ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年03月

 
  他者の口を利用3
 
 2020年03月22日
 神との対話の危険性(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山は、自分の霊感を主張して止みません。しかし、楽山は、霊感の働く人であるならばありえないような、無理解、異なる意見に対する不感不応、理路の破綻と情緒の欠落、などの人間的欠陥だけが露呈してきた経過です。もはや悪意以外何もないのでしょう。それで、また、人格を自ら破壊してゆくのです。
 
 
下の文章によると神の言葉は耳に聞こえるのではなく、心にうかんでくるのだという。
神は、わたしにとってはまったくの実在である。わたしは神に語りかける、するとしばしば答えを得る。わたしが神に指図をこうと、わたしがそれまで懐いていたのとはまったく違った思想が、突如として、わたしの心にうかんでくる。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.111)
 」
これは体験者の手記として、本書に引用されているものなので孫引きになってしまうのではあるが、こういう風に、霊的存在の声が聞こえるのでなく、その思いが直に心に伝わってくるという話は、その相手が神、高級霊、守護霊、生霊などの違いはあれども、他所でも読んだり、聞いたりしたことはある。
 
引用書籍の人が、どういう体験をしたのか、事実なのか、比喩的に表現しているのかは分かりません。しかし、実在の神が語りかけて答えを得る、というのは、自分は絶対正しいと言っているようなものですから、敬虔な人ならば、控えるようなことなのです。
 
しかし、キリスト教も信仰についても、何も理解していない楽山は、元々超常や神霊が大好きなので飛びついて、○○霊などと、自分も霊能者だから分かるんだとアピールしてきます。学者タイプではなく、香具師(やし)の本性を漏らしています。
 
今まで楽山の記事とコメントで見てきたことからは、カルトが自身を言い表すのに、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して騙すしかないという習性によって、悪意の偽善者である楽山やシャロームなどが物を言えば、ひどいインチキしか表れてこないということです。
 
 
たとえば、某スピリチュアル系のブログで、自分の心にうかんだ思いについてよくよく吟味してみれば、それが自分の思いではなく、自分以外の存在(指導霊、守護霊、生霊、悪霊など)の思いであることが分かるということを書いているのを読んだことがある。このブログ主は、そのようにして心の中の他者との対話を試みているようだった。霊好きの人のなかには、毎日、霊と話しているという人がいたりするけれども、こういう心の中での対話をそのようにとらえている場合も少なくなさそうだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山の、妄想的な霊の話です。霊能者が分かるというのは、自分も霊能者だという主張です。身の程を弁えない者は、反省しないために、他者の異常な能力を鵜呑みにして、自分もそうだ・・と言いたいのです。毎度毎度、楽山から表れるのは悪霊の方向だけです。
 
楽山が霊能者であったなら、霊について敬虔であるはずだし、現実との調和を目指すはずですが、実際には、極めて無遠慮に現実から乖離して自慢したがるだけなので、このように悪意の不祥事を批判されることになっています。
 
直感、直観、インスピレーション、ひらめき、思いつき、そして、理解に至るまで、人間の精神活動は、複雑ですが、楽山は、人が書いているからと、霊の分類まであげて、見せびらかします。つまり、説得力のないことを、他者の口を悪用して補おうとする醜さです。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、自己中カルトの生業(なりわい)であります。霊能者どころではなく、とても下品なペテン師の因業なのです。
 
この楽山の、人が書いていると楽山が言うことも、指導、守護、導き、誘惑など、心に起こっている活動や作用を分けてみたのかもしれない、という思考力を、楽山は、持っていない人であることを表すだけなのです。楽山の超常への悪趣味は、いわゆる引き寄せではなく、寄せ集めの悪癖です。
 
楽山には、可能性がありません。根拠のない空想の思い込みを暗示的に繰り返しています。そもそも人格が、既に、自己中絶対の方向に進行性に病んでいるからです。だまされて人格が破壊されるより、だますほうが人格破壊は不可逆になりやすいと思います。しかも、本人は気づかないのです。
 
 
タロット占いをする知人も、これと似たことを話していた。この人の占いはよく当たっていたので、その理由を問うと、何となく分かるのだという。カードのケースにある説明には、カードの意味について抽象的かつ簡潔にしか書いていないのに、なぜカードの意味をそんな風に具体的かつ詳細に語れるのかを問うても答えは同じで、何となく分かるのだという。どうも語るべき言葉が自然と心にうかんでくるらしい。
 
楽山は、よほど、人に影響を受けやすい人格のようです。あるいは、人の口を利用しなくては、何も語れないのでしょうか。こういう情けない有り様も、楽山の知性?と感性?が、実は、欲望だけによることを物語っているのです。
 
楽山は、「語るべき」でない言葉が、不「自然に」浮かんでくるようです。これが、楽山が、ケロッと平気で、人を疲れさせ、傷つけるケース(事件)でしょうか、カース(呪い)でしょうか。
 
 
自分は世界には人知ではうかがい知れぬ不思議なことがあっても別におかしくはないと思うので、オカルト、神秘主義を頭ごなしに否定しようとは思わないのではあるが、心の中での対話は、心の健康のためにはよくないという話は聞くし、霊的存在との対話にハマり込んでしまうと段々とその命令に逆らえなくなり、やがては自分の人生を乗っ取られたり、現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れがあるという話も聞いたことはある。実際自分もこの手の注意の大切さを実感した経験がないでもない。
 
こういう主張にも、今までの宗教は、よろしくないという印象操作が入ってきます。そして、楽山が導こうとしているのは、宗教と信仰を、いい加減に文化として受け止めるのがよい、耳ある者が聞くがよい、・・みたいな教祖願望なのです。人格が腐ると、何にでも成りすましてくるでしょう。
 
オカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山ですが、そのことを「否定しようとは思わない」という言い方で、客観に見せかけて、自らの霊感を受け入れさせようとするのが、楽山の、ボンヤリ言語、という、とても卑怯な細工なのです。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」というのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作の、ボンヤリ言語のインチキのやり方だということを忘れないでください。どんどん、怪しさが増しています。
 
楽山には、能力や洞察に相当する特別なものが、書くものに表れたことはありません。むしろ、楽山の文章と理路は、退屈なだけでなく、歪曲しているところや、足らざる点や、救いがたい欠陥があることだけが、2年の間に明らかになってきました。楽山の文章は、品がなく、とても下劣です。
 
昔、見かけたことのありますが、お祭り騒ぎの乗りみたいに、祭りの出店でタコの入ってないタコ焼きを売るような、下品なインチキ商売だということを、楽山自身が、次々に表しています。
 
楽山やシャロームのような人物が、いちばん、真実を追求する人たちを、自分のインチキレベルにおとしめたり、カウンセリングする人たちの邪魔をしたりする、とても悪質な半端者なのです。まさに「現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなって」だまし続けているのが楽山です。
 
 
世の中には霊好きな人…この手のことにどうしてものめり込んでしまわないではいられない人もいるだろうけれども、一般的にはそういうことはほどほどにしておいた方が無難だろうし、できればはじめから近付かないのが一番だろう。触らぬ神に祟りなしというのは本当だと思う。
 
霊好きな人と、まるで他人事のように言っていますが、霊に固執してきたのは楽山です。というより「触らぬ神に祟りなし」と言うなら、霊のことなど、書かなければよいのです。ここは、ある意味、批判者に対する脅迫とも受け取れるでしょう。ヤバい本性です。
 
「触らぬ神に祟りなし」・・悪質です。遠回しに宗教を否定しています。しかし、今までのことから、楽山が考える宗教は、オカルトであって、真の宗教ではないと判断しています。楽山が、分からないくせに、宗教を語るのは、結局、自分のインチキ霊能を宗教がらみで、認めさせる詭弁なのでしょう。
 
知情意の整わない者が、自己愛が高じて、自分は特別なんだと思い込みたくて、数々の思慮と情緒の破綻を指摘されても、他者に笑われても、なお、お気楽に、霊が分かるっぽい自分を、安易に短絡した記事を書いて、霊能妄想を吹聴しているだけなのです。
 
何故なら、霊が分かるっぽい楽山は、まるで、人間が分かっていおらず、つまり、人間の信仰が分かっていないからです。さらに、理路が詭弁だらけで通っていません。情緒が鈍くて、感受することが、いずれも幼稚な夢物語か、おとぎ話の類(たぐい)になっています。小学生の背伸びと同じです。
 
実質が何もないのに、自分を特別な霊的存在だと思いたがるのは、ナルシスト+オカルト趣味の、末路なのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、その不思議世界に妄想の足を伸ばしているのです。
 
かつ、楽山は、その欠陥を全く自覚せず、反省せず、学習による訂正をせず、自分が特別という前提に、しがみついているので、成長のない訂正不能の穴グラに居て、過大な自己愛によって、ひたすら、発信という流涎だけを繰り返して、恥に恥を重ねていることに気づかないでいます。
 
どこにも通用しないし届かない妄想世界の作り話ですから、騙される人が出てこないように、私は、批判記事を書いています。よく平気で、ネットとはいえ、公共に出てきて書けるものだ、というレベルの文章ばかりなのです。
 
こういう、見かけだけ優しい易しいボンヤリ言語で、妄想、虚言、詭弁、印象操作、刷り込み、マインドコントロール、というのは、知らずに感染して、いつのまにか同じような人格破壊の病巣に進行してゆく危険があり、それが楽山のやり方だということです。
 
楽山は、決して、スピリチュアルを云々できる人ではありません。要警戒、というより、要否定だと思います。罪悪感の無いことも併せて、社会の敵としての特徴がそろっています。
 
決して、楽山の言を、吸い込んだり飲み込んだりしないでください。既に受け入れてしまった人は、できるだけ早く、汚物入れか何かに吐き出してください。そして、逃げてください。
 
楽山の影響下にいることは、とても危険です。楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするからです。
 
 
共感を装う下心(したごころ)

共感を装う下心(したごころ)
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年03月31日、再録+加筆)
 
 
 
神と人の違い、神とキリストへの思いの違いについて書いたこと。
 
  神とキリスト
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない
 
 
 
※ 
 
屁理屈をこいて、神がいるなら悪がはびこるのは変じゃないか、という、整っていたら信じるけど整わないから信じない、神はいない、と言う者の詭弁に惑わされないでください。神は、人の合理では説明できませんが、人が共感することは出来ます。
 
楽山は、詭弁を弄します。つまり、詭弁だらけの文章を書きます。数か月だまされていた体験に基づいて、私は、約3年余りの批判記事に、そのことを書いてきました。
 
楽山は、あらゆる精神の生産活動において、人間性の健康な精神活動の阻害因子でしかありません。楽山が自分を出してきたら、生産的な心の活動が阻害され、疲弊してゆきます。今まで、ずっとそうです。そこで、ニヤニヤして自己満悦することことが、楽山の生き甲斐であるかのようです。
 
楽山は、自我が過剰に強いために、神を机上のキャラクターのように扱って、理屈に合わないからと、あざけってきたのです。その楽山は、神が合理ではないと言っているが、いちばん不合理なのが自分だということに全く気づけないのです。
 
反キリストと言っていいような体質的悪意の詭弁屋が、手段を選ばずに、キリスト教の信仰に、屁理屈で、いちゃもんをつけてきます。無反省・無責任・無理解・無神経です。加えて、何を返しても、不感不応・訂正不能です。交流も議論も、全く成立しません。
 
インチキな反キリストは、何も答えられないほど、理路は破綻し、心は鈍麻しています。他者に文句をつけてきますが、自分を斬ることも見ることも反省することも出来ません。
 
どうしようもない災いがあるから、人は神に救いを求める、という心情が、楽山には分からないのです。それで、逆に、神が、災いが起こるのをどうして止めないのかと文句を言い、神を否定して悦に入る始末です。楽山には、人の悲しみに共感する心が無いのです。
 
自我絶対の自分信仰から、常識も弁えず、同じ屁理屈を繰り返しています。罪悪感がなく、恥を感じることが出来ないのです。楽山とシャロームと易坊という安っぽい唯我独尊の宗教詐欺師のことです。
 
 
神が、キリストが、聖霊が、神聖が、人の理屈に合っているから信じるのではありません。
神が、人に分かるような合理なら、そもそも信じる必要はないのです。
 
信仰は理屈ではなく、聖書を読んでキリストに共感することです。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「だよなあ」などの、くだけた言いまわしも、柔和で話の分かる人を装うために、楽山が体質として身に着けてきた誘導の詭弁です。心は、全くの訂正不能の偏見と妄想に支配されています。くだけた、ではなく、破壊された精神病理に侵され支配されている異常人格です。近づかないでください。
 
 
 ※
 
楽山は、超常奇跡を信じ込むことが信仰だと思っているようです。それは、思い込み~妄想であって、キリスト信仰とは何の関係もありません。聖書を読んで、キリストの共感に共感することが信仰です。ゆえに、楽山が、執拗に粘着して信仰を否定しても、無理解による戯言(たわごと)でしかないのです。
 
 
 
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  楽山の上っ面
 
 『聖書を読んだら哲学がわかった』MARO
  (上馬キリスト教会ツイッター部)著
 楽山日記(LD) 2022年03月29日
   を批判。
 
 
楽山が、いかに、宗教と信仰を上っ面だけ見ているかが表れています。毎度、深みのない記事を書いて何が楽しいのだろうと思いますが、恐らく、お笑いを見るのと同じ気持ちなのでしょう。宗教と信仰を、お笑いと同じ興味本位で視線で見るのは、深く考える気持ちも能力もないわけで、迷惑は測りしれません。
 
楽山は、聖書も知らなければ、哲学も知りません。自己中に凝り固まっている者は、どちらも理解することはないのです。自己の罪と偽善を知る人が、信仰を知ります。先入観のない心と頭を持っている人が、哲学を知ります。楽山には、どちらもありません。上の「分かった」は大嘘です。
 
 
*期待通り
最近は小説ばかり読んでいたのであるが、ひさしぶりに哲学の入門書を読んでみた。この著者なら、きっと面白いに違いないと思った通りの本でよかった。
特に印象に残った箇所をいくつかメモしておきたい。
 
なぜ「面白いに違いない」と思ったのでしょう。そして「メモして」おくのだそうです。それが、今までと同じように、何も実のある内容は書けない楽山です。楽山が、宗教と信仰に向ける目は、変わることなく、お笑いと趣味のレベルで、宗教と信仰は、そのレベルのものだと言いたいだけです。
 
 
*聖書の注釈
まず一つめは、「西洋哲学は聖書の注釈」(p.27)という言葉である。西洋哲学の基礎にはキリスト教があるという指摘はよく聞くが、これはそこからさらに一歩踏み込んでいるようで、ハッとさせられた。
 
「踏み込んでいるようで」「ハッとさせられた」そうですが、どこが、どのように・・ということは、書かないのです。つまり、何も受け取っていないし、考えてもいないから、書けないということです。楽山が、宗教と信仰に向ける浅はかな目は、ずっと、このような、軽くあしらうためでしかありません。
 
喩えて言ってみれば、"数学にはハッとさせられた。数はたくさんあるんだね"・・というようなものです。参考にならないだけでなく、宗教と信仰に向けている軽々しさに、うんざりします。楽山の書いてくるものに、批判目的以外で、時間を費やさないでください。
 
 
*因果応報
もう一つは、因果応報についての話である。
「悪い結果は必ずしも悪い原因が起こしているわけではない」とイエスはこれを否定したんです。
(『聖書を読んだら哲学がわかった キリスト教で解きあかす「西洋哲学」超入門』MARO著、日本実業出版社、2021年、p.128)
 」
恥ずかしながら、自分はいまだに因果応報的な発想から抜け出せていないので、二千年前にはすでにこういうことが説かれていたというのは驚きだし、感動しないわけにはいかない。
 
楽山が、因果応報の発想を持っているなら、このような、いい加減な記事は書かないでしょう。「驚きだし、感動しないわけにはいかない」という賛辞は、全く、中身がありません。べた褒めしておけばいいじゃろ・・という安い根性丸出しです。
 
 
*人それぞれ
三つめは、「人それぞれ」ということである。
真理に至れないことがわかったから価値観は「人それぞれってことにしよう」というのが現代社会の一つの答えなのだと思います。
(同上、p.231)
 」
これはまさに自分の考え方だ。人に真理は分からないのであれば、せいぜい「私はこれが真理だと信じています」と言えるくらいで、「これこそ真理だ。みな、この真理に従順でなければならない」と言って他に強制することはできないと思うので…。多分こういうことは宗教の信者でもなければ言えないだろう。
 
何度も言ってきたことですが、「人それぞれ」には、公共の福祉という人道に反しない限りという節操が付いています。何度も言ってきたのに、また、ペテンの自己正当化をしています。ここには、恐ろしいほどの悪意の臭根深さが表れています。とても言論者とは思えません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、言葉だけで、自己中・自己愛・無責任の自分勝手を通すために「人それぞれ」を出してきているだけです。訂正不能の悪意を、なおも、改めないから書けることです。どうか、欺きに満ちた楽山に、関わらないでください。
 
 
*またかよっ!
最後に一言。
本書では「~んです」という語り口が多用されている。これには、はじめは違和感があったけれども、どういうわけか、しつこく繰り返されるうちに、「またかよっ!」とツッコミを入れたくなるほど愉快な気分になってしまった。
これは意識的なものか、ただの口癖かは分からないが、独自の語り口があるというのは微笑ましくて、いいもんだなと思う。
 
「ツッコミを入れ」たい「愉快な気分」だそうです。揶揄して笑いたいだけだと分かります。真剣味の欠片も感じられません。恐らく何を読んでも、楽山が、真に感動することはないでしょう。だから、読んだのではなく、読んだことにしているだけだと思います。
 
だまされないでください。このような記事で、冷静な人だと思わせたいペテン師は、底知れない悪意を隠しています。楽山は、何ごとも真剣に学んだり取り組んだりしたことはないと思います。笑いたい、面白がりたい、文句を言いたい、そういう欲望だけで、自己顕示してくる惨めな人格です。
 
 
嘘と世辞

嘘と世辞
 
 
(2022年03月30日)
 
 
 
 
楽山は、権力を持つほどの賢さはないでしょうが、"裏地見るとプッツン"と似ています。自己中心的なことしか言わないとこや、訂正不能に自己愛からの妄想に満たされているところです。楽山は、プッツンすると犯罪に走るのでしょうか。もはや、精神が崩壊して、アハハモードでしょうか。
 
"裏地見るとプッツン" の大量虐殺が続いています。"プッツン"によって、第三次世界大戦になってしまうのでしょうか。そうなると、日本も他人事ではありません。炎の中を逃げ惑うことになるでしょう。"プッツン"が、核を発射する前に、いなくなることだけを熱望します。
 
 
 
私、200余のサイトをお気に入りにいれて、更新80記事くらいを、毎日、旅しています。最近メニュー形式のブログが多くて、最新記事への行きも帰りも、ひと手間、余分にかかります。だから、どうということはないのですが、私は最新5記事を並べています。余談でした。失礼。
 
 
 
  酸素
 
酸素が必要だ
 
目は開いている
呼吸が止まった
 
わずかに声帯を震わせて
圧迫された息が解放される
 
 0・一秒いや0・0一秒
 気道の中に閉じ込められた空気は
 誰にも見えない闇の中
 誰にも見えない方向に
 壁を打ち破ろうとした力
 熱の加速
 神経が電撃となり
 筋が一挙に統制され
 収縮したことは確かだが
 
呼吸が再開した
収縮を繰り返す筋肉
目は開いている
動いている
眩しい視線と
光が天に走る中
呼気のように汗が吹き出す
さらに激しく取り込まれる空気
 
酸素が必要だ
 
 
  「それ」からの手紙
 
光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた
 
ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる
 
影によって光を知る
病気によって健康を知る
 
絶望によって希望を知る
希な望み
誠に希望を本当に知る人は少ない
欲望は派手な花々を求めてやまないが
希望はただ生きる魂を求めるのみである
それを知っているかぎり希望は
あきらめの中にさえなお存在しうるのです
探し続けてごらんなさい今ある力の限りを尽くして
絶望とあきらめの中にいる今こそ
 
(強がることだけはしなくない 生ける屍より)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
HSを擁護する方には、これとは反対に、アンチ本は何冊読んだかを明記してほしいですね。
HS擁護するなら、最低でも、「虚業教団」、「大川隆法の霊言」、「幸福の科学との決別」、それからカルト新聞くらいは読んでおくべきです。
批判は読まず、HSの受け売りばかりでは話にならんので。
 
楽山においては「何冊読んだか」は無意味です。楽山は、本を読んでも、自分に都合のよいところだけを拾って書いてくるだけだからです。何度も指摘してきましたが、まだ、こういうことを書いてくるのは、楽山に学習能力がないからでしょう。楽山は、読書さえも、恣意的に利用~悪用する人です。
 
楽山が「読んでおくべきです」と言うのは無意味です。楽山の読書は、読んだことにしているだけだからです。楽山には冷静な読解力がありません。自己愛に固定して自分に都合の良いことしか受け取らないからです。ゆえに読書すればするほど、さらに自己愛・自己中が良識を押しのけて凝固するのです。
 
楽山やシャロームのペテンと詭弁は、吐き気ものですが、悪の道に年季が入っています。しかし、偽りを自身に強いているので、自分も壊れてゆき、回復不能になってゆきます。その結果、欲望の一部が刹那的に成就しても、人格全体としては、じわじわと崩壊の一路を辿ることになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
欠点を「人間の性」と一般化する詭弁。強がりだけを押してくる楽山です。そんなに人を笑いたいのか、そんなに人に勝りたいのか、優しさや柔和を気取っても、理路を辿れば、訂正不能は明らかです。病質によるものだとは思いますが、この病は、共感を拒否する空疎な優越感で成り立っています。
 
 
 
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  体質と言葉3
        (再録+)
 
 
体質とは、ここでは、先天的または後天的に規定されるところの、その人の言動を特徴づける人格の意味で使っています。
 
(ネットより)
百科事典マイペディアの解説。
体質:
すべての精神的・身体的な人間の形質の総和で,遺伝と環境の相互作用によってつくられる。
 
思想・宗教の言葉は、それを表した人の言葉によってではなく、それに反対する人の言葉によってでもなく、それを発する人の体質の良否によって、それを受ける人の、救いともなり、邪悪ともなります。
 
神の言葉は、それを受け取った人格の言葉を通して、人を生かすことがあり、人を壊すこともあります。こういうことは、人間の不完全性によりますが、なぜ起こるかは神の秘密でしょう。以上は、認めるしかない事実であります。認めない者は、自分信仰になるでしょう。
 
神の言葉は、人の言葉となって、先ず、人は、神と人の、そして、神の言葉と人の言葉の違いを学ぶべきです。神の言葉の真理は不可知であり、人の言葉の真実は曖昧に可知であります。この違いが、心掛けて弁えるべき信仰の節操であります。
 
 
受け取ることと、信じ込むことは違う。
 
思うことと、、決めつけることは違う。
 
判断と、断定は違う。
 
救いの希望と、不変の境地は違う。
 
いずれも、前者がキリスト信仰である。
 
 
絶えることがないのは、常時の平安ではなく、必要なときに、祈りに答えて与えられる癒しと平安であります。信仰は不変の境地ではなく、成長可能な生き方を支えるものであります。
 
人は、受け取れるものを受け取りますが、信仰が、物としてのプレゼントと違うのは、受け取って忘れるのではなく、受け取ってそのまま置いておけるものでもなく、即ち、固定できるものではなく、いつも人生に必要だから否定できなくなることであります。
 
それは、信仰が、固定して揺るがないのではなく、忍耐強く求め続けるものであり、否定の判断が下せないほど必要だと思い、希望し続ける祈りの生き方に生かされてゆくものです。
 
それゆえ、信仰は、いつも、新しい目覚めを求め続けます。完全に知ることが出来ないゆえに、求め続けるのです。そうして、信仰は、成長してゆくのです。一時に一気に、悟りを啓くことではありません。
 
正直に祈ることによって、人は、神の偉大さとキリストの愛と共感を新たに知るからであります。
 
 
 
異常な体質の特徴:
 
自分を責めることができない。
罪悪感がない。
しんみりと悲しむことがない。
自己中心にしか考えることができない。
 
思考と感情に深みが見られない。
短絡しやすく、上気しやすく、妄想化、固定化しやすい。
 
それゆえに、不都合において、自分の罪を認めず、反省せず、すべてを人のせいにする。
思慮によって理路を整えることができず、結論的決めつけを繰り返す。情緒面で、深い高等感情が発達していない。ゆえに、他者の意見を受け取っておらず、学習不能で、自己修正できない。
 
能力ではなく、異常な人格が、理路と感性を奪うからです。
ふつうに共感できることが、過大な自尊のために出来なくなります。
 
ゆえに、バランスが保てず、バランスが分からず、大仰な讃美言葉や、世辞の褒め言葉、そして、整わないまま結論を、でっち上げて、作り話やデマなどで、相手を侮辱するしかなくなり、暴論も正論も理解できず区別できずに、自分に都合の良い欲望の方向と、相手をおとしめ罵る言葉だけを繰り返します。
 
しかも、その間、高みから見下ろす嘲りが感情の表現として見られ、自分が上だという立場から抜けられないために、相手を見くびった発言しか出来ず、そういう見下し言葉だけを探しては出してきます。
 
そういう者が、人の意見を聞く耳を持たず、しかも、上から教える態度だけに凝り固まって、万事が益となると信じ込んで、自分の利益、つまり、正当性の根拠として、よく引き合いに出しているのが以下の聖句です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
共に働くことなく、自説に慢心している者には、万事を疫病となるように、今に至る加害の成り行きが出来ているようです。決して、友達にも、仲間にもしてはいけない破壊的人格です。そういう人を批判するのでなければ、そういう人から遠ざかることが唯一の対策となります。
 
 
誤謬を撒き散らす者

誤謬を撒き散らす者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年03月29日、再録+加筆)
 
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山は、他者の言を引用すれば責任はないと思っているようです。しかし、例えば、リツイートなどで引用して、批判対象としないことは、引用の意図が、賛同か、利用であるという責任を、全く理解しないのが楽山の自己中の病質なのです。口出しするな・・と、他者の口にしゃべらせて平気な楽山です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
·3月21日
何にでも口出ししてくるお節介な人っているじゃない?
そういう人はね、
暇なのよ。
別にアナタのことを気にしてるんじゃないの。暇つぶしなの。
 
他者を気にせず、暇つぶし、これは、まさに楽山のことでしょう。楽山は、おおよそ、関わるだけの真実も心得も持たないまま、宗教とカルトの問題に、さも分かっているふうに、コメントや記事を入れてきます。人の迷惑を考えず何でも自分勝手にやるのが自由だと思っているのです。
 
それに文句を言うのは、全部、余計な口を出すことでお節介だと言いたいのです。通らない屁理屈の刷り込みで、いちゃもんだけのボンヤリ言語で、真実に反する卑怯な迷惑行為をして、根拠もなく良いことを言っているつもりでいる裸の王様が楽山なのです。
 
そして、批判されると、このリツイートのように、他者のツイートから都合のよい文言を選んで当てつけてくるのです。自分で説明とか弁明とかが、全然できないからです。
 
楽山は、実に気安く、暇つぶしで、かつ、小学生レベルの知識で、宗教・信仰・真実について書いているとしか思えないのです。読者に対しても、とんでもない無礼な話であり、さらに、引用元に対しても、無礼な話であります。
 
以上より、楽山がこのツイートを引用する妥当性は、楽山が、していること、してきたこと、言ってきたことなどを考えれば、どこにもありません。人のことを考えず、なりふり構わない楽山の自己中の病質が今回も表れています。
 
 
中途半端に相手すると、どんどん入り込んでくるから、
笑顔で一言こう言いなさい。
「あ、大丈夫です」
午後2:45 · 2021年3月21日·Twitter for Android
 
人を巻き込み、評論家気取りで、子供じみた幼稚な先入観で物を言い、かつ、責任は一切負わず、詭弁で言い逃れを書いて、全くの無反省でいられるような楽山は、ずいぶん前から、病質の者であり、全く "大丈夫" ではない、とても有害な人です。
 
前に書いたように、楽山の笑顔は、微笑みではなく、意地悪な、ほくそ笑みか、あざ笑いか、高笑いであります。それ以外に求めるものがないようです。また、他にすることもないようです。ゆえに、楽山は言われるべきです・・あなたは大丈夫ではなく病気です・・。
 
楽山は、悪意と作為について、結果を気にしなければ、平気でいられると思っているようです。あらゆる結果を無視して気にしないということは、正常心理ではありえないことなのですが、楽山は、病識がないので、反省することもなく悔いることもなく生きていられるのでしょう。
 
そのようにして、何度も何度も、楽山は、醜い自分を表して、恥をさらしに来るのです。楽山は、偽善者であり、カルト教祖願望であり、刷り込みや印象操作の詭弁屋であり、大嘘吐きです。
 
 
 
  値踏み
 
一人で思い巡らす人
こいつから学ぶべきことは何もない
むしろ邪魔だ
自ら手を下さずともこの辺が弱み
チクチクとついてやれば
そのうち手も足も出なくなるさ
逃げ出してくれれば願ったりかなったり
この男は役には立たないが
咬まれることはあるまいゆえ
当分は飼ってやるとするか
この人は一応立てておいて
程々の敬意を見せておけばことはあるまい
このお人からは幾らかは頂戴できる
今のところ借りるだけでもよいな
このお方こそ組んで、お味方、お味方
うまくいけばいつかは・・・
ん、ん、・・・フフ
 
私にいくらの値をつけた
人格を値踏みする者よ
 
えっ・・・?
空耳か
 
一人で思いわずらう人
人の気持ちをあれこれと推し量り
自分と比べ
思いあぐねては疲れ果て
寝込んでいる人
見積もれば
自分が誰よりも安くなることだけは知っていた
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いないのが楽山です。まともな人なら口だけ「実践するのは難しい」などと、ごまかすことは出来ないからです。楽山は「恥ずかし」という感性を持っていないので、みんなそうでしょ・・とばかり「人間の性」という、実に迷惑な一般化という詭弁を弄します。
 
また、楽山の、発作的で衝動的な多量の投稿が見られます。こちらは、まるで昆虫観察をしているようです。楽山については、病質者、偽善者、サイコパスなどと言ってきましたが、楽山は、そうじゃないという弁明の代わりに、悪口を書いてきます。この態度にもサイコパシーが表れているということです。
 
 
 
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  同じこと返す楽山
 
 論点整理(その他)
 2022年03月24日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、また発作のように、一日で8つの記事を書きました。たくさん書けばいい・・ってもんじゃないという典型です。自分が言われたことを、こちらに向けて反論のつもりだけというのは幼稚すぎると思わないのでしょうか。楽山の議論の戦略は、論理でも説得力でもありません。執拗な詭弁です。
 
発作的に、衝動的に、楽山が多量の記事を書くのは、恐らく、検索で、楽山を批判する記事より、私をけなす記事が、優先されることを狙っているのではないかとも思います。私は、私が努めるべきだと思っていることを、できるだけ、実行してゆくだけです。
 
 
*その他
最後に、その他の論点について、ざっと書いておきたい。
 
「ざっと書いておきたい」のだそうです。正確に、詳しく、書けないのが、楽山です。控えめな言い方をしながら、多量の悪口を書いています。その大方が、自分が言われたことを、単純に、こちらへ向けています。それで、書き得たと思う楽山は、文章も、人の気持ちも、受け止めるセンスがないのです。
 
 
*汚い。
st氏は、楽山は「汚い」ということを繰り返している。
これについては、私の方でも、st氏に対して同じ印象を持っている。正直言って、st氏のブログ、ツイッターは、憎悪、怨恨など…ドロドロした感情の貯蔵庫みたいになっていて読むに堪えない。
 
こちらの真似をした時点で、底の浅さが見え見えです。「同じ印象」と言いながら、今さら、真似して、何になるだろうってことですが、楽山は、オリジナルの印象的な表現を持たない言論の貧困を自分で表しているのです。貯蔵庫はドロドロしません。ドロドロしているのは楽山の生き方の澱(おり)です。
 
 
こういっては何だけど、st氏がシャローム氏や楽山の悪口を言ってるさまは、自らの吐瀉物にまみれて転げ回っているみたいだ。
嫌いなものに執着するのでなく、もっと明るいこと、美しいことを追いかけた方がいいと思う。
 
誰が「自らの吐瀉物にまみれて転げ回」っているのでしょう。楽山です。だから投稿発作が出ています。楽山が汚物だからです。汚さで、「明るいこと」や「美しいこと」をペテンの安物や汚れものに変えてしまう楽山がいなかったら、ネットは、どんなにか、さわやかだったことでしょう。
 
 
*丁寧芝居
st氏は、楽山は丁寧芝居で人を騙しているとしている。
でも過去の議論を見れば分かる通り、これは楽山よりも、st氏の方によく当てはまる。
楽山も、それからシャローム氏も、大体いつも同じ態度だが、st氏は当初は丁寧芝居をして、じきに本性をあらわしているのは、過去の議論を確認すれば分かることだ。
 
私は、丁寧よりも、正直な本音を大事にしています。なぜかと言うと、楽山の不正直、芝居、嘘、詭弁が、吐き気を催すからです。生きても、死んでも、こうなりたくない・・ということです。ゆえに、正直以外に、闘い方がないのです。
 
楽山は「同じ態度」のつもりなのでしょうか。驚きです。楽山の丁寧語は、芝居だとバレれば、ひどい大根役者のひどい三文芝居です。読んでいるほうは、嘘がきつくて、演技が酷くて、人の気持ちが分からない者の白々しい芝居に、偽りの落差とともに、反吐(へど)が出そうなほどです。
 
 
・st問題資料集(1)初期コメント
 
リンクは省略します。
楽山は、私が騙されていた頃を懐かしんでいるようです。今さら、そんなリンクを貼って、何の主張のつもりでしょう。賛同から批判への落差こそが、楽山の欺きの程度の酷さを表しているのです。
 
 
*被害者芝居
st氏は、楽山は被害者芝居をしているという。
これも、私よりは、st氏の方がよく当てはまるだろう。
st氏は楽山を口撃し続けているが、楽山はスルーを基本としつつ、時折、降りかかる火の粉を払うぐらいである。
もしst氏が楽山から被害を受けたというなら、それは楽山を口撃したら、返り討ちにあったというだけのことだろう。
 
楽山は、自分に向けられた批判に対して、スルー、即ち、答えず、改めず、無視することが、正当だと言っています。ここが、楽山が、人間ではないところです。まともな感覚とセンスが、身についていないのです。嘘吐きと言われたことを無視して、嘘を吐き続ける楽山です。
 
「時折、降りかかる火の粉を払う」ことが、一日に、8記事を書くことでしょうか。楽山の影響というものを考えれば、楽山は、執念深くて、自己中心の訂正不能で、決して言論や真実追求というテーマに関わってはいけない人です。関わる総てにおいて、破壊的でしかありません。
 
*語尾
st氏は、シャローム氏が「(笑)」を使うことに文句を言っていた。何度も何度もしつこく怒っていたのだった。
「(私)
ここでのシャロームの二つのコメントで分かるように
明るく軽やかに語る文脈ではないときに(笑い)を入れるのは
「明るく軽やかに語りたい」のではなく、
シャロームの、我を張るための、嘲笑いです。
2018/11/2(金) 午後 6:19st5402jp
「st問題資料集(4_1)笑いを憎む、北風と太陽」より(リンク省略)
 」
 
正直に、そう思ったからです。シャロームshalomの強がりの防衛なのでしょう。自分のほうが上だというセメントのガラガラ笑いです。楽山は、常時、上からインテリ気取り~三文芝居で、丁寧ゴカシに、嘲っているのですが、本人は、気づかないようです。ペテンが体の芯になっているからでしょう。
 
 
>>(シャローム)
笑いは人間関係、対話の潤滑油だという考えもあるようですし、福音寄席、落語によって伝道活動をしている人もおられるようです。人さまざまの生き方があるようです。
<<
 
「 (私のシャロームへのコメントらしい))
生き方ではなく、潤滑油でもなく、あなたは、火に油を注いで喜んでいる。
あなたと、あなたのコメントは、福音でも、伝道でもない。人を怒らせて喜んでいるサディストの所業です。この7年間続いた偽善が、ここで、潤滑油になると思って平気でいることが、既に、並外れた非道の無反省の現れです。
それは、どんなにごまかそうとしても、あなたの語ってきた妄想的信条の未処理と未解決の持続によって、人間関係は騙し以外にありえず、真摯に受けて書くことをせず、社交でごまかそうとする、あなた独特の体質的な、神と人を欺く悪意でしかないのです。
2018/11/3(土) 午前 2:34st5402jp
 」
「st問題資料集(4_2)笑いを憎む2、読書障害」より(リンク省略)
 
 
最近は、楽山の文体に文句を言っているようだが、そういう本筋とは大して関係ないことにイライラして難癖をつけるところは、いかにもst氏らしい。そんなに神経質で、過干渉だと、日常生活はさぞ大変だろうと同情する。
 
文章の書き方、筆致、文体、全てに、楽山の作為の偽り、即ち、嘘と詭弁が表れ、それを除くと、何も残らないと思っています。だから、楽山は何も出来ない人、という評価になるのです。つまり、偽りと詭弁が、楽山の本筋であり、そういうのは、ペテン師ということになるのです。
 
 
*邪推、妄想
 st氏の文章を読むと、相変わらず邪推、妄想が多い。そればかりだといってもいいくらいである。楽山の文章を読んで、心に浮かんだことをだらだら書きなぐるだけで、書籍や過去ログを確認することを怠るからそうなるのである。
 
私は、エディターに下書きをして、書いています。楽山は「邪推、妄想」と決めつけています。楽山は、いつも、決めつけて、そこから書いています。そこからしか書けないほど理路が成長していないのです。ほとんど職業的、または、本性としての、言論の粗雑な暴虐者としか思えません。
 
 
ただの感想文ならそれでもいいかもしれないが、他人を批判するなら、邪推や妄想による誹謗中傷ばかりでなく、きちんと事実確認をし、根拠を明確にした上で書かなくては話しにならない。
 
そのまま、楽山に当てはまり、楽山に向けるべきことです。事実を語る時には事実確認を、当為(「べき」の付くこと)を語る時には根拠を示すべきですが、楽山には、どちらもありません。
 
 
私は、言論の自由は尊重したいので、「批判するな!」とは言わないが、もし批判するなら、もう少しだけでもまともな批判にしてほしいと思う。
 
私は、楽山には言論を公開する資格はないと思っています。楽山は、社会悪です。・・嘘吐き、千三つ、ペテン師、偽善者、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、サイコパス(精神病質)、そして、冷静を装う言論者気取り、信頼度ゼロ、等々・・「まとも」ではないのです。
 
 
*後記
以上、主要な論点について、自分の意見を書いてみた次第である。
 
次第が成り立っていません。順序もなく筋も通らないのが楽山の言論です。
 
(ネットより)
次第
[しだい]名詞
順序。"式のしだい"  
接尾語
名詞に付いて,その人の意向,またはその事物の事情いかんによるという意を表す。
"どうするかはあなたしだいだ" 
次第
 
 
書き漏らした論点があれば追記するかもしれないが、とりあえず現時点ではそのつもりはない。st氏の書くことは、妄想、投影、怨念がほとんどなので、
 
楽山は、投影という言葉に固執しているようで、私に向けて、よく使ってきます。シャロームも使ってきました。二人とも嘘吐きの偽善者です。そういうことなどから、二人の同一人物成りすましを疑っています。妄想、怨念、などは、罵詈雑言相当の侮辱です。詐欺師の、しらばっくれる様態でしょう。
 
(ネットより)
投影
[とうえい]
名詞
1.物の影をある物の上に映すこと。また,映った影。
2.(比喩的に)ある物事を他に反映させて現し出すこと。
"作者の屈折した心情をとうえいした作品"
3.数 平面図形あるいは立体に平行光線を当てて,平面上にその影を映したもの。平行光線が平面(投影面)に垂直なとき,これを正投影,垂直でないとき,斜投影という。
4.心
ある状況や刺激に対してなされる解釈・判断・表現などに,心理状態やパーソナリティーが反映されること。
投射に同じ。
(ネットより)
投影
 
 
傍からあれこれ言ってもどうにもならないし、過去のやりとりを読み返せば論点はすでに語り尽くされ、議論は終わっているのは明らかなので。
というわけで、またスルー体制に戻ることにする。あしからず。
 
楽山には、論も論点もありません。我欲からの、訂正不能の嘘と詭弁と罵詈雑言の類です。まるで論者であるかのような丁寧語に騙されないでください。全て、決めつけです。真実が、ひと言も含まれていませんでした。弁明と反論の出来ない楽山の、芝居と言いがかり、最低です。
 
「スルー」には、書くだけ書いたら、一目散に逃げる楽山が表れています。こうやって、不都合を、ことごとく無視してきたのです。言葉面だけ覚えて、言葉の意味も深さも理解していない楽山に、どうか、決して、近づかないように、関わらないように、だまされることのないように、祈っています。
 
 
人格破綻(はたん)

人格破綻(じんかくはたん)
 
 
(2022年03月28日)
 
 
 
  々々破綻
 
無々と考えてあぐねて
捏(こ)ねた駄々が残るだけなら
むしろ念々に生きて
何も望まず
何も諦めず
虚々と鳴く鳥のように
何も信じず
何も疑わず
否々と猫のように
しかし叶わぬこと
すべてを疑い
すべてを信じ
すべてを諦め
すべてを望み
空転する日々
昏倒する年々は千々に綻び
離々と破れてゆくばかり
もはや何も
空々と痩せ犬のように過ぎ去って
吼(ほ)え哮(たけ)ることも出来ないまま
 
 
  欠落の森
 
欠落の森にいつもあなたはいる
空白の重みに耐えながら
裁かれるために来たかのように
それでも変わらず土は天を仰ぎ
樹木は光を呼吸し
風は生殖器を広げ
岩は頑なに居場所を確かめる
それらは生き物であり
ここでは人が事物なのだ
 
人が動いて起こるもののために森は騒ぐが
人が何かを起こすためではなく
人そのものが事件なのである
そうして人が過ぎ人が果てて時を刻む
 
あなたはずっといつも森にいる
人の移ろいという季節を見守るために
しかし人があなたを見ることはなく
事物があなたを見るはずはないのだ
 
事物が周辺を中心にしてしまうから
森を見れば木々は少なく空が丸見えで
生き物を見れば小さくて軽いからと
土の上の枝を岩に投げつける風
 
実はそうして気づかぬまま
人は投げ飛ばされ
欠落は深くなり
重くなるばかりの空白を
事物の人と生き物の森のために
支え続けるあなたこそ
何ものにも何ものとも
欠落や空白とさえ
この森に一刹那吹く
息のような小さな風ほどにも
認められることのないまま
故なく裁かれ続けるのである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう切りかえが上手な人は尊敬します!
引用ツイート
>>· 3月26日
どの世界にも意地悪な奴はいる。見つけたら、いたいた、と思っとけばいい。いちいち相手にするのは時間の無駄。はいはいはい、と唱えて視界から消しとけばいい。他人に敬意を払わない無礼な人とは関わらないのが一番だね。必要とされる場所でこそ、輝いたれ!
おはよう、日本
今日を精一杯生きたろう
<<
 
楽山は、不都合が嫌いで嫌いで、無視してきました。そして、批判を意地悪と決めつけて「視界から消し」て、悪い奴にも騙されて敬意を払ってくれる人だけを求めています。楽山のようなペテン師が必要とされる場所など、どこにもないのに、偽評論家として偽宗教家として、ヒクヒク輝いているつもりです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、どういう生き方をしてきたのでしょう。そして、どういう死に方をするのでしょう。関心事ですが、私が、それを知ることはないでしょう。ネットだからということもありますが、私は高齢で、楽山より先に死ぬからです。どうか、誰一人も、楽山に関わらることのありませぬように。拝。
 
 
 
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  楽山の詭弁と狙い
 
 論点整理(人の心がわからない)
 2022年03月24日
  を批判。
 
 
罪悪感の無い楽山は、何も言えないときでも、何か言って、反論したことに満悦します。引用も、私は忘れているのをよいことに、自分に都合のよいことばかり引用してきます。荒んだ心の形骸に、身をゆだねると、さわやかさを微塵も含まない陰険な企みに生きることになるのでしょう。
 
今の問題を語れず、反論も出来ない楽山は、4年ほど前の私のライブドアブログのコメント欄を掘り出してきて問題があると言いたいようです。一種の逃避ですが、楽山としては、記憶が薄らいで曖昧なところしか、恣意的な解釈が通らないからでしょう。
 
「>・・<」は楽山、
「>>・・<<」は、シャロームshalomです。
 
 
*自己中
st氏は、楽山は人の心がわからない、共感ができないと繰り返し書いている。
でも、st氏は過去にこんな問答をしている。
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。
<<
 
楽山との関わりが続くと、このような疲労、混乱から、人格破壊のような結末になること、以前から書いていますが、楽山は、以前から、自分に向けられることを、こっちに向けてくるという、卑怯な手段を取ってきます。楽山のように底まで汚くならないと、このような悪だくみは出来ないでしょう。
 
 
>>
今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。stさん自身の宗教記事の初めにコメントを書いておられます。医師免許を持ちながら、医師を続けることができなかったことも、そうしたことはおそらくくstさんの個人的な背景に起因している考え方、生き方ではないかと私は思います。
<<
 
私は完璧な人間ではありません。偽牧師シャロームは、私の個人情報をバラして、おとしめることで、退かせようとしています。こういうのは、よほど悪意に満ちていないと出来ないことですが、楽山が、よく使う方法でもあります。底意地の腐ったシャロームのコメント、楽山の鬼畜の引用です。
 
 
>>
stさんは本来他の人と面と向かえば話すこともできないと書いておられますが、パソコンの普及によってブログはそんなstさんにとって、言葉や思いのたけを思いっきり吐き出す自由な時間、生き方を与えてくれたのでしょう。
<<
 
シャロームは、私の対人緊張症を、あげつらって、おとしめています。こういう人です。それを、悪意の楽山が、また掘りだして引用してきます。こういう人です。成りすましの可能性が高くなります。人間の情感を持たず、丁寧語で、ごまかしても、こういうところに、獣性は表れてきます。
 
頭も心も整理できない楽山は、人に向かって、思想や宗教について、話す理路を持たない人物です。にもかかわらず、ネットだからと、無責任と無反省で言いたいように言って悦に入り、他者を、どんどん、おとしめて、優越感を感じようとします。とっくに退場処分になってもよい人です。
 
 
>>
そのブログでの自分の自由な生き方、考え方が否定されるような考えには鬱積された怒りと批判がとどまることなく大量に吐き出され、ありとあらゆる批判、否定、攻撃となるようです。
2018/11/4(日) 午前 11:40[ shalom ] 
<<
 
冷静に書いているように見えますが、シャロームは、偽牧師です。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」と書いたことで、バレました。前にも書いたことです。楽山が、今も、シャロームの言を引用するところに、楽山の病質が表れています。楽山による成りすましも疑っています。
 
 
>>
一旦批判が始まると相手が弱み、謝罪を示すまでとどまることはないようです。それをもって悔い改めだと考えておられるようです。
<<
 
論争になると、楽山は、際限なく、理路を混乱させて、雑言を浴びせます。そして、相手が参って疲労を表すと「疲れたんじゃないですか」と、ねぎらいの芝居をします。得意技のようです。楽山は、理路を崩すのが得意で、理路を組み立てることは出来ません。まともな議論など、したことはないのです。
 
だから、否定を言い、次は、肯定を言って、軸がないのに、それをもって、責任問題は生じないなどと言ってのけます。議論を、まるで理解していない証拠です。楽山とは、戯れにも、試験的にも、議論しようなどと思ってはいけません。楽山の議論は、いつも、罠(わな)なのです。
 
なお、謝罪は期待していません。それができる人とは思っていないからです。また、二人が謝罪しても、信頼度ゼロだから、本気として受け取ることは出来ません。もはや、早くネットから、いなくなってほしい二人であります。全否定される前に改めるべきでしたが、それだけはしない楽山です。
 
 
>>
自由さんはstさんの良き理解者になることができるかもしれませんね。わかりませんが。時間がある時、stさん自身で書かれた記事を日記などほかの記事もよく読んでみられるといいですね。
2018/11/4(日) 午前 11:45[ shalom ]
<<
 
楽山の冷静、シャロームの優しさ、いずれも、芝居です。楽山一人の成りすましも疑っています。本性は、罪悪感の無いサイコパスです。ゆえに、何を言われても、自分を責めることなく、反省することなく、何事もなかったかのように平気でいられるのです。高等感情が、無いのです。
 
 
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。
<<
 
Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。こういう人は、楽山やシャロームと付き合ってはいけません。楽山とシャロームには、いやらしい善人言葉を見せかけにして、言論者からは、ほど遠い卑怯さが、見られます。気づくまで、時間がかかったということです。
 
 
(当時の私のコメント)
誰のことでしょう。Vさんのことでしょうか。彼とは、物別れに終わって、ずいぶん経ちます。Vさんがやったことは、シャロームが間違っているということが、Vさんという人は哲学者なので分かるはずなのに、シャロームに大事なところで調子合わせをして、その間、私のコメントを隠したことです。そういう大事なところで逃げる行為は、3度目だったので、縁を切りました。
2018/11/4(日) 午後 1:27st5402jp
 
Vさんは、哲学者としての実質を持っていたようです。楽山とシャロームは、同一成りすましかもしれないが、共通しているのは、言論の、いろはも知らないということです。まるで理路になっていません。だから話を逸らして、迷路に誘導し、混乱させてくるのです。
 
楽山は、自己正当と他罰性の前提に立って、悪口だけを言い、根拠を示せません。ゆえに、あの人もこうだった、攻撃してくる、などと、平気で言えるのです。負の宣伝、プロパガンダに過ぎません。議論の実質には何も触れていません。
 
私は、いちいち、過去記事やコメントを掘り出すことはしていませんが、楽山は、利用できるものは何でも利用~悪用します。今の、最近の、無反省、無責任、自己中の指摘には、何も答えたことがないのです。この世の悪の卑怯な偽善性を体現しています。
 
 
st氏は、自分のせいで病的状態にまで追い込まれた人がいたと知らされても、一言の詫びもなく、自己弁護をするばかりである。
 
シャロームと楽山は、一方的に私のせいにしています。かつ、真っ当な説明も弁明も出来ません。手段を選ばず自己弁護に終始します。高等感情の無い病質だからできることです。これからも基本的に変わらないでしょう。自分の都合だけで、おとしめに利用しますから、決して相手にしないでください。
 
 
論争中の相手に対して厳しくなるならともかく、すでに交流が絶えて久しい人に対しても、「言い過ぎた」「申し訳なかった」の一言もないというのは、まったくどうかしてる。
こういう事例をみると、「共感がない」「人の心がわからない」というのは、st氏の投影、自己紹介だと判断せざるを得ない。
 
論争中の相手にこそ、間違ったら、訂正して「言い過ぎた」「申し訳なかった」も言うべきです。信頼できない相手と分かった時点で、一切の、謝罪は、してはいけません。そして、そういう判断を裏切ることなく、楽山は、書くたびに、病質の悪性を露わにしてゆくのを、今、見ています。
 
 
*甘え
ところで、st氏は上のコメントで、V氏がシャローム氏を支持し、st氏から離れたことを責めているが、思い返してみれば、私にも同じようなことを言っていたのだった。st氏は、私がst氏ではなく、シャローム氏を支持したことを怒ってた。
 
Vさんの話をしても、Vさんの発言はありません。Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。シャロームと楽山については、シャロームは約10年前に、楽山は3年余り前に、とんでもない人と気づいて、真実の敵だと思っています。
 
 
こうしてみると、st氏がいう「共感がない」「人の心がわからない」というのは、結局、こういう意味なんだろう。
「どうしてシャロームの味方をするんだ。どうして私のことを分かってくれないんだ。あなたには人の心がわからないのか。人に共感するということができないのか」(要約)
これは甘ったれた考え方だが、孤立してる人がこう考えるのは已むを得ないことであり、可哀想なことではあると思う。
 
私が「どうして私のことを分かってくれないんだ」と思っていると?・・とても気持ち悪くて、吐き気がします。共感は、人間性の最も大切な心ですが、楽山には、自己主張に聞こえるとは・・人間性の欠けた病質者らしい感じ方です。楽山には、共感ということを直観的に理解する感性がないのです。
 
共感が直観的に分からず、楽山は、自己中の自己愛によるご贔屓を求めること・・だと思っているのでしょうか。小学校へ行きなさい・・と言ったほうがよさそうです。誰も、楽山のような変質者には、卒業証書は与えないでしょう。学ばなかった報いが、色濃く表れています。
 
楽山のように人の心が分からない者は、表面的な言葉で、人を騙せると思っています。私は、それを批判しています。楽山を変えるためではなく、誰かが間違って交流することのないためです。社交では分かりません。このように文脈もなく悪口の当てつけになる劣悪さから臭気のように暗示されます。
 
楽山が、シャロームのような偽牧師に味方すれば、仲間だろう、同類だろう、くらいのことは考えるわけです。その判断は、今も変わりません。楽山は、さわやかさというものが全くない、とても気持ちの悪い男です。いつまで腐れ続けて、悪臭を放ち続けるのでしょう。
 
ライブドアには、シャロームのいちゃもんコメントがあり、私は、それも批判しています。もうだいぶ前のことです。記事「楽山の三文芝居」HNは、名無しの猫、シャロームであることは、文章の表面だけ丁寧な筆致から、指摘しても、違うと否定しないことから、明らかなのです。
のコメント欄
楽山とシャロームの、憎悪は、増悪するようです。汚物を見るようで、見苦しい限りです。
 
楽山は、いくら批判しても、理路を理解できず、情緒を受け取れないので、不都合に対する敵意だけで、平気で、記憶が薄くなっている過去の文章をネタにして、詭弁を弄し曖昧な迷路に誘導しようとしてきます。良心の節操が皆無の楽山です。一般読者が楽山に近づくことのないように批判しています。
 
 
自己満足に過ぎないと思いますが、また、楽山の粗製乱造の記事が、多量にアップされているようです。断末魔だと思います。量で優っても、ずうっと質が最悪の楽山です。誰も見ないことを願って止みません。常識も、見境も、なくなってきたのでしょう。前と同様、私も、全部を読むことはしません。
 
こんなに書いたぞ、全部見てみろ・・という楽山の自己満悦が、拙劣な理路と、鈍い心を押し切って、書きまくる衝動に打ち込ませています。悪い病人です。誰も信頼しないでください。関わると、とばっちりを食らいます。結局は、誰からも信頼されることはないのです。
 
 
無知なる闇

無知なる闇
 
 
(2022年03月27日)
 
 
 
  ぶらぶら
 
逆さになって
ひっくりかえった
夢を笑う
花を摘み
逆さにして
ぶらぶらと振る
何かを吹き
何かに吹かれて
みんな自分だったと
苦い実を噛む
濁った汁がしみて痛い
 
細かく雑草が揺れるほどの風
受けて少し逆流する
寒けが空っぽの気道を舞う
何を恐れている
それとも憎んでいる
咳き込むほどに渇き
荒れて
濁った痰に癒されるのは
肉体に似て
退いてゆくもの
しかし方角が違う
そちらへ行けば
逆さになって
ぶらぶらになって
 
後ろを向いた眼球を
旅人の姿に隠して
ぶらさがって
空へ落ちかかっている
この世を
そんなものだと
眺めながら
誰にも会わず
去っていったあいつ
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人道から外れ続ける楽山は、人間性を、元々知らないか、なくしたのでしょう。記事に書いたように、共感が分からなければ、愛も分かるはずはありません。楽山に近づく特に女性は要注意です。楽山は、知らない、分からない、理解できない・・ということが、病質者を通して、もたらす災いの資料です。
 
 
 
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