ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年03月

 
  楽山の我執
 
 「死について」西尾幹二著
 2021年03月15日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、感情・情緒の鈍麻によって、感じなくなった精神から、死と死後を恐れていないかのようなことを言っています。信仰による平安ではなく、詭弁の妄想的捏造と、老化による鈍麻に縋りつくしかなくなるのではないでしょうか。
 
*死後、人の意識は存続するのか?
『西尾幹二の思想と行動③』に収録されている「死について」というエセーを読んでみた。著者はまず冒頭において、死をテーマにした文章は多々あれども、「死は振り返って回顧できない」ものであるから、「死の経験は誰にも書けない」としつつ、次のような自身の考えを表明している。
私は、私の体が亡びると共に個体としての私も消滅し、「自分の意識」もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えをもつことがどうしても出来ない。
(『西尾幹二の思想と行動③ 論争の精神』「死について」西尾幹二著、扶桑社、2000年、p.131)
 」
この後、著者は上田三四二の『この世この生』、岸本英夫の『死を見つめる心』の文章を紹介しているが、どちらも基本的には著者と同じ死生観であり、死んだら無になるのだから、一度だけの人生を悔いのないように生きようと考えているようだ。
 
一度だけの人生を、悔いることなく、改めることなく、反省することなく、責任を負うことなく、言葉の垂れ流しで、生きようとしているのが、楽山であります。そりゃ、楽山に悔いはないでしょう。
 
*輪廻転生の可能性
著者は上の結論に至る理由の一つとして次のように述べている。
もし来世というものが存在し、今のこの現世というものに生を得ている「自分の意識」が来世にひきつがれるというのであるなら、われわれは現世に生きながら、それに先立つ前世からひきつがれている「自分の意識」を、なにほどか記憶していなくてはならないはずだからである。記憶がなければ意識は存続していないのと同じである。
(同上、p.131)
 」
スピリチュアリズム方面の書物を読めば、前世の記憶が失われている理由だとか、死後の生が存在する〝証拠〟とされるものはいくつも提示されてはいるのではあるが、現実を先入観なしにみるならば、熟睡しているときは意識がなくなるように死は永遠の眠りであろうとか、前世の記憶がないことをもって生まれ変わりはないだろうとするのは当然の結論ではある。
 
空想的死生観は、簡単な理路で否定されるということです。キリスト者は、神を恐れるので、空想としてではなく、現実として、不完全なる自分を、完全なる神の前に、正直に差し出すことを信条とするべきでしょう。それ以上の、特に断定は、神を恐れるなら、するべきではありません。
 
楽山は、永遠という時間が把握できるのでしょうか。やたら、宗教といえば、超常を語りたがり、現実の、嘘も詭弁も、何も気にしないで、永遠を分かって、過ごせるのでしょうか。とんでもない曲解です。何が、当然の結論でしょう。この問題に、この地上で、結論などないのです。
 
*死んだら無になるという怖ろしさ
このエセーにおいて、著者は死に対する考察とともに恐怖についても書いている。死後、自己の意識は消え失せ、無になることを想像するのは怖ろしくてならないと。
 
当然のことです。無になる自分を、想像だに出来ないのが、人間です。
 
思い返してみれば、自分も同じような怖ろしさを感じていたのだった。理屈としては、死んだら無になるなら、恐怖や苦痛を感じる自分も無くなるわけで、それなら何も心配する必要はないのではあるが、それでもやっぱり怖いと思わないではいられなかったのだ。
 
楽山の感じる恐ろしさは、引用とは違うと思います。そういう実感のある共感が成立しないのが楽山です。何も分からないのが怖いわけですが、楽山は、その怖さを感じることが出来ません。だから、何も分からなくても平気でいるのでしょう。
 
何も心配する必要がないのでしょうか。心配することが無駄であるということです。特に、楽山のように、我執で悪行を重ねている者は、あの世を心配すればするほど、思考も抵抗も無駄であることを恐怖するしかないでしょう。現在形~未来形~永遠形です。有名人の言葉を引用しても、楽山とは違うのです。
 
でもどういうわけが最近はそんな感覚は薄れて、「死んだら無になるのでも、霊になってあの世に行くのでも、どっちでもいい」という気分になってきている。死後の状態について、こうであるはずだ、こうならなければ嫌だという強い願望はなくなってしまったのである。
 
どっちでもいい、と思うことを、分からないから、ではなく、願望がないという言い方をしています。願望があってもなくても、恐怖してもしなくても、謙虚な懐のない楽山には分からないし、今の無駄は、ずっと無駄なのです。死んでからのお苦しみということでしょうか。
 
こういう変化は大方は年を取ったせいだろうし、人は毎晩眠りに落ちるたびに無になっていること、自分の意識は過去から連続しているようでも実際には過去の自分は既に消え去っており、現在の自分もやがて消え去ることに合点が行ったことなどもその理由ではある。
 
現在の自分は、明日には、もういません。年を取って、ボケてくると、恐怖が薄れるというものでもないでしょう。楽山が見えると思っているのとは別のものを見たり聞いたりするかもしれません。それは、楽山が大好きな、ホラーに登場するようなものかもしれません。
 
願望が薄れるのは、できるだけの真実を追求してきた人でしょう。楽山は、できることをせず、してはいけないことをしてきたのだから、死が迫るほどに、恐怖は増大すると思います。それを、今、感じないのは、意志の強い人と同じではなく、正しい人と同じではなく、年を取って、ますます感情が鈍くなったからでしょう。
 
このあたりの感覚は人それぞれではあろうが、自分の場合はこのような思考を経て、死後に無になることはさほど気にならなくなった次第である。釈尊は執着を去れば平安が得られると説いたというけれども、上の経験からするとこれは本当にその通りだと思う。
 
面倒臭くなったときの「人それぞれ」がまた出てきました。有名人の言葉に継いで何かを書く技量のない証拠でしょう。
 
楽山は、執着を去ることはありません。一生涯、我執だけに生きて、我執だけに、ニヤニヤする快感と、煤のような悪意をもらって生きてきたから、我執に追われることになるでしょう。それこそ、認知症になったほうが楽ではないかと思います。
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
草@kusaweod
·19時間
青天を衝けで渋沢栄一が祈祷師のインチキを見破って追い払ったエピソードは実話のようでここで読める。
500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった | 日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
午後9:23 · 2021年3月14日·Twitter for iPhone
<<
 
楽山と、明治の実業家である渋沢栄一とは、当たり前ですが、何の関係もありません。渋沢栄一は、大河ドラマで、今、旬であり、一般の人からも注目されているところでしょう。いつもの楽山の宗教への悪口とは関係ないか・・と思って見過ごしておりました。
 
しかし、楽山という反宗教が、今まで、いかに、宗教、特にキリスト教を、詭弁で、おとしめる投稿をしてきたかを思うとき、この他者のツイート引用を、まともに受け取ることは出来なくなります。
 
キーワードは、"祈祷"師であります。真面目に宗教を考えることのないの楽山は、いつも宗教をおとしめることばかり考えているのでしょう。恐らく合理的な考え方の渋沢栄一が、インチキ祈祷師の嘘を見破った、ということが、楽山には、えも言われぬ痛快事なのでしょう。
 
一般とは違って、楽山の真意は、素直ではなく、捻じ曲がったものです。この祈祷師はインチキなのですが、宗教は皆インチキと思っている楽山にとっては、宗教をおとしめる格好の材料に思えたのでしょう。
 
つまり、わざわざ、このエピソードを引用した楽山の意図は、偉い人が、宗教のインチキを見破った話として、受け取っているのだろうと思います。インチキ祈祷師と宗教を一緒に見ている楽山の、いかにも、あざとい宗教攻撃なのです。
 
楽山は、何を言っても、理路も共感も成り立たなず、誰にとっても益とならない文章にしかならないために、気安いところで、偉人の言動を出してきて、気慰みにしているのです。
 
偉人は懐の大きさで図太い肝を持って見抜き、楽山のような無反省・無責任のインチキな小者は、ネズミのような肝で動いて、いつも的を外しているということです。
 
 
ちなみに楽山日記に
2017年05月11日
HS関連ブログを読む 18
という気の遠くなりそうな長い記事がありますが、渋沢栄一のことを書いています。
一部抜粋。
 
「書痴の楽園」を見てたら、渡部昇一は渋沢栄一を評して、常に道徳的に正しかったと語ってた。道徳と成功を両立させていたと…。
考えてみれば、論語と算盤と、あの世とこの世を貫く幸福は、似たところがあるかもしれない。真理(倫理)にかなった生活をしつつ、本当の幸福(成功)を得ようというところとか。
 
倫理に全然かなっていない嘘吐きの楽山が言っています。「あの世とこの世」の「あの世」を貫く幸福が、楽山には分かるのでしょうか。真理(倫理)に適うことが、楽山に分かるのでしょうか。真理と倫理は同義語でしょうか。霊が分かるっぽい自覚だから「あの世」も分かるのでしょうか。
 
とはいえ、後者の方がより宗教的であるという相違点もあるけれど…。
近頃のHS本は、さっぱり読んでないけれど、ひょっとしたらこういうことは既に語られているのかなあ。どうだろう。
 
どの後者なのでしょう。道徳と成功でしょうか、あの世とこの世でしょうか、真理と幸福でしょうか、倫理と成功でしょうか。楽山の考える宗教が、さっぱり不明なのは、何も考えていないからではないでしょうか。楽山は、気が遠くなっているのでしょうか。
 
 
右翼思想家に、経済人にと、生死にかかわらず、有名人の名前と言葉面だけを、宗教をけなすために、我執で利用する楽山です。
 
 
我執を引きずる

我執を引きずる
 
 
(2021年03月16日、同日一部修正)
 
 
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  細い道
 
 
信仰は、この巷では、細い管、細い道です。
聖書を読んでも読まなくても
キリストの共感に共感できる人は少ないのです。
 
信仰を信じ込むことだと思っている人は、一つの宗教を信じると、視野が狭くなると思っているのかもしれません。実際に、そうなる人もいるかもしれません。信仰を勘違いして、豪語したり、夢~妄想的なことばかり言う人がいるかもしれませんが、それは、宗教の間違った有り方です。
 
宗教と信仰は、人間の良心、あるいは、その潤いと温もり、すなわち、悲しみと共感に、人間の求める情感によって惹きつけ、働きかけるものなのです。
 
良心を持っていない人には、宗教が、ご利益の都合のよい超常現象か、念じて頷く自尊に見えるのでしょう。そういう人は、人格障害の病質者として、現に存在しています。
 
信仰は、信じ込むことではありません。共感することです。
 
それが忘れられないことになっても、心も思考も、人間らしさを失うことはなく、むしろ、人間としての真実追求に向かうでしょう。
 
一部の、言葉だけの絶対化に走る教条主義が、わざわざ人間の器を狭くしている、というカルト的な事情は、二千年前と、まるで変わっていないのです。
 
真の信仰は、信じ込むこととは全然違います。洗脳とは全然違います。
 
信仰に、そのような偏見を生み出したのは、一部の曲解している人たちです。それは、カルトの道であります。人が決めた道から外れると、とたんに、呪いのような言葉をかけてくるでしょう。
 
そして、そのような、呪いのような決めつけは、宗教を自認している人だけではありません。
 
反宗教にも、そのような、偏見を与える者たちがいます。彼らは、自分の傷当てに、宗教をけなします。では、彼らが宗教の代わりになる救いを与えられるかといえば、何も提示できはしないのです。
 
宗教をけなして、けなしっぱなしの者には、責任など負えません。まわりまわって、彼らが、ついには、けなされるのを、待っているだけの存在です。
 
反宗教の煽動者は、せいぜい、宗教は、信じ足りなくてもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などという、実に、いい加減で中途半端なことを言ってきます。何の助けにも救いにもなりません。
 
そういう、悩み苦しむ人に何の助けにもならないようなことを言って自慢してくる者がいます。その中に、自己愛性人格障害者・病的ナルシスト・サイコパスも含まれていることを知ってください。彼らは自慰か自慢をしているだけなのです。
 
真の宗教は、悩みがないという自覚の人に信仰を勧めたりはしません。不安を煽ったりもしません。宗教と信仰を知るのは、何らかの悩み苦しみが生まれた時からでいいと思っています。何故なら、悩みのない人に、悩みから救われる道を伝えるのは、矛盾だからです。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
ポエムのようなものです・・2つ再録・・
 
 
  細い管
 
 
まことに そこはかとなく
細い管の先で 出会うもの
泣いたり笑ったりの
デリケートなところを
もらっている
または
覗いている
 
求める主体も
求める対象も
人間
または
温もり
 
それを追うためだけに
彷徨う
または
遊ぶ
 
響き合うメロディやリズム
ふらちな首や手足が
貧乏ゆすりのように
合わせようとして
外れる
または
踊る
 
喜 怒 哀 楽
 歌 音 楽 快 不快 悲
顔を向け 背け 振る
受け取って
我流に
流す
または
楽しむ
 
自己中の自己満の自覚から
流してしまいたい欲求に
答えてくれよと
欲望
または
共感
 
導かれてリンク先
ヘビメタ 重金属
顔が分からぬ
メロディが分からぬ
歌詞が分からぬ
ノイズ
または
サウンド
 
 ダンシン、ダンシン、20代
 ディスコなんか行ったことないのに
 飲み会、二次会、空いたスペースで
 酔っぱらって踊っているタコのオレ
 向かいの女の子が
 きれいな笑顔で近づいてきて
 怖じけて引いた
 今も後悔
 または
 今も思い出
 
まぶしいライトの
デコレーション
ミュージック
点滅
または
煌めき
 
数分が重なって
一時間二時間
過ぎる
または
過ごす
 
まことに 
そこはかとなく
費やす時間の
傷当て
または
娯楽
 
 
(2020年03月04日)
 
彷徨う(さまよう)
煌めき(きらめき)
怖じける(おじける、怖ける)
 
 
   憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
目を閉じる
 
 
(2016年06月27日)
 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
(2019年09月20日、一部修正再録)
 
(2020年03月15日、再録+) 
 
 
細い道

細い道
 
 
※ 
 
 14日見たTVタクル
 
オリンピックについて、
やるかやらないかではなく、やることは決まっている。
中止するかどうか・・云々・・
 」
 
やらないが中止なのだから、やるかやらないかだろう。詭弁くさい。
 
 
(2021年03月15日、再録+)
 
 
  楽山のリツイートですが
 
楽山は、また、他者の発言を借りて、言い逃れをしてきます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
山本芳久
@201yos1
「ヨブ記」の講座の準備の為に内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)を読んでいるが、めちゃくちゃ面白い。ヨブの苦しみに肉薄していく内村自身が人生の中で味わった様々な苦難が、迫力のある文体を呼ぶ寄せ、稀有な作品となっている。人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。
>>>引用ツイート
山本芳久
@201yos1
 · 2月28日
【4月期オンライン講座のお知らせ】
新設講座「旧約聖書入門:「ヨブ記」を読む」を開講します。この世界に生きる誰もが避けて通ることのできない「悪」や「苦しみ」にはどのような意味があるのか。この根本問題に正面から取り組んだ「ヨブ記」を冒頭から丁寧に読解します。
>>>
午後1:01 · 2021年3月14日·Twitter Web App
>>
 
「人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。」・・そうです。私の主張でもあります。この発言において、引用元は、正当だと思います。楽山は、人間を、考えることすら出来ません。だから、超常のことばかりで宗教を語ります。
 
神を努めて知る、ということは、人間を努めて知ることと同値であります。人について考えることなくして、神を知ることはありません。神を知ることは、聖書を読んで考えること、そこから、人間について考えることと同値であります。
 
神を知ることは、決して、人間を超えて、神聖や心霊になることではありません。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
人は、この地上で生きる限り、神聖にはなれません。人は、人と世界を見て、神聖にあこがれ、希望を託す身であります。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
楽山は、人間を知りません。その表れが、無反省・無責任・無理解・無神経となって表れています。人間を知らないから、楽山は、そのままでいられるのです。そして、性懲りもなく、また、人の口を借りて、言い逃れをしてきます。
 
楽山は、神聖も分かるんだ!・・と、妄想を叫んでいるようなものです。リツイートにしても、本からの引用にしても、利用~悪用されたほうは、たまったものじゃないですね。
 
楽山は、神を知りません。楽山は、屁理屈で、神?を、オモチャのように、もてあそんでいるつもりのようです。実際には、そのたびに、楽山が、救いからも聖書からも、はてしなく遠いことが表れてきただけなのです。
 
楽山には、真面目さ、真摯さが、どこにもありません。この2年間で、楽山が表したのは、そのような偽善と作為と悪意と訂正不能の自尊過大の凝固性でした。丁寧語に、だまされないでください。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
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  楽山の詭弁物語
 
 「私の聖書物語」椎名麟三著
 2021年03月13日 楽山日記(LD)
 
 
何も知らないし分からないのに、知ったかぶりをする楽山は、学習が成り立たないために、魔法のような宗教の思い込みに走っているのでしょう。共感がないために、理路も情緒も、意味も直観も、そして、真実も、言葉でごまかしてきたのです。
 
*私の聖書物語
先日、椎名麟三の本を読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しい本だったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。
 
楽山は、「メモ」と書くことが多いです。謙虚だからでしょうか、否です。メモだから、責任負わなくていいと思っているのでしょう。
 
*愛すること
愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものであるからだ。 
(『椎名麟三全集15』「私の聖書物語」、椎名麟三著、冬樹社、昭和49年、p.344)
 」
愛がどうしたこうしたと言うのは気恥しいものであるが、このくだりを読んで、随分前に大恋愛中の友人がこんなことを言っていたのを思い出した。
「相手に、自分のどこを愛しているかと聞いたとき、ここが好きとか何とかいったら、それは本当には愛してないってことなんだぞ。本当に愛してたら、ここが好きとか、こういうところを愛してるとか、そんなことはいえないもんなんだ」
こんな彼が上の文章を読んだら、「その通り!」と喜びそうである。
 
エロス・性愛、フィリア・人間愛、アガペー・神の愛、のいずれのことを言っているのか、書いていません。「愛している」という台詞からは、エロス、性愛、恋愛のことを言っているのでしょうか。また、楽山の不備の言が始まっています。
 
楽山が、どう思うかを書いていません。分からないからでしょう。愛と性欲の区別がつかないのでしょうか。性欲も分からないのでしょうか。どこを愛しているかということではないと、わざわざ言っているのは、どこはチャームポイント・好み・魅力であって、愛という関係とは質が違うことを、楽山は知らなかったのでしょうか。
 
*自由と愛
また著者は、自由についても次のように書いている。
愛というものは、究極には理由のないものであるならば、自由というものも究極には、理由のないものなのである。
(同上、p.344)
 」
自由も、愛と同じく、ああだこうだ言っても仕方のないことなのだろう。ただ、ああだこうだ言っても仕方ないと分かってはいても、ああだこうだ言わないではいられないのだから仕方がない(笑)。
 
引用の理路も、愛=自由ではないのだから乱暴で不十分ですが、楽山は、引用しておきながら、またしても、説明を書きません。なのに、ああだこうだという文句だけは言ってくるのです。「仕方がない」は、何の説明にもなりません。これで勝手な書き方の弁解にはなりません。
 
散々、詭弁と嘘で、人を侮辱し、だまし、おとしめておきながら、何が「(笑)」なのでしょう。楽山には、何も言わないでほしいのです。偽善で腐った楽山の言論は、ノートにでも書いて、一人で笑っておればよいのです。無反省、無責任、無神経、無理解の病的ナルシストの言など、迷惑なだけで、誰のためにもならないからです。
 
訂正不能で、学習する気がなく、都合のよさそうな言葉だけを使い捨てで悪用してきて、結果、嘘と詭弁しか出してこないような、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。そういう者は、批判の対象にしかなりません。
 
*人間はすべて許されている?
キリーロフは、小さいとき見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。
(同上、p.361)
 」
これは、ドストエフスキーの「悪霊」についての文章である。
「悪霊」は、ウン十年前の夏に汗をかきながら読んだ覚えはあるものの、その内容はきれいさっぱり忘れてしまっているので、上の文章については自分は何も言えない。
でも、「人間はすべて許されているのだ」という言葉には、はっとさせられた。これは前々から考えているテーマなので。
 
今までの経過から、楽山語の「人間はすべて許されているのだ」は、何をしてもええじゃろ・・ということです。なお、キリスト教においては、許される、ではなく、赦される、であります。許可ではなく、赦免であります。それを、楽山は、何でも許可、何をしてもいい、ということに、すり替えています。
 
何もまともに考えることの出来ない自己愛性病質者の楽山の解説は、すべて恣意的です。自己正当化と自慢だけをしたいだけの詭弁なのです。
 
*信仰と許し
許しについて、本書では次のような文章もある。
キリストを信じない人にははなはだ申し訳なくて申し上げかねるのだが、その人さえも実はキリストにおいて救われてあるのである。また私に叱責の手紙を下さった熱心派の方々にはまことにお気の毒であるが、イエスをキリストとして信じられなかった私も、驚いたことにキリストにおいて救われていたのである。その事実が私をいつも震撼させるのだ。
(同上、p.401)
 」
宗教では、信じれば救われる、悔い改めれば許されるという具合に、許され、救われるには一定の条件があると説くことが多いのだが、著者はそれとはちがう考えらしい。
 
楽山は、「信じれば救われる、悔い改めれば許される」という言葉の意味を全く理解していないことが、今までに明らかになっています。自己顕示欲の知ったかぶりだけで書いています。どうか、真に受けないでください。
 
疑いがあっても、信仰が全くないわけではない、という意味かもしれませんが、楽山は、それを、反キリストでも、何をやっても許される、という恣意によって、ねじ曲げています。このような話の進め方をすること自体が、既に、反キリストの宣伝者以外ではないということです。
 
ちなみに自分も、信仰や悔い改めなど、何らかの条件を満たしてはじめて許され、救われるというのではないように感じられる。それらによって許され、救われるというよりも、それらによってこそ許され、救われていることに気づくことができるというのが本当ではないかと思うのである。
 
今度は、条件という言葉だけで、楽山は、信仰を、教条主義にすり替えています。ベースが理解が皆無の楽山からは、嘘と詭弁しか生まれてこないのです。
 
自分の罪に気づかず、自分の罪を認めない者は、救いに気づくこともないのです。信仰は、罪が赦されて生きる、という救いだからです。
 
楽山は、悔い改めもせず、反省もしないで、救われているつもりなのでしょうか。それこそ、宗教と信仰を悪用する自己顕示欲の悪夢であります。ますます、ふてぶてしくなり、ひどくなっています。
 
*神義論
神が、キリスト教のいうように全能だとするならば、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも神のせいである。何故なら人間の一切やこの世の一切を決定しているのが神であるなら、禁断の木の実を食べることも神において決定されていたことにちがいないからだ。だがもし禁断の木の実を食べるということだけは、神の決定から逃れ出ていて、神の知らないことであったとするならば、そんなぼんくらは、神でも全能でもあるわけはないではないか。
(同上、pp.370-371)
 」
これは上と同じく、自分には興味深いテーマだ。
神は全能であるとすれば、どうしても考えないではいられないことなので。
 
このように、同じような、いちゃもんを言っているように見える小説家の言を、楽山は、フルに利用し悪用してきます。楽山の言い分は、神が、楽山にも分かるような都合のよい辻褄の合う言動をしないなら信じない、ということです。既に否定されたのに、また、平気で書いてくるのが、楽山の病質であります。
 
(ネットより)
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。
・・・
1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。
 
楽山の引用と解釈は、神の辻褄が分かるなら信じる、という、楽山の自我の完全欲の言であります。
 
信仰は、自らの完全を否定することから出発します。人間は、決して完全にはなれず、神に希望を託さなければ、愛も癒しも希望もなく、楽山のような謀略者に食い殺されてゆくだけです。
 
ゆえに、価値観を、この世に置くのではなく、最終的結果を、神に任せる道が、信仰です。辻褄が合わない世界だからこそ、不完全を自覚する人は、神を必要とするのです。
 
神が分かるなら、信じる必要はないのです。楽山のような完全欲の病質的ナルシストは、自己満足が得られないと気が済まず、いくら批判しても、同じようなことを書いて、疲れさせてきます。
 
信じないのは楽山の勝手ですが、誰かに影響を与えようとする意図は、これもまた、悪夢のようなものなのです。早く過ぎ去ってほしいと思います。楽山は、人間性を破壊する悪夢です。
 
どうか、楽山にだけは、関わらないでください。関わることが、楽山の他害性であり、徒労であり、疲労であり、地獄であり、人間としての思考も情緒も失ってゆく兆候なのです。
 
*信じないけれども信じている
「それが実に全くほんとうに困ってしまうんですよ。お前は信じているんだとおっしゃるなら信じているんですし、信じていないんだとおっしゃるなら信じていないんだからです」
「どちらがほんとうなんだ!」
「ところが全く困ったことにどちらもほんとうなんです。つまりその二つは、実に平和に共存しているわけなんですよ」
(同上、p.374)
 」
これは奇跡を信じるか、信じないかという話であるが、著者のなかではこの二つが「平和に共存している」そうである。
 
「これは奇跡を信じるか、信じないかという話」ではありません。キリストに共感するか、キリストを好きになるか、という話なのです。楽山の勘違いは、人間にとって、どこまでも世迷言です。
 
楽山は、おびただしい嘘と詭弁で、他害と破壊を及ぼしている自覚、即ち、病識がないのです。楽山には、平和もありませんし、共存もありません。自我の満悦と訂正不能の悪夢があるだけです。
 
これは自分も同じだ。奇跡なんかないだろうと思いつつ、奇跡が起きたら起きたで、そういうこともあるだろうとさほど抵抗なく受け入れることはできる。
 
楽山は、奇跡が起きても、起きなくても、平気でいられるそうです。楽山には、霊が分かるっぽいという妄想的発想症候群は起こっても、本当の奇跡は起こらないでしょう。
 
楽山の言から明らかなのは、楽山のように偏向し腐敗した心には、心の奇跡など起きようがないということです。起きないのは仕方ないが、他者の心の奇跡と目覚めを、邪魔するのはやめるべきです。誰も、楽山のようになってしまっては、ささやかな幸福さえも失ってしまいます。
 
あれこれ見て、あれこれ考えた上で、どうやら神は存在しないようだと結論づけたとしても、神を信じて祈ることにさして抵抗はない。
 
白々しい嘘です。逆説の哲学者シモーヌ・ヴェイユじゃあるまいし、存在しない神に祈る楽山の正体は、信仰を欠片も持たないで、だますために、祈り芝居の記事を書く詐欺師です。
 
祈ることに抵抗がないそうです。それは、楽山が嘘を平気で吐く異常者だからです。祈りを何と思っているのでしょう。祈りは、神への唯一の音信です。神は、人の総てを見抜きます。楽山は、神を何とも思っていないから平気なのです。
 
楽山は、おのれの自我が神を、物か人のように、机上の対象にする怨念のような異常な確信から、この軽さで、神も、上から眺めて、かわいがってやろうとでも言うのでしょうか。黙っておればよいものを・・、何も知らない、ということの、怖さです。
 
我ながらおかしなことだけれども、こういう矛盾は平気である。何かの本で野蛮人かどうかは矛盾に無頓着であるかどうかによるという話を読んだ記憶があるが、この基準からすればどうやら自分は野蛮人であるらしい(笑)。
 
楽山が、こういう矛盾に平気なのは、自己愛性パーソナリティ障害だからです。逆説的真実も何もなく、自慢したい、ひとかどの人物と見られたい、特殊の霊的境地がある、分かっている、という妄想に、酔い痴れて生きているのが、楽山であります。
 
*人であり、神であるということ
荒本さんの反逆は、イエスを神として、人間であることを捨象したキリスト教に対する反逆だったのだと思う。私は、イエスをキリストとして信ずる者であるが、キリスト教界のことはあまりよく知らない。だがおそらく荒本さんの反逆したくなるようなものが、少なくとも荒本さんの所属していた教会にあったのではないかと推測されるだけだ。ただ荒本さんは、そのイエスの人間を強調しすぎたのである。
(同上、p.439)
 」
著者によれば、荒本さんは「熱心なクリスチャン」でありつつ、「イエスが、人間であってなぜわるい、とか、マグダラのマリアに恋愛していてなぜわるいとかいって、キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」と主張して教会から離れ、マルクシストになり、「アンチ・クリスト」という論文を発表するようになった人であるが、やがて病に倒れ、最期のときには「おれは、神を信じていたのに…」と言い残していったという。
 
「キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」
・・楽山とは全然違って、椎名麟三という人が思考するキリスト者であることが表れています。私も教会からは離れていますが、おかげでか皮肉にか、悪夢のような楽山という偽善者を、人間として批判することが出来ます。
 
キリストを、人間かどうか、決めつける必要が、断定する根拠が、能力が、人間の、いったい、どこにあるというのでしょう。
 
また、キリストの、人間性をもっているからこそ人間に共感するという恵みを否定したら、信仰は、おしまいです。楽山のような、超常だけのカルトになってしまうからです。
 
キリストの人間性を無視することは、超常奇跡信仰であり、人間が受け取れるものを見失ってゆく袋小路への堕落であります。なお、経験上、私が通っていた教会をはじめ、まともな教会は、キリストの人間性を無視したりはしません。教会もいろいろであります。
 
恐らく、キリストの人間性を無視する教会には、楽山に似た外道の訂正不能の者がいるのでしょう。そういう者は、どこにいても、真実を、人々から遠ざける定めなのでしょう。
 
キリスト者でもなく、必要な知識も理路もなく、信仰など持ったことがなく、教会外にいて、減らず口だけをたたいているのが、楽山その人であります。どれだけ、信仰を語る圏外にいても、自己愛性の病質者は、身の程を知ることがなく、弁えることがないのです。
 
著者は、イエスは人であり、神であるので、どちらか一方の見方に偏することに注意喚起しているようであるが、近頃の自分の関心は、信仰上のイエスより、歴史上のイエスに大きく傾いているので耳に痛い話ではある。
 
先ず、楽山は、信仰上のイエスを知りません。むしろ、憎んでいると思います。そういう人だから、知りもしないのに、無神論関連の本から、信仰をけなし、信仰関連の本から、信仰を揶揄してくるのです。
 
歴史上のイエスに傾くなどと平気で言っているのが、思慮が浅いのに思い上がっている証拠です。歴史上のイエスは、二千年前ですから、いつになっても、詳細は不明であります。過去は、いかなる資料によっても、その資料の信憑性が問われ続けます。
 
大切なのは、聖書が、超常ではなく、人間に何を伝えようとしているか、ということです。
 
それに、信仰もないのに、キリストの史実だけを追い求めることは、世界で一番の徒労であり、無駄であります。楽山が、いかに問題外であるかを、楽山が表しています。
 
*これから
椎名麟三の本は、以前、とあるクリスチャンから勧められて一冊読んだきりだったのだが、今回改めて読んでみると難しくて分からないところもあるが、著者独特の思考と語り口によって様々なことを教えてくれ、読みごたえがある。つづけて他の著作も読んでみるつもり。
 
楽山は「難しくて分からないところもあるが」「読みごたえがある」のだそうです。この軽さと浅さが、楽山の特徴であり、厚かましさであり、本気の無さであり、自己顕示欲の権化であることを表しているのです。
 
楽山が、どれだけ、本を読んだといっても、信用しないでください。自分に都合のよい言葉を漁っているだけの楽山が、真の読書をすることはないのです。
 
本に学ばないで、自分の言い分を、肯定してくれそうな言葉面を探して検索しているだけです。そうして、楽山は、勘違いの妄想を、詭弁によって、ごまかして書いてくるのです。
 
楽山の言は、丁寧語で書いてくる分、少しばかり、人を誘いますが、注意してください。楽山は、理路を学び、信仰を知っている者からは、石にも砂にも値しない、嘘との偽善の有害物です。
 
キリストが、なぜ、手加減せずに、パリサイ人という偽善者を、あそこまで厳しく否定したかが、楽山という偽善者を通して、表されています。現代にも通じる警告であり、教えであります。
 
私は死んで何も言わなくなっても、神は、いつまでも偽善を黙って見ておられる御方ではないのです。このことが、一見、空しいことをしているように見えても、臨死において、キリストが、父なる神が、与えるところの、最終的な平安であり、救いであります。
 
 
ウソの首は赤い

ウソの首は赤い
 
 
(2021年03月14日)
 
 
  楽山のツイッターですが
 
なんだか、こんな話を聞くと、もーれつに読みたくなってくる。
トンデモ本は好きなので(笑)。
引用ツイート
>>
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 2時間
実は、ずっとやりたいと思ってたけど、まだできてないことがある。それは、この本を論評すること。
以前ざっと読んだのだが、あまりに言っていることが無茶苦茶で、かえって霊言の胡散臭さが際立つ名作だったww 
<<
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
引用することで、どんどん、他の批判者を、自らの偽善の正当化に巻き込んでゆく、トンデモ的外れの楽山です。いつも、楽山は「(笑)」なのでしょう。楽山は詭弁を弄して、発言の責任を負わず、人を、疲労させるだけの人です。
 
自分の落ち度についての問題も、その指摘も、これだけ無視して、ふつうの人を気取ることの無理を感じないで笑って、明るい言葉を発していられるというのは、ふつう考えられないことです。
 
楽山の、嘘と詭弁と、反キリストの言と、無反省・無責任を批判しています。あまりに言ってることが無茶苦茶で、霊が分かるっぽいと言っていた楽山が、ブログ記事とツイッターで、馬脚をあらわしてゆく成り行きです。
 
楽山に、他者の言を引用する資格はないと思います。理由は、真実を追求する資格のない病質的偽善者であり、楽山自身が、真実を裏切り続けているからです。
 
いちばんおかしいのは楽山であり、おかしいことをしてきたのであり、その楽山が、他者に向かって、おかしいなどと意見を言う資格はないということです。今までの2年間の楽山批判が根拠です。
 
 
(2021年03月14日)
 
 
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一休み。旧い古いポエム再録と、
精神科医の言葉を悪用する楽山批判の追加です。
この2つ、特に関係はないです。
あとで、楽山ツイッター批判を付け加えました。
 
 
  冬の終わり
 
吹雪の向こうに
耐えるように 朧(おぼろ)げに
眼差しを向けてくる
少女のような顔
幼くて泣きそうなのか 唇は
かすかに微笑んでいるようにも見えて
初恋の人でもなく
知っている人でもないのに
去りがたく 目を
そらすことができない
 
いつの想いに
吹かれて 顔
動かないのに確かに
遠ざかる方向を
こちらへ向けている
 
ここでは吹雪なんて滅多に
吹かないんだよ なのに
どこへ 君は
誰のために
 
雪に
風に
忍ぶ 面差(おもざ)し
思わず伸ばそうとした手の先に
最後のように寒気(かんき)
触れて 巻いて 不意に
鳥だろうか ふと
横切って いつの影も
裏切って ここでは
吹雪はないんだ
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
(1997年頃)
(2020年03月06日、再録+) 
 
 
冬の終わりに

冬の終わりに
 
 
(2021年03月13日、再録+)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
精神科YouTuber男性医療関係者メンタルドクターSidow脳
@dr_sidow
·3月8日
“メンタル弱い=ちょっとしたことで傷つきやすい”
と思われがちだけど少し違う。むしろ
「本来はちょっとしたことなのに大きく捉えてしまう」
が正しい。
だからメンタル弱い人が鍛える必要があるのは防御力ではなくて解釈力。
「実際は大したことじゃないんだ」
という認識への軌道修正が大事。
午前11:12 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
 
楽山が引用しそうなツイートです。
「本来はちょっとしたことなのに大きく捉えてしまう」
「実際は大したことじゃないんだ」
楽山は、極めて自分に都合のよい文言を、精神科医らしい人の口から、引用しています。
この精神科医らしい人のツイートは、鬱的な思考の歪みを改善するために書かれていると思います。
同ツイッターを見ると
固定されたツイート
精神科YouTuber男性医療関係者メンタルドクターSidow脳
@dr_sidow【うつ病の方への禁句・まとめ】
うつ病は心の免疫力が下がっている状態です。
自覚がなくうつ病の方を傷つけてしまわないように、十分注意してくださいねNGサインの男性
午後7:05 · 2019年2月8日·Twitter Web Client
 」
と書いてあります。楽山には、全く当てはまりません。
 
楽山は、自分を批判されている弱い人、悲劇の主人公とでも思っているのでしょうか。実際は、楽山は、自己中から、人を騙すような、狡猾な人であって、そこに問題点があり、批判される必然があることを、悪口言われた、くらいにしか思っていないのです。
 
楽山は、決して弱い人としての性質は持っていません。
 
自らの、自己愛性の病質をごまかすために、楽山自身の重大な問題を矮小化しています。それで、大したことじゃないことを大きく捉え過ぎなんだと、それこそ、解釈しているのです。
 
またしても、楽山という病質者が、自分についての問題意識がなく、責任を感じることがなく、反省することがない、という、異常な人格であることを、自分で、露呈しています。
 
このように、悪いことを、いつも、人のせいにしてきて、自分については、そんなに気にしなくてよかったんだ、と思い込みたいのです。自己正当化であり、合理化機制であり、詭弁であります。
 
恣意的な解釈を、人の口から載せてくることが、楽山を許してはいけない動機となってきたのですが、楽山が、いかに、改善の見込めない悪質な病者であるかが表れています。人格障害というのは、このように、どこまでも、言い逃れしかしないのでしょう。しかも、他者の口を悪用して。
 
ずっと、このような、自己中心の生き方・考え方をしてきたことが、うかがえるリツイートです。そうでなければ、このような内容のツイートを引用する必要はないからです。
 
楽山の思考は、自己愛性人格障害からの自己中な作為の思考です。楽山の思考は、全く鬱的な思考の歪みではありません。こういう嘘や芝居や詭弁や恣意的選択によって、楽山は、だましてくるということです。楽山の書くものには、しばしば、このようなやり方が目立ちます。
 
楽山は、罪悪感がないために、一般的な精神療法的文言さえも、自分の都合のよいように悪用して、気が咎めることがないということです。だまされることのないように注意してください。
 
 
(2021年03月13日)
 
 
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  受け取るべきこと2
 
 
 「キリストは
 いわれなき罪のために十字架につかれました。
 パリサイ人たちが憎いです。」
 
 「何を言っている。
 キリストを殺したのは私たちだ。
 私たちも同じだ。」
 
 
キリストの言動の中で
私たち人間が感動できるのは
キリストの愛に溢れた洞察力と共感力だと思います。
 
何度も言ってきたことですが
物や肉体の奇跡の話は
そういうことをなさる御方なのかと驚きこそすれ
今の時代
物や肉体の奇跡は滅多に起こらない
という現実があるのだから
それを信仰の中心にすることは間違っていると思います。
 
数々の奇跡のみに注目して
いつか起こる、いつか起こると
物や肉体の奇跡を祈り願い待ち望んで
それで人生が終わるのがキリスト者でしょうか。
 
魔法を願って思考停止することを神は人に求めるでしょうか。
神は人を考える存在として造られました。
 
奇跡頼みは、私たちの日常において
考えるべき様々の課題から目を逸らすことになりはしないか。
 
聖書を読むとき、物や肉体の奇跡に驚いても、
現代ではめったに起こっていないわけだから、
そういう奇跡を信じ込んで信仰と呼ぶことは、
共感として受け取ることのできる心の奇跡を疎かにする恐れがあります。
 
超常にこだわることは
日常を疎かにしてゆくでしょう。
 
この地上で
神は魔法によって人を救うのではありません。
神・キリストという全能なる超常は理解の対象ではなく
祈りと希望の拠り所であります。
 
私たち人間が学ぶべきは
神の意志と行為ではありません。
神が、いかにあるかでもありません。
それら神秘を人が知ることはありません。
 
私たち人間が学ぶべきは
神の民である私たちが、いかにあるべきかであります。
聖書を通して、人間を学ぶのであります。
信仰は、他でもなく、人間のためにあります。
そのために聖書は用意されています。
 
救いという心の奇跡は
救いの言葉を繰り返し唱えることではなく
人間として心の共感を大切にすることから与えられます。
 
 奇跡の話ばかりして讃美しまくり
 信仰者の弁えとしての神への恐れを全く無視して
 王様のようにふんぞり返っているが
 実は、自らの人格を信仰の名のもとに破壊して
 まるでケダモノのような卑しさに堕している者がいます。
 
 神の理屈を考えたつもりで
 自分の思想のうちに納まるような
 幼稚な偶像を神と呼んで否定したり肯定たりしながら
 自己の欲求不満を晴らそうとと企む者がいます。
 
 このブログ、そして私は、
 そういう偽善者たちの言動を資料として
 反面教師とするために批判をしています。
 
 信仰は純粋な心の営みです。
 しかし、宗教という名前には、
 誤解と曲解と偽物と偽者とカルトが混ざってきます。
 
 キリスト者が人口の1%、
 百万人と言われていますが、そんなにいるでしょうか。
 その十分の一いたら、奇跡です。
 いや、一人でもいたら、奇跡です。
 私も、真と偽、行ったり来たりしています。
 
物や肉体の奇跡は
人間にとって
わけのわからないことです。
即ち、真似のできないことであり
即ち、心掛けようのないことであり
誰でも与えられる恵みとして
期待するほうが無理ということであります。
日々の務めとして努力しようもないものです。
 
また、情欲の聖句や、敵を愛せよ、など
守れもせぬ教えを
できるだけで守っている気分になっていると
旧約が伝える神と人の絶対的な違いや
新約が伝える神格が人格に与えるものを
疎かにしかねないと危惧しています。
 
冒頭に書いたように
私たちが受け取って感動し共感できるのは
魂の奇跡または心の奇跡と呼んでいるもの
即ち、救われた人々との交流において表されたところの
キリストの愛と洞察と共感であります。
私たちが受け取れるもので
私たちに分かるのは
それ以外にはないと言ってよいと思います。
 
キリストの愛と洞察と共感を聖書から受け取れば
私たちの中で確かに生きてくる賜物となり力となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡の成り行きは
御心のままにしかならないものとして
私たちも御心のままにと祈るほかはありません。
 
私たちは自由意志を与えられているのだから
生き方は一人一人違う場面を持っています。
 
教えや聖句について
受け取ったものを固定するべきではないと思います。
 
言葉は
どの国の人にとっても
心と意志の伝達のための暗号です。
言葉を固定して暗唱できるようにしても
心は固定できません。
 
 (創世記、口語訳)1:3
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 (創世記1:3、旧約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)1:1
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 (ヨハネ書1:1、新約聖書)
 
絶対なのは、神の言葉です。
神と共にある言葉です。
 
人と共にある言葉はしばしば罪を犯します。
人の言葉が絶対となることはありません。
人の言葉は学ぶために伝えるために使われるのです。
 
私たちは成長することで
堕落に対抗することが必要であり
それが可能になるためには
聖書についても、読んだとき聞いたとき
分かったつもりになることを避けて
正直な心で疑問は疑問として保留にしておくべきです。
地上に生きている間は保留にしておくべきです。
新しい理解と広がりの可能性を捨てるべきではないと思います。
 
私たちは
神の言葉を即座に理解するほど優秀では有りません。
さらに私たちは
理解したつもりのことを不変に保持することは出来ません。
心は、揺らぎ、移り変わるからであります。
 
神には起こらない不安定が起こるのが人間であり
"風を追うようなもの" とは、私たちのことであり
その証拠は、私たちの、死すべき定めにおいて明らかであります。
 
私たちの成長は、
成就しても限りあるけれども
それさえも
神の前に、飾ったり、偽ったりする者には
決して達成されることがありません。
 
日々、精いっぱい正直に神に告白し祈ることで
はじめて、ようやく、達成に向かう努力となるでしょう。
 
 
私の言うことを取るも取らぬも読む人の自由です。
しかし、取る、あるいは、取らない、ということを、
今、決めてしまうことも
不完全で罪深い私たち信仰者の成長のあり方ではないと思います。
心に残るなら、時に、考えてほしいと思います。
 
信仰は、思い込みでも信じ込みでもなく、共感であります。
 
悪口に、悪口だけを返すことのないように
侮辱されて、侮辱だけを返すことのないように
憎まれて、憎しみだけに固まることのないように
自分の快楽原則のみで他者を無視するようにならないために
迫害されて、お返しに、害することのないように
自分を守るために、神の名によって、硬く自閉することのないように
悪しき刺激を受けても、心がいつまでも乱れていることのないように
攻撃されても、神の復讐だけを願う生き方にならないように
被害的念慮と他罰的念慮に凝り固まることのないように
神の裁きを求めることが、人の人への復讐祈願にならないように
神を信じることが、他者を呪うことではなく、解放であるように
 
祈っています。拝。
 
 
(私個人の祈りの例)
 
どうか母をお守りください。
どうか兄をお守りください。
亡き父と親族の魂が安らかでありますように。
私が愛する人々と私が思っている人々をどうか守り導いてください。
 
年を重ねるごとに心身の衰えが目立ってきました。
御心ならば、私の痛みと苦しみを取り去ってください。
わが罪をお赦しください。
この罪人をお赦しください。
どうか離れないでください。
 
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン。
 
 
(2020年03月10日)
 
御心、御名、御前の、御は「み」と読んでいます。
 
 
固定しないこと

自由そして解放とは
 
 
(2021年03月12日、再録+)
 
 
  楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
「宗教法人に課税を」とは、
前は、それもありかも…と思う程度だったけど、
いろいろな意見を読むうちに、
ぜひともそうすべき…という考えに傾いてきております。
 
理由も根拠も書かずに書いています。カルトも伝統宗教も区別せずに、よほど宗教が憎いのでしょう。しかし、その楽山が、嘘吐き・無反省・無責任・無神経では、説得力はゼロです。
 
楽山の感情的な短絡だろうと思います。実行するのに、人も要るし、法制度や条件も整えないといけないし、確認し区別する手間もかかるし、山奥の小さいお寺や、町はずれの小さな教会とか、貧しい信徒に負担がかかるとか、いろいろな問題、・・またしても、楽山は、人についての心遣いの出来ない自己中心の有り様を表しています。
 
自分の欠点を見ない、人の弱みを考えない、共感も同情も感じない、思慮が浅い、何とも思わないで、放言すると気持ちがいい、・・楽山が、自分はそういう人だと自ら表す結果になっています。
 
そういえば・・別のツイッターのプロフィールですが、
 
raku
@rakusyo34
ただの20歳の学生です。Z世代。漫画好き。両親不仲、離婚、いじめ、借金、宗教依存、引きこもり、自分の難病、重度障がい者、HSP、元幸福の科学2世、脱退者。宗教を信じても幸せになれません。#幸福の科学 #不幸の科学 #アンチHS
2020年4月からTwitterを利用しています
 
この経歴も本当かどうか分かりませんが、一応、楽山の宗教憎し・反宗教に、符合するわけです。
 
HNだけの匿名で投稿できて、大方、責任も問いにくい短い書き捨てで、どこまで本当で、どこまで嘘と吐いているのか分からないところが、軽い気持ちや趣味とかで書くだけでなく、さらに、だます目的の人や、嘘吐きや、誹謗中傷したい人や、本音隠しの遊びの人が、ネットに蔓延るスペースになっているのでしょう。
 
問題は、書く内容や書き方次第では、及ぼす結果が、自殺であるとか、詐欺とか、カルト宣伝とか、ただの趣味や気休めでは済まない場合があるということです。
 
 
(2021年03月12日)
 
 
東北大震災の犠牲者:15899人
震災遺児:1698人 ・・・改めて驚く。親戚に?施設?
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
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