ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年04月

 
  確信
 
 
確信をもって、ということが信仰でも言われます。
しかし私は、以前から、
神の意志について、どうして人が確信を持てるんだ、
と言ってきました。
 
神の意志について人が確信を持ったら
それは訂正不能になってしまう、という危惧であります。
 
人は神に比べて不完全なのだから、
人には訂正不能にしてよいものは何もない。
 
ましてや
神事を人が訂正不能にする?とんでもないと思うわけです。
そんな能力は人にはないから、
神のみを絶対と仰ぐなら、
訂正不能は人の信仰の敵だとさえ思うわけです。
 
言葉で言うなら、私は現時点の判断を語っています。
修正可能の一点をもって確信ではない、
ということですが、
何らかの行為に結び付くときには、
今は他にないという一点をもって確信に近くなる、
という微妙さもあります。
 
つまり確信を持つことは
訂正不能にすることではない
と言いたいわけです。
 
このことを言うのは
広く一般に人が
確信を持てと言われると
訂正してはいけない
と思い込む傾向があるからです。
 
ここで申し上げます。
確信を持て
と言われたとき
信仰者がするべきことは
思い込むことではなく
何よりも
今これしかないだろうという確認です。
 
何かの決断のとき
このことを弁えておけば
結果の導きと
反省の祈りにおいて
私たちは
先へ進むことも
本来の道へ返ることも出来るでしょう。
 
訂正不能は反省不能に結び付き
神を心の偶像に固定することです。
 
修正可能は
いつでも神からの新たな導きに反応できるように
人間の側が弁えるべき態度であります。
 
 
(2018年04月30日)
 
弁える(わきまえる)
 
 
 
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  贖い
 
 
キリストの十字架は人の罪の贖い
ということは、
聖書から学び教会で聞く。
 
だからといって
いつもそれを思い出して
あるいは唱えて
感動できるわけではなく
心の支えになるとも限らない。
 
人は不完全であるがゆえに
同じ情緒を保てないからだ。
 
感動しているように演技することは出来ても
感動をそのまま保持することは出来ない。
感動に再現性はなく、そのとき限りである。
 
しかしこのことは
人がいつも
新しい感動を求めている証拠であるから
悲観する必要はないだろう。
 
ある者は
それを現実の話として語り、
経験談を語る。
ある者は
それをフィクションとして、
小説に、物語に、ポエムに。
ある者は
表現を考える。
そして悩む。
 
問題意識を持たず
新しい何かを求めないで
平気で繰り返して
それが信仰だと思い込んで
悩まない者は
恐らく悲しみの共感者にはなれないだろう。
その必要を感じないほどに鈍麻しているからだ。
 
思い煩うなという教えは
人が思い煩ってしまうことを前提として語られている。
何かを勘違いして思い込みで
思い煩わない者は
その前提がないので教えを分かっていない。
 
思い煩うなという教えを
常時平安の陶酔境地にしてしまったからだ。
 
キリストの十字架は
人の罪の贖い
このことを理解する人は
ダイレクトに自らの罪を思うだろう。
 
それが
命を賭したキリストの
アガペーの愛を理解することであり
 
罪が贖われたことを喜びたいならば
聖書から体験から個々に
救い主が命を投げ出さなければ救われないほどの
人の罪の深さを思うべきである。
 
 
(2018年04月29日、同日一部修正)
 
贖い(あがない)
アガペー≒犠牲を厭わない神の愛
厭う(いとう)
 
 
 
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  「苦楽」コメント(2)
 
 
教えは数々あるでしょうが、
人間に絶対を勧めないでください。
「絶対」というその一点のみによって
へりくだる姿勢を失ったゆえに
神に愛される理由を失い
間違いを訂正できずに壊れてゆく人を見てきましたから。
 
2018/4/17(火) 午前 10:45[ st5402jp ]返信する
 
 
迷いにあるあなたには理解できないでしょう。
それは仕方ないことです。
しかし、あなたが否定したことは
釈迦や親鸞が心理に至った道理さえ
否定することになりますね。
 法は至った伝え手により導かれ
仏、神仏により目覚めさせられるのであり
最後は人の力によるものではありません、
また、あなたが学ぶ教えも人が伝え続けているもので
神仏から直に聞けはしないのです。
 釈迦今現在説法と母や私が語るのは、
 信心に導く法を語るのは 一人一人に
 ついてられる仏が、信心成した者の
口や頭を借り今の言葉で語るのだと教えられました。
 今もお釈迦様はそうしてお説法をされているのだと。
それをカルトというならばそれでいいでしょう。
しかし、あなたはどなたかを導けていますか?
 生きるこの世において、魂のきゅうさいにおいて。
 
2018/4/17(火) 午前 10:55[ こうさん ]返信する
 
ここは貴方のブログですから
 これ以上は語りますまい。
 語ったところで今の貴方には理解できません。
この場をお騒がせしたこと
 ご容赦ください。
 
2018/4/17(火) 午前 11:17 [ こうさん ] 返信する
 
 
>迷いにあるあなたには理解できないでしょう。
>それは仕方ないことです。
 
私を迷いにあると決めつけていますが、
おっしゃるとおり私は迷いの中にあります。
だから、神に愛されるためには
信仰が必要ということになります。
これがキリスト信仰の大前提であり避けられないことです。
 
>しかし、あなたが否定したことは
>釈迦や親鸞が心理に至った道理さえ
>否定することになりますね。
 
釈迦も親鸞も私はよく知りませんが、
釈迦は神相当としても、
親鸞は迷わないことを教えたのでしょうか。
悪人は迷わないのでしょうか。
迷わなくなったとき
既に善人の意識になってしまうのではないでしょうか。
 
2018/4/17(火) 午前 11:30 [ st5402jp ] 返信する
 
> 法は至った伝え手により導かれ
>仏、神仏により目覚めさせられるのであり
>最後は人の力によるものではありません、
 
導きと目覚めを私はそんなに区別できませんが、
こうさんさんは、まるで何かの仕組みのように
段階を追って分かるし分けられると言うのでしょうか。
 
>また、あなたが学ぶ教えも人が伝え続けているもので
>神仏から直に聞けはしないのです。
 
もちろん神から直に聞いたことはありません。
生きている間、聞くことはないでしょう。
 
> 釈迦今現在説法と母や私が語るのは、
> 信心に導く法を語るのは 一人一人に
> ついてられる仏が、信心成した者の
>口や頭を借り今の言葉で語るのだと教えられました。
 
2018/4/17(火) 午前 11:31 [ st5402jp ] 返信する
 
「信心成した者」というのが
人に人の信仰の成立と正当が分かるという意味になります。
この地上で誰がそういう資格を持ちうるのでしょう。
信仰の成否を見る目が絶対になってしまいます。
この絶対は、人が見なした絶対です。
 
> 今もお釈迦様はそうしてお説法をされているのだと。
>それをカルトというならばそれでいいでしょう。
>しかし、あなたはどなたかを導けていますか?
> 生きるこの世において、魂のきゅうさいにおいて。
 
こうさんさんは、何人か救われたと言われていました。
こうさんさんには
この狭い時空の無常の中で救われたかどうか分かる
というのが信じられません。
 
成果比べなら、私は徹底的に負けるのでしょう。
何故なら、私は慰められてはいますが、
私のどこが正しかったか、どこが間違っていたか、
私が救われたのかどうかは、
生きている間に確定することではないからです。
 
2018/4/17(火) 午前 11:32 [ st5402jp ] 返信する
 
勝ち負けではありません。
そういう理解できない心にして頂けると
話しているのです。
 信心成したのがなぜわかるか?
 私のもとで信心成した方の心持ちも
包み隠さず語っています。
 皆、仏様をその身に宿してることに
気付かされています。
それが揺るぎない安心をもたらすのですよ。
 仏はただ慈悲あるのみなんです。
 
2018/4/17(火) 午前 11:44 [ こうさん ] 返信する
 
 
>勝ち負けではありません。
 
ではなぜ
「あなたはどなたかを導けていますか?」と
こちらの能力を尋ねるのでしょう。
勝ち負けでないなら優劣ですね。
まあ私は劣でいいですけど。
 
> 信心成したのがなぜわかるか?
> 私のもとで信心成した方の心持ちも
>包み隠さず語っています。
> 皆、仏様をその身に宿してることに
>気付かされています。
 
「包み隠さず」は絶対とは言えません。
神やキリストや聖霊が
自分の中におられるという人がいます。
神が人の中に?いると決めつける?
神秘を自分と結び付けたがる人がそう言いたいようです。
 
2018/4/17(火) 午後 0:16 [ st5402jp ] 返信する
 
>それが揺るぎない安心をもたらすのですよ。
> 仏はただ慈悲あるのみなんです。
 
仏さまに文句は言っておりませぬ。
 
キリスト信仰においても安らぎを得ることはありますが、
しかしながらそれが神が与えた安らぎかどうか
決めつけてはいけないと私は主張しています。
決めつけるといろいろなことで、これも、
神秘を自分に結びつけたがる人が出てくるからです。
 
人は神秘に弱いようですが、
神秘は神の秘密です。
 
2018/4/17(火) 午後 0:17 [ st5402jp ] 返信する
 
 
だから、その身になるまでは
分かりませんよ。
 貴方にも神仏は共にいらっしゃいますよ。
ただ人は自分では気付けない。
それを気付かせてくれるのが神仏なんですよ。
 母や私はシェルパのような者です。
ただの案内役、道に迷わぬように
法に迷わぬように案内をするのみ。
その方との会話の中に心を開く鍵があり
最後は仏様が心を開いてくれます。
 
2018/4/17(火) 午後 0:27 [ こうさん ] 返信する
 
貴方が自分の心の動きを見れるのは
教えを聞き、神仏が教えの鏡を与えてくれたから
 その鏡に映る自分の心がわかるようになった
 とは思いませんか?
 法に触れる前から自分の心が見えましたか?
 神仏が言葉となり貴方の中に法の鏡となり
貴方の心を教えている、鏡は神仏なんです。
 実際にもっとハッキリと存在を知ることとなりますが
鏡を見ただけでもわが身に宿る神仏を感じれませんか?
 
2018/4/17(火) 午後 0:49 [ こうさん ] 返信する
 
 
あのぅ、私は確かに迷う者とは言いましたが
慰められているとも言いましたように
今以上の気づきは
キリストからと熱望しておりますので
仏さまには申し訳ないが
と言っていいのか悪いのか、
この辺でお開きにしてくださいませ。
ちょうどよく記事2つ分になりましたので。
 
2018/4/17(火) 午後 0:52 [ st5402jp ] 返信する
 
 
先ほど言いましたが私もこれ以上は語りません。
また、宗旨替えを求めてもいませんよ。
 自由な発言をお許し頂きありがとうございました。
 
2018/4/17(火) 午後 0:59 [ こうさん ] 返信する
 
 
>貴方が自分の心の動きを見れるのは
>教えを聞き、神仏が教えの鏡を与えてくれたから
> その鏡に映る自分の心がわかるようになった
> とは思いませんか?
 
すみません。神仏という言い方も微妙ですが、
私はキリストの心が知りたくて考えブログを書いています。
 
> 法に触れる前から自分の心が見えましたか?
 
すみませんが、
こうさんさんのおっしゃる法に
私は触れていないと思います。
 
> 神仏が言葉となり貴方の中に法の鏡となり
>貴方の心を教えている、鏡は神仏なんです。
> 実際にもっとハッキリと存在を知ることとなりますが
>鏡を見ただけでもわが身に宿る神仏を感じれませんか?
 
すみませんが、
こうさんさんの言う神仏には申し訳ないですが、
私はキリストだけ身近に感じていたいのです。
付き合ってくださってありがとうございます。
 
2018/4/17(火) 午後 1:00 [ st5402jp ] 返信する
 
 
このコメントのやり取りを転載させて頂きました。
このやり取りから また何かを学んで頂けることを
願ってやみません。
 
2018/4/17(火) 午後 3:56[ こうさん ]返信する
 
 
(2018年04月28日)
 
遜る(へりくだる、遜る)
 
 
 
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  義認
 
 
義認とは
信仰が正しいと認められること、
それはそのまま
神によって
信仰によって救われるということ。
 
キリスト信仰は
こうすれば救われるという信仰ではありません。
つまり行為義認の信仰ではありません。
 
信仰義認として
信仰によってすべての人が救われる
という信仰であります。
 
しかし
一部の者たちが言っているように
誰でも何もしなくても
一生罪は赦されて救われる
という信仰では決してありません。
 
信仰義認において大事なのは
信仰者が罪びとの自覚を持っていることです。
それは信仰の行為というより弁えというべきでしょう。
 
つまりキリスト信仰は
その行為において厳しくはないが
その弁えにおいて厳しい信仰であります。
 
私たち人類がいかに正しかったか
歴史を辿るほどに
現実のそして歴史上の醜さによって
私たちは惨めになるしかないのであります。
 
そこから弁えるに
人は正しさを強く大きく発言するだけの
正しさの実質をその自らにおいて持ってはいない
ということであります。
 
私たちの出来ることは
その乏しく不完全な知恵によって
判断し行動しその結果を含めて
神の御前に捧げることだけなのです。
 
つまり
そのことにおいて正直であれば
立派でなくても神は救ってくださるということが
聖書に表されており
それゆえに福音と呼ばれているのです。
 
しかもそれを
御言葉として伝えているのが
地上の誰よりも
人間に深く共感されるキリストなのです。
 
あらゆる悲しみを持って祈り
キリストに会う人は
正直に告白し
その御名によって祈ることになるでしょう。
 
その御方を救い主と呼んで祈る人は
ただ救われるだけでなく
その救いを宣べ伝える伝道者となるでしょう。
 
救いとは
生きられない人が
生きる人間になることです。
それこそが信仰による義認の賜物であります。
 
 
(2018年04月27日)
 
辿る(たどる)
 
 
 
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  「苦楽」コメント抜粋
 
 
信仰とはそんな難しいことではないです。
 僅か3歳にして信心頂いた幼子も居るのです。
 見つめるは我が心だけ。
 政治など無関係、所詮 人間の為すこと…
 
2018/4/17(火) 午前 4:03[ こうさん ]返信する
 
 
政治の話は、思いついた愚痴のようなものとして書いております。記事にするには、私は知識も乏しく不十分ですから、コメントとして書くことが多く、信仰の話と関連づける意図はありません。
 信仰は、謙って祈る心だから難しくはないと思いますが、決めつける心性からは、知識と体験の絶対化が起こることを危惧して、注意を促してゆくつもりです。
 
2018/4/17(火) 午前 4:44[ st5402jp ]返信する
 
セキヤンさんのことを含めて言っておられるのなら、むしろ、私からは、政治など無関係と言っていられる気持ちは宗教人のおごりであろうと思います。
 
2018/4/17(火) 午前 4:46[ st5402jp ]返信する
 
そう、そのように、すでに、他のことを軽視するような、自己の宗教ワールド絶対化の兆候が表れているではありませんか。
 
2018/4/17(火) 午前 4:51[ st5402jp ]返信する
 
信仰者が政治にかかわることを是としているのは、信仰から政治の正しさを導くなどという大それたことではなく、関わるまいと思っても政治は否応なしに関わってくるからです。つまり信仰者として、というより、この国に住んでいる人間として国民として目をそらしてはいけないと思うからです。
 
2018/4/17(火) 午前 5:01[ st5402jp ]返信する
 
 
人間の為すことに真の正義はありません。
ここにヘビに睨まれたカエルがいます。
 最早カエルの命は風前の灯火
それを不憫に思い人は助けます。
 一見、良い行いをしたようですが
 カエルは命を拾いましたが、カエルを
食べ損ねたヘビはやっとありつけた
 チャンスを失い、餓死してしまいます。
これが人の正義、真の正義を行うなら
自分の血肉をへびに与えれば良かったのです。
 所詮、その程度の人間の正義、
 信仰を語る者か並べて語るまでもない、
という意味ですよ。
 誰かを攻撃する姿勢は褒められません。
 
2018/4/17(火) 午前 5:31[ こうさん ]返信する
 
 
ヘビとカエルの話が人間の不完全を表す以上に
どう関係するのか分かりませんが、
前にも書いたような気がするけど、
人間の語る正義も真実も所詮その程度のものならば
なぜ、政治は無関係などと、信仰とは別の物事について
軽くしかも断定的に、言ってしまうのでしょう。
信仰さえ分かっておればよい
というのは、悩み多きこの世を生きる人間として
問題の共有と悲しみの共感を
喪失してゆく方向ではないでしょうか。
そうなってしまう人間の性質こそが
人間が考え体験する信仰もまた絶対ではなく、
相対的である証拠だと思っています。
絶対化すれば、おかしくなってゆくのです。
 
また、私のコメントを
攻撃と受け取ることには問題はないのでしょうか。
私は指摘しただけです。
こういう指摘については、以前からずっと
遣り取りの中では気づいたときにしてきたことです。
 
2018/4/17(火) 午前 6:25[ st5402jp ]返信する
 
 
人間の本質を説く者が人間の為す
政治を宗教家と並べて語ることに
違和感を感じたまでです。
セキヤンさん?何のことですか?
 
 自己の宗教ワールド絶対化の兆候
こう言われてあなたは何も感じませんか?
 少なくとも そんなワールドを持ち合わせては
 いませんよ。
 
2018/4/17(火) 午前 6:37[ こうさん ]返信する
 
 
セキヤンさんは、政治活動家、
こうさんさんの前のコメントですが、
関係はないということなら、それでいいのですが、
では、私の記事のほうを言っておられるのでしょうか。
信仰から政治を考え、ではなくて、
単純に選挙もあるし、
信仰者が政治を考え、なのですが。
 
記事ということならば苦楽というテーマですから
内部だけでなく外部の原因も考えるべきでしょう。
公害など人災や犯罪は、まさにそうでしょうから。
それも、政治など無関係、と言ってしまうのでしょうか。
 
2018/4/17(火) 午前 7:48 [ st5402jp ] 返信する
 
>人間の本質を説く者が人間の為す
>政治を宗教家と並べて語ることに
>違和感を感じたまでです。
 
政治と宗教を並列して書いているということなら
私のコメントや記事の並べ方が悪かったのかもしれません。
お詫びいたします。
 
政治は私に関わってくるものだが
信仰は私の命を支えるものです。
並べて同じように語れるとは思っていません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:48 [ st5402jp ] 返信する
 
政治は政治で感じること考えることを
自信はないですが今は時々コメント中心に書いています。
それでも考えなくてよいものとは思いません。
 
信仰について考えることのほうが遥かに多いです。
自信はなくても直接心と命に関わることなので
それ以外のことよりも多く書くことになります。
 
信仰の非絶対性つまり相対性はお認めにならないようですね。
人間の本質を解く、という行為も、
まぎれもなく人間の為すところでありますから
相対性から逃れることは出来ません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:49 [ st5402jp ] 返信する
 
前のほうのコメント
> 見つめるは我が心だけ。
> 政治など無関係、所詮 人間の為すこと…
 
1行目は、こうさんさんの精神世界の信仰の話。
それを宗教ワールドと表現しました。
そこに心は住み、そこで精神は活動しているという意味です。
それに比べると・・2行目ということになり
人間のなすことをより軽く見ていると思いますが・・。
 
さらに
> 所詮、その程度の人間の正義、
> 信仰を語る者か並べて語るまでもない、
というコメントで強化されていると判断しました。
 
繰り返しますが私は政治と信仰を
並べて同じように語っているわけではありません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:49 [ st5402jp ] 返信する
 
> 自己の宗教ワールド絶対化の兆候
>こう言われてあなたは何も感じませんか?
 
私が言われたら、上のほうに書いたような説明をして、
絶対化ではない、または、
絶対化にならないように努めると答えます。
 
> 少なくとも そんなワールドを持ち合わせては
> いませんよ。
 
精神世界が信仰のみに限られているような印象を受けました。
その精神世界のみを重要視するゆえに
それ以外の人間の動きについて
疎かになっている可能性を危惧いたします。
この世のことは総てご自身と家族と友人に関わっているのです。
信仰とは見方が違いますが、
歴史的にも今の現実においても無関係ではありません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:50 [ st5402jp ] 返信する
 
私たちは、本質の断定ではなく、
あらゆることにおいて
可逆的で修正可能な判断によって生きている
という自覚を持つべきだと思っています。
それを私はブログを通して
キリスト信仰における私の今の判断として語ってきたつもりです。
 
無常の人の世をどう生きるかという宗教的体験も思考も無常です。
本質が語っているなんて思わないほうがいいと思います。
 
2018/4/17(火) 午前 7:50 [ st5402jp ] 返信する
 
本質が語って(誤)→本質を語って(正)
 
ここも記事にするつもりです。
 
2018/4/17(火) 午前 8:00 [ st5402jp ] 返信する
 
本質を語っているなんて思わないほうがいいと思います
 というのは、本質だ、本質的なことだ、と言っても
訂正不能にしてはいけないという自覚が大事ということです。
 訂正不能にした信仰は何が起こっても、
 起こったことを信仰に合わせようと、詭弁を作り始めるからです。
 経験ですが、そういうサイトを約6年間批判してきました。
 
2018/4/17(火) 午前 8:15 [ st5402jp ] 返信する
 
 
人の本質、心を見つめなければ心理には
辿り着けないですよ。
これは絶対と言い切れます。
 釈迦や親鸞が厳しい修行をどれだけ繰り返そうと
私の心は変わらない、と気付き、
その心を捉え真理を悟らされたように
私もそうであり、また導く上でも
 それ以外には気付きに会えないのを知り
皆さんを導き、信じるのではなく
仏に信じさせられる信心を獲得する道を
実行して、数多くの結果を出して居るからです。
 私はこのネットの広い世界ならば
心理に至った方とも出会えるかと思いましたが
 いまだに会えた方は1人のみ、それも私と同じ
母から教えを請うた方でした。
 誤解を恐れず言いますが、私は迷い法を求めてはいません、
いつかあなたが言った伝え手として、
 法を語っているのです。
 
2018/4/17(火) 午前 8:45 [ こうさん ] 返信する
 
 
>人の本質、心を見つめなければ心理には
>辿り着けないですよ。
>これは絶対と言い切れます。
 
人間にとって絶対と言える命題は
「絶対は絶対にない」ということだけだろうと思います。
 
絶対は神のものです。
人が絶対だと言う先には
同語反復の無限ループが待っているということが
既に聞いたような言葉の
似たような感じの繰り返しになってゆくでしょう。
 
2018/4/17(火) 午前 10:23 [ st5402jp ] 返信する
 
>仏に信じさせられる信心を獲得する道を
 
信じたのではなく、信じさせられた
という言い方も、前にも言われたような気がしますし、
それはまた、カルトの自己正当化の論法でもあります。
神が聖霊が、という、させられ体験は、
私が何度も書いてきたカルトの口上なのです。
 
>実行して、数多くの結果を出して居るからです。
 
短い人間の生きる時間の中の、
そのまた一部で成り立ったことが
広い世界に通じると言うように
恐れもなく真理?と言ってしまうのです。
心の理つまり心理と言い換えても、
それこそ人間の心理は絶対ではないのですから。
 
2018/4/17(火) 午前 10:23 [ st5402jp ] 返信する
 
> 私はこのネットの広い世界ならば
>心理に至った方とも出会えるかと思いましたが
> いまだに会えた方は1人のみ、それも私と同じ
>母から教えを請うた方でした。
 
人から教えを受けた心理のどこが絶対なのでしょう。
 
> 誤解を恐れず言いますが、私は迷い法を求めてはいません、
>いつかあなたが言った伝え手として、
> 法を語っているのです。
 
私が言った?・・分かりません。
少なくとも私は
悲しみの尽きない世にあって
悲しみを感じなくなる法よりは
悲しみを経て知る愛のほうを愛します。
 
2018/4/17(火) 午前 10:24 [ st5402jp ] 返信する
 
 
(2018年04月26日)
 
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
 
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