信じ方
私は、次の、1.より、2.のほうが信仰者としての人間に相応しいと思っている。
1.信仰者なのだから、神に、信じていますというのが当然で、人に対して、神はいると言い張るのが信仰者のあるべき姿だから、負けない、という信じ方。
2.生きるのに必要だから、というシンプルな理由で信じているけれど、信じ方がこれでいいのかは、神の導きにお任せします、という信じ方。
1.は、言い張ることで怒気に結び付きやすい傾向があり、また、勝ちを求める争いになりやすい。神に対する敬虔は、人に対する表面的な礼儀に堕しやすく、それを超えると強気になりやすい。
2.は、現実の孤独における永遠の友つまり同伴者として、主イエスの必要不可欠を信じていて、折に触れて信仰者自身は修正可能な学習の継続による成長を前提としている。温もりと潤いを大事にして、人間としての限りある感性と理性から離れない意識で反応することを志す。
神は、御自身への味方として人を愛されるのか、御自身を求める人の心を見てそれを愛されるのか、聖書を見れば、あくまで後者であることを考えてほしい。
神は、人の味方を必要としない御方である。神が人を愛するのは、味方してほしいからではなく、在って在るごとく、自らお造りになった被造物を愛して愛するからである。
1.は、神の存在を、人が把握できるかのような意識である。神を決めつけやすい条文としての信条を持つ。
2.は、神の存在を何よりも必要としている、という意識である。祈りの折々に赦しと癒しと救いを悔い改めて受ける態度を持つ。
1.は、超常の神を語ることが多い。御心成就の心境になりやすく、それを語る傾向がある。
2.は、神による現実の支配を望み、罪の支配からの解放に希望を寄せるので、罪人である自らの立場を語らないではいられない。
1.は、信仰に必要なのは、意思表示ではなく、讃美であることが多い。
2.は、信仰に必要なのは、祈りにおける飾らぬ意思表示、ということを重んじる。
神を信じる信仰者の目指すべきあり方は、超越的ではなく、超越を夢見ることでもなく、人間的な感性による情熱と、人間的な知性による道理を生かす道である。また、悲しみを無視することではなく、悲しみながら祈り、悲しみを経て冷静な思慮と忍耐強さに育てていただく切なる希望である。正直な祈りを必須とするのは、まさに、そのためである。
(2017年12月31日)
相応しい(ふさわしい)
志す(こころざす)
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