ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年12月

 
  祈る相手
 
 
信仰は
キリストの御名による神との個人的関係です。
 
十字架の贖いとか復活して天に昇り
神の子として見てくださるから云々等々
教理も教義も教条も
崖っぷちでは意味がありません。
 
救いを教理で信じてしまうと
救いにつながる神の行為を
人が神に当てはめて
勝手に決めて信じてしまいたくなります。
 
祈りを聞いてくれる相手がいる
ということだけを固く信じることです。
 
絶望が迫るときに、
 このように私が生きてゆけず
 それが御心であるなら
 生きてはいけないのなら
 あなたの御手によって殺してください
 それが御心でないのなら
 どうかお救いください
と祈ったことがありますか
 
そう思いたくなる現実はありませんか。
・・ないのでしょうね、ふつう・・
 
ないなら、備えておきましょう。
もしあるなら、それを祈りにおいて語らないで
どうして信仰と言えるでしょう。
 
 生きるのが嫌になりました
 私の時はまだなのですか
 
 あの時もそうでした
 いつも同じでした
 無駄でした
 何をしても、ではなく
 私は何もできないでいるからです
 
 あとどれくらい
 屍のように生きておればよろしいのでしょう
 
そして最後に
一つの祈りの言葉が残ります。
 
 
 わが魂を御手に委ねます
 
 
そして目に見える世界に戻ってください。
 
意識があり、
食べる物があるとき、
飲む水があるとき、
生きる時があります。
 
神の言葉によって生きる
などと、かっこつける必要はありません。
もう十分
信仰者として考えてきたのです。
 
 わが魂を御手に委ねます
 御心のままに運んでください
 
御心のままに
とは
いかなるこの地上の義も悪も意味しません。
いかなるこの地上の幸も不幸も意味しません。
心がそこにいられない自分に対して
神の御心もそこにはないからです。
 
そういう時、その人自身は、もう死んだように空しいのですから。
 
 
(2017年12月21日)
 

「私の時」とは、私の死ぬ時、の意味です。
 
屍(しかばね)
備える(そなえる)
 
 
 
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  忘れることなく
 
 
キリストの言葉に
一度でも反応した人へ
 
一時でも
欠片でも
反応した人へ
 
その反応を神は蓄えておられます。
 
言葉を勘違いしたのであっても
反応が間違っていても
神は忘れることはありません。
 
大昔、中東の地で
止むことのない戦争の
悲惨な戦火を
ひととき逃れた人々が
 
その殺戮の世界の背後に
きっと偉大な秩序が
今は見えなくとも
死を超えて時を待っておられる
と信じざるを得なかったことを
神は今も覚えておられます。
 
大きくても小さくても
どんなに時がたっても
変わることのない神が
変わり続ける人を忘れることはありません。
 
大昔、祈る相手を見つけた人も
今、祈る相手を見つけた人も
今、祈っている人も
神は蓄えておられます。
 
どうしようもない気持ちで
救いを求めた時が、
失敗を悔やんだ時が、
人を恨んだ時が、
自分を恨んだ時が、
神を恨んだ時が、
祈るしかなかった時が、
これら全部だと嘆息する今が、
神の懐で経過しています。
 
 
勘違いとか、間違いとか、
私たちがしょっちゅうやっていることです。
 
定められた時まで生き
定められた時に召され
悔いも傷もいっしょに
抱えていただくのがキリスト者の一生です。
 
時の感覚はしばしば残酷ですが、
ときに切ない賜物となって与えられます。
 
そこに人間がいます。
 
時々、そして、いつの日か、
神の懐に休むときを夢見ています。
 
 

 
「汚れっちまった悲しみに」で有名な中原中也という詩人には、過去が今経過しつつある、というような詩句がありました。この記事の一部、そこからの発想でしょう。
 
 吹く風を心の友と (抜粋)
 
あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか
滲むやうに、日が暮れても空のどこかに
あの日の昼のまゝに
あの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる
 
過去が今経過しつつある、というのは詩人の感性ですが、・・感性の乏しい私としては、神の懐ならばありうるみたいな思いでしょうか。中也は、悲しみに汚れてゆくような人生を送りながら、どこか、この世の外から見ているようだという感想を持ったことがあります。もう一つ好きな詩句を挙げておきます。
 
 夏過けて、友よ、秋とはなりました (抜粋)
 
過ぎし夏よ、島の夜々よ、おまえは一種の血みどろな思い出、
それなのにそれはまた、すがすがしい懐かしい思い出、
印象は深く、それなのに実際なのかと、疑ってみたくなるような思い出、
わかっているのに今更のように、ほんとだったと驚く思い出!……
 
(中原中也・全詩アーカイブ
http://nakahara.air-nifty.com/blog/ より)
 
 
(2017年12月20日、同日一部修正)
 
蓄える(たくわえる)
懐(ふところ)
過けて(私の持っている全集には「あけて」とルビが振ってあります)
 
 
 
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  自殺について
 
(昔、HPに書き、ブログにも書いた宗教詩のようなものですが、若干修正して再録になります。)
 
 
  自殺について
     (「自殺は最大の罪」とは
     「自殺者は最大の罪人」の意ではない
     これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
     死者を呪うための言葉ではない)
 
自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない
 
 (神が生ける者の神であるように
  罪の赦しもまた生ける者のためにあるのなら
  最大といわれる自殺の罪が
  果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)
 
もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる
 
人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる
 
 (基督は確かに生きよと言われるだろう
  だが、その理由によって生きている人間は
  思ったほど多くはあるまい)
 
死ぬ、ということは
もう出会わないということ
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない
 
残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ、あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない
 
 (もともと基督など信じていなかったのだ
  ということにすれば辻褄は合う
  だがどうしても合わないものがある)
 
自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
生きたかったと
 
 

 
自殺者は悲しいことがあったから自殺するのではないと思います。
 
悲しい、という言葉で形容できるなら、泣くはずです。自殺する人は、自殺するときに泣いてなどいないような気がします。むしろ、表情は乏しく、うつろに、そして硬くなっているのではないかと想像します。鬱の症状からの類推です。感情の捌け口(はけぐち)が、なくなっているのだろうと思います。
 
鬱は感情障害といわれていますが、感情の障害は、人間らしい感情表出がなくなるようです。そうさせているものとして、重症の鬱では生物学的な病態があり、多かれ少なかれ、脳内伝達物質の異常が言われて、有効な薬も使われているようですが、薬物が無効な場合もあるように思われます。さて、脳という人体組織に起こっていることよりも、心に起こっていることを考えたいと思います。
 
心が、生物学的病理に覆われる前に、まだ心理的な抑うつの段階で起こることが、止めるだけで救えるかもしれない鬱だと思いますが、私の考えでは、孤独ではないかと思うことがあります。
 
自分を殺す、ということは、他者や社会との一切の関係を否定することです。過去も現在も未来もです。この世の人々の関係を一切絶ちたい、乱暴な言い方をすれば、この世の人々の存在を否定すること、ひょっとしたら、この世界を滅ぼしたいのかもしれない。退却ではなく、破壊的衝動が自殺の引き金になる可能性をあげておきたいと思います。
 
世界を滅ぼすことは出来ない、ならば、自分一人にとってだけ世界がなくなる方法として自殺、ということではないかと最近思うようになりました。さらに乱暴な言い方をすると、自殺の回数だけ、生きている私たちは殺されていることになり、世界の滅亡が願われていることになり、これは、生きているすべての人の問題と考えるべきなのです。
 
自殺念慮する人が自殺者になることは、その人と対峙する自分の絶望につながる、という前提を秘めることになるのです。説得のみならず、力づくで止めることをも除外するべきではありません。だから、経験のない人が経験者に学ぶこともせずに、安易な博愛でやってはいけないことです。
 
関係の一切の消失を招くのは、本人の病理だけではなく、人間とは思えないような扱いを繰り返し受けることが、死へ向かう心理→病理を大きく促進するのではないかと考えています。前から述べていることですが、一時的であっても人間らしい温もりと潤いを欠いている人から処遇を受けることで、受けた側にも人間らしい温もりと潤いがなくなってゆくのです。それによって、最終的な絶望に至ることになるような気がします。そのような状態を絶対孤独と呼ぶことにします。世界のあらゆるものが無縁であると見えてしまう状態です。
 
仕事をしているつもりで、さらには、忠告や助言をしているつもりで、そこに、温もりと潤いがなければ、共感すなわち思いやる心がなければ、針やガラス片や鉄くずを投げるのと同じことになります。人は、意識していないと、煩雑さに負われている場合や、無力を肯定したくない場合に、容易に、冷たく硬質になり得ます。言語でも言語外でも、それは繰り返されると、鬱の人の温もりを奪い、潤いを干して、顔を氷結させ、仮面にしてしまう大きな誘因です。
 
したがって、絶対孤独がなくなるか、あるいは、相対孤独、つまり、誰かが冷たかった、というレベルになれば、言葉だけでなく、絶対が消えることになり、助言を受け取ることが可能になり、自殺衝動は治まる可能性があるでしょう。
 
今まで書いてきたことから予想できると思いますが、信仰の話として、ここで、キリストの贖いにより赦され救われます、とかいった教理的な言葉は、言葉だけの教条としてしか受け取られず、むしろ、人間離れを加速し、救う方向とは逆方向に向かわせることになるでしょう。そういう場面で、一番してはならないことは、一つは叱咤激励であり、もう一つは超常の言葉で救いの話をすることです。
 
自分を主語にして、できることをしたい、という意志を伝えることででしょう。そして、何かの御縁だからと自分との関係を結ぶことから、具体的に始めることでしょう。人間の心からの具体的な計らいは大きな役割を持ちます。
 
この場面で、上手な説教はあり得ず、一切の聖書語は無意味のみならず有害です。そこには言葉はあるが、人間ではなく、教理を神の全能とばかり宛がっても、神の言葉への人の心無い観念だけを、傲慢か狼狽が、投げつけることになるからです。叱咤激励と超常の万人救済の話は、冷たい凶器になり得ます。
 
自殺念慮は、生きるための条件が、大きいものも小さいものも、ことごとく壊れてしまったという主観の絶望の絶対孤独において生じてくるものです。その条件を、未来の可能性を含めて、再設定することに心を向けてゆくしかないのです。何かを教えることではなく、肩を寄せ合うことが始めの目的になるでしょう。
 
※ 
私は、自殺防止に関わったことがないのに、自殺の問題にこだわるのは、私自身が希死念慮があり、自殺念慮や自殺企図までには至っていないが、このことで、長いこと信仰の問題を考えざるを得なかったからです。一度でも希死を覚えた人は、その問題と無関係ではないからです。
 
 
(2017年12月19日、同日一部修正)
 
叱咤激励(しったげきれい)
宛がう(あてがう)
傲慢(ごうまん)
狼狽(ろうばい)
 
私は、趣味ではないが、暗いテーマに深入りする傾向があるようです。
 
 
 
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  理解と心
    曖昧にしか書けませんが・・
 
 
理解というのは、頭でするものだと思われているようです。
 
心は、感情的で当てにならないと思われているようです。
 
でも人間の持っているもので、
当てになるものなど何もないと思います。
 
そういう世界で生きてゆくのですから
何を大切にするか、という話です。
 
理解ということを考えてみます。
本当の理解は解放であり
解放感を伴います。
 
理解は、辻褄合わせではありません。
合ってると思っても
解放感を伴わないものを辻褄合わせといいます。
 
辻褄合わせの時に起こっているのは、
先入観と言葉が合っている
というより矛盾しないという気がすることです。
だから「合っている」ように感じて、
理解したつもりになっているのです。
 
心が反応していないのです。
 
心というものを考えてみます。
心が反応して初めて解放感があります。
 
心は辻褄合わせでは活きてこないのでしょう。
 
ですから理解を大切にするということは
心を大切にすることです。
 
言い方を変えるなら
心が解放されるから新しい視野が生まれ
そこへ飛んでゆくことが出来ます。
 
心は感動したとき飛んでいます。広くなったからです。
 
だから飛んでいった先で、さらなる理解を求めることが出来ます。
 
理解したときには心が震えます。
心が解放感を感じるときに活性が高まり震えるのでしょう。
 
科学でも宗教でも心は同じではないかと思います。
 
理解したような気がする辻褄合わせで心は震えません。
波も風も起こりません。
どこかに先入観の強迫や短絡が働いて
活性とは反対の
無刺激と無反応の快楽に向かおうとしているだけです。
そこは生ぬるいだけの人工の沼であります。
 
理解は波と風と震えであり、
辻褄合わせは波動を禁じられた沼であります。
 
まずいことに
辻褄合わせは理解とは逆に、
言葉によって枠を作り、
頭に対して
とどまることを要求します。
そして理解したから動くべきではないと
排他を要求するでしょう。
 
どんなに辻褄を合わせても
信仰の理屈ではないところに届くことはありません。
いちばん大切なことは辻褄つまり理屈にはありません。
 
 
辻褄、着物の寸法に関係して、とても構造的な言葉です。
それ自体が悪い意味を持つわけではありません。
 
心、とても捉えどころのない言葉です。
 
人間は、捉えどころのない中心軸によって活きているのです。
 
でも、揺れ動くからこそ活きて求めることが出来るのです。
これは、すべての人に与えられたギフトです。
この活性を捨ててはいけません。
 
 
辻褄合わせで理解したつもりでも
心に残ってしまうものがあります。
そんなとき感じているのは、
 
・・どうしてもあわないものがある・・
 
という感覚で、
心が違和を発しているのでしょう。
 
 
考えるということを今まで強調してきました。
もちろんそれは大切なことですが、
考えるという作業は言葉を手段として使うために
言葉のうわべの辻褄合わせで終わるリスクが常にあります。
そこに直感的に警鐘を鳴らすのが心であり、
言葉にならない違和感を感じたら、
少なくとも
邪念とか余計なこととして排除したりしないで欲しいのです。
温もりも潤いもないよ、
人間がいないよ、
と叫んでいる波動かもしれないからです。
 
 
本当に理解したときには
成り行きに感謝したい気持ちになります。
信仰でも同じことです。
 
感謝、さらに讃美は、
そうしたい気持ちが心から溢れ出る行為です。
そうしないといけないのだからと、
どんよりした気持ちですることではない。
 
神は見抜かれるでしょう。
感謝や讃美にどれほどの気持ちが込められているかを。
 
神はご存知です。
この地上で人が感謝したり讃美したりするときは、
よっぽどの時でしかないということを。
 
だから
教理や説教が勧めるからといっても、
それが習慣になっているからといっても、
溢れる情感がないときに
感謝や讃美をする必要はない
のではなく、
 
どんよりした義務感で感謝も讃美もしてはいけないのです。
 
 
(2017年12月18日、同日一部修正)
 
辻褄(つじつま)
溢れる(あふれる)
 
本当に神の恵みを受けたと実感したときは、讃美と、特に感謝を、自発的な心からせずにはおれないでしょう。ここでは、個人の、その時々の本気度や事情までは分かりませんので、個人の判断に任せるしかないでしょう。
 
この記事では、私は、信仰を語れば、讃美しまくりながら、同時に、卑劣な自己正当化や詭弁を平然と吹聴していた最悪と思える実例を見てきたので、そういう偽善的な悪質な讃美を念頭に、申し上げているということです。
 
言葉にならないことを言葉で表そうとすることの難しさをいつも感じます。甚だ不十分だと思います。また稿を改めて書くことが出来たらと思います。
 
 
 
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  怖さと寛容
 
 
たびたび引用してきた聖句ですが、
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
この聖句については記事「愛の・・」で、その現実面について触れました。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19512178.html
 
この聖句を人に当てはめると、まるで出来ないことを列挙しているかのような現実ですが、
この聖句は、キリストの愛にはピッタリ当てはまると思っています。キリスト以後、殉教者たちもそうですが、パウロも、その愛に気づき感じて、使徒となったのでしょう。だから、パウロは、知的であるとともに、とても情熱的でした。
 
私たちは、神もキリストも、その御姿を見ることは出来ません。神は、人に対してどうでしょう。言うまでもないことですが、神はすべてを聞いておられ見ておられるということは、神の全能から明らかです。したがって、神について、キリストについて、聖霊について、人が人に向かって話したことは、神に向かって話すのと同じことです。だから、その人の心の中もお見通しです。嘘や偽りや虚飾もまた、すべて見抜かれています。
 
それだけだと、神は、とても、付き合いにくい怖い御方に思われますし、実際、怖い御方として、仰ぐべきであります。気楽に付き合っていいような、優しいお爺さんでないことは確かです。
 
しかし、神の、その怖さと厳しさは、人にはとても真似のできないような寛容さを伴っています。それは、何より、キリストの罪人への赦しに表れています。
 
旧約の神は、いっぱい人を殺したように描かれ、とても怖いかもしれませんが、実際には、人が人を殺したのであります。とても怖いのは、人が、人間離れして残酷なことをしてしまう、ということなのです。罪の歴史なのです。
 
はっきり言って、神は、何もしなかったのかもしれません。人が神を表すために書いて、結果として、人が人の招いた結果を表したのかもしれません。分かりません。しかし、もう、聖書にある大昔の全知全能の正義を、人に教えるために決めつけて、その理想に従うことを説くのは、それに倣うように説くのは、大方、不適切だと気づくべきです。人の能力において、全知全能は理解できません。
 
人間一人についてさえ、人は理解できていないのに、なぜ、神を理解する、御心を分かる、主から目を離さない、主に従う、主のほうを向く、などと言うのだろう。まるで見栄を張っているみたいだ。
 
・・聖書語に縛られた人は、人の理解を超える、と言えば、理解するのだろうか・・
 
神の民となることは神に降参して神の支配の下に生きる、ということですが、それを、神が聖霊によって支配しているから自分は間違っていない、などという言い訳に使ってはいけません。神に従う、ということで、人ができるのは、せいぜい、祈りにおいて正直であることくらいです。そして、それが、いちばん、人間にとって、大事なことです。それこそが、神の愛に答えることであり、それだけが、神に対して人が示せる愛であります。
 
それ以外の、施しの類などは、いくら人がいい気分になっても、ウンコみたいな罪を含んでいる可能性のほうを考えるべきでしょう。それで、少しばかり偉くなったつもりで振る舞うくらいなら、むしろキリストが最も嫌ったところの、罪よりさらに重い罪である偽善に注意するべきでしょう。そうなってしまうことで、祈りも不正直になってゆくかもしれません。善行は折々の務め、正直は一生の務めです。祈りの正直さが、一生の愛と善の心を支えるのです。
 
いろいろな罪がありますが、とりわけ、神に対する不正直は、いちばん、よくありません。すべての悪と偽善の罪に結び付きます。神の前の正直といっても、人間には気づいていないこともあります。すべてを気づかなくても、そのときの目一杯の正直さでよいのです。
 
祈りにおいて、神に向かって、正直であろうという姿勢が、社会においても、人に向かっても、あまりに卑劣な嘘を吐くときに、ブレーキをかけてくれるでしょう。
 
道を踏み外しそうになったり、実際に道を踏み外したりしても、過去は修正不能であっても、未来は修正可能であることを教えてくれるのが、祈りの道です。
 
 
(2017年12月17日、同日一部修正)
 
精一杯(せいいっぱい)
目一杯(めいっぱい)
 
 
 
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