ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年12月

 
  信じ方
 
 
私は、次の、1.より、2.のほうが信仰者としての人間に相応しいと思っている。
 
1.信仰者なのだから、神に、信じていますというのが当然で、人に対して、神はいると言い張るのが信仰者のあるべき姿だから、負けない、という信じ方。
 
2.生きるのに必要だから、というシンプルな理由で信じているけれど、信じ方がこれでいいのかは、神の導きにお任せします、という信じ方。
 
1.は、言い張ることで怒気に結び付きやすい傾向があり、また、勝ちを求める争いになりやすい。神に対する敬虔は、人に対する表面的な礼儀に堕しやすく、それを超えると強気になりやすい。
 
2.は、現実の孤独における永遠の友つまり同伴者として、主イエスの必要不可欠を信じていて、折に触れて信仰者自身は修正可能な学習の継続による成長を前提としている。温もりと潤いを大事にして、人間としての限りある感性と理性から離れない意識で反応することを志す。
 
神は、御自身への味方として人を愛されるのか、御自身を求める人の心を見てそれを愛されるのか、聖書を見れば、あくまで後者であることを考えてほしい。
 
神は、人の味方を必要としない御方である。神が人を愛するのは、味方してほしいからではなく、在って在るごとく、自らお造りになった被造物を愛して愛するからである。
 
1.は、神の存在を、人が把握できるかのような意識である。神を決めつけやすい条文としての信条を持つ。
 
2.は、神の存在を何よりも必要としている、という意識である。祈りの折々に赦しと癒しと救いを悔い改めて受ける態度を持つ。
 
1.は、超常の神を語ることが多い。御心成就の心境になりやすく、それを語る傾向がある。
 
2.は、神による現実の支配を望み、罪の支配からの解放に希望を寄せるので、罪人である自らの立場を語らないではいられない。
 
1.は、信仰に必要なのは、意思表示ではなく、讃美であることが多い。
 
2.は、信仰に必要なのは、祈りにおける飾らぬ意思表示、ということを重んじる。
 
神を信じる信仰者の目指すべきあり方は、超越的ではなく、超越を夢見ることでもなく、人間的な感性による情熱と、人間的な知性による道理を生かす道である。また、悲しみを無視することではなく、悲しみながら祈り、悲しみを経て冷静な思慮と忍耐強さに育てていただく切なる希望である。正直な祈りを必須とするのは、まさに、そのためである。
 
 
(2017年12月31日)
 
相応しい(ふさわしい)
志す(こころざす)
 
 
 
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  伝えること
 
 
多くの人が、信仰を伝えるのに、ことさら神の偉大さを讃美することで、芯を外している。
 
信仰を伝えるのは、罪を赦される福音を伝えることだから、なぜ自分の罪や至らなさ、という、人の不全を語らないのか。そのほうが、よっぽど、内容が豊富なはずなのに。
 
神を肯定し、キリストを肯定し、聖霊を肯定し、信じますというだけなら、それは、私はこんなにも熱心に信じています、と言っているだけではないか。
 
神・キリスト・聖霊を肯定することも信じることも、それを言うだけなら、受洗の時と何の変わりがあろうか。受洗の前と後の試練と幸いをなぜ語らないのか。
 
讃美を聞くことは、伝道において、求道者に、予定調和の退屈を与えるだけだろう。それはもう聞いた・・と思われそうだと考えないのだろうか。
 
求道者が聴きたいのは、いかなる試練を乗り越え、いかなる幸いを経験したのかということではないのか。それを語らないで、いったいどんな福音が伝わるというのか。
 
別に個人の人生の打ち明け話を全部言えということではないが、信仰に至る、また、信仰を取り戻す、というプロセスこそ、福音の最も重要な部分ではないのか。
 
めでたい話だけでは、めでたい奴だと思われるだけになる可能性があるだろう。めでたいだけで信仰生活に至ることもないだろうし、信仰を維持することもできないはずだ。
 
なぜ、不明のままになりそうな超常を讃えて、明らかなることを目指そうという人間を語らないのか。すぐに話せないことなら、共に考えることを提案するべきではないだろうか。
 
なぜ豊かな感情と人間性によって受け取った福音を語らないのか。なぜ、一部の偽善者のように、福音を、都合のよい超常の、人間の手に負えない奇跡まみれにしてしまうのか。
 
超常を大事にしてしまうのは、そこに神がいるからと言っても、私たちは、そこに、何の手に負える務めを持ちうるというのか。私たちの務めは生きる間は地上にしかないのである。
 
心は、生きているのか、死んでいるのか。いったいどの神が、同じことを繰り返せば大丈夫、と命じたと言うのか。なぜ自らの人間性のバネをもって弾けようとしないのか。
 
超常の奇跡は神のものだ。それを信仰として語れば、信仰は奇跡と引き換えになってしまうだろう。なぜ血の通った人間の結果ではなく、血の通わない魔法の結石を蒔こうとするのか。
 
神は人間性を捨てよと命じてはいない。キリストは人間性に共感し、罪深くても、人間性を憐れんだ。人間は、人間の手に負えることしか語れない。
 
聖書において、超常の神を理解したからでも、讃えたからでもなく、分からないまま、人間として救われた人々の心を見るべきだ。彼らは、本音しか語れないほど、行き詰まっていた。
 
大昔の超常の奇跡物語は、実存として、現代の魂の奇跡物語に結び付くけれど、現実そのものではない。その実存を受けた現実を語るべきだ。
 
人間の話について、語る者が少ないのが、人は勝手に語るなという意味なら、超常だけを語るのは勝手ではないのか。より大きな罪の勝手になっていないか。
 
戒めも懲らしめも教えも赦しも癒しも救いも、私たちが受けたのは、実存として、今生きるためである。恵みも試練も、今を語らずに明らかにはならず、生きた実を結ぶこともない。
 
人間が伝えられる奇跡は、生きている魂の奇跡だけである。
 
 
(2017年12月30日、ブログ村の所属カテゴリー及びリンク修正)
 
讃える(たたえる)
弾ける(はじける)
蒔く(まく)
 
 
 
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  信仰と逃避
 
 
悲しみや苦しみから目を背けて神をたたえ、神の与えた宿題である試練から目を背けて神をたたえ、神を誉め讃えて、いつも喜んでいる顔を作り、お付き合い気分で渡って、不思議がる人々には、何も知らないくせに・・と、心の中に、次から次に恨みを重ねてゆくのが信仰だというのだろうか。いつの日か、どうしても喜べない試練と終わりの時が来るまで、それこそ逆に何も知らない間だけ、幸せ気分に浸るのだろうか。
 
喜びながら語り、喜びだけを伝えようとする伝道において、積み重なってゆくのは、悲しみの心情を抑制することによって起こる偏狭な思い込みの固定化による人の主観が、人間世界の真実の必要と、まるで噛み合わなくなって起こる、乾燥した、一種の非情な残酷さだろう。
 
神の言葉として聖書や教理の言葉と讃美の言葉だけを語っておれば、考えるのが面倒臭い向きには、当座は、とても楽なのである。しかしその思考停止が常習化してしまうと、もはや信仰は、成長もなくなり、信仰とは違う固定観念になってしまうだろう。それらは、集団において、また特にカルト宗教において顕著に見られるものだ。
 
その固定された観念の乾燥状態は、信仰者個人においては、困っている人の気持ちに、また、自分のために困っている人の気持ちに、気づかなくなることだ。
 
つまり、人の気持ちが分からなくなるのである。その場の状況を弁えず、自分の分をも弁えず、否定の忠告を、肯定の忠告抜きでやってしまう、とか、相手に言い返すことが出来なくなって、しまいに神聖の名をみだりに唱えて一喝して相手を黙らせようとする、とか、人間として不自然だという直感がなくなって危機に気づかない、とか、困ったときに余裕の笑顔をかぶせて凌ごうとする、とか、引きつった笑いは、表情にも文脈にも表れることがあるだろう。前に言ったように、神への背きが、人によって暴かれることもあるということである。
 
キリスト信仰者は、信徒であれ、聖職者であれ、その弱さと傷すなわち罪において、求道者と何ら変わりはない。下手に、悟ったものとして振る舞ってはいけない。神の全知に比べれば、私たちは、無知と言ってよいものだから、同じ罪深さという低さを失ってはいけない。無知は、無恥になってはいけない。周りを見ない無恥の強さではなく、無知の弱さだから主は憐れんでくださるのである。
 
 
聖職者である先生には逆らわないようにしましょう、
背教者や迫害者にされてはいけませんから、
などということは、
 
先生が奇跡を語ったら
先生を喜ばせるために一所懸命に頷きましょう
などということは、
 
説教が終わって廊下に出たら
後ろ姿に
あばら骨を浮き彫りにするようなものです。
 
家に戻ってから
トイレの鏡に吐きましょう。
何も受け取れない、
何も受け取れない、
上から下への
教理のボタン掛けなどからは。
 
キリストが
失われた羊を探しに来られたときに、
自分の泣き声が聞こえるように、
 
主の前に
悲しいことなどないかのように
喜びで飾って振る舞ったりすることのないために、
 
そのとき人が用意するべきものは、
正直に告白するために忌憚のない心の自由です。
まさにその解放をもたらしたはずなのが信仰なのです。
 
悲しみの時こそ
赦しと癒しと導きと救いが必要です。
 
そのとき人が用意するべきものは、
飾ってバカっぽく喜び笑っていることではなく、
癒してほしい悲しみを真剣に告白することです。
 
主が探し求めるときに、
不正直に隠されたものを主は見抜きますが、
 
隠したということは、
救いのための告白が必要ないと言っていることに等しく、
災いも試練もなく幸福ですと嘘を吐くことになり、
 
キリスト者でも救いに与れない時とは、
そのように隠し事によって
キリスト者の務めを果たさなくなる時なのです。
 
私たち信仰者の務めは、
つまるところ正直に告白することだけなのです。
 
儀式などは
それが行えない事態がありうることを考えれば、
副次的な行事であることが分かるでしょう。
 
そんな時でも祈りはするでしょう。
つまりそれのみが
行いとして最も大事なことだと分かるはずです。
 
隠す心には
主の前に隠せるという傲慢があり、
また人が自らを立派に見せかけようとする高慢があるからです。
それは偽善者のわざです。
 
自分が群れを離れたこと、
自分が悪しき者たちの中にいること、
それらの間違いを気づかせるのは、
この世の束縛から解放された心で主に祈る心に他なりません。
 
その真実につながる心を、
人に義理立てしたり、
はばかって控えたりすることは、
さらに祈りの言葉にまで綺麗ごとを並べたりすることは、
信仰ではなく社交に仕えている証拠なのです。
 
主は、聖書にあるように、
人の嘘を余すことなく見抜かれます。
主は、主を心から欲する者だけに関わって来られるでしょう。
 
 
(2017年12年29日、同日一部修正)
 
凌ぐ(しのぐ)
頷く(うなずく)
傲慢(ごうまん)
忌憚(きたん)
 
 
 
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  信じると信じ込む
 
 
神の存在を信じるといっても、神はいないと言う人に対して、いや、いるんだ、と断言することは、空言に等しい。分からないとか証明は出来ないとか言うほうがまだマシだ。
 
少なくとも、薄笑いを浮かべながら、いるのですね!・・、と顔を力ませるときの薄笑いの緊張が、何にも知らないで、と相手を下に見る姿勢になっていることに気づくべきだ。
 
このように、信仰者の自尊が現れる機会は意外と多く、勝ち誇り、さげすみ、俺は知ってるんだという保身の態度を表すことになったら、敬虔でないのは自分のほうということになる。
 
そこには、負けてはいけない、という気持ちが強く働いているが、福音伝道は、良き訪れを伝えることであって、負けない、勝つ、という結果は、伝道とは縁のないものである。
 
冷や汗を覚えながら、負けまいとする態度は外に表れて、我を忘れて、目と心で狼狽えて相手を圧するものを探していることが多い。
 
信仰の勝利と言うのは、キリストが、張り付けられて殺される、という負けの見かけの極致を経て、世界の救い主となった対比のためだろう。
 
宣教において、キリストは勝ちなど目指さず、勝ちを誇らなかったことを知るべきである。キリストの「偉くなりたいと思う者は、仕える人となり」の手本はキリストご自身である。
 
仕える人は、虚心だから、是々非々を判断して、伝えることに専念するが、社交の世辞の丁寧語でごまかして気に入られようとはしない。伝道は社交ではない。
 
ひとりひとり違う解釈と信仰観が育ってきているのだから、それを認め合う和解の心は大切だが、信仰の有無の問題について、馴れ合いになってはいけない。命の問題だからだ。
 
人が人に伝えるのは信仰についての意見に過ぎず、信仰は自発的なものだから、強制力を用いてはならない。強制力は神の裁きのみである。神のみを恐れるべきである。
 
分からないことは、分からないというのが正解である。分かる、何故なら聖書に書いてあるから、では答えにならない。聖書に書いてあることが、人間に成り立つ確認が必要だ。
 
聖書に書いてあることから教理の言葉が生まれているが、その言葉をいくら振り回しても、現実との接点がなければ、まじないと一緒である。
 
聖書に書いてあるからと、どんでん返しのように奇跡が起こって救われるのです、と言っていた偽善者は、自分が何をしても赦されるから気にしないという独善にしがみついていた。
 
また、実のある言葉は、人間の心を温めるか潤すだろう。どちらもないものは、まだ命を持たないから、そのまま押すだけだと、逆に命を損なうようになるだろう。
 
信じるということは、そこに言葉ではなく実の対応があり、心を温め潤して、命を生かすから、信じると言えるのであって、それが見られない言葉は、金具に過ぎない。
 
金具を振り回してはいけない。摩擦で傷むばかりだ。丁寧なだけの言葉は錆びた金具になりうる。擦り合わせれば、ひどくなって火傷するだけである。
 
信じるということは、温もりと潤いに満ちた命を受けることである。それを受け取ったならば、もはや、信じるという言葉は繰り返す必要のないものとなってゆくだろう。
 
言葉で信仰そのものを表すことは出来ない。したがって、言葉だけを繰り返して中身を飲ませようとするのは、心も命もない石を呑ませるようなものである。
 
信じるということは、そこで信じると言わなければ天国か地獄に分かれる、というようなことではない。神は驚くべき寛大さをもって、歩んでゆく人のわざと罪に耐え忍んでいる。
 
神はそれほど寛容に人を愛するのだから、人は、挫けても挫けても、悔い改めを忘れない限り、何度でも赦され癒され導かれるために、祈りが与えられている。
 
だから、つまずいても、反省して歩むことが信仰である。間違っても、与えられた時から不変の恵みというものはない。折に触れてその都度に与えられるのが信仰の恵みである。
 
揺るがない信仰とは、誘惑に負けないことであるが、あるとき負けても、悔い改めによって歩みを続けることが可能になるのが信仰という道である。
 
神から与えられたと境地自慢に走るのは、それが、とても安易だからである。与えられた不変の境地は大方自己陶酔であり、ただ怠けてスーパーになりたいカルトの欲望に過ぎない。
 
そのようなカルトは、キリスト教とキリスト信仰からも生まれ得る。安易な陶酔や聖人超人願望は、信仰を求めるときの最も大きな誘惑だからだ。信じ込んではならない。
 
信仰は、不明を明と、信じ込むことではない。信じ込むのは偶像崇拝である。
 
私たちは、多くのことについて不明であることに悩み、何にも知らないと言ってよいくらい乏しいが、泣くときに何をすればよいかを与えられて知っている。
 
 
上に書いたうちの悪い例は、過去において確かに私にあったものだ。私がルサンチマン(≒嫉妬からの怨念と負け犬根性)と偶像崇拝を克服するのは今も大変である。信仰は、いつでも生きているあいだ、導きを受けて祈り、悔い改めることで修正可能で成長可能な道である。そこに川があり、泉があり、折に触れて、心を潤し温めるための休みと憩いが与えられる道である。
 
 
(2017年12月28日、同日一部修正)
 
空言(そらごと、くうげん)
狼狽える(うろたえる)
仕える(つかえる)
馴れ合い(なれあい)
一緒(いっしょ)
実(み、じつ)
錆びる(さびる)
傷む(いたむ)
火傷する(やけどする)
擦り合わせる(すりあわせる)
呑む(のむ)
挫ける(くじける)
 
 
 
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  衰弱と臨終
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
 わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
 
たとえ死にゆく人が目を背けても、キリストはずっといつまでも見ておられるという話なのです。
 
少しヨブ記などを意識して、少しだけ引用もして、もしヨブが不幸のまま死んだとしたら、信仰はどうなるかみたいなことも考えてみるわけです。現実には、不幸のまま終わるように見える人生もあるわけですから、それでもヨブのように最後に救われるんだと信じることが信仰なのか、あるいは、いや、幸福だったのだと思い込むことが信仰なのか、ということについて疑問に思うことも含めて考えたいわけです。詩作品だから、端折ってはいますが。
 
どんなに幸福な人生であっても、死んでゆくときは独りですから、どんなに仲の良い友人に囲まれたとしても、生きてゆくためには、絶望的な絶対孤独から解放され自由であることが信仰者には不可欠だと思います。生きている間も、ずっとそうなのです。
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
神の立場で物を言うときがありました。神の立場で物を言いたいときはもっとありました。キリスト信仰が一番だと断言したかったのでしょう。とても罪深いことでした。信仰は、罪を悔いて告白し、それによって少しずつでも人間としての生き方を学習し成長してゆく道です。
 
 
(2017年12月27日、同日一部修正)
 
先にアップしたのと同様に、昔、書いた宗教詩のようなものを、少し改めたりしたものです。
 
 
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