ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年08月

 
  話をするが聞かないシャローム
 
   日本人の会話のスタイル
    2018/8/29(水) 午前 9:00
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28697286.html
    by shalom (以後、シャローム、彼、あなた)
 
 
>この記事は中根千枝著「タテ社会の人間関係」(単一社会の理論)
>〈7.人間と人間の関係〉より引用。
>講談社現代新書1967年発行。900円(税別)
 

著者紹介 (ウィキペディアより)
中根 千枝(なかね ちえ、1926年(大正15年)11月30日 - )は、日本の社会人類学者。専門はインド・チベット・日本の社会組織。東京大学名誉教授。女性初の東大教授。女性初の日本学士院会員。また学術系としては女性初の文化勲章受章者となった[注 1]。イギリス人類学民族学連合名誉会員、国際人類学民族学連合名誉会員など。

 
シャローム氏は、自分が引用した文献が、シャローム氏自身を斬っていることに全く気付かないようです。文献の著者が東大名誉教授であることを紹介したのは何故でしょう。なんだか、偉い先生だから批判をするなとでも言いたいのでしょうか。だとしたら、ひどい勘違いです。誰であろうと変なことを言えば批判対象になりますが、そんなことではなく、私が批判しているのは、文献の著者ではなく、他者の著作を自己正当化に悪用するシャローム氏に他ならないのです。
 
というわけで、
今回は引用文献のほうには学ぶべきところが多くありました。
シャロームのコメントは、相変わらず、見るべきところがありません。
 
(以下、引用文献より)
 

私たちが自分の意見を発表するとき、対人関係、特に相手に与える感情的影響を
考慮に入れないで発言することは、なかなかむずかしい。
(これを忖度というんですね)

 
シャローム氏は、忖度どころではなく、賛同意見や世辞だけを喜び、それで交流したことにしてきました。その陰で、批判や疑問は、ことごとく削除して、なかったことにしてしまう隠蔽魔なのです。彼には聞く態度がありません。
 

日本社会におけるほど、極端に論理が無視され、
感情が横行している日常生活はないように思われる。

 
問題が多ければコメントが多くなるのは当然なのですが、シャローム氏は、私のことを、コメントをたくさん書くから荒らしだと決めつけました。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
彼は、世辞の快感だけを交流と呼んでいるようです。
彼は、以前、異教の仏教哲学者ともやり取りをしていましたが、全く噛み合っていない単方向同士の遣り取りだったから、常識的には疲れるだけだっただろうと思います。それも今は削除されています。シャローム氏は、はっきり言って、常識程度の理路や道理も分からない人です。
 

その証拠に、日本人の会話には、スタイルとして、弁証的発展がない。
「ほめる書評」と「けなす書評」しかないように、「ごもっともで」というお説頂戴式の、
一方交通のものか、反対のための反対式の、平行線をたどり、
ぐるぐるまわりして、結局はじめと同じところにいるという、
いずれかの場合が圧倒的に多い。
(論理的な批判能力が未熟で貧しいといえるようです。)

 
シャローム氏は、褒めるコメントか挨拶コメントでないと不快になり、結局、削除してしまいます。「ごもっとも」コメントだけを求めていたと言ってよいでしょう。
 

まず一方交通の場合は、「話をする」とか、「話を聞く」という、話し手と聞き手にかたよっており、「会話を楽しむ」という、ゲーム的な対話というのは実に少ない。

 
だから、シャローム氏は、遣り取りにおいて、聞く態度が全くないので、社交でないなら早く去ることを望み、慇懃無礼を返すか憎まれ口を返すかになり、いらいらすることはあっても、何か意義のあることにはなりませんし楽しくもありません。
 
慇懃無礼の丁寧語でごまかしますが、いつも上から、いつも決めつけ、いつもまともに返せず、その不感不応を、神の平安と呼ぶのです。そして、神に任せると言いながら、自分でせっせとコメントを削除してきたのです。
 

聞き手は、その「ワキ役」を演ずるのが普通で、対話者として、同列にたつことがむずかしい。
そして、ここにも例外なく登場するのは「タテ」の関係であり、
話し手の役は普通上位の者(あるいは一座の人気者)が独占する。

 
シャローム氏は、今はコメント欄も廃止していますから言い放って終わりの噴霧器の世界に住んで、無価値な迷惑をまき散らしています。
 
かつては、自分絶対の「タテ」の関係しか認めず、批判や疑問に対しては、病人と言ったり、サイコパスのように見なしたり、カルト扱いしたり、感情的にというか怨念ベースでしかなくなり、極めて意地の悪い返答しかしてこなかったのです。彼は、根腐れだと、私は思っています。
 
(引用文献終わり)
 
 
>《shalomのコメント》
 
>世界中で極東の島国日本ほど自然豊かで、
>異文化による脅威の少ない歴史の国は少ないと思われます。
 
いつの時代のことを言っているのでしょう。今の時代は、偏向した政治思想や外圧や自然環境に対する脅威など、様々な脅威にさらされているのですが、シャローム氏は、自分だけが神からの啓示を語っているつもりなので、彼は以前、共感不要と発言しましたが、そのように、広く他者と共感する気などないようです。
 
>狭い島国で同一言語、文化で生きていくには社会的な序列による秩序、
>言葉より情緒による忖度的交流が必要だったのかもしれません。
 
そういう交流が必要だったのでしょうか。書き方、間違えてますね。引用文献は、そういう「タテ」関係の交流が支配的になってきていることを批判しているのです。
 
シャローム氏のような人が、日本人の特徴であったなら、日本のリーダーであったなら、忖度どころではなく、独裁国家にあえぐことになったでしょう。彼は、日本とその歴史をボロクソに言ってきましたが、彼自身は、賛同者は味方、批判者は敵、と見なすような、単純で幼稚な短絡思考です。
 
だから、荒らしを荒らしと見抜けず、味方になってくれれば荒らしと仲良くすることも平気なのです。そうして、都合の悪いコメントは真面目なコメントでも平気で削除して、大事にするのは、結局、自分だけ、という卑怯者です。
 
>中根千枝著「タテ社会の人間関係」(単一社会の理論)が1967年に書かれて50年。
>世界はすっかり変わってしまいました。
>日本も明治維新150年、敗戦後73年、うわべは大きく変わったようです。
>しかし、日本人の心はそれほど大きく変わってはいないようです。
 
このように、日本人の心、という大きなテーマでも、神の啓示に思い上がったシャローム氏は、ひとまとめにして気安くボロクソ節につなげてきました。自分がその中の一人であることを全く自覚できないからです。自分信仰の悲惨な末路が進行中です。
 
シャローム氏は、不感不応、無反省、自己満悦、自己中心、独善、ドグマ、無罪妄想信仰の人であり、そして、深い思慮も情感も持たないサイコパス的自分信仰者で、反キリストの、現代のパリサイ人です。そう判断するしかないような約6年間そして現在という経過なのです。
 
シャローム氏は、どんな文献も、自分に都合がよいように解釈して、自己正当化に使おうとするが、自己中心の受け取り方では、ただ引用し肯定して、自分を客観的に見ることが出来ないために、自分が斬られていることにも気づかないまま、自分は正しいと思い込んでいる訂正不能の態度で、いくら語っても成果が何一つ残らない、という無残な経過と結果を積んでゆくだけになります。
 
彼の文章からは、語尾にエッヘッヘ、という笑いが聞こえてきそうだ、というのが、約6年間、彼を見てきた私の幻聴ではなく印象です。一度も非を認めず、反省することもなく、何度も何度も、丁寧に丁寧に、焦点をずらして自分を高めようとする姑息な筆致が、今まで、延々と続いているのです。
 
シャローム氏の丁寧語に騙されないでください。彼は、その丁寧語と聖書語だけを身につけて処世してきた偽善者であり宗教ペテン師であり、恐らく誰にも認められたことのない権威主義者であり、自分の言動に責任を負わず、罪悪感を感じない男です。ゆえにキリスト者でも言論者でもありません。もう彼については、私が受けたストレスだけで十分であり、誰も、彼から影響を受けないように、切に願ってやみません。
 
 
(2018年08月31日)
 
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
 
 
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  人間離れへの伝道
 
   あなたの王はだれ?国籍はどこ?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28696948.html
   (2018/8/28(火) 午前 10:01)
    by shalom (以後、シャローム、彼、あなた)
 
 
前の記事で私は次のように書きました。
 
「偽善は必ず
 言動のどこかに自己正当化が入っている。」
 
非を認めず、罪を認めず、人を人とも思わず、人の言うことを聞かず、人のコメントを削除して、自己正当化を続けてきたシャローム氏は、性懲りもなく、また、教える立場から、記事を書いています。一見、まともに見える記事ですが、彼のこれまでの偽善の継続が表れていると思います。偽善者は、気づかないまま、自分を破壊してゆくので、まともなことを書こうとしても、自分に都合の良い、実際は誤解を受けそうなことを書いて、必要なことを書けないか、書かないで、平気でいられるのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
16:16
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17
すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
・・・
16:21
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
16:22
すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
16:23
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
 (マタイ16:16-19,21-23、新約聖書)
 

ペテロの言葉を聞き、そのことは私の天の父があらわされたのですと言って、
あなたは幸いだ、と喜ばれたイエスさまでしたが、
その同じペテロの言葉を聞き、
今度は「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と
厳しく叱られたのです。
同じペテロの言葉と、同じイエスさまの言葉なのです。
ペテロの心にはイエスさまに対する信仰の言葉と、
サタンの神のことを思わず、人間のことを思う言葉が同居していたようです。

 
22節のペテロの言葉は、イエスの身を案じたゆえの言葉であり、メシアとして、世を救うはずの先生が、殺される、などという、とんでもないことを言うものですから、うろたえて否定したのだろうと思われます。キリストの使命を理解していなかったからです。
 
人間が人間を思いやることがサタンの所業というわけではありません。この点をシャローム氏は書いていません。シャローム氏は、持ち前の、全か無かという筆致で、また、この記事の冒頭に書いたように、人を人とも思わず、自分の言うことは神や聖霊の啓示だと思っていて、それを訂正できないために、まるで、人間を思うことが神に背くかのような文脈になっているのに気づかないのでしょう。
 
ペテロが先生の身を案じて、殺されることなんてない、と思う気持ちはわかるのですが、ここに、ペテロの思い込みがあるのです。つまり、相手は単なる先生ではなく、キリストなのですから、人間を大事にするだけでは正しいとは言えない場合があるということです。
 
ただの人ではなく、特別の使命を持ったキリストである、という点が、ペテロに欠けていたために、サタンよ引き下がれと、キリストに言われることになったのでしょう。
 

でも、イエスさまはペテロの信仰告白をご自分の父から与えられた言葉として受け容れ、

 
16節は、キリストの使命を勘違いしているペテロの言葉ですし、22節は、キリストの使命について無知であったがゆえのペテロの言葉です。つまり、どちらも信仰告白ではありません。
 
ペテロは、その後、自分がキリストを裏切ったことを知って、激しく泣いたのち、悔い改めたとしか考えられません。
 

またペテロが神のことを思わず、人間のことを思うサタンからの思いをもち、
私の邪魔をする者であるという弱さをも知りつつ、

 
このように、シャローム氏は、人間のことを思うことを、サタンからの思いだと書いています。人間性を大事にせず、人間的共感を必要ないと言っていたシャローム氏らしい発言です。人間を思う気持ちを、シャローム氏は、救いの邪魔だと思っているのでしょう。
 
私が、シャローム氏を評するに、穏やかな言い方になれない理由の一つがここにあります。彼は、反省も訂正もすることなく、何事もなかったかのように、平気で、同じような記事を書き続けているのです。
 

しかし、
イエスさまはペテロを退けることなく、その後も共に歩き、ともに生きてくださいました。

 
キリストがペテロを退けなかったのは、ペテロが、人間的共感に溢れる情感の持ち主で、反省し悔い改めることの出来る、つまり愛のある人だということを、叱ったときも、またその前からも、既に知っておられたからだと思います。
 
人間を思うのはサタンの所業だなどと言う人であったなら、キリストは、ともに歩き、共に生きてくださったでしょうか。シャローム氏が弟子だったら、どうだったでしょう。
 

イエスさまは父なる神によってペテロを義としてくださったことをご存じだったのです。

 
まず、文として、特に敬語の述語の使い方が主語との関わりで、変です。
また、この場合の義は、信仰の義であって、神の絶対の義ではありません。キリストは、ペテロを変わらずに愛し、裏切りを赦し、導き続けたということです。
 

ペテロの心のうちにある神のことを思わず、人間のことを思う、人としての弱さは
イエスさまに従うこと、イエスさまの十字架の死によって挫折をし、砕かれ、
さらに、よみがえられた神の国の王なるイエスさまとの出会い、さらにイエスさまの言葉に従い、
イエスさまから聴いていた父の約束である聖霊に満たされることによって、
イエスを邪魔する者から、神の国の証人、人間を獲る漁師に変えられたのです。


弱いペテロを導き、強い迫害者パウロをも導き救われたように、
聖書は私たちをも神の国へ招き、導いて下さる神の契約なのです。

 
公式のような教理的な記述です。手続きの確認作業のようです。これで、気が済んで、伝道をしたつもりになって、満足するのでしょうか。人を人とも思わず、人間的共感を否定しているシャローム氏は、いつも、こういう書き方しか出来ないようです。
 
決まり文句のような讃美を繰り返す人を警戒してください。そういう人が、人間を大事にしているかどうか、人間性や共感を持っている人かどうか、ということに注意するべきです。その点が、反省し悔い改められる人間かどうか、それは、すなわち、信仰者であるかどうかに深く関わってくるからです。
 
 
次に、彼の前の記事ですが、
 
  神の国の王・・・それは誰なのでしょうか
  
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28694348.html
   by shalom (2018/8/26(日) 午前 10:16)
 
シャロームのコメントは2行だけのようです。(2018年8月29日、午前4:16現在)
 
>心の王座に自分で座っていると、人の心は不安、疑い、怖れで脅かされています。
 
罪と偽善を悔いることも訂正することもなく、心の王座に自分で座っている人が書いています。
 
>ヘロデ王、秀吉の姿は「神の国の王を見失っている」私たちの姿ではないでしょうか。
 
記事は省略しますが、キリストが王家に生まれた人だと強調したいようです。王家に生まれた、ということが、そんなに重要なことでしょうか。そんなことを書かなくても、そんなこと意識しなくても、キリストは救い主なのですが。
 
キリストの出自を超常世界に探っても、信仰を明らかにすることは出来ないと思います。それに、ヘロデ王も、秀吉も、私たちの姿ではないです。シャローム氏は、自らを固定して、そこから、超常を自らになぞらえて、様々な人を裁いてきたのでしょう。
 
シャローム氏の好みそうな記事のようです。「神の国の王を見失っている」・・私たちは、王家であろうとなかろうと、それぞれに、生きてしばしば悩んでいるし、王家の話を語られても、私たちが、それで、生きやすくなるわけでも、安らぎを得るわけでもありません。王家と言って気持ちよくなるのはシャローム氏とその仲間くらいのものでしょう。
 
私たちが生きている現実の人間の有り様を大事にするべきでしょう。超常の世界や、王様の世界に、私たちは住んでいるわけではないのですから。シャローム氏は、いったい、どういう世界に住んでいるつもりなのでしょうか。
 
※ 
 
改めて感じることですが、過去約6年間の偽善的な彼の記事と、それに対する批判によって、信仰の一番大事なところを理解していないばかりか寧ろ反キリストであることが、いよいよ明らかになっているシャローム氏は、自覚がないために悔い改めることもなく、呪文のような彼の教条にしがみついて、知っている聖書由来の言葉、すなわち聖書語を、見繕って並べて信仰者らしさを整えようとするのですが、それは自己満悦のために過ぎないから、見かけだけの空疎な理路と情緒になって散乱してしまうという経過と結果が表れてくるのです。
 
 
(2018年08月30日、同日一部修正)
 
見繕う(みつくろう)
 
 
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  罪人と悪人と偽善
 
 
自分は罪人あるいは悪人だと言いながら
平気で笑って罪あるいは悪を重ねることは
罪人あるいは悪人の救いを悪用した偽善であります。
 
これはキリストによる罪の赦しと罪人の救いを
あるいは悪人正機を
さらに逆に悪用した偽善なのです。
 
真の罪人あるいは悪人の自覚には
その自覚において真摯であることが
少なくとも暗示されている必要があります。
 
 
キリスト信仰の立場から言うと
罪人であると認めながら
罪人だから罪人だからと
避けられる場合にも平気で罪を重ねることは
罪人である自覚が偽りであったということになり
罪人だという告白は嘘であり
嘘を吐いて
罪人の救いを悪用しているのだから
偽善に他ならない。
 
地上の人間の世界では
人間の不完全性によって
多くのことが逆説的になるようだ。
 
善いと思われることが悪と表現されたり
悪いと思われることが善の見かけを持っていたりする。
 
したがって偽善という
罪よりも悪質な罪が生まれてくる。
 
罪はゆるされるが偽善は赦されない。
 
キリストは罪を赦し偽善を裁くために来られた。
 
罪は見えないことがあること
偽善は見えると言い張ること
 
見えないことは避けられないことがあるので
赦される罪である。
 
見えると言い張ることは故意であり
人の意志によって改めなければ
赦されることを拒む自己正当化の偽善である。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ9:41、新約聖書)
 
偽善は必ず
言動のどこかに自己正当化が入っている。
 
 
したがって
罪人だから悪人だから
ということを自己正当化に使えば偽善である。
 
伝道者は文脈や言動の前後関係を読むという難局に直面するが
 
罪人だから悪人だからと言いながら
その前後の不遜に変化がない場合
また
罪人だから悪人だからと言いながら
嘲りや威丈高や平気で相手を嘲笑う場合
それらは
罪人の救いも悪人正機も本気ではなく
真っ赤な偽物すなわち偽善としか言いようがない。
 
 
キリスト信仰の立場から言えば
罪人であることの自覚、
神の前に魂が砕かれること、
キリストの愛を感じ取ること、
などの宗教的体験として
何らかの気付きが訪れた時が本物であれば
人間として
心も言動も態度も変化しないではいられないということです。
それを悔い改めというのです。
 
 
(2018年08月29日)
 
 
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  讃美と忠実
 
 
カルト的崇拝に
よく見られるものとして
過剰な讃美があげられる。
 
折々の理由のある感謝と違って
讃美は曲者の大好物である。
 
感謝することは下から上の印象を伴うが
誉めることは
よく出来ましたという上から下への印象を伴う。
さらに
讃える理由が具体的にあれば
それは寧ろ感謝の祈りとなるだろう。
讃えることは
讃える理由が特別ないときに
呪文のごとく
神を褒めまくっていることが多い。
 
分かりもしないのに
また人間に分かることではないのに
神のなさることだから正しいと
正しい信者になりきって
神の味方をしたつもりで言ってしまいやすい。
 
これは
自分は神の正しさを知っている
と誇る行為である。
しばしばカルトのやっていることだろう。
 
教えられたとおりに
神を単純に讃美するとき
神を讃える自分は神に忠実な信者であると
忠実でない自らの代償行為の確認作業になりやすい。
義務を果たしたような気分になるときには要注意である。
 
神を讃えるつもりで
自らの代償行為の確認と反復に過ぎないなら
少しも神を讃えてはいない。
 
讃美するときには
そこに神に対する自らの敬虔があるかどうか
よく考えてほしい。
 
 
神を讃えたいなら
神に忠実でありたいなら
人間として正直であるしかない。
 
これには神に対して
分からないことは分からないと言うことが含まれる。
では分かることは分かると確信してよいかと言うと
それは人間の不全性から
今そういう気持ちであるにすぎないと考えるべきである。
 
神を分かって信じることは殆どないのが
人間の不全性である。
にもかかわらず信仰が成り立つのは
ただ神の憐れみによるのであり
讃美がそれを支えるわけではない。
 
神に忠実であることは
神が分かることではない。
また神について何でも頷くことでもない。
それはカルトの餌食になることだ。
 
分からないことは分からないと言うべきであり
分からないのに分かると言うのは忠実ではない。
正直ではないからだ。
 
神は褒められることを善しとしないと思う。
何故なら神にはその必要などないからだ。
 
讃美が無条件に正当である場合は多くない。
迫害、逆境、臨終など、
讃美する以外にすることがないような
崖っぷちの時に限られるだろう。
 
神に対して
とにかく逆らわないことが大事と
何故か
バチが当たらないように讃美する習慣があり
分からないと言うことが罪だと思う因習がある。
 
神に対して
見える、分かる、知っている、守っている、
という言葉のほうがよほど罪であり偽善である。
 
いつも喜び
いつも讃えよ
という教えを勘違いしてはいけない。
 
神は全能であるゆえに
人が
いつも喜び
いつも讃えることが出来ないことを
既にご存知である。
 
聖書を人間として読まず
超常を分かるという思い込みで読む者たちの
無理強いに騙されてはいけない。
 
いつも喜んでいないといけないのではない。
いつも讃美しないといけないのではない。
信仰が深くなれば
喜び讃えることが多くなるだろうということだ。
 
私たちは欠点の多い人間であるから
神はそれを憐れまれ
信仰という祈りの道を与えるのであって
その人間が
私は忠実で模範的でございと
やたら讃美しまくるという捧げものは
世辞と言うべきだろう。
それを神に対する心とするべきではない。
 
 
理由もないのに
いつも喜んでいる異常な感情を
神が善しとすると思うのは
さらに異常である。
 
神に逆らってはいけないと
自ら大仰な讃美を生業のようにしばしば唱えて
他者にもそれを手本として讃美することを要求して
神に成り代わろうとする者を信頼してはいけない。
 
曲者のカルトは
紛い物の讃美を連呼するのが大好きなのだ。
 
讃美するときには
そこに神に対する自らの敬虔があるかどうか
よく考えてほしい。
 
 
神に対する忠実は
神に対して正直な人間であること以外にはない。
 
 
(2018年08月28日、同日一部修正)
 
讃える(たたえる、称える)
曲者(くせもの)
寧ろ(むしろ)
贔屓(ひいき)
頷く(うなずく)
餌食(えじき)
生業(なりわい、せいぎょう)
 
 
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  神とカルト
 
 
何らかの利益を目的とするカルトは
神を信じてなどいない。
 
むしろ神などいないと信じているからこそ
平気で神の名を利用して
信者を従わせようとするのだ。
 
したがって
カルトは信仰を知らないから
神の信じ方を知らない。
 
ゆえに神の名を騙る上で
カルトは信仰についてまともなことが言えないから
それらしいことを作って言うしかない。
 
だからカルトは
超能力や神のお告げなど
超常の話をするしかなくなる。
 
神=超常の超能力
としか考えられないからだ。
 
超常が自分を通じて
身近にあるように
実現できる力のように語る。
 
そして結局
自分に従えば神の力を得る
というような教えを垂れるだろう。
 
そしてまず
誰でも出来るような儀式を教えるだろう。
 
そうやって仲間を増やし
救われた人々として宣伝するだろう。
 
誰でもあることと思わせて
ただ無条件に信じることだけを要求する。
 
それ以外のことを排除するように教える。
そして反対者を悪魔呼ばわりして排除してゆく。
 
結局これらのカルトの言動は
人間に思考停止と盲従を植え付けてゆく。
 
カルトに対抗できるのは
人間としては
人間性以外にはないから
カルトは
人間性を否定し消滅させたいのだ。
 
カルトとは
教祖が
神がかりとして
信者に人間離れを勧めることに終始する。
 
そのことが招くのは結局は破局なのだが
その前に多くの寄付によって利益を得ようとし
信者からの崇拝による自尊を得て満足するか
あるいは利益を得て破滅する前に逃亡することを企てるだろう。
 
※ 
 
真の神は
その有り様を見ておられるが
直ぐにカルトを滅ぼすことはしないかもしれない。
人間に対して
カルトに騙されないようにすることを期待しておられるのだろう。
 
カルトという人間の罪と偽善は
神が最も嫌うところの偶像崇拝でもあるのだから
結局人間が克服することで
人間たちによって
本当の信仰が明らかにされることを期待しておられるのかもしれない。
 
神について
よく聞かれる反対意見であるところの
「神がいるならなぜ助けてくれないのか」
という叫びを
神は聞いておられるが
神は自らに似せて作った人間が
自由意志をもって困難を解決してゆくことを期待するために
この地上では耐えがたいと思われる試練を与えて
あえて沈黙されることがあるのかもしれない。
 
神の救いはこの地上にあると同時に
あらゆる地上とあらゆる天上の
神の支配する全ての国においてあるからであろう。
 
だから信仰者は
まずこの地上において
カルトと闘わなければならないのである。
 
 
(2018年08月27日、同日一部修正)
 
騙る(かたる)
 
 
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