ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年01月

 
  信仰の情熱
 
 
既に前に、
信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、
と言いました。
 
では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。
便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。
心がふるえていないからです。
なんとなく辻褄があったような気がしているだけで
感動がないからです。 
 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。
 
 一部の人々は
 聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。
 超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。
 超常が分かる人ではありません。
 超常が分かったことにしたい人々です。
 
 人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。
 他者より神聖になった、
 あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。
 
 そういう人は
 自分が超人になったことを担保したいのです。
 その方向で宗教を考える人には
 日常体験を疎かにする傾向があります。
 
 宗教を超常として教える向きには注意してください。
 そこにあるのは超常ではなく
 他者より上に立ちたがる欲望なのです。
 だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。
 自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は
人間の良心に響く実(じつ)をもって与えられます。
そうでないと人間は動かないからです。
それは欲望の成就ではなく
真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。
 
非人間性に囚われている心が
人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
意外かもしれませんが
それは稀にしか起こらないことです。
 
人間には
良い心である良心と
悪い心である悪意とがあります。
それらは常にありますが
場合によって、どちらかが優位に立つことになります。
それが善行と悪行に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され
自分についてもどうなるか分からないと思えば
もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。
 
この世は偶然に支配されているように見えるけれど
その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば
この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは
生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。
そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。
 
そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、
いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
それを求めて、人間に頼ることは、誤りというより儚いのです。
自らを見てください。
 
そんなに立派な頼られ方をされる人間ではありません!
 
その自覚と共感こそが、
人間の側に起こるところの
宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
 
人間は関係の中で生きています。
他者を無視しては生きられません。
 
どのような関係が
人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。
それは人間ではありません、いやです。
しかし人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を
私個人は慕っております。
その御方は自らの完全の道ではなく
不完全な者に下される致命的な罪の報いの道を歩まれました。
 
その御方の教えは
そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、
その生涯の目的の主旨として
こうしたら救われるという条件を言いませんでした。
取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。
代わりに寛容な愛をもって
多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。
 
 
多くの信仰者と
多くの偽善者が
この御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。
 
世の中は偽ものだらけです。
 
 
どうか独り言のように静かに
どうか叫びのように本心で祈ってください。
そのような祈りを
誰よりも聞かれる御方がいます。拝。
 
 
(2020年01月31日)
 
 
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 アドラー教について(12)
 
  アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学
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おもに「嫌」ということについて語っています。
嫌われる勧め?でしょうか。
相変わらず、短絡と豪語の目立つブログ主です。
 

悪口言って作った仲間は、仲間ではなく負け犬の集まりです。
自分の劣等感に負けて、健全に努力することを放棄して悪口によって優越感に浸って現実逃避してるだけ。
人は悪口を言う人を信頼できません。
次の悪口のターゲットになる危険性が高いからです。
つまり、群れているだけの臆病者なのだ。

 
悪口を言って、いいことは何もないということです。
言えば、言われる、という現象。
悪口を言ったことのない人は、あまりいないと思いますが、
負けたことのない人は、ほとんど、いないでしょう。
 
悪口は、負け犬の始まりなのです。
注意するべきは、負け犬とは、負けた犬、または、負けてしまう犬のことであり、
負けを認めることとは全然違うと申し上げておきます。
 
悪口と批判は全然違います。前者は根拠がなく、自分のためであり、後者は根拠と道理を示し、かつ、自分のためだけではないことが多いからです。
 
この記事の部分こそ、説明も決めつけに近い書き方ですから、悪口でしょう。
  
ちなみに、勝ち負けに拘泥(こうでい)しない生き方もあるということも申し上げておきます。
 

嫌われるよりも、好かれる方がいいとは限りませんよ。
嫌われた方が自分のやりたいことができるじゃないですか!
好かれようとしていたら、自分のことより他人を優先しなくてはいけません。
自分らしく、自分の幸せの為に生きることを選ぶなら、さぁ嫌われよう。
嫌われる勇気は、幸せになる勇気。

 
自己中の臭いがします。乱暴な筆致です。
 
結果としては、好かれるほうがいいわけです。
 
「嫌われた方が自分のやりたいことができる」とは限りません。
ますます、やりにくくなることもあります。
 

他人からの嫉妬の強さは、あなたの魅力の大きさを表します。
それだけ嫉妬されるということは、あなたがそれだけ魅力的ということです。
人は誰でも、魅力的でありたいと本心では思っている。
嫉妬を嫌悪することは、自分の魅力を嫌悪すること。
嫉妬心からの陰口を言われたら、あなたの勝ちです。

 
嫌われることを、何故か、嫉妬に置き換えています。嫌われることは、嫉妬からとは限りませんね。悪いことばかりしても嫌われます。乱暴なだけでも嫌われます。下に見て豪語して教えようとする態度も嫌われるでしょう。嫌われることと嫉妬を同列で考えることは出来ません。
 
嫉妬ではなく、心底、嫌うことがあります。
そこには、相手についての、嘘、偽り、悪、卑怯、という負の評価があります。
 
そういうことの受け身、つまり、そういう嫌われ方は、それこそ、嫌で、避けるべきことです。
 

他人が自分をどう思うのかは他人が決める他人の課題であり、自分で決められる自分の課題ではありません。
他人が自分をどう思うのかを変えようとすることは、他人の課題への介入であり、変えられないことを変えようとしても辛いだけ。
他人の課題には介入せず、自分の課題にも介入させてはいけない。

 
"課題の分離"を出してきました。
 
他人が自分をどう思うのかを気にしなくなると、事態が、さらに悪化することがあります。
 
他人がどう思うのかを考えることは、思いやりであることもありますから、
介入などと言って、全部、無視してよいものでしょうか。自己中の臭いがします。
 

世の中、嫌われた者勝ちですよ!
嫌われることで、人は自分らしくなれるのですから。
嫌われないように生きるということは、他人都合で生きているだけ。
嫌われる勇気を持つことで、多くの人達が嫌われないようにして損ばかりしていますが、あなたは自分らしく生きて幸せになれる。
得ばかりです!

 
嫌われた者勝ちと言っていますが、嫌われたままで、勝ちだというのは、
自分だけ幸福であればいいという考え方につながる自己中です。
人間は、何を目指して生きているのか、ということを考えるべきでしょう。
 
自分らしさは、他者との人間関係の中で、生まれるものです。
他者を全く無視したところに自分らしさは存在しません。
 
得ばかりです!・・これは、カルト的宣伝文句です。
 

自分を嫌っている人がいるあなたは
幸せ者です
嫌ってくる人は自分から
「私は嫌な人だよ」と教えてくれている
嫌な人に好かれたいですか?
むしろ関わりたくもないでしょう?
人生で仲良くなれる人の数と、好きな人といられる時間は限られている
嫌な人は相手にしないで好きな人と関わっていよう

 
気に入らないことは無視しましょう、という教えと同類のようです。
 
嫌う、ということは、その理由・原因を抜きにして考えてはいけないことです。
 
嫌な人が、一生涯、嫌な人とは限りません。
 
ブログ主の、豪語するための短絡が、かなり、きついようです。
 

今がどれだけ辛くても、何も心配することはありません
人間は忘れる生き物だから
人は今まであった辛いことも過ぎ去ったことは忘れていくもの
だから、何が起きても必ずどうにかなります!
忘れられないことがあっても、それ以上に忘れてることはいくらでもある
忘れているから意識していないだけ

 
初期に考えることを怠ると、一生忘れられないこともあります。
 
「必ずどうにかなります!」・・激励が空回りしています。気合いだけ。
 

嫌われようと、どう思われようとそんなの関係ない
嫌う嫌わない、どう思うのかは相手が決める他人の課題です
自分ではどうにもならない他人の課題に踏み込んで、心を悩ませるなんてどうかしてます
そんなことは気にせず、自分がどうしたいのか、何がやりたいのかに周りが見えなくなるほど集中しよう

 
どこかで聞いた「そんなの関係ない」ですが、相手のことを、自分の課題として、思いやる、ということはしないのでしょうか。ブログ主は、喧嘩ばかりしている集団にいたのでしょうか。
 
相手がこちらを嫌うかどうかは相手の課題、しかし、こちらが相手を思いやるかどうかは、こちらの課題です。
 
そして、周りが見えなくなるのは、周りを見なくなるのは、それでいいと思うのは、自己中の道。
 

人にどう思われるか気になるなら、この3点を意識しよう
1.他人は自分が思うほど、自分に興味・関心は無い
2.他人の意見はどれだけ親しくても、適当である。自分にベストな助言ではなく、1番無難な意見しかくれない
3.他人はあなたの人生の責任を取ることはできず、あなたも他人の人生の責任を取れない

 
1.2.は、例外もあると言うことです。無視していいということにはならない。
3.について、例えば、思いやることは、責任を取ることとは違う良心の働きです。
ブログ主は、人間関係を、実に、雑に捌(さば)いて、語っています。
 
他者のことで自分が思い煩うほど悩まなくていいとは言えますが、
それで、他者を気にしないで生きることを正当化は出来ないと思います。
 

悪口を言う人は、自分のことから目を背けたいだけ。
自分の人生に絶望していて、自分のことに集中できないから他人のことが気になるのだ。

 
相手に、余計な見なしを決めつけています。ここの、目を背けるか、絶望するか、集中できないか、全部、相手の課題です。他人の課題に介入しているのは、誰でしょう。
 

他人のあら探しをして、悪口を言うことで自分はまともなのだと自分で自分に言い聞かせている。
そうやって、自分を正当化することを生きがいにしているのだ。

 
弁明や反論と違って、自己正当化は、いつでもどこでも、醜いものです。
自己正当化は、同時に、あら探しを伴うことが多いです。
 
しかし、ブログ主は、また、相手を決めつけているわけです。こういうことは、個別のケースにおいて、根拠を示して言うべきことです。
 

付き合う人は取捨選択しよう
人は誰と関わるのかで、性格も人生も何もかもが変わる
後ろ向きな人達と付き合えば、人生も性格も消極的になり、悪い事ばかり起きる
前向きな人達と付き合えば、人生も性格も積極的になり、良い事ばかり起きる
限られた人生の時間を誰と過ごすべきなのか、よく考えよう

 
それは、付き合わないで決められることではないでしょう。
 
人間として生きるということは、ある程度の傷を負うということです。
 
前向きに見える人が、自己中であることもあります。引きまわされて疲労だけしか残らないこともあります。注意が必要です。
 

不機嫌になって、八つ当たりしてくる人は相手にしなくていい。
自分の機嫌を良くするのか、悪くするのかを決めるのは本人の課題です。
わざわざ不機嫌になる人は、周りに気を使わせて支配しようとしているだけ。
上機嫌は意志、不機嫌は惰性。
顔色をうかがって気を使ったら、相手の思うツボです。

 
こういうことも、理由・原因を知ることは必要です。
 
おかしいですね。機嫌を良くしよう、悪くしよう、とか、本人が決めるのでしょうか。
 
短絡した豪語の断定が過ぎるようです。
 

誰かに嫌われたからって、それが何だっていうのです?
その人の好みに合わせて、あなたは自分を変えてしまうのですか?
あなたは自分の為に生きているのです
その人に認められる為に生きている訳ではありません
嫌われたのなら嫌われたで、ご縁がなかったと割り切って、新しい出会いを探しましょう

 
相手の好みに合わせて自分を変えるのではなく、何ごとにつけ、反省と考察は必要ということです。でないと、新しい出会いで、また同じことが起こる可能性があります。
 
ブログ主は、他者をすごく嫌いになるような、自分の個人的な経験か何かに執着しているのでしょうか、無人島で生きたいのでしょうか。それは、読者の課題ではなく、ブログ主の課題です。
 

嫌いな人とは、距離を取る
こんなに簡単で、誰にでもできる一番の悩み解決の手段を取れない人が多すぎる
人を嫌うこと、誰かに苦手意識を持つこと自体は悪いことではない
嫌いだからって、傷つけたりすることがいけないのです
お互いに相容れないのなら、無理はしないでしっかりと人間距離を取ろう

 
ここで、傷つけることが出てきます。傷つけ、傷つけられることを避けるために、
他者を無視する自己中になることが必要でしょうか。違うと思います。
 
苦手意識は、誰でも持つことがあるでしょう。自然と遠ざかるのであって、傷つけ合いを避けるために、距離を取ります。アドラー教だから距離を取るわけではありません。
 
誰に対しても、自立した人間同士としては、距離を取るのは当たり前のことです。
距離の取り方が難しいのですが、他者無視と自己中に短絡しないようにしてください。
 
 
(2020年01月30日、同日一部修正)
 
 
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  信仰はおとぎ話?
 
 
キリスト教というと、一般には、まだ、キリストを信じて天国に行く宗教と思っている人が多いような気がします。その場合、天国は、天にある幸せの国、というイメージでしょうか。天使もいるし・・とかの。
 
そう聞かれたら、知らない、そんなこと考えたこともない、と答えるでしょうか。私は、少しは、そういう、おとぎ話のようなこと、想像~空想したことはあります。
 
空想で、現実から離れている間、現実はそのままで、人生における、人間関係、正義、真実など、現実の問題は、何も解決しないわけです。
 
その逃避が、宗教と信仰だと思っている人もいるようです。だから、そういう人は宗教について、扱いが、すごく軽い・・。暇があったら、考える、という程度になるでしょう。
 
実際には、キリストは命を捧げたわけですし、殉教者もいるわけですから、その結果を見ても、おとぎ話で済ませられることではないと分かるのです。お伽噺は、誰も死にませんし、話の上で死んでも現実では死にませんし・・。
 
命を懸けた人がいる、というところから、考える必要があります。なぜ、大事な命をかけるのでしょう。
 
命を懸ける価値があるところに、人生を預けたいと思う人によって、命を懸けるということが起こってきます。そこは、多く、別の人々の命がかかっている場合があります。
 
作り話も、寓話として、現実に何らかの大事なメッセージを残すことがあります。聖書の中に書かれている奇跡や神話的な部分などは、そういうことなのかもしれません。
 
それを、全部、聖書の言葉をそのまま信じるんだとばかり、事実・史実として、受け取る解釈があります。それは、そのまま受け取るのではなく、書かれた文言のままが実際に起こったという一つの解釈に過ぎません。
 
私は、これまで、物や肉体の奇跡については、事実だとも、寓話だとも、確定していませんし、強いて言うなら、分からないと言ってきました。
 
ずっと前は、どちらかに決めないといけないと思っていました。決めつけて完全に信じ込むのが信仰だと思っていたこともあります。しかし、そこには、大きな疑問があります。
 
そう信じて、どんないいことがあるの?、どんな正しさにたどり着くの?、という疑問です。超常現象を決めつけるところには、現実に置いて学ぶことが、何もないのです。それは、神のなさることであって、人には手に負えず、ゆえに、信じても、自分は、変わりようがなく、どこも、良くなりようがなく、信じても、結果が見えないことです。
 
それでも信じる人たちは、信じないと救われず、今に、ひどい目に遭うというのでしょうか。
 
私の信じる神は、人に必要なことは、分からせてくださる神であります。何故なら、聖書を通じて教えられることは、人間として、いちばん大事なことだからです。
 
信じたら天国、信じなければ地獄、というだけの話を、神が自分に与えた恵みとして、信じようがあるでしょうか。
 
何から何まで、不思議ばかりで、何の納得のいく説明もなく、何より、どこにも筋道のない信じ方で、はい、あなたは救われました、と言われても、私には救われた感が、まるでないのです。
 
これは、人生の中で、奇跡的なことが起こった、という話とは全然別のことです。そういう奇跡を受け取った人は、神を恐れ、神に感謝すると同時に、誰にでも起こると思い上がる得意からの宣伝の口を自ら慎むでしょう。
 
理由もなく突然起こる奇跡の話は、人を救いに導くでしょうか、人を何か成長させるでしょうか、そして、それは信仰でしょうか。どこを指して信じ仰げばよいのでしょう。いつどこで起こるかの目処(めど)の立たない話に。
 
物や肉体の奇跡を吹聴して、死体が蘇ったという話を聞くと盛んに宣伝していたカルトは、実に、平気で嘘を吐き、聖書の文脈を追えず、妄想と豪語で糊塗して、いつも、他者を、低い者と見なして上から物を言う、こうはなりたくないという人でした。
 
超常奇跡を信じる人は、いつも、神が奇跡を起こして、それが神からだと分かるように、神が見えているのでしょうか。・・それは、ないと思います。
 
神は、人に、不完全でも、自由意志と、知性と感性と良心を与えたことを忘れてはいけません。私たちが、考え、納得して、行動するためなのです。
 
それらを、邪悪なものだから捨てよ、というのは、カルトの常套手段です。そしてカルトは、知と情と意の隙間に、それこそ邪悪な怠慢のカルト崇拝の短絡した信条を刷り込んでゆくのです。
 
そのような神の信じ方は存在しません。神は、人を造ったのだから、人を、他の人の恣意に導くような御方ではないからです。
 
人は、何か良いものに満たされたなら、それに、また満たされたい、人生を預けたい、救われたいと思うようになるのです。
 
私の場合、受け取った最大の良いものは、絶対孤独からの解放でした。
 
心が無く、心に受ける器のない者、あるいは、あるのに気づかない人は、話を超常の方向に向けがちです。特に、心の器を、つまり受ける姿勢を持たない体質の者は、執拗に、霊とか奇跡とかにこだわって、宗教の話となると、いつもそういう話に持ってゆくのです。
 
霊とか奇跡の話ばかりする人には、十分注意してください。
 
残念ながら、この世には、出会ったら、逃げるしかない者たちがいます。罪悪感がなく、羞恥心もなく、節操も思慮もなく、悲しみ悔いる心が無い者たちです。人格が破壊されているか成り立っていない未熟さのために、一切の説得が無意味な相手です。
 
にもかかわらず、言うだけは執拗に言い張ってくる特徴があります。訂正不能の思い込みがあります。この点で発達障害とは区別されます。
 
弱さ、低さ、小ささ、不完全、罪、という、今まで私が言ってきたような性質を、いつまでも、自覚することのできない者たちです。気に入らないことは、無視するか、罵詈雑言を返すことしか出来ないので、説明はほとんど聞く耳がなく、説得は無意味です。
 
だから、話は、努力しなくて備わっている特別な自分に執着し、誇大的で、超常や霊感のほうに興味をいだき、そういう話の辻褄しか考えることができません。反省は言葉だけです。反省していないことは、書くものが変わらない、同じことを繰り返す、などの言論の特徴に表れてきます。
 
信仰を、超常のおとぎ話のように、心のこもっていない辻褄で追うことしか出来ず、自分だけ特別という自覚でしか語れない特徴があります。
 
荒っぽい喋り方ではなく、ちょいと妄想に走る癖でもなく、傲慢な人格ですが、社会適応的な、うわべの丁寧語や世辞を使ってきます。そういう言い方には年月をかけていることが多いので、見分けがつきにくいこともあります。
 
はっきり言って、自分は偉い、自分は中立、自分は柔和、という自覚で物を言うか、そういう芝居をしてきます。
 
言ってる内容にも不条理や非合理がありますが、それは、宗教一般に言葉としてあることですから、それを指摘しても、神や霊を盾にしてくるだけで、あまり効果的ではなく、反社会につながるような内容の訂正不能な完全の自覚が無反省にずっと続いているかどうかを見ることが大切でしょう。
 
そういう自覚は、精神的および物質的他害に結び付く可能性が高いことをもって、犯罪にならなくても、批判する理由にはなるでしょう。
 
ナルシシズム、自己愛性人格障害、というのがあります。また、サイコパス、反社会性人格障害、というのもあります。
 
(ネット検索)
ナルシシズム:
語源はギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスが水面に映る自らの姿に恋をしたというエピソードに由来している。ナルシシズムを呈する人をナルシシスト(英: narcissist)と言うが、日本においてはナルシスト(蘭: narcist)という言葉で浸透している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0
 
よく使われる、ナルシスト、という、シが1つの言い方も間違いではないようです。シは2つが正しいと思っていました。失礼。
話は変わりますが、私は、どうしよもなく、弱さや罪深さの自覚を持ってしまう性格です。
 
ということで、私は、自分では、修正可能で、罪の自覚があると思っています、というようなことを書くと、カルトは、「どうしようも」ないですね、とか、自覚があると言えば済むと思ってますね、などと書いてきます。彼らが、言われそうなことを言ってくるのです。
 
やはり、ここでも、カルトは自分を圏外に置いているのが分かります。このように、言われそうなことを逆に言ってくる、という、返しは、カルトが、よく使ってくるので注意が必要です。
 
オウム返しの当てつけが成り立たないことを書く必要があります。
 
また、私が言っている信仰のあり方、カルトに成り立ったことは、一度もないのです。
 
いちいち弁明するよりも、受け取らないで書いてくるカルトに惑わされないことが大事です。だいたい、カルトは、宣伝はしても、理路を整えて、説明することは出来ないし、まずもって、こちらの信仰のあり方の話、読んで受け取ってなどいないですから。
 
ネットでは、言うのも自由ですし、無視して読まないのも自由です。誰なのか分かりません。その匿名性と自由度の大きさに、自分勝手なカルトは、ネットを見ただけでも、支持者も含めて、現世不満足の吹き溜まりのように、いっぱい巣食っているようです。
 
 
(2020年01月29日、同日恥部終生)
 
 
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  召命
 
 
(ネットより)
召命:
1.「呼ぶ」「名をもって呼ぶ」こと。
2.聖書の中に多用されている、神の恵みによって神に呼び出されること。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AC%E5%91%BD
召命と使命は常に対(つい)になっています。神に召された命は、人々のために使われる命なのです。そして、一人ひとりの顔だちが違うように、一人ひとりの召命と使命は違うのでしょう。
https://seseragi-sc.jp/sasage/1501-5.htm
 
キリスト教には信条というものがあります。
教理のうち柱となるものを記したものです。
 
しかし、その教理を、思い込み信じ込むことが信仰ではありません。
キリスト者に誰でもなれるというわけではないということです。
 
キリスト信仰には、秘跡とも、魂の奇跡とも呼びたいことがあり、
それは、キリスト信仰者になる上で、必須であります。
 
そこから、聖書を通じて、信仰の神髄であるところの、キリストの同伴を信じるに至ります。
 
キリスト者は神に選ばれる、ということは、優劣を意味してはいません。
これが、キリスト者が、異教や無宗教を下に見てはいけない理由であります。
 
さらに言えば、神は、キリスト信仰者だけを救い、他は滅ぼす、あるいは、滅びるに任せるのか、という問題があります。神が、キリスト信仰以外の人を召命して、何らかの使命を与える可能性を否定できません。
 
何故なら、キリスト者でなくても、優れた洞察をもって、人間と世界に貢献した人の存在を、少なからず、学んできたからです。
 
したがって、信仰者が、他の宗教や、非信仰者を、低く見て憐れむのは、
異教や無宗教への、いわれなき侮辱といってよいでしょう。
 
批判されると、批判者を軽視してあざ笑い、
皮肉を言い、当てつけや嫌がらせだけを当ててくる習性を持つ者がいます。
 
また、異教に対抗心をもって、キリスト教の優位性を書く者もいました。
熱心な信仰を表したつもりのようだが、
身の程を弁えていないために、知りもしない異教を侮ったのでは、
依怙贔屓の優越自慢に過ぎないのです。
 
信仰は、一種の縁であって、
神の力で他の人々よりも偉くなることではありません。
 
弱い人が、弱さを認めて、弱さゆえに、神に寄る辺を求めるのが、信仰です。
ある意味、以前より、強くなるという言い方も出来ますが、自慢することではありません。
 
信仰者には、多くの、思いこみや勘違いや誤解があります。
私個人として実感があることです。必要なのは、学習し成長することです。
 
カルトには、多くの、思いこみや曲解や妄想があります。
その誤りは、放置すると、自己中となり、反社会的になる可能性をはらんでいます。
 
 
さて、主を誇れという聖句があり、やたら、神を讃美する者がいます。
讃美することは、無条件によいことでしょうか。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:26
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
 (1コリント1:26-31、新約聖書)
 
その出典は旧約の次の聖句のようです。
 
 (エレミヤ書、口語訳)
9:23
主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
9:24
誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
 (エレミヤ9:23-24、旧約聖書)
 
2つの聖句より、いつくしみと公平と正義を行っている主を知ることを讃えるのが讃美です。では、私たちは、主なる神を知っているでしょうか。否です。よくは知らないのですが、知りたいと思って信仰の道を歩んでいるのが、私たち信仰者なのです。
 
その存在を知ることは、それだけでも人間にとっては救いとなりますが、それは、主なる神そのものを知っていることにはなりません。知っていると言うには、恐れ多い御方であります。
 
そして、人の知恵や、人の世界の強さを、神の前に誇ることのないように、聖句は語っているのです。全く聖書の言葉を理解せずに、自分を高めるために、神を讃美する者は、神と信仰を嘲笑って、自らを高めているに過ぎないのです。
 
神が、愚かな私たちを選んだのは、私たちが賢くなったからではなく、偉くなったわけでもなく、どんな人間でも、神の前に誇ることがないためなのです。それは、自分は神を知っているとばかり、やたら讃美して、自らの信仰を誇ることのないためであります。
 
自ら、神の前に誇ることのない者は、人の前に誇るでしょうか、否です。神の前に誇らない者は、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知っているので、人の前でも誇ることはありません。そして、神を誇って信仰自慢をすることもありません。それが敬虔です。
 
つまり、聖句は、やたら神を讃美することを是としてはいません。
 
もし、讃美だから、いくらしてもいいだろうと思って、讃美しまくっている者がいたら、戒められるべきであります。
 
聖句の中の「誇る者は主を誇れ」とは、自分を誇ってはいけないという意味であり、地上での自らの高さ、強さ、賢さを誇るのではなく、信仰を自慢するという意味でもなく、ただ、総てのことについて、誇りを主に帰せよ、という意味に他ならないということです。
 
 
(2020年01月28日)
 
 
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  楽な芝居
 
 
 2020年01月25日
 「わたしの心は恐れない」(詩編27)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23222542.html
  楽山日記(LD)
 
 
シャロームの仲間であり、カルト宣伝者として、ねちねち書いてきた楽山ですが、しばらく、黙っていたかと思ったら、まとめて書いてきました。自分の悪をすっかり棚に上げて。
 
どんなときも、何を言われても、自分を真善美の立場に置くナルシストの典型的な自己宣伝の文章です。数々の失言とカルト贔屓(ひいき)を明らかにされても、なお、自己顕示欲が働いて、謙譲芝居付きの、詭弁と印象操作の、人生に何の実りももたらさない作文です。
 

旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
聖書の詩編を通読したいと思いつつ、近頃は他のことばかりして読書を中断していたのではあるが、再び頁を開いてみたらすぐに良い言葉に出会えた。
ヤハウェはわが光、わが救い。
わたしは誰をか恐れよう。
ヤハウェはわが命の砦、
わたしは誰をかおじ恐れよう。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、pp.61-62)
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
 自分はクリスチャンではないし、聖書の神を信仰しているのでもないが、それでもこの言葉を読むと心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する。
 ノンクリの自分でもこうなるということは、聖書には宗教の壁を超えた何かがあるということなのだろうか。こういうことをすぐに神の実在に結び付けることは躊躇されるけれども、自分とは全然関係ないだろう数千年前の外国で書かれた言葉が心にしみるというのは不思議と言えば不思議ではある。

 
嘘だと思います。言い方が仰々しく、作った讃美という印象です。シャロームも、似たような言い方をしますが、これほど白々しくは主観的な感情の言葉は書かないようです。
 

元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する。

 
このように、情熱的な書き方が、本気であるなら、信じるはずです。信者なら、神様の力に頼ろうとするでしょう。信者でもないのに、勇気百倍、守っていてくださる、などというのは、感情の勢いに、のぼせているだけしょう、しかし、楽山は、自分の霊?に自信を持っているような書き方をしてきたので、これは、作為の芝居である可能性もあります。
 
楽山の文章は、いろいろ読んできましたが、楽山に、少年のような清々しさは皆無です。
 
 
 2020年01月25日
 キリスト教では輸血を禁ずることはない? (異端とカルト)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23223128.html
 

その宗教がカルトかどうかは、異端、異教かどうかで判定されないというのはよく分かる。もしそれが是とされるなら、A教の教義によって「B教は異端、異教であってカルトだ」といえば、B教の教義によって「A教は異端、異教であってカルトだ」ということも可能となる。

 
詭弁です。算術的論理による詭弁です。両方言うじゃないか、という言い分は、全く、どっちが正しいかを考えない理屈です。これを空論と言います。心ない者の言論の特徴なのです。
 
多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えれば、明らかなことがあります。反社会に結び付く思想が信条になっておれば、カルトとして批判するべきなのです。
 
そもそも、言論の自由には、責任が伴います。楽山は、自分の言ったことの責任を取ったことがありません。批判を無視して、さも道理であるように、楽山が書くことには、大方、的外れと嘘が付きまとってきました。
 
それを、私は今まで書いてきましたが、楽山には、霊感?の自覚のわりに、人間としての感性がないので、組み立てられないのです。そして短絡した幼稚で単純な理屈を出して、結論を下しています。
 

そうなれば、各宗教がたがいにカルトと呼び合うことにもなり、そういう状況を一般からみたら宗教はすべてカルトだということにもなってしまいかねない。

 
楽山の言い分は、こういうことで終わるのです。では、楽山は、どうやってカルトかどうかを決めるのでしょう。楽山自身が、カルトだから、自己弁護しているに過ぎません。
 

やはりカルトかどうかは、特定の宗教教義による正邪判断ではなく、人権という視点から判断するのがもっとも公平であり、客観的だろう。個人的には人権なるものも一種の思想であり、宗教でもあると感ずるところもなきにしもあらずではあるが、少なくとも、特定の宗教教義による判断よりも普遍性、客観性どちらの面でも上であるのは間違いなかろう。

 
このことについては、前に、何度か、書いてきたのですが、読んでいないのでしょうか、それとも、気に入らないことは無視するというアドラー教にしたがっているのでしょうか、また、同じことを書いています。宗教気取りの内容を見ないで、犯罪行為に及ぶまで待てと言うのでしょうか。
 

実際問題としては、自分の常識感覚や一般社会の基準から見て、異様な風袋、言動をする宗教団体をみれば、カルトだと感じてしまうわけではあるが、そこは相手の信教、表現の自由を尊重することとして、その団体がカルトかどうかの判断は、人権侵害や違法行為のあるなしを確認してからにすべきなのだろう。

 
人権侵害や違法行為のあるなし、というのは、逮捕できるか、裁判できるか、という基準であり、カルトの定義でも基準でもありません。
 
社会悪につながる邪悪な言動をするめる教えはカルトです。つまり逮捕は出来ないが、批判は出来るということです。
 
このように、弁明できないのに、同じことを言ってくるのが、カルトの特徴であり、カルトである状況証拠となり、批判の動機を強める原因になってきたのです。
 
いつ読んでも恣意的な作為であり、清々しいところが、まるで感じられない楽山の作文です。
 

この手続きを怠ってしまうと、人権侵害をするカルトを批判しようとして人権侵害を犯してしまうという、まさにミイラ取りがミイラになったと言われるような事態に陥らないとも限らないし、ここはぜひとも注意が必要ではある。

 
人権侵害を犯してしまう、つまり、強制力のことでしょう。一見、道理のようなことを何度も言って刷り込もうとするのが、これも、カルトの特徴です。
 
シャロームは、明らかなカルトですし、最近は、"名無し"と名乗るようになって、荒らしの本性を表し、嫌がらせばかりして、馬脚を隠さなくなりました。
 
カルトは、違法行為に走る前日まで、カルトではなかったのでしょうか。楽山は、カルトが、物を盗むか、だますか、人を殺してから、カルトと呼べと言っているのです。
 
反論も出来ないのに、また同じことを書いてくる楽山こそ、歩き出した亡霊、ミイラであります。
 
楽山は、作為に満ちており、微塵の清々しさもありません。
 
 
 2020年01月26日
 心を悩ますな(詩編37)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23239643.html
 
 

*悩まず、苛々せずにいること
最近は、カルトについてあれこれ書くことが増えていたのだが、詩編を読んでいたら、こんな言葉があった。
悪をなす者のために心を悩ましたり、
不義を行う者のためにいらだったりしないように。
その人たちは草のようにたちまち枯れ
青草のようにしおれてしまうのだから。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.87)
読書をしているとき、自分の抱えている問題に対して、ドンピシャの答えと出会うというのは間々あることではあるが、今回もそうなったようだ。

 
悪を為す者、不義を行う者として、誰を決めつけているか、草のように枯れ、しおれてしまう、という聖句を誰に当てつけているかを考えると、呪いをかけているようで、身の毛が弥立つほど気色の悪い楽山の体質です。
 
ふつう、こういう切り返しのある言葉については、自分の悪はどうかと考えるものですが、楽山は、ドンピシャとの答えとばかり、のぼせ上がって、内省もせず、載せてしまうのです。
 
楽山は、幼稚であり、単純に短絡するような無思慮であり、清々しさの欠片もありません。
 

そういえば西洋の小説で、聖書占いについて読んだことがあった。悩みがあるとき、聖書を無作為に開けば、そこに答えがあるという話だ。自分は聖書占いをしたわけではないけれども、カルトについてあれこれ考え、書いていたときに、聖書を読み、上のような言葉と出会うと、アドバイスをもらったような気にもなるし、偶然以上の何かを感じないでもない。もちろんそんなのは妄想だとはわかってはいるけれど、根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ。

 
「根が迷信深いのでついそう感じてしまう」のなら、はっきり否定するべきでしょう。しかし、楽山は、感じてしまうことを否定せず、霊が分かるっぽい自分を表す性癖があります。つまり「根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ」と言いながら、それを肯定しているのです。
 
「感じてしまうのだ」という「のだ」の強意の語尾で、迷信深い自分よりも、霊が分かっていまう自分の霊感をひけらかし、にもかかわらず、そういう迷信深い自分は愚かだからと書かないでいる、ということが楽山にはできないのです。
 
迷信深いと自分で言ってる楽山が、呆れたことに、迷信深いことをそのまま書いて、自らの霊感を誇示し、批判者を侮辱してきているということです。どこまで、けがれて、そのけがれを、そのまま、出してくるのでしょう。
 
批判にくじけないのではなく、批判を無視して迷信の世界に、本心は、埋没したいのではないかと思いますが、それを、独りの感慨に納めることができず、人に向かって顕示することに、傍若無人のナルシストの姿があります。
 
楽山の自虐芝居は、謙虚だと見せかけるための、作為の予防線です。
 

*善は楽しい!
 ところで、上の言葉には、次の言葉が続いている。
ヤハウェに信頼して善を行なえ、
この地に留まって真実をもって糧とせよ。
ヤハウェによって喜び楽しめ、
彼は君の心の願いをかなえてくださるだろう。
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
悪は長くは続かず、いずれ自滅するから、そんなことに関わるよりも、まずは自分が善を行うことに専念せよというのは、わりとよく聞く話ではある。でもそれとともに、喜び、楽しむことを推奨しているところは、ハッとさせられる。

 
最善が何で、最悪が何かさえ弁えない楽山は、喜び楽しめと言うところに、独りで、ハッとさせられるそうです。何て中身の薄い、単純な読み方と書き方でしょう。
 
カルトの味方をして、カルトの正当化をして、同じことを言い張って、進んだつもりで、死んだ自身の言葉のミイラになった楽山が、また、うろつき出しています。
 

どんなに苦しくとも、それを耐え忍びつつ善を行えというのは悲壮感が漂うけれども、善を行いつつ喜び楽しめというのは愉快な心持ちがする。

 
楽山は、いつも、楽でいたいようです。だから、心を悩ませる真実からは、いつも、目を背けてきました。そういうことが、惜しみなく顕れてきた一年以上のつきあいです。後半は、総て批判になったことも、改めて、間違いではなかったと思います。
 
誰が、真に受けて騙されるんでしょう。まさに、人の弱みにつけ込むような文章です。
 
楽山には、ひとかけらの清々しさもなく、短絡した文言で人を惑わせます。
 

でも考えてみれば、善とは本来、苦しく耐えるものではなく、喜ばしくも楽しいものではあるかもしれない。

 
また単純に、聖句から悟りを開いたかのように、善の本来を、説き出しました。
 
決して、楽山に対して、素直になってはいけません。作為の小細工の洗脳および煽動家です。
 

良心に素直でいられるときは心は軽いものであろうし、そうであれば善とは喜びであり、楽しみでもあるとも言えるだろう。とすれば、自分が善にとどまっているかどうかは、自分は今、喜び楽しんでいるかを自問してみれば、おおよその見当はつけられそうだ。喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろうが、少なくともこれは一つの目安にはできそうではある

 
逆必ずしも真ならず、という、シンプルな論理を無視しています。
 
「おおよその見当はつけられそう」と言いながら、見せかけの謙譲「喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろう」と言い訳して、反省力があるかのような書き方の上で、しかし、しっかり「少なくともこれは一つの目安にはできそう」と言って終わりです。こういうのを、印象操作というのです。こういうやり方をする卑怯な人に対しては、全否定するしかないのです。
 
楽山の言い分には、全く深みがありません。だから、曖昧な言い方しかしないのです。しかし、曖昧にボンヤリ言語で書いて、それで言い得たと満足するのでしょう。ごまかしがひどいです。
 
深みを覗くことをしないか、出来ないことの言い訳のように、自分を低くするのではなく、真実を安く見積もって、悦び楽しむことが善とは言えなかろうが、善の目安にはできそうだと言って終わっています。楽山の背伸びは、自覚もなく、安い言葉で満たして膨らむ腹のようです。
 
楽山には、嫌というほどの否定で対する他にない、という、動機付けを、こちらに毎度毎度してくるのです。楽山には気づきがないからでしょう。裏があるだけの平板で薄っぺらな自己満悦霊感ナルシストです。
 
覚えてください。楽山の作為は、見かけの柔和とは、全く裏腹です。楽山は、宗教など、全く信じてはいません。宗教を観念でもてあそんでいるだけだと思います。なのに、聖句に、的外れの、わざとらしい感想を書いています。総て、自分の霊感を自分で褒めているだけです。
 
子供だましのような幼稚な内容、私がボンヤリ言語と呼んでいるところの、ふらふら、否定も肯定もしないわりに、無根拠に、すりこんでくる詭弁、深い情感がなく乾燥しているのが明らかなのに、それをごまかすかのような、見かけだけ派手な感動言葉、これらは、シャロームの当てつけの丁寧語と並んで偽善者、楽山の変わらぬ筆致です。
 
読むたびに、何か汚いものを押し当てられて汚れてゆくような不快を感じます。読んでも、生きるのに、何の役にも立ちません。付け焼刃の知識で自らの捻じれた知性?を捻じれた作文で見せて、保身のために独り痙攣しているようなものです。楽山に、近づかないでください。
 
楽山は、清々しさなど影も形もない人です。
 
 
(2020年01月27日、同日一部修正)
 
 
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