大仰な讃美
イエスは神の国の主権と支配を現わされる
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28735082.html
by shalom (以後、シャローム、シャロム、あなた、彼)
神に背いている者は、罪を隠すために、また、批判されると、さらに大仰に、神を讃美します。
>主の主、王の王なる方だから
実に大仰に。しかしながら、讃美することで、隠している偽善の罪に、神が目をつぶるということはないのです。無駄なのです。
罪は、悔い改めない限り、赦されることはありません。
私が讃美に対して、疑問を呈したのは、こういうわけがあるからです。きわめて単純な反応として、隠し事のある者ほど、そのうしろめたさを打ち消すかのように、神を誉め讃えるのです。
打ち消されるものは、何もありません。ただただ偽善が増し加わるだけなのです。
>
わたしたちイエスを信じる者、また主の教会が、その言われるみ言葉を聞いて従うことの大切さ、その意味がお分かりになったでしょうか。
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聞いて従うことの大切さ、と言っている引用記事も疑問です。従っている振りをする偽者が多いのです。むしろ、しばしば従うことの出来ないことがあり、そういう罪人への救いが、キリスト信仰なのです。
>《shalomのコメント》
>
「King of kings Lord of lords.......」歓喜の絶頂です!
生ける神は自らの罪のために、神の国を見失ったわたしたちに、
イエスさまをこの世につかわされ、そのみことばと御業によって神の国を支配を現わされました。
さらに、その十字架の死によって、私たちの罪を贖い、罪の赦しを与えられ、
さらに約束の聖霊を注ぎ、よみがえられたイエス・キリストの身体である教会を建てられたのです。
<
お祭り騒ぎのように讃美していますが、悔い改めの必要を否定しているシャロームは、罪人への救いを気にしません。十字架によって、罪は贖われたから気にしなくてよい、という考えなのです。讃美しておいて、罪について、無頓着でよい、という、この考え方は、決してキリスト信仰ではなく、偽善なのです。
次にシャロームは、使徒行伝を引用しています。
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そのことについて使徒ペテロは次のように述べています。
【口語訳】新約・使徒行伝2章29~40節
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以下、わけて引用します。
使徒行伝
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2:29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
2:30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
2:31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
<
キリストの肉体の復活、そして、聖霊の注ぎ、という、超常からの救いの仕組みだけを後生大事に繰り返し讃美してきて、キリストの心に何の共感もないのが、シャロームです。ちょうど標識だけを見て分かったことにして、それが必要となった経緯を全く考えないのに等しいのです。
使徒行伝
>
2:34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、/『主はわが主に仰せになった、
2:35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、/わたしの右に座していなさい』。
<
34ないし35節については、詩篇110章からきているそうです。
詩篇110:
新共同訳1987
110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
口語訳1955
110:1 主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵を/あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
(旧約聖書)
http://www.bbbible.com/bbb/bbbps1101.html より。
'adoni わたしの主・主人・主君
YHWH イスラエルの神の固有名詞
主<YHWH>はわが主<'adoni>に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
「わが主 adoni 」は、ダビデの主。それが、YHWHと区別されていますから、理想の王 - メシアであると解釈するのが一般的ではないでしょうか。
わたしは、YHWHです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2263992&id=63174045 より。
「わが主」「あなた」はキリスト、「主」「わたし」は神{ヤハウェ}ということでしょうか。
使徒行伝
>
2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2:40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
<
38節に「悔い改めなさい」と書いてあるのに、決して悔い改めることなく、罪を隠して偽善を働き、この二千年前のキリストの肉体の復活のみに縋りついて、自分は救われると信じ込み、変わることのない尊大さと傲慢によって、今も、人に教える牧師気取りで、やたら讃美しまくるこのシャロームをどう表わしたらよいでしょう。
キリストの心を捨て、野良犬の本能のように、キリストの肉を欲しがる者、とでも言うべきでしょうか。
>神の平安がありますように!
白々しい。よく言えるものです。
救われた感謝と讃美だけで、シャロームは洗礼を受けたのでしょうか。それで、今もキリスト者のつもりで、さらに牧師のつもりでいるのでしょうか。
もう一度、言いますが、私が讃美に対して、疑問を呈したのは、この記事のような事情が想定されるからです。きわめて単純な反応として、隠し事のある者ほど、そのうしろめたさを打ち消すように、神を誉め讃えるのです。
信仰者になってゆく過程で、誰からか知らないが、すり込まれたものは、奇跡のような体験の信じ込みと相まって、それが邪悪で間違っていることを説いても、容易にとれません。この辺は、カルトによく似ています。
正当なキリスト教とキリスト信仰においても、個人の誤解や曲解が入り込んでくると厄介になってきます。揺るがない信仰を・・と教えられているからです。だから、一般的に、人間の信仰というものを、訂正不能にしてはいけないと言ってきたのは、決して信仰の周辺事項ではなく、最重要課題に属することなのです。
信仰の初期において、他者からの自由ということが、私にとって大きな恵みでした。周囲の評判や他者の思惑からの解放を感じて、とても自由になった気分でした。しかしながら、他者からの自由は、決して他者を無視して勝手気ままでよいということではないのです。そのことも、やがて、信仰の道理として学んできたつもりです。
シャローム氏は、その信仰の初期に得たものを絶対の賜物として訂正不能に固定してしまったのでしょう。そうなると、そこからの成長がなくなり、変化し続ける他者と周囲に対して、もはや無視という方法しかなくなってしまうのです。
信仰において揺るがないのは主から与えられる希望であって、信仰者個人が信じ込んで持っている言葉や行為の教条ではないのです。
(2018年09月30日アップ、同日一部修正)
大仰(おおぎょう)
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