祈る相手
信仰は
キリストの御名による神との個人的関係です。
十字架の贖いとか復活して天に昇り
神の子として見てくださるから云々等々
教理も教義も教条も
崖っぷちでは意味がありません。
救いを教理で信じてしまうと
救いにつながる神の行為を
人が神に当てはめて
勝手に決めて信じてしまいたくなります。
祈りを聞いてくれる相手がいる
ということだけを固く信じることです。
絶望が迫るときに、
このように私が生きてゆけず
それが御心であるなら
生きてはいけないのなら
あなたの御手によって殺してください
それが御心でないのなら
どうかお救いください
と祈ったことがありますか
そう思いたくなる現実はありませんか。
・・ないのでしょうね、ふつう・・
ないなら、備えておきましょう。
もしあるなら、それを祈りにおいて語らないで
どうして信仰と言えるでしょう。
生きるのが嫌になりました
私の時はまだなのですか
あの時もそうでした
いつも同じでした
無駄でした
何をしても、ではなく
私は何もできないでいるからです
あとどれくらい
屍のように生きておればよろしいのでしょう
そして最後に
一つの祈りの言葉が残ります。
わが魂を御手に委ねます
そして目に見える世界に戻ってください。
意識があり、
食べる物があるとき、
飲む水があるとき、
生きる時があります。
神の言葉によって生きる
などと、かっこつける必要はありません。
もう十分
信仰者として考えてきたのです。
わが魂を御手に委ねます
御心のままに運んでください
御心のままに
とは
いかなるこの地上の義も悪も意味しません。
いかなるこの地上の幸も不幸も意味しません。
心がそこにいられない自分に対して
神の御心もそこにはないからです。
そういう時、その人自身は、もう死んだように空しいのですから。
(2017年12月21日)
※
「私の時」とは、私の死ぬ時、の意味です。
屍(しかばね)
備える(そなえる)
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