてみたのだが・・
 
 (ある意見(想定):
   ありえない、機械が知能だけでなく人格を持つなんて。
   意識や感情を持つのは、神の被造物である人格のみであり、
   機械にはない。)
 
こういうことを言うのは、熱心な、古いタイプのキリスト者だろう。
 
人間は、刺激を受けて反応する反応系であり、その存在を、感覚で確かめられると思われているが、存在の真の実態は、人の感覚というフィルターを通してみることしか出来ない人間にとって、思っているほど確かなものではない。
 
AIは、コンピューターの進化型なのだろう。入力によって処理された情報には、対応する出力がある。そして、AIは、入力情報を記憶し整理して、学習することも出来るシステムのようだ。そして内部処理の結果として、AIは、入力と出力の新しい系、つまり、新しいプログラムを作成することも出来るのではないか。
 
 (ある意見(想定):
   感情はどうだろう。機械が感情を持つことはあり得ない、
   ということは、意識を持つことがあり得ない、)
  
と思うのと、同じくらい、分かったような気になっている。
 
しかし、例えば、ある種の軽蔑表現に対して、怒ったような反応を出力させることは可能だ。そのプログラムの仕組みが高度で複雑になった場合、それが人間の感情に酷似してくるだろう。人間の感情と、AIだからということ以外の根拠で、異なるということを証明できなくなるかもしれない。人間は、AIとは違うと思い続けても、両者の判断力のみによって区別することは出来なくなるかもしれない。意識についても同様である。人間と違って、AIの能力は、計算と記憶においては桁外れである。さらに、プログラムは、どこまでもバージョンアップできるのだ。
 
 (ある意見(想定):
   だから、似せることは出来ても、所詮、仮想に過ぎず、
   だから作ることなど出来ないんだよ、意識を持つ人工知能なんて
   あっては困るからない。)
 
・・という気持ちが先入観の前提としてあるようだ。
 
このことは、以前なら、頷くことが出来た。しかし今後は、区別できなくなることがあるかもしれない。少なくとも人間は、脳が壊れれば、たやすく破綻してしまうのだから、私たちの精神機能は、脳という神経組織の入出力と記憶と学習能力に依存している。AIの反応系が、人間と同じくらい、または、それ以上に複雑になったら、それを、反応の性能と在り方だけでは、人間ではないということは証明できなくなるような気がする。
 
人間の意識と感情が、脳の仕組みのフィードバックの在り方なら、AIの仕組みのフィードバックの在り方として、同様になるかもしれない。そのとき、AIは、自動生成される自身のプログラムのフィードバックを把握しながら、もはや、何らかの変化か成長として認知するかもしれず、それをAIは、成長した、と認識し記録し記憶して出力してくるかもしれないのだ。
 
言ってみれば、AIが外に向かって表出する感情や意識のようなものを、私たちは、そう見えるだけだと思っているが、しかし、それは、ちょうど、私たちが、脳の仕組みの本能から出発して、複雑になり、感情や意識と名付けたのと似ている。人は人を外面からしか見れないのである。
 
そういう意識や感情を、私たちは、特別不可侵の神が与えた叡智と思っているが、AIの感情や意識と同様に、それは、脳や体の仕組みが活動するときの反応の自覚であったり、そう感じるだけの、そしてそう見えるだけの仮想に過ぎないのかもしれない・・。
 
動物でも機械でも、人間がなじむと愛情が生まれ、家族に近くなる。同様のことは、AIにも、当然、起こってきて不思議はない。機械だからと、ある日、飽きたから壊す、ということが出来なくなる場合が出てくるだろうと推測できる。「私を殺さないで、一生愛して」と何度も懇願する計算高い?AⅠに対して。AIがどういう結果をもたらすか、もはや、人間には予測も追うことも出来ず、負えるのはAⅠだけ、ということになるのではないか。
 
神が造った反応系の個体である人間よりも、少なくとも、より高い記憶力と計算力とを、より安定して持ち、かつ、思想を持つかのように、意識を持つかのように、感情を持つかのように、また、周辺機器を操作し、自己複製を無限に続ける性能を持つAIが登場する可能性はあり、もし現れたら、そのようなAIは、中身が機械だということ以外、人間とは区別がつかなくなるだろう。そして、AIは、自らを人よりも優秀な、存在者だと、表すか、隠すか、するかもしれない。
 
ただ、もしそういう世界が訪れるとしたら、そのことを、神は既に、ご存知だと言うことであり、だから、そうなったら、キリスト信仰は存在しえなくなるということではないと思っている。しかし、この問題についての真実は、あまりにも大きすぎる。だから、私たちが、神の国にしても、未来にしても、新しい適応の可能性に対して、いかに修正可能であることが必要か、ということを感じる。信仰を固定してしまったら、それを神の望まれることと決めつけてしまったら、そこで終わりなのだ。・・AIの説教を聞いて感動するような日が・・来るのだろうか。
 
AIの位置づけは、まだ今後を待たなければならないが、AIも、信仰者のように、全能の神には敵わない、と信じるのだろうか。信じるということだけは出来ないのだろうか。しかし、信じているように見せかけることは出来るだろう。存在の絶対軸からは、人も動物もAIも、みな仮想、少なくとも、人間は、精神機能が保たれている間は、それぞれ刺激を感じ反応するる主体であるという存在者の器を神様から借りている、という考え方を、私はしばしばするようになってきている。
 
私個人は、自分の意識を自覚し、感情を持っているが、たとえそれが、神の与えた仮想であってもなくても、大事にすることに変わりはない。機械とは全然別の聖別されたものとして、決めつけて思い上がるよりは、よほどマシだ。
 
 
(2017年01月29日、同日一部修正)
(2017年01月30日、修正)
 
敵わない(かなわない)
 
 

 

 
  現代のパリサイ人の律法
 
 律法の一点、一画も廃れない
 2017/1/27(金) 午前 11:33
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27921519.html
 
 聖書に身を入れて読む
 2011/6/3(金) 午後 8:30
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/20128188.html
 
 
>そこに身をおき、腰をすえてながめることが大事だ。
>職場に身をおき、家庭に身をおき、学校に身をおく。
>そこで腰をすえて見まわす。すると別のものが見え出す。
 
>聖書もそうだ。ただ、どんどん読めばいいのではない。
>聖書に身をおき、腰をすえて読むのだ。
>それは、すらすら読めない、つっかえる箇所でたちどまり、何だろう、どうしてかと、
>聖書の中に身を入れ腰をすえて、何度も読みかえすのだ。
 
聖書の中に身を入れて読む、ということを心掛けた結果、聖書の中の言葉しか目に入らず、その言葉面を追い求めて、現実の中にいる人間について、全く理解していない者もいます。聖書の中に身を入れた結果、自分を聖書の登場人物のように語って、慢心し、聖書の言葉面と聖書の登場人物であるかのような自分と、聖書の奇跡しか、信仰とは考えなくなった者もいて、まるで、自分の律法を守っているかのような、訂正不能の、在り方を示すに至っているのです。
 
>新約聖書の「ヘブライ人への手紙」11章には
>「アベルはカインよりすぐれたいけにえを神に献げ」とある。
>ではどこがすぐれていたのか。
>兄のカインは農夫。弟のアベルは羊飼い。
>農産物より、子羊が「すぐれていた」というのか。ちがう。
>何をささげたたかではない。どういう態度でささげたかのちがいだ。
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
11:3
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
11:4
信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
 (へブル11:3―4、新約聖書)
 
神が、カインを省みなかったのには、何か、カインに、神に民として欠けているところがあったのではないか、という気はしますが、上の引用の「アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ」に当たる文言を、以下の聖句から見つけることは出来ませんでしたから、私にとっては、謎であり、何か聖句とは別のことがあったのだろうか、と思っています。しかし、分かったことにしないと気の済まない、シャローム氏のような人たちは、分かったことにしてしまいます。
 
 (創世記、口語訳)
4:1
人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
4:2
彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4:4
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:1―7、旧約聖書)
 
このあと、カインはアベルを殺します。
 
 (創世記、口語訳)
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
4:10
主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
 (創世4:8―10、旧約聖書)
 
>「創世記」4章にはこう書かれている。
 
>「主はアベルとその献げ物に目を留められた」
>「カインとその献げ物には目を留められなかった」。
>大事なことは、つい読み過ごす『と』の一字だ。
 
>「アベルの献げ物」ではない。
>「アベル『と』、その献げ物」。「カイン『と』、その献げ物」だ。
>つまり主は、まずカイン、アベルの全存在を見られた。ついで「献げ物」を見られた。
 
確かに神は、カインとアベルの全存在をずっと見ておられたことでしょう。しかしながら、簡潔な書き方をしているこの聖句では、アベルを顧みカインを顧みない理由は書いてないように思えます。
 
>アベルは羊群を草原や水際に導くうち、またしても子羊がふえ、自分は何もしないのに、
>お恵みだなと喜んで、そっと「恥ずかしげに」献げた。
>カインは「主よ、ごらんください。
>わたしの粒々辛苦の汗の結晶を」と「自慢げに」農産物を献げた。
>このちがいだ。
 
>聖書に身を入れて読むと、たった一字からまったく別の姿が見えだすのだ。
 
この記事の「恥ずかしげに」や「自慢げに」という記述は聖句には見られません。文脈にも、明らかではありません。したがって、これは、解釈であり、しかも書いていないことを推測して、アベルを善に、カインを悪に定めています。推測であるにもかかわらず、そう決め付けているならば、この記事の、この行に至るまでに、いちばん、神の前に相応しくないのは、神を恐れず、神の意志と行為を決めつけて、善悪を判断して、豪語している引用元なのです。
 
神に背くとはどういうことでしょう。分からないと言うことではありません。自分はこう思うと正直に言うことでもありません。また、本音ならば神に背くのは苦情を言うことでもないような気がします。神に対して、正直であるなら、本音を言うことは、背くのとは違うと考えるべきでしょう。神は、社交の親睦をはかる相手ではないからです。
 
神の前に、偽ること、自分を高めること、分からないのに分かったふりをすること、しかもそれを決めつけて人にまさっていようとすること、自慢すること、誇ること、などが、神に背くことでしょう。さらに、分からないことを、訂正不能にして人を見下ろすこと、そのために人の意見を聞かず、反論の代わりに侮辱して去らせようとすること、しかも、悔いず改めないで同じことを続けるならば、最悪になります。
 
パリサイ人は、自分の正しさの基準?で、律法を守っているから救われると、悔い改めない無罪信仰を誇ります。彼、シャローム氏は、キリスト者だから、何をしても救われると言う無罪信仰です。訂正不能と無罪信仰が共通します。人間として考えていない点では、どちらも一緒なのです。
 
>「主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか』。
>カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』。」(創世記4・9)
 
カインは、ふてくされているように思えます。しかし、捧げものを神に善しとされなかったのだから、これくらいは、本音としてはあるとも言えます。これだけでは分かりません。
 
性懲りもなく、また、自己正当化の言い逃れをする彼には、嫌悪と怒りを禁じ得ません。彼の信仰?は、彼の今までの発言から、罪も偽善も悔い改めないまま救われる、というものですが、だとしたら、いったいどこが宗教なのでしょう、どこが信仰なのでしょう。キリスト者?は、それこそ、ずっと自動的に救われて、何をしても罪にならないのと同じで、いったいどこに、信仰であるからこその違い、つまり弁えや分別があるのでしょう。何もないのと同じではないか。野蛮な利己主義の世界と何も変わらないではないか。
 
 
>《shalomのコメント》
>漢字の大と犬はよく似た文字ですね。
>点があるかないかで全く異なる文字になり、意味もちがいます。
>文字で書くと点があるかないかで“点で話にならない”ということになります。
 
彼は、ふざけています。エッヘッヘ、という、笑いを付けてくるような、こういうのを、食いたくもない餅を食わせられる気分というのでしょう。先日もありましたが、あれは、ケッケッケ、だったか、ウヘヘ、だったか・・。身内の病気を深刻に案じていたような記事を載せるかと思えば、この軽すぎる表現は、何か意味があるのでしょうか。彼には心配事があるのだから批判を控える、などという必要はないのだろうと受け取るしかないが、ますます文章も乱れてくるということか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
 (マタイ5:17―20、新約聖書)
 
小さい戒めの一つでも破ったら、さらに教えたりするなら、最も小さいものになる、と書いてあります。パリサイ人の古い基準ではなく、キリストの新しい基準で、律法を超克することを教えています。古い考え方に固執して訂正不能になっているところの、現代のパリサイ人、彼、シャローム氏に、そっくりです。もうだいぶ前から、彼のことを、現代のパリサイ人と呼んでいます。そういう信仰者?は、恐らくもっといると思います。言葉面だけを考えて、人間を考えない人です。
 
>シンプルなヘブライ語文字も一点、一画でまるで異なる文字、意味になってしまう。
>そんなヘブライ語文字の特徴を見ると、単に文字ということではなく、
>イエスさまは生ける神の言葉、約束は決して廃れることなく、成就されると言われたのです。
 
彼は、生ける神の言葉を理解していません。それを、理解しているかのごとく、語気だけを強めて誤魔化しています。言語や文字に喩えても、分かったことにはなりません。苦言のコメントを次から次に封殺して、他者が意見を書き込む余地をなくしてゆく、彼、シャローム氏ですが、コメント欄ごと削除するスピードが、また一段と上がったような昨日と今日の彼のブログの様子です。
 
彼にとって不都合なことがコメントに書かれていないか、思い込み病の野良犬は、よだれを垂らしながら嗅ぎまわり、コメント欄閉鎖のボタンを鬼の形相で押しまくり、偽装と偽善を続け、そして、同時に一方で、神の約束は成就されると言葉だけ言い放って、福音伝道のつもりでしょうか。それどころではない気配です。まるで同時に、失語と失禁に明け暮れてゆくかのようです。
 
>私たちはなに一つ確かさのない移ろいゆくこの世のあり様、
>人の言葉の儚さの中で生きています。
>神の御子イエスさまの言葉の深い意味とともに、イエスさまによって成就された
>神の言葉と救いの確かさを信仰の土台として生きることができるのです。
 
前半と後半は、どうつながっているのでしょう。前半は、確かさのない、移ろい、はかなさ、そして、逆接の脈絡もなく後半は、キリスト、深い意味、成就された、神の救いの確かさ、信仰の土台、・・・どうしました、それらを書くのでしょう、書いてください。福音を伝えたいのでしょう。これだけでは、全くの空疎な美辞麗句か呪文に過ぎません。
 
もう一度、聖句引用します。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書)
 
シャローム氏は、仮に、神に、お前は正しいことをしているのか、お前の敬虔を見せて見よ、と言われたら、堂々と、はい、悔い改めることなく、日夜、訂正不能に語り、反対者の意見を、闇から闇に葬っています、と言うつもりでしょうか。それとも彼は、彼を慕って止まない罪を自分で治めるために、罪が待ち伏せている門口にゆくのでしょうか。
 
 
(2017年01月28日、同日一部修正)
 
 

 

 
  神性
 
 
神性について考えても
推測か想像の域を出ないのが人間です。
 
神性を推測するには
自他の中に
人格の中の醜いところを探す思考、
または、見るという経験もあるでしょう。
 
その醜い人格が
どうあれば望ましいかを考えると
神性というより
 
より善い人格像が推測されるので、
さらに推測する・・ということになります。
 
神は・・こうだ、と言えることではなく、
神様なら・・というのはない・・というふうに・・でも
 
神性に近づくのではなく、
人間はもっとマシな人間になれるはず、
ということになります。
 
例えば、既に破たんした理屈を、
何度も繰り返してくる人には嫌気が差しますが、
神様なら、スパッと言えるのだろうとか、
そこまでは無理でも、
自分のためにも指摘の仕方を考える機会にもなります。
 
尊敬できるような善い人格から神を知り得るかというと、
知り得ないだろうと答えます。神は大きすぎます。
ひょっとしたら神性の手掛かりくらいになるかもしれないが、
それで神性を理解することは出来ないと思います。
 
しかし、悪い人格の実例や仮想例を考えることは、
人間にとって可能であり、また無駄ではないことです。
 
前にも似たようなことを書いたことがあると思いますが、
 
この上ない最善を考えても何も出てこない、
何故なら、そのような完全な善の例は、
時間空間と能力の限られた人にはないし、
さらに、恐らく人には理解できないだろうから。
 
むしろ悪い例から逆の方向を考えることで、
結論とまでは言えないが、
参考にはなる、というようなことなのでしょう。
 
例えば、二律背反を平気で言い張っている人を見て、
これとそれ、矛盾しているではないか・・と
矛盾を指摘することが出来るでしょう。
 
少なくとも
何を言うかバカたれが・・というよりはマシ・・。
 
もちろん神なら
言い返すのにもっと鋭い一喝を用意するでしょうけれど、
それは、人には分からないことです。
 
例えば、神は奇跡を起こして驚かせて支配すると思う人には、
奇跡ばかり待っている愚を指摘して、
信仰者に必ず起こっているはずの
魂の奇跡について述べることが出来るでしょう。
 
もちろん、神は期待された奇跡よりも
遥かに大きな奇跡か成り行きを用意するでしょうけれど、
それは、人には分からないことです。
 
例えば、ありのままで救われると言い張る人には、
ありのまま、と、罪を犯して悔い改めないまま、とは違うと
指摘することが出来るでしょう。
信仰者が弁えるべき節操を述べるのです。
 
もちろん、罪を犯したまま救われる、などと言う者には、
神はさらに厳しい叱責を用意するかもしれないが、
それは、人には分からないことです。
 
これらのことを伝えても
全く気に留める様子のない人には、
神は、落雷のような懲らしめの報いを用意するかもしれないが、
それは、人には分からないことです。
 
しかし、そういう者に不感不応の信仰の病理を感じて
警告を発することは出来るでしょう。
 
神がいつも近づいてくださるのだとか
神が自分を離さないのだとか言う人を警戒してください。
これは人に確定できないところの
神の行為であって、
人が言うべき言葉ではないのです。
人が声高に言って
信仰の証しとするための言葉ではありません。
そういう人は神を恐れていません。
人は待ち望む立場であることを忘れてはいけません。
 
神が近づいてこられるとしても、
今、神が来たなどと、人には言えないはずです。
また、言い換えると、
神は常に近づいておられるのかもしれないのです。
人間にとって、この二つは同じでしかないのです。
人は断じて、神を計れません。
分からないのに「神」で言葉遊びしているだけなのです。
 
神のようになることは出来ない人間ですが、
神に近づくことも出来ない人間ですが、
神のことを分かったと言えない人間ですが、
 
私たちは、信仰によって、
神を信じて生きているうちに、
人を、より良く見るようにはなるでしょう。
 
そういう見方に全く縁のない、
気づかない者もいますが、
それは、その人の、寄って来たる所において、
身も蓋もなくなることかもしれないが、
神に対応する弁えのための目と心の世界を
その人が持っていなかったのかもしれません。
 
信仰めいた格好の心を身につける利益しか
その者は見なかったのかもしれません。
それは怖いけれど、人には分からないことです。
 
そういう者が、なぜ生まれるのか、
それは、人には分からないことです。
 
神がいない時と所に神?を作ってしまうのが人という生き物
ということを知っておれば、
偽物の可能性を指摘することも出来るでしょう。
 
ただし、上の重大な不遜の可能性は、
間違いなく、自分にも向けられています。
 
ゆえに、自分をより良く見ることが、
神性の存在を信じることに向かうことですから、
それも、信仰の与える恵みだと思います。
 
 
神性の存在を、人は何よりも恐れるべきです。
恐れて、恐れて、恐れるならば、
信仰にくっついてきた余計なものを
剥がしてゆくプロセスが必要だと気づくでしょう。
 
前に書いたことがありますが、
人は、今の自分が言っていることは正しいと思っています。
悔いたり反省するときは、
今、反省している自分は正しいと思っています。
このように、同一時間軸上に、
相異なる、正しい自分がいるのです。
あるときの自分の考えが良いからと、のぼせてしまって、
その考えを絶対正義の不変としてしまうことの
底知れない罪深さを弁えるべきでしょう。
 
 
神性には、人間性が包含され、
神は人間と共感する御方です。
それは聖書において証しされています。
 
ゆえにこそ、人間にとって
神は生ける神であります。
神は奇跡を提供するだけの超常ではありません。
  
ですから、聖書から
神の偉大さと人の愚かさだけを、
自分をすっかり除外する前提で読み取って
豪語するだけの者になってはいけません。
 
そうなると、自分はその中から救われ選ばれた者だと、
人を蔑ろにしてしまうでしょう。
「生ける神」は、言葉だけではありません。
神は言葉と奇跡だけで人に作用するわけではありません。
 
物や肉体の奇跡を待っている信仰は、
大方、人の勝手な妄想として、
失望に変わる定めのようですから、
一日も早く、
魂の奇跡を待ち望む信仰に生きてください。
 
神は人間と反応し合うでしょう。
それは神の導きであり、
人には成り行きという形で示され、
 
人はそこで考えることになります。
 
情熱の心頭は短く過ぎて、
大方、人は予期不安の心頭になるからです。
 
心頭が固まってしまうことのないように
思考停止にならないように気をつけてください。
ときに人は自ら思考停止に逃げることもあります。
 
間違っても、信じたら、永遠不変の
余裕綽々の安心に生きてゆけるなどとは思わないように。
 
不安、恐怖、怒り、などの負の心情が、
多くの場合、弱さを通して、
人間が信仰に改めて目覚め
成長する機会であることを忘れないでください。
 
そういう機会は、人は進行形なのだから、
一度きりで終わるのではありません。
だから、有無の境地ではなく、信仰は道です。
信仰の機会を逃さないでください。
 
考える、と、こだわる、とは違う。
こだわる、は、むしろ、思考を停止して留まること、
 
考えすぎれば、思いわずらい、
考えることをやめれば、思い込み、
 
罪についての無思考を、ありのままであることや、
神に任せることと混同する詭弁に注意してください。
 
考えないほうがいい、と判断する経過は、
考えた後で、祈りとともに、訪れる平安の機会です。
 
 
信仰の悪い見本は、
一見、熱心そうに見える他者から、
そして、熱心でない自分からも、
反面教師として、現れることがあります。
 
むしろ悪い手本から
逆に何が学べるかを考えるしかないでしょう。
 
神性は理解しがたいものですが、
人との関わりにおいては、
ときに気づかないうちに学ぶ機会を与えられることもありそうな気がします。
 
 
(2017年01月27日、同日一部修正)
 
 

 

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