ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年05月

 
  信仰者の感謝2
 
 
感謝だけでは
信仰は語れない
 
感謝する人の
善い話と
感謝しない人の
善くない話だけでは
信仰は語れない
 
感謝できないこともある人の心
 
人の心に触れ
人の心を通して
人の心を考えなければ
神の下にある人の信仰は語れない
 
悲しみから仰ぎ祈り求めるところから
信仰は始まるのではないのか
 
救われたという体験によって
すべてが感謝に変わって
そのままの感謝が一生続くだろうか
 
幾つも幾つも躓(つまず)きの石があり
何度も何度も躓いては
跪(ひざまず)く
その危うさを知っても
なお信じることに帰るしかないのだ
 
信仰者の感謝は
安定ではない
安定を装うことでもない
 
傷だらけの人として
帰るところに
待たれているという信仰ではないのか
 
 
祈るとき
既に総ては見抜かれている
それが全能の神のほうを向くということです。
 
悲しい心を見抜いておられる神に
人が無理して感謝の祈りを捧げるならば
神は、どう思われるだろう。
 
正直であるかどうか
それだけを見ておられる神に
正直な祈りを待っておられる神に
嘘の感謝をして
神は、悲しい人を救うだろうか。
 
信仰とは
救いのATMではないのだから
神の仕組みではなく交流なのだから
人が生きているなら
生きた祈りをするべきでしょう。
 
悲しいなら悲しいと
苦しいなら苦しいと
神などいないと思ったなら
そう思ったと。
 
本当にいないと思っているなら祈ったりしないはずです。
 
神などいないと思うのは、
祈る心が正直であるなら
神などいない
という"叫び"であることが伝わるだろう。
苦悩の叫びは、最も正直である。
 
神は正直な叫びであることをご存知である。
 
立派な祈りなど存在しない。
 
人が立派でないことを
神は既にご存知である。
 
神の前に
正直以外は通用しない
と言ったのはこのことであります。
 
 
感謝と讃美だらけの
嘘っぱちの祈りをする者を知っています。
神を信じてなどおらず
神を侮(あなど)り、恐れない者です。
人格そのものが嘘っぱちになっていました。
 
 
明暗

明暗
 
 
(2011年)(2019年)(2020年)
(2022年05月31日、再録+加筆)
 
 
 
  陰から光へ 2
 
 
愛を知りたければ
愛のない世界の有り様を知ることだ。
 
憎しみ、恨み、嘲り、罵り、
そして言葉と肉体の罠と暴力の世界
 
すべて経験していなくても
弁えるべき知識として考えることだ。
 
真善美を知りたいときも
同様である。
 
陰性を知ることで
その対極を想起することが必要だ。
 
陽性ばかりを見て
良かったと言っても
人間にとって
陽性の見聞きが与えるものは
飾り言葉になりやすく
弱く浅く薄くなりやすい。
 
それは恐らく
気持ちの良さを優先するからだろう。
 
キリストの愛を受け取った人々は
マイナスの世界を知っていた人々。
 
陰を知るゆえに光に反応できるのです。
 
 
キリストの
物や肉体の奇跡に彩(いろど)られた愛を知っても
真似ができるわけではない。
 
いい話の
夢が叶う物語が
実話でもフィクションでも
真似をして叶うとは限らない。
 
 
真善美と愛を裏切る偽善者の話を見苦しいと分かるためには
真善美と愛を少し知っているだけでなく
偽悪醜を知る必要がある。
 
反キリストのカルトと偽善者の存在を知ることは
彼らがなぜそう呼ばれるのかを知ることで
そうならないための道を暗示するだろう。
 
カルトの偽善者は愛を知らない。
彼らは都合の良さを漁(あさ)っているだけだ。
 
彼らに頷かない姿勢を学ぶなら
それだけで良き訪れといえよう。
 
真善美を描くときには
必ず悪役が登場する。
 
現実もそうである。
それも逆説的に福音の一部とも言えよう。
 
多く勘違いされて
美談ばかりを語ろうとするなら
 
美談を罠として利用する者を見逃してしまう。
 
愛を知りたければ
カルトに感染しないための予防注射として
愛のない世界の存在を知ることだ。
 
そうすれば
美辞麗句で飾った話など出来なくなるだろう。
 
 
罪人である人間は
真善美の信仰を知ったつもりで
真善美という言葉によって
真善美らしい外套を身につけるが
それで真善美が伝わることはない。
 
真善美の字面だけなら
真善美は私たちを裏切るからだ。
 
聖書もまた
信仰を心から讃(たた)える者だけでなく
信仰を讃えながら曲げる者が出てくることで
理解を深めることが出来る。
 
愛のないさまを見るとき
愛のある様を対極に思い描いている。
 
人は愛のないところを知って
初めて愛を求める。
 
キリストが見抜いた最も大きな罪であるところの、善の仮面をつけた偽善は、いつも"光"の芝居をするので、その陰の部分を知らない限り、あたかも光のように見えて、社交の世辞が斜光となって、人を欺き続けるだろう。
 
陰に潜む凶悪な偽善を見抜くために、陰を知ることが必要である。和(なご)みを装う笑顔の裏に、あざ笑いを見抜くだけの感性が必要である。その答えは聖書に、偽善と闘ったキリストの生き様にあります。
 
光だけを見ようとしても
陰のない光は何も見えないのと同じだろう。
 
光は
陰のあることを知らせて
光と自覚される。
 
私たちは陰影の中に生きている。
 
 
(2022年05月31日、再録)
 
頷く(うなずく)
彩る(いろどる)
 
 
 
  赤の明暗
 
雪に目を見張る少女
頬の赤み
 
白い中へ飛び込んでゆく
横面ひっぱたかれて腫れ上がった顔
頬の赤み
黒ずんで逃げ出してゆく
 
どちらも痛みを忘れる驚き
危うく帰らぬ人
 
 
  影絵
 
思い出そうとする
あったようで
あったとは思えない日々について
出会った人々の顔について
名前を抜きにして
明暗を分けることの出来ない影について
あまりよかったとは思えない
数々の自分の顔について
 
影絵を見るように
そこにあったと思い込む
生き生きと影が集う物語に
思わず友を呼ぶ
 
急にうすくぼやけて広がる低みに
一つの影が退場する
そして影絵の裏側で
舞台裏のしゃがんだ汗ばんだ顔の後ろで
折れ曲がった
顔のない
ぶら下がりのゆらゆらが
もう笑いもせず泣きもせず
役割を終えて手を離れ
いま平坦に横たわる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰にも感謝できず、不遇への復讐のような憂さ晴らしばかりをしてきた楽山は、感謝の心を忘れ、明るいところを嫌い、深い隠蔽の澱(おり)のような溜まり場に棲んで、そこに悪意を溜めて、嘘と詭弁に明け暮れながら、人間の条件である良心を、次から次に捨ててきたのでしょう。
 
 
 
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  批判の節操2
 
 神を批判してはいけないのか?
 2014年12月06日
 楽山日記(LD)
 
 
「楽山日記」で検索したところ、上の記事が見つかりました。私が楽山を批判する前の記事だと思います。恐らく、ずっと前から、キリスト教を侮辱してきたのでしょう。そうしながら、クリスチャン芝居もしてきたのです。見逃してはならないところがあるので、書いておきます。
 
楽山は、「意見を言ってはいけないのですか」などという、もっともらしいことを書いたこともあります。当たり前に、いけなくない、が成り立ちそうに見えますが、言うことが成り立つ範囲や条件をぼかして自己正当化してくる楽山の詭弁の筆致です。責任を負わないところに、自由はないのです。
 
 
*神を批判してはいけないのか?
宗教を信じている人の中には、「神を批判してはいけない!」という人がいる。本当にそうだろうか。この点について、自分の思うところを書いてみたい。
 
批判は自由です。しかし、楽山は、批判をしたことはありません。楽山は、こちらの言い分を全く受け取ることなく、勝手に書いているだけなので、これは、批判ではなく、嫌がらせか悪口に過ぎません。そういうことを書く者には、言うまでもなく、批判をする資格はないのです。
 
 
*あるクリスチャンの言葉
このテーマについて考えるとき、いつも思い出すのは、あるクリスチャンの言葉だ。彼(クリスチャン)は、キリスト教批判に対して、次のような趣旨の話をしていた。
「批判者だった人が、熱心な信仰者に変わることは珍しくありません。批判というのは、見方を変えれば、それだけ関心があるということなのでしょう。これは無関心よりはずっといいことです」
これはなかなか含蓄ある言葉だと思う。
 
楽山が批判者であれば、信仰者に変わる可能性はあるのでしょう。しかし、楽山は、上に述べたように、きわめて卑怯な誹謗中傷をしてきただけです。2014年のこの記事に書いた"含蓄"?、楽山は、全く受け止めておらず、気にもしていないということが表れてきたのです。
 
 
*批判してはいけない神とは?
「神を批判してはいけない」というときの神とは、どのような神のことだろうか? それには次の三種があるように思う。
A.宗教教義(神の教え?)
B.教祖(生き神様)
C.宗教教義で定められているわけでもなく、教祖でもない神(各人が持っている神のイメージ)
 
楽山は、「どのような神」としてA,B,Cなどと上げていますが、概念を言葉にしたような表し方で、神を規定することなど出来ません。それを、軽々とやっている楽山が、いかに、神も、宗教も、キリストも、いかに安っぽく、知ったかぶりだけで書いているかが表れているのです。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。批判の節操を守らない者に、批判する資格はないと言っています。決定的なのは、私たちは、批判するほどに、神を知ってなどいないということです。ゆえに、神と人の存在の違いを、楽山は、全く理解できないのです。
 
また、批判されたときには、当然、批判された側は、批判返し、すなわち、反論または弁明の権利を有します。つまり、自分発信だけの楽山は、自らに向けられた批判に対して無視するだけで、宗教思想としても、批判としても、成り立つことはないのです。
 
 
*Aについて
宗教教義というものは、人による神解釈ではあっても、神そのものではないだろう。神の意思を、人に分かる形に翻訳、解釈したものが宗教教義なのではないか。
そうであれば、「神(宗教教義)を批判してはいけない」というのは、ようするに「自分の信じる神解釈を批判してはいけない」ということにすぎないように思える。
 
注意してほしいのは、楽山が、既に、神を、人の神解釈として語っていることです。それは、どこにも証明も担保もされていません。詭弁全開のインチキ楽山です。そうやって、神不在を刷り込んでくるのでしょう。いかなる神にも、楽山の傲慢な自己愛は、見当外れに独り遠吠えしているのです。
 
楽山のような無神教カルトの語る神は、聖書が語る神とは、全然、別のもので、楽山の概念の産物に過ぎません。楽山は批判などしていません。見当違いに吠えているだけです。楽山は、私の批判に対して、一度も、真っ当な反論も弁明もしたことがないのです。
 
 
*Bについて
これも上と同じだろう。「神(教祖)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じる教祖を批判してはいけない」といっているだけだろう。
*Cについて
これも上と同じ。「神(自分のイメージする神)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じている神のイメージを批判してはいけない」ということだろう。
 
超常の神を、地上の人が、批判することは出来ません。超常の能力と言葉を知らないからです。しかし、人間として疑問を言ったり批判することがいけないとは言っていません。楽山は、対等に、対象として、批判できると思っているようです。楽山は、自分を人間より上だと思っているのでしょうか。
 
信仰によって関係する神ですから、信じない者には、神はいません。成り行き任せしかありません。心の支えも何もありません。ならば、信じない者が、神を語ることなど出来ない、ということが、楽山には分からないのです。
 
つまり、楽山が語る神?のように、極めて狭小で先入観の視野にあるものを神と呼ぶならば、いるとかいないとか、信じるとか信じないとか、一切が、無意味です。それを、ネチネチと刷り込んでくる楽山は、誰にとっても、相手する時間だけ、すべて害毒だということです。
 
つまり、字面を追っただけの悪口に過ぎないので、キリスト教もキリスト信仰も全く理解しておらず、幼稚すぎるから、批判になっていないという判断です。誰にとっても、非生産的で、非現実的で、参考にもならないことを、執拗に言ってくる楽山に、批判する資格も批判力もありません。
 
 
*信仰を傷つけないでほしい
以上をまとめると、「神を批判してはいけない」というのは、ようするに「私の信じる神(教義、教祖等)を批判してはいけない」ということのようである。もっと直截的な言い方をすれば、「自分の信仰を傷つけないでほしい」とも、「俺の信じる神に文句いうな!」とも言えるかもしれない。
 
まさしく、楽山こそ、俺の言うことに文句言うな!という動機から、今まで、一見、丁寧に見せかけるところの「なくもない」「否定できない」前には「かなあ」「というか」といったボンヤリ言語による、誘導、印象操作、刷り込み、などという詭弁を弄してきたのです。悪意の芝居でしかないのです。
 
 
*他人の信仰に対する配慮
他人の信仰に配慮することは、とても大切なことではある。ただ人はそれぞれ異なる信仰を持っているものだ。そのために自分の信仰に正直になることが、他人の信仰を批判することに通じることもありえる。
この場合は、どうすればよいか。自分の信仰を率直に表明してもいいのか。それとも他人の信仰を傷つけないために、自分の信仰を抑えるべきか。これについては、万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ。
 
楽山は、全く「他人の信仰に配慮すること」が出来ていません。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために「配慮」ということが出来ないのです。厚かましく、無遠慮に、ずっと、神と信仰を、けなし続けています。言葉だけ丁寧にしても無駄なのです。
 
自分の信仰を語るのに、正直でないことは、偽りを言うことです。楽山が典型で、感情的な表現を、控え目にしても、侮辱は伝わることが分からないのです。評論家気取りの丁寧語で書いても、ごまかしは効かないのです。楽山には、正常な理路はありません。
 
相手に思慮も根拠も無く、こちらに体験上の根拠があれば、それを理解しない相手の言は、戯言以上ではないので、厳しくもなります。つまり、無反省で無責任な楽山とは、話をしても無駄ということです。楽山の理屈には、ゴールがなく、恣意だけなのです。
 
楽山とは共有できる前提がありません。楽山にとって、神否定は、前提となっています。ゆえに、無神教カルトと考えます。字面だけを追っているから、神に正直であることを、利便性や社交と同じように扱って、上のような「抑えるべきか」「難しい」などという、的外れの書き方になるのです。
 
 
*動機
次に、「神を批判してはいけない」という言葉を発する動機を考えてみると、次の三つがありそうだ。
1.天罰をおそれて
2.神の使いをおそれて
3.反作用をおそれて
*1について
神を批判する人に天罰がくだることを心配して、「神を批判してはいけない」というのは親切なことではある。
ただこれは、「神は慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力は持たないだろう。
 
好きなように、神を決めつけて場合分けしています。神は、楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という欠陥人格によって規定され得るような安い御方ではありません。楽山は、いつも、身の程を弁えないで、言いたい放題の雑言屋なのです。
 
神は、愛の神であると同時に、戒め懲らしめる神でもあることが、聖書には書かれています。批判と悪口を混同している楽山は「神を批判してはいけない」という書き方をしていますが、祈りにおいて正直であることが必要である神に対して、楽山の嘘吐きは、酷い荒らしの自滅行為です。
 
楽山は、先ず神を決めつけるのが信仰?という見なしで決めつけて、そこにおいてのみ、文句を言ってきます。基本的に真逆であります。楽山は、神について、信仰についての、適性と感性が、全くないと言ってよいでしょう。虚栄だけで、神を云々する姿は、醜いだけです。
 
祈りは、批判ではなく、ましてや、悪口でもなく、疑っているなら、疑っていると、疑問を訴えることは、正直な気持ちの祈りとしてありうることです。キリスト者は、神と双方向の手段として祈りますが、神と社交のお友達になるわけではないのです。
 
ただ、その時、信仰者なら、神を恐れて、ふるえることはあるでしょう。それは反省を促すかもしれません。少なくとも、信じることで完全になることはなく、ましてや、知ったかぶりで上から批評を語る楽山の手に負えるものは何もないのです。
 
 
*2について
神は天罰をくださなくても、その下にいるものたちが罰をあてることを心配して、「神を批判してはいけない」というのも親切なことだ。
ただこれも、「神はもちろん、高級霊も慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力を持たないだろう。
また、このように神や高級霊はどこまでも慈悲深い存在だと信じている人からすれば、「天罰」云々と言う人たちは、「慈悲深い神や高級霊と、祟り神や地獄霊との違いが解らない人たちだ」と見えるかもしれない。
 
楽山は、自らのペーパーのような頭で、神の辻褄を、自らの貧しい辻褄と同じ次元で、述べたいようですが、このような先入観と偏見での場合分けは、信仰にとって、何の意味もなく、何の役にも立ちません。何もかも一面的です。その見方で、神と人間を気安く分けてしまうから、話になりません。
 
 
*3について
神や高級霊が天罰を下さなくても、神や高級霊を悪しざまにいえば心の法則によって反作用があることを心配して、「神を批判してはいけない」という人もいるかもしれない。
これは一理あるように思えるけれども、批判者の心を動かすのは難しそうである。批判者は神を批判しているつもりはなく、「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっているだけだ」という考えを持っているだろうから。
 
「高級霊」「心の法則」って何でしょう。辻褄合わせに思いついた安易な言葉が、信仰に通用することは永遠にないのです。凄まじい楽山の詭弁です。このような幼稚なことを並べて、真理について語ったつもりになる楽山は、真実の追求において、まず最初に除外されてしかるべき欠格者です。
 
私は、批判ではないものを批判ではないと言い、理解ではないものを理解ではないと言い、おかしい楽山の頭と心を、おかしいと言っているだけです。楽山は、理解ではないものを理解と言って押し出してくる厚かましい荒らしに過ぎません。楽山に関わってはいけません。
 
楽山の語る神が神ではないと言うのは、聖書の伝えていることを楽山が何も受け取っていないからです。楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、人間らしい心を捨ててしまったために、受け取るだけの器を持っていないということです。
 
 
*もう一つの動機
以上、利他的動機について書いてみたけれども、もしかすると利己的動機についても考えられるかもしれない。たとえば、「神を批判してはいけない」という言葉の裏には、神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心がある可能性も考えられる。
 
ここは、楽山の、自分は分かるんだという強迫性であり、邪推とも言えるでしょう。つついてもしょうのないところを、楽山は、執拗に、つついているだけです。心ない者が言葉の字面だけにこだわると、いかに本質から逸れてしまうかという例でしょう。楽山は神を批判するが、誰にも届いていないのです。
 
利己的動機が激しいのは、楽山その人です。どこにも通じない幼児語のような詭弁を、長々と、いつまでも書いてくる図々しさは、吐き気ものだということが、楽山にだけは、分からないでいるのです。神という言葉の仰々しさを悪用して、無益な雑言を引きずらせようとしています。楽山は病原です。
 
 
「信仰を守る」といえば聞こえはいいが、実際は「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドにしがみついているにすぎないこともあるものだ。また「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されているだけのこともある。
このようにプライドや恐怖心から、「神を批判してはいけない」と言うこともあるかもしれない。
 
それは、まさに、楽山の自我の空想=固定観念について言えることなのです。キリスト信仰においては、悔い改めと祈りが生活になります。プライドにしがみつくことが信仰だと思っているのでしょうか。それは、楽山が、徹底的に、邪推してゆくしかない宗教不能者であることを示すだけです。
 
楽山は、観念の奴隷だと思います。だから、字面にしがみついているのです。"「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されている"ならば、それは信仰ではないのです。つまり、楽山は、間違った信仰を論って、キリスト教とキリスト信仰を、曲解で貶めているだけなのです。
 
 
*動機の見分け方
「神を批判してはいけない」という発言の根底に、思いやりがあるか、利己心があるかは、その発言者の態度を見ればおおよその見当はつきそうではある。
 
楽山が、記事を書く根底には、心の利己心、つまり、自己愛と自己中心しかないと思います。そこから見下ろす視線で書いている限り、楽山が、神も信仰も理解することはないでしょう。そのような証拠が、3年以上も蓄積されてきたのです。
 
 
ただ人というものは、心中が愛だけの人も、利己心だけの人もいないだろうし、激怒の裏に深い愛情があったり、穏やかさの下に冷酷さがあったりすることもあり、ややこしいところもあるから注意が必要だけど。
 
結論のないボンヤリ言語です。愛、利己心、激怒、愛情、穏やかさ、冷酷さ、と書いた後で、ややこしいと書くだけで済ませられるのが、楽山の自己愛と自己中の自己満足です。まさに「穏やかさの下に冷酷さがあったりする」のは、楽山に、ぴったり当てはまっているのです。
 
 
*神を批判することは可能なのか?
ちなみに私は、神とは超越した存在であると思っている。人には人知を超えた神を認識することはできず、したがって神を賛美することも、批判することもできないのだろうと。
 
またまた、楽山は、安易に、超越という言葉を、存在に付けて、神を、言い得たつもりのようです。しかし「超越」という言葉だけで、深い実質が何もないのが、楽山なのです。
一方、超越していない不完全の自覚があれば、楽山と違って、神を信じることが出来るのです。神を必要とするのです。
 
 
おそらく、人にできるのは、真実の神についてでなく、自分または他人がこしらえた神像についてああだ、こうだと論評することくらいなのだろう。
 
驚きました。まさに、楽山がしている、こしらえ話のことです。何の意味もありません。人が、神について出来るのは、聖書から何を受け取ったかという話と、信仰者の考え方と、人が信仰によってどう変わったか、という人の側の変化の話です。
 
どうか、楽山のような偽者の語る神の話を、それが肯定でも否定でも、真に受けることのないように、また、感情を乱されることのないように、だまされないように、決して、楽山に近づかないでください。関わらないでください。
 
 
*信仰と自由
ところで、「神を批判してはいけない」という人たちを見ていて思ったのだが、人はどのような神を信じるかによって、自由が広がったり、狭まったりするようである。
考えてみれば、人格を持ち、感情に突き動かされながら裁きを下す神(生き神様、人格神等)を信じるよりも、人格を持たず、感情もない自然法則のようなものを神と信じた方が、神の機嫌を損ねることをおそれる必要はなくなり、自由になるのは当たり前なのだけれど……。
 
楽山は、他者について、「自由が広がったり、狭まったりする」と言っています。しかし、楽山は、一度も、広がりのある自由な言論などしたことはありません。自由ではなく、人を人とも思わない無責任な自己中で勝手な偏見を繰り返してきただけです。
 
楽山は、ここで、自らの気分的で気晴らしにしかならないような、自然への信仰?を、勧めてきます。自然の機嫌を損ねることはないそうです。津波や雪崩のことをどう考えているのでしょう、偉大だと仰いでいられるのでしょうか。楽山の、いい加減な字面の工作が、どんどん壊れてゆきます。
 
 
*信仰それぞれ
世の中には、狭いところがすきな人もいれば、広いところがすきな人もいるものだ。他人から束縛されることを喜ぶ人もいれば、喜ばない人もいる。そうであれば、人に干渉する神を信じる人もいれば、人に干渉しない神を信じる人もいるのが当然だ。
これはどちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではなく、個性のちがいということだろうし、そうであれば、人はそれぞれ自分に合った信仰を持てばそれでいいのだろうと思う。
 
狭い、広い、束縛、悦ぶ、人それぞれと同じように、人に干渉する神、干渉しない神、を並べて語るのは、いずれも通念的観念だけを追った字面の幼稚な図画工作に過ぎません。そのことの、優劣があるとかないとか、どうして、いつも飴玉を舐めているような楽山に分かるでしょう。
 
このように、いろいろ言った後で「自分に合った信仰を持てばいい」と、趣味の話の次元に貶めてくるのが、楽山の迷惑極まりないボンヤリ言語なのです。楽山は、自分の欲望に合う誤信念が訂正不能になって、もはや、人間とは思えない魔界から唾を飛ばしているだけです。
 
 
*人によって、神のイメージが異なる理由
結局、人は自分の姿を神に見ているのかもしれない。もしそうだとすると、「神を批判してはいけない」というのも、「神を批判してもいい」というのも、自分の姿を神に投影しているにすぎないのだろう。
 
そして「自分の姿を神に見ているのかもしれない」「自分の姿を神に投影している」などと言ってきます。色々書いた後で、これが、楽山の軽蔑と、悪意の企みなのです。そして、いい加減を、ちょうどよいものとして、勧めてきて、この世で、いちばん無益で浅はかな空論を刷り込んでくるのです。
 
信仰は、自分にうんざりした人が求めることが多いのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山には、全く理解できないことなのでしょう。だから、いつも、自分を誇大化して、他者を、雲の上の現象のようにフワフワした存在におとしめてゆくのでしょう。
 
 
*最後に
こう考えると、人に人格や個性がある限り、自他が同じ神のイメージを共有することは不可能であり、また無益であるように思えてくる。
真実の神が存在するかどうかはわからない。けれども少なくとも、人が語る神、または人が認識する神は、人から独立した客観的な存在ではなさそうではある。
こういったことを了解する人が増えれば、信仰の押し付けのようなことは減り、人々はより自由になることができるだろうなあと思う。
 
神のイメージと、神は、明らかに違います。前者は、人がいだくものですから、神への恐れによって、決めつけないことが必要です。それを混同して、神を否定したつもりになるのが楽山です。楽山の言は、宗教観として成り立っていません。まさに、楽山の言は、インチキノートです。
 
人は、神の意志と行為を知ることが出来ないのだから、神を決めつけたら、楽山のような短絡妄想症になってゆくでしょう。通念的観念を字面に当てはめているだけの低劣な楽山には、神について、否定についても肯定についても、一言も信頼に足る言葉を語ることはないのです。
 
2014年の、この記事と、最近言っていることと、楽山は、全く変わりがないように思えます。自己愛に慢心した者は、反省・学習・成長という変化が全く出来なくなるということが表れています。一生涯、このような迷惑な駄弁を続けてゆく人がいるのか・・と呆れるばかりです。
 
信仰の押し付けは、カルトがやっていることです。信仰の貶めは、楽山がやっていることです。信仰を持たなければ自由なのでしょうか。それで自由のつもりでいても、楽山は、気持ち悪いくらい異常です。宗教と信仰の必要と成立の起源を、まるで無視した、本末転倒の楽山です。
 
宗教について信仰について、その起源も必要性も理解していない怠慢な楽山は、今も、同じような、安物のイメージで宗教と信仰を語っています。無反省の訂正不能の、言論と頭のボンヤリ言語の弊害は、まるで、蜘蛛の巣が首に巻き付いたときのような不快感をもたらします。
 
楽山の言うような飾りの信仰?なら、いい加減に理解して、いい加減に信じてもいいのでしょう。何も良い方向に変える力のないワッペンのような信仰?を語るだけだからです。
 
楽山は、気取りだけで、知りもしない宗教と信仰をおとしめるだけの、荒らし的な雑言屋のペテン師です。汲み取れる何ものも持っていません。実感の全く無い楽山の屁理屈は、切実に救いを求めている信仰とは、何の関係もありません。楽山には、正常な人間の共感性がありません。
 
信仰は、それを必要とする人がいるから、伝えられて、広まっているのです。楽山は、信じる気がないなら、分かりもしない宗教と信仰について、自己愛の尿路結石のような心から、何も語るべきではありません。信仰は、湧水を見つけて手に掬うような、潤いを渇望する心に与えられます。
 
楽山やシャロームなどの易坊類に典型的なように、とんでもない曲解やカルト化という弊害が現象として起こっていますが、一方、理屈遊びではなく、生きるために不可欠な縁(よすが)として、今も、信仰の真実を必要とする人々がいるのです。
 
楽山は、善に見せかけて、無理解と悪意から、ひどい侮辱の言いがかりを、笑いながらしているとしか思えません。楽山は、意地悪な根性からの思いつきと嘘と詭弁で、実に低次元の安さと平気さで、偽善のラッパを吹き続けているサイコパスのサディストです。
 
字面(じづら)
論う(あげつらう)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
雪崩(なだれ)
 
 
然りは然り、否は否

然りは然り、否は否 (しかりはしかり、いなはいな)
 
 
(2020年)
(2022年05月30日)
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている
 
拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
悪よりも、悪が善のふりをする偽善が最悪です。悪がはびこる時には、多く偽善の形を取ります。その偽善者が、キリストの敵となり、キリストを殺しました。偽善者の「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」「自分もそんな風です」などと、共感のように語る大嘘を許してはいけません。
 
 
 
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  批判と悪口2
 
 
私は、カルト的な思想を、訂正不能に自己中に一方的に、批判を無視して、妄想的に書いてくる者たちを、以前はコメントで、その後は記事で、批判してきました。
 
彼らは、こちらの言うことを無視して、一方的に、自慢したり、おとしめたりしてくるだけです。はっきり言って、攻撃だけを目的とする記事やコメントには、罵り言葉だけで、汲み取るべき内容も根拠も全くないという特徴があります。
 
私などは、だいたい、結論だけのコメントには、記事で、結論だけだと指摘しますし、それに対して、正当な反論が来たためしがないのが、彼らの、カルト的、自己満足的、妄想的な、一方的主張であります。しかし、大方、訂正不能です。彼らは、真似だけで、本当の議論が出来ないのです。
 
誹謗中傷してくるだけの悪意と自己中の者の根っこには、自己愛性人格障害、などの、人格の病気の可能性があります。生まれて大人になるまでの、遺伝と成長の過程で、出来上がった人格が原因であるならば、医療によって治る可能性も、なかなか、期待できないのでしょう。
 
なお、私の批判記事一つだけを見れば、言い過ぎと思われるところがあるかもしれません。批判対象について、最初から批判だったわけではありません。
 
批判対象シャロームとの付き合いは、だまされて聖書の先生だと思っていた数年と、批判してきた約10年の経過があります。罪は悔い改めなくとも許されるから気にしなくていい、という、とんでもないことを言い出したことで、偽牧師だと判明しました。
 
批判対象の楽山については、数か月のつ遣り取りの後、批判対象となり、約3年以上の批判の経過があります。その流れで批判を書いているので、一つの記事だけで云々されるのは、的外れであります。
 
楽山は、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、という発言から、全く議論を理解していない幼稚な病的ナルシストぶりが明らかになっています。
 
いずれも、あるときから、とんでもない理不尽なことを書いていることに気づいて、批判が始まっています。元々知らない人であり、理解も、そして結局、批判も、気づきから始まります。最初から批判で始まるということはないのです。
 
彼ら自己中の者たち、楽山やシャロームは、自分は被害者です、酷い攻撃にさらされました、とか言って、記事を書いてきます。彼らは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そして精神病質サイコパスであるために、罪悪感がないのです。
 
さらに、あくどいのは、一度に、たくさんの記事を書いて、相手が批判して疲れるのを期待する場合もなります。このような企みから、病質者の、根深い病的な性根を見ることもあります。他者のことなど、何とも思っていないのです。その分、彼らの文章も、何の役にも立ちません。
 
 
私のスタンスとして、今では、基本的に、記事は、批判対象が病質者の場合には、反省や罪悪感に期待するのは不可能と思われるので、よりも、むしろ一般読者に向けて、彼らカルト的な宣伝サイトについて、警戒を呼びかけて、近づかないようにしてほしいという目的になっています。
 
彼らの文章は、うわべの言葉や見かけで、受け入れを誘ってくる丁寧語であり、そこに、嘘と詭弁を刷り込んで誘導してきます。関わるだけでも、無駄に疲労し、結局は、人格を破壊される恐れがあるので、こちらは、決して近づかないでください、というアピールをするのが目的になっています。
 
ただ、そういう主旨はもちろん、私の記事の理路についても、自己中で理解力のない批判対象によって無視されるでしょう。いつも、被害者面して、ときに、多量の嫌がらせの記事を書いてきます。しかし、批判と悪口を混同している彼らには、根拠が何もないのです。
 
批判も、罵詈雑言を使うことがあります。その理由は、相手が、全く批判を理解できず、受け取ってもいないからです。私の批判記事は、大方、読者が読むことを意識して書いていますが、加えて、厳しい言い方を批判対象に向けて書いています。辛辣な比喩表現などです。
 
もし批判対象が見ることがあれば、批判対象はお前だ、ということを明確にするために、罵詈雑言≒全否定を書いておく必要があります。このように、罵詈雑言は、根拠を十分に示したのち、コントロールしながら、使うことがあります。
 
相手が、一般的な議論など、全く成り立たない者である場合です。上の二人は、理路を、理解できず、組み立てられず、詭弁と嘘で引っ掛けて、印象を吹き込んできます。さらに、感性的享受ができないので共感が成り立ちません。月並みで平板な文章を書いてきます。正常人とは、全然、違うと思います。
 
 
繰り返しになりますが、私がこの記事を書く理由は、そのように、批判を受け取らず、無視して、好き勝手に書いてくるような者たちが、反論も弁明も出来ないのに、いろいろな事件をネタに、被害者面して、読者に安易に同情を誘うために、何か書いてくる可能性が危惧されるからです。
 
もっともらしい批評家気取りの筆致には、十分、注意してください。結論として、私が思うのは、悪口だけの言と、批判とは全く別だということです。私が批判してきた対象は、記事やコメントで、結論だけを繰り返して書いてくるような、不感不応のカルト的思想の異常人格なのです。
 
彼らの記事自体が、既に、回りくどい雑言と言ってよいような、無益で無意味で、こちらを疲労させるだけの、とても迷惑で、反社会につながるものだから、引き続き、批判対象になっています。
 
 
一般に、罵詈雑言だけの発言というのは、否定の結論だけを繰り返し言い張るだけのような、価値の無いものですから、そんなことのために、めげたり、最悪の場合、死を思ったりなんて、しないでほしいということです。
 
批判というのは、相手を否定する言葉だけでなく、相手の不正について根拠を示してゆくことです。場合によっては、和解が可能です。
悪口というのは、根拠もなく、相手をおとしめる言葉だけを書くことです。和解は不可能であることが殆どでしょう。
 
実質のある批判の中身があれば受け取り、必要があれば反論や弁明も出来るでしょうが、
実質のない悪口だけのコメントに対しては、気にしないでいられる気持ちの強さが必要です。
前者の批判に対して、後者の悪口だけを言ってくる者、サイコパスを疑います。
 
 
批判と悪口

批判と悪口
 
 
(2020年)
(2022年05月29日、再録+加筆)
 
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
 
 サイコパスについて
 
人間は、やってはいけないこと、言ってはいけないこと、などについて、分別を持っているものです。人間に、そうさせているのは、良心です。良心によって、他者と共感することで、悪の道を避けるようになるのです。しかし、中には、良心を持たない者がいます。
 
生まれ育ったときに既にそうなっているのがサイコパスです。他にも、洗脳や、刷り込みや、偏った教育によって、マインドコントロールされて、後転的に良心を失うことがあります。後者は、良心を回復することが可能であるかもしれませんが、難治であることに変わりありません。
 
前から、何度も言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
サイコパスは、人口の1~2%いると言われています。それが正しければ、日本には、100万~200万人のサイコパスがいることになります。1クラスに一人となると、少なくはないです。
 
サイコパスには、良心がなく、情緒面では、しんみりとした悲しみの情がありません。サイコパスには、笑いと怒りしかありません。そこからの嘲笑と憎しみ~怨念があります。議論中に、しばしば、笑う人や、あざ笑う人や、怒鳴って返してくる人には、注意が必要です。
 
サイコパスは、理屈を言うことがありますが、整った論理性を持ちません。自分を客観的に見ることが出来ないからです。偏向した屁理屈を言い張ることがあります。感受性については、理性的にも情緒的にも劣っています。自己の発想が、優位性の絶対となっているからです。
 
サイコパスは、反社会性人格障害と呼ばれますが、反社会性は、犯罪傾向が明らかになってから分かることです。サイコパスは、元々は、精神病質の訳で、人格的そして体質的な病態です。自己中心が特徴なので、広く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、NPD)と呼ぶべきだろうと思います。
 
サイコパス、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、人を相手にする職業についてはいけない人です。表面的には丁寧でも、付き合ってゆくうちに、疲労と破壊をもたらすでしょう。その段階で気づいても、なかなか手遅れなのです。体質ですから完全治癒は困難だと思います。
 
サイコパスは、思いやりがあるような言い方や態度を見せることがあります。それで要職についている場合もあるようです。しかし、それらは、見せかけの言葉や態度であって、付き合い続ければ、結局は、破壊的、自滅的な、経過と結果をもたらすでしょう。関わらないことが大事です。
 
前にも書きましたが、サイコパスは、単に、自慢好きや、怒りっぽい人、押しの強い人とは、違います。そういう見かけサイコパスの人は、のっぴきならない事態では、途端に、慌てるように、真面目になって、自省し、考えることが出来るからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてくる文章は、なんとなく正しいような気のしやすい文章ですが、よく読むと、根拠がないことや、嘘や、曖昧な言葉を個別のことに当てはめるとか、特殊な言葉を全体に当てはめるとかの、詭弁が含まれています。個人の安全のためには、相手にしないことだけが対策となります。
 
 
 
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  楽山ツイッター(3)2
 
 
2021年の楽山の、無理解からの、努力ではなく、使命でもなく、務めでもなく、真面目でもなく、ふざけ半分の、趣味のような、憂さ晴らしのツイッターです。生きる楽しみが、意地の悪い趣味以外にないのだろうかと思います。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の影響が垣間見えますな。
つーか、詩人、作家であれば、「限りなく透明」という表現は避けそうなもんだけどね。
午後8:15 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」は、読んだことがあります。楽山は、この題名の「透明」の意味を分かっているのでしょうか。「透明」は、存在しないかのように、無視される、「ブルー」は、悲しみでしょう。
 
楽山は、「透明」を、まさか、透き通って美しい・・みたいな意味に捉えているのでしょうか。それで、「詩人、作家であれば」「避けそうなもんだ」、と言っているのなら、楽山の読解力は、ひどいものです。ひょっとして、読んでいないのではないかとさえ思います。
 
読んでいないのなら、上のような悪口は、それこそ、何の根拠もないことになり、村上龍をネタにしているだけだから、相手を選ばずに論(あげつら)う酷い侮辱です。楽山は、存在感もなく透き通って、人をブルーにする透明人間なのでしょうか。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
「自分の意思で信じています」と、わざわざ強調してあるところが、
二世、三世信者の現状を如実に表してるなあ…。
午後8:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
楽山に、宗教批判をする資格はありません。この3年余り見てきましたが、楽山の書く文章には、まともな根拠が、まるで示されていないからです。書いてきたのは、揶揄、嫌がらせ、いちゃもんだけです。なぜそうなるかと言えば、楽山が、無反省・無神経・無責任・無理解、そして鈍感だからです。
 
楽山の言うことだけは、どうか、信用しないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、ゴシップ好みで、笑って茶化しているに過ぎません。受け取っても、何の助けにも参考にもなりません。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·14時間
前半の話は聞いたことあるけど、後半の話は初めて聞きました。なるほど。
喜べる人はより喜べるようになり、嫉妬深い人はより嫉妬深くなり惨めになるというのは、恐ろしいけど、真実なんだろうな。
引用ツイート
Testosterone
@badassceo
 · 15時間
友人や知人の成功を一緒に喜んであげられる人になろう。それができれば友人や知人の数だけ喜べる数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに自分も幸せになれる。逆に、それができない人は友人や知人の数だけ嫉妬の数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに惨めな気持ちになる。この差は超デカい。
 」
午後0:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
楽山は、二進法のような安易すぎる是非の誤判断はしても、共感性がないので、喜びと悲しみを共にすることが出来ません。ゆえに、ルサンチマン的な嫉妬からの惨めな気持ち、そして、その反発として、敵意、揶揄、無責任な否定、幼稚な動機からの笑い、といった低次元の反応しかしてこなかったのです。
 
「喜び」と「惨め」さと書いて、心に響くような説明もなしに、物差しで測るような単純な理路で、「この差は超デカい」という、表現を強めるだけの軽薄な形容で、つまり、これも、笑いのネタにしているだけなのです。
 
楽山は、人間らしく喜ぶことが出来ないので、意地悪に笑えることだけを求めています。人格も、理路も、感性も、破綻して、「恐ろしい」事態になっているのは、楽山です。真剣味がなく、他者は雑談のネタに過ぎないのでしょう。
 
刹那的な常套句の遣り取りという見せかけだけの付き合いを続けて、長く親身になって付き合うことのできない楽山からの、にじみ出てくるような敵意と怨念が筆致の裏に隠されています。恐らく、真面目に考えるということが出来ない障害なのだろうと思います。
 
楽山には、人生の目的がなく、他者について、自らの惨めさから嫉妬して、怨念のようなものがベースとなり、そこから物を言うゆえに、感受する焦点がズレて、理路が歪曲し、理解から遠のき、他者の欠点ばかりをあげつらい、揶揄して、面白がるだけになっているのでしょう。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
・・・
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
うさ@宗教2世・非定型うつ
@merry_ura
よく奇跡の体験などで「信仰して病気が治りました!」って体験談出てくるけど
信者 かつ 病気が治った人
を切り取っているだけに見える。他にもいろんな人がいるのにね。
同じ病気の信者と未信者を集め、長期的にデータをとって「信仰すると○%治る確率が上がりました」ってしないと納得できないよ
 」
午後0:37 · 2021年4月16日·Twitter for iPhone
 
データの選択による偏りを言っているようです。信仰は、病気が治る呪(まじな)いではありません。信仰は、心の救済であって、物や肉体の奇跡のご利益ではありません。また、信仰は、データを取って有意だから信じる、などというものではありません。超常のことは、神にお任せするのが信仰です。
 
楽山は、宗教に恨みがあって、おとしめたいので、こういう見方に賛成してリツイートするわけですが、楽山自身が、霊が分かるっぽい超常の自覚から、奇跡を起こす人になりたがっているのです。結果は、人をだまして面白がる悲惨な絶望への一方通行です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
近所の人やキリスト教界隈の人等から情報が寄せられれば教会に確認したりとかできますが、そういう取っ掛かりがないと難しいんですよねえ。あと、仮に特定できたとしても公表するかどうかは事情によります。
引用ツイート
「「
サボ
@apple200apple
 · 7時間
返信先: @SuspendedNyoraiさん
クラスター感染を引き起こした教会が一体どこなのか、取材して特定して貰えませんか? お願いします。そんじゃそこらの宗教被害やカルト宗教よりも、話題性があるかも。
https://tokai-tv.com/tokainews/article_20210416_168068
午前9:14 · 2021年4月18日·Twitter Web App
 」」
 」
 
楽山の悪趣味に合わせて、教会のクラスター感染を載せて、キリスト教を間接的におとしめている悪意が、かえって露骨になります。クラスター感染があったのなら公表し対策を講じるべきでしょう。どんなときも、決して、楽山に関わらせてはいけません。
 
また、いつもの、他者の口を使えば、自分が言ったのではないから責任がないじゃろ・・という楽山の厚顔無恥の企みです。引用した責任というのが分からない楽山です。楽山という悪性スピーカーには良心がありません。嘘と詭弁によって刷り込んで欺く者は、医学では扱えない悪性の病原です。
 
下手に楽山を参加させると、自己愛性人格障害の意地悪、無反省、無責任ぶりに、近くにいるほど、長く付き合うほど、頼りにすればするほど、忘れられないほどの消耗と疲労を味わうことになります。決して関わらないでください。
 
 
独り言の人生

独り言の人生
 
 
(2021年)
(2022年05月28日)
 
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
 
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
 
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴むことができようか
 
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
 
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
 
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
  捨てる
 
破り捨てることは
いつでもできる
書くことはいつでもできる
わけではない
 
捨てることはいつでもできる
君の中の僕の記憶のように
何てやすやすと
僕はまだ生きているのに
 
書いたもの全部
引きずって
何て重たいと
つぶやいたのは
書かれたものたち
 
もう放しても
いいよ
 
 
  悲しい顔の先
 
生きている間に見るがいい
紛れもなく有機物である人間の顔
そこから目をくりぬき舌を抜き
耳と鼻をそぎ落としたとして
いくつかの穴だけを伴った
首の上に乗っているのっぺらぼう
 
どれが涙でどれが血かわからなくても
凄惨な穴と穴の
位置と形態のあり様は
やはり人間の顔の迫真であるはずだ
 
生きている間に見るがいい
やがて失われていく水分のために
無数のしわが隠していくもの
頭皮を剥ぎ皮膚と筋肉をそぎ落とし
さらに乾燥して光沢さえ見せるされこうべは
不気味に笑っているかのようで
そういった悲しみの成れの果てに
下顎が落ちて
転がった先を無機質という
 
生きている間に見るがいい
土と石の中から無機質のかけらを
拾っては丁寧に泥を取り去り
集めては手に取って眺め
つぶやくように
「下顎骨・・・」と
深く静かに息をつかせるもの
見られている先を人間という
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
世辞と芝居と嘘と詭弁で出来た人生は、朽ちてゆくガイコツのようなものです。「だよなあ」「恥ずかしながら」と書いても、実感などは無くて、しらばくれる卑怯さが、一種異様な臭みをもって、鼻を突き、目を乾かし、口を歪ませているだけなのです。実りなき偽りの人生です。
 
 
 
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  楽山の実現したいこと2
 
 2021年05月15日
 幸福実現党の移民政策(2)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、秘密モードにすると言っていましたが、今度は、ツイッターの画像を引用して、幸福実現党を批判しているつもりです。もっともらしく見せるボンヤリ言語と、弱いんです芝居のトホホ言語が、詭弁屋の楽山の、唯一の武器なのです。
 
そして、その正体は、自身を省みずに、人を責めて笑う楽山です。幸福の科学を批判しながら、人を惑わせ、不幸に陥れるような詭弁と嘘を発信してきたのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山その人であります。
 
自身が、カルト的霊能者気取りでありながら、アンチというカルト批判者を装い、上から見下ろして、他者を云々してきたのです。いったい、どういう立場で、自身の罪悪・無反省・無責任を棚に上げて、批判者を気取っていられるのでしょう。
 
 
*移民一億人と打ち上げたのは事実
及川幸久氏が、移民一億人についてツイートしていた。
幸福実現党は立党時には、移民一億人を目標としていたが、その後は取り下げたとのことである。
20210515 今移民1億人も入れたら日本でなくなる
https://twitter.com/oikawa_yukihisa/status/1392852601247436802?s=20
 
空想的で荒唐無稽な移民政策だと思いますが、取り下げたのだそうです。楽山は、好きなように自己中心の自己愛から、得々として、反キリスト、神否定、右翼礼賛、霊能の自覚などを、思想家気取りで、語ってきました。取り下げることもしていません。言ったら、言いっぱなしです。
 
 
*素朴な疑問
移民一億人というのは、政治の素人がみても暴論、放言でしかないことは分かるだろうに、どうして党の数値目標とされたのだろうか。
言い出しっぺは誰? どうして誰も反対しなかったのか? もしかしたら党内の最高権威者が言い出したことなので誰も反対できなかった? どうなんだろう?
 
楽山は、問題視し詮索し追及したいようです。しかし、楽山自身の発言についてだけは、何の問題意識も持っておらず、修正もしないのです。それで、また言ってくる病質の厚顔無恥であります。自分のことを何も分かろうとせず、何も言えないから、人のことばかり言うのでしょう。
 
 
>*対照的 
ところで、幸福実現党が移民一億人を政策として掲げていたことについて、及川幸久氏は立党時にはそのようなこともあったとしているが、西野あきら氏はそのようなことはなかったとしていた。アンチの印象操作、嘘、捏造だとでもいいたげである。ここは正反対になっているのは面白い。
20210515 「移民で一億人」という印象づけをしたいのでしょう
 
他者の意見が「正反対になっているのは面白い」・・真実に関することで揶揄して面白がるのは、ナルシストそしてサディストの、楽山の特徴です。一人前の正常人のつもりで書いていますが、病質に侵されて訂正不能になっているのが自己愛性人格障害者なのです。
 
 
ていうか、西野あきら氏は及川幸久氏のツイートをリツイートしているではないか。
20210515 (3)西野あきら氏、一億人移民リツイート
(*赤線は引用者による)
 
若者気取りのボンヤリ言語「ていうか」が出てきました。一切の言論の責任を取らない楽山の言い方、"ていうか"、ゴシップネタの言い方、議論なのか駄弁なのかをぼかす言い方で、自身の嘘と詭弁の事実以外、何も表れていない楽山の落ちてゆく岩盤でしょう。
 
テーマは宗教、つまり、真実の追求という重要な問題の一つなのです。宗教について、何かを語れば、それは、その宗教を信じている人々に対しての発言であり、人間の生き方の問題になり、つまり、冗談半分で書いてはいけないことなのです。
 
「ていうか」だけでなく、今まで目立ってきた、ボンヤリ言語の婉曲、トホホ言語の同情芝居、当てつけ、いちゃもん、根拠のない決めつけ、等々、無責任に書いてくる楽山の軽い姿勢は、既に、あらゆる門前において、アウトなのです。
 
 
自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふりってよく分からん。
 
「自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふり」しているのは、楽山です。今までも、自己愛性パーソナリティ障害の証拠を、自ら、みすぼらしさとともに、露呈してきたのです。それだけをしながら、楽山は、余生を送り、そして、人生を終わりへ向かうのでしょうか。
 
楽山は、自分の嘘と詭弁を後ろに隠しながら、他者を批評・批判する病気で、病識のない精神障害で、かつ、体質によるものだから治療法も治療薬もなく、白々しさと、執拗さだけで、人をだまして、ネットに、リアルに?、生きてきて、実際は、真実が、どこにもない嘘吐きなのです。
 
嘘吐きとは、嘘を吐く人ですが、実際は、本当と嘘を混ぜこぜにして、人を、惑わし、だまし、あらぬ方向へ誘導する人、そして、その罪悪を隠す人です。部分的に、もっともだと思っても、決して、相手にしてはいけません。真実と言えるような、まとまりは、どこにもないのです。
 
 
 
  楽山と詩
 
 2021年05月16日
 『詩集 私のパンセ』をチラ見してみた
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
詩を理解できるとは思えない楽山が、ORの詩を笑うという記事です。似たようなカルト精神を持っていて、つまり、楽山は、アンチではなく、人をバカにして、あざ笑うことで、批判したつもりになるだけの安っぽい身の程知らずなのです。教祖願望があると思います。
 
 
書店で、大川隆法の詩集『私のパンセ』をチラ見してみたのだが、人を厳しく裁く父なる神を退けて、限りなく優しい母なる神を賛美していて、あっ!と驚いてしまった。最近、自分も似たような事を考えていたので…。面白い偶然もあったものだ(笑)。
 
「母なる神」を「考えていた」のでしょうか。楽山の教祖願望の傍証となります。しかし、楽山の優しさは、偽物です。基本的に、高みから人をおとしめて笑う姿勢が随所に表れてきたのです。楽山は、意地悪な因業ババア・・のほうが近いです。
 
楽山の思想は、ORに似ているのでしょう。楽山は、批判精神より、はるかに教祖願望のほうが強いということです。だから、批判を書いても、「(笑)」となり、バカにして笑うほうに書いてしまうのです。オレのほうが上だ・・という気持ちが勝ってしまうのです。
 
 
詩集全体をざっと見た感じでは、素朴で、短い詩が多いようだった。その雰囲気を真似て書くと、こんな感じかな。
 
 
どこまでも
どこまでも
広く
透き通った
美しい空
いつか私も
そんな心に
なりたく思う
 
月並みな表現で飾っているだけですが、すごいと思うのは「真似て書」けると思っていること。楽山は、自分が見えないので、今の自分が、どれほど、醜いかを感じないのです。楽山の記事と同様に、真善美の深みに触れることのないキレイごとだけで、正直言って、かなり、寒くて、痒いです。
 
 
自分でいうのもなんだけど、こういうスピリチュアルっぽいノリの文章であれば、いくらでも書けそう(笑)。
 
ここに、楽山の体質が、十分に表れています。「スピリチュアルっぽいノリの文章」・・って、詩でしょうか。楽山は、「いくらでも書けそう(笑)」なのだそうです。こういう侮辱の仕方もあるのでしょうか。楽山が「(笑)」なら、私としては、笑止です。寒気です。
 
楽山は「スピリチュアルっぽいノリの文章」を書けば詩になると思っているのでしょうか。批判のつもりで、他者の高慢をあざ笑うことで、自らの高慢を表してしまっています。あきれた自惚れ屋、のぼせて書いて吐き気と不快だけを与える、それが、楽山です。
 
今回「(笑)」が2つですが、恐らく、楽山は、自分が詩を読めないし書けないものだから、詩をバカにしていると思います。同様に、感受できないものだから、宗教と信仰をバカにしているのです。自分が出来ないことはバカにする・・恐らく、自己愛性人格障害の特徴だろうと思います。
 
私も詩のようなものを書いていますが、私のが優秀ということではなく、私は、現代詩を読んで感動した経験があり、詩を書ける人に尊敬の念をいだくとともに、できることをしているという気持ちだけです。「いくらでも書けそう」などとは、間違っても言えません。
 
恐らく、楽山は、罪悪感と羞恥心がないために、目から火が出るような恥ずかしさを味わったことがないのでしょう。だから、いかに自分が醜いかを感じることが出来ないのです。無恥であることに無知であることが、楽山の非道を加速しています。
 
 
楽山の詩が見たい人は
例えば
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 
詩ではなく「いろいろ」で済ませて改行した独り言でしょう。「いろいろな気持ち」と書いて、「尊い」と言い、「揺れを戻し、整える」「大事」と説教を書いて・・これは詩でしょうか。よく他者の詩のことを言えると思います。嘘と詭弁でだまして、「いろいろな」悪事を隠してきた楽山です。
 
 
ポエムを吠える

ポエムを吠える
 
 
(2021年)
(2022年05月27日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福実現党の提案する大統領制を、幸福の科学にあてはめれば、
幸福の科学のトップは信者らの選挙で選び、その権限、責任を拡大し、
大川隆法とその一族は違う次元の存在なので、教団運営とは全く関係ないものとする、これが大川家を守ることにもなる、ということか。
信者には噴飯ものだな、これは。
午前7:01 · 2021年5月16日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1393688044679491586
 
「大統領制」を「噴飯もの」と言って、また笑っている楽山です。人を笑うことが、楽山の生き甲斐なのでしょう。唯我独尊の楽山に「あてはめれば」、ずっと人間としても、また、最近は、ブログに秘密モードを宣言するほど、不遇と孤立が続いています。
 
霊能者気取りの楽山の望むことは、自分の「権限、責任を拡大し」さらに自分が「違う次元の存在」となり、高く高く舞い上がったつもりの陶酔気分に浸りたいのでしょう。人を笑えば自分が笑われますが、楽山の言は、噴飯ものどころではなく、糞飯もの、いわゆる、クソ食らえのレベルなのです。
 
(ネットより)
ふんぱん‐もの【噴飯物】 の解説
食べかけの飯をこらえきれずに噴き出してしまうほどに、おかしくてたまらない出来事。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄。「政治屋が政界浄化を語るなど噴飯物だ」
[補説]文化庁が発表した平成24年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「おかしくてたまらないこと」で使う人が19.7パーセント、本来の意味ではない「腹立たしくて仕方ないこと」で使う人が49.0パーセントという逆転した結果が出ている。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信仰継承についての天照大神の霊言では、
天皇は、天照大神の子孫という建前だが、宗教儀式をすることで存続を許されており、それを怠るなら危機的状況に陥ると語られていたかと。
これは万世一系も、天皇の神聖も認めないという意味だと思いますが、及川氏の考えはこれとは違うみたいですね。
午後3:36 · 2021年5月16日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1393817509174808585
 
「天照大神の霊言」というのがあるのでしょうか。一般に認められているのでしょうか。HSの主張でしょうか。本の名前なら、著者の善川三郎は、ORの父親のようです。このように、あちこちに、HS由来のことを当たり前のように引用している楽山です。
 
楽山は、アンチHSでしょうか、違うと思います。楽山の、いつも気持ち悪い「ですね」口調と「みたい」の婉曲は、恐らく、批判に見せかけた刷り込みです。楽山は、HSを批判している自分こそ、教祖に相応しいと思っているのでしょう。卑しい教祖願望です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を見ず、反省せず、学習せず、成長のない者は、他者のことを、あげつらいながら、逆に、自らの出来の悪さを陳列してゆくことになります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だから仕方ない・・ではなく、自分に相応しい時と所とテーマを、弁えない悲劇です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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