ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年06月

 
  逸らせる
 
   宏洋氏に対する「幸福の科学」の反論には驚いた!
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41556933.html
   楽山のブログ記事
 
 
ここでは、一応、HSのことが話題です。しかし、今までの楽山の記事の流れから、当てつけているところがあるようです。私としては、この記事において、楽山が、私が指摘してきた楽山の問題に触れていると考えるところを批判してゆきます。
 

大川隆法の長男である宏洋氏は、月刊「WiLL」8月号において、幸福の科学(以下、HSと略す)批判を展開したようで、それに対するHS側の反論が公開された。
・月刊「WiLL」8月号 大川宏洋氏対談記事 「『霊言』なら僕にもできますょ」に反論する|幸福の科学
https://happy-science.jp/news/public/9463/
自分はまだ宏洋氏の記事は読んでないけれども、HS側の反論を読んで驚いた。それにはこんな一節があった。
画像(省略)
画像のテキスト:
小学校時代についても、宏洋氏は「漫画は一切禁止」だったと回想していますが、そんなことはなく、しっかり読んでいたはずです。
また小学校高学年になると「子どもなりに『何故なぜこんなにも社会から迫害されるのだろう』と考えた」としていますが、実際のところは、実際のところは、宏洋氏が多動性障害、学習障害で、迷惑をかけていたというのが事実です。

 

他所でも少し書いただけど、障害についてこんな書き方をしてよいものだろうか。自分としては、この発言は差別的であって、すごく不快に感ずる。

 
どう書けというのでしょうか。障害については書くなというのでしょうか。これを書くことで、楽山は、私の批判記事が、障害を書いていると言いたいのでしょうか。
 
私は、楽山が人格異常だと書いています。根拠は、やり取りがあったときから、今に至るまで、楽山の反応が、正常とは思えないからです。
 
訂正はしないし、反論や弁明もしないで、書くだけは、自分の有利になるようなことを引用して、書いてくる態度、そして、元々の、気に入らないことは無視する、という、カルトにありがちだが、楽山の場合は、アドラー心理学を利用した自己中心を、平気で、書いてくることです。
 
反省がないこともありますが、本当に他者を無視しているということは、正常ではないだろうと思っての判断です。それに反するような中身のある情報を、楽山は、一度も提供しないでも、平気だからです。アドラー教が有害であることについて、弁明できないからだろうと思っています。
 
そして、楽山が、別のことを引用して、自己弁護の足しにしてくるのは、話を逸らして、平気でいられるのは、真実を追求する態度ではなく、ただ尊大なだけなのです。
 
何度も批判によって、毎回のように、指摘された楽山自身の問題があるのに、それに対して、楽山が、訂正もせず、弁明も反論もせず、記事投稿を控えることもせずに、別の他者のことを云々する第三者の批評家気取りの精神性は、異常なのです。他者の批評をしている場合ではないのです。
 
上のHSの問題については、詳しく知りませんが、何障害であろうと、それが問題となっていることに関係しているなら、書いても言ってもよいのです。双方とも、決めつけているので、どちらが事実かどうかが問題になります。上の文章だけでは、楽山が味方するほどには、判明していないことのようです。
 
どちらが、人道に沿っているか、人間を大事にする発言として説得力があるかどうかによって、多くの人間の評価は動くものだろうと思っています。
 

また、とある人は、これをプライバシー問題として捉えていたようである。教団に個人情報を握られると、本人の許諾のないままに、こういう使われ方をするのかもしれないと。
そういえば信者らの議論をみていて、相手方の個人情報を探ったり、プライバシーをさらしたりしているのを何回かみたことがあった。
教団内でのプライバシー、個人情報についての考え方はどうなってるんだろう。ここはちょっと疑問だ。

 
偽善者シャロームや、別のカルトである自称ヨシュアは、テーマには関係ない私の個人情報を、好きなように暴露して罵ってきます。シャロームは、エホバの証人に似てる、被虐待からサイコパス、シャロームに依存しているから構ってやらないので批判している、などです。自称ヨシュアは、精神病、ダメ人間、などと言いました。こういうのを、冷静な議論の出来ない者たちの、悪質な個人攻撃というのです。
 
だから、批判に対して、個人攻撃だから、という返しは、通用しません。
 

ところで、HSによる宏洋批判といえば、宏洋氏の音声記録を公開しているものがあった。
大川総裁が宏洋氏に結婚を強制していない証拠として、宏洋氏が自ら結婚に前向きな発言をしている記録が残っているというのである。この詳細は、HS公式の下記ページで説明されている。「清水富美加さんのフォローよろしくお願いします」という項目である。
・「週刊文春」(2019年2月28日号)インタビュー記事 「大川宏洋氏の虚言・誹謗中傷」に反論する|幸福の科学
https://happy-science.jp/news/public/6702/
これに対しては、先日、宏洋氏はあらためて結婚を強制されたと主張しつつ、上の音声記録の背景について語っていた。それによると、宏洋氏は他の者を人質に取られ、結婚に前向きな発言をせざるを得なかったというのである。
・6/26生配信 本日発売の『月刊WiLL』の内容に幸福の科学が発狂している件|宏洋
https://youtu.be/aDGVHD809Os?t=999
この辺りは、話が大分込み入っているが、ようは宏洋氏が結婚を承諾しなければ、俳優などを目指している芸能部門に所属する若者たちを出家させて、夢を追えなくさせるぞと脅されたということらしい。そのために音声記録にあるように結婚に前向きな発言をするしかなかったと…。
自分は部外者なので、事の真相は分からないのだけれども、証拠という点からみれば、HSは宏洋氏が結婚に前向きな発言している音声記録を提示し、宏洋氏は大川総裁が結婚強制している音声記録は提示していないのだから、HSが有利のようではある。
でもHSの提示した音声記録は、一部の切り抜きのようであるし、その前後に何があったかはわからない。その前に宏洋氏が証言するようなことがあったか、なかったかはわからない。この点、HS側の証拠も完全ではないかもしれない。

 
この辺は、私は詳しく知らないので、スルーしますが、楽山は、よっぽど、自分の問題から、気持ちを逸らしたいのでしょう。HSの問題より、よほど楽山に関係していて、よほど厄介なのが、厄介を気にしなくなった楽山と楽山のアドラー教です。
 

それに関谷氏の『虚業教団』には、結婚強制と、それを受け入れなかった者がどんな目に遭わされたかについて書かれてあるが、その記述から類推すると、宏洋氏が証言することには一定のリアリティーはあり、虚偽であると断言するのは難しいようでもある。

 
楽山らしい自説の主張の仕方です。というのは、別のことを引用して正しさの根拠のように見せかけています。別の例であって類推ではない。別のことを別のことだと弁えずに利用しています。恣意的であり、他者を悪用した詭弁と誘導と言っていいでしょう。
 

どうもこの問題は今後もますます泥沼化しそうだけども、果たしてどのように決着するのだろうか。興味がない人にとってはどうでもいいことだろうけれども、自分としてはこの問題の結末をぜひとも見届けたいものだと思う。

 
いちばんの泥沼は、楽山の心なのです。決着させる気がないのです。「興味がない人にとってはどうでもいいことだろうけれども」などという推測は、根拠も書いてないし、要らないですね。楽山は、楽山の問題の決着と結末をどうするつもりなのでしょう。楽山は、数々の欺きと不義を続けておいて、他者を見届けている場合ではないのです。
 
シャロームは約8年、楽山は約1年くらいか、放置して、悪い政治家みたいに、無視して、無かったことにして、権威と尊大だけを、見せかけの宗教家気取りだけで、別のことを書こうとする、この精神は、どう帰結するのでしょう。興味はないけど、他者を巻き込んでゆく分、危惧することがいっぱいです。
 
 
 
   「幸福の科学」が宏洋氏を名誉棄損で提訴したそうだ
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41557133.html
   楽山のブログ記事。2019/6/28(金) 午後 9:59
 
 
HSのことのようです。楽山は、HS信者から退会したという履歴を語っていますが、それも、最近では、本当かどうか、疑っています。というか、楽山の言うことに、事実があるのかどうかさえ、不明になってきています。
 
>幸福の科学の公式サイトをみたら、宏洋氏を名誉棄損で訴えたことを発表していた。<
 
このままだと、楽山、シャローム、易坊は、いずれ、訴えられるかもしれません。
 

・大川宏洋氏への名誉毀損訴訟について | 幸福の科学 HAPPY SCIENCE 公式サイト
https://happy-science.jp/news/public/9473/
この他にも、HS側からは、宏洋氏を批判する動画が次々に発表されている。
その中では、人格批判的なことも多い。
先日、「 議論が荒れる理由 (人格攻撃はよくないということ) 」という記事を書いたけど、
まさにそんな感じのパターン。

 
まだ人格攻撃は良くないと主張したいようです。ボンヤリ言語で、丁寧に、遠回しに、人を侮辱し、人格攻撃をしているのは、楽山のほうです。
 

・そんなヒロシに騙されて?霊言出来る?宏洋氏の音声公開#及川幸久#与国秀行#幸福実現党#チェンジジャパン
https://www.youtube.com/watch?v=GRU8cyvePzU
・【緊急座談会】大川宏洋氏からパワハラ被害を受けた関係者が集結!【ザ・ファクト】
https://www.youtube.com/watch?v=JpWiWreqGvs
・【宏洋氏問題とWiLL問題について】チェンジジャパンが問題提起します
https://www.youtube.com/watch?v=BEAA_WCxIx0
宏洋氏の方も、HS批判の動画をたくさん発表している。
あからさまな挑発、おふざけもあるので、この辺りは好き嫌いは別れるかも…。

 
あからさまな侮辱は、シャロームからきました。あからさまでない嘲りと侮辱は、楽山とシャロームからから来ました。警戒してください。
 

・三代目宏洋
https://www.youtube.com/channel/UCX_nNpl_WxGy17_Yl5zpTrQ
さて、この騒動は相当荒れてきてるけど、この先どうなるんだろうな。
なんか最終的には勝者はおらず、
まじめな信者さんばかりが傷付けられることになりそうで心配だ。

 
真面目な信仰者を欺くことで傷つけ続ける楽山が言っています。
 

傍から見ている限りは、議論するにしても、人格攻撃は控えるようにして、事実関係についてのみ語るようにしたらいいのにと思う。

 
この記事に引用したHSについての多くは、事実関係を言い争っているのではないでしょうか。楽山は、事実関係について、ということを、また、事実関係を明らかにするために必要なことを、いったい、どう考えているのでしょうか。
 
自分が批判されたくないために、解決法でもあるかのように「事実関係」という言葉だけ書いて、かっこつけているだけでしょう。警戒してください。
 
 
(2019年06月30日)
 
逸らせる(そらせる)
 
 
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  的外れの引用
 
   議論が荒れる理由 (人格攻撃はよくないということ)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41556619.html
   楽山のブログ記事。
 
 
楽山、シャローム、などの偽善者の、言い訳めいた詭弁に利用されやすいのは、聖書の言葉、名のある人の発言と思想、などです。今回は、後者のようです。キリスト教関係の人でしょうか。楽山は悪用で、柔和を装う作為の虚言を続けるつもりのようです。
 
>(引用)
*人格攻撃
わたしは多くの論争を見聞きしてきましたが、とくに、インターネット上で行われる論争では、しばしば続行不可能な状況に陥り、閉じなければならなくなった掲示板もいくつかあります。なぜ、これらの論争は続行不可能となっていったのでしょうか。それは、批判が、意見や思想ではなく、人格攻撃に向けられたからです。批判が、意見や思想にではなく、人格攻撃に向けられれば、啓蒙のための論争とはならず、愚鈍なケンカになってしまいます。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n027.html

 
人格に問題があれば指摘することになります。議論の成り立たない相手に対しては、論争ではなく批判をします。批判は、攻撃ではなく、抗議であり、不正の指摘であります。
 
喧嘩と批判の区別が出来ない楽山は、自身が批判されることを、根拠もなく愚鈍な喧嘩と見なして、他者の言葉を、その範囲も分別せずに、批判者に当てつけています。後で、批判に対してじゃないよ、とでも言うつもりだからでしょうか。楽山は、正当な返し方をしたことがないので、わざと的を外した当てつけをしてきます。
 
楽山は、批判されても動じない姿勢を示したいようですが、批判に対する正当な反応は、弁明と反論か、訂正であります。 
 

佐倉哲さんのページを読んでいたら、上の文章があった。これは本当にその通りだと思う。議論は、人格攻撃が混じると、売り言葉に買い言葉といった具合に、荒れに荒れて収拾がつかなくなりがちである。だから実のある議論のためには、人格攻撃は止めた方がいい。

 
一般的に、人の言うことに全く反応しない者というのは、相手の神経を逆なでするために、喧嘩を招く原因となることもあるでしょう。小姑のいじめのように、うじうじ遠回しな言い方をする楽山はその陰湿な攻撃の例です。しかし、喧嘩は喧嘩であり、批判は批判なのです。
 

ただ、かくいう私自身も、人格攻撃はよくないと思いつつも、ついついそこに踏み込んでしまうこともあるのだから情けない。ここは、よくよく気をつけねば…。

 
根拠を示さず、相手を指定せず、当てつけるのも、狡猾かつ卑怯な人格攻撃です。楽山は、善人ぶりながら、攻撃しているのです。そして、また、一般的な、気をつけねば・・というボンヤリ言語で済ませています。こういう言い方だと、結局、言うことに実(じつ)がないので、お仲間以外には、誰にも信用されなくなるでしょう。
 

宗教は、もともと、人の心の問題を扱うものであるせいか、議論では、相手の意見だけでなく、その心掛けにも批判の矛先が向かうことが多くなる傾向はある。
たとえば宗教の議論では、「あなたは傲慢だからいけない」「謙虚でないから真理が分からないのだ」という類の発言が飛び出してくることはそう珍しくはない。ときには、「信仰心がない者は、人というより、獣だ。悪魔だ」という具合に、相手を悪魔呼ばわりする人さえいる。

 
心掛けを批判するなと言っている楽山ですが、心掛けには考え方が表れ、考え方には心掛けが表れてきますから、楽山は言葉を変えれば違うと思い込んでいても、同じことです。
 
そうやって、楽山は、批判を不当だと言いたいのでしょう。しかし、結局、楽山は、罵詈雑言の例を挙げて、自分は好きなように書くが、批判はするな、という身勝手なことを言い張っているだけなのです。
 
つまり、楽山は、柔らかく言っているようで、実は、批判を根こそぎ否定しているのです。自分がされているからでしょう。いつもながら、とても、いやらしい言い方をします。これが、人格攻撃は良くないと言っている楽山の正体なのです。
 

宗教の議論で、容易に人格攻撃が紛れ込んでくる原因は、人は〇〇でなければならぬという戒律だとか、悪霊悪魔などの目に見えない邪悪な存在を信じているところにあるのだろうけど、ここは特に注意が必要だと思う。

 
また「注意が必要だと思う」という、具体性のない曖昧な言い方で、柔和を装っています。
 
人のあるべき姿を語るのは議論であり批判であります。それを「人は〇〇でなければならぬ」と言うのが戒律だから、悪魔信仰だから、人格攻撃にが紛れ込んでくるという根拠のない理路で言っています。
 
楽山の自己中心の信条は、人間を破壊するからカルトだということであって、戒律のように決めつけることも悪魔信仰のように超常や魔界を根拠にもしていません。
 
楽山のボンヤリ言語の当てつけは、決めつけの前提を、オブラートに包んで、悪意を善意に見せかける詭弁ですから、注意深く読まないといけません。いつもながら白々しい印象操作です。
 
総ての言論には「と思う」が付いているわけです。だから、間違っていると思ったら、決めつけではなく、悪口や当てつけや嫌がらせでもなく、弁明か反論を返せばいいのですが、楽山は、仕返しをして、自らは、丁寧な言い方をする人と思われたいのでしょう。そういう作為の文脈です。
 
気に入らないことは無視する、というアドラー教の信条で、人を無視してきた楽山が、悪霊悪魔という邪悪な存在、と言うとき、私は、悪魔が、逆に、誘惑するときの狡猾さを思います。
 
悪霊と悪魔は、超常に限らず、言ってみれば、いたるところに、悪意と作為と嘘という表れ方をしているのです。自分に悪霊悪魔など関係ないと慢心しているものほど、悪と罪を、悪霊悪魔という超常に擬して、注意が必要、と言って済ませるのでしょう。
 
ボンヤリ言語の当てつけも、印象操作も、楽山が柔和で正しいと思わせるための、誘惑のようなものです。終わりが、注意が必要、で終わっているのも、具体的には何も書けないから、印象を与え、ほのめかすしかないからでしょう。
 
印象操作と、真っ当な意見や批判との違いは、根拠があるかどうかです。また、真っ当な意見や批判は、曖昧な言い方をできるだけ避けます。批判対象だけでなく、読者にも伝えたいからです。
 

*人格批判に対する反論
「いや、わたしの人格は立派です」などという内容の反論は自己矛盾ですから、人格攻撃に対する反論は始めから不可能なのです。そうなれば、攻撃し返すか、ばからしくなってどちらかが、「反論できないから逃げるのだろう」という声を背中に聞きながら、引き下がる以外に出口がありません。

 
冷静であることも、ある程度は出来るでしょう。人格攻撃をされたら、人格攻撃をしていると言うことも、ある意味、返しにはなるので、むしろ、繰り返し、相手を特定して言うべきでしょう。しかし、向けられた批判に対して、人格攻撃を返してくる者も、悪い印象を与えて貶めようとする者も、曖昧な書き方で当てつける者も、実際いるということです。楽山やシャロームのことです。
 
楽山は、この記事で、批判者を、人格攻撃をする者と同様に、当てつけています。直球が理路の欠陥のために投げられなくて、やわらかくて滑りやすい物を、そっと道に置くようなものです。とても陰険な「人格」だと思います。
 

これもその通りだ。人格攻撃に反論しようとすれば、「私の人格は下等ではありません」「私は善良な人間です」という主張をせざるを得なくなる。自分で自分の人格を擁護するなんて恥ずかしくてやってられない。結果、人格攻撃は聞き流すしかなくなる。

 
楽山は、議論だけでなく、言葉の持つ効果も正当性も知らないようです。「私の人格は下等ではありません」「私は善良な人間です」などと、滑稽なことを言い張る必要は全くありません。楽山はそういうことをしてきたのでしょうか。
 
批判は、悪を向けられたとき、その悪に根拠がなければ、根拠なく悪と言っている、また、そこに何らかの悪意を指摘するなど、という返しがあるのです。最近もシャロームに対して、それをしましたし、ずっと、それを、先ず言うことが必要な、シャロームと楽山なのです。
 

「反論できないから逃げるのだろう」というのは、議論の終わりによく聞く言葉ではある。自分の場合は悲観的な方なので、反論が無かったら、「愛想つかされたかな…、相手にされてないかな…」などと思うのだけども、巷には「俺の意見が完璧で、反論できないから逃げた」と考える人もあるようで、世の中には本当にいろいろな人がいるのだなと思う。
でも、そんな風に「反論できずに逃げた」と嘲笑されても、何も言わずに立ち去るというのは大人の対応のように思えるし、自分もそんな風になりたいものである。

 
いえ、楽山の逃げ方は、逃げながら、当てつけ、ほのめかし、刷り込み、印象操作、など婉曲的な、情けない嫌がらせを続けていることだと思います。
 
「何も言わずに立ち去ると言うのは大人の対応」というのは、相手が、感情的になって、何も聞かず無視していて、自分の言い分をねちねち言い続けるなど、何を言っても無駄で、そのときに疲れて感情的に反応しそうな時だと思います。楽山のように、何も答えないで、自己正当化するのは醜いです。
 
楽山とシャロームは、不感不応の無視によって、まさに、疲れさせて、去らせる、という、やり方をずっと続けているのです。私は、もうしばらくは、書いてゆくつもりです。
 
例えば、私の場合は、長くはないだろうが、死ぬまでの間、PCに向かえる間、動機次第で書くでしょう。鼻が曲がりそうな、あちこち痒くなりそうな、マイナスの刺激で、楽山とシャロームは、結局、反発の動機を与え続けているのです。
 

*人格攻撃に対する対応
ちなみに仏陀は、人格攻撃に対して、次のように対応したという。
悪口雑言を受けたブッダが、「出した食事に客が手を付けなければ、それは主人のものになるしかないように、向けた怒りを相手が受け取らなければ、それは本人の元へ戻り、本人のものになるしかない」と言ったという有名な話がありますが、これは本当にそういうものだろうと思いますね。
https://twitter.com/neetbuddhist/status/920792963881451521

 
楽山みたいな人は、議論の場では、ここに書いているような、曖昧で、ああでもない、こうでもない、という口調で、いちばん相手に疲労を与えるから、いちばん憎まれ、怒られ、結局、のちに関わろうとしても、結局、誰からも相手にされなくなってゆく典型のような気がします。荒らしの易坊は、まさに、そのような道をたどっています。
 
偽善者の出した柔らかそうな食事が、猛毒を含むものであったなら、結局、食事に偽善の毒の臭いが表れて、相手が手を付けなければ、毒入りの食事は、気に入らないものをすぐ無視してしまう偽善者の食事となるのでしょう。自業自得は、結構、実現することが多いです。毒を逆に食らっても、自覚なく、中毒に溺れながら壊れてゆくのが、楽山とシャロームだと思います。
 
また、逆に言えば、批判に相手が真摯な対応をせず、ボンヤリ言語でごまかし続けたならば、より粘り強い批判が必要になるという必然を、尊大な楽山は与え続けているのです。
 

もう一つ、こういうページもある。
・その悪口はきみのものだ
これは若干、嫌味っぽい感じがしないでもないが、言わんとすることは分かるように思う。

 
シャロームは、先日、反論も弁明も出来ないときに、自分に向けられた言葉を、根拠もなしに、こちらに向けてきました。また、別のときには、これも根拠も示さないで、そっくりお返しします、などと書いてきました。
 
2つとも、それ以前に、私が根拠をいっぱい書いた後で、おかしなレスを書いたシャロームに対して、使った言葉なのです。根拠があるなしで、批判にも、悲惨にもなる言い方です。
 

ちなみに、これとは違った切り口では、こういう言葉がある。
ものいえばくちびるさむしあきのかぜ【物言えば唇寒し秋の風】
〔芭蕉の句。人の短所を言ったあとは寒々とした気持ちに襲われる、の意〕転じて、うっかりものを言うと、それが原因となって災いを招く。口は災いのもと。

 
唇が寒いと気づくのは、芭蕉の優れた感性による自己洞察であり反省なのです。
 
それを書かないで、また婉曲的に、楽山は、口は災いのもと、つまり、災いの原因だから、批判するなと、言っています。楽山の引用と当てつけの対応が、すさまじい作為と悪意となるところです。軟派カルトの脅迫とも受け取れる、楽山の本性を表すものだと言っていいでしょう。
 
うっかりものを言うと・・と楽山は書いていますが、これこそ、口は災いのもとである例として、楽山に対して文句を言うのは、うっかりものを言うことだと決めつけています。楽山の、自己中心の尊大さが表れています。
 

・大辞林 第三版の解説
人のことを悪く言ったあとの嫌な気持ちというのはよく分かる。やはり、人格批判にしろ、人格攻撃にしろ、そういったことは人のためにも、自分のためにも止めておいた方がよさそうではある。ここは議論に熱くなってくると、自分も失敗しがちなところなのでよくよく反省せねば…。

 
つまり、言うな、批判するなと、嫌なことになるぞと、遠回しに、脅しながら、・・自分のことですよ・・、と誤魔化して結んでいるのです。よくもまあ、口が減らないものだな・・と思います。
 
人格批判は人のためにも自分のためにもやめたほうがよい、と言っています。他でもなく、楽山の、自分に向けられた批判を総て不当な人格批判だと決めつけての、自身が楽でありたいだけの詭弁です。
 
やむを得ない場合、つまり、放置したら自己中心が蔓延する必然のある自己中心のアドラー教ですから、できるかぎりの批判をするべきなのです。
 
批判するべき人を批判するのは、その気のある人に限られます。その気にならない場合は、批判したら、かえって批判にボロが出て、批判対象の思うつぼなので、やめたほうがいいです。
 
最近、反省と言う言葉が見られます。しかし、このような当てつけの記事を書き続けるくらい、底意地は、嫌みと恨みで、執念深い訂正不能の無反省であることが、どんなに婉曲的な書き方をしても、嗅覚を刺激するような胡散臭さとともに、書くものに、滲み出てくるのです。
 
反省せねば・・には、それに対応した言動が今まで一度も伴っていません。言葉だけだと思います。このように、見せかけの反省の文言を重ねて、実質が、いかに伴っていないかを、露呈し続けるのでしょうか。
 
楽山のボンヤリ言語、詭弁、言葉だけまともに見せかけ、執拗に言い続ける姿勢、理路の矛盾、それだけでは薄くて説得力のない当たり前の幼稚な書き方だと気づかずに、自分でだけ分かったつもりで、言葉だけ反省を繰り返す白々しさ、自尊のためだけの執念のしつこさから、根深い怨念、・・楽山の病膏肓に入る感があります。どうか楽山に近づかないでください。
 
 
(2019年06月29日、同日一部修正)
 
病膏肓に入る(やまいこうこうにいる)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
滲み出る(にじみでる)
 
 
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  運命論・虚無
 
   自由意志の限界について
    (『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』小林昌平著)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41556620.html
 
 
自由意志の限界について、哲学は結論を出していません。楽山の言う哲学は、因果が既に連続して決まっており、どうするかと考えても、どうするかと考えるということも、その因果の一部として決まっており、だから、自由意志ではない、という論理なのでしょう。
 
論理上、それで結論としていますが、答えを出している、と言うに程遠いのは、必須であるところの、人間としてどう向き合い、考えればよいか、という実践的課題を、うやむやにしているので、その結論、人間には何の指針にもならないからです。
 
限界があっても、人間がそれを知りえなければ、限界がないのと同じです。結論は、何かの確からしさを知ることです。知りえない限界をもって答えとするのは、滑稽でしかないのです。そこを無視して、楽山のように、ねちねちとほじくって、いじりまわしても、何も得るものはないのです。
 
何故なら、意志が自由でないと言っても、自由でない成り行きを人間は前もって知ることはないからです。だから、その不明をもって、努力を必要とすることを自由意志と呼んでいても、それこそ必然なのであり、全く不思議はないのです。
 

自由意志がないと納得してしまうのは、人間としての実感を疎かにしているということに他なりません。

このことは、楽山、シャローム、易坊、という成りすましも疑われている者たちに共通しています。
 
理屈だけで、自由意志はないと言う結論を出したつもりになって、こともあろうに、それで満足して、楽山とその仲間は、アドラー心理学→楽山のアドラー教、という、運命論的自己中心の怠慢なカルト宗教を作り出してしまっています。
 
楽山の筆致の大きな特徴は、他者の言説を自分なりにじっくり吟味することが出来ず、安易に利用していることによる何とも漠然とした書き方です。漠然と成り立ちそうなことをあげて、それを個別のケースに当てはめるのです。印象操作であり、刷り込みであり、ボンヤリ言語であり、遠回しの婉曲であり、骨抜きの文脈であり、卑怯です。
 

人はどこまで自由なんだろうと前々から疑問に思ってたけども、本を読んでたらこんな文章を見つけた。
私たちは嫌みを言う上司に対して、つい、「なんであの野郎、もっと人が気持ちよく働けるような言い方でいえないんだろう?」などと考えてしまうわけですが、スピノザはその上司を含めて、だれも、自分で自分を変えることはできない、と言っています。つまり「自由な意志」などというものはないのだと
(『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』小林昌平著、文響社、2018年、p.148)

 
楽山は、自由意志についての、否定的な哲学の文章を、誰も自分で自分を変えることは出来ない、と引用して、呆れたことに、それを、自由意志などはないと、全否定にすり替えています。
 
もし、楽山が、総て承知の上で書いている作為の記事だとしたら、とんでもない悪意で騙そうとしていることになります。
 
哲学的には、人は、様々の内的外的条件に支配されて必然的に生きているから、自分で変えてはいないと言うことだと思いますが、楽山は、それを、一般的な言い方で自由意志はない、と言ってしまうことの弊害を考えていないようです。今回も印象を操作しようとしています。
 
 
楽山の、アドラー心理学からのアドラー教の記事にも似たようなことが書かれていました。
「人は人、自分は自分」という考え方 (アドラー心理学)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html

(ツイッターからの引用)
気に入らない意見は、無視しましょう。
人の意見を変えさせようとするのは、無意味です。
他人の考えを変えられる人間は、この世に存在しません。
他人の意見がどうも納得いかないのなら、その人と距離を取るしかありません。
他人の課題に介入できないと割り切って、自分のことに集中しましょう。
https://twitter.com/adler_salon/status/1051230439216562177
(楽山)
一応は、どんな意見も聞いておいた方がいいのではないかという気はするが、やたらと難癖をつけてきくるとか、的外れ、嫌味、嘲笑、中傷…というものは無視するのが正解だろうとは思う。
どうしてもウマが合わず、相性が悪い相手とは、距離を取るしかないというのもよく分かる。
間違っていることをしている人に対しては、きちんと意見してあげるのが親切だという考え方もあるけれども、その者が子供ならともかく、大人であれば、一、二度意見すれば十分だろう。その後どうするかは本人の課題。

 
人の意見を聞いて考え、返すと言うのは親切ではなく、当然のことなのです。楽山は、それを勝手に相性が悪いと切り捨て、人の意見を、的外れ、嫌味、嘲笑、中傷、と決めつけて、都合が悪いと、無視という距離を取り、だから、全く変わらないので成長も学習もなく、前に言ったことと、同じ浅さを繰り返しているだけになっています。楽山は、破壊が表れていることに気づきません。
 
前にも記事にしたことがあります。
「いびりのような当てつけ」
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111138.html
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20024186.html
https://st5402jp.blog.fc2.com/blog-entry-86.html
3つとも同じ記事です。
 
 「 引用はじめ
 
>気に入らない意見は、無視しましょう。
  
気に入らない意見が人間を育てます。それを無視したら、自己中心に固まってゆく道しかない。
  

人の意見を変えさせようとするのは、無意味です。
他人の考えを変えられる人間は、この世に存在しません。

 
(加筆含む)
これは、人間は変わらない、変えることは出来ない、と言ってるようなものです。楽山は、人の意見によって影響を受けたこと自体が自らを変えさせるところを無視して、変わらないと言い張っているに過ぎません。そして、思考を怠り、刺激を無視して、刹那的な安穏の誘惑に乗り、それを、あたかも、悟りであるかのように、訂正不能の信条としているのです。
 
自分はどうやって成長するのでしょう。この言は成長を否定する言葉です。
自分が気に入るものだけで成長するという考え方は安楽だけを求める偽善です。
 
それに、批判は、批判対象を変える目的だけではなく、当事者以外の読者に警鐘を鳴らすことでもある、ということを前に言ったのですが、忘れているようです。短絡がだんだんひどくなっています。
 
  」引用終わり
 
加えて強調しますが、
 
気に入らない意見を無視すると、社交の世辞や丁寧語だけで生きてゆくことになります。気に入らない意見の中から、思考の糧が生まれてくることを、楽山は知らないか、知ろうとしない。
 
人の意見を変えさせるために聞くのではありません。自分を洞察するため、自分を確認するため、また、自分を成長させるために聞くのです。
 
心を煩(わずら)うほどには、気にしなくていい、ということです。楽山は、解釈を極端に拡大して、どうにも、道理に合わないことを決めつけてアドラー教を作っているだけなのです。
 
こういう批判を、他にもいっぱい書いていますが、楽山は、この極端な、気に入らないことは無視する、というアドラー教によって無視して、訂正不能のカルトになっています。
 
 

たしかに物事はすべて原因結果の連鎖によって成り立っているとすれば、すべては必然であり、ニニが四であり、その枠から出るのは難しそうではある。

 
その原因結果の連鎖の枠の中身を、私たちは知らないのですから、それを、無視する結果にしてしまうと、そのことが、自分を無気力の、それこそ、運命論みたいにしてしまうということに気づかないのでしょうか。楽山には、強情と、無気力の、両方を感じます。こういう記事を書いて、自ら恥ずかしさを覚えない、無頓着~鈍麻を感じます。
 

仮に、人が何かを意志したとしても、それは自発的なものというより、何らかの刺激に対する反応にすぎないとすれば、なんだか馬鹿らしいような気もするけれども、すべてはニニが四であるなら、それを認めないわけにはいかないのだから仕方がない。

 
このような調子です。なんだか馬鹿らしい、そして、仕方ないが、と言って、結論?
・・これが、どっちつかずが柔和だと思っていることの経過と結果の惨状です。
 

ときには、自分を励ますために、「人には自由意志がある。人は、自分の在り方も、生き方も、自由に決定できる」と考えてみるのもいいとは思う。でもそれが現実であると本気で信じ込んでしまうところまで行くとしたら、それは地に足がついているとは言い難い考え方と言わざるを得ないことになるかな、すべては決まっているという考え方からすれば。

 
楽山こそ、全く、地に足がついているとは思えません。楽山は、以前、自由というHNを使っていましたが、楽なお山の大将ではあっても、決して、真の自由を持ちませんし、真の自由を伝えてもいません。それは、自分の都合しか思い及ばない理路の単方向性と、ボンヤリ言語に向かう心性に表れています。
 
楽山の足がついているところは、地ではなく、自由意志が現実に生きてこないところから、決まっているという考え方に帰して、思わせぶりな思春期の思考遊びのような運命論の理解?に短絡しているに過ぎないのです。前に、若くないと書きましたが、逆に、ひょっとして、中学~高校生なのでしょうか。
 
今回は、楽山の、ボンヤリ言語と、虚無と、虚言と、虚偽と、いい加減さ、などの病理の、枠が見えてきた気がします。批判に対する、無視と無為による攻撃者となっているのです。
 
楽山が、このまま変わらなかったとしたら、楽山が何も変わろうとしなかったからだという因果が後で明らかになるんでしょうけれど、最初から決まっていたと後になって言うことに、後になってからしか言えないことに、だからずっと自由意志はないと主張して、何か意味があるでしょうか。
 
ただ、もし、楽山が、総て承知の上で、アドラー教の宣伝のために作為で書いた記事だとしたら、とんでもない悪意が働いていることになります。
 
気に入らないことを無視するアドラー教で、学習も成長も止めてしまうと、一見、安楽に見えても、真実を追求するべきテーマに、社交の言い方を当てはめているうちに、そこだけに言語と理路がとどまってしまって、理解するべき人間の節操や分別や共感性などが損なわれてゆくことを、楽山の文章に感じています。
 
アドラー教の自己中心の、不十分で不可解な理路と感じ方で、判断も結論も、最初のものから身動きが取れなくなって繰り言に近くなってゆくのでしょう。その結果として生じる災いを、次には、人のせいにして、怒りから、怨念に固着してゆくでしょう。
 
自分の欠けているところを認めず、謙虚さを持てず、現実離れした自尊を想定し固定し守ろうとするとき、本来ならば参考になるべき他者が、敵にしか思えなくなる精神となり、ルサンチマンと呼ばれるものになります。それは、弱者に募る怨念とか負け犬根性などと説明されています。シャロームや易坊にも同じ精神が見られると感じています。
 
少なくとも、シャロームと易坊もですが、今の楽山と和解したり、楽山の批判記事を書かないことは、キリスト信仰に反すると判断します。決して、底無しに堕ちてゆきそうな者のボンヤリ言語を真に受けないでください。
 
 
(2019年06月28日、同日一部修正)
 
騙す(だます)騙る(かたる)
 
 
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  コメント抜粋201811(3)
  
   読みたい本はいっぱいあるけれど…
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41396760.html
   楽山のブログ、去年の記事とコメント。
   タイムスタンプのない私のコメントは記事用に加えたものです。
 
 
(私)
このテーマの記事(2)とともに、シャロームの言い逃れが目立ってきます。まるで、正しいとか言えないから、好きなようにしてよい、と言っているようです。
 
(私)
私のことを、ヨシュアは、精神病と言い、シャロームは、サイコパス扱いしました。とくに宗教では、荒らしやカルトや偽善者の常套手段だと思います。根拠もなく。
2018/11/7(水) 午後 10:38 st5402jp
 
(シャローム)
stさんは最初、私に対して解説付きでサイコパスだと言われ、その後も繰り返されましたが、私の方からstさんに言ったことはありません。
 
(私)
私に当てはめて、虐待された子供が、成長して虐待者になる、ということを、シャロームは言ったのです。これは、サイコパスの特徴として、よく言われることです。シャロームは、「虐待」という犯罪性の高い言葉を、対象および主格として、私の人生に当てはめたのです。そのことは何度も私の記事に書いてきました。
(私)
 忘れるというのは、幸せなことでしょうか。とぼけてゆくというのも、幸せなことでしょうか。自己中心の信条に凝り固まると、記憶さえも都合よく消えるのでしょうか。
2018/11/8(木) 午前 10:36st5402jp返信する
(私)
ひょっとして、サイコパスと、虐待というのが、関係ないと思っていた?・・・だったら、それで、虐待を語ることに呆れます。
2018/11/8(木) 午前 10:40st5402jp返信する
 
(楽山)
事実は、誰もが確認することが可能な事実であることが理想
 
(私)
まあ、理想ですね。実際には、特にネットでは証拠はないことが多いです。シャロームがそうです。削除の証拠は、削除したのだから、無いわけです。私の記憶しかない。
そういう場合、そういうことを仕出かしそうな人だという傍証を示し続けることに・・、今、なっているわけです。
(私)
刺激して引き出すという罠のような作為は苦手なので、推測で批判して、返しがあれば、表れるだろうと思っていて、返しが無ければ、そのまま、批判を続けることに・・、今、なっているわけです。出てくるものが、さらに、傍証となることを期待して。
(私)
記憶の事実から、いくつかの属性を推測して、さらに、本性を推測します。推測ですが、何年も変わらなければ、本性だろうということになります。
(私)
今回は、今までの批判の思路の履歴みたいなものを辿ってみた感じですが、策略ではないので、オープンにして言ってよいと思っています。このことも、また、批判のプロセスですから。つまり、批判する目的が、反省しないような、この人に、信仰を語ってほしくない、という思いがあるからです。
(私)
理路ばかり言っているようですが、いちばん大事なのは、人間としてどうなのか、ということです。
理路とか論理とかは苦手です。読書障害傾向のこと書きましたけど、それで、哲学書は読んだことないし、小説も殆ど読みません。ただ、一つを読むのにいくら時間かけてもよいと思っている、詩とかは、若い頃から好きで、結局、情緒的な人間なのかもしれません。
(私)
理路と言っているのも、情緒面を含めて直観として、人間としておかしい、というところを見つけようとしているみたいです。
2018/11/8(木) 午前 10:26st5402jp返信する
 
(シャローム)
 「そこから推測されるすべてに広げてゆきたいと思っています。」とは・・・(私)
「誰もが確認することが可能な事実であるあることが理想と思う」ことではありませんし、
所詮、自分の事実認識に合わせて推測されるすべてに拡大されたり、歪曲された推測…邪推、決めつけとさらに妄想、自分の深層心理によって生じる投影や反動形成などの防衛機制などによる批判、人格否定と人格攻撃に陥りやすいのではないでしょうか。私にも、だれにも起こり得ることですが。
 
(私)
広げることは、根拠があれば可能です。理想ですから、厳密ではありませんが、それが、推測であり、ネットでは、大事なことです。
(シャローム)
所詮、自分の事実認識に合わせて推測されるすべてに拡大されたり、歪曲された推測…邪推、決めつけとさらに妄想、自分の深層心理によって生じる投影や反動形成などの防衛機制などによる批判、人格否定と人格攻撃に陥りやすいのではないでしょうか。
(私)
間違いはあり得ますが、シャロームの嘘と妄想と不感不応のように、何度も何度も、同じことが繰り返されれば、強い推測に収束する、ということにはなりえます。正しさに近くはなるのです。私たちの言論は、警察や裁判所ではないのだから、常に新しい根拠によって思考を進めて不正を指摘してゆくことです。
(私)
もともと、こういうことは、全否定も全肯定も出来ないことです。しかし、シャロームは、歪曲、邪推、決めつけ、防衛機制、妄想、などの邪悪を示す言葉を使って、否定のほうに向けようとしています。ここに、自己正当化という単方向に偏った恣意の表れが見て取れます。
 
(私)
事実認識、深層心理、反動形式、防衛機制、などと、熟語を多用して書いていますが、
この熟語頻発は、まさに、易坊が何度も繰り返し、いくつも積み重なれば、否定できないこととして、ほぼ一定の方向に収束してゆきます。
(私)
シャロームが弁明が可能なら、一つ一つを説得力をもって否定するべきでした。実際には、そういうことは、一度もなかったのです。
2018/11/8(木) 午前 10:56st5402jp返信する
(私)
シャロームは易坊と仲良しですが、私は、同一人物の成りすましを疑っています。あるいは、近親者かとも考えますが、疑惑は、ネットでは、証明されませんし、また、晴れることもありません。厳密な証拠による証明ではなく、状況証拠を積んでゆくしかありません。
 
(私)
人間は、過ちを反省し、自らを修正して、前に進みます。ところが、シャロームは、過ちを反省せず、無視して、訂正不能のまま、前に勧めると思っているらしく、何があっても何度でも、何事もなかったかのように、挨拶から始めることが出来るらしいです。
(私)
だから、シャロームの発言の信頼度は、ゼロです。たとえ、謝罪や、悔い改めの言葉があったとしても、先日の嘘のこともありますし、私は信用できません。シャロームに可能なのは、キリスト信仰について、記事も、転載記事も、コメントも、書いたり載せたりすることをやめることしかないと思います。
2018/11/8(木) 午後 11:29st5402jp返信する
(私)
シャロームに対する免疫というか、彼の、私から言えば寒気のするような白々しい世辞や挨拶に対する抵抗力のない人は、恐らく、コメント欄を見て、シャロームの味方をするでしょう。
(私)
ですから、私は、キリスト信仰者として、できることをすればよい、と思っています。出来ることをしました、と言って、その結果が地獄へ落ちることであっても、これしかできなかった、という納得をして、神に、もはや、天国地獄を問わず、生死を問わず、結果をお任せするしかないのです。
2018/11/9(金) 午前 0:22st5402jp返信する
(私)
神は自分の味方と信じ込んでいるシャロームもまた似たようなことを言ってくるのでしょう。でも、彼は、天国へ行けると信じ込んでいるところが、私との違いかもしれません。結局、最後は、そこで決着するしかないような7年の成り行きでした。
(私)
 実際、私は、自分のことを、いわゆる善人ではないと思っています。天国へ?・・行けるのかな、という気持ちがあります。考えていると、気が滅入るので、神に任せるのです。そういう癒しを経験しています。絶対孤独に落ちることなく、残り少ない生涯を生きるための、神からの恵みは、地上で私が分かるのはそれだけだろうな・・と思います。恐れないために。
2018/11/9(金) 午前 0:23st5402jp返信する

(楽山)
孤独と神様といえば、「浜辺の足跡」を思い出します。
・浜辺の足跡|ホントのわたしに出逢うために
https://blogs.yahoo.co.jp/angelsbless4/9640608.html
2018/11/9(金) 午後 7:26[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
これは、foot print という、有名な話です。そして、シャロームが、自己正当化のために悪用した話です。こういう、神が、キリストが、自分を助けてくれるという話は、戒めと懲らしめの神を思いたくない人に悪用されやすいのです。
2018/11/9(金) 午後 9:59st5402jp返信する
(私)
シャロームは、私が知っている範囲でも、2度、この話を気持ちよさそうに記事にしています。
楽山とシャロームは、多くの点で似たところがあります。シャローム、楽山、易坊の3者が同一人物の成りすましではないかと疑う理由の一つです。
(私)
信仰について言えば、恵みと讃美のストーリーを書いている文章と言うのは、foot print のように、文章としていいものもありますが、不十分なのは、信仰者の堕落や偽善に対する戒めや懲らしめが書かれていないことです。讃美の話としては優れていますが、これが信仰だと思って、うっとりするだけではいけないのです。
 
 
(2019年06月27日、同日一部修正)
 
 
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  信仰と論理
 
   信仰と論理 (信仰とは?)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41555964.html
   楽山のブログ記事
 
 
私は、論理というと、数学的な論理など、情感のないものになって、理屈倒れになってしまいそうなので、一応ですが、理路と呼ぶことが多いです。理路には、人間ならば是非の分かるような思慮分別、節操、弁えが含まれます。
 

信仰は論理ではないという。
これはその通りだと思う。
でもこれは、
信仰は論理を無視するということではなくて、
信仰は論理を超えているということではなかろうか。

 
楽山は、論理を超えている、ということから、信仰と言えば超常のことだと思っているようです。超常は人間には理解できないのであって、受け取ったかどうかも人間は知りえません。だから、今、あるいは、ここで、受け取った、さらに、シャロームのように、信仰は完全で、恵みが、いつも都合よく我が身に与えられると信じ込むことは、到底、信仰ではありません。
 
神は、人の都合によって、人を救うのではない。神は、神の都合で人を救う。
人は、人の都合によって、救いを考えて、与えられると確信することは出来ない。
救いの保証は、神に救いを任せる人にとってのみ、意味を持つ。
 
それを信仰だと思ってしまうと、シャロームのように、神の啓示や聖霊の導きだからと自分で勝手に決めつけて、自分信仰に固まってしまうのです。そのことで、シャロームは理路も情感も自ら破壊し続けています。もはや、シャロームは、うわごとのように、実際は、破壊の信条の言葉を、人に豪語し続けて、今に至っています。
 
超常からの、地上の人間の心への影響の経過と結果のみを、人間の知性による理路と感性による感受によって受け取ることが、人間に可能な信仰です。こういうようなことを楽山は感受または思考できていないか、無視しています。
 

別な言い方をすれば、
論理で判断できないことについては、
信じるか、信じないかという選択になるけれど、
論理で判断できることについては、
信仰の問題にはならないということ。

 
楽山は、まるで、理屈を吟味するような書き方で、いじくっていますが、理屈の論理で判断できなくても、そこで信じるか信じないかという選択ではありません。人間ならば、皆がこれを信じたら破壊と争いだらけになって大変、などというような直感に近い理由で、否定できることがあります。
 
自己中心の信条は、そうして否定されるものです。シャロームの讃美言葉や楽山のボンヤリ言語などの飾りの言葉に騙されないようにしてほしいと思います。
 
楽山の言い分には、人間ならば・・ということが見られないようです。誰でも持っている心を見ずに、言葉だけを追いかける無理な理屈屋の辿る宿命的な欠陥だろうと思います。
 

恥ずかしながら、
かつて自分は、このことが分からず、
論理的にも、現実的にも、バツ判定が出ているのに、
それを断固として、否定して、
マルだと信じ込もうとして、足掻き、悩んだのだった。
それが信仰だと勘違いしていたのだった。
今にして思えば、
本当に愚かだったなあと思う。

 
信じ込むことを愚かだと言うのなら、楽山は、HSを脱会したあとに、なぜ、アドラー教の、気に入らないことは無視する、という、自己中心に誘導するようなカルトを宣伝するのでしょう。
 

人は、論理だけで生きているわけではないから、
論理でバツ判定されることであっても、
「私はマルだと信じる。マルだと信じたい」
と願いたくなったとしても仕方がないことではある。

 
上に述べたように、仕方ないでは済ませられないことがあるのです。それが、カルトの問題なのです。上のように論理で云々・・などと言っても、埒(らち)は開きません。
 
信仰だから、信じる信じないだから、受け入れようと暗示している楽山に、どうか、耳を貸さないでください。楽山は、必要な理路も感受性も持たずに言っています。つまり、信仰を感受するのに必要な心を持ち合わせていない楽山には、宗教と信仰を語る資格はないと思います。
 

でも、
人は、論理だけで生きているわけではないように、
信仰だけで生きているわけでもないから、
論理でバツ判定が出ているのを無視して、
マルだと信じ続けることは、どだい無理なことなのだ。

 
楽山は、信仰を、法律や道徳と同じように見ているようです。だから、論理と並べてしまって、信仰だけで生きているわけでもないと言うのでしょう。楽山の信仰の考え方は、その程度のものなのです。
 
信仰にも、人間が信じるための理路あるいは道理があります。と同時に、理路だけではどうしても説明できない縁のような絆(きずな)のような愛とも呼べそうなつながりがあります。
 
信仰が、人間の精神生活の一分野に過ぎないなら、信仰が、人間の全人格を目覚めさせたり、立ち直らせたり、癒やしたり、赦したり、救ったりなど、できるわけがないのです。
 
信仰は関係であり、論理ではなく、箇条書きの文言の信じ込みでもありません。なぜ、わかりもしないのに、楽山は、しつこく語ろうとするのでしょう。分からないことは分からないと、ペンを置くべきです。
 
実際には、カルトをマルだと信じ続ける人もいるわけですから、これは、見方を変えれば、無理なのに信じ続ける人は、無理な信仰だと否定していることになりますが、ならば、楽山の宣伝するアドラー教の矛盾をどう説明するつもりなのでしょう。
 

宗教にハマりすぎてしまうと、
論理を無視、または否定して、
ただただ信じるという方向に行きそうになるけど、
この辺りの間違いは、よく注意しなければいけないと思う。

 
アドラー教という精神破壊のカルトを宣伝している楽山であります。はまり過ぎると論理無視で信じる方向の間違いに、またボンヤリ言語で、注意しなければいけない、ということで済ませたつもりでも、宗教について、信仰について、何も語ったことにはならないのです。
 
アドラー教をやめたのなら、やめたと書いてから、今までの信条を破棄または訂正してからでないと、書いてはならないと思います。無反省と訂正不能のまま、また思い付きで書く、という、こういうところが、自己中心の保身であり、自らがカルトであることの表れなのです。
 
 
信仰は関係であり、論理でも思い込みの信じ込みでもありません。
 
論理とか、いっぽう、逆に、信じるだけとかの、自分を高める方向の欲求ではなく、
キリストの心の情感と共感の近くに寄り添うマリアのような、エロスにも似た一途な思慕の情が、あるいは、取税人の、頭(こうべ)を垂れるしかないような低く小さい姿勢のあり方が、キリストから信仰の義を与えられたことを忘れてはいけません。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
cf。マリヤとマルタの愛(加筆・再録)
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12456044029.html
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
 
(2019年06月26日、同日一部修正)
 
 
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