ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年02月

 
  魂の悪用
 
 文言だけ参考にした記事:
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27968697.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27967468.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27967465.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27966519.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27965501.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27964452.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27964252.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27963601.html
 
 
どういうつもりだろう。彼、シャローム氏は、戦争の正当化を嘆く記事を転載しておきながら、自らの失態を隠蔽して、偽善も罪だから赦される、と正当化したことについて、反省もせず嘆きもせず、信仰?の美辞麗句を並べて、反対する者を「神との関係と交わりを失っている」などと決めつけて、自己正当化、他者悪者化、を続けている。
 
今回は、少々乱暴だが、彼の政治関連の転載記事の言葉を拾って、彼、シャローム氏の無責任と非道ぶりを形容してみた。一種のパロディだが、彼に対する批判という意味では真剣だ。なので、それぞれの転載元記事の文言は、シャローム氏をめぐる偽善問題とは関係がないことをお断りしておく。
 
民主主義を愚弄するのもいい加減にしてほしい。彼、シャローム氏は、前には、神主主義などという幼稚な造語を本気で載せてきて、それで何か解決したかのような気分になる軽薄な宗教人だ。彼には、こういう記事のこういう文言に恥じるところはないのか、という言い換えが私のこの記事である。
 
 
嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るのかもしれません。しかし、彼、シャローム氏は、どこまでも自分を正当化する作業をやめません。
 
ねじれにねじれた失態後の彼の在り様こそが、実相を、直視することから目をそらしてきた結果としてあるのです。ヘドが出そうです。
 
他者の記事の転載においては、そこに批判されていることが、まさに、彼、シャローム氏の悪行と不法を批判することになるでしょう。彼は、まともな意見だと載せたのかもしれないが、そのまともさこそが、まともでない彼、シャローム氏の行いを際立たせるでしょう。
 
なぜ、この不法に対して、キリスト者は及び腰なのか。彼、シャローム氏のブログは、当初「聖書の聴き語り」という名で、次に「讃美の家」となり、さらに「その名は不思議」というブログタイトル名になっている。「讃美の家」から「その名は不思議」までの間に、彼が私の書いているコメントを承認制によってブロックする、というトラブルがあった。何らかのトラブルがあって名称を変更したのではないかと推測している。それに対して、名前を変えることで解決した気になっている彼、シャローム氏がいるのである。次は何だろう。「シャローム記念小学校」とでも・・?
 
彼の記事を過去にさかのぼってみていると、同じような名前や内容の記事が繰り返されているのが分かる。愚かなことも繰り返すと、聞いた人々はだんだん本気にする、という、独裁者が用いた大衆煽動術みたいなことを利用しているのか。そのうちに、キリスト者は、ああ、罪はいつでも赦される、悔い改めなんか必要ない、ああ、うるわしい教祖様、・・と歌うようになることを彼の信仰?の成就としているのか。
 
シャローム氏が、愛の教育を重んじるのも、しつけのためならば良いかと思ったけれど、こんなに陰謀じみていたとは・・。戦前よりひどい独裁国家になるような、他者の反対意見の削除ぶりである。
 
シャローム氏は、掘り出した過去記事や他者の記事を投稿欄に埋め戻し、再録であることも書かず、転載とともに、読者の目を誤魔化そうとしています。
 
言い訳や言い逃れをするというのも、「・・もやりとりが・・あ、あった中においてですね」「・・的には、なるべくですね、え~、ま、」「ま、しかし、これはまさに、え~、ま、名誉ということで受け入れたわけでございますが、え~、」と、何やら丸出しの人もいれば、彼、シャローム氏のように、黙ったまま、他者のせいにして削除し、自分は美味しいことだけを書き続ける、というのもあるわけです。
 
バカのひとつ覚えで横並びの感謝と讃美、公共のブログとネットを使って野放図に垂れ流すこと自体、国を憂える善良な日本国民とキリスト信仰者にとっては全く迷惑でしかない、ということが分からない、彼、シャローム氏のようだ。
 
「その名は不思議」カルト小学校の異常性と不法性。隠蔽か?・・批判対象シャローム氏と、批判者の、コメント交渉記録は、記事投稿成立とともに削除によって廃棄とのこと。徹底してます。
 
シャローム氏の偽善と隠蔽問題では、詭弁家の関与なしに起こりえない、と考えられる。これは、ひどく汚い陰謀であります。民主主義の記事を転載しながら、実際は、自分の名誉欲の判断で勝手にコメント削除、という民主主義破壊は、結局、こういう腐敗信仰と信仰衰退を横行させるのです。
 
コメント不承認並びに削除で、反対者を廃棄をしているという事だと思います。「隠蔽と言われても仕方がない」「適正でも何でもない」ということになります。
 
今すぐキリスト教の世界を牛耳るというような大それた意図がなかったとしても、不作為の積み重ねによるファシズムが顕在化してきた。それが、シャローム氏の権威主義、ということ、それが現状ではないでしょうか。
 
シャローム氏は、神に任せるのがいちばんなんです、と知らぬふりを決め込みたいようだが、幕引きどころか、もう幕はガラ開きだ。陰謀罪の彼など復活させることに手を貸すな。これ以上、悪に手を染めるな。
 
シャローム氏は厚かましいので、今日このように自分のブログの偽善と隠蔽偽装の罪が明らかになっても、「関係していたとなれば、ブログも意見発表も辞める」などとは、言わない人なのです。
 
 
シャローム氏にとって、転載記事であっても、他者が書いた記事で自分に責任はないということではなく、転載者シャローム氏が偽善者であれば、記事の色彩が変容するということ、先入観の自己正当化とバイアスの懸かった精神の信仰などは、こいつがこんなことに賛成できる身分か、偽善者め、ということになるのである。
 
>「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、
>今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
> (新約・ヨハネによる福音書9章41節)
 
もし、彼、シャローム氏が、分からない愚かさを認めていたら、罪はなかったであろう。しかし、今、彼が、いかにも分かっているふうに、神の目を持ち出し、信仰も政治も見えると言い張るところに、彼の罪と偽善がある。
 
 
(2017年02月28日、同日一部修正)
 
 

 

 
  狂信と慇懃無礼
 
 何をしているのか自分でわからない
 2017/2/27(月) 午後 5:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27967605.html
 
 剣をとる者はみな、剣で滅びる
 2012/7/3(火) 午後 5:34
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23048616.html
 
 
世の中には本当に悪い人がいます。根っから悪い人は、恐らく、人間の大切なものを持っていないか、ある種の信念によって、捨て去った人のようです。
 
悪い人なのに、いい人のふりをする人を、偽善者と言います。そういう人は、一見、悪い人には見えません。悪い人に見えないように、自分を飾るからです。特に悪いのは、悪い人なのに、善人のような顔をして説教をする人です。そういう人は、自分の悪を無視して、次のようなことを引用したりします。
 
>不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
>おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」
>(新約・ヤコブの手紙4章1節~4節)。
 
恐ろしいことに、彼、偽善者、シャローム氏は、この世からよく思われようとするために、自分の悪行を隠したうえで、自分が裏切っている善の言葉を使い、上のような聖書の言葉を引用するのです。
 
悪人なのだからやめろと言っても、それを続けるのです。彼は、信仰を語る資格がないほど、卑怯な悪いことをしていますが、信仰を語る資格がある人のように、何を言われても、それを隠して、同じことを言い続けます。そこには、この世の友または獲物を得ようとして、人を騙して賛同を得ようとする、根っからの悪でなければ出来ないようなことを平気でやってしまいます。
 
そういう人は自分信仰者なので、いちばん大事なのは自分で、自分を受け入れさせるために、手段を選ばず、この世の友を装います。
 
どんな罪も偽善も悔い改めないままで赦される、という狂信があり、それに反する者を、侮辱し、どこまでも無視して排除します。もうすぐ削除されてコメント欄は全くなくなり、彼の発信だけになるでしょう。そのように、刺激が全くなくなった環境下で、彼は、言いたい放題を言うでしょう。そして、自分の悪巧みで刺激のなくなった状態を、神の平安と呼んでいるのです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
4:1
あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
4:2
あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3
求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
4:4
不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
4:5
それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
4:6
しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
4:7
そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
4:8
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
4:9
苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
4:10
主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
 (ヤコブ4:1―10、新約聖書)
 
キリストを永遠の友として信じると言っておきながら、世を友とし世のことばかりに熱中するのは、神への敵対だという戒めです。この世で勝とうとするだけの価値基準には、欲望に支配されたり、人のことを考えなかったり、過剰に高ぶったり、「むさぼる」という言葉にあるように、自分の快楽だけを求めることになりやすいことから、戒めている言葉です。
 
「むさぼるが得られない。そこで人殺しをする」というのは、端折った言い方ですが、3節「快楽のために使おうとして、悪い求め方をする」のように、人の求め方は、しばしば貪るに近くなり、それが、争いの原因になることが書いてあります。
 
8~10節は、前に引用しましたが、この世での災いを受けた人の立ち直りのために、神という絶対者の前に、人間として、謙れ(へりくだれ)、と書いてあります。神の前に、低い人として、祈ることです。ここに悔い改めの姿勢があります。
 
聖書において救われたと語られている人々は、教理など分かっていなくて、ただ、自らの罪ある者として、正直に、キリストに赦しと救いを求めました。信仰の芯は、はっきり言って、それで十分なのかもしれません。
 
ところが、苦しみ、悲しみ、泣くことを、この上なく憎み、それらを二度としたくないがために信仰?を求めた彼、シャローム氏のような者がいて、この世において負けることが嫌いで、誰に対しても優位に立つために、キリスト信仰とは名ばかりの、この世の価値基準のみを友として、他者にまさりたいだけの、貪るように自尊を求める狂信が蔓延っています。
 
信仰を語りながら、彼は、まさに、この世の悪しき友として、この世での、聖書の先生、という、名誉欲だけに支配された、世俗的自尊に、しがみついているのです。
 
彼は、いつの日も、罪なき者とならないと気が済まず、神か神の代理人のように偉くなることを求め、悔い改めることを頑強に拒み、罪を認めず、また偽善も罪も、犯しても悔い改めることなくそのまま、まるで自動的に、許され救われる、という、キリストに反する無罪信仰を広めようとしているのです。
 
彼は、彼の狂信によって思い上がり、言葉面を漁り、貪るように求めるので、人が何を言っても、反省することなく、驕り続けています。一見、穏やかな文章の裏には、そのような、反対する者を人間とも思わない、怒りと恨みに裏打ちされた、敵意にも似た心性が働いていると思います。
 
だから彼は、どんなに矛盾を指摘しても、やめることがないのです。そのために、長年にわたって、聖書の言葉面すなわち聖書語と、慇懃無礼の言葉すなわち丁寧語とを身につけてきました。それに騙された人々が、30年の牧師時代とネットにおいても少なからずいるようです。罪は、過去から未来まで全部赦されると言っている人もいます。悔い改めによって、ということが抜けてはいけません。
 
そしてここから現れてくる人格の表面ではなく、本当の裏の姿として、欠点もなく罪もない自覚で、根拠のない常時安穏を貪り、いかなることをしでかしても非を認めない、彼、シャローム氏の、被害念慮と他罰意識に凝り固まった説教者気取りがあります。信仰の勘違いに魔が差すと人格も破壊されるという実例になっています。
 
今日の彼の記事には、いくつか、批判されていることを意識しているようなところと、それを夫婦げんかになぞられて、はぐらかしているところもあります。夫婦げんかについては言いませんが、
 
次の、これらの彼の言い分には、私は、既に何度も反論してきたのです。彼は、それに対して、同じことを言うか、侮辱してくるか・・しかできなかったのです。にもかかわらず、また言ってくるのが彼、シャローム氏なのです。改めて読んで思うことですが、彼は、信仰の世界に巣食う異常者です。
 
>人が争う時には自分の自尊心や利益を守るための言い分があります。
>もちろん争う相手にもあります。泥棒にも三分の理があるという言葉もあります。
>争う双方が自分の言い分が、より、いや絶対正しいと主張する時ほど、
>争いは激しくなります。
 
争う一方が、相手を全く無視して、相手を悪と決めつけている時ほど、争いは激しくなります。彼は、絶対ではない人間としての不全の自覚を共有も共感もする気がありません。それは、彼が、絶対者としての立場に立っているからです。
 
>ですから、私たちの自尊心にとって正しいと思われることが、
>私たちにとって最善であり、平和をもたらすものではないということですね。
>しかし、私たちは自尊心や利益を守るための正しさを手離すことができません。
 
彼は、彼の自尊から来る偽信仰によって、その矛盾をいくら指摘しても、それもまた、無視して勝手なことしか言いません。これらも、言い逃れに過ぎず、自尊を手放さないのは、今もこの記事で人をペテンにかけようとする彼のほうです。
 
ときに見られるのですが、夢のようなことばかり書く人がいます。私は、絵空事、空約束と思って、一時的に批判しましたが、今はやめています。彼、シャローム氏は、そういう人ではないのです。彼は現実に自分の言うことがどこへ出しても通用するという自負のかたまりです。王道を言っているつもりなのでしょう。能力においても傲慢だけは捨てられない人です。
 
分かってもいない他者の意見を勘違いして誤謬を振り回したり、自分で、民主主義ならぬ神主主義、心身症ならぬ霊心症、などという宗教風味の造語を作るのが好きなようです。それら造語は見るからに何の糧にもならないわけで、説明も付きません。言葉面を代えて得意がる自己顕示に過ぎません。彼自身にとってだけ、あたかも宗教指導者の卓見のごとく映っているのでしょう。果てしなく背伸びする自分信仰・・。
 
>人が認めようと、認めないとしても、神との関係と交わりを失うと、
>人は自分の自尊心を自分で守り、他を攻撃するものとなってしまうのです。
 
そして、決めつけの最たるものとして、(相手は)神との関係と交わりを失っている、と言うのです。神との関係を失っている、自分の自尊心を自分で守る、反対意見に対して削除という攻撃手段しか持たない、これこそが、彼の常套手段の持ち物であり、彼の常習の持ち前であります。言葉面の「人」にも「私たち」にも、彼は含まれていません。含まれているということの分かる記事を彼は書いたことがないからです。
 
>誰でも自分の自尊心が脅かされると、自分を恐れ、他の人を恐れるのです。
>そのような恐れを抱きながら、人は人と生きて行かなければならないのです。
 
彼は、隠蔽がバレるのを最も恐れて、生きています。証拠として、彼のブログの殆どすべての記事から、猛烈な勢いで、コメントを削除し、コメント欄を廃止してきました。彼には話し合う気などないのです。記事の慇懃無礼で誘って引き込もうとするのに、話し合う気がなく、自分の口から出たものについて決して非を認めないのが、彼、シャローム氏の本性であります。
 
話し合おうとしない者が、長く話し合わないでいると、信仰?の無謬性のみが膨張して、ついには、思考と情緒という人間性も壊れてゆくようです。彼は、今では、話が通じない人になっています。ですから、彼が何か言っても、それに疑問などを持って突っ込むと、彼は一変して、はぐらかし、それが出来ないと、嫌がらせや当てつけ、そして侮辱を返してくる、というのを、もう6年ほど前から経験しています。
 
そのように説明も出来ず答えられないにもかかわらず、彼は口が減りません。念のため、異言などというものではありません。異常なのです。信仰者は、決して、彼と好意的に交わってはいけないと思います。今日の記事で改めてそう思います。完全に既に聞いた前の話の繰り返しです。彼は答えられませんでした。
 
>人は「自分のための」神を造ることによって「自分を神としている」のです。
>イエスは私たちの生きる道を示し、その道を歩かれたのです。
>イエスは私たちを神による平和と永遠の命への唯一の道なのです。
 
自尊によって、自分を神または神の代理人としての傲慢から、生ける神からの信仰の道に背き続け、にもかかわらず、引用3行目のように信仰の美味しい言葉だけは吹聴するところの、彼、シャローム氏は、争いの種になるほど突拍子もない嘘だらけのブログを書いて、悔い改めることなく、神と人とを欺き続けています。
 
悔いても改められるかどうかは別になりますが、悔い改めることは、神に対する態度であり信仰の芯であります。しかし、神の前に本当に悔い改めた者は、人の前で、それと正反対とことは言えないはずです。彼、シャローム氏は、事実との矛盾など全く気にせず、矛盾だと過去に指摘したのに同じことを平気で言ってくるので、見るたびに身の毛が弥立ちます。
 
少なくとも、いつまでも自分の利益だけを求める者、いつまでも見栄と自尊にしがみつく者、いかなる場合も非を認めない者、思い込みということを考えることが出来ず自己確信の絶対の境地を誇る者、訂正不能である者、いつまでも自分を悔いるという内側への思考を持たない者つまり反省しない者、罪悪感を感じない者、とりわけ神に対して不正直である者、・・これらは、決してキリスト者とは呼べません。何故なら、それらは、人間がキリスト者になるとき、最初に捨てるものだからです。
 
狂信が人をサイコパスにしてしまうのか。
サイコパスだから狂信を生むのか。
それはまだ分かりません。
 
 
(2017年02月28日、同日一部修正)
 
欺く(あざむく)
貪る(むさぼる)
蔓延る(はびこる)
漁る(あさる)
驕る(おごる)
身の毛が弥立つ(みのけがよだつ)
 
 

 

 
  安楽と平安
 
 
神による平安を主張する自分信仰者が
繰り返し語る言葉はもちろん平安だが、
それは神による平安ではなく
自ら作為した安楽に過ぎないということを私は主張する。
 
平安は、例えば、
考えすぎて病んでしまった心が
神そしてキリストの言葉を心で受け取って
安らぎを得ることである。
つまりその安らぎは、
考えるということを尽くした者に訪れる。
 
考えることを最初から止めている者に訪れるのは
合理化や勘違いによる刺激の遮断にすぎない。
信仰者が、平安、という言葉を使うとき、
注意して見ておく必要がある。
そこに恐ろしい自己正当化が働いていることがある。
 
自分のための自分による自分の正当化、
これが、とても見苦しく、浅ましいものであるのは、
そこに、神を味方にし、神の鎧を身にまとう、
という、神の立場に、
または、自分は神の味方、神は自分の味方、
という断定の自覚に、
成りきっているという逆方向になるからだ。
 
まず、あるときの、安心している心が、神による平安であるか、人は不全なので、確定することは不可能である。一方、自分だけの勝手な安楽であるかどうかは、無思考の前提があるかどうかで、ある程度、判断できることがある。
 
そいういう可能性を考えて、神に対する人間としての不全を弁える者は、迂闊に、神の平安、などと言うことを控えるだろう。
 
その節操を弁えず、安楽を神の与えた平安と言ってしまう者ほど、内省力の乏しい者にかける言葉は、神の平安などと言うあなたは何様のつもりだ、ということで十分であろう。
 
安楽は安穏と言ってもいいが、要は自分の思い込みで安定することを言う。それは、賜った平安ではなく、刺激がなくなって、沈黙だけが続く自分と自分の周りを形容しているに過ぎない。
 
ここにおいて安楽安穏者は、自分に不都合な他者の意見をことごとく葬り去っているから、反対者が見かけ上いなくなるので、全く自己中心に安楽ではあるだろう。嫌なものを見なければ、嫌な刺激を受けて考えることはなくなる、という、とても単純で世俗的な処世を、信仰にすり替えているのである。
 
しかし、このとき、その者は過去のままであり、自分を生かしてくれる、あるいはそのヒントとなる意見をも葬っているのだから、成長のしようのない状態である。こういう最も望ましくない状態にあって、これで、神の平安と言うのは、その者が、いかに自己愛に溺れているかを語っているに過ぎないのである。
 
このように、他者の特に反対意見を無視する者の行く末は、成長がなく、かつ、自己の正しさによって過去のまま引きずられ停滞する不調和と不全の亡者の有り様でしかない。その者は、肉体が生きていても、とうの昔に、亡き者となっている。しかも、それを、生きた人間に、至高の境地のごとく語るのだから、その弊害は、ただの不信心や不信仰どころではないのである。
 
引きずられる者がいるなら、その結果は、亡者の後継者として同じ亡者であるということを知ってほしい。この地上において、信仰者は、感じたことや現象について考え、かつ、苦しみ悩んで耐えることを使命とする。そこにおいてのみ、十字架のキリストの赦しと永遠と言われる同伴者イエスの慰めと癒しの恵みに与るのである。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
4:9
苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
4:10
主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
 (ヤコブ4:9―10、新約聖書)
 
「高くして下さる」とは、この世的な立場のことではなく、
主にとって望ましい人間に育てる、という意味だと思う。
 
決して、安易な安楽と安穏に魂を奪われてはいけない。安易なものは人から来る。そしてその者は、神からだと主張するだろう。その者が、神の民に相応しい強さ、ではなく、神の民に相応しい弱さを、共有し共感できるかどうかを見て判断するべきである。
 
神がこの地上に救いをもたらすことには、地上の人の世界においても、地上の人間にとっての大義がある。それは、神が地上の人間を救うということであり、地上の人間を、神ご自身の民として見ておられる、という、人には終末まで理解できない神の、人間に向けた祝福である。
 
同時に、民に相応しい人間であれ、という、神に近づいて他者より強くなることではなく、神の下で弱さを共有し共感できる敬虔を弁える、という、人の考える意味よりも遥かに深い節操を教えるメッセージである。それは、神の懐に包まれる場を賜って、神の民という、あくまで人間として生きることの、ときには、魂の奇跡として、死とその恐怖をも超える平安につながるだろう。
 
 
(その名は不思議
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 悔いることなく改めることなく赦されるから
 罪を気にしなくていい、という、
 不実を行って、同時に、神を讃美する、という、 
 二律背反の同時進行をしているような信仰を
 どうして受け入れられるでしょうか。
 読んでも決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年02月27日)
 
鎧(よろい)
迂闊(うかつ)
与る(あずかる)
懐(ふところ)
 
 

 

 
重複投稿のようです。
 
 「バベルの塔」
 2017/2/25(土) 午後 5:47
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27964664.html
 
 彼の過去記事:「バベルの塔」
 2016/12/4(日) 午後 1:58
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27832679.html
 
 転載元:「バベルの塔」
 2015/3/10(火) 午後 7:0
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/32503858.html
 
 私の批判記事:「傲慢の因」
 2016/12/7(水) 午前 0:03
 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18887641.html
 
 
彼は、今回、全く同一の記事を再び転載しています。転載元は、当然ながら、一つの記事です。何が言いたいのか、彼は、書いていません。上のように、私は既に批判記事を書いています。全く同じ記事なので、重ねて彼の転載記事そのものについて、改めて批判記事を書くことはしません。彼は、めんどくさいなら、書かなければよいのですが。
 
ひょっとして、同じ記事だから批判記事は書けないだろう、とでも言いたいのでしょうか。しかも、それで、信仰の記事を書いたと、使命を果たしたと言いたいのでしょうか。人に対して、迷彩を施したつもりなのでしょうか。さらに、彼は、神に対して、迷彩を施したつもりなのでしょうか。
 
なのに、私が、今回、このようなことを書くだろうとは予測しなかったのでしょうか。普通のネット上言論の関係ならば、ちょっとその旨を書けばよいのですが、彼、シャローム氏は、どこまでも、良識から外れてゆきます。また、どこまでも、正直さを持たない人です。このような馬鹿げた行動には、・・何らかの・・病理を感じますが・・
 
実は、私は、まだ彼のブログに今よりすんなり書き込めたころに、じれったくてじれったくて我慢が出来ず、心を乱して半狂乱となって、支離滅裂なことを書き殴ったことがあります。今、そのときのコメントが残っているかどうかは知りません。そのときは、後悔して苦しくて悲しくて、結局、しばらく、横になって、祈っていたと思います。それで、また、何とか、気を取り直して、批判を書き続けているわけですが・・
 
彼は、悔い改めをしない信条なので、こういうとき、自分で策をめぐらすしかないのでしょう。こういう混乱の場合、悲惨はさらに悲惨に、卑怯はさらに卑怯に、愚劣はさらに愚劣になるのでしょう。それを、神の平安のうちに過ごしていると、うそぶきながら・・。
 
ということで、私は用意していたテキストをアップしておきます。
 
 
  偽善者は去れ
 
 
キリスト信仰の記事において、破綻百出となってしまった彼は、政治関連の転載記事を連ねているようです。宗教はどうでもいいのか、宗教の破綻に、政治の記事をかぶせて何とか出来ると思っているのでしょうか。
 
はぐらかし、というのは、彼の専門のような技です。言うに事欠いて、返せなくなって、話題を変える、目先を変える、という誤魔化しの手法です。何事にも、真摯に向き合えない者の常習とする体質なのでしょう。質疑応答という基本が出来ていません。彼はそういうことが必要だとも思っていません。
 
彼は、もうずいぶん前になりますが、創世記からだと思いますが、完全数を7と言い、私が6ではないか、聖書的完全数というのが別にあるのか、と指摘したところ、彼は、「完全数はユークリドが発見したそうですね」という、答えるべき問題とは関係のないことを言って、はぐらかし、結局、間違いを認めませんでした。
 
彼は、いつもそういう調子で、噛み合う意見交換を冷静に進めることが出来ません。彼の信仰を、彼が訂正不要とした時から、そうなったのかもしれません。
 
彼には、社交の笑いながらの「いや、お詫びいたします」みたいな軽い謝罪以外、どうも、自分の誤りを認めてはいけない、という強迫観念があるようです。
 
政治について、彼の転載記事を読んで、同じ考えです、同志です、なんて思わないでください。彼の無責任ぶりは、宗教と信仰以外においても変わりません。まず、強制力で真面目なコメントを削除して最初から無かったかのように見せかける、というようなことを民主主義を重んじる人はしません。彼にとって、他者は、自分を称賛するためだけに存在するのでしょう。彼は、反対者がいることが我慢ならず、反対者はいないと見せかけないと気が済まないのです。
 
前から言っていますが、彼は決して民主主義者ではありません。人の言うことなど、聞く耳を持ちません。単純に、今は、これがかっこいいくらいの単純な気持ちで、反体制的な記事を転載していますが、風が変われば、何を支持し始めるか、分かったものではないのです。彼は書き、他者は見て同意する、それ以外の人が関わることを許しません。反対者がいてコメントすることを、とんでもない異常事態として、排斥してきたのでしょう。逆らったときから、彼は本性を露にしてきます。
 
彼は、考えることも話し合うこともしない権威主義者です。自説のみによって完成の自覚を持ってしまう者です。前に自分で書いていた頃は、社会をぼろくそに言ったあげく((これを私は「シャロムのボロクソ節」と呼んでいます))、原因を彼の自説のキリスト信仰?を受け入れない社会ということに帰して結論するという、政治と宗教の混同によって無根拠に自分と同じ信仰?を持つことが政治の解決、ということを大仰に勧めるのです。誰もが同じ信仰を持つこと、そのことが既に非現実の世界なのです。
 
彼の聖書解釈による誤謬だらけの信条から政策が生まれるかのように語っていました。これは、自分が詳しいことと詳しくないこととの区別の出来ない身の程知らずであります。しかも、彼は、信仰の問題においては、神の啓示であるから議論の対象にならないという理由で、議論しない訂正不能の自分を正当化していたのです。彼は、その話を未だ訂正していません。
 
彼を、おかしな奴と笑って済ませて放っておくことが出来ない理由は、彼が、恐ろしいことに牧師として30年のキャリアを持っていること、それによって、社交の世辞や丁寧語や聖書語という言葉面にだけ長けていること、それによって、賛同者が現に存在しているからです。そういう騙された賛同者から、数日間にわたって日に百コメ以上の遣り取りを強いられたこともあります。
 
 
彼は、反論できないものだから、苦言を呈する者のコメントを日課のように削除している。個人の趣味ならば、それでもよかろう。しかし、問題は、大きなテーマについて、それを私物化している者がいるということだ。書き込み欄が完全に皆無となり彼からの単方向ブログとなるのに、あと30記事分くらいのコメント欄しか残っていない、いや、もう完全な独り言ブログになっているかもしれない。コメントで誤りを指摘されるのが最も嫌な彼にとって、双方向を否定している彼は、コメント全面拒否が苦痛にならないようだ。好きなように言い放って終わりにして、あとは神を讃えれば信仰だと思っているようだ。
 
推測として、彼は、温もりから情熱までの、信仰に必要な温度を持っていない。それらをキリストから受け取ったというしるしもない。彼にあるのは、過去の苦い体験と怨みであって、典型的な弱者の道徳、つまり、ルサンチマン信仰であり、彼を駆り立てているのは、彼自身の怒気に他ならない。
 
自らをも俎上に置いて切り刻まれる覚悟で言う者と、俎上に置かれることだけは拒んで逃げまくっている者との闘いである。
 
神を信じて、できるだけ、嘘を吐かなくなる者と、神を信じているから、嘘はない、という嘘を吐き続けるものとの闘いである。
 
神を信じて、自分の言動を相対化し、折に触れて、その正邪を祈りのうちに神に任せて祈りを捧げる者と、神を信じているから、自分の言動は神の啓示で、すべて正しいことを讃美するだけの者との闘いである。
 
神を信じて、神の下にある人間であることを切望して考える者と、神を信じているから、神のように人に説教することが務めだと信じて、無謬の資格を自分で自分に与えて、いかなる自分の過ちも、それについてのいかなる批判も無視するのが信仰だと思い込んでいる者との闘いである。
 
 
(その名は不思議「バベルの塔」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27964664.html
 キリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 悔いることなく改めることなく赦され、罪を気にしない、
 つまり、不実を行って、同時に、神を讃美する、という、 
 二律背反の同時進行をしているような信仰を
 どうして受け入れられるでしょうか。
 読んでも決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年02月26日、同日一部修正)
 
破綻百出(はたんひゃくしゅつ)
露にする(あらわにする)
長ける(たける)
俎上(そじょう)
 
 

 

 
  信仰のツボ
 
 
ヨブ記においては、ヨブが神に弁明し抗議したところを隠し、ヨブが神を讃美したところだけを書く。バラバについては、パリサイ人などが煽動して民衆がピラトにバラバを赦免しろと言ったことを知らずに、バラバも神に救われたと言ってしまう。彼が、これらの解釈において、パリサイ人の肩を持ったという証拠であり、聖書を歪曲していることの証拠でもあります。
 
上の前者には、神に抗議して神に一喝されたヨブの姿が、後者には十字架上で悔い新ためてキリストに赦された別の犯罪人の姿が印象に残っています。そこから、聖書は、都合の良い美味しいことだけを書いている書物ではなく、人間のありのままを書いている、という印象が残っていて、そこを読んでいて、キリスト者になる切っ掛けの一つになっている人は、そこを間違えません。聖書には、分からないところがいっぱいあります。しかし、自分が感動し目覚めた芯となるところを人は忘れません。
 
信仰を本気で考えず社交で済ませてきた者は、神とキリストと聖霊の聖三位については、とにかく褒める、というスタンスしか持たないのでしょう。聖書解釈のツボとなる所を知らないのでしょう。それで、たやすく勘違いをして、あるいは曲解して、体よく書いたつもりが馬脚を露す結果になるのです。彼が熱心なのは、信仰ではなく、世間体における自らの聖なる位置だからです。
 
逆らう批判者に対して、反論の代わりに侮辱を返し、それでも批判する者には、無視とコメント削除によって足跡を消して隠蔽によって保身を謀る者でも、それが信仰だと思い込んでいる場合は、過ちを徹底的に隠して、丁寧な言い回しや聖書に因む言葉によって、一定の賛同者を獲得します。彼には、それが必要だからです。必要とは、自分と同じ信仰?を次の世代に残すことを確認することで快楽を得るからでしょう。そのことが最も災いであり、賛同者のままだと、当然、その人も、後輩に同じような信仰?を同じようなやり方で広めてゆくからです。
 
それでも、偽物は、神によって駆逐されるだろうから、関わらずに、神に委ねましょう、というのは、人の身勝手な思い込みか言い逃れの可能性があり、出来ることを怠っている場合があります。
 
私たちは、人間として出来ることがあり、それしかありません。出来るのか出来ないのか、批判は出来なくても出来ることがあるのか、そこをよく考えないと、そのような信仰のあり方は、別の安易な現実逃避の信仰をもたらしてしまうでしょう。それも、神に委ねて直してもらって・・などと考えることが重なると、何もしなくてもいいんです、という信仰?を育てることになるでしょう。それは、何をしても赦されるからいいんです、という無罪信仰とそっくりな結果を招くことになるのです。
 
信仰は決して難しいものではありません。しかし、人生をともにする信仰は同時に、安易なものでもありません。結局、信仰の正邪を決めるツボは、自分をどれだけ神に対して謙る者と出来るか、ということになります。謙ることが出来るというのは、いかに人間として、神との知識と能力の決定的な違いを弁えられるか、ということになります。したがって、全能の神に対して、不全の人が大事にするべきことは、人間であること、それゆえに、自らを悪から除外できないほど、いかに罪深い本性に囚われているかを知ることに他ならないのです。
 
つまり、信仰ゆえに行うところの信仰告白も不信仰告白も、安易な訂正不能の不変の信仰の讃美などではなく、自らの囚われからの解放を、現象としては内省を心掛けて、時々に悔い改めて、新しくしていただく、祈りの信仰であります。平安は決して常在ではなく、解放のたびごとに祈りに答えて与えられるものです。
 
 
(その名は不思議
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 キリスト信仰の福音伝道を装っているサイトです。
 罪と偽善を指摘する反対意見を次から次に葬り去って、
 悔いることなく改めることなく赦され、罪を気にしない、
 そんなキリスト信仰をどうして受け入れられるでしょうか。
 読んでも決して好意的に関わってはいけないブログです。)
 
 
(2017年02月25日)
 
謙る(へりくだる、遜る)
 
 

 

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