キリスト教嫌い
キリスト教嫌いの人に対しては、多くのキリスト者と、キリスト教会は、まるで、神の敵である悪魔のような人もいるみたいに言って済ましているかもしれないが、とんでもない、多くのキリスト教嫌いは、教会が作っていると思う。
信じる前には、クリスマスのどんちゃん騒ぎがあっても、そういうもんだと思っているだろうから、このキリスト信仰の薄い日本において、キリスト教を目の敵にする要素は、一般には、殆どないと言っていいだろう。
何かの苦難に遭って、救いを求める時に、教会を訪ねてみる。ところが、そこで教えられたのが、十字架の贖いや、三位一体や、聖書語の類で、神はいないと言ったら脂ぎった眼差しで圧力を加えられたり、とかいった牧師や信徒であったなら、キリスト教クソくらえ、になっても、何の不思議もないのである。
そこには儀式や形式に堕して神秘を崇拝している人や、教理一辺倒でそれ以外何も言えない人や、少しでも否定的であったら神の敵と見なす人や、信仰をひたすら肯定しているだけの本音を語らない人や、どんな時でも薄笑みを浮かべるのがクリスチャンだと思い込んでる人や、契約だの約束だの、天のお父様だの、神様と一体になるだの、夢物語しか語れない人や、およそ人間に対する共感を持たないのがキリスト者だと思っている人々が、非人間性を表に出して共感も何もない空約束を連発しているような教会と牧師と信徒であるなら、キリスト教嫌いにならないほうが不思議なのである。
このようにキリストの切なる福音を理解しないどころか曲解して、この世を敵としているような教会においては、また、神に選ばれて救われた意識で啓示だの聖霊だのを出して自分が特別であるかのように神の正当性を言い張ったりするような教会とキリスト者においては、私には、はっきり言って、むしろ、キリスト教嫌いになるほうが正常だと思えるのである。
この地上の有象無象において、自分を特別だと思いたがる者たちがいっぱいいて、神の奇跡や預言などの超常という、人間に手に負えないようなことを信条にして、いい気持になっている者たちが守る教会は、従う人を歓迎するが、その従属は、神のしもべではなく、教条の奴隷に他ならず、殆ど妄想の国に人をいざなうものとなっている。
キリスト教嫌いは教会が作っていると言わざるを得ない。
私が、そのような教会にいて、教会を飛び出したというわけではない。私が教会に行かなくなったのは個人的な事情だ。そこは勘違いしてほしくない。まともな教会は、恐らく、今もまともだろう、少なくとも、まともに近いだろうと思っている。それは、自由な発言が許されている教会だったから、という理由である。
しかし、ネットで、信仰者や聖職者の有り様を見ていると、中には、とんでもない教条崇拝、つまり、ことばと心の中の偶像崇拝をしている者とか、自らの個人的な勝手な解釈による妄想を押し出して支離滅裂なのに説教だけは止めない者とか、それこそネズミのように逃げ隠れして裏で卑劣なことをしながら表で神を讃美している者とかもいるようで、しかも、その罠にかかって、そのおかしい者と行動を共にしている犠牲者か後継者らしい者もいるのである。
だから言いたいのは、キリスト教に疑問を持っていいし、キリスト教を嫌ってもいい、ただ、何が気に食わないかを記憶しておいてほしいと思うのである。そのほうが、将来的には信仰者になる見込みがあるからだ。超常を語るカルトや、伝統宗教のカルト化が目立つのが今のキリスト教をめぐる現状である。
神様を知っていますか、と問いかけられたら、知りません、知りうるとも思いません、と答えていいと思う。さらに、知らないし、分からないから、一緒に考えてみませんか、と言うべきだろう。神を知っているから教える、などという人は信頼するに値しない。神を知らない人間としての共感が信仰だということを知らない者たちだからだ。
私たちが信じ仰ぐ神は、知っているから仰ぐのではなく、知りようもない超常の神であって、その信仰の道を切り開いたのは、キリストという御方であり、信仰の始まりは、その御方を好きになることであり、信仰は、その御方について理解できるところ、つまり、キリストの深い洞察力と豊かな情感、そして何よりも、人間の苦難や悲しみに対する共感と憐れみ、それらによって、私たちは絆されているのである。
近況、余談)
母、介護施設より一時帰宅・・
・・( いろいろ )・・
私「それは俺が死ぬってことだね」
母「はい」
・・・
母は、あとで取り消しはしましたが、
認知症の母との会話は、ときに壮絶なものになります。
(2017年12月26日)
目の敵(めのかたき)
絆す(ほだす)
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]