ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年03月

 
  現代の偽善者2
 
 
二千年前の
キリストの時代には
偽善者は分かりやすかったかもしれない。
 
聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて
多くの人は、かなり、はっきりと分かるだろう。
尊大で傲慢なパリサイ人と
赦しを乞う以外になかった取税人は
明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは
そのような分かりやすさを持たない。
 
現代の偽善者は
柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まる。
 
現代の偽善者は
誰でも賛同するような話題を用意している。
そして褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせる。
 
現代の偽善者が
尊大で傲慢になるのは
何らかの知的な話においてか
追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて
彼らは、自分が知的に上だということを示します。
実はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。
 
こちらの話は受け取らず、弁明せず、
自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら
従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。
うっかり関わり続けていると
気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。
 
彼らの言うことが、
すべての人に広まったら
いつのまにか、
気づいたら、とんでもないことになっている。
 
彼らの言うことが
何よりも自己中心を土台としていること。
けっして自らの罪や過ちを認めず
悔いることがないということ。
 
真実として、良かった、悪かった、ではなく
策略として、うまくいくか、まずいか、という判断です。
 
 
大事なことは、彼らの言うことが
聞き手に対して常に
上から教える態度に終始していることに気づくこと。
 
彼らの言うこととが
世辞の感謝やお詫び以上には
けっして微塵の反省も含まないこと。
 
これらに気づいたら一目散に逃げてください。
コメントにレスしないで無視して下さい。
けっして彼らの話に乗らないでください。
質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。
説明を求めないでください。
詭弁と無理解だけが返ってきます。
 
 
現代の偽善者は
覚悟の批判者だけが疑い
消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは
病的ナルシスト
サイコパス
病質者
異常者
偽善者
聖書のパリサイ人の
現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは
相手の本性を確かめることなく
穏やかな話には乗りやすい傾向があります。
 
教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。
批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。
 
現代の偽善者は
そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
現代の典型的なクリスチャンは
そのままでは
だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような
現代の偽善者には敵いません。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を
本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。
 
今の偽善者は、良心がなく
代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して騙すことを企みます。
 
批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
潜在

潜在
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
(2021年03月21日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。自分で、別の笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことを何も見出すことが出来ないようです。
 
楽山については、次のようなことを感じてきました。高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉は知っているが、共感することがない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動したと言う。反省という言葉は知っているが、反省していないし、悔いてもいない。反省という言葉の前と後で、何も変わっていない。
 
恐らく、しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。
 
 
(2021年03月21日)
 
 
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古い作2つ、宗教詩2つ、批判1。
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・
 
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
(90年代)
(2020年03月06日、若干修正して再録)
(2021年03月20日、再録)
 
 
希望

希望
 
 
 
楽山について:
 
約2年以上、楽山を批判しています。楽山は、複数のブログで、好きなように書いていますが、その主張に一貫性がなく、真摯さが感じられません。キリスト教について、否定して、神はいないという主張に賛同して引用して、一方では、教会にご機嫌取りのような賛同を表したり、お祈り芝居をしたりと、まるで、何を言いたいのか定まりません。
 
霊が分かるっぽいという霊能者を気取ったり、学者に賛同してインテリを気取ったり、ひと言でいえば、宗教を心霊と超常の話に短絡させて、肯定したり否定したり、結局、楽山は、何かを気取っていなければ気が済まない人のようです。そのような気取りだけで語れるような宗教も信仰も存在しないと思うのですが。
 
さらに、複数のHNを使って成りすましている可能性があります。シャロームと楽山が同一ではないかという疑いを前から持っていますが、疑いを濃くすることはあれ、楽山が、潔白を表すような文章を書いたことがありません。今も疑惑ではありますが、むしろ、それ以外にも、成りすましているのではないかという疑惑が増えてきました。
 
最近も、確定できないので書かないけれど、疑わしいHNが複数あります。一括すれば、楽山は、インテリで、まともで、評論家で、言論が得意な整った人を気取っているだけと言えるでしょう。本音は、宗教を憎んでいるようにさえ思われます。整えることよりも、かき乱すことに快感を感じているのではないかと思います。
 
自殺を肯定するような you tube もあって、辟易とする時代ですが、楽山を批判しながら、いろいろなHNとサイトが、楽山繋がりかどうか、じっくり注意深く見てゆくしかありません。楽山に近づくのは、とても危険ですから、相手にしないでください。
 
誰がアップし、その関連記事を誰が書いたのか、確定はしていませんが、穏やかならぬ youtube の動画と筆致でした。コメント、ブログ、ツイート・リツイート、youtube ・・疑えば切りがないことです。でも、自己愛性病質者と、間違って付き合うことの弊害は、もっと悲惨であります。
 
 
(2021年03月20日)
 
 
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  楽山の独裁
 
 
 「自由の意味」田中美知太郎著
 2021年03月18日 楽山日記(LD)批判
 
 
楽山が、本を読んだと言っても「メモしておきたい」と書いているように、都合のよい文言を拾ってくるだけですから、読書になっていないと思います。聖書において顕著であります。
 
*自由の定義
『人間であること』に収録されている「自由の意味」を読んだので、その内容をメモしておきたい。
まず著者は、自由について次にように定義している。
「自由」とは何か。これをいろいろなふうに定義しますけれども、最もそのものずばりで言うと、自由というのは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ということでしょう。
(『人間であること』「自由の意味」、田中美知太郎著、文藝春秋、昭和59年、p.120)
 」
著者によれば、これはプラトンの「国家」第八巻による定義とのことである。
 
(ネットより)
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日[2] - 1985年(昭和60年)12月18日[2])は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」というのは、このままでは、自己中心と区別しにくくなります。
 
つまり、自由が成り立つのは、責任ある大人としての弁えが出来ている人の場合です。それが前提なので、無責任な楽山には当てはまりません。楽山の引用自体が、自分をまともに見せたいがための詭弁でしょう。
 
*現実
 次に著者は、自由とは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ことであるが、現実には「自由社会」といえども、皆がそのような自由を行使できるわけではないとしている。
つまり現実としてわれわれは、決して自由ではないし、自由ではありえない。これをはっきりと認め、そして今日の社会というものを考えなければならないわけです。
(同上、p.123)
 」
自由は何でも好きにできることではあるが、現実としてそれは不可能であるから、自由はある程度は規制、制限されることになるというのは当たり前のことではある。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」という自由が、現実として不可能と言いながら、責任とか義務とかに言及しないのが、狡猾な楽山の詭弁です。ひどいものです。
 
まるで、現実がそうさせていると言っているようです。つまり、自分の責任を書かないのも、自己中の楽山の特徴なのです。読書したふりで、分かっているふうに書いているぶん作為が際立ってきます。
 
*自由の基本的な意味
著者によれば、古代ギリシアにおいて、自由の基本的な意味は二つあり、一つは国家の独立であるという。当時、外国から侵略、支配されるということは、殺されるか、奴隷にされることであったので、自由のためにはまず国家主権の確保が条件であったというのである。
もう一つは独裁の排除であるという。独裁政治の下では自由はあり得ないというのは容易に理解できることではある。
本講演がなされた当時は、国家は自由を圧迫する悪役とされていただろうことからすると、自由の守護者としての国家を語るには相当な困難があったろうと想像する。
 
哲学者の名を出して、偉そうに書いてくる楽山の、中身が詭弁という虚偽性には、うんざりします。
 
ここで、国家の独立を持ち出して、話を複雑にしてきました。人の自由がテーマではないのでしょうか。「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ではないのでしょうか。楽山は、個人として独立していないのに、どうして、国家の独立を語れるというのでしょう。
 
*「公的な自由」と「個人的な自由」
著者は、上の二つの条件…他国及び独裁からの解放を公的な自由とし、「言いたいことを言い、したいことをすること」を個人的な自由と分類しつつ、両者については前者があってこそ後者は可能となるとしている。
これは分かりきったことのようにも思えるが、上と同じく当時の政治状況を意識した発言なのだろう。
 
楽山は、個人としての責任を負う気がないのだから、公的な責任など負えません。つまり、書いたものを公開するということも出来ない、してはならない、ということが分かります。
 
楽山は、書いたものを、いかがでしょう、という姿勢で問い、意見や批判・批評を受け取って、成長の糧とすることが全くできない人です。
 
*自由社会と人の本性(独裁政治を生む危険性)
著者は本講演の最後に、自由社会から独裁が生まれる過程について書いている。その理屈はこういうことらしい。
まず社会全体に自由が行き渡ると、あれもよい、これもよいとされ、「どんな人の生活もそれぞれを平等に同じ価値のものとして認め」ることとなり、これは「どっちにしたところで大した代わりはない、どっちでもいい」という考え方に行き着くことになる。
 
何を、他人事のように言っているのでしょう。自由には責任が伴う、ということを、まるで無視した楽山の、都合のよいところだけ拾って書いてくる自己中の病質的な解釈が表れています。楽山の言は、何の参考にもなりえないのです。書いてくる我執だけが臭気となって流れるだけです。
 
またしても、人それぞれ、というのが出てきます。今までも、ここでも、ずっと、楽山の、人それぞれだから、勝手にしていいじゃろ・・という無反省・無責任な欲望だけが表れてくるのです。このような繰り言は、もはや、ボケ老人にも似てきます。
 
このように、こうでなければならないという社会的な規範による圧力が弱まり、それぞれがそれぞれの自由にしてよいということになれば、外圧による善ではなく、自発的な善をなすことが可能となり、「本当の善人」が生まれることになる。
 
そうして、楽山は、「本当の善人」どころか、自発的な悪と偽善を、ほしいままに為してきたのです。勝手放題では人間関係も社会も成り立たなくなるので、自発的に責任を負わない者には、永遠に自由を許してはいけません。
 
自由には責任が伴う、という、小学校レベルの道徳を、楽山は、理解できないようです。
 
しかしその一方で、これとは「正反対の非常に悪い人間」も出現することになる。「最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくる」ともいえる。「人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力をねらう最悪な人間が出て、政治的指導者になる」恐れもある、というのである。
 
実際、歴史においては、そのような最悪が実現されてきたわけです。そして、ネットでは、楽山という自己愛性人格障害の偽善者が、教えを垂れるふうに書いてきて公害となっています。
 
これは一つの理屈にすぎないのではあるが、歴史を振り返れば、民主政治の中から独裁が生まれるというのはあり得ない話ではないのだから、注意は必要だろうとは思う。
 
理屈ではなく、ネットでは、現に、楽山が、恣意的に実行してきた自己中のことなのです。今、注意が必要なのは、楽山に対してです。今、排除するべきは、言論の責任を負わない楽山であります。楽山は、未だに、自由と責任というものを理解しようともしないのです。
 
楽山は、まさに、病質の怖さを見せています。ゆえに、「注意は必要だろうとは思う」という、安易で鈍い当たり前のことしか言えないのでしょう。
 
*いろいろな考え方
自由については、政治、宗教、哲学、語源など、さまざまな方面からの考察があるが、本講演の場合は古代ギリシアの考え方を基礎にして語られており、非常に興味深いものがある。ひきつづき自由とな何であるのか、過去にどんなことが語られていたのか、調べてゆきたいと思う。
 
楽山には、興味深いのでしょうか。わざわざ、偽善を斬り損なっている文章の部分を引用してきたのです。楽山は、ただ、曖昧な言葉に、食らいつき、縋りついているだけなのです。
 
自由とはなんであるのか、恣意的に書いて、好きなように曲げて、本当の自由を邪魔している楽山に分かることはないと思います。
 
このように、本を読んだことにして、また読んでいこうという姿勢を書いて終わりです。何も、糧となることを書けないのが、楽山という病質者です。「非常に興味深いものがある」・・このような、ボンヤリ言語の曖昧言葉で、楽山は、嫌がらせのように、執拗に、また書くぞ、と言っています。
 
自室のPCの前だけの独裁国家を謳歌しているのでしょうか。中身のない楽山の繰り言であります。
 
楽山の自由は、誰にとっての自由とも相容れない独裁的な自己中であり、平たく言えば、身勝手な自己愛性パーソナリティ障害の症状だと判断しています。
 
自己中は、自由とは違う。自己中は、他者の自由を阻害し、かき乱す。こういう、徒労と疲労だけを与えるような輩の、人格破壊的な害を知らせるために批判記事を書いています。
 
楽山が、執拗に発信だけを続けること自体が、今までのことを踏まえるということが病的体質のために出来ないという症状なのです。
 
詭弁ばかり書いてくる楽山の理解力は、結局、小学生以下だと思います。楽山は、自由を乱す自己虫に過ぎなくなっています。
 
このような判断は強化されてきました。楽山が、今まで、嫌らしい詭弁と誘導を書いてくるだけだったからです。楽山は、言論の妨害者です。
 
 
自己中は自由とは違う

自己中は自由とは違う
 
 
(2021年03月19日)
 
 
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  詭弁について2
 
 st、楽山 問題を振り返る 2019年12月22日
 楽山日記(LD)の批判記事を再録+
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
楽山ブログは、ほぼ、カルトと詭弁の資料となっています。去年の楽山の記事にシャロームの言をみつけたので、カルトの詭弁について考えてみます。楽山は、シャロームが正当だと主張するために引用しているわけですが、結局、シャロームの詭弁がまとめられていて、楽山は肯定しているのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
 (ローマ2:3-4、新約聖書)
 
神が導く、ゆえに、悔い改めは神によって与えられる。これを、シャロームは、自分で悔い改めることをしないことの言い訳にしています。
 
悔い改めるのは人であること、そして、シャロームが悔い改めていないのは、神の導きがない、または、シャロームが導きを無視している証拠、それは、そのまま、シャロームがキリスト者ではないことの証拠です。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。
 
キリストだけに罪の贖いをさせて、自分は、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、といって訂正する気のないシャロームの言い訳の詭弁です。
 
シャロームは、神が悔い改めに導くと、人は操り人形のように悔い改めをするとでも思っているのでしょうか。祭りの見世物のように、極めて幼稚な解釈です。
 
このように、シャロームは、心で悔いることがないために、聖書を、超常の奇跡~魔法のようなこととして受け取っていることが分かります。ゆえに、カルトでしかありえないのです。あるいは、キリスト教遊び~ごっこをしているだけです。
 
言うまでもなく神への冒涜ですが、それ以上に、シャロームの言は、人への嘘吐きそして詐欺行為ということです。だまされた人は、トンデモ偽善クリスチャンもどきになるだけです。
 
悔い改めることの主語は人です。人の悔い改めに答えて人を赦す主語は神です。人が悔い改めるのです。与えたり人がもらったりするものではありません。シャロームは、言葉も理路も、主客の区別も、分からないので、メチャクチャなことを言っています。
 
神は、悔い改めの道を用意して導き、人が悔い改めるのを、即ち、正直に祈ることを、愛の寛容をもって、待っておられます。
 
神のほうから救いの約束を反故にすることはありません。したがって、悔い改めない者が赦されることも、決して、ないのです。
 
だからといって、キリスト者以外は地獄行きなどというのは、恐らく、自らの信仰に舞い上がった未熟者の言うことでしょう。天国か地獄か、死後の沙汰など、人に分かるはずもありません。人が決めつけて語るのは、神を恐れないトンデモ信仰になります。
 
肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。
 
恐ろしいことに、シャロームは、人が、自分の意志で悔い改めることを、肉の働き、つまり、欲望のなせる悪しきわざと見なしています。まさに、シャロームは、自分に悔い改める意志のないことを、自分で証ししているのです。
 
これは、シャロームが、悔い、ということを、高等感情が鈍麻しているために、直感できず、全く理解していないからだろうと思います。
 
人が自分の意志で悔い改めなくては、人が、神のもとで、人自身の意志で生き続けることは出来ないということです。つまり、シャロームは、自分が生きているのではない、という、超常魔術妄想を語っています。
 
シャロームは、信仰者は、神が信仰者を何でも良いほうに導かれるのだから人として考えるのは止めろ、と言っています。だから、人の意志を汚れたものと見て、人の意志で悔い改めることを肉の欲望と言っているわけです。
 
シャロームは自身のことを神が動かすオートマタのような人形となっているという信仰です。この男が、クリスチャン、そして、恐ろしいことに、元牧師を名乗って記事を書いていたのです。人間離れの化け物に過ぎません。
 
楽山は、このシャロームに、無条件賛同しています。楽山の、聖書と神とキリストと信仰についての言は、全く信用してはいけないということが、これで明らかになっています。
 
悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。
 
キリスト信仰に、悔い改めは必須です。それをしない偽者を、偽者だと言わなければ、この世は、カルトの天国あるいは地獄となって混乱するでしょう。
 
悔い改めを要求してはいません。悔い改めていないならば、キリスト者ではありえないと言っています。悔い改めは、神に対して、正直に罪を認める祈りであります。
 
私は、できることをしているだけです。私は自分を義としてはいません。私は折に触れて精いっぱい正直に祈っています。キリストの荷は軽いから、出来ることです。
 
シャロームが、真逆を言っていることが分かります。このように、自分が言われそうなことを、言葉だけいじくって、詭弁をしつらえて、あたかも主張であるかのように言ってくるのは、今に始まったことではありません。それも、詭弁を生業とする者の手段なのです。
 
自我の欲望のほうを向くのをやめて、神のほうを向くことが、祈りであり、悔い改めなのです。
 
悔い改めて、行いが神に相応しくなることは、比較的にはあるでしょうが、完全には、ありません。
 
すなわち、神のほうを向くとは、行いを正すことを努力することではありますが、必須としてはいません。神のように正しくはなれないからです。精いっぱい正直に・・と前に書いたのは、そのためであります。
 
シャロームは、神のほうを向くことのない、信仰の欠片もない、職業的宗教詐欺師なのでしょう。これまでのことから、良心の欠片もありません。信仰者らしい良心を見せたことがないからです。
 
自分を義としたり、誇ったり、人を詭弁で騙したり、裁いたりしているのはシャロームに他なりません。そして、これは、シャロームの欲望が為せるわざに他なりません。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
2018/12/12(水) 午後 6:29[ shalom ]返信する
 
シャロームは、今までの、おびただしい偽善と背教を隠していますが、どういう顔をして、神の前に立つつもりなのでしょう。また、今までも悔い改めの祈りなど捧げたことはなく、自動的?に赦されたかのような妄想的な思い込みに過ぎないのに、罪を犯し、偽善を働くたびに、また、嘘を積み重ねるつもりでしょうか。シャロームは、今、所在不明です。気をつけましょう。
 
しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。
 
だから、悔い改めたのかと言っています。その代わりに、上のような、いちゃもんが返ってくるのです。
 
神の恵みの御業の中にあって、平気で、嘘を吐き、偽善を働き、詭弁を弄してきたシャロームです。どうやって清められるつもりなのでしょう。導きに気づかず、悔い改めず、どうやって、キリストの十字架のもとにゆくのでしょう。キリストを騙すつもりでしょうか。神は、総てを既に見抜いておられます。そして、いつまでも黙って見ておられる御方ではありません。
 
そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
 
詭弁を弄するとは、このことです。御言葉、聖霊、助け、闇が明るみに、光、悔い改め、闇の力は砕かれ、清められ、・・美辞麗句の聖書語を、こんなに安っぽく並べて、何より"悔い改めない"シャロームは、どうやって、救われるつもりなのでしょう。
 
罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ5:20)
という聖句ですが・・
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)5:20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。 
 (ローマ5:20、新約聖書)
 
律法を曲解して信仰を堕落させる者たちによって、むしろ、罪が増し加わったが、そのために悔い改めによる恵みもますます満ち溢れた、という意味のパウロの言葉でしょう。
 
パリサイ人は悔い改めずキリストを殺しました。人自身が悔い改めないところに信仰は生まれず、恵みが増し加わることはないのです。
 
そういう深く悔いる罪人は深く悔い改めるから恵みが満ち溢れる、という意味の聖句を、悔い改めなくても恵まれるからと、罪を増し加えているシャロームは、自分に都合よく解釈をして、自分の意志で悔い改めないでいられるわけです。
 
それで救われるつもりでいるのは、シャロームだけです。シャロームも楽山も、日本語訳の通常の理路さえも、理解しているとは思えません。つまり、キリスト教について、何も知らないのです。
 
偽キリスト者、偽牧師の、シャロームの、詭弁の言い逃れです。もう、たくさんです。
 
口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
2018/12/12(水) 午後 6:30[ shalom ]返信する 
 
シャロームが隠れて行なっていることは、口にするだけでも恥ずかしいことであります。光にさらされるとき、総てのものは、明らかになる。シャロームは、まだ嘘を吐き続けるのでしょうか。キリストがあなたを照らし、総てのものが、あなたが大嘘吐きであることを明らかにするでしょう。
 
シャロームは、これだけ、聖句が自分を斬っていても、笑っていられる男です。なぜかと言えば、シャロームは、神を、全く信じていないからです。だからこそ、シャロームは、今までのような悪意と嘲笑いの嘘から出てくる詭弁を平気で得々と言ってくるのです。
 
カルト、偽善者、詐欺師、など、嘘吐きは、批判されると、嘘を守るために、また嘘を吐くしかありません。それが、嘘吐きの宿命であり、現象として起こってくる必然の報いなのです。
 
嘘を吐いていると、その嘘によって個人が、他覚的にも自覚的にも、規定されてゆき、嘘が癖となり、普通となります。つまり、嘘が常態化すると、本当の自分が、嘘を吐かない自分がいなくなるのです。
 
シャロームは、現在、所在不明です。ひょいと、丁寧語の世辞で挨拶をして、コメントを書いてくることがありますから、くれぐれも、丁寧語や世辞に騙されないように、注意してください。
 
 
恐怖の群れ

きょうふのむれ
 
 
(2020年03月15日、同日一部修正)
(2021年03月18日、再録+)
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
水木しげるZZ
@shigerumizukizz
「自由には責任が伴います」
まじで「どの口が言う」だな幸福の科学。
周庭氏の守護霊を騙って垂れ流した発言が国際問題レベルで騒がれた時、信教の自由だ表現の自由だと言って訂正を拒んだお前らが一体どんな責任を取ったと?
こういう団体をきちんと取材し続ける存在は絶対に必要だと思いますけどね。
>>>引用ツイート
 藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
 @SuspendedNyorai
  · 22時間
 幸福の科学のコメント「自由には責任が伴います。」
 そうだよ。幸福の科学だって、信教の自由と同時に社会的責任がある。だから取材するんだ。これ からもな。
 取材で「幸福の科学」施設に立ち入り ⇒ 罰金10万円の有罪判決。
 「報道の自由が大きく損なわれる」と控訴へ
<<<
午前5:37 · 2021年3月17日·Twitter for iPad
<<
 
引用元2人を批判する気はありません。
 
2人は、「自由には責任が伴う」というHSの発言を、HSもだと、HSの社会的責任を追及しています。正論だと思います。
 
しかし、楽山がリツイートして賛同する資格はありません。
 
楽山こそは、反省せず、責任を負わないでいる自己中カルトに過ぎないのです。楽山は、楽山として責任を問われるべき人です。
 
この楽山のリツイートは、盗人が、盗みをしてはいけない、と説教しているようなものです。
 
楽山は、批判者にはなれません。楽山は、アンチにはなれません。
 
楽山は、アンチHSではなく、HSでもなく、嘘と詭弁と誘導と印象操作で、人を疲れさせ、傷つけて悦ぶだけの異常者です。
 
楽山は、まともな応答が出来る理路も共感も持っていない病質的エゴイストです。決して関わらないでください。相手にしないでください。近づかないでください。
 
 
(2021年03月18日)
 
 
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詩のようなもの2つ、宗教詩2つ+。
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
悲しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
哀しい歌が今も好きです
 
(2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
(1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
信仰告白より
不信仰告白のほうが
嘘が少ないからだ
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
信仰の危うさは
信仰者の成長を進めるためである
危うい時には
強く思い込むことではなく
人間として考えることが勧められている
 
 
 
信仰には、詳しい知識・知性・知能などの
特別のインテリジェンスが必要ということはありません。
 
信仰に必要なのは、人間らしい心です。それだけが必要です。
 
人間らしい心というのは、信仰者であってもなくても、成長可能な心ということです。
 
何かを訂正不能にした人間離れした心では、
一生かかっても、理解ではなく、誤解しか生じません。
 
訂正不能が続けば、曲解になり、妄想またはカルトに至るでしょう。
 
カルト化したキリスト信仰を見ることは、実に、稀ではありません。
 
 
今まで、何度も書いてきたように、キリスト信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになった人が、キリストと父なる神に、生きる希望を寄せることであります。
 
したがって、神の完全性の辻褄など、分かりもしないことを、楽山のように、この世の先入観的な辻褄合わせで神を否定する屁理屈の輩などは、最初から、全く信頼するに足りないのであります。
 
 
大事なことなので、また書いておきます。
 
信仰者になって、先入観だらけになってはいけません。
 
 キリストに愛される心の貧しさとは、先入観がないことです。
 キリストに憎まれる精神の貧困とは、先入観しかないことです。
 
 
夢と憧れ

ゆめとあこがれ
 
 
(2021年03月17日、再録+)
 
 
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