ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年05月

 
  楽山の見栄
 
 ヨブ記についてのメモ(『聖なるもの』オットー著)
 2021年05月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、何も弁明できないまま、また執拗に書いてきます。神も信仰も、楽山の机上・紙上の勝手な思い込みで、ボンヤリ言語をもって、書き続ける楽山を信用しないでください。言論において、無反省・無責任は致命的で、自己愛者(NPD)の単方向の勝手な言い分は、人格を破壊するだけです。
 
批判されて、反論も弁明も出来ないことで、時々、怒りと恨みだけが、半ば発作的に湧きあがり、衝動的に書くことで、憂さを晴らしたいのかもしれませんが、約2年分の、妄想的な単方向の記事、自己正当化のためだけの引用、など、既に、悪と偽善の証拠が山積みです。
 
あがけば、あがくほど、深みにはまる底なし沼に、自ら跳び込んで、泳いでいるつもりが、ブクブクと沈みながら、なお、ゴタクを並べないではおれない、という症状でしょう。恥を知らないということの、深く、止むことのない報いが、無限の堕落として続いています。
 
人格の破綻した楽山は、また、いつものように、書き始めに著者の説明をしないという怠慢が表れています。読者のことをまるで考えないで、書くことが出来ること、それが、既に、節操を失った人格障害の、罪悪感と羞恥心の欠如した症状なのです。
 
オットーだけで、数十の候補が出てきます。「オットー」「聖なるもの」で検索しました。
 
(ネットより)
ルドルフ・オットー(Rudolf Otto, 1869年9月25日 - 1937年3月6日)は、ドイツの哲学者、宗教哲学者。マールブルク大学教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC
 
*つまみ読み
『聖なるもの』を読みたいと思ったのだが、自分には難しすぎたので通読はあきらめてつまみ読みをしていたら、ヨブ記について書いてあったのでメモしておきたい。
 
楽山は、通読が難しいと言いながら、つまみ読みで、公開できるような何かを書けると思うのでしょうか。公開するということに、恥ずかしさを感じないのでしょうか。あるいは、開き直って、読者をバカにしているのでしょうか。野卑さが、増しているようです。
 
今までのことから、楽山が、なぜ、つまみ読みでもして記事を書くかといえば、理解も出来ないまま、楽山に都合のよい文言だけをさがして、自分の恣意で引用して、自己正当化に利用したいからです。いつまでも、いつまでも、神と、人と、著者を、舐め続ける楽山です。
 
*ヨブの友人ら
まず著者は、ヨブの友人らに対する態度を正当とし、友人らの意見を批判している。これは内村鑑三も同じ見方をしていたのだった(「ヨブ記講演」)。
 
前と同じです。教条的で説得力のなかった、ヨブの友人たちです。ヨブが正当だったということではありません。聖書を理解していないことが表れ続けてきた楽山が、またしても、言い張っています。
 
ヨブはエロヒムに反抗して友人らと議論した。友人たちに対するかれの態度はあきらかに正当である。かれらはヨブに対して黙せざるをえない。神を「正当化」しようとするかれらの試みは失敗に帰する。そこでエロヒム自身がおのれの義を弁明しようとして姿を現す。 
(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.169)
 」
これについて自分はどう考えるかといえば、恥ずかしながらヨブ記をはじめて読んだときは、友人らの意見は正論であり、ヨブは間違っていると思ったのだった。でもその後は著者のような読み方に理があると合点が行くようになった次第である。
 
エロヒムは神のことです。議論することは、神への反抗ではありません。その議論が、噛み合わなかったのは、双方に責任があるでしょう。ヨブは、悔い改めました。友人たちはどうでしょう。楽山は、理解も反省もしないで、また、「合点が行く」などと軽口に及んでいます。
 
*神義論
著者は、ヨブ記の38章を神義論として勝れたものとしている。
この神義論はヨブの友人たちのそれより勝れたものであり、ヨブ自身に非を認めさせうるほどのもの、認めさせうるばかりか、同時に、懐疑に悩まされていたかれの魂を、そのもっとも深い部分から落ち着かせることができるほどのものである。
(同上、p.170)
 」
正直な感想をいえば、自分はこの部分についてはよくわからない。ただ悩み苦しみ、心は荒れ乱れているときであっても、神と向き合えたならその瞬間に平安を得るだろうとは思う。
 
また、そのヨブ記38章を引用しない楽山です。メモは、自分のためにするもの。そして、楽山は、聖書を理解していない。公開に足る理由は何もない文章が続きます。自己愛性は、ここまで人間を愚かにするという例です。楽山は、以前からですが、何も、分かち合う気はないということです。
 
38章から、神が、顕れて、ヨブを叱るところです。全部引用はしません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
38:1この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 (ヨブ記38:1-2、旧約聖書)
 
まさに、楽山のことを言っているようにさえ思えます。楽山は、聖書を理解していませんが、聖書を読んでもいないのでしょう。楽山の言は、神にも、人にも、通用しません。
 
「神と向き合えたならその瞬間に平安を得るだろう」・・楽山の無理解が表れています。神と向き合う、ということの恐ろしさを、楽山は知りません。ヨブは知っていました。私たちに人間は、神の前で、一瞬で燃え尽きても不思議はないのです。そういう神を、特に旧約聖書は伝えています。
 
いささか話は飛ぶが、臨死体験談では光りに包まれた存在との出会いによって心癒される話があるけれども、おそらく神との出会いはそのようなものだろう。
 
ここで、楽山の、信仰ではなく、超常的な、臨死体験を持ってくるところが、楽山の体質を表しているのですが、楽山は、まともなつもりでいます。楽山は、光に包まれたいのでしょうか。実際は、闇を徘徊しているだけの楽山です。いいかげん自己愛からの愚昧を表すのは止めてほしいです。
 
*目的論、因果律
著者は、「~のために」という考え方をあまり歓迎してはいないらしい。
エロヒムの行為の目的は、信仰者を試し浄めるためだとか、各人が苦悩を抱えつつ適応していかねばならないことがら一切のためだとかいったことである。合理的な概念から出発すれば、人はこの対話がそんな台詞で締めくくられることを望んでやまない。
(同上、p.171)
 」
自分はいまだに「~のために…」「~だから…」という思考から離れきれてはいないので、上のような対話を望んでしまうクチである。38章に心から感動できないのは多分このためだろう。
 
「対話を望んでしまうクチ」・・正直さを全く持っていない楽山は、神と対話したいのだそうです。楽山は、聖書を読んでも理解してもいないのだから、その怠慢をもって、裁きの主である神と、早く対話して、その罪悪と偽善を裁かれ、すべての人が、それ知るようになってほしいと思います。
 
*超越者
これは難しい文章だが、著者の宗教観と38章の読み方がおぼろげながらも分かってくるような気がしないでもない…。
結局のところ、この章は合理的概念で論じ尽くせることがらとは完全に異なるものに依拠している。それはすなわり、あらゆる概念を越え、だから目的概念も越えたところにある不可思議さそのもの、純粋に非合理なかたちをとっている神秘、しかもミルムでありかつ逆説的なものとしての神秘である。
(同上、p.171)
 」
はなから理を放棄するのは論外ではあるが、理があるならば理によらないものも無くもなかろうし、その可能性をも否定するのは理に反するということにもなろうとは思う。
 
「分かってくるような気がしないでもない…。」・・極めて悪質なボンヤリ言語です。楽山は、何も分かっていません。笑いながら書いているのでしょうか。児戯であり、笑止であります。ここに至っても、まともだという見栄だけは張って来るから、おぞましい。
 
「理があるならば理によらないものも無くもなかろう」・・いい加減で、この文脈の理路として成り立ちません。理があるならば、理によらない何があるか、邪悪か、矛盾か、楽山は正気か。こういう人は、結局、死ぬまで、何を言うか、何を言うか、と繰り返すような宿命なのでしょう。
 
「可能性をも否定するのは理に反するということにもなろうとは思う」・・ボンヤリ言語で、かつ、根拠が無く、思い付きで辻褄合わせをしようとして、議論の要素を、全く見失っている楽山です。今に始まったことではないが、二度と、キリスト教と信仰の言論に、現れてほしくない人物です。
 
 
焼ききれる虚言

焼ききれる虚言
 
 
(2021年05月31日)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
護教論のために不都合な信者のことは、真っ当な信仰者でないと切り捨てるとは不人情すぎる。
自殺、精神崩壊などは、信者アンチの立場に関係なく話すべき大問題だろうに。
午前9:34 · 2021年5月30日·Twitter Web App
 
自己愛のために、人を人とも思わず、無視し、切り捨ててきた楽山には、何も言う資格などありません。無反省に無神経に無責任に、他者の精神を崩壊させるようなことを、ずっとしてきたくせに、正義の味方を気取っても無駄なのです。楽山の被害者が、自殺しないように、楽山は、黙るべきです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
無表情で、どんよりしてますね。
深刻な悩みを抱えてそう。
午前7:08 · 2021年5月30日·Twitter Web App
 
中学時代のORだそうです。「無表情で、どんより」は、楽山自身を連想させます。しかし、平気で、人を振り回し、疲労させ、その精神と人格を破壊してくる楽山は、深刻な悩みなど、全く持っていないのでしょう。そういう高等感情を、自己愛性人格障害者は持ち得ないからです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福探検隊氏の提示する論点は、お金の話、霊言の真偽、三帰誓願の意味、教えと実態の乖離、過去世変更など、どれも当然の感想、問いかけなのだけど、これにきちんと回答できる信者はほぼ見当たらないようだ。
HSは伝道のための基本的な問答集さえ作成してないんだな。伝道する気ゼロだね 顔文字(にやにやした顔)
午後8:24 · 2021年5月30日·Twitter Web App
 
楽山の提示する論点はありません。あるのは、宗教の先入観でしかないホラーと霊の話です。他者のことには、いろいろ言いますが、自分の考えが、まともでなく、まとまってもいないのは、ツイッターもブログも同じです。何より、一度も、きちんと回答したことがありません。
 
宗教を語る上での基本的な理路が楽山には通用しません。宗教も批判も、体裁だけのガセに過ぎず、真面目に論ずる気はゼロであります。誰にも通じないツイートを書いて、気持ち悪い笑いの顔文字で、あざ笑って、独りだけで満悦しているのです。精神の貧困を極めている楽山です。
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
(90年代か)
 
 
 
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  この地上に・・2 (修正加筆、再録)
 
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
 
信仰者にとって
本当のふるさとは神の国
ということなら
それは信仰者として
真実でもあるのだが
 
一方で
逃避なのかもしれない
 
 
人というのは生涯
演技し続ける動物のようだ
恥ずかしくないように
少しでもきれいに見えるように
嫌われないように?
  
そういう演技は正当で
普通なのかもしれないが
過ぎれば
「世間体」大明神とか
「体裁」大権現とかの崇拝にもなりうる
 
自分というものをしっかり持って
という「しっかり」の基準は分かりにくい
自分を信じて
という「信じて」は
責任の自覚か
努力と実績に裏打ちされた自惚れ
つまり自信だろうか
 
 
世間体も体裁も
人間関係も幸福も捨てて
真理や真実を追究して
心を病んで
傍目には
自滅的な人生を歩んだ幾人かの
哲学者、数学者、文学者、詩人などの
名を思い起こすのだが
 
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
 
そういう質を持ってしまった者が
反社会的ではなくても
非社会的になって自閉して
ただ一度だけ
逃避が許される最後の時を
待っている人であるなら
 
幾人かの名と違って
自分は志よりも病が先なのか
いつまで社会人でありえたのか
と風景のように遠い人々を
 
遠い社会と世界を
ぼんやりとした意識の向こうに眺めている
 
 
思うところに
以上のように思うところに
ふるさとの不在を思うだけのところに
 
いちばん知っているつもりで
本当は、いちばん知らない自分は
むしろ、いて欲しくないのかもしれないとき
 
避け所は、神の前、
秘密も嘘も飾りもない祈りの時である
 
 
(2011年04月30日)
(2019年05月08日、修正)
 
 
※ 雑感メモ:
 
論理は、心の面倒を見ない。
だから、右も左も、イデオロギーは、悲劇をもたらしてきた。
 
キリスト教も、思想と化してしまえば、同様だろう。
つまり、教条は、心の面倒を見ない。
 
 
※ 
 
私は、神の前で精いっぱい正直であることが大事と書いてきました。
  ↓
神に向かって、即ち、祈りにおいてだけは、精いっぱい正直であること、という意味です。そこで、善悪や正邪などの、人が間違えて犯してしまう罪の赦しを与えられるだろう、ということです。
 
また、私は、人は神の前で生きていると書いてきました。
  ↓
神の前で生きているとは、神は全能者として全てを見ておられる、という意味です。
 
前のは、合わせると、人は、いつも正直に生きなければならない、という道徳の話になってしまいます。こういう道徳が絶対の信仰なら、私は耐えられません。
 
改めて言うと、神の前で精いっぱい正直、というのは、神に対する祈りにおいて、故意に嘘は吐かない努力をするべきだということです。嘘を吐いたり、飾ったりしたときには、気づいたときに、改めて祈るということです。
 
神の前で生きている、というのは、神は総てを見ておられ既にご存知である、という神の全知全能のことを言っています。
 
この二つを結び付けるのは、神は、総てをご存知の上で、人が正直な祈りで告白してくるのを待っておられるということです。神の、この待っておられる姿勢は、人の一生のあいだ、変わることがなく、それが、神の寛容なる愛だと言いたいのです。
 
理路の表現が、誤解を招いたかもしれません。すみません。
 
※ 
 
神に対して滅多なことは言えないと、讃美言葉で飾ったり、自己正当化して反省もせず善人のふりをして、罪悪を隠したり、さらに嘘を吐いたりすれば、既に、それらすべては、神によって、見抜かれているということです。ゆえに、改めて、正直に祈ることだけが、悔い改めになるのです。
 
 
この地上に2

この地上に(2)
 
 
(2020年05月27日、修正加筆再録)
(2021年05月30日、加筆修正して再録)
 
 
 
  眠りの音信
 
別れて久しく
音信も途絶えた人が
見知らぬ地にて永眠するとき
揮発のアンダーグラウンドに
泡沫の
嘗ての縁
は胸に巣くう鬼畜を眠らせ
血腥い流れを冷水に
冷水を雫に
そして雫が形を失うとき
二つの問いを残すのです
「俺はそんなに悪かったか」
「水さえも永遠ではない」
契りもなくて罪に塗れ
柵を越えるよりも先に
冷たく遠く離れ去って
眠り続ける土塊深く
失われゆく形骸は
永遠の水を求めて
地上からの吸引に逆らうでしょうか
 
(90年代か)
 
泡沫(うたかた)
嘗(かつ)て
縁(えにし)
血腥(ちなまぐさ)い
雫(しずく)
契(ちぎ)り
塗(まみ)れ
柵(しがらみ)
土塊(つちくれ)
 
 
 
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  楽山という汚染
 
 神を批判してはいけないのか?
 2014年12月06日
 楽山日記(LD)を改めて批判
 
 
「楽山日記」で検索したところ、上の記事が見つかりました。私が楽山を批判する前の記事だと思います。恐らく、ずっと前から、キリスト教を侮辱してきたのでしょう。そうしながら、クリスチャン芝居もしてきたのです。見逃してはならないところがあるので、書いておきます。
 
*神を批判してはいけないのか?
宗教を信じている人の中には、「神を批判してはいけない!」という人がいる。本当にそうだろうか。この点について、自分の思うところを書いてみたい。
 
批判は自由です。しかし、楽山は批判をしたことはありません。楽山は、こちらの言い分を全く受け取ることなく、勝手に自分で定義した神に文句を言っているだけなので、これは、批判ではなく、嫌がらせか悪口です。そういうことを書く者には、批判は、成り立ちようがないのです。
 
*あるクリスチャンの言葉
このテーマについて考えるとき、いつも思い出すのは、あるクリスチャンの言葉だ。彼(クリスチャン)は、キリスト教批判に対して、次のような趣旨の話をしていた。
「批判者だった人が、熱心な信仰者に変わることは珍しくありません。批判というのは、見方を変えれば、それだけ関心があるということなのでしょう。これは無関心よりはずっといいことです」
これはなかなか含蓄ある言葉だと思う。
 
楽山が批判者であれば、信仰者に変わる可能性はあるのでしょう。しかし、楽山は、上に述べたように、きわめて卑怯な誹謗中傷をしてきて、かつ、人の言うことを受け取りません。2014年のこの記事に書いた "含蓄" ?、楽山は、全く生かせておらず、全然、違うスタンスなのです。
 
*批判してはいけない神とは?
「神を批判してはいけない」というときの神とは、どのような神のことだろうか? それには次の三種があるように思う。
A.宗教教義(神の教え?)
B.教祖(生き神様)
C.宗教教義で定められているわけでもなく、教祖でもない神(各人が持っている神のイメージ)
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。ただし、批判しても、神は反論はしないでしょう。つまり、批判することに、あまり意味はないと言うことです。批判を含めた議論は有意義ですが、楽山は、反省と学習をしないで、いつまでも同じ否定を向けてくるので、意味がありません。
 
また、批判の節操を守らない者に、批判する資格はないと言っています。つまり、楽山は、人間として疑問を呈し批判するのではなく、全能者を上回る全能の評論家気取りとして、訂正不能の自我を持っています。こういう自我は、信仰に邪魔な我執になるだけで、何の糧にもならないのです。
 
また、批判されたときには、当然、批判された側は、批判返し、すなわち、反論または弁明の権利を有し、責任を負います。神を信じる者からの批判は、当然、返ってくるが、楽山は、自分に向けられた批判に対して、同じ悪口を繰り返すだけで、全く返答の出来ない人です。
 
*Aについて
宗教教義というものは、人による神解釈ではあっても、神そのものではないだろう。神の意思を、人に分かる形に翻訳、解釈したものが宗教教義なのではないか。
そうであれば、「神(宗教教義)を批判してはいけない」というのは、ようするに「自分の信じる神解釈を批判してはいけない」ということにすぎないように思える。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。自分の神解釈における神に文句を言っているだけですから、話になりません。そして、何といっても、楽山は、私の批判に対して、一度も、真っ当な批判も反論も弁明も返したことがありません。
 
全く、ネズミのように、したいようにして、言いたいように言って、あとは、無視してきます。つまり、こそこそと逃げるだけです。批判対象が、人でも、神でも、楽山だけは、許せない男なのです。
 
*Bについて
これも上と同じだろう。「神(教祖)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じる教祖を批判してはいけない」といっているだけだろう。
*Cについて
これも上と同じ。「神(自分のイメージする神)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じている神のイメージを批判してはいけない」ということだろう。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。楽山は、自身の、極めて狭小で、成長のない先入観の視野の中にだけあるものをキリスト教と呼び、神と呼んでいることが明らかになっています。つまり、そこで、字面を追っただけの悪口に過ぎないのです。
 
そういう批判は、批判として成り立たず、悪口に過ぎません。それが、ずっと、続いています。楽山は、キリスト教もキリスト信仰も全く理解しておらず、幼稚すぎるから、批判になっていない、という判断です。そういう相手に対しては、その相手の欠陥を、指摘し続けるしかありません。
 
*信仰を傷つけないでほしい
以上をまとめると、「神を批判してはいけない」というのは、ようするに「私の信じる神(教義、教祖等)を批判してはいけない」ということのようである。もっと直截的な言い方をすれば、「自分の信仰を傷つけないでほしい」とも、「俺の信じる神に文句いうな!」とも言えるかもしれない。
 
まさしく、楽山こそ、俺の言うことに文句言うな!、という動機から、今まで、一見、丁寧に見せかけるところの「と言えなくもない」「否定できない」前には「かなあ」「というか」といったボンヤリ言語による、誘導、印象操作、刷り込み、などと言う詭弁を弄してきたのです。
 
楽山は、話が煮詰まれば煮詰まるほど、相手にとって、こういう奴だけは相手したくない、という人物であり、あらゆる正常な理路を、詭弁によって破壊しようとするサディストです。
 
*他人の信仰に対する配慮
他人の信仰に配慮することは、とても大切なことではある。
ただ人はそれぞれ異なる信仰を持っているものだ。そのために自分の信仰に正直になることが、他人の信仰を批判することに通じることもありえる。
この場合は、どうすればよいか。自分の信仰を率直に表明してもいいのか。それとも他人の信仰を傷つけないために、自分の信仰を抑えるべきか。
これについては、万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ。
 
全くの勘違いです。自分の信仰を語るのに、正直でないことは、偽りを言うことですから、してはならないという当たり前のことです。楽山の信仰は、自らへの我執でしかないので、そういう欲望相手に、話が通じることはありません。
 
せいぜい、感情的な表現をできるだけ控えることが出来るかどうかでしょう。根拠があれば、それを理解しない相手に対して、厳しくもなるわけです。楽山は、控えるのではなく、抑えるでもなく、考えていないのです。
 
字面だけを追っているから、正直であることを、利便性や社交と同じように扱って、上のような、抑えるべきか、難しい、などという、的外れの理路になる楽山です。「人はそれぞれ異なる信仰」という言い方は、楽山が逃げるときの、詭弁の常套句で、最後っ屁みたいなものです。
 
楽山の、こういう醜態は、自己愛性人格障害のために、いかなる問題についても、"分からないと言えない" ことの宿命でしょう。だから、楽山が、言論モドキを続ける限り、自己正当化の醜さとして、表れてくるでしょう。
 
楽山は、困ったときには、「人それぞれ」を出してきます。それによって、個人によって違ってくることと、一般的なこととを、混同して、「万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ」などと言って、一般的なことまで、即ち、神が存在する可能性まで否定してくるのです。
 
*動機
次に、「神を批判してはいけない」という言葉を発する動機を考えてみると、次の三つがありそうだ。
1.天罰をおそれて
2.神の使いをおそれて
3.反作用をおそれて
*1について
神を批判する人に天罰がくだることを心配して、「神を批判してはいけない」というのは親切なことではある。
ただこれは、「神は慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力は持たないだろう。
 
神は、愛の神であると同時に、戒め懲らしめる神でもあることが、聖書には書かれています。批判と悪口を混同している楽山は「神を批判してはいけない」という書き方をしていますが、祈りにおいては正直であることが必要であります。楽山の言い分は、一面的~幼稚です。
 
楽山は、慈悲深い神も、天罰を下す神も、場合分けして語れると思っているようです。します。楽山は、客観的な立場のつもりでも、信じたことなど一度もなく、ゆえに、何も語れないのに、語ろうとする自己顕示欲という動機を表す結果になっています。
 
つまり、楽山は、生きるための切実な欲求から神を語るのではなく、あくまで、趣味か遊びごととして、机と紙の上で、面白がっているだけであります。神ではなく、"紙" を語っているだけなのです。
 
楽山は、先ず神を決めつけるのが信仰?という見なしで決めつけて、そこにおいてのみ、文句を言ってきます。基本的に逆であり、キリスト信仰において、いちばん意味のない言論を、さも大事そうに、得意げに語る高慢だけの、目立ちたがり屋に過ぎません。
 
祈りは、批判ではなく、ましてや、悪口でもなく、疑っているなら、疑っていると、疑問を訴えることは、正直な気持ちの祈りとしてありうることです。キリスト者は、神と、社交のお友達になるわけではないからです。
 
ただ、その時、信仰者なら、神を恐れて、ふるえることはあるでしょう。それは反省を促すかもしれません。少なくとも、信仰は信じることで完全になることではないので、知ったかぶりで上から批評を語る楽山の手に負えるものではないということです。
 
*2について
神は天罰をくださなくても、その下にいるものたちが罰をあてることを心配して、「神を批判してはいけない」というのも親切なことだ。
ただこれも、「神はもちろん、高級霊も慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力を持たないだろう。
また、このように神や高級霊はどこまでも慈悲深い存在だと信じている人からすれば、「天罰」云々と言う人たちは、「慈悲深い神や高級霊と、祟り神や地獄霊との違いが解らない人たちだ」と見えるかもしれない。
 
このような先入観と偏見での場合分けは、信仰にとって、何の意味もなく、何の役にも立ちません。何もかも一面的です。その表面的な見方で、神の種類とか人間の種類とかを気安く分けてしまうから、実感など含まれるわけもなく、誰と語らうにも、真っ当な話にはなりません。
 
運転免許がなく、運転したこともない人が、運転マナーと車の良し悪しを語るようなものです。さらに、喩えるならば、山の向こうを知らない人が、山の向こうの様子を、想像と空想で、得々と語るようなものです。深海も宇宙も知らない人が、知りもしない深さと広さを語るようなものです。
 
楽山は、いったい、何を言っているのでしょう。的を外し過ぎるというより、的そのものがない楽山の言であります。こういう人と、まともに付き合うことは出来ませんし、それで神を否定したつもりなのだから、人それぞれで済む話ではないのです。
 
*3について
神や高級霊が天罰を下さなくても、神や高級霊を悪しざまにいえば心の法則によって反作用があることを心配して、「神を批判してはいけない」という人もいるかもしれない。
これは一理あるように思えるけれども、批判者の心を動かすのは難しそうである。批判者は神を批判しているつもりはなく、「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっているだけだ」という考えを持っているだろうから。
 
そういう心の法則を信仰に通用させてしまうのも幼稚だと思います。さらに、心の無い楽山は、最低限の心の法則すら知っているとは思えません。
 
楽山は「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっている」のではなく、神を全く知らないのに、否定しているのです。楽山は、勉強が大嫌いで、聖書も読まず、幼稚な先入観だけで、都合のよい文言を漁って書いてきただけなのでしょう。
 
私は、批判ではないものを批判ではないと言い、理解ではないものを理解ではないと言い、おかしい楽山の頭と心を、文章に表れてきた分について、おかしいと言っているだけです。
 
楽山の語る神が、神ではないというのは、聖書の伝えていることを楽山が何も受け取っていないからです。楽山が、自己愛によって、人間らしい心を捨ててしまったために、受け取るだけの器を持っていないということです。
 
*もう一つの動機
以上、利他的動機について書いてみたけれども、もしかすると利己的動機についても考えられるかもしれない。たとえば、「神を批判してはいけない」という言葉の裏には、神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心がある可能性も考えられる。
 
楽山の、自分は分かるんだという強迫性だと思います。邪推とも言えるでしょう。つついてもしょうのないところを、楽山は、執拗に、つついているだけです。心ない者が言葉の字面だけにこだわると、いかに本質から逸れてしまうかという例でしょう。
 
「神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心」ではなく、楽山は、神の権威より、自分の権威が上という立場から言っているわけです。神さえも見下して文句を言う、それが、病質的な自己愛なのです。
 
ゆえに、楽山は、人も、神も、机上の紙上の軽い概念に過ず、そこに向かって言っていることを、まともに見せかけるインチキなのです。しかも、無反省、無責任、無神経で、鈍麻しているから、恐れることがありません。どちらも、楽山の中では、紙だからです。
 
「信仰を守る」といえば聞こえはいいが、実際は「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドにしがみついているにすぎないこともあるものだ。また「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されているだけのこともある。
このようにプライドや恐怖心から、「神を批判してはいけない」と言うこともあるかもしれない。
 
「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドは、まさに、楽山の自我の空想=固定観念について言えることであります。楽山は、恐れも知らず、自尊だけから、神を批判しているつもりだけの人です。丁寧語にだまされないでください。
 
キリスト信仰においては、悔い改めと祈りが生活になります。楽山は、自己愛のプライドにしがみつくことが信仰とでも思っているのでしょうか。楽山という、勘違いして、恥ずかしいだけの文章を、何度も書いてくる、話にならない愚か者がいるという、それだけのことです。
 
楽山の、誰も楽山自身を批判してはいけない、という前提が、無視と無反応と無責任の実績によって、露骨に表れています。つまり、楽山は、楽山の自我の権威への偶像崇拝者であり自分信仰者なのです。
 
話が通じないのは、理解力がないからです。理解力がないのは、学習していないからです。学習していないのは、自己愛の慢心からです。・・という循環の中にいるのが、楽山です。
 
楽山は、観念の奴隷だと思います。だから、字面にしがみついているのです。"「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されている" のは、信仰ではないのです。つまり、楽山の思想は、間違った信仰を論って、キリスト教とキリスト信仰を貶めたいだけの強迫観念でしょう。
 
自我を絶対としている楽山のような自己愛性人格障害者は、決して、自分以外の全能者を認めることはなく、感受することも、その存在に気づくことも、可能性を考えることも、出来ないのです。楽山が、神について言っているすべてのことは、迷惑な的外れの虚言にしかなりません。
 
*動機の見分け方
「神を批判してはいけない」という発言の根底に、思いやりがあるか、利己心があるかは、その発言者の態度を見ればおおよその見当はつきそうではある。
 
楽山が、記事を書く根底には、心の利己心、つまり、自己愛と自己中心しかないということは、思いやりがない、利己心だけ、という筆致に表れており、上から見下ろす視線で書いている限り、神も信仰も理解することはないのです。
 
学者気取りの柔和そうな書き方は、ちょろまかしに過ぎません。少し、じっくり読めば、誰でも書けるような先入観だけで、独創性がどこにもありません。それを、ごまかすために、多数意見の代表みたいな、柔和を装うという芝居を続けてきたのでしょう。
 
ただ人というものは、心中が愛だけの人も、利己心だけの人もいないだろうし、激怒の裏に深い愛情があったり、穏やかさの下に冷酷さがあったりすることもあり、ややこしいところもあるから注意が必要だけど。
 
愛、利己心、激怒、愛情、穏やかさ、冷酷さ、などということについて書いた後で、ややこしい、注意が必要と、書くだけで済ませられるのが、動機が皆無の楽山の自己愛と自己中の自己満足です。誰よりも自分に対して不注意で、柔和を気取る態度からは、生きる糧(かて)は生まれません。
 
*神を批判することは可能なのか?
ちなみに私は、神とは超越した存在であると思っている。人には人知を超えた神を認識することはできず、したがって神を賛美することも、批判することもできないのだろうと。
 
またまた、超越という難しい言葉を、存在に付けて、言い得たつもりの楽山です。人は神を賛美することが出来ないのでしょうか、祈り願うことは出来ないのでしょうか、否です。人知を超えた計り知れない神だからこそ、讃美も願いも含めて、祈る以外にないわけです。
 
楽山は全く逆のことを言っています。どこまで外して、人を惑わせるつもりなのでしょう。何も理解できない者が、言葉だけは執拗、・・これは、何にも増して、誰にとっても、害毒となります。
 
おそらく、人にできるのは、真実の神についてでなく、自分または他人がこしらえた神像についてああだ、こうだと論評することくらいなのだろう。
 
驚きました。まさに、楽山がしていることです。
 
人が、神についてできるのは、聖書の話と、信仰者の考え方と、人が信仰によってどう変わったか、祈ること、願うこと、という、あくまで人の側の話です。
 
どうか、楽山のような、偽の神の捏造話を、それが肯定でも否定でも、真に受けることのないように、また、感情を乱されることのないように、決して、楽山に近づかないでください。
 
*信仰と自由
ところで、「神を批判してはいけない」という人たちを見ていて思ったのだが、人はどのような神を信じるかによって、自由が広がったり、狭まったりするようである。
 
楽山は、神を知らないのに語るという習癖をもって、全く自由ではなく、全く広くもなく、安楽のお山に、ふんぞり返って、下を眺めては、何ごとか独り言を言い、ニヤニヤあざ笑っている類人の有り様に過ぎません。そのことが、楽山の人格を破壊して、モンスターに成り上がらせたのでしょう。
 
考えてみれば、人格を持ち、感情に突き動かされながら裁きを下す神(生き神様、人格神等)を信じるよりも、人格を持たず、感情もない自然法則のようなものを神と信じた方が、神の機嫌を損ねることをおそれる必要はなくなり、自由になるのは当たり前なのだけれど……。
 
生ける神は、全能者でありながら、人格を包含し、人格に共感する神であることが、聖書には書かれています。聖書を、ろくに読んでいない楽山の無知が明らかであります。
 
恐ろしいことです。楽山は、感情のない自然のような神を信じたほうがよいと言っています。そのような神?が、どうして、生きる縁(よすが)となるでしょう。神は、人に共感する神であります。
 
楽山は、自分が、情緒の乏しい人格のために、巻き添えを欲しがっているようです。ゆえに、聖書を、超常または無機質としてしか受け取らず、そこに書かれている人間性を無視している楽山が、明らかになっています。何も読み取っていない楽山です。
 
楽山は、ここで、自らの気分的に気晴らしにしかならないような、自然への信仰?を、勧めてきます。自然の機嫌を損ねることはないそうです。津波や雪崩のことをどう考えているのでしょう、それでも、偉大だと仰いでいられるのでしょうか。楽山の、いい加減な字面の工作が壊れてゆきます。
 
*信仰それぞれ
世の中には、狭いところがすきな人もいれば、広いところがすきな人もいるものだ。他人から束縛されることを喜ぶ人もいれば、喜ばない人もいる。そうであれば、人に干渉する神を信じる人もいれば、人に干渉しない神を信じる人もいるのが当然だ。
これはどちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではなく、個性のちがいということだろうし、そうであれば、人はそれぞれ自分に合った信仰を持てばそれでいいのだろうと思う。
 
狭い、広い、束縛、悦ぶ、人それぞれと同じように、人に干渉する神、干渉しない神、を並べて語るのは、いずれも通念的観念だけを追った字面の図画工作に過ぎません。そのことの、優劣があるとかないとか、どうして、いつも自家製の飴玉を舐めて、よだれを垂らしてくる楽山に分かるでしょう。
 
このように、いろいろ言った後で、自分に合った信仰を持てばいいと、趣味の話の次元に貶めてくるのが、楽山の迷惑極まりないボンヤリ言語なのです。腐っているのに、生鮮のつもりになって、書くことだけは止めない楽山の、さらなる腐敗が続いています。
 
気をつけてください。楽山は、考えが浅い、そして、情緒が鈍い、という自分の精神と思想に、読む人を巻き込もうとしています。これが、楽山の他者の人格破壊という恐ろしい害毒なのです。決して関わらないでください。
 
*人によって、神のイメージが異なる理由
結局、人は自分の姿を神に見ているのかもしれない。もしそうだとすると、「神を批判してはいけない」というのも、「神を批判してもいい」というのも、自分の姿を神に投影しているにすぎないのだろう。
 
そして、楽山は、自身の欠陥を棚に上げて、自分の姿を神に見ているのかもしれない、自分の姿を神に投影している、などと勝手な空想を結論みたいに言ってきます。色々書いた後で、これが、楽山の軽蔑と悪意の企みであり、ゆえに、破局点であり、楽山自身の人格の崩壊なのです。
 
信仰には、自分に、うんざりした人が、救いを求めてくることが多いのです。自己愛性人格障害者である楽山には、全く理解できないことなのでしょう。神そして信仰は、自分を絶対視して、神を概念の紙片のように自分の視野に置いている者には、決して理解できないことです。
 
*最後に
こう考えると、人に人格や個性がある限り、自他が同じ神のイメージを共有することは不可能であり、また無益であるように思えてくる。
真実の神が存在するかどうかはわからない。けれども少なくとも、人が語る神、または人が認識する神は、人から独立した客観的な存在ではなさそうではある。
こういったことを了解する人が増えれば、信仰の押し付けのようなことは減り、人々はより自由になることができるだろうなあと思う。
 
そうして、楽山の結びは、人によって勝手に信じる信仰、という、聞いても、何の役にも立たない結論のようです。恥ずかしげもなく、こういうことを書けるのは、楽山に、羞恥心と罪悪感がないからでしょう。
 
まわりくどく、まわりくどく、勝手にしたらいい、という結論に至ります。楽山を聞いて、蓄積するのは、徒労と疲労というゴミに過ぎないのです。
 
しかも、神を、人から独立した存在ではないと言っています。これは、ある種の、偶像崇拝のことであり、いと高き存在を恐れる心の無い楽山にとっては、偶像は自分自身、つまり自分信仰なのです。
 
神のイメージと、神は、明らかに違います。前者は、人がいだくものですから、神への恐れによって、決めつけないことが必要です。それを、混同して、幼稚に決めつけて、神を否定するのが楽山です。
 
決めつけない、という一点において、信仰は成立します。神を決めつけないことを、神を恐れる、という言い方をします。楽山は決めつけで出来ているために、分からないのです。
 
人は、神の意志と行為を決めつけることが出来ません。しかし、通念的観念を字面に当てはめているだけの低劣な楽山は、神について、否定についても肯定についても、一言も信頼に足る言葉を語ることはないでしょう。
 
2014年の、この記事と、最近言っていることと、楽山は、全く変わりがないように思えます。訂正不能の幼稚さを、ずっと続けて、学習と成長をしない無駄口が、楽山です。
 
信仰の押し付けはカルトがやっていることです。信仰の貶めは楽山がやっていることです。信仰を持たなければ自由なのでしょうか。それで自由だったら、聖書も、宗教も、信仰も、生まれる必要はなかったのです。現実には逆であって、本末転倒の、戒められることが何よりも嫌いな楽山です。
 
宗教について信仰について、その起源も必要性も理解していない怠慢な楽山は、今も、同じような、安物のイメージで宗教と信仰を語っています。無反省の訂正不能の、言論と頭のボンヤリ言語の弊害は、まるで、蜘蛛の巣が首に絡み付いたときのような不快感をもたらします。
 
信仰が、楽山の言うような、飾りのような信仰?なら、それは、楽山の信仰であり、楽山の言うように、いい加減に理解して、いい加減に信じてもいいのでしょう。何も良い方向に変える力のない信仰?だからです。
 
真の信仰は、現象としても、人が、それを必要としたから、伝えられて、広まっているのです。
 
宗教には、曲解やカルト化という弊害はありますが、今も、真の恐れを知り、信仰による癒しと救いを必要とする人々がいるのです。楽山やシャロームなどの易坊類に共通した典型的なこととして、信仰を語る資格のない自己愛の、思慮の足らない者に惑わされることのないように願っています。
 
楽山は、いかにも柔和な評論家か知識人であるかのよう装って、丁寧語で書いてきますが、実際は、無反省・無責任などを特徴とする自己愛性人格障害者であり、正義と善に見せかけて、無理解と悪意から、侮辱の言いがかりを、笑いながら平気で言って、訂正不能に、今も続けているサディストです。
 
 
(2020年05月22日、同日一部修正)
 
字面(じづら)
論う(あげつらう)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
雪崩(なだれ)
 
 
汚染の道

汚染の道
 
 
(2021年05月29日、加筆して再録)
 
 
 
  なれの果て
 
またも果てである
いつか果てである
目処(めど)が立っても立たなくても
耐えても進んでも
黙っていても
必ず果てである
止まれば土か
流れれば海か
飛べば空か
だから一つの
忘れやすい夢である
夢の属性に救われて
来るという保証のない
明日の目覚めを
願うことなく信じていた間
同じように忘れていた
見えない闇の果て
 
いつか手に
ショッピングバッグをぶら下げて
街頭に立ち
錆びた街灯に触れて
すりきれた外套の
衰えた視力の
細い明かりと
冷たい引っかかりと
見えない剥離と
輪郭の縁(へり)と
影をゆっくりなぞっている
見えない光の果てである
 
 
 
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  涯の恵み(再)2
 
 
私が、いちばん嫌になる伝道~説教の形式がある。
 
これこれを信じますか。
 
この質問形式は
信じたら信仰者
信じなかったら非信仰者
ということを意識するようだ。
 
嫌なのは、
「これこれ」が超常の言葉で溢れていること。
 
超常は
誰にも分らないことだ。
 
何を分かって問うのだろう。
 
さらに超常の言葉を重ねるなら
付き合うことは徒労だ。
 
そこで、何やら、皮肉や、当てつけを言い始める人は
信仰者であることを大いに疑う。
 
 
聖三位の意志と行為という超常について
分かると言う人は信用できない。
 
分かると言う人は
分かっているから考えないし、
さらには
神の導きがあり信仰があるのだから
人がとやかく考えることはよろしくない
などという思考停止の
おしまいの方向に行きやすい。
 
分からないという人は付き合いたい。
私も分かってなどいないと共感できるからだ。
 
全知全能の前に
何も分かってはいない人間であると
弁えることが信仰の節操である。
 
神聖について分からないと言うことが
神の前に敬虔であるということだ。
 
分かっていると言う者は魂が砕かれていない。
むしろ完全になりたがって
教条主義かパリサイ人の傲慢に近づいている。
神に義とされることが既遂の前提にさえなっている。
 
神に義とされることは
罪を赦されることと同値である。
これを信仰の義という。
人がその罪深さを告白して
精いっぱい正直でなければあり得ないこと。
 
もとより人に神の義はないが、
完全になりたがるところには信仰の義もない。
 
カルトにしばしば見られる経過だが、
舞い上がって完全になりたがる分
罪の自覚は薄れてゆく。
 
 
人は人について
ある程度分かることがある。
信仰の議論は人事については成り立つ。
ゆえに
"神事を分かると言う傲慢"についても
傲慢は人の持ち物だから
ある程度は批判的に物が言えるだろう。
 
 
時空は果てしないのに
人間の時空の知識と理解が
そこに及ぶことはない。
 
人間には生涯の涯(はて)という限りがあるから
人間は時間と世界の果てしなさに決して勝てない。
 
時空の限られた人間だからこそ
神の前でだけは
精いっぱい正直でありたい。
 
それが出来ないのは
慢心~傲慢によるか、
あるいは気分か何かの変調によって
神聖に救われているのではなく
神聖と一体になった陶酔気分にいるからだ。
 
神聖の立場を欲しがってはいけない。
そこへ気持ちがゆくとき
今は小さい気持ちでも
ゆくゆく
恐ろしいカルトへの誘惑が待っている。
折々に自戒するべきである。
 
 
私たちが信じ仰ぐところの
主なる神は
神の存在と教えと御心について
人の、分かっている、見える、守っている、
という慢心を嫌うと思います。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:40-41、新約聖書)
 
神について信仰について
時空の限られた人間が
それらを
分かった例(ためし)は無いからです。
 
では、どうやって
人は救われるのでしょう。
 
神について信仰について
時空の限られた人間が
本気で正直に祈るのであれば
悔い改めても無駄だというほど
神が不寛容であった例はないと思います。
 
いかなる時も
神のほうから人を見限ることはないのです。
そのしるしがキリストであることは言うまでもありません。
 
神は
人と人の世界の総てをご存知の上で
常に忍耐強く寛容に
人が正直に告白してくるのを待っておられると思います。
 
いつでもどこでも
一時はサタンのように悪くなっても
赤子のように幼稚に泣いても
神は
私たちのために
道を用意してくださいます。
 
いつでもどこでも私たちが迷っても
キリストの愛とキリストへの想いに立ち返り
信仰の道に戻れるように。
 
 
 
私は、カルトとしか思えない者を批判しています。
カルトは嘘と偽善を吹聴することを好む偽善者であります。
 
 カルトに対して
 問題にしていないみたいに
 笑うだけで何もしないのは偽善です。
 できることをしないで漫然としているのは偽善です。
 
 そしてこのように私たちは
 しばしば偽善さえも行なっています。
 罪なき人は一人もいないということです。
 
 そして、そこは、カルトの狙い目なのです。
 超然とすることは、ある意味、放置することであります。
 
 カルトは神聖または絶対が分かるという主張です。
 
 もしそうでなければカルトではなく別の宗教ということです。
 
 カルトは人が持っている完全欲を誘います。
 人は完全になりたいがために
 カルトから教祖を絶対肯定するように誘導され
 洗脳~マインドコントロールされてゆきます。
 
 カルトを誤りとするべき理由は、
 カルトの主張は広まれば反社会的になりうること
 そして、カルトの人間に傲慢を見ることはあっても
 世辞や辻褄合わせを聞くことはあっても
 神を恐れる敬虔を見ることがないということです。
 
批判する自信や能力や適性がないと思う人は
批判をする必要はありませんが、カルト批判を否定しないでください。
 
さらに、影響を受けやすいかもしれないので、
そういうカルト的なサイトに近づかないでください。
 
カルト批判は、ある意味、獣道を行くことです。
カルトは、そこにいて、そこしか歩けないからです。
つまり、カルトは、人間性を失ったケダモノへの堕落だと思います。
 
 
涯(はて)

涯(はて)
 
 
(2019年05月14日、同日一部修正)
(2020年05月18日、一部修正再録)
(2021年05月28日、再録+)
 
涯(はて)
吹聴(ふいちょう)
狙い目(ねらいめ)
おこなう(行う、(行なう))
獣道(けものみち)
 
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
 
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  楽山の魔物
 
 『美しき誘惑-現代の「画皮」-』を見た。
 2021年05月24日 
 幸福の科学とは何だろう?(楽山ブログ)
 
 
映画の感想ですが、箇条書きになっていて、解説はなく、断片を並べただけですから、作文になっていません。こういうところにも、楽山の人格が、表れてきます。何かを発表する際の、心構えが、自己愛性人格障害の自己満にしか向かっておらず、読者に対しては用意されてないということです。
 
(ネットより)
解説
宗教家の大川隆法が原作・製作総指揮を務め、「九尾の狐」の伝説をモチーフに描く物語。
九尾の狐に取り憑りつかれた妖魔の女性と、彼女に心を奪われた男の行く末を描く。
大手銀行副頭取の秘書として働き、才色兼備で周囲の誰もが憧れる山本舞子。彼女には、夜に銀座の高級クラブでホステスとして働き、自分の美しさにふさわしい男性を品定めするという、もうひとつの顔があった。
そしてある日、舞子は、将来の総理大臣候補とも呼び声の高い議員の塩村太郎と出会う。太郎は瞬く間に舞子に夢中になり、2人は結婚することに。
全ては舞子の思惑通りに進む中、太郎は、人生の師でもある教団の教祖・橘勝子から、舞子が「九尾の狐」に取り憑りつかれた妖魔であると告げられる。
自分の美しさによって国が滅びることを望む舞子。そんな彼女にも良心があるはずだと信じたい太郎は、葛藤を抱えながら結婚式当日を迎えるが……。
サブタイトルにある「画皮」は、中国古来の伝奇物語で、妖魔が人をたぶらかすために被る「美女の顔や手足を描いた人間の皮」の意味。
 
(ネットより)
妖魔(ようま)は、妖怪[1][2]、化け物[1]、魔物[1][2]、変化(へんげ)[1][2]の類である。
心の複雑さが容姿の美しさとなって表面に出てくるといわれており、深く傷ついた心の持ち主や激しい憎悪の炎に身悶える者たちが、ことに美しい容貌を得るとされている。[3]
 
妖怪の、水商売の、色事の、誘惑か、ホラーか、ということでしょうか。
 
楽山には、HS批判をする気のないことが、明らかになっています。そして、相変わらず、心霊ホラーに興味が集中しています。何のために、この記事を書いて、公開したのでしょう。個人の感想メモを書くにしても、よほど書くことがないのでしょうか。真剣味が見られません。
 
感想として読みづらいメモしか書けない楽山です。断片的な場面場面に、感情表現を、興奮気味に、わざとらしく書いて、・・感動しているのでしょうか。
 
乾燥した表現が多くて、深みのないのは、楽山の特徴です。元々、他者への、悪意はあっても、意欲を持たないために、目の前の対象を、面白がっているだけの楽山です。やはり、楽山がアンチHSというのは嘘だったようです。宗教として観ておらず、娯楽として、はしゃいでいる楽山です。
 
楽山が感想として使った表現は、「きれいだ」「すごい」「慣れた」「じれったい」「なかなか…」「珍しい」「意外」「もっと面白くなりそう」「この女優の次作もみてみたい」・・宗教色ゼロです。感想を書いて公開する目的は何なのでしょう。
 
『美しき誘惑-現代の「画皮」-』を見た。鑑賞中に書いたメモをここに写してみる(メモに補筆修正あり)。
はじまった。風景がきれいだ。徳島は山川がきれいでいいところのようだ。
いきなりお坊さんが現れた。
東京だ。徳島の風景とのコントラスト。
 
「メモをここに写してみる」・・まさに、メモをそのまま写しただけのようです。文章にまとめる、ということが出来ないのです。メモというのは、自分にだけ分かればいいもの、という考えなら、書いて公開しないでください。疲労を与えるだけの楽山の筆致の典型です。
 
感想だから、感じたことを書くとはいえ、それぞれの断片を、文章にせず、箇条書きで、だらだらと書いています。楽山が偉そうに語っていたところの、宗教、カルト、カルト批判、というテーマではないようです。
 
「山川がきれい」など、月並みな感想を書く必要があるでしょうか。1つの記事に感想を要約してまとめるという努力をしない楽山です。情景描写が、唐突な断片になっています。楽山の言う「いきなり」は、本当に、いきなり・・なのでしょうか。といっても、映画を見る気はないです。
 
どちらも神社参拝する服装じゃないな。でもそれだけキャラの性格がわかってよい。
音楽がメロドラマ。いや、火曜サスペンスか。
場面の切り替えが多くて落ち着かない。
主演女優は顔芸、態度豹変がすごい。熱演してる。
 
服装と書いて、服装を表現していません。メロドラマ、サスペンス、・・バカにしたいだけでしょうか。揶揄しているだけで、批判になっていません。
 
おんなだから~、おんなだから~、どうしても~♪ この手の劇中歌は苦手だったが、もう慣れた。HS映画を見るときは、劇中歌が待ち遠しい気分。
話のテンポが遅くてじれったい。どういうこと?
 
楽山が、「苦手」と書いて、何か、伝わるでしょうか。しかも「もう慣れた」わけです。しかも、ん?、HS映画の劇中歌が待ち遠しい気分だそうです。アンチHSではなかったのでしょうか。もう無理だから、アンチHSではないことを告白してるってことでしょうか。
 
表現する気もないということが伝わってきます。こういう楽山の筆致は、前からです。自分の基準だけで書いて、読者に、どうしても伝えたいという気持ちが感じられないのです。ならば、表現できないということだから、書くべきではないでしょう。
 
クラブにショパンか…。
千眼美子(清水富美加)が出てきた。役名は佳代。気取りのない自然体で気さくな人柄らしい。
稲荷神社かと思ったら、九尾の狐か。
一時間経って、ようやく話が動き出した。心霊現象が多くてHS映画らしい展開。
 
「出てきた」そして「九尾の狐か」「心霊現象」・・展開が、つながっていません。接続するための言葉~文章~文脈がありません。読者なんぞには時系列に書けば事足りると思っているようです。
 
お休み処の女性は気さくすぎる。タメ口かよ。
男の悩み、葛藤、迷いがいまいち伝わってこない。感情移入できぬ。
 
「タメ口かよ」と、唐突に喜劇のような楽山のセリフを持ち込まれても、不自然でしょう。登場した女性が、言葉遣いが荒いからと、楽山が、笑って書いていると推測はされても、粋(いき)を気取っているのでしょうか、お漏らしでしょうか、分かりやすくはなりません。
 
場面の感想で「タメ口かよ」・・それこそ、ストーリーと感想の要約が「伝わってこない」楽山の、おっとっと台詞です。こう書いて、何になる?・・というところです。平板な筆致に、わざとらしく挿入された、唐突で、違和感のある、楽山のタメ口です。
 
妖魔は自己中で人のエネルギーを吸い取ると。
佳代が男の婚約相手を知らないってどういうこと? 彼は婚約発表しており、佳代は彼の事務所に出入りするくらいに親しい立場だし、知らないわけがない。事情がありそう。
 
「妖魔」については、楽山は、解説というものを殆どしない自己中なので、ネットから、上のほうに書いたのですが、こういうこともあって、楽山は、他者を疲労させてゆくのでしょう。
 
私は、最初の数か月、正体を知らずに真に受けて交流のつもりで遣り取りしていましたが、今さらのように、つくづく、付き合ってはいけない相手だということを実感します。
 
佳代は霊能者を信じている人。「しっぽが見える」の意味を分かっていて、さらっと言える人。
妖魔は佳代の悪口を言うので嫌だと思ったが、佳代もなかなか…。
大物の妖魔の設定なのに、結界で体調を崩したり、御札に尻込みして玄関をくぐれないって…案外に小物のようだ。
 
「しっぽが見える」の意味を解説しない楽山です。狐のことでしょうか。悪口でけなすのと、また、軽口で褒めるのは、楽山の生業です。大物の妖魔という設定で、・・小物だそうです。リアルでも傍観者でしかない楽山には、フィクションでは、登場人物は、さらに小さい存在になるのでしょうか。
 
もともとは国を守るのが目的で、その手段として総理を目指していたが、いつのまにか総理になることが目的になってしまっていたと…。目的と手段が入れ替わってしまうというのは、たしかにある。真理を学び心を磨き高め人々を幸せにしたいと思って団体に入会したのに、いつのまにかとにかく会員で居続けることが目的となってしまったとか。
 
主語は、妖魔なのでしょうか。いや、総理大臣になりたいのは、太郎のほうですね。冒頭のネット検索から、舞子が妖魔のようです。「たしかにある」とは、誰にあるという意味でしょうか。
 
楽山は、妖魔が舞子で、総理になりたい男の、目的と手段が入れ替わることを、楽山には「たしかにある」と言っているのでしょうか。是認でしょうか。あってよいという考えなのでしょうか。
 
ちょっと考えれば、あってはいけないことだと分かります。そのことに、楽山は言及していませんが、関心を持たなくていいのでしょうか。
 
悲劇を知って救いを求めるのではなく、救いがあるなら悲劇はないはずと、真逆の詭弁をもって、楽山が、神を否定し、信仰を侮辱してきたことと、妙に符合します。
 
それに対して、このブログの、説明なしで、まとまらない箇条書きの記事を読んだ者としては、どう反応したらよいのでしょうか。「((笑))」とでも書き加えておけばよいのでしょうか。
 
「守護指導霊よ、わたしとともに闘ってください」。HS映画は、エル・カンターレに祈るものだと思っていたが、守護指導霊に祈るというのは珍しい。
 
(ネットより)
幸福の科学において「エル・カンターレ」は「うるわしき光の国、地球」もしくは「地球の光」という意味を持つ地球神を表す言葉で、幸福の科学の本尊である[1][2][3]。また、幸福の科学の教義では、エル・カンターレの本体部分が地上に下生したのが、大川隆法とされていることから、幸福の科学総裁の大川隆法のことも示す[4]。
 
いつものように、楽山は、用語・用法に文句をつけています。それで分かっているつもりになって、キリスト教をも、浅薄な用語の辻褄で否定してきたのです。実に迷惑な男です。
 
バトルシーン。女優はアクションがんばってる。
泣き落としかよ。これもHS映画では珍しい。エクソシストものでは、悪魔が哀れを誘うようなことをしてくるのはよくあるが、HS映画の悪魔は威嚇一辺倒が多かったのでこれは意外。
 
ホラー映画で、悪魔が、だます芝居をして誘うことはありますが、哀れを誘うようなことが、よくあるんでしょうか。それにしても、楽山の世界は、ホラーと霊の世界のようで、リアルとの境界が、書いてくる文章においては、不明瞭な気がします。これで宗教を語ってほしくはないです。
 
楽山の興味が、宗教や人生の真実ではなく、ホラーにあることは、今までも書いてきました。これで、読み取ってもいない聖書や学者の言葉を利用して、整わないまま、キリスト教と信仰を否定してきたのです。子供の感想文よりも、迷惑なのは当然であります。
 
特殊効果はZ級映画のそれのようだ。どんなに真面目な話であっても、安っぽい特殊効果が使われた途端に、すべてギャグになってしまう。こんな特殊効果なんか、いっそ使わない方がいいのではないか。
 
こういうことは子供でも分かるでしょう。宗教の映画として真面目に書くのではなく、楽山は、自分の興味から思いついたことを書いています。公開する価値のある感想文にならないはずです。
 
これは老いを醜いものとしている。老いを美しいものとしては描けないものだろうか。
女は自分の醜い姿を見られたくないとし、男は我が身を削って女を助ける。この場面は捨身飼虎っぽく、男はやがて仏陀になることを暗示しているのだろうか。あるいは耽美的にみるならば、「春琴抄」を彷彿とさせるところがなくもない。
 
また説明もなく、「耽美的」「春琴抄」などと、知識人気取りです。恐らく読んでいない。耽美主義も分かっていない。ビッグネームで自分を飾る児戯に過ぎない。楽山は、読んだと言っても、実際、目を通しても、都合のよい文言を漁って拾って悪用するだけだと、既に、知っています。
 
女は首相になる男をものにしようとするけれども、昔ならともかく、いまなら本人が首相を目指した方がよさそう。この女なら自分自身がトップに立ち、国を滅ぼすことはできそう。
 
楽山の読書も鑑賞も名目と言葉面だけであり、こういう皮肉に結び付けるのが、楽山の、見る・読む、という作業の主目的であり、また、趣味であり、さらに、それが人生であるということは、既に、バレています。これで、まともな宗教批判など出来るわけがないのです。
 
本作は、やすっぽいCGは止めて、妖魔の誘惑をはねのけ、かつ妖魔を救おうとする男の過去、葛藤をもっと詳しく描き、かつ妖魔の過去、葛藤ももっと詳しく描き、幼馴染も交えた三角関係も泥沼化させると、もっと面白くなりそう。
 
今度は、映画監督気取りです。総て、気取りだけなのです。何を強く言っているのでしょう。自分の人格と言動さえも整っていない楽山であるのに。このように、独り言を、わざわざ、書いて、人に見せる自己顕示が、楽山ブログの本質なのかもしれません。
 
最後に全体の印象をまとめると、エル・カンターレは登場せず、HSの教義紹介などもさほど開陳されなかったせいか、エンターテイメント作品として見やすくなっている。野暮ったい古臭さを感じさせるところもあるが、それも個性、特色と思えば長所となろうし、なにより妖魔役の女優の熱演はよかった。この女優の次作もみてみたいと思う。
 
結局、娯楽だそうです。実際は、楽山が、娯楽としてしか見れないからです。そして、最後は、褒め言葉です。名監督みたいな?広い心を見せているつもりでしょうか。楽山は、言葉だけで人を傷つける悪意と作為をふるってきました。実際は、包容力の器など、まるで持っていません。
 
自己愛性人格障害の楽山に近づいて、真に受けて、まともだと頼りにし続けると、楽山の煙に巻かれて、いつも自己正当化しかしてこない楽山によって、方向性や整合性が分からなくなり、理路は錯乱し、情感は鈍麻して、極度の精神疲労から、廃人へと向かうでしょう。
 
楽山は、今回のように、宗教と娯楽の区別がつかず、病識もなく、人も自分も破壊してゆく人です。楽山の排泄物に、批判以外の目的で近づかないでください。楽山の犠牲にならないように、楽山に、関わらないでください。相手にしないでください。身を守ってください。
 
 
立入禁止・危険

立入禁止・危険
 
 
(2021年05月27日)
 
 
 
  口から出たもの
 
一度口から出たものは
二度と戻ってこない
聞いた人がいて
聞かれた場面があるかぎり
もう改めることもできない
ただ変わっていくだけだ
そして巡り巡って
口から出た災いだけが戻ってくる
口から出たものが人を汚す
 
同じことを言ったつもりかもしれないが
同じこと、などありえないのだ
 
一度目に放たれたとき
引き裂かれたものや
傷ついたものが黙っていても
二度目に放った矢が同じでも
前ではなく既に後なのだから
同じことを言っても
同じこと、であるはずはないのだ
変わっていたり
死んでいたりすることさえあるはずだ
繰り返された過ちは
前にもまして深い傷
 
底なしの沼に向かって
おろちのように襲ってきては
むさぼり尽くそうとするか
さもなければ
泥のように汚れたまま
奴隷になりさがって
また傷あてに空しい呪文を求めるだろう
「愛している」と
 
(90年代か。)
 
 
 
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