ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年12月

 
  キリスト教嫌い
 
 
キリスト教嫌いの人に対しては、多くのキリスト者と、キリスト教会は、まるで、神の敵である悪魔のような人もいるみたいに言って済ましているかもしれないが、とんでもない、多くのキリスト教嫌いは、教会が作っていると思う。
 
信じる前には、クリスマスのどんちゃん騒ぎがあっても、そういうもんだと思っているだろうから、このキリスト信仰の薄い日本において、キリスト教を目の敵にする要素は、一般には、殆どないと言っていいだろう。
 
何かの苦難に遭って、救いを求める時に、教会を訪ねてみる。ところが、そこで教えられたのが、十字架の贖いや、三位一体や、聖書語の類で、神はいないと言ったら脂ぎった眼差しで圧力を加えられたり、とかいった牧師や信徒であったなら、キリスト教クソくらえ、になっても、何の不思議もないのである。
 
そこには儀式や形式に堕して神秘を崇拝している人や、教理一辺倒でそれ以外何も言えない人や、少しでも否定的であったら神の敵と見なす人や、信仰をひたすら肯定しているだけの本音を語らない人や、どんな時でも薄笑みを浮かべるのがクリスチャンだと思い込んでる人や、契約だの約束だの、天のお父様だの、神様と一体になるだの、夢物語しか語れない人や、およそ人間に対する共感を持たないのがキリスト者だと思っている人々が、非人間性を表に出して共感も何もない空約束を連発しているような教会と牧師と信徒であるなら、キリスト教嫌いにならないほうが不思議なのである。
 
このようにキリストの切なる福音を理解しないどころか曲解して、この世を敵としているような教会においては、また、神に選ばれて救われた意識で啓示だの聖霊だのを出して自分が特別であるかのように神の正当性を言い張ったりするような教会とキリスト者においては、私には、はっきり言って、むしろ、キリスト教嫌いになるほうが正常だと思えるのである。
 
この地上の有象無象において、自分を特別だと思いたがる者たちがいっぱいいて、神の奇跡や預言などの超常という、人間に手に負えないようなことを信条にして、いい気持になっている者たちが守る教会は、従う人を歓迎するが、その従属は、神のしもべではなく、教条の奴隷に他ならず、殆ど妄想の国に人をいざなうものとなっている。
 
キリスト教嫌いは教会が作っていると言わざるを得ない。
 
私が、そのような教会にいて、教会を飛び出したというわけではない。私が教会に行かなくなったのは個人的な事情だ。そこは勘違いしてほしくない。まともな教会は、恐らく、今もまともだろう、少なくとも、まともに近いだろうと思っている。それは、自由な発言が許されている教会だったから、という理由である。
 
しかし、ネットで、信仰者や聖職者の有り様を見ていると、中には、とんでもない教条崇拝、つまり、ことばと心の中の偶像崇拝をしている者とか、自らの個人的な勝手な解釈による妄想を押し出して支離滅裂なのに説教だけは止めない者とか、それこそネズミのように逃げ隠れして裏で卑劣なことをしながら表で神を讃美している者とかもいるようで、しかも、その罠にかかって、そのおかしい者と行動を共にしている犠牲者か後継者らしい者もいるのである。
 
だから言いたいのは、キリスト教に疑問を持っていいし、キリスト教を嫌ってもいい、ただ、何が気に食わないかを記憶しておいてほしいと思うのである。そのほうが、将来的には信仰者になる見込みがあるからだ。超常を語るカルトや、伝統宗教のカルト化が目立つのが今のキリスト教をめぐる現状である。
 
神様を知っていますか、と問いかけられたら、知りません、知りうるとも思いません、と答えていいと思う。さらに、知らないし、分からないから、一緒に考えてみませんか、と言うべきだろう。神を知っているから教える、などという人は信頼するに値しない。神を知らない人間としての共感が信仰だということを知らない者たちだからだ。
 
私たちが信じ仰ぐ神は、知っているから仰ぐのではなく、知りようもない超常の神であって、その信仰の道を切り開いたのは、キリストという御方であり、信仰の始まりは、その御方を好きになることであり、信仰は、その御方について理解できるところ、つまり、キリストの深い洞察力と豊かな情感、そして何よりも、人間の苦難や悲しみに対する共感と憐れみ、それらによって、私たちは絆されているのである。
 
 
近況、余談)
母、介護施設より一時帰宅・・
・・( いろいろ )・・
私「それは俺が死ぬってことだね」
母「はい」
・・・
母は、あとで取り消しはしましたが、
認知症の母との会話は、ときに壮絶なものになります。
 
 
(2017年12月26日)
 
目の敵(めのかたき)
絆す(ほだす)
 
 
 
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  絆(きずな)
 
 
  神とキリスト
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
 
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない
 
 
自分の成り行きを思い起こしてみると、今でさえ、神を愛するより、神を恐れます。しかし同時に、キリスト・イエスを思えば、・・という感じで、とどまっているのです。
 
 
   絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
そのように見える人がいたという体験です。確かめたわけでも話をしたわけでもありません。
 
失恋して、初恋のあの人が去っていったときに、また、心くじけて、私がいるべき場所を去ってきたところで、呆然と突っ立っていた。呆然と突っ立っている・・気がする。今も。
 
そういうことを言ってはいけないよ、などと言って上品に装うご立派な宗教になるくらいなら、見苦しい裸のままをさらす信仰を見ていただこう。
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
「鶏が鳴く前に(何度裏切って)」という意味です。ユダとまではいかなくても、少なくともペテロの裏切りは自分に当てはめるべきだろう。私には覚えがある、いや、何度も覚えがある。あんまり多くて、日常になってしまって、分からないことさえ、分からなくなっている。飾ってはいけない。人が神を飾ることは出来ない。
 
 
(2017年12月25日、同日一部修正)
 

最近アップしている詩のようなものは、多く20年位前に書いたものです。
 
 
 
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  キリスト像
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 

階段のある教会は、最初に聖書のことで訪ねたカトリックの教会のイメージです。
 
洗礼を受けたのは17歳、もはや45年前、はっきりとは思い出せないほどだが、ひょっとしてクリスマスのときだったか、佐世保の小さな教会、滴礼だった。受験を控えた大事なとき、失恋で心の乱れていた頃でした。その後、失恋後遺症、読書障害、コミュニケーション障害、対人緊張、と思われる挫折、鬱は、長く長く続いて、・・もう働くこともできませんし、クリスマスが来るたびに、自分の人生が何のためにあったのか、さっぱり分かりませんが、キリスト者になっていなければ、最悪の場合もあっただろうとは思うのです。私が生きてよかったか、死ねばよかったか、それは、なお、神様だけがご存じなのでしょう。私は分かりません。
 
メリークリスマス
 
 
(2017年12月24日)
 
夥しい(おびただしい)
 
 
 
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  御言葉
 
 
困ったときに、聖句を思い出し、または、探してみるのは当然のことですが、
 
前に書いたことですが、
 救いを教理で信じてしまうと
 救いにつながる神の行為を
 人が神に当てはめて
 勝手に決めて信じてしまいたくなります。
 
既に全知である神は面倒臭さなど持っていないが、
人には、面倒臭さを感じやすく
答えを欲しがって結論へと短絡してきた歴史があるからです。
人は、正しさを自分が見つけたことにしたいのです。
 
聖なる句というのは、解釈すれば人の勝手になってしまいやすく、
信じる、という言葉の形式が招くものは、常に怪しさを含んでいます。
 
自分の意志で信じる、ということになっていますし、そのように言うことが多いのですが、そうでもなく、信じるに至っている、なぜかは分からない、という感慨があるのに、そこを、人は、言葉にして固定したがる性質があるのです。
 
 (詩篇、口語訳)
8:4
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
8:5
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉とをこうむらせ、
8:6
これにみ手のわざを治めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。
 (詩篇8:4-6、旧約聖書)
 
ダビデの歌と書いてあります。この聖句に同意するなら、
 
同意しているのは私という人間ですから、
「と人には思われる」が付いてきます。
 
ダビデのような王様になると、そう書くのか、
あれだけ、栄えれば、さらに罪を赦されれば、
そりゃあ、讃美もするだろう・・
 
私は、
甚だしく神よりも低く作られ、
栄えと誉とを自覚的には知らないまま、
御手のわざを治めた記憶はなく、
よろずの物の足の下の置かれている感じがして、
 
特に現代では、
よろずの物の一つ、
道具として使っているこのPCさえ
なんだか私が支配されている感があり、
であっても書きたいことがあれば
使わないではいられない心を抱えて
 
毎晩、深夜ゴソゴソと書いていて、
他のサイトにアクセスもしていて、
お気に入りの10+αのサイト、
文学、宗教、写真、その他いろいろ・・と、
 
さらにキリスト教関連の10余りのサイト×訪問履歴20に
毎晩アクセス、というのは、きつくなったら止めます。
 
あとは You Tube 過去の歌が聴ける幸い
https://www.youtube.com/watch?v=TGwOKnvbtmM
あちこちコメント入れたし、
 
あとは、通販、ニュース、興味本位、
等々で遊んでいるのは、他の人も同じでしょう。
 
 
御言葉に背く、というのは反信仰なのか。
むしろ背いている自分を自覚することが信仰ではないのか。
 
御言葉は、
悪を離れて善を為すことを勧めている
という2元の単純な受け取り方があり、
一方で、
善ではない自分を自覚し反省する
という受け取り方があり、
 
むしろキリストの言行を記す福音書は、
二千年前に、
悪すなわち罪の人を裁くのではなく、
むしろ罪人を救うことで、
悪を善に見せかける偽善を敵として際立たせる
という明確さを持っているのではないか。
 
したがって御言葉は
そうしなさい、と勧める一方で
そうできない人の本性を
神はご存知です
と語っているように思われる。
 
私などは、もう年が寄って、
体力も知力も財力もないから、
神の義、というより、神の憐れみを頂くのに、
義務の教えにはほとんど反応できません。
あぁ、私、若いときからそんな感じで・・
 
だから、
せめて、めいっぱい、
祈る時には
神の前では正直でありなさい
ということを
すべての御言葉は伝えているような気がします。
 
また、考えてみます。拝。
 
 
(2017年12月23日、同日一部修正)
 
 
 
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  弱さを誇る
 
 
前にも書いたことのあるテーマです。信ずるにあたって、奇跡をおこなう神を至高の御方として信仰し、そこに触れて、そこから出たものを、神聖の賜物として受ける、というこの姿勢は、神の絶対に触れることによって、人が神を知り、神の御心を知る、というあり方のように思われます。
 
上は、神の超常中心の信仰のあり方ですが、私は、人は神を知りえないし、神は人が理解することも出来ない御方だと思います。人に必要なことは、人間性において、感じるか、分かるか、分別できることだけだと思っています。
 
どうして神の絶対に人が触れることが出来るだろう、人がその限られた知恵によってどうして神を知り得よう、神が教えるというなら、どうして教えているのが神だと分かるのだろう、神が教えるからだ、というなら、だからどうして神が教えていると分かるのだろう、というような、堂々巡りに至ります。
 
神が人に触れる、というのは、人には知らせずに触れるから、人は神に触れても神だとはわからないはずだろう、と私は思いますが、この世ならぬ大きな力なら神のほうから触れるのだ、だから、なぜ触れたと分かるのか、というふうに、また同じような堂々巡りです。
 
不思議によって神の正しさだと分かる、というなら、悪魔でも正しいと見せかけるでしょう。人には、神と悪魔の区別はつかない、何故なら、悪魔は、神に敵わなくても、超常であり、人よりも上だからだ、ということになります。悪が悪だというくらいは人にも分かる、というなら、神の偉大さや正しさと、悪魔が悪を隠す時の悪を、人が見分けることが出来るなら、できる人は、悪魔を見抜くのだから、悪魔より上の者でなければならないが悪だということは人に分かる悪が明確になるまで分からない、いやいや神が守ってくださるのだ、だからなぜ守ったと分かるのか、そのためには、悪魔を知っていなければならないだろう、悪魔の悪は超常で・・、という同じような問題になり、また堂々巡り・・。

 
あえて言葉の問答のようなことを書いたのは、こういう聖なる言葉面だけで、言えるという主張が、私は大嫌いだからです。実際、人は、悪について、ひどいことが明らかになるまで、殆ど分からないではないか、という現実で十分ですし、神は全能で、人は不全だから、ということで十分だと私は思っています。人は絶対の善も絶対の悪も知りえないと思います。
 
神の可知を唱える人は、信仰を絶対として権威を帯びたがっているように、私には思えてなりません。神の前に、人は無知に等しいのです。何らかの、感じて推測し、人に対して表れた状況証拠または証拠があって、はじめて、悪だと気づくのが人間です。神を分かるのが信仰と言う人は、証拠を見つけて組み立てることをしなくなります。私が、やすやすと騙され続けている悪の例をずっと見てきて、独りで批判してきたのは、そういう状況があるからでしょう。
 
私が6年間批判し続けた偽善者は、批判に対して、無視、削除、侮辱、隠蔽、などを繰り返しながら同時に、実に神聖の言葉のうわべだけで神を讃美し、聖霊だ、啓示だと、自己の正しさを聖なるものに帰し、双方向を否定して、不感不応不変の安穏の沼にいて、それをまた、神の平安だと言い張っていたのです。何度も何度も丁寧に・・。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:6
もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
12:7
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (1コリント12:9-10、新約聖書)
 
偽善者は、この聖句をもって、パウロと同じように、自分は弱さを誇るのだ、と言い張るでしょう。まさに、実際に、この聖句を挙げて誇っていたのです。こんなにも弱いが、というようなことを書きながら、人の意見を自分勝手な強制力によって消して何事もなかったかのように、同じことを言い続けてきたのです。弱さなど口だけで、一度も弱みを見せたことはなく、いつも他者より高い位置で教えを垂れたがっている文章でした。
 
9節の「弱さを誇る」聖句の解釈としては、
 
1.人は弱いが、神の導きによって強い。だから信仰は強い。これは、上の堂々巡りになり、偽善者に利用されやすいでしょう。
 
2.弱いとは誇るべきものがないということと同値であり、この弱さは、敬虔につながって、気高く見えることがあるということであって、さらに言ったのはパウロであるから、一般の信仰者がそのまま誇ってよいということではない。パウロは、うまくいかないことで戒めを受ける弱さの必然が、その都度に、自らの伝道を支えている、使徒でさえそうだ、ということを言っているのでしょう。
 
3.弱いとは誇るべきものがない、ということだから、弱さを誇る、というのは、逆説であり、成り立たないのであって、実際の言動を表してはいるのではなく、気概を述べるためにインパクトを強めた表現である。
 
4.キリスト者の、弱いけれど、信仰による忍耐強さを表したものである。それによって、神の導きを信じることになる。1.との大きな違いは、神の側を決めつけず、人の側に起こることを語っていることである。
 
他にもあるかもしれませんが、1.以外なら私は同意できる。神の導きは、人知れず起こるのであり、人に分かるものではない。導きもそうだが、神の意志と行為を、人が決めつけてよいものではありません。それが敬虔です。信仰を示そうと決めつけて強く言えば言うほど、大方、自分の信仰を誇ることになるでしょう。
 
また10節の、「弱い時にこそ、わたしは強い」ということも同様で、明らかに逆説表現を使うことを意識していると思います。ですから、この文言だけでは、直接は成り立たないのは明らかでしょう。私たちが、そのまま、誰かに向かって使ってよい言葉ではないのです。
 
1.を解釈とするのは、信仰の美辞麗句であり、リップサービスのきれいごとになり、実際に、では、今このとき導きは何だ、と聞かれた時、役に立たないでしょう。私たちは人間ですから、人の現実生活において生きてこないことは、解釈として言っても空しいだけです。
 
神聖と奇跡は神のもの、どう導くかも神のもの、神の導きによって弱くなろうが強くなろうが、人は成り行きを受けて考えるしかないのです。人は人間を、自らを見るべきであり、人が導きを得るのは弱いからであって、導きを得たから強いなどと思うべきではないのです。
 
今までの私の経験では、偽善者は、超常の聖書語をたくさん並べて讃美します。実質は何もない、大仰さだけ、・・ということを指摘しました。偽善者が、調子に乗って、うっかり、罪は悔い改めなくても赦される、また、アダムとエバのようにならないように善悪の判断をしないのがよい、などと、キリスト者なら違うと分かることを言ったときに、強く否定しました。
 
今、よく語られている信仰の話にも、出来ない、生きてこない、言っても仕方ない、自分の信仰を誇っているようだ、と言いたくなるような話が多いのです。キリストを見て自分の有り様を見ていない、神を見て人を見ていない、ということになっていないか、超常の言葉で飾ろうとしていないか、自分の言葉を調べなおしたほうがよいと思います。
 
再び偽善者が出てくる前に、敷衍したいのです。まだ騙されている人がいます。
超常の絶対の聖なる話を立派に書こうとするより、どんなに未熟でも、どんなに弱くても、自分のこと、出来事や生活のことなら、困ったことも含めて、何か書けるはずです。そういう話を聞きたいです。片意地張らない日常の話題を見つけることに、整えようとする義務感から離れて信仰者の本当の思いが表れてくるところに、信仰理解を深めるヒントが隠れていると思います。
 
 
(2017年12月22日、同日一部修正)
 
敷衍(ふえん)
騙す(だます)
 
 
 
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