ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2020年04月

 
  退行の繰り言
 
 神は、悪を容認しているのだろうか?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月29日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24588088.html
 
 
楽山は、今度は、HSだけでなく、キリスト教否定のキレ気味の記事を2つ書いてきました。意地でしょうか、単純なのでしょうか、それとも、相手にしてほしいのでしょうか。読めば、語調が強くなっただけで今までとほぼ同じ繰り返しです。一つ覚えのようです。
 
楽山は、正義の味方気取りで書いていますが、前に言ったことを強調しているだけです。いつまでも、その疑問の中にずっと棲んでいたいようです。実際は、思い通りにいかない人生を、神のせいにしているだけだと思います。
 
楽山は、信仰を受け取る器が、自己愛過剰の自尊過大によって、損なわれているので、信仰のいちばん大切なことが分からないのです。
 
だから、結局、前後関係お構いなしに何でも利用する飢えた下種(げす)の根性があらわになっています。そして、ますます、自尊に固まってゆくのでしょう。キリスト教と人間、その一番悪い例になっています。
 
聖書で言えば、楽山は、キリストを裏切ったユダは後悔したので当てはまらず、強いて言えば、神が供え物を受け取らなかったとき、どうしてですかと砕けた魂で訴えるような悲しみをいだけず、怒るだけだったカインに似ています。
 
現代の言葉で言えば、カインは、しんみりした悲しみも罪悪感もいだけないサイコパスの始まりでしょう。
 
これは本書に引用されている文章の一部である。「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ないというところまで踏み込んでいるのは随分大胆だと思う。
私は、ある残酷な男が自分の妻を二階から蹴落とし、彼女が気絶してしまうまで蹴りつづけた、という話を聞いた。私は事の怖ろしさを強く感じた。その瞬間、『そんなことを許す神など私には必要がない』という考えが私の心に閃いた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
個人的な好悪で言うならば、自分は相手に対して要不要で判断するのは嫌いである。ただそれでもこの人物の気持ちは理解できなくもない。
 
どうやら、引用元も、楽山も、自分は怠けたまま、どんなときでも、めでたし、めでたし、ということにしてくれる神?でないと承知しないようです。つまり、100%好都合を与えよ、と言っているのです。
 
この二人は、身から出た錆を、金粉に変えてくれる恣意の命が欲しいのでしょう。これは、いつも赤ちゃんのように乳を吸っていたい我がまま者の夢・幻の揺り籠のお伽噺でしかありません。このような自分勝手な怠け者たちの欲望に、神が反応して恵みを与えるでしょうか、否です。
 
前にも書きましたが、罪は、自由意志を与えられた人が犯すものです。その自由意志を育てるのが信仰の成長ですが、この楽山と引用元は、育て損なったのを、神のせいにしています。
 
すでに書いたような幼稚なことをまた繰り返して、いちゃもんによってキリスト教をおとしめてくる楽山です。このような人の言うことを受け取って、自画自賛の繰り返しを受け入れて付き合っていると、人格を破壊されます。決して近づかないでください。
 
「「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ない」という引用をして賛同しています。自分信仰の楽山には必要ないのでしょうから、悔い改めもせずに、滅びてゆく経過が、まずは、作文に表れています。
 
罪は人間が犯すものです。そして、人間は、警察や司法を考えだしました。人類は、少しずつだが、進歩し続けているのです。歴史は、まだ途中なのです。つまり、人間は恐ろしい性質を持っているが、正しさを求めてもいるのです。
 
そして、悔いることさえしない楽山のような者が、記事を書いて、自分で何かをよくするすべも考えないで、神を否定しながら、自らは、卑怯な言論を続けている限り、正義の味方気取りの偽善者、つまり、偽善の隠れ悪はなくならないでしょう。
 
「相手に対して要不要で判断するのは嫌い」と言いながら「それでもこの人物の気持ちは理解できなくもない」と肯定している楽山独特の詭弁の卑怯さを覚えてください。これがボンヤリ言語という楽山の無責任言語なのです。
 
神は、楽山のような身勝手に、都合よく合わせるような御方ではありません。楽山が、神の正義を否定するならば、それ以上に、人の正義の欠片もない悪と偽善の楽山自らを否定しなければなりません。
 
楽山のような者の、正義に見せかけた安穏は、神によって保証されることはありません。
 
この世に悪があることで、神に文句言っても、言ってる本人が、悪人であるだけでなく、詐欺師かつ偽善者では、話になりません。
 
神は全能であり、何でもできるならば、この世の悪逆非道な行いを止めることもできるのだろう。
 
人間は、神に似せて、自由意志を持って造られた以上、楽山のような怠け者の偽善者を除いて、自分で何とかしようと考えます。そして進歩するのです。
 
何でも、悪があるのは神がいない証拠じゃろ、と短絡するような、楽山のような者は、では、神を信じないで、あなたはどう解決するのですか?、という問いには、何も答えを用意していないのです。どこまでも、卑怯な偽善者は、楽山その人です。
 
そして、自尊を満足させるためだけに、まるで正義の代表であるかのようなふりをして、この記事のようなものを書いて、結果として、誰よりも醜い自分を曝してしまうのです。
 
まさに、総ての不都合を、人のせいにし、神のせいにしてきた、楽山の、自己愛性人格障害が全開です。楽山は、自らの口から出るクソを、神に投げて、どうするつもりなのでしょう、どうできると言うのでしょう。読者には失礼ながら罵詈雑言・・バカか・・
 
でもいつまで待ってもこの世の悪逆非道な行いは無くならない。その兆しもない。
 
神と人のせいにするばかりで悔いない楽山のような者が、大口叩きながら、そこにいるからでしょう。楽山には、悔い改めの兆しも見えない。
 
つまり神はすぐにこれを止めようとは思っていないのだ。そんな神ならいてもいなくても何も変わらないだろうし、「神なんていらない。どーでもいい」という人が出てくるのも仕方がないことではある。
 
楽山にとっては、どうでもいい神?ですが、人間には、求道者には、信仰者には、生きてゆく上で、神が、キリストが、必要なのです。
 
楽山は、神?をけなしながら、相変わらず、人と神のせい?にしながら、生きてゆけばいいでしょう。しかし、楽山が、必要な知性も感性も自覚も反省力もないのに、同じことを繰り返して、神否定を公の場で煽動することは、結局、楽山自身が責任を負うことになります。
 
ましてや昨今は、いじめっ子だけでなく、それを見て見ぬふりをしている者も、いじめの加害者だという考え方が広まっている。これからしたら、この世の悪を放置している神もまた、加害者であり、批判されてしかるべきだということにもなるだろう。
 
さんざん批判されて何も返せない楽山が、キレて、上のほうでは、神なんていらない、ここでは、神を加害者だと、罵詈雑言相当の悪口を連打しています。
 
何様のつもり?
 
楽山こそ、おとなしい書き方の裏に、恐ろしい敵意と悪意を込めているのがバレていると分からない人のようです。
 
子供たちの味方をしている正義芝居をして、楽山は、何をしてきたかといえば、偽キリスト者シャロームの味方をして、アドラー教の自己中の片棒を担いで、気に入らないことは無視しましょう・・なんて、自己中カルトの手先に過ぎない。
 
楽山自身は何なのか。子供を守る正義を実行したのか、否、何も出来ないし、そんなこと考えてもいないくせに、自分を棚に上げて、正義ぶって、文句ばかり言って、苦難の世であるからこそ生きるための救いと癒しの伝道の、全く邪魔ばかりしている、典型的な偽善者のパターン。
 
こういうことを考えるのは、宗教的には神に対する冒涜であり、悪の中の悪ということにもなるのだろうけれども、悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する限りにおいては、この世に神も仏もあるものかという義憤を堪えるには、相当に信心深く、穏やかな性格に恵まれてでもいなければ無理な話だ。
 
神に対する冒涜、悪の中の悪が、偏向した目で「悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する」などと言っています。悲惨残酷なのは、他者と神の悪口ばかり言って進むことだけは怠けている自己満悦の楽山その人であります。
 
「神も仏もあるものか」が義憤だと言っています。義憤は不正に対する正義の怒り。神に対して義憤は成り立ちません。楽山の反キリストらしい決めつけです。義憤だと言った時点で、神の恵みには気づかなくなるでしょう。
 
神がいないようなこの地上世界、それは、誰もがいだく疑問であって、人間は、そのことを考えながらでも、真実を求めて、成長しながら懸命に生きてゆくのです。
 
だから、正常な人は、疑問があるからといって、とどまってなどいないのです。不平不満で文句ばかり言うのは、楽山が、そこにあぐらをかいて進まない人だから、ということに過ぎません。
 
自分を省みず、無根拠に神を否定し、そのくせ、「信心深く、穏やかな性格」などと言って、口調を穏やかにしたつもりのようです。下種というのは、このようにも、卑しい書き方をする、という結論しか出てはきません。浅はかな楽山、これだけバレても、まだ懲りないようです。
 
これはいささかいわゆる厨二病的な思考でもあろうが、この神議論、弁神論的な問題が解決されない限りは、今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう。
 ちなみに、映画『ひ・き・こ降臨』では主人公がネットで下の画面を見る場面があった。
 
「 神様なんて本当にいるのでしょうか?
 いるとしたら、
 どうしてこれだけの理不尽が
 世の中で許されているのでしょうか 」
 
これは神について考えるとき、どうしても避けて通れぬ論点なのだろうと思う。
 
楽山は、神義論を避けては通れぬと言って、神を信じないのは楽山の勝手だとしても、読者にまで、停滞を勧めているから、批判することになります。成長する人は、あまりに遠くに行って、取り残された格好の楽山の、実に、自己正当化らしい発言です。
 
楽山は、自分の遅れた分を取り返せないので、神を否定したいだけなのです。できるだけ多くの人を巻き添えにして、いい気になりたいのでしょう。
 
悲劇の映画の心情の告白を書いて、論点と言っています。楽山は、いちばん大事な共感ができていません。不平不満にキレているだけで、悲しみが、どこにも表れていないのです。
 
この映画は見たことはありませんが、この台詞を言った役の中の登場人物は、楽山みたいに、文句ばかり言って神を否定する人になったのでしょうか。それでは、映画のストーリーが成り立たないと思いますが。
 
だましてでも味方を増やしたいだけの下種というのは、こういう台詞までも、自分に近いと判断して、前後関係もお構いなく利用して、自分を高めてきます。引っかからないでください。
 
楽山は、中二病ではなく、言葉だけ学者を気取って、実際は発達が止まったままの小児退行だと思います。神義論が、人によって解決されることは、地上ではないでしょう。信仰を試すためかもしれない、というシンプルな推測はありますが、断定は控えます。
 
「今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう」
・・楽山の"呪いの予言"です。人より上に立っているつもりの、こういう人だということです。
 
自分の機嫌と快楽原則だけで、存在の是非まで決めつけてくる自己愛性人格障害のインチキ説教者なのです。シャロームと気が合うはずです。
 
 
 宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月29日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24588018.html
 
 
抜粋です。HSについての部分は省略します。
 
これは本書に引用されている手記の一節だけれども、自分もこれと同じとは言わないまでも、似た経験はある。
十六歳のとき、私は教会の会員になり、私が神を愛するかどうかを質ねられた。私は型のごとく、期待どおりに、『はい』と答えた。しかし、たちまち閃くように、私の心のなかでなにものかが『いや、お前は神を愛していない』と言った。私は自分の虚偽と、神を愛さない自分の邪悪さとに対して、恥じらいと悔いの念に長いあいだ悩まされた。この恥じらいと悔いには、復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない、という恐怖が混じっていた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
 
ここを引用するのは、楽山が
「復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない」
という恐怖を煽りたいためとしか考えられません。
 
それにしても、楽山の神?は、救いはしないが、復讐はする、という神?のようです。
そういう神?、私は知りません。何とでも尾ひれを付けてくる楽山です。
 
思うに、信仰というものは、大して信じてなければなんとでも言えるけれども、本気で信じていれば信じているほど「信じます!」という信仰告白は難しくなるものなのだろう。そういえば以前、匿名掲示板において、とあるクリスチャンと議論したときに、「洗礼を受けたということは、いざという時には殉教も覚悟しているということですか」と問いかけたら、「そうあるべきだろうけれども…」とはっきりしない答えが返ってきて、それを聞いた自分は、この人は本当に信じているのだなあと思ったものだったが、HS信者が命懸けだとか不惜身命だと息巻いているのを見ても、この人は全然本気じゃないんだなとしか感じないのもそういうことなのだろう。
 
神への恐れを知れば、不正直に豪語することを恐れるようになるからでしょう。これは、信仰の、一つの成長なのです。偽キリスト者シャロームには、それが、全然、見られませんでした。
 
この記事のタイトルは誤解を招きます。楽山は理解できないのです。あるいは意図的でしょうか。
「宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?」のではなく、神への恐れを知る者となって豪語を避けるのは、信仰の成長なのです。すなわち、それこそが、信仰告白になります。
 
結局、人は本気であればあるほど責任について考えるものであるし、そうであれば当然のように口は重くなり、軽はずみなことは言えなくなるものなのだ。もっとも世の中にはいろいろな人がいるわけだから、すべてがこの通りというわけでもあるまいが、少なくとも自分についてはそんな風にできているのは確かではある。
 
発言の責任能力は、キリスト者の場合、神を恐れるがゆえに、神の前において、正直であるべき、嘘は吐けない、飾ってはいけない、大口は叩けない、という自覚から、成長してゆくでしょう。
 
楽山は、地上で解決しない疑問によって、神を否定して、そこから全く成長が見られないので、発言についても、言い放って終わり、という、シャロームと同じで、責任能力は皆無です。
 
楽山は、霊が分かるっぽい子供の頃?、「心の理論」での酷い曲解、奇跡についての循環論法に気づかない、など、めちゃくちゃなことを好き放題に言って、訂正していません。
 
あわせて「軽はずみなことは言えなくなる」「自分についてはそんな風にできているのは確か」
・・これこそが、軽はずみな発言であり、言葉を真剣に考えていない証拠で、さらに、これは自慢になりますから、のぼせ頭で、実際、口が軽くなっているのは確かです。
 
今までも、思いつきで発言し、詭弁で正当化して、それを訂正せず、今また、自慢しているわけです。反キリストは、自分しか頼るものがないので、悪を、いちいち、正当化して、自慢に変えてゆく宿命になります。ゆえに、次第に、くずれが明らかになってゆくのです。
 
 
(2020年04月30日)
 
 
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  信仰は
 
 
信仰は史実に依拠しない
史実であってもなくても信仰は生まれるからである
また信仰は出来事に依拠しない
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しない
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要である
 
与えられるのは人間らしい温もりと潤いの道である
 
決して安穏の保険ではない
 
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ
人が云々できることではない
 
人は人の知り得ないところへ導かれ
守られる身であるのに
 
史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど
依拠するところを守ろうとするだろう
 
奇跡に反するものから目を背け
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
暗黙の不敬罪を人に着せてしまうのだ
 
これが信者から猛者へと変質して
信仰という名をかぶった確信であり
信仰者という名をかぶった無資格超人気取りである
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず
計りがたい神の意思に
委ねるほかはない一人の人間の在り方である
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思を計り知った
という思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び
またそのために選ばれた者である
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
 
(2011年09月24日)
(2020年04月26日、一部修正)
 
 
信仰者である人は神に甘えることがあります。
ときに愚痴を言ったり駄々を捏ねたりします。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となります。
 
神に対してだけは甘えないと生きていけません。
だからこそ甘えであることを自覚しなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、
神に対する甘えの自覚を失った人の姿です。
それは、
神が自分にとって都合よく働いてくれる
という、神を恐れず、
神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して
甘えの中に溺れている人の姿なのです。
 
そういう人ほど神を讃えます。
 
これは、一部ではなく、
私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、
「神を恐れよ」を言われ続けることになるでしょう。
そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
 
ところで、呆れた書き方でキリスト教を揶揄してきた楽山は、今度は、何を言っているのか分からないHS関連の記事を次から次に、今のところ7記事ですが、発作みたいに書きまくっています。新しい記事で、批判されたキリスト教否定の記事を隠したいのでしょうか。こういうのは、相手にしてはいけないと思います。
 
 
(2020年04月29日)
 
 
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  いちばん大切なもの
 
 
この世において、キリストの心が伝わるのを妨げようとする者の話には、聖書とキリストの話を、奇跡や超常の話ばかりにして、いちばん大切なキリストの心から遠ざけようとする誘惑があります。
 
1.キリスト教について、人間離れした呪(まじな)いか魔法のような超常現象だけを伝えて、人間の共感できる心から離してしまう誘惑。・・超常に信仰は要らない。
 
2.キリスト教について、聖書を実際の史実として、神がいるなら、奇跡が起こるなら、復活したのなら、などの仮定から、無節操な自分信仰から、おかしい、という仮定法をもって、聖書は虚偽だと主張し、キリスト教を否定する誘惑。・・神に対して条件を付けてはならない。
 
ただし、自分信仰を否定しても、これらは、当然の疑問であって、そんなことはない、そんなことはないと、無理に疑問はないかのように、疑問を否定して凌ごうとするならば、既に、反キリストの術中にはまっていることになります。
 
聖書や教理の、現実における疑問には、私たちは、共感を持つはずです。それが、人間らしさであります。何ごとも動じないのは、神だけです。私たちは、疑問は疑問として保留するべきです。
 
その上で、福音伝道者すなわちキリスト者は、上の1と2がまるで語っていない深い人間性から、信仰を考えて伝えることが使命であります。
 
疑問を呈するだけのお気楽な者たちが語れないこと、それが、キリストの心なのです。
 
人間に共感するキリストの心に、私たちが共感することによって、信仰は生まれます。
 
超常現象に驚くことからは、真のキリスト信仰は生まれません。
 
肉体や物への奇跡は、少なくとも滅多に起こっていない、しかし、魂の奇跡は、キリスト以後、二千年にわたって起こっており、多くのキリスト者が生まれているということです。
 
魂の奇跡、と言うのが、これまた、超常的だと思うなら、心の奇跡、でもいいのです。
 
信仰の誕生は、趣味的なものではなく、超常現象でもないところの、人間が生まれ変わる、というのが超常的であるなら、人間を目覚めさせるところの、心の価値観がどんでん返しになるような、その後の人生において決定的な変化ということです。
 
それは、感動に表れ、愛に表れ、絶対孤独からの解放に表れ、新しい価値観に表れ、温もりとして表れ、潤いとして表れ、祈りとして表れてくるものです。
 
何よりも、そこには、聖書に顕されたような、キリストの同伴、すなわち、キリストの洞察と共感と慈愛の同伴が、人を絆(ほだ)すしるしとして顕れるからです。
 
反キリストや、好事家の、聖書の話には、それらが、スコ~ンと抜けているのです。
 
 
前に書いたことですが・・
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41-42
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
先ず、この個所を読んで、キリストはマルタよりマリヤを好んだとか、マルタの信仰よりマリヤの信仰のほうが上だ、という解釈をしないようにしてください。
 
このような読み方は、反キリストや好事家が、キリストの心をけがすためにする読み方です。
 
キリストの、マルタへの愛を見逃してはいけないと思います。ここでのキリストの言葉は、マルタのために語られています。そして、私たちのために語られているのです。
 
「マリヤはその良い方を選んだ」というキリストの言葉は、
マリヤの信仰の優越を表しているのではない。
マリヤは、マリヤの出来ることの中で、間違ってはいないということ。
マルタは、マルタの出来ることをしていたが、マリヤと比べることで心を煩わしていた。
ゆえに、キリストの言葉は、マルタのために語られている。
そして、私たちのために。
 
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
 
キリストは、マルタもマリヤと同じようにしていたら、もてなす人がいなくなることは承知の上で、マルタに対して、マリヤと同じようにせよということではなく、マリヤは、これでよい、そして、マルタには、慈しみと親しみを込めて、名前を二回呼んで、山上の垂訓と同じように、思いわずらう必要のないことを語っている、と思います。
 
 
(2020年04月28日、同日一部修正)
 
 
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  詭弁と公共の害(2)
  
  
(罵詈雑言、辛辣な比喩について)
 
相手が、無根拠の罵詈雑言相当の悪口である場合、ストレスがたまる。
その場合、相手は、こちらの言い分を全く無視して読んでいないことがしばしばである。
それが、カルトのストレス回避であり、こちらへのストレス攻撃であり、体質となっている。
 
こちらのストレス解消の意味もあるが、
むしろ、理路を受け取らない場合、
辛辣な比喩のほうが言えてると思うことがある。
ときには、相手が、結局、
辛辣な比喩にだけ反応していると思われる状況もある。
 
根拠をあげた後で
いちばんインパクトの強いのは
カルトが、人間らしさから乖離することをもって、
卑しさと非人間の比喩である。
相手の言を喩(たと)えて、流涎、尿失禁、脱糞、吐物、排泄物、汚物、など。
相手の非人間を喩えて、ゴキブリ、ドブネズミ、吸血、汚染、病原、害毒、など。
そのような相手の低格化を喩えて、相手が幼稚であることの指摘に加えて、
小学生、子供のケンカ、背伸びだけ、学習機能の欠如、自覚~病識の欠如、自慰行為、など。
苦手な人は、やめておいたほうがよい。
 
なお、カルトにおいては、ベースが妄想的確信であり、
正常の議論では進まないことを前もって認識しておくべきである。
 
 
(議論に必要なこと)
 
議論は、論理的であるべきだとか、論理のみと思われやすいが、そうではない。
 
論理・理路・理屈は、人間として自然に受け取れることを旨とする。
議論は、理路のみではなく、人間らしい共感が成り立つ関係においてのみ成立する。
 
議論には、人間ならばありえない、ということのみで否定されることがあるからだ。
 
特に、人間離れしたカルトには、そういう人間離れした話が多い。
それは、宗教だから・・ではない。
人間の良心を蝕(むしば)むような教理と信条は宗教ではない。
 
そこに、カルトの反社会性が表れてくる。
 
だから、犯罪に及ぶのがカルトではなく、犯罪行為に及んでカルトと呼ぶのではなく、
 
教理と信条に反社会性に結び付く危険があればカルトとして、
犠牲者を出したくなければ、少なくとも、批判してゆく必要がある。
 
犯罪行為に及ぶ前日はカルトではなかったとは、とうてい、思えない。
 
批判がいつも対峙しており、生まれてくる、
ということが、犯罪以前のカルトへのブレーキである。
 
したがって、社会悪につながる、人道に反する、良識に反する、という、カルトへの、理屈だけではない説得力のある指摘が必要で、そのための人間らしい理路を深める学習を続けておく必要がある。
 
この場合、説得力とは、カルトに対してではなく、一般の人に対してである。カルトは、理路にも説得にも乗らないので、むしろ、そのカルトの怖さを、一般の人に向けて警鐘を鳴らすための理路と説得力である。
 
カルトは、受け取りやすいような言い回しを使うが
実際は、少し考えてみると、人間の思慮としておかしいことが多い。
 
理路というものは、多く、直観的なことを含んでいる。
人間としての感性と発想の学習経過があるからだろう。
持っている理路の中で、使うべき理路を引き出す場合など。
 
相手が理屈屋の場合、しかもカルトである場合、
相手は論理的に正当なことを言っているつもりでも、
損なわれた感性は論理の筋道も腐らせていることが多く、
うっかり、または、信条として、
しばしば、人間性を外れた奇妙な理屈を言うことがある。
そこを見逃さないこと。
 
カルトは妄想狂でありながら
一般受けを良くするために妄想を隠して
誤魔化して、体のいい言葉を並べることが多い。
 
主張の中心となるところを言わせる。
そこに、反社会性につながる妄想がある。
 
カルトの腐っているところを指摘することは
犯罪行為がなくても出来る。
 
カルトは最初から基本から腐っているので
多くの大袈裟な飾りをつける。
 
真の信仰は
飾りを排除してゆく生き方である。
 
飾り、すなわち、丁寧語、美辞麗句、讃美言葉、世辞、丁寧な言動
これらは、本来、即、悪いこと、というわけではない。
 
カルトは、飾りによって、
大事な真実を歪めたり隠したりするからゆるされない。
 
 
 (言葉だけの反省)
 
カルトが、反省を示し、マイナスの要素を認めたとしても、冷静に見てゆくと、言論の流れの中で、そういう反省がそれまで表れておらず、今にになって、反省している自分であることを見せかけるために、書いている場合がある。
前の私の記事「人を疑わない?」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12591418212.html
カルトは、反省の言葉など書かないことが大部分だが、中には、反省の言葉を書けば、反省したことになると思っている場合がある。カルトの反省文には、十分注意する必要がある。カルトは、真実に対して、実に軽く見なしているし、平気で、嘘を吐くことを忘れてはならない。
 
先ず1つの発言ではなく、それまでの言動の流れの中で、言うことに反省が表れてきたかを考えるべきである。表れていなければ、その時点で、反省したとは言えない。ゆえに、さらに今後、反省が文章に表れるかどうか、反省後の姿勢と態度になっているかどうか、それとも、相変わらず、同じような、自己中思想を続けているか、などを、厳密に見ていく必要がある。
 
経験した場合を言うと、全く反省などしていない場合があるということ。マイナスを、やたら自分に当てはめているが、今まで、総て、逆のことを言ってきた者の言など信頼するに値しないことが分かる。
 
さらに、その証拠としては、その時点でも、批判者を、例えば、反面教師と言って、自分の悪より、批判者が悪だからという主張をしていることがある、それを見逃さずに指摘するべきである。
 
嘘の反省をしてくるような者は、口では何とでも言って、気を緩めたら、いずれ、また、何ごともなかったかのように白々しく、偽善者、反宗教、反信仰の言を、気づかれぬように少しずつ紛れ込ませようとするだろう。
 
基本的に、自己愛性人格障害のナルシスト、反社会性人格障害のサイコパスは、質的に社会悪については、ほぼ同一の精神性を示す。彼らは、まことに、ウソッピ物語なのだ。
 
 
あらゆる改善のためのミッションにおいて、選ばれるべき人というのは、成長可能な人です。そこから臨機応変の対応というものが生まれるからです。
 
ゆえに、いちばん最初に、ミッションに値せずというダメ出しを食らうべきなのは、自己確信に酔い痴れている自己愛性人格障害者なのです。
 
 
(2020年04月27日)
 
 
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  悪い例だけ刷り込む
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
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 楽山日記(LD) 2020年04月25日
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。
 
一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
まず、自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、聖人気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要です。楽山は、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の反キリストです。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、キリスト教の敵、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変形する宗教ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害言論者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように、これは確かにその通りだ、と言うしかないのです。
 
信仰の真実は、物事の解釈や意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのでしょうが、楽山が、今になっても、まるで、読書による知識の広がりがないことの証拠になります。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛によって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいと自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようです。
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵も、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい人間になってしまったのが、楽山であります。
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
楽山の言は、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたい。
皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっているのは、楽山その人であります。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって、批判にならない悪口だけを書いて、刹那の自己満悦を得たいだけになっています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習拒否によって知らないままの楽山の、ねこなで言葉を、実際は、カルトの洗脳・暗示・刷り込み言葉を、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
(2020年04月26日、同日一部修正)
 
 
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