ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年02月

 
  楽山の右往左往
 
 『母』三浦綾子著
 2021年02月17日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、また、有名人の名を出して、キリスト教を、おちょくっています。三浦綾子を組みやすしとでも思っているのでしょうか。"氷点" を見つめる作家の眼光を甘く見ているようです。
 
小説『母』を読んだ。あらすじは、息子(小林多喜二)の身を案じる心優しい母は、多喜二の死のあとは世の中の不条理にもだえ苦しみ、やがてキリストを信じるようになるというものである。
個人的には本作でもっとも心に残った部分は次の四点だった。
 
小林多喜二は、「蟹工船」で有名なプロレタリア文学の小説家ですが、特高警察の拷問によって殺された人です。過激な右翼思想家を支持していた楽山が、なぜ、多喜二について書くのでしょう。
 
右翼であることをごまかすためでしょうか。あるいは、右も左も、キリストも反キリストも分かってますとでも言いたいのでしょうか。ありえません。楽山の思想の軸は、楽山の我欲・自己顕示欲であり、楽山は、宗教・思想の中身は、どうでもよい男なのです。
 
なぜなら、楽山は、深いところが、何も、理解できないからです。だから、このように、一般受けのよさそうな著者の本を取り上げて、またしても、我欲のための餌食とするのです。楽山が、丁寧に書けば書くほど、その魂胆は凶暴だと思っていたほうがよいでしょう。きたない楽山です。
 
まず一つは、母が苦しみを乗り越えて信仰に目覚める部分だ。息子の死に直面して、「多喜二みたいな親思いの、きょうだい思いの、貧乏人思いの男が、あんなむごい死に方をするべか」(H21 p.184)と考え、「神も仏もいるもんか」(p.185)とまで思いつめた母親がキリストを信じるに至る過程は読みごたえがあるし、ヨブ記に通ずるところもある。信仰があればこそ不条理には苦しめられるが、この苦しみは信仰によるのでなければ乗り越えられないのだろう。
 
楽山がキリスト教を書くのは、反キリストだから、多喜二の母が「あんなむごい死に方をするべか」と書いていますが、殺したのは、右翼に支配された特高警察です。惨い死に方です。
 
まるで、犯人が責任逃れでもするように、話を逸らし、母親の「神も仏もいるもんか」とか、ヨブ記を持ち出して、「信仰によるのでなければ乗り越えられない」などと書いています。信仰など、楽山は全く知らない無機質な人格であり、調子のよさそうな文言を書いて、バランスのとれた人間を装うのです。
 
こういう、無分別・無節操・無反省・無責任男が、いちばん、有事には、卑怯者として行動するのではないかとさえ思います。今まで、ずっと、自己正当化だけのために、記事を書き、ツイートし、右も左もなく、キリストも反キリストも分かっておらず、気取りだけで、一人前に見せかけてきたのです。楽山という危険人物に、どうか、近づかないでください。
 
もう一つは、最後の「イエス涙を流し給う」のくだりである。作中には「生きてる時も死んだ時も、イエスさまと一緒だってことわかれば、イエスさまの立派なお弟子さんですよ」(p.211)という牧師の言葉があるが、これは「浜辺の足跡」に通ずる考え方であろうし、人が涙を流すとき、キリストは共にあってそのすべてを理解しており、このことを実感することで人は安らぎを得るということだろう。
 
「浜辺の足跡」foot print の話は、・・キリストとともに浜辺を歩いてきたつもりが、足跡が一人分しかなかった。見捨てられたと思ったら、実は、キリストが背負っていたので、一人分の足跡だった・・という話です。
 
偽牧師シャロームも引用したほどに、罪や偽善などは書かれていない、ありがたくて、受けがよくて、神の恵みを感謝・讃美する話です。
 
楽山が、シャロームと、仲間であり、同根であることが表れています。成りすましも疑われます。
 
つまり、偽善者やキリスト教をネタにしたカルトにとって、責められることがないため、とても使い勝手の良い話なのです。
 
三つ目は、小林多喜二は貧しき人々のために尽くしていたが、それゆえに拷問され殺されたとして、キリストと重ねているところである。自分は小林多喜二についてはほとんど何も知らないのではあるが、こういう話を聞くと、どんな人物だったのか興味がわいてくる。
 
多喜二という人物を、キリストに重ねるのは、キリスト信仰を理解していない楽山のような軽薄者だと思います。ですから、楽山の「興味がわいてくる」は、嘘です。
 
四つ目は内容ではなく、形式についてだけども、本作で無学文盲の母が我が子の多喜二について語るという設定にしてあるのは、うまい工夫だと思う。これによって共産主義や当時の多喜二を取り巻く状況について深入りすることなく、母の見聞きできた範囲について素朴な言葉で語ることになり、とても読みやすく共感しやすい作品になっている。
 
「共産主義や当時の多喜二を取り巻く状況について深入りすることなく」に、楽山の魂胆が表れてきます。共産主義やキリスト教など、楽山には、やはり、根拠もなく、前提として、敵なのでしょう。ならば、何も書かなければよいのに、自己顕示しないではいられないのです。無反省・無責任の楽山のような詭弁屋には、こういう揶揄と否定の仕方もあるわけです。だまされないでください。
 
多喜二について書こうとすれば膨大な資料を読み込まなくてはならないだろうが、母親の視点から多喜二を書こうとすればそういう手間は大幅に省けるだろうし、特定の枠を超えてより多くの読者を期待できることになる。こう考えてみると、一つのテーマについて書こうとするとき、視点の置き方一つによって、書き手の労力や読者の範囲は大きく変わってくるということが実によく分かる。
 
なぜ、楽山は、膨大な資料、云々といっているのでしょう。左翼の多喜二について膨大な資料を読んでいない母親の視点で書いたから手間は省ける、読者を期待できる、などと言って揶揄するためでしょう。嘘と詭弁の楽山は、親の視点など手に負えないことを自覚していません。
 
楽山は、いかなる視点も定まらず、いかなる労力も使わず、おとしめと悪用だけに生きている楽山です。過激が固着した我執の砂岩なのです。だから、今までの成り行きを知っている者からは、ポロポロ、砂がこぼれるように、魂胆と不能が見えてしまいます。
 
以上、本作を読んでもっとも心に残ったことを四つに絞って書いてみた次第である。
なお小林多喜二の命日は2月20日とのことである。奇妙な偶然だが、先日、何気なく本作を手に取り、命日前に読み終えることができて良かったと思う。
 
楽山が、事と次第を、まるで理解せず、ゆえに、詭弁以外何も書けないことが表れており、自分以外に向けて、余計なことばかり書いて、さらに命日云々と受けねらいの因縁付けをしている様子は、楽山はまともなつもりでも、いつ見ても、わざとらしくて、くさくて、醜いものです。なおも恥ずかしげもなく書き続ける楽山は、人間としての尊厳さえも、持っていないのでしょうか。
 
 
誰を欺く

たれを あざむく ?
 
 
 楽山のツイートですが
 心機一転★こも楽山 @komo266
 
得意気に、人を、おとしめるサディスティックな楽山です。
 
この考え方は、露骨にいえば、人と関わるのに費用対効果を考えてることであるし、合理的ではあっても、信仰によるものではないですね。
 
楽山に信仰によるものかどうかは分からないと思います。信仰を、超常現象を信じ込む理屈だと思い込んでいる楽山です。楽山の合理は、神と人の関係の世界で、どこまでも、信仰の合理からは、著しく外れてゆく定めとなる人格を形成してきたのでしょう。
 
奇跡と希望を信じる信仰者は、こういう風に奇跡と希望を省いた考え方はしないだろうし。
 
AならばAですね・・と、楽山は、言っているのでしょうか。
 
しかし、楽山は、平気で嘘を吐きますし、刷り込みをしてきます。楽山が奇跡というとホラーですし、希望というとインチキだと思います。そういう宗教観なので、信用しないでください。
 
KENTO氏はアンチとの議論で傷つき疲れ、信仰を見失ってますね。
 
そして、楽山は、慰めるように見せかけて、相手が、傷つき疲れていることを、信仰を見失っていると言って、あからさまに、「ますね。」付きで、わざわざ強調して、さげすんでいます。こういう人を信用すると、酷い目に遭うのです。今日も、物の言い方を知らず、勝ってる、勝ってると、含み笑いで、自己満悦感に浸る楽山のようです。
 
神は、いつまでも黙って見ておられる御方ではありません。そのうち、私が死んだ後であっても、心の無い楽山が、手足をもがれる時は、いずれ来るだろうと思います。楽山の言が、人間的な良心から、今も、どんどん、外れて行きつつあるからです。
 
 
(2021年02月18日、同日一部修正)
 
 
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  楽な芝居2
 
 2020年01月25日
 「わたしの心は恐れない」(詩編27)
  楽山日記(LD) → 批判を再録+加筆。
  
 
シャロームの仲間であり、カルト宣伝者として、ねちねち書いてきた楽山ですが、しばらく、黙っていたかと思ったら、まとめて書いてきました。自分の悪をすっかり棚に上げて。
 
どんなときも、何を言われても、自分を真善美の立場に置くナルシストの典型的な自己宣伝の文章です。数々の失言とカルト贔屓(ひいき)を明らかにされても、なお、自己顕示欲が働いて、謙譲芝居付きの、詭弁と印象操作の、人生に何の実りももたらさない作文です。
 
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
聖書の詩編を通読したいと思いつつ、近頃は他のことばかりして読書を中断していたのではあるが、再び頁を開いてみたらすぐに良い言葉に出会えた。
ヤハウェはわが光、わが救い。
わたしは誰をか恐れよう。
ヤハウェはわが命の砦、
わたしは誰をかおじ恐れよう。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、pp.61-62)
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
自分はクリスチャンではないし、聖書の神を信仰しているのでもないが、それでもこの言葉を読むと心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する。
ノンクリの自分でもこうなるということは、聖書には宗教の壁を超えた何かがあるということなのだろうか。こういうことをすぐに神の実在に結び付けることは躊躇されるけれども、自分とは全然関係ないだろう数千年前の外国で書かれた言葉が心にしみるというのは不思議と言えば不思議ではある。
 
以前から、無神論の本などで、キリスト教を揶揄し否定してきたのが楽山ですから、
 
心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する
 
・・これだけ、わざとらしい歯の浮くようなセリフを、平気で並べてくる楽山なのです。
 
真っ赤な嘘だと思います。あざとい・・。
 
楽山の文章は、いろいろ読んできましたが、楽山に、少年のような清々しさは皆無です。
 
 
 2020年01月25日
 キリスト教では輸血を禁ずることはない? (異端とカルト)
 
その宗教がカルトかどうかは、異端、異教かどうかで判定されないというのはよく分かる。もしそれが是とされるなら、A教の教義によって「B教は異端、異教であってカルトだ」といえば、B教の教義によって「A教は異端、異教であってカルトだ」ということも可能となる。
 
詭弁です。算術的論理による詭弁です。両方言うじゃないか、という言い分は、全く、どっちが正しいかを考えない理屈です。これを空論と言います。心ない者の言論の特徴なのです。
 
多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えれば、明らかなことがあります。反社会に結び付く思想が信条になっておれば、カルトとして批判するべきなのです。
 
そもそも、言論の自由には、責任が伴います。楽山は、自分の言ったことの責任を取ったことがありません。批判を無視して、さも道理であるように、楽山が書くことには、大方、的外れと嘘が付きまとってきました。
 
それを、私は今まで書いてきましたが、楽山には、"仏様の気持ちが分かるっぽい" 霊感?の自覚のわりに、人間としての感性がないので、組み立てられないのです。そして短絡した幼稚で単純な理屈を出して、結論を下しています。
 
そうなれば、各宗教がたがいにカルトと呼び合うことにもなり、そういう状況を一般からみたら宗教はすべてカルトだということにもなってしまいかねない。
 
楽山の言い分は、こういうことで終わるのです。では、楽山は、どうやってカルトかどうかを決めるのでしょう。楽山自身が、カルトだから、自己弁護しているに過ぎません。つまり、言い合いになるから、どれもカルトとは言えない、という幼稚に短絡した詭弁なのです。
 
やはりカルトかどうかは、特定の宗教教義による正邪判断ではなく、人権という視点から判断するのがもっとも公平であり、客観的だろう。個人的には人権なるものも一種の思想であり、宗教でもあると感ずるところもなきにしもあらずではあるが、少なくとも、特定の宗教教義による判断よりも普遍性、客観性どちらの面でも上であるのは間違いなかろう。
 
このことについては、前に、何度か、書いてきたのですが、読んでいないのでしょうか、それとも、気に入らないことは無視するというアドラー教にしたがっているのでしょうか、また、同じことを書いています。宗教気取りで、内容を見ないで、犯罪行為に及ぶまで待てと言うのでしょうか。
 
もう一度、上に書いたこと、反社会に結び付く思想が信条になっておればカルトなのです。
 
実際問題としては、自分の常識感覚や一般社会の基準から見て、異様な風袋、言動をする宗教団体をみれば、カルトだと感じてしまうわけではあるが、そこは相手の信教、表現の自由を尊重することとして、その団体がカルトかどうかの判断は、人権侵害や違法行為のあるなしを確認してからにすべきなのだろう。
 
人権侵害や違法行為のあるなし、というのは、逮捕できるか、裁判できるか、という基準であり、カルトの定義でも基準でもありません。
 
社会悪につながる邪悪な思想や言動を勧める教えはカルトです。つまり逮捕は出来ないが、批判は出来るということです。
 
このように、弁明できないのに、同じことを言ってくるのが、カルトの特徴であり、カルトである状況証拠となり、批判の動機を強める原因になってきたのです。楽山の体質は、紛れもなく、カルトです。ゆえに、カルトを擁護しているのです。
 
いつ読んでも恣意的な作為であり、清々しいところが、まるで感じられない楽山の作文です。
 
この手続きを怠ってしまうと、人権侵害をするカルトを批判しようとして人権侵害を犯してしまうという、まさにミイラ取りがミイラになったと言われるような事態に陥らないとも限らないし、ここはぜひとも注意が必要ではある。
 
人権侵害を犯してしまう、つまり、強制力のことでしょう。一見、道理のようなことを何度も言って刷り込もうとするのが、これも、カルトの特徴です。警察を見れば分かるように、反社会的行為に及ぶならば、人権は制限されて当たり前です。
 
シャロームは、明らかなカルトですし、最近は、"名無し"と名乗るようになって、荒らしの本性を表し、嫌がらせばかりして、馬脚を隠さなくなりました。
 
カルトは、違法行為に走る前日まで、カルトではなかったのでしょうか。楽山は、前から、カルトが、物を盗むか、だますか、人を殺してから、カルトと呼べと言っているのです。
 
反論も出来ないのに、また同じことを書いてくる楽山こそ、歩き出したカルトの亡霊であります。
 
楽山は、作為に満ちており、微塵の清々しさもありません。
 
 
 2020年01月26日
 心を悩ますな(詩編37)
 
 
*悩まず、苛々せずにいること
最近は、カルトについてあれこれ書くことが増えていたのだが、詩編を読んでいたら、こんな言葉があった。
悪をなす者のために心を悩ましたり、
不義を行う者のためにいらだったりしないように。
その人たちは草のようにたちまち枯れ
青草のようにしおれてしまうのだから。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.87)
読書をしているとき、自分の抱えている問題に対して、ドンピシャの答えと出会うというのは間々あることではあるが、今回もそうなったようだ。
 
 (詩篇、口語訳)
37:1
悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2
彼らはやがて草のように衰え、
青菜のようにしおれるからである。
 (詩篇37:1-2、旧約聖書)
 
悪を為す者、不義を行う者として、誰を決めつけているか、草のように枯れ、しおれてしまう、という聖句を誰に当てつけているかを考えると、呪いをかけているようで、身の毛が弥立つほど気色の悪い楽山の体質です。
 
ふつう、こういう切り返しのある言葉については、自分の悪はどうかと考えるものですが、楽山は、ドンピシャとの答えとばかり、のぼせ上がって、内省もせず、載せてしまうのです。
 
嘘と詭弁で悪をなし不義を行うのは、楽山です。早く、衰え、しおれてほしいのです。
 
楽山は、幼稚であり、単純に短絡する無思慮であり、清々しさの欠片もありません。
 
そういえば西洋の小説で、聖書占いについて読んだことがあった。悩みがあるとき、聖書を無作為に開けば、そこに答えがあるという話だ。自分は聖書占いをしたわけではないけれども、カルトについてあれこれ考え、書いていたときに、聖書を読み、上のような言葉と出会うと、アドバイスをもらったような気にもなるし、偶然以上の何かを感じないでもない。もちろんそんなのは妄想だとはわかってはいるけれど、根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ。
 
「根が迷信深いのでついそう感じてしまう」のなら、はっきり否定するべきでしょう。しかし、楽山は、感じてしまうことを否定せず、霊が分かるっぽい自分を表す性癖があります。つまり「根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ」と言いながら、それを肯定しているのです。
 
「感じてしまうのだ」という「のだ」の強意の語尾で、迷信深い自分よりも、霊が分かるっぽい自分の霊感をひけらかし、にもかかわらず、そういう迷信深い自分は愚かだから書かないでおく、ということが楽山はできないのです。
 
迷信深いと自分で言ってる楽山が、呆れたことに、迷信深いことをそのまま書いて、批判者を侮辱してきているということです。どこまで、けがれて、そのけがれを、そのまま、出してくるのでしょう。
 
批判にくじけないのではなく、批判を無視して迷信の世界に、本心は、埋没したいのではないかと思いますが、それを、独りの感慨に納めることができず、人に向かって顕示することに、傍若無人のナルシストの姿があります。
 
楽山の自虐芝居は、謙虚だと見せかけるための、作為の予防線です。
 
*善は楽しい!
 ところで、上の言葉には、次の言葉が続いている。
ヤハウェに信頼して善を行なえ、
この地に留まって真実をもって糧とせよ。
ヤハウェによって喜び楽しめ、
彼は君の心の願いをかなえてくださるだろう。
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
悪は長くは続かず、いずれ自滅するから、そんなことに関わるよりも、まずは自分が善を行うことに専念せよというのは、わりとよく聞く話ではある。でもそれとともに、喜び、楽しむことを推奨しているところは、ハッとさせられる。
 
 (詩篇、口語訳)
37:3
主に信頼して善を行え。
そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4
主によって喜びをなせ。
主はあなたの心の願いをかなえられる。
 (詩篇37:3-4、旧約聖書)
 
最善が何で、最悪が何かさえ弁えない楽山であるのに、善を行い喜び楽しめというところに、独りで、ハッとさせられるそうです。何て中身の薄い、単純な読み方と書き方でしょう。
 
カルトの味方をして、カルトの正当化をして、同じことを言い張って、進んだつもりで、自身の言葉のミイラになった楽山が、また、うろつき出しています。
 
どんなに苦しくとも、それを耐え忍びつつ善を行えというのは悲壮感が漂うけれども、善を行いつつ喜び楽しめというのは愉快な心持ちがする。
 
善を分かっておらず、善とは縁のない楽山が、限りなく詭弁に近い言葉遊びをしています。
 
楽山は、いつも、楽でいたいようです。だから、心を悩ませる真実からは、いつも、目を背けてきました。そういうことが、惜しみなく表れる楽山です。ここ2年は、総て批判になったことも、改めて、間違いではなかったと思います。
 
耐え忍ぶことなく、悪と偽善に短絡している楽山です。誰が、真に受けて騙されるでしょう。まさに、人の弱みにつけ込むような文章です。
 
楽山には、ひとかけらの清々しさもなく、短絡した文言で人を惑わせます。
 
でも考えてみれば、善とは本来、苦しく耐えるものではなく、喜ばしくも楽しいものではあるかもしれない。
 
また単純に、聖句から悟りを開いたかのように、善の本来を、説き出しました。決して、楽山に対して、素直になってはいけません。楽山は、作為の小細工の洗脳および煽動家です。
 
良心に素直でいられるときは心は軽いものであろうし、そうであれば善とは喜びであり、楽しみでもあるとも言えるだろう。とすれば、自分が善にとどまっているかどうかは、自分は今、喜び楽しんでいるかを自問してみれば、おおよその見当はつけられそうだ。喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろうが、少なくともこれは一つの目安にはできそうではある
 
逆必ずしも真ならず、という、シンプルな論理を無視しています。目安にもなりません。悪と偽善を悦び、他者を、だまし、傷つける楽山のような者がいるからです。
 
「おおよその見当はつけられそう」と言いながら、見せかけの謙譲「喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろう」と言い訳して、反省力があるかのような書き方の上で、しかし、しっかり「少なくともこれは一つの目安にはできそう」と言って終わりです。こういうのを、印象操作というのです。こういうやり方をする卑怯な人に対しては、全否定するしかないのです。
 
楽山の言い分には、全く深みがありません。だから、曖昧な言い方しかしないのです。しかし、曖昧にボンヤリ言語で書いて、それで言い得たと満足するのでしょう。ごまかしが、すさまじいです。
 
深みを覗くことをしないか出来ないことの言い訳のように、自分を低くするのではなく、真実を安く見積もって、悦び楽しむことが善の目安というところに、じわじわと持ってゆく詭弁です。楽山の背伸びは、自覚もなく、安い言葉で満たして膨満する肥満の腹のようです。
 
楽山には、嫌というほどの否定で対処する他にない、という、動機付けを、こちらに毎度毎度してくるのです。楽山には気づきがないからでしょう。裏があるだけの平板で薄っぺらな自己満悦・霊感?零感ナルシストです。
 
覚えてください。楽山の作為は、見かけの言葉だけで、柔和とは真逆です。楽山は、宗教など、全く信じてはいません。宗教を、観念で、もてあそんでいるだけです。なのに、聖句に、的外れの、わざとらしい嘘の感想を書いています。総て、自分の霊感?零感を自分で褒めているだけです。
 
子供だましのような幼稚な内容、私がボンヤリ言語と呼んでいるところの、ふらふら、否定も肯定もしないわりに、無根拠に、すりこんでくる詭弁、深い情感のない泥濘なのが明らかなのに、それをごまかすかのような、見かけだけ派手な感動言葉、これらは、シャロームの当てつけの丁寧語と並んで偽善者である楽山の変わらぬ筆致です。
 
読むたびに、何か汚いものを押し当てられて汚れてゆくような不快を感じます。読んでも、生きるのに、何の役にも立ちません。付け焼刃の知識で自らの捻じれた知性?を捻じれた作文で見せて、保身のために独り痙攣しているようなものです。楽山に、近づかないでください。
 
楽山は、清々しさなど影も形もない人です。
 
 
裏側

うらがわ
 
祈り「主よ、私が、安穏としませぬように、そして、できることをする、ということに、全身全霊を注げますように、少しばかりの勇気と、くじけない忍耐力と、祈る心をお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
 
 
(2021年02月17日、再録・同日一部修正)
 
 
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  神と偶像2
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の超常の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な偽善と詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであって
正直な告白を
神は待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
正直さだけが信仰を表します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
嘘を吐くことですから
神を偽ることです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
むしろ自由意志によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
この正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエスは
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書から学んでいるからです。
 
 
(2020年02月03日)
(2021年02月16日、再録+)
 
 
信仰・希望

信仰・希望
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
 
楽山の目的が、聖書にケチを付けることにのみある、ということが、よく分かります。聖書の姦淫の罪を犯した女についての記事ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:2
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 
8:3
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 
8:10
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 
8:11
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (ヨハネ書8:2-11、新約聖書)
 
この聖句について、説明らしいことが書かれています。
 
(聖書)ヨハネによる福音書に収録されている「姦淫の女」のはなしは、イエスにまつわる美しい話として特に有名なものであるが、これは後世に付加されたことが明らかになっている。聖書のよっては、ちゃんと括弧にくくられている
 」
 
キリストにまつわる美しい話だけでなく、キリストが、どのような人を救ったかということ、即ち、信仰によって救われるとはどういうことか、ということを表している重要な話の一つなのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·9時間
手元にある新共同訳を確認してみたら、〔〕でくくってありました。
ネットで検索しても、あとで挿入されたものだという話が出てますね。
 
楽山は、「姦淫の女」の話を、軽薄にも、後世に付加されたことをもって、否定したいのでしょうか。この話が伝えていることには、一切触れずに、「後で挿入されたもの」ということだけを取り上げています。つまり、楽山は、中身を読み取ることなく、あとで付け加えたのなら作り話じゃろ・・という短絡で、否定してしまう人だということです。
 
聖書を読むに値しない人がいるとしたら、この楽山のような人でしょう。否定するためにだけに読んでいる、ケチを付けるためにだけに他者のコメントを引用する、こういう読み方は、聖書に込められたインスピレーションを受け取る器を持たず、ゆえに、理解しようともせず、おとしめるためにだけ自分を出して、チクリ刺してくる蚊のような根性だから、パチンと叩かれるだけなのです。
 
この聖句を、揶揄の材料にして、ケチを付けるだけ、否定するだけ、けなすだけ、という楽山は、つまり、楽山のような人には、聖書を読むために必要な感受性がない、即ち、聖書全体についても、楽山が、救いを受け取っていない、ということです。
 
ケチをつけ、文句を言っているだけの野次馬には、聖書が説くところの、狭き門から真実への道が、救いとして開かれることはない、ということを、聖書が表し、楽山が、その見本となっているということなのです。
 
聖書を読めない愚か者が、定められていたかのように引っかかって、聖句を無駄にしている様子が表れています。楽山は、愚か者であるにとどまらず、それを、言いふらして、信仰そのものを、けなして侮辱してくるのだから、その有害性は明らかであり、反キリストが、自分は反キリストだと宣言していることになります。
 
ケチをつけたつもりの楽山が、逆に、自らにケチをつけて、信仰とは縁のない自分を表しているだけで、聖書の大事なところを理解しようともせず、ただただ、キリスト信仰をおとしめたいだけの楽山の体質です。まるで、どこにも進めないものだから、小石を投げて、ペッペと唾を吐いてきます。
 
 
※ 
 
あとからの加筆を、楽山もしているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
〔〕は、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とのことです。
 
なお、中身の重要性について、楽山は、書いていません。文献として記事を引用しても、その中身の重要性について、楽山は理解できないのでしょう。
 
 
(2021年02月16日、同日一部加筆修正)
 
 
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  楽山のペテン2
 
  2020年02月08日
 「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」ドーキンス著
 楽山日記(LD)
  に対する批判記事を加筆して再録。
 
 
楽山は、またしても、無神論の学者らしいドーキンスの本から引用して、ゴタクを並べてきました。既に、私は、楽山の、見当違いの宗教・信仰理解を、批判してきましたが、楽山は、何の反論も弁明も出来ないにもかかわらず、また、書いてくるのです。
 
楽山は、まだ、HSや、アドラー教から自由になっておらず、また、およそ、実質のない自らの心霊理解にも囚われたままであることが明らかになってきたという経過です。もしかしたら、楽山は、カルトを捨てたのではなく、カルトに捨てられたか、あるいは、新たなカルト形成に向かっているのかもしれません。
 
楽山は、人の言うことを無視することに快感を覚えるのかもしれません。経過することの内容に、楽山は、関心をすべて捨てることができる異常者なのでしょう。笑っているとしか思えないほど、平気で無視するのでしょう。
 
そうやって時間が経過して、私のほうには、楽山批判が、2年分蓄積されてきました。どこまでも無視する楽山に対して、批判するほうは、はてしなく批判を積んでゆくことを、務めとするしかありません。そういう場合、結果は、読者に委ねるしかないのです。
 
つまり、誰も、楽山に関わることのありませぬようにと、願うしかないのです。決して、楽山を変えることではなく、あとは、正常な神経を持っている読者が、害虫のように楽山を嫌い、楽山を相手にしないことを期待するしかないということです。そのための根拠が、楽山批判であります。
 
楽山は、本当に、恐ろしい生きものです。いつまでも、自分を見ず、はてしなく、どこまでも、人に文句を言い続けられる男、それが、楽山です。今日も、何事もなかったかのように、ツイッターに、誰かをおとしめる文句を書き込んでいます。徹底した変質者であります。
 
そうやって、日常感覚も経験も、都合の悪いことを、総て無視して、自らの人格を破壊してきたのでしょう。異常人格、人格破壊、精神病質、といった病態のもたらす冷笑が、そして、人間が、おしまいになると、こうなる、という破壊的現象が、ここに表れているのです。
 
「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」は、著者のエッセイ集『悪魔に仕える牧師』に収録されている文章であるが、十歳の娘への手紙という体裁で書かれているので分かり易くてよい。
内容は大雑把に言えば、観察し、証拠があるものについては信じてよいが、伝統(伝説)、権威、啓示(お告げ)には注意が必要だというものである。
 
観察し、証拠があるものについては、正当なのだから、まず、信じる必要がないのです。
 
私は、超常を根拠にする言い分については、決めつけや妄想である可能性があり、注意したほうがよいと言ってきました。
 
例えば、シャロームshalomの聖霊体験や神の啓示については、全くの大嘘で、さらに、その文章の滅裂と無法と無根拠が表す非人間性から、反信仰の産物であり教義も信仰も全くの嘘っぱちであることと併せて、自分権威の成り上がりのカルト妄想だと判断しています。
 
また、楽山が、霊が分かるっぽい高慢からの極めて幼稚な短絡の思い込みや、偽牧師シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。悔い改めは(自分でしなくても)神が与える」などというあり得ない信条?に無条件の味方をしたこと、また、楽山の、とても卑怯で嫌らしい騙しの印象操作や詭弁や柔和芝居や婉曲表現のボンヤリ言語と併せて、信用度ゼロのカルトであると判断しています。
 
ここでも、楽山は、間違いを全く自覚していません。観察して証拠があるから信じるのは、事実などの実証が必要なことについての話であって、信仰はそのようなものではありません。
 
信仰は、癒しや慰めそして共感など、情緒的な体験を通して思慮を起こして信じるのであり、キリスト信仰は、決して論理的実証的証明など出来ないものとして、ダイレクトに生きている人間に問うてくるのです。決定するのは、生きるのに必要かどうかだけです。
 
信仰は、伝統、権威、偽牧師シャロームが言う啓示?など、信仰外のものに、支配されてはいけません。しかし、同時に、一方では、楽山のように、理解があるかのように見せかけて、ボンヤリやんわり否定してくる偽善者の言などに左右されてはいけないものです。
 
ここまで、的外れなことを執拗に書いてくる楽山は、とても気持ちの悪い反信仰、そして、反キリストと判断せざるを得ません。何か信仰とは全く別のものに囚われているのでしょう。
 
伝統宗教といっても、親から子へ、子から孫へと幾世代にもわたって伝えられてきたというだけで、それが真実だという証拠はなく、証拠がないなら何十年、何百年とどんなに長く伝えられてきたとしても嘘が真実になるというわけもない、
 
このように、嘘吐きの楽山の言も、この地上で信じると、社会にも個人にも悪い推測と予想しか生まれない誘導として、人間にとっては百害あって一利なきもの、人を惑わし、そそのかすものとして否定されるべき邪教であり、楽山個人の我欲への執着がもたらしたものと言わざるを得ません。
 
楽山に、何かを教える資格はありません。約2年の批判によって、楽山は、無反省、無責任、無理解、無神経の、詭弁や、煽りをしてきただけであり、そして、ひどい嘘吐きであることが、明らかになっています。
 
私を信じる必要はありません。私は、参考にしてもらえば十分です。しかし、詭弁と虚偽だけの専門家である楽山だけは、決して、信じてはいけません。相手にしてもいけません。近づいてもいけないと思います。
 
権威があるからといってその者が絶対に間違わないというわけでもない、一つのことを考えに考え、祈りに祈り、やがてそれが真実だというお告げを得たと確信したとしても、それが真実だという証拠がないなら信じるには足らないなどとしていて、なかなかに辛辣である。
 
また、楽山は、証拠のことを書いている楽山です。証拠ではなく、信仰に必要なのは、癒しと救いとして、必要だという実感だけです。
 
むしろ、楽山が、しつこく書いてくるのは、何らかの人にまさる権威か名声を欲しがっているのでしょう。そういう自己顕示欲を支えているのは、霊が分かるっぽい自身への我執に他ならないと思います。とても病的なナルシシスト(ナルシスト)なのです。
 
また宗教が信じられてきた理由についてはこのような主張をしている。動物は生き延びるためにその環境に適した体をもつものであり、動物である人もこれと同じく環境に適応しようとするものであって、特に子供は生き延びるためにも自分の生きようとする社会環境に関する情報を得る必要があり、大人から聞いた話をすぐに信じるようにできている。
 
ずいぶん、大人と子供を舐めた見方をしている楽山です。宗教は、楽山の言うような、大人の話を子供が信じるなどという次元のものではありません。クリスチャンの家庭であっても、信仰告白は自分で自発的にするものです。個人によって違いはありますが、大人になって、改めて、判断することであります。
 
楽山は、宗教なんて親から刷り込まれたものだから信じるな・・という極めて短絡した先入観を与えようとしています。これが楽山であり、詭弁によって刷り込んで、宗教をおとしめてきますが、全く理解するセンスを持たずに、いちゃもんだけを言うのです。
 
実質としての支えとならなければ、いずれ、空しい信仰?は捨てられるでしょうし、大人の分別を弁えるのですが、その成長がないと、カルトとなり、妄想的となり、自己中となり、いずれ、社会と人間に害を与える存在となるでしょう。楽山は、逆方向の典型として、空しい反キリストなのです。
 
楽山は、そういう成長過程での取捨選択ができなかったのでしょう。それを、人のせいに、キリスト教のせいにしてもらっても、困りますし、大迷惑なのです。
 
聞いたことを、いつまでも、信じたまま、言い続けるのは、引っ込みがつかなくなったカルトか、それこそ、楽山のような我執によって、むしろ、逆に、怨念のようなものが、くすぶり続けているからだろうと思います。欲求不満が、我執を凝り固まらせたのかもしれません。
 
楽山は「大人から聞いた話をすぐに信じる」のでしょうか。いつまでも子供なのでしょうか。あるいは、逆に、大人から、ろくな話を聞いていない人でしょうか。それで、怨念を募らせてきたのでしょうか。なぜか、確かに、楽山は、大人としての反省力と責任感を養い損なっています。
 
そのため、良い情報だけでなく、時には根拠に乏しい間違った情報をも信じ込んでしまいがちである。証拠の無い宗教が長くつづいてきたのは、人々が何でも信じてしまう幼い頃に、大人たちからそれを刷り込まれ続けた結果であろう云々。
 
根拠に乏しい情報というのは、他者の勝手な受け売りで悪用して、信仰も神も、何も理解できないのに、ときには褒めたり、また別の時には否定したりする楽山の言というのが、いちばん当てはまってきたのです。きたならしい詭弁で侮辱する以外、何も出来ない楽山を信用しないでください。
 
およそ説明にも癒しにもならない繰り言で、逆に刷り込みだと否定する楽山こそ、今まで、刷り込み、吹き込み、誘導してきた悪だくみの権化であります。
 
仏様の気持ちがわかるっぽい自覚の楽山の、幼稚な自覚と我執が、子供の時から今に至るまで、楽山の人格を支えているとしたら、とても、みじめで哀れな成長不全なのです。大人の節操を養い損ねている楽山です。
 
本書の副題は「なぜ科学は「神」を必要としないのか」というものであるし、収録されている文章も上のようにキツイ宗教批判が多い。いやはやドーキンスはやっぱり宗教に対して容赦ない。でもこの本気さが魅力でもある。
 
科学は、実証できるものだけを扱います。ゆえに、神、信仰、霊、などというものは、実験も出来ないわけですから、科学が神を対象にしないし必要ともしないのは、当然のことなのです。楽山は、その粗野な根性そのままに、科学も神も語れないから、喧嘩を見るように楽しんでいるだけです。
 
科学によって、宗教を否定するのは、科学教の信者であります。宗教まがいのカルトに酷い目にあった人でないならば、宗教を否定するのは、大方、先入観によるか、自己顕示欲によるものでしょう。
 
科学は宗教を追求できません。宗教は科学を追求できません。
 
楽山は、正常人に教えることは出来ません。正常人は、楽山に学んではいけません。楽山は、あまりにも劣悪であり、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、責任を負わず、今もネットに居座って、罠を掛けてきます。引っかかったら、人生を破壊されます。
 
信仰を持つか否かではなく、何よりも、楽山の罠にかかったら人生は終わり、というくらい破壊的だと思っていてたほうがよいのです。陰険で狡猾なだけで、清々しさの欠片もない楽山です。
 
他者の言うことを全く受け取らないで、楽山は書いてくるのです。楽山の、他人事のように語って、信仰を、まだ一度も真剣に自分の課題としたことのない与太話の嘘っぱちに、惑わされないように注意してください。楽山が、キリスト教批判に魅力を感じるのは、楽山が、その無反省・無責任の素質において、既に反キリストだからです。
 
楽山は、信仰を知らないで、信仰芝居をしたり、信仰を目の仇にしながら、信仰をまじめに考えているふうに見せかけているだけのインチキです。
 
信じてもいい理由と信じてはいけない理由、などということを、我欲に合うものだから、本から勝手な解釈で鵜呑みにして、楽山が納得しているつもりのことこそが、楽山の宗教観が、信仰ではなく、一種の個人カルトの教条の屁理屈であり、人を罠にかけるようなカルト的な悪趣味の我執なのです。
 
楽山の主張の中のカルトの証拠となるものとして、すなわち、楽山が何も観察せず見通していないこと、信仰に担保?となるような証拠を求める態度、ボンヤリ言語による印象の刷り込み、魅力としての説得力も共感性も全くない表面的で信仰としては空疎な理屈、これらが、今まで楽山の表してきた邪悪な手法なのです。つまり、楽山こそが、宗教批判に見せかけたカルトなのです。
 
楽山は、証拠がないじゃろ、という、宗教には全く当てはまらないことで、宗教と信仰を否定しようとしてきます。汚い男です。心が無く、余裕がなく、深みのない、自己中の人格が表れています。
 
切実な必要からの実感のある疑問によって、宗教批判をする人は、宗教にとっても、貴重な糧となる存在になりうる人です。そういう人には、宗教人は、誠意を尽くして、説明の用意をするべきでしょう。楽山のような者は、切実さもなく、ただ、凶暴で一方的な、詭弁屋に過ぎません。誰も相手にしてはいけない人格です。決して、正常人の人格ではありません。
 
観察せず、根拠も証拠もなく、楽山の表す情報は嘘と詭弁だらけで、それなのに、宗教の悪い印象を刷り込もうとする楽山こそ、批判され否定されるべきなのです。楽山は、詭弁で印象を刷り込む反キリストそして楽山の自己のカルト思想宣伝者です。自己中と自己愛と決めつけが、無反省と無理解と無反応と無責任と無神経が、いたるところに表れてきています。
 
しかも、このように条件を付けて、大方、否定しながら、一方では、聖書の言葉を引用して、感動したかのように、また、ときには、祈っているかのような嘘のクリスチャン芝居を重ねてきたペテン師が楽山なのです。次元の低さと、自覚の無さが、書いたことに表れています。
 
楽山の主張は、よく読めば、整った思想や思考や共感が全く見られないほどの次元の低いペテンだと分かります。学者の名前を出したり、本を引用したり、刷り込みや印象操作をしたりするのは、自分では、宗教についても信仰についても、整ったことが何も書けないからなのです。楽山が、いくら安い造花で飾っても無駄なのです。
 
 
造花のペテン

造花のペテン
 
 
(2020年02月10日、同日一部修正)
(2021年02月15日、再録+加筆)
 
 
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  楽山の醜態加速(2)
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
 
 
もう一度、楽山の記事を取り上げます。楽山が引用した小説の台詞のようですが、
 
神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
 
この台詞は、結局、自分を無傷で守ってくれるなら神を信じてもいいぞ、傷を負うたら信じるもんか、という皮肉の意味に取れるだろうと思います。これは、楽山が言ってたのと同じような、宗教への、ありふれた、いちゃもんです。そのような個人に都合のよい条件を付けられて働く神は、どれだけ思い込み信じ込んでも、どこにもいません。
 
しかしながら、楽山は、「人の思考や感情は経験の影響を受けるもの」「信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にある」という解釈で話をしています。偉そうな書き方ですが、どうつながっているのか、理解不能な解釈です。環境や経験の影響が表れているなら、それを引用し書くべきところです。
 
楽山は、無反省・無責任のために、理路を学べていないので、自己中心にしか話や記事を勧めることができない、意味不明の理路不全の文章しか書けない人なのです。にもかかわらず、言い張りの執拗さだけが、いつまでも続いています。振り回されないように、ご注意願います。
 
おかしな楽山が、気づくことなく、気づかれることなく、人の心を、狂わせ、おかしくしてゆく文章を書いているとしか思えません。鎧(よろい)のつもりで、まともに見せかける言葉を書いた馬糞紙(ばふんし)を、自らにペタペタ貼り付けるしかない楽山。
 
(ネットより)馬糞紙:
麦藁(わら)などを原料とした質の悪い厚紙のこと。馬糞紙というのは外観からの連想による名前で、一般にはボール紙とよばれ、板紙として紙箱や書物の表紙の材料とされる。
 
何も産みださない無産業ロボットが、楽山だと思います。生産性が、積極性が、共感性が、切実さが、説得力が、何もないと思います。楽山の文章は、こういう熟語や言葉を言っておけば、ちょうどいいじゃろ・・という気安さだけで書かれているようです。
 
文章が苦手でも、経験から、これだけは言っておきたいという文章には、それなりの説得力があるものですが、楽山の文章には、説得力の欠片も無いのです。作為だけで、立派そうに見せかけて通念的な言葉を並べるだけだからでしょう。
 
楽山の宗教観は、キリスト信仰を、社会通念におとしめます。そして、そこで、神を信じ過ぎないのが、真っ当な信仰で、信じ過ぎるとカルトになるという、きわめて単純な見方を示してきました。
 
そういうのがキリスト信仰なら、私は、キリスト教を信じることさえ、キリスト教に関わることさえ、なかっただろうと思います。
 
いい加減であることを理想みたいに語る楽山は、一度も、神、信仰、人生について、洞察といえるほど何かはっとさせるような、深い見方を表したことがありません。
 
楽山は、そういう深い見方を、もともと何も持っていないからです。約2年半にわたって、何も、受け取って実になるようなものがありません。
 
つまり、楽山は、いい加減であることが大好きなのでしょう。いい加減さにおいてだけ、楽山は、徹底しています。そして、それは、楽山において、人の意見を無視することから生まれてきます。
 
そのように、信仰を台無しにして、では楽山が、何か人を救えるようなものを提示したかというと、通念的な道徳だけであって、聞かなくても知っているようなことばかりなのです。深みがない人というのは、自分を信用する他者の深みを奪って、均された平坦な人間に変えてゆきます。
 
そして、そこに、つまり他者の心に、楽山の好きなように、楽山の隠し持っている偏向した思想、恐らく右翼的な思想と命令系統を、植え付けてゆきたいのかもしれません。これは、他でもない、非人間的な、ホラーなのです。
 
楽山は、今までに、2度以上、過激な右翼思想家を支持する記事を書いたことがあります。つまり、楽山は、柔和な人どころか、訂正不能の偏屈であり、詭弁によって、じわじわ危険思想を刷り込む洗脳者・煽動家ではないかと思っています。
 
主張するのは人間の言動だが、植え付け刷り込むのは非人間の謀略である。楽山は後者です。
 
 
ちなみに、自己愛が強く、他者を省みない、無反省・無責任でしかない、・・そういう人が就く職業は何かと考えた場合に、一つ思い浮かぶのは、占い師です。そういう全能気取りのナルシストで、市井のインチキ占い師でもやっているのか、と思える人もいたということを付け加えておきます。
 
 
shuutai醜態

醜態2
 
 
(2021年02月14日)
 
 
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