ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年04月

 
  「讃美の家」批判16
   聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
 
 
無題→「からくり」
他の人の記事らしい。「弱さを認める」
この記事を自らの意思を持って選択し
掲載したのはあなたである。
 
>自分は弱い。しかしどこかで自分の弱さを認めるのが怖い。
>それで、人を批判する。
>批判しているうちは、自分に目を向けなくて済むからです。
 
恐ろしい人だ。
私は私で既に嫌というほど弱いのに、
あなたを批判することを、私の弱さのせいにする。
批判の原因はあなたの一つの行為であるのに。
あなたは自分に目を向けない。
あなたは人にも目を向けない。
 
(私)
批判している内容に目を向けず、シャロームこそ自分に目を向けず、批判自体を異常だと決めつけていますが、そのことがシャロームの病的な決めつけなのです。、
 
>この「からくり」に、私たちも早く気づいて自分の弱さと向き合うときに、
>私たちは本当に強くなれる。独り立ちできるはずなのです。
>そのために、教会という場は、きっとあなたの助けになるでしょう。
 
この記事の引用・転載があなたの「からくり」でしょう。
悪意と殺意を持って、いじめて楽しんでいるかのようだ。
私が若き日に行った教会があなたの教会でなくてよかった。
 
(私)
シャロームは、言葉の絡繰りだけで、つまり小手先の言い回しで何とかなると思っているようですが、そんな安易な権威主義からけなしたところで何も変わりはしないのです。
 
もう疲れたからやめようかと思っていたのだが・・・
批判は死ぬまで続けることになりそうです。
2011/10/12(水) 午前 10:46[ st5402jp ]
 
恐らく、例えば
「誹謗中傷に対しては
黙々と自分の為すべき使命を果たし続けることが大切だ」
とでも思っているのだろう。
 
(私)
彼の使命?は、他者を無視し続けることだったのです。今に至るまで。
 
批判を誹謗中傷と見做されれば
誰も自らの本音の意見を言えなくなる。
言えなくしようとしているのはあなただ。
 
>「ここは宗教くさい」「世界で貧困や戦争を起こしている原因は、宗教だ」
>「あいつが悪い」「ここのやり方が悪い」すべて悪口になる。
 
ひどい人だ。
誹謗中傷や悪口と、批判を同一視している。
それによって人を貶めていることに気づかないのか。
 
最初に戻るが、
相手を格下と思っていなければ、反対意見を封殺したりはしない。
まして人を封殺するというのに「お元気で」などという
ふざけたことを書いたりはしない。
人を格付けする体質をあなたが持っている証拠であろう。
つまり、あなたが培ってきた体質が
「神の下に人は平等」という信仰に反しているのは明らかだ。
2011/10/12(水) 午前 10:49[ st5402jp ]
 
(私)
ゲニックな牧者(心の病と悩みの病因となる牧者)は、
 
いつでも、どこまでも
人の気を狂わせる発言を止める気はないようである。
(※ ゲニック:前にも使った言葉だが、
 シゾフレノゲニックは統合失調症を発症させる性質をさすが、
 ここでは「人の心をかき乱す体質を持っている」ことを意味する。)
2011/10/12(水) 午前 11:01[ st5402jp ]
 
批判はよくない、悪口だから・・。
悪口は自分に目を向けないことだから・・言ってはいけない。
こういうことを
批判の原因を作った人に言う資格があるのか。
 
2011/10/12(水) 午前 11:13[ st5402jp ]
 
(※ 修正として 
 ゲニックは前にも使った言葉だが、本来の
 シゾフレノゲニックは、統合失調症の発症を促進させる因子として
 母親や家族などの感情表現の問題を含めたものを意味しているようだ。
 ここでは省略して
 ゲニック:「人の心をかき乱す体質の人」として比喩的に使っている。)
 
(2011年10月12日)
(2011年10月13日、加筆修正)
 
(私)
シャロームのような偽善者に対して、悪口ではなく、批判をする心をも持たないでいることは、シャロームの奴隷になることです。それは、人格の破壊を招くことです。
(私)
シャロームの言い分は、一見、穏やかに諭しているように見えることがありますが、実際は、自己中心の立場しか持ち得ない妄想家の訂正不能な、それこそ、悪口なのです。それに屈して批判を止めてしまうことも、人格破壊につながることです。
(私)
批判しない、あるいは、できない人は、少なくとも、決して、シャロームの小手先に乗せられてはいけません。シャロームに関わらないでください。彼は、丁寧語と聖書語で騙してきます。彼の徹底した訂正不能の不感不応の持続は、サイコパス相当の異常人格でないと出来ないことです。正体は、ケダモノだと思ったほうがよいでしょう。
 
 
(2019年04月30日)
 
 
 
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  婉曲の災い
 
   「実家の親」を苦痛でしんどく感じる本当の理由
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28960975.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
   
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190429-00278161-toyo-soci
   などからのコピペ
 
 
相変わらず、シャロームは、転載元へのリンクを貼らないようです。
 
私は、転載元の記事について批判する気はありません。
 
親子関係についての記事のようです。今まで、こういうことがシャロームにおいて問題となった、あるいは、そういう問題についてシャロームが書いたという記憶が私にはありません。
 
読んでいくうちに、いくつかの記事の内容が、シャロームを考えるとき、気になってきます。直接のテーマではないが、婉曲的に批判者に向けた当てつけとして書かれているのではないかということです。こういう婉曲的な当てつけは、今までも、見られました、というより、シャロームが不平不満を言うときの常套手段でもあるのです。
 
シャロームは、分かっているふうを装っているだけで、今回も、転載した記事が、婉曲的なシャロームを、婉曲的に斬ることになります。どんなに偉そうな記事を書いても、立派な記事を転載しても、中身のないシャロームには、いっしょだということに、シャロームだけは、気づかないでいます。
 
シャロームは、誰と直接名指しはしないで、望ましくない例として転載しています。直接の反論や弁明の出来ないシャロームは、そういうやり方で、一見無関係なことを、文章の類似によって拾ってきて、当てつけてくるので、ここでも、気になったことについては、シャロームだけを、信仰の指導者として、失格だという批判をせざるを得なくなります。
 

そもそも、親の存在を苦痛に感じてしまうのはなぜでしょうか。その原因は親・子、そして家族のコミュニケーションのとり方・言動パターンにあると感じています。拙著『「苦しい親子関係」から抜け出す方法』をもとに具体的にご紹介します。

 
コミュニケーションの取り方・言動パターンにある問題を、シャロームは、自分の問題として考えたことが一度もありません。いつも、悪いのは、他者、そして、批判者である相手、ここでは私であり、それを汚い言葉で、なじってくる、皮肉を言う、関係ないことでの他者のコメントを当てつける、という手段を取るのがシャロームです。
 
>■コミュニケーションではなく「傷つけ合い」
 

私たちは、他者を見るとき、ついほかの人も自分と同じことを考え、同じ捉え方をし、自分が予測しているような行動をとるものだと思い込んでいます。けれども、他人はもちろん、家族の中にあっても、何を是としてきたかは、世代によって異なります。そこで生じるのが、世代間のギャップです。

 
シャロームは、他の人も自分と同じ信仰と信条を持つべきだと思い込んいますが、そのシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条は、キリスト教のどこにも存在せず、シャロームの妄想の確信に過ぎません。世代間のギャップではなく、シャローム固有の訂正不能な妄想的確信なのです。そこから、シャロームの、皮肉、嘘、詭弁、自己正当化、なども生まれてくるのです。
 
そういう妄想的確信を、シャロームは、柔和を装って、「ではないでしょうか」「ですね」、などと自分の記事で書いてきましたが、疑問を呈したり批判したりすれば、一切答えず、なじるか、上のような卑怯な的外れな転載や引用をもって当てつけてくるので、私も、シャロームと議論することは諦めています。代わりに、誰もシャロームの影響を受けることのないように、また、近づかないように、批判記事を書いてきました。
 
この転載記事は、最初、関係ないだろうと思いましたが、どうもそうではないようで、シャロームは記事にする必然性を書いておらず、必然性などは見当たらないことから、私が気になったところを指摘してゆきます。それくらい、シャロームは、卑怯で、手段を選ばない人だということです。
 

にもかかわらず、こうした世代間のギャップを考慮せず、自分の視点から「自分は正しい」と思い込む親がいます。自分が育った社会環境と家庭環境を基準にすれば、確かに自分が正しいのでしょう。自分の基準は、自分が身につけ体験してきたことがですから、親の目には、子どもが間違っているように映ります。

 
シャロームが、世代間のギャップではなく、いつも言っていたのは、信仰は人それぞれ、ということでした。そのことによって、シャロームは彼の妄想的信条を正当化し、批判をするな、邪魔をするな、と言いたいわけです。
 
信仰が与える使命や務めは人それぞれですが、信仰対象は、イエス・キリストという、ただ一人の御方です。それをシャロームの場合、罪を気にせず悔い改めない、という、キリスト教とは真っ向から反対の妄想信条によって、好きなように信じ込んでいるわけです。
 
一見柔和を装うシャロームの妄想宣伝活動を許していたら、シャロームの言説が広まれば広まるほど、キリスト教も人間世界も破壊されてしまう必然を持っています。ゆえに、批判するしかないのです。個人が好き勝手な解釈で信じ込むようなってはいけないのです。そうならないために、キリスト教・キリスト信仰には、芯となる弁えとか節操というものがあるからです。
 
自由と、好き勝手は、違うのです。そこにおいて、福音伝道と、妄想宣伝は、分かれるのです。そこを混乱させようとするのが、後者を広めようとするところの、シャロームであります。
 

その最も悪しきパターンが「子は親に従うべき」という意識構造ではないでしょうか。親がそのような考えのもとで育っていれば、同じことを子に要求したくなります。

 
その最も悪しきパターンが「信徒は牧師に従うべき」という意識構造ではないでしょうか。
ここでの転載記事を宗教的問題について言いかえれば、こういうことになります。
 
まさに、シャロームは、キリスト者は自分という(自称)牧者に従うべき、という意識構造なのです。結果の重大性など、考えていないか、ただ尊敬される快感を求めているか、あるいは何も気にしていないか、であろうと思われます。
 

「子どもが間違っている」ように見えれば、なおさら自分に従わせたくなるでしょう。子どもは子どもで、自分の視点から「自分が正しい」と思い込んでいます。親の時代とは違った社会環境で育った子どもの目からすれば、親の主張のほうが間違っているように見えるからです。ここで互いに自分の主張を通そうとすれば、争いが起こるのは目に見えています。

 
親子でも転載記事において問題となっている以上、
他人同士の場合、宗教と信仰の場合、決めつけて上から見下ろす視線は、より残酷になります。
 
私は、批判するときには、根拠を示してきました。シャロームは、一度も、根拠を示していません。だから、直接の議論をしないということであり、今までの経過から、シャロームには、議論など出来ないことなのです。それでも、シャロームは、自分を偉く見せ、自己顕示欲を満たすために、下等な悪口を、婉曲的に、ごまかしながら、書いてくるのです。
 
シャロームは、議論の必要性を全く感じていません。以前、シャロームは、神の啓示と聖霊の導きだから議論の対象にならない、と言いました。誰もが、そう言い始めたら、どんなことになるか、ということを全く考えないシャロームです。こういう、考えの単方向性は、親子でも、人間同士でも、似たような問題を起こしてくるでしょう。
 
信仰の話になりますが、人間は、神の導きであるか、また聖霊の導きであるかを、確定することは出来ません。それが分かるほど、完全に造られてはいないからであり、このことは、我が身を振り返り、人間世界を見ておれば、分かるはずのことです。
 
この、成り行きを受け取って人間として考えるという働きが、シャロームには欠落しているのです。このことから、シャロームが、信仰?の名のもとに、自己正当化と自己絶対化をしていることは、著しい偽善が生むことになります。
 

ただし、この争いはコミュニケーションと呼べるものではありません。お互いに「相手が間違っている」とかたくなに思うことによる「傷つけ合い」です。

 
私は、おかしいと思うことを指摘して、おかしいと言いますが、シャロームは、嘘偽りで、あるいは、また、荒らしまで味方につけて、成りすましかもしれない楽山をも味方につけて、無根拠に、否定と貶めだけを批判者に向けてきたのです。双方向であるはずの、コミュニケーションとは決して呼べないやり口です。
 

幼い頃、子どもは自分の親が、誰よりも立派だと信じていました。自分よりも聡明だと信じ、親の言うことは、すべて正しいと思っていました。とても立派で偉大な人物に見えていました。ところが、子どもが成長して物事を判断する目が育つと、次第に幻想の皮が剥がれていき、親の実体を知るところとなります。

 
一部のサイコパスなどの異常な親子関係を除いて、これは、多くの人にとって、子供の頃の記憶としてあるものでしょう。衝突したら向かい合うことで、関係が新しくなることが正常ですが、ここが問題となり、この転載元の言おうとしていることなのでしょう。
 
信仰について、私は、最初の数年間は、シャロームを聖書の先生として敬意を払っていましたが、彼が、都合が悪くなると、はぐらかしてくるところから疑問をいだき、突っ込んでみると、コメントを隠蔽そして削除してきたのです。
 
シャロームは、恐らく、この転載元の記事を見て、ちょうどよい主張になると思い、全く他人事として書いていると思います。彼は、彼自身について、何の問題意識も持っていないことが明らかとなってきました。そういう人だから、平気で嘘を吐きますし、悔い改めは神が与えるので自分はしない、というような詭弁も弄してくるのです。
 

それにもかかわらず、親は相変わらず、親の権威を振りかざそうとするため、摩擦が起こります。支配的な親ほど、なおも従わせようとするでしょう。

 
シャロームは、何を言われても無視する不感不能の愚かな境地から、平気で、嘘を吐き、詭弁を弄してきました。私は、誰も近づかないように願いながら、批判記事を書き続けています。
 

その一方で親は、自分の方法がまったく子どもに通用しなくなったことに愕然とします。これまでの自分の地位を確保できないことに不安を覚え、反抗的な素振りを見せる子どもに苛立ちを覚えます。そのような親は、子にとって、すでに「わかり合えない」関係になっているのかもしれません。
ただし、親子の問題は、本当は、2人だけの問題というわけではなく、家族全体の問題でもあります。そしてその大元は、夫婦関係です。夫婦が夫婦として「わかり合えない関係」なら、親子関係もわかり合えない関係となりやすいでしょう。

 
シャロームは、恐らく、誰とも、分かり合える関係になったことはないと思います。
 

夫婦がわかり合えない関係であれば、親の関心はより子どもに向かいやすくなるでしょう。夫(妻)はダメでも、子どもであれば制御しやすくなります。母親の場合、子どもが息子か娘かで微妙に異なりますが、娘のほうが同性であるという点で、通じやすさや自分の延長線上にあるような気がすることから密着度が高くなりやすいでしょう。もちろんそれは共依存的にという意味においてです。

 
分かり合えない説教者のシャロームが、信徒に向かうとき、信徒ならば組みやすしとばかり、単方向で説教をし、逆らう者に対しては、まさに私が言われたことですが、共依存関係は良くないと言い逃れをして切り捨ててきたのです。批判しているのは、シャロームが悪意ある傲慢な偽善者だからであり、依存されるような魅力は皆無であることにシャローム自身が気づかないのです。
 
>■伝え合うコミュニケーションができない
 

そのような家庭では、感情的になって主張し合ったり、相手をまったく無視して会話すらしなくなったりというように、父親も母親も、健全でポジティブな関わり方やコミュニケーションの方法をとることができません。
なぜならそのような会話は、彼ら自身、したことがないからです。彼らは、相手のことを互いに「察し合う」コミュニケーション能力はあっても、言語で「伝え合う」コミュニケーション能力が乏しいのです。

 
シャロームこそ、まさに、人の言うことを虚心に聞いて、考えて返す、ということが、全くできないし、してこなかった人です。
 

互いに自分を強く主張して相手を論破するようなディベート的な会話を、コミュニケーションだと思い込んでいる人たちも少なくありません。異様に弁が立つ人、押しが強い人、人に話をさせないで一方的にまくし立てる人、相手に話す隙を与えない人、高圧的な物言いの人、いずれも、コミュニケーション能力が乏しい人たちの特徴です。それは「親しくし合う」「愛し合う」体験が乏しい人たちとも言えるでしょう。

 
私は、道理を通すキリスト者の話は、全力で聞くことに努めます。話にならないのは、結論だけを繰り返すような、荒らしやカルトや、シャロームのような偽善者に見られることです。
 

ところが、かつてはそのような人たちのほうが、頼もしいという評価を受けたり、強いと持ち上げられたりしてきました。家庭の中にあっては、「心が通じ合わない」人だったのですが、昔はそれが偉い、強い、立派というふうに評価されていたのです。少なくとも彼らの親たちはそうだったでしょう。娘、息子にとっては祖父母にあたる人たちです。

 
シャロームのような者こそが、見た目だけ、強さと完璧を、そして中身のない空疎な落ち着きや穏やかさや、世辞の丁寧さで、他者に受け入れられようとするのです。
 

彼らはそんな親たちのやり方から抜け出すことができないでいるのかもしれません。しかし、昔はそれが通用したとしても、そんな時代錯誤的な方法で、自分の子どもたちの尊敬を得ることはできません。

 
そんな時代錯誤的な方法で、一時のごまかしになっても、信徒の尊敬を得ることは、結局、出来るはずもないのです。
 
>■「せめてわが子だけは自由に」のワナ
 

そのようにして親に染みついた言動パターンは、さまざまな形で表出します。しかも、一見、そうとわからない形でです。代表的なものが、「私の望みを、あなたが叶えてね」というもの。多くの親が「わが子だけには、私のような苦労をさせたくない」と思っています。
せめて子どもだけは「自由に生きてほしい。生き生きと輝いた人生を送ってほしい。自分の好きなことをやってほしい」などと願います。言葉だけ見ると、とても子どもを大事にしているように思えます。
しかし実際には、その「願い」そのものが子どもの心の自由を奪っています。「私は我慢してばかりいたから、子どもには思いどおりの人生を生きてほしい」「学校で成績が悪くて引け目を感じていたから、子どもには優秀でいてほしい」「出身校に劣等感を抱いていたから、わが子には、そんな思いをしてほしくない」といった、自分が果たしえなかった理想を、子どもに押しつけて、「私の望みを、あなたが叶えてね」と言っているのです。

 
自己中心の愛情ということでしょうか。シャロームの信仰?にピッタリ当てはまるような気がします。
つまり、シャロームは、彼が信仰?と呼ぶものによって、思い上がることで、自らの不遇を克服した気になり、それを、誰にでも宣伝したいのでしょう。
 
いわゆる、ルサンチマン(弱者に募る怨念)に基づいて、自己中になって、何も気にしなくなれば、楽だよ、と教えたいのでしょう。そこからは、成長を拒否した人間の停滞と破壊しか待っていないことに気づかないのです。
 

その目的がどんなに立派でも、子どもに選択の余地を与えないのは、子どもの自由の侵害です。しかも子ども自身がそれに気づかなければ、親の期待にこたえられない自分を、不孝者のように感じるでしょう。親の思いに反して、自分の意志を大事にしようとすると、親を裏切るような気持ちに襲われるでしょう。子どもが自分らしく生きようとすることは至極真っ当なことなのに、まるで悪いことをしているかのように罪悪感を覚えて自分を責めるのです。

 
シャロームは、自分勝手に好きなように他者に言って、それを批判されることを嫌い、自由の侵害のように思い込んでいるようです。しかし、訂正不能な自己正当化と自己中心に与える言論の自由はないのです。何故なら、言論の責任を負う気が全くないからです。
 

とくに母娘の問題で言うと、母親がそうやって子どもに自分の願いや理想を押しつけようとするのは、母親自身が諸々の制約で自分の心を縛っているからです。母親がどんなに、「子どもには苦労させたくない。自分の理想どおりの子どもになってほしい。自分の好きなことをしてほしい」と願ったとしても、やっていることは、「自分の心を縛る」方法を教えているにすぎません。しかし、それは、親自身もまた長年「従う」ことを行ってきたからでもあります。

 
シャロームのように、人の言うことを聞かないまま、自分の願いや理想や信条?を押し付けようとするのは、彼が、人を縛り、上に立ちたいという欲望に他なりません。
 

このように親子関係というのは、社会的な環境と密接に根づいたものがあります。ゆえに、非常に根深いものではありますが、こうした全体像を知ることは、実は「親だけが悪いわけではない」という親への理解にもつながっていくことを、ぜひ知っていただきたいと思います。

 
説教者と信徒の関係は、人間性と密接に結びついています。その関係を神?の名のもとに無視すれば、表れてくるのは、自分信仰による破壊だけになります。
 
私は、自説を言い張っているのではありません。シャロームとの関わりで、シャロームに何の説得力もない当てつけや言い張りの悪意だけを返される間、私は、そういう無意味さと正常なやり取りなど出来ないし、私の言説を改めるとか、私の意見や批判を引っ込めるとかということは、起こる動機が生まれようがない、ということです。
 
>石原 加受子 :心理カウンセラー

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まさか自分が…多くの親に潜む「毒親」の兆候

 
私から言いたいのは、テーマが何であっても、
世辞を返す以外には、他者のことが全く分からないし、他者を分かろうともしない底意地の悪い害毒に満ちた説教者にご注意を、そして、決して近づかないように、ということです。
 
私は、転載元の記事を批判する気は全くありません。
シャロームが、自らを省みることなく、勝手に載せている、という、転載記事の内容とシャロームの関係において、問題ありとして、批判しています。
 
 
(2019年04月30日、同日一部修正)
 
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  死を利用する者(2)
 
   [死を越えた生命復活の眼差し」山本れい子さん
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28960418.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
一人のキリスト者の死にまつわる美談が、シャロームによって、けがされてゆきます。
ペテン師シャロームが書けば、
何でもかんでも奇跡と勝利というカルト臭い話にしかならないのです。
 
何故なら、シャロームは、信仰において不可欠な罪の自覚を、全く無視して、何をやっても平気で、後悔も反省もしないでいられるからです。批判に対して反論できなくても、シャロームが、性懲りもなく書き続けられるのは、そのためなのです。
 

主人をついに荼毘(ダビ)に付したとき、六十年近く葬儀の仕事をされている葬儀社の方が、
わなわな震えられ、手を合わせて語られました。
「わたしはこの仕事を何十年もやり、何千人と亡くなられた方を見てきましたので、
お骨でその方の性格、生前の生きざまが分かります。
山本さまは、まことに心の美しい方と存じます。
癌なんて嘘でしょう。癌でモルヒネをそんなに射ったら、骨はグシャグシャとなります。
しかし、山本さまは頭蓋骨からすべて形通り残られました。なんということでしょうーーーー」
わたしと良樹は、あの大きな頭蓋骨が形通り出てきたときは、本当に驚きました。

 
早速、シャロームらしく、遺体の骨がグシャグシャにならず、形通りであった、という、肉体の奇跡の話です。シャロームは、こういう話が大好きです。というより、シャロームの信仰は、肉体に起こる奇跡を信じ込む信仰?だけなのです。死んだ後の肉体の奇跡が、それほど、嬉しいのでしょうか。
 
こういう話をするシャロームは、書くたびに信仰の的を外しており、ゆえに、既に、シャロームの良心も、そのための気骨も、生きながらグシャグシャになっていると思います。だから、罪を認めることもなく、悔い改めることもせずに、奇跡話で、信仰を伝えたつもりになれるのでしょう。
 

「病床つれづれ草」をテープに吹き込んだ主人は、日本目のテープにも声を入れていました。
後になって出てきたそれを聴くと、
「わたしの寝ている部屋の隣から、ふたり(わたしと良樹)のなにやら
ぼそぼそ話す声が聞こえてくる。不景気な話をしているにちがいない…」
第二のテープは、そんな出だしではじまっていました。

 
病床で、不満と心配を表しているように思われますが、
 

このあと、なにをいいたかったのでしょう。
私は母が自宅で寝たきりになり、看護するために、ちょうど私が出かけ、
妹に留守を頼んでいたところへ、七平が忘れ物を取りに帰ってきました。
私がいないことを知ると、主人は妹にいったそうです。
「私はね、れい子が生きていてくれなくては、一日たりと生きられないんですよ。
れい子がいなかったら、今の私はなかった」
妹は、七平兄さんにもそんなところがあるんだと内心びっくりしたと、
主人が亡くなってから、思い出したように私に語ってくれたのでした。
私は、なんでもっと早くいってくれなかったのと、妹に文句を言いました。

 
「七平が忘れ物を取りに帰ってきました」ということですから、
上の、部屋で寝ているときとは、別の話になるのでしょう。
 
別のときの、夫人への感謝の気持ちを表す話と、病床での話を結び付けてよいのでしょうか。
 

息子の良樹がものを書くことを仕事に選んだとき、わたしは、父親と同じようなことを、
「蛙の子は蛙」か、たいへんな事を始めた、と思い悩みました。
しかし、神さまは本当に、時にかなって美しいことをなさったのです。
良樹が会社勤めの人でないからこそ、四六時中、献身的に父親を看病できたのでした。
また、主人も同時に、仕事にかまけ、小さい時に良樹をかまってやれなかったことの
つぐないとして、この闘病のあいだに、息子に凝縮された愛を注ぎ、
父親としての生きざまをよく示すことができたようにも思います。

 
息子が、物書きの道を選んで、会社勤めでないから、看病できた、ということを、神が時に適って美しいことを為さったと、神の意志と行為を、人が、決めつけて語ってよいものでしょうか。
 
神が奇跡で自分を守ってくれると信じて疑わないシャロームが喜びそうな話を、シャロームが喜びそうな書き方で書いてあります。だから、シャロームは、これを記事にしているのです。
 
神の意志と行為を決めつけて奇跡として語る話というのは、シャロームのような、罪を認めず、悔い改めもしない反キリストの偽善者にとって、垂涎の的になるのです。文字通り、シャロームは、よだれを垂らして、飛びついているようで、それが、この記事ということです。
 
神への恐れもなく、神の前に隠し事や偽りはあっても、神に対する正直や誠実の欠片もないシャロームは、いつも、自分を高めるために、こういう奇跡話を記事にしたいと漁(あさ)っているのでしょう。良い話のはずが、キリスト信仰を悪用するシャロームの餌食になっています。
 
 (伝道の書、口語訳)3:11
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
 (伝道3:11、旧約聖書)
 
人には、神のわざを見極めることは出来ないのです。
 

息子は「パパを小さなお墓に入れたらかわいそうだよ。
あんなに好きだった医師らエルにお骨をもっていこう、散骨しようよ」といいます。
わたしも大賛成だったのですが、日々の後片付けの雑務で、具体的に何もできずにいました。
そこにいつも頼まれている旅行社から、
ぜひ、「山本先生を偲ぶ聖書の旅」を企画させてください、といわれました。

 
イスラエルにお骨を持っていって散骨するのは、故人をしのぶだけでなく、聖書の旅とまで言えるのでしょうか。
 

けれど、十月ということでは、皆さん、仕事のある方たちだからとても無理では、と思いましたが、
二十名以上の方が各地から集まってくださったのです。
イスラエルに着いた晩、ガリラヤ湖畔のホテルで亡くなってはじめて七平の夢を見ました。
その嬉しそうな顔!
七平は、あの旅行用のユニホームを着て、「さあ行こう」と満面の笑みを浮かべていました。
その姿を見て、わたしは主人はイスラエルに散骨されるのを、
この上なく喜んでいるのだとしみじみ思ったのでした。

 
シャロームは、人生と同様に、推敲不十分で修正不能ですから、
上では、医師らエル(誤)→イスラエル(正)、だと思いますが、
 
ガリラヤ湖畔のホテルで亡くなって、というのは、どういうことでしょう。
お骨をイスラエルに持ってゆく話ではなかったのでしょうか。
散骨したから(骨としても故人が)亡くなったという意味でしょうか。
 
嬉しそうな夫の夢を見て、イスラエルに散骨されるのを喜んでいると、死者の気持ちをも決めつけているようです。思い込みの強い信仰なのでしょうか。
 

参加して下った方々の七平への熱い想いに心より感謝しました。
主人の生涯を要約すると、次の内村鑑三先生の言葉につきると思います。
災難を避けんとするなかれ、。
これに勝たんとせよ。
独りみずからそれに勝たんとするなかれ。
神によりて勝たんとせよ。
 (内村鑑三著『勝利の人生』山本書店刊)

 
信仰の勝利は、誰かに勝つことではなく、
何かの上に立つことでもなく、信仰によって
災難に負けないで、災難を克服することです。
 

主人がこの世にあって、一番価値のあったことは、本を次々著したことでもなく、
講演をしたことでもなく、ひとりあって、この世から見ればたとえ、失敗の生涯であろうとも、
どんなときにも勝利の人生を歩んだことです。
どうか主人を愛してくださった皆さまも、勝利の人生を全うされますように。
この主人の熾烈な闘病を支えられたのは、私たちだけではなく、
多くの方々のご協力とお祈りをいただいたからこそ可能となったことでした。
皆さまの上に御祝福を。
栄光はすべて神に。

 
今回の記事が教えているのは、神聖の名をもって、何やら、奇跡信仰のような書き方をすると、人間的共感性を持たない偽善者でペテン師のシャロームのような奇跡しか信じていないカルト妄想の伝染に利用されるということでしょう。
 
恐ろしいのは、都合の良い記事を漁っては、妄想的に思い込み、罪も偽善も省みないで記事にするシャロームであります。シャロームは、キリスト者ではありません。
 
> シャローム!(平安あれ)
 
そして、自らのHNをもって挨拶に代えています。
 
以前、私が批判すると、シャロームは、私について、何の根拠もなくエホバの証人に似ていると言い、批判対象として以外何の関心もないのに自分に依存しているから批判するのだと決めつけ、幼児期のことなど話したこともないのに被虐待児が虐待者になるというサイコパスの特徴を当てつける、といったことを平気でしてきました。約8年間、何の変わりもない訂正不能の偽善者です。
 
そして、まともに反論も弁明も出来ないシャロームは、私のコメントをすべて削除して、ついにはコメント欄を閉鎖するしかなくなっています。
 
以上、近づけば騙してくるシャロームそして楽山、すなわち、平気で作り話を語り嘘を吐くシャローム、理路と常識をもって思考することが出来ないアドラー教信者の楽山、というペテン師に対する私の一連の批判記事でした。
 
 
(2019年04月28日)
 
漁る(あさる)
 
 
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  すり込みの詭弁(2)
 
   信者とアンチの共通点と相違点
   
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   楽山のブログ:呆れるほど、ぎゅうぎゅう詰めの記事
 
 
前の記事をアップした直後、楽山は、同記事に、その倍もあるような文章と画像による文章を追加してきました。
 
実に読みづらい改行のない長い文章、そして、コピペできない画像の文章を、平気で書いてくるのは、批判されないようにするための苦し紛れなのでしょうか。このことから明らかになるのは、何かを人に伝えようとか、解説しようという意志のないことです。でなければ、わざわざ読みにくい文章にする必要はないからです。自己満足と保身のためだけの文章なのでしょう。
 
ぼちぼち読んで、楽山という理路のない悪意の文章に対する批判記事を書いてゆきます。
 

あとは熱血タイプの人は信者もアンチもどちらの場合も少々乱暴なところがあるのは同じかもしれない。このタイプは議論の際にすぐに暴言を吐いたり無作法な振る舞いをしたりする。

 
暴言よりも不作法よりも、殴るよりも悪いことがある、ということを前に書いたことがあります。それが、他者を下にしか見てないような、量を書けば反論したことになると思っているような、楽山の文章です。人の文章を読まない者は、同じ過ちを平気で繰り返してゆきます。
 

ここは信者だとかアンチだとかは関係なさそうではある。またこのタイプが衝突するときは激しいやり取りになりがちなのでそれを見た第三者が信者もアンチもどっちもどっちで同じだという印象を持ったとしても致し方ないことではある。

 
どっちもどっち、という話にしたい、という刷り込みが明らかです。
 

またはアンチはカルトを批判するというけれども木乃伊取りが木乃伊になったと揶揄されても仕方ないことではある。とまあ両者の共通項として思いついたことを書けば現時点では大体こんなところかな。

 
ミイラ取りがミイラになったと揶揄される、ということにしたいようです。
 
どういう視点で書いているのでしょう。楽山は中立の立場のつもりでしょうか。楽山は、脱会したと言っていました。批判的な立場のはずですが、その立場ではないと言っているようです。
 
そうして書いているのは、自分を圏外に置いた悪口だけなのです。シャロームのボロクソ節に近い書き方です。自己中心という点では、こういうところが共通しています。
 

次に両者の相違点をざっと書いてみるとまずはじめに挙げられるのはOR(大川隆法)に対する評価や態度ということになる。信者は信者であるからしてORは仏陀でありエルカンターレであり至高神であり根本仏であり地球神であり国師であり創造主でありイエスが我が父と呼んだ存在でありエロヒムでありワールドティーチャーであると信じているのだろう。信者によってその信じ方の程度に差はあれどもORは特別に優れた存在であると信じていることはみな同じ思いを共有しているのだろう。

 
私は、OR大川隆法については情報不足ですし、興味も関心もないので、今のところ、カルトなんだろうということ以上のことは書いていません。
 
幸福の科学において「エル・カンターレ」は「うるわしき光の国、地球」もしくは「地球の光」という意味を持つ地球神を表す言葉で、幸福の科学の本尊である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AC
 
 
(画像文章)について。画像は省略します。
 
信者は絶対化、アンチは相対化、と言っています。人間または人間の考えを絶対化することがカルトの始まりです。
 
信者は教義を絶対的に正しいとし、アンチは道徳や常識と比較して批判する、と言っています。
私は、どんな宗教も、人間を絶対化してはいけないと主張し、人間性を破壊する必然を持っている楽山やシャロームを批判しています。
 
信者は信者とつながることが多く信者以外とつながることは多くないと言っています。楽山は、気持ちのいいことを言ってくれるシャロームのような人とだけ仲良くして無条件に弁護し、一方、批判者を無条件に否定し、批判者の言うことを無視してゆきます。
 
信者とアンチの相違点を書いているようですが、楽山は、脱会したと言ったのに、相違点を書くだけなのは、本当に脱会したのではないのかもしれません。
 
信者は、ORを信じないという視点は持てないが、アンチは、教義の枠内でも枠外でも考えることが出来る、と書いています。
 
私は、教義や教理というものを、糧とはしても、思い込み信じ込むことが信仰ではないと、キリスト信仰の立場から言ってきました。ここが、カルトとキリスト信仰の決定的な違いだと思っています。
 
楽山は、こういう私の考え方を理解できないのに、こちらに対しては証拠不十分だからと否定し、難癖をつけ、キリスト信仰から大きく外れたシャロームを無条件に弁護したのです。
 
楽山は、段落を付けない書き方を、たまにはいいかなと書いています。私は、楽山の今回のような書き方は、読みやすい書き方ではなく、分かりやすい書き方でもなく、説得する意志のない、自己満足の書き方だと思います。いいかな・・と楽山は満足しているようですが。
 
 

ああそうだ。話は急に戻るけれども信者とアンチの共通点についてぽん吉さんが繰り返し言っていたことを今唐突に思い出した。ぽん吉さんは信者もアンチも同じだと繰り返していたのだった。どこが同じかと言えば信者もアンチもHSに依存しているというのである。どちらもHS依存症だと。自分はこの主張をはじめて聞いたときは随分と荒唐無稽なことを言い出したもんだなあと感じたのだった。信者はHS無しではいられないだろうけれどもアンチは別にHSが無くても構わないしむしろそれを望んでいる人が多いだろうしそれならばアンチがHSに依存しているというのは無理があるだろうというようなあんばいである。でもだんだんにぽん吉さんの意見にもひょっとして一理あるかもしれないという気がしてきたのだった。その理由はどういうことかといえば批判というのはある意味自己表現の一種であろうしそれならばHS批判を繰り返すということは自己表現のためにHSに依存していることになるのではないかという疑問である。

 
批判は自己表現だから、自己表現のために依存していると言っていますが、これは、シャロームが、私に、私がシャロームに依存しているから批判するのだ、と言ったことに似ています。私は、シャロームに依存することは、私が自分の人格をわざわざ破壊することだと前から言っています。シャロームに、そんな魅力は皆無なのです。
 

たまにHS批判をするくらいならいいとしても四六時中HS批判ばかりしているとしたらHSがないと自分の考えを言えず自分の思想を表現できないということを示しておりこれではHS依存症と揶揄されても何も言い返せないのではないか? 

 
HSについて言っていますが、上に述べたように、シャロームを弁護する楽山に依存することもないわけです。楽山にも魅力は皆無なのです。
 

これは表現者としてはまずかろうしHSから少し距離をとった方がいいのではないか? 表現者が表現をするのに批判対象がなくてはそれができないというのは恥ずかしいことではないか? 

 
私について言えば、私発信の記事もたくさん書いてきましたし、シャロームや楽山のようなカルトが関わらなければ、それだけに集中することが出来るでしょう。しかし、性懲りもなく、二人は、執拗に自説を蔓延させようと書いてくるのです。早く止めてほしいのです。
 

HSとは無関係でそれに依存しないまったく別の表現を心掛けた方がよくはないか? とまあそんなことを考えたわけではある。

 
別の表現ではなく、自分発信の記事を書きたいのです。このような煩わしい文章に付き合う気はないが、シャロームは今も反キリストの記事を書いてくるし、楽山はシャロームの味方をしたことを、一度も訂正していないということです。そして、楽山の考え方であるアドラー教についても、気に入らないことを無視し続けて、改めていないのです。早く止めてほしいと切に思います。
 

こういうことは何かを作ることに興味のない人にとっては全然気にならないことかもしれないけれども自分は何かを作ること何かを書くことに興味があるのでHSというネタがないと何も書けないし何も言えないというのはちとショックであるし面白くないのである。自分の創造は他に依存せずHSがあってもなくても関係ないという風でないと面白くないのである。

 
楽山は、何かを書くことに興味があるという創造性に溢れた記事を書いたことは、私が知る限り、ないと思います。この記事のように、批判されないように読みづらい記事を、反省も訂正もなく他人事のように書いてくるので、楽山が何をしてきたかということを批判して書いてゆくしかないのです。
 

ぽん吉さんは信者からもアンチからも批判されることは多くまた批判されても仕方ないことばかりしているのではあるが自分としてはぽん吉さんのおかげで上のようなことに気付けたということはあるようではある。ぽん吉さんからは自分の批判癖を矯正する切っ掛けを与えられたとも言えるかもしれない。

 
楽山は、批判癖があるのではなく、理路とは言えないような、うやむやな全肯定で味方し、全否定で言い放ってくる人です。だから、今回のような胡散臭さ満載の記事を書いてきますし、何も矯正する気などないと思います。まさに、負の予想通りの文章を書いています。
 
 
(画像文章)について。画像は省略します。
 
楽山は、類は類を呼ぶということから、アンチは、アンチ村を作っていると言い、HSについても議論を続けるのが、スピリチュアリズムの考え方からすれば、ぞっとすると書いています。楽山はスピリチュアリズムなのでしょうか。
 
さらに、楽山は、HS信者は人生の中心はHSで、HSの中で生活することについては不平がなく幸福かもしれないと書いています。カルトの是非について、何も考えないのでしょうか。
 
楽山は、根が臆病で心配性だと言っていますが、楽山にとっては異教徒であり他者である私を平気で否定してきて、今は無視して、相変わらず、訂正不能の自己中心で、臆病ではなく、ふてぶてしくて、心配性ではなく、都合の悪いことは何も気にしないアドラー教信者であることは変わりがないのです。
 
 

若干情けないことではあるが自分がHS批判から少し距離をとりたくなった理由の一つにこういうこともあったりするのではある。スピリチュアリズムやら霊界やらを信じない人からしたらこういう心配はまったく馬鹿げた妄想にすぎないだろうけれども自分は元々迷信深い方なのでこの手のことを無視はできない性質なのだから仕方ない。

 
迷信深いことを仕方ないと言い、気に入らないことを無視するアドラー教を信じている楽山です。
 

強がってそんなことを無視したふりはできなくもないけど自分の性質に嘘をついたって仕方ない。そういうところは自分は無理せず自分に素直になっとこうと思うのである。

 
どこが素直なのでしょう。自分の都合だけで生きている楽山なのです。
 

ふう。原稿用紙換算数をみると19枚か。信者とアンチの共通点と相違点というテーマを思いついたときから自分なりの饒舌体で言葉を詰め込む感じで書きなぐれば10枚か20枚にはなるだろうなとは思ってたけどその通りになったようだ。もっとも10枚から20枚なんて幅のある予想をしたらそれが当たらない方がおかしいのではあるが(笑)。

 
宗教とカルトについてのテーマを書きなぐったのだそうです。「(笑)」を入れる余裕がどこから来るのでしょう。シャロームに似ています。
 

でもさすがにぶっ続けで書いてると疲れてきた。そろそろここらで筆をおくことにしようかな。このネタはHSに関心がある人でなければ退屈きわまりないものであろうし文章もぎゅうぎゅう詰めでチラ見しただけで読む気にならないものだろうしもしこの駄文をここまで読んでくださった方がいたらありがたいことである。また申し訳ないことである。

 
迷惑以外の何ものでもありません。
 

こういう文章は書く側はぐいぐい書くだけだが読む側は相当に骨が折れるのではないかと想像する。重ねてありがとうございます。今ちょっと見返してみたけどこれを書いた自分自身でさえ読むのが面倒くさいしなんだか文字面を見ただけでいかにも病的な感じである。気晴らしになるだろうと画像に差し替えて見たりもしたがそこもまたすごく奇妙で気持ち悪いという。でもまあたまにはそういうのもいいだろう。ははは。ではまた! 〈了〉

 
気晴らしで、記事を書き、画像にしたのでしょうか。宗教とカルトという重要なテーマの話を。
 
病的な感じで、気持ち悪いなら、書かないことです。気に入らないことを無視するアドラー教らしく、自分が何をしでかしてきたか、まるで気にしていない楽山です。「ははは」ではありません。「ではまた!」など、ありませんように。
 
 
(2019年04月28日)
(2019年04月29日、一部修正)
 
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  すり込みの詭弁
 
   信者とアンチの共通点と相違点
   
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   楽山のブログ
 
 
楽山は、荒らしの易坊の成りすましではないかと私が疑っている人ですが、前に、HSを脱会したと言いました。カルトを奪回した人は、大方、カルトに対して、人一倍、嫌悪と脅威を感じるものですが、楽山は、アドラー心理学の名を利用して、気に入らないことは無視する、という自己中心の信条の軟派カルトを唱えていました。
 
ところが、今回は、HS信者と、その批判者は、同じだという意見をあげて、ほぼ肯定しているのです。ここには、HSで、ひどい目に遭った、という、退会者の強い嫌悪も恐怖感も感じられません。退会話も嘘だったのではないか、と疑いたくなるような、回りくどい曖昧な表現による判断回避と、同じことの繰り返しと、結局は、批判することに対する不満が、執拗に述べられています。
 
理路が組み立てられず、判断をせず、責任回避の、ああでもないこうでもない堂々巡りになっています。前からですから、恐らく、作為的なのだろうと思います。
 
楽山は、先ず、長々と気候の話をします(省略)
その最後に「とほほ。」と書いていますが、楽山は、気が弱く柔和な人ですと印象付けたいのでしょうか。それにしては、今までと、ここで書いている文章は、弱さどころではない、尋常ではない執拗さがあります。
 

さて前置きはこれくらいにして本題に入ると先日ツイッターを見てたらHS(幸福の科学)の信者もアンチ(元HS信者で退会後に批判に転じた人)も同じではないかというツイートがあった。

 
これが、今回の詭弁の中心になっていることです。
 

これは前からある論点だけども全くの見当違いというわけではなくて一理ある見方ではあるんだよなあとは思う。

 
「だよなあとは思う」という楽山特有の、曖昧で無責任な、ボンヤリ言語の作為的な言い回しです。
 

この手の見方は信者もアンチも似たようなものだとしてどちらもともに見下すようなニュアンスが混じるから言われた側としては少しも愉快ではないしむしろどちらかといえば腹立たしくカチンと来るくらいのことだけどもだからといって一理あることを無いと強弁するわけにもいかない。それを嘘だ間違いだと決めつけるわけにもいかず一理あることは一理あると認めるしかない。

 
一理あることを無いとゴウベンするわけにもいかない、という、遠回しの表現ですが、これによって、自分の、一理ある、ということを肯定的に刷り込もうとしているのです。こういう表現が繰り返されます。これも、楽山の軟派カルトらしい作為でしょうから、嵌らないように注意する必要があります。むしろ、何が言いたいのか分からないという、奇妙さを伴うことを感じるべきでしょう。
 

ただこういうどちらも同じというのは視点を動かせばどうにでもなるものであろうからそこのところは忘れぬようにはしたい。たとえばHRHM好きからしたらHRとHMは違うことは感覚的には分かるものだ。両者に共通項はあるだろうけれどもそれでもやっぱり全く同じというわけではない。でもHRHMにこだわりがない者からみたらどっちも同じだということになるんだろう。ひょっとしたらパンクやら歌謡ロックやらもみんな同じくくりにさえされるかもしれない。

 
視点を動かせばどうにでもなる、など、いい加減な言い方で、理路を考えることを怠けているようですが、HR/HMは、ハードロック・ヘビーメタルのことで、音楽の話を挟んでいます。おかしいですね。カルト宗教の問題を、音楽の好みで喩えるのは、とても奇妙で、成り立ちません。真剣さが感じられません。
 
言い回しが、くどくなってゆくので、錯乱しているのかもしれません。あるいは、読む人を錯乱させて否定できないようにしたいのかもしれません。引っかからないでください。
 

この他にも例を挙げると右翼と左翼男と女人間と動物などだって違うもののはずだけどももっと大きく広い視点からすれば同じだという見方もできなくもない。そういう見方も成立しうる。

 
もっと大きく広い視点からすれば同じ、などと、実にいい加減な言い方をしています。
 
一貫して欠けていることとして、カルトとアンチの理路について、要素ごとに比較して是非や善悪や真偽や正否を考える視野が全く見られないことなのです。理路になっていません。こんな文章で宗教もカルトも、語ることなど、出来るわけはないのです。
 

同様に信者とアンチも視点によって同じだとも違うともい言える。では上記のツイートはどういう視点から信者もアンチも同じだとしていたかといえば信者もアンチも同じ次元にいる云々と書いてたので信者とアンチも同じ次元に見える程度の高さから見てたのだろうと推測できる。
それなら上に書いた通り高いところから見たら両者が同じく見えるのはまあ当然ではある。

 
同じ次元にいると言うが、その根拠となる理路が全くありません。楽山の物言いは、こういう特徴があります。何も語っていないのと同じなのです。こういう軟派カルトの話に、決して乗ってはいけない、という見本と言ってよいでしょう。高いところから、見ることなど出来ないのです。
 

では次に自分が信者とアンチとは同じという見方に一理あるとしたのはどの視点からの感想からかといえば自分としては信者とアンチと同一平面状からの感想のつもりではある。

 
楽山は退会したと言ったのに、信者とアンチの同一平面上だと言って、退会もいい加減であったことを、あるいは、嘘かもしれないことを、自ら露呈しています。すごく気味の悪い筆致が続きます。
 

ただ若干両者とは距離は離れているかもしれない。でも場合によっては両者の間に入り込んでいることもあるだろう。自分は元信者現アンチであってどちらの立場に立ったこともあるので結果としてそういう風になってしまうわけである。

 
どちらの立場にも入り込める、ということが、何も本気ではなかったことを表しているのです。
カルト臭満載です。
 

というわけでようやく自分の立ち位置を明らかにできたようなのでいよいよ本題に入ることにしたい。本当はすぐ本題に入るつもりだったが思わぬ回り道をしてしまった。でもせっかく書いたものを消すのももったいないのでとりあえずこのままにしておこう。

 
立ち位置など、何も明らかになっていません。理路がありません。胡散臭さだけがあります。
また、ここで、もったいない、という理由を言ってくるのは、おおよそ見当違いです。
 

次は信者とアンチで同じところを書き(というか同じに見えるところを書き)その次に相違点を書こうとは思う。そのあとはまあ出たとこ勝負ということである。

 
出たとこ勝負で、カルトを語る楽山なのです。理路も道理もないのです。
 

別な言い方をすれば風の吹くまま気の向くままという感じだ。まず信者とアンチの共通点として挙げられるのは何だろうと考えたときに第一に思い浮かぶのはどちらもHSに関心を持っているということである。

 
風の吹くまま気の向くままという感じで、退会したはずの楽山は、カルトを語れるということです。
何も真剣に考えていないことの証明でしょう。退会者のスタンスを持っていません。
 

なあんだそんなの当たり前じゃないかという気がしないでもないがだからこそ第一に思い浮かぶのだろうと思う。信者とアンチはHSに関心があるという点は同じ。

 
そうして、全然当たり前じゃないことを、当たり前と刷り込もうとしています。そうして、HSへの関心を、普通にあることという方向に導こうとするのです。汚い、という印象で十分でしょう。
 

ただそうはいっても両者のHSに対する関心の持ち方は正反対ではある。
HSについて一方は肯定的でもう一方は否定的であるという風に。
ただそうはいってもどちらもHSに強い関心を持っているというところはいっしょではある。
まただからこそ議論になるのだろう。

 
肯定と否定を、関心を持っている、という理由で一緒だと言っています。詭弁の理屈の捏造のためだけに、理屈倒れとなり、全く議論にも、議論のベースにもならない言説です。
 

お互いに同じことに関心を持っているのではなくてはそもそも議論にならず対立することもなくなるだろう。

 
どうでしょう。議論にならなければ対立することはないのでしょうか。
いくら言っても何を言っても聞かない楽山ですが、不当は不当であり、対立は対立なのです。
カルトとアンチが対立しないと言っています。錯乱でなければ、真っ赤な嘘です。
 

宗教では強硬な批判者が改心して熱心な信者になったという例もあるようだがこれも結局は強硬な批判をするということはそれほど強く宗教に関心があることを示しているのであってそういう者が何かを切っ掛けにして熱心な信者になるということはいかにもありそうな話ではある。

 
カルトから身を守るためには、必ず、胡散臭い信条や言説だという判断が必要です。その胡散臭さが、今、この楽山の記事に溢れているのです。
 
ここから、楽山は、画像によって文章を出してきます。文字数制限のあるツイッターでは見られることですが、ブログで出すのは、批判されたくないためか、引用しにくいようにしたいためなのでしょうか。
 
 
イメージ 1
 
(画像より)

もう一つの共通点はといえばどちらも完全ではないということだろうか。義人なし一人だになしというそうだし世の中には完全な人は一人もいないのであれば信者もアンチもこの点は同じである。
どちらも等しく義人でもなければ完全でもない。また信者にもアンチにもいろいろな人がいるんであってまともな人もいればおかしな人もいる。ここも両者は同じだ。

 
完全ではなく義人でもないならば、カルトとアンチは同質になるのでしょうか。断じて違います。
完全でなく義人でもないからこそ、人間について、人間の理路について、よく考える必要があるのです。煽りと刷り込み以外の何物でもない楽山の詭弁です。
 
(画像より)

ただ全体的に見た場合どちらのほうがまともでどちらのほうがおかしい人が多いかと言えば自分の見立てではそれはアンチよりは信者のほうのおかしな人は多いだろうとは思う。逆に言えば信者よりアンチのほうがまともな人は多いだろうと。でもまあこれは自分がアンチだからそう見えるだけかもしれないけど。

 
楽山はアンチではないと思います。アンチならば感じるはずの恐怖感や反省が全く見られません。楽山のアドラー教と私が読んでいる軟派カルトは、HSを敵としていないように思われます。こういう人にうっかり捕まってしまうと、一生惑わされる必然が待っているでしょう。
 
(画像より)

さらに共通点をあげるとどちらもスピリチュアル好きということも言えそうだ。どちらも神や霊や霊界を信じている人が多い。波長同通やらカルマやら輪廻転生やらそういったことを信じている人が多い。信者側はみなそうだろうしアンチ側も一部の例外を除いては大体の人は信じているのではあるまいか。信者の中にはHSを批判する者は無神論者や唯物論者だと決めつけがちの人もいるようだが実際のところアンチの大半は神や霊の存在を信じるスピリチュアル好きだというのが現実ではある。

 
神や霊を信じる宗教と、スピリチュアルとを、同質だという極めつけの浅はかな短絡が見られます。
楽山が、いかに、安易に宗教を考えているかが表れています。
 
(画像より)

それだからこそアンチはHS批判に熱心になるという一面もあるのである。神を信じ霊を信じるからこそ神の名を騙ったりイタコ芸によって故人を侮辱することを批判しないではいられないのである。もしアンチの大半が神も霊も信じていないならばHSを嘲笑はしてもこれほど強く批判することも無かったろうとは思う。

 
イタコは、日本の北東北(東北地方の北部)で口寄せ[1]を行う巫女のことであり、巫の一種。シャーマニズムに基づく信仰習俗上の職である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%B3
口寄せ(くちよせ)とは、霊を自分に降霊(憑依)させて、霊の代わりにその意志などを語ることができるとされる術。または、それを行う人のことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%AF%84%E3%81%9B
 
イタコ芸とは、それを真似ることらしい。
 
カルトを脱した者が、スピリチュアル好きだから、批判に熱心になると言っています。カルトを脱会した者が、スピリチュアルを嫌い、神や霊を嫌う場合を考えないのでしょうか。
 
さらに、嘲笑することと、強く批判することを比べて、嘲笑のほうがマシだと言いたいのでしょうか。
こんな文章で、批判を不当だとでも言いたいのでしょうか。楽山は、とても異常だと思います。
 
批判するということは、おかしいと思うからです、神でも、霊でも、スピリチュアルでも、それを信じたら、人間としての生き方が破壊され、人格が破壊されると判断したから批判するのです。その場合、どこが、おかしいのかを書くのが批判になります。そういう判断の理路を全く理解できないのが、楽山なのです。けっして楽山に近づかないでください。
 
カルトが異常だからカルトを批判するのです。
楽山が異常だから楽山を批判するのです。
 
 
(2019年04月28日、同日一部修正)
 
 
 
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