ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年06月

 
  偽アンチ:楽山の機関銃
 

 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 「アンチ論法」と「棒四季論法」2022年06月27日

 http://mmknky21.blog.jp/archives/15340373.html

   を批判。
 
 
楽山の発作的引用による投稿です。HSを批判しているつもりです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山には、反省することや共感することが出来ません。楽山の、上から評論家口調で語るのも、学術用語を好んで使うのも、自己愛という妄想の産物です。
 
HS側の意見は画像なので省略します。HSについては知識不足で、かつ、そこに楽山を批判する焦点はないからです。楽山はHSを批判していますが、その批判に、楽山が無視しているか、気づかない、病質的な欠陥からの悪意と作為が表れていると判断して書いています。
 
決して楽山と遣り取りをしてはいけません。とても異常な疲労を受け取ることになります。
決して楽山を味方と思ってはいけません。楽山は平気で裏切ります、逃げます。
楽山は異常者です。信頼関係を築くことの出来ない人です。
 
 
棒氏のアンチ論法の感想を書いとこう。
まず①について。
大概のアンチ諸氏は、信者の意見でも、まともなものはまともだとします。何でも反対ではない。
棒氏に反対意見が殺到するのは、他人にしたことは自分に戻ってくる、批判したら批判されるというだけのことです。
 
「まともなものはまともだとします」・・楽山の肯定は、世辞か、何らかの狙いがあってもことですから、真に受けないでください。楽山は、人のことなど、どうでもいいのです。自分を高めたいだけです。楽山には「他人にしたことは自分に戻ってくる、批判したら批判される」が起こりつつあります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
②について
棒氏は、「誤読だ! 誤読だ!」と騒ぐくせに、文意についての質問には、答えをはぐらかして逃げてばかりです。
どこがどう誤読かの説明はしません。
ようするに、アンチに反対したいだけなのでしょう。
 
楽山は、自分に都合の悪いことには、屁理屈を並べるか、平気で無視してきます。無視の虫です。楽山は、正当な理路がないために、相手の理路が分からず、それを、ごまかし、疲れさせる迷路を用意しています。決して関わっていけない人です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
③について
棒氏は、ブーメラン発言ばかりするから、文意を入れ替えて返されるんですよ。
盛大なブーメラン発言をしておきながら、それを指摘するなというのは無理な注文だし、これを避けたいなら、人を責めるより、まず自分が気をつけることです(笑
 
批判したら、その批判が自分に向かってくる、というブーメランは、楽山に、ほぼ常態として表れてくる現象です。自分を見て反省するということが出来ないからです。「人を責めるより、まず自分が気をつけること」・・これは明らかに、楽山に向けられるべきことなのです。「(笑 」の嫌らしさ・・。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
④について
これは⑫と矛盾してますね。
アンチ諸氏は基本的に、相手の発言に対する感想を述べるだけです。事実から離れて推論に推論は重ねません。
どちらかというと、棒氏の方が相手の心理を邪推し、相手の発言とは真逆の結論に持っていきがちです。
 
楽山の推論は、結論から始まります。「真逆の結論に持っていきがち」・・楽山の場合、自己中の結論から始まるのです。「事実から離れて推論に推論は重ねません」・・これは、いけないことでしょうか。推論は、理路によって、新たな水路に至ることはあるでしょう。
 
問題なのは、事実~現実から離れて、話を捏ねまわすことです。楽山は、霊能者気取りから、また、学者気取りなどの、現実離れしたことが大好きで、現実離れしてゆく傾向があります。それが、楽山の、履歴なのに、よく他者のことを言えるものです。楽山から楽山へのブーメラン全開です。
 
「相手の心理」を推測することが、邪推であるかどうか分かる前提で、楽山は言っているようですが、言ってみなければわからないこともあるでしょう。反省は、いつも、後から必要なことです。反省という言葉だけ書いて、反省をしたことのない楽山に言われたくはないものです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑤⑥について。
棒氏は、アンチは嘘をついていると繰り返してますが、これまでのところ、一度もアンチの嘘を証明できてません。
棒氏は「アンチは必ず嘘をつく」という暴言を吐いてましたけど、そういう嘘、侮辱は止めるべきです。
 
楽山は、他者の嘘を証明できない人です。いつも、別世界の自己満ワールドから物を言うので、楽山の理路の、始まりも、途中も、結論も、信頼するに値しないものになっています。だから、私は、楽山と、直接の遣り取りはしません。楽山の地獄のような詭弁ワールドの影響を防ぐためです。
 
楽山には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病識が全くありません。いつも、気取って物を言うけれど、そこから学べるものは、欠片ほどもないのです。他者を、人を、悩ませ、混乱させるのが、楽山の唯一の生き方であり、生き甲斐なのです。どうか楽山から離れてください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑦について。
HSの中にいるなら、HSの意見が主流だと勘違いするのも仕方ないかもしれません。
でも現実には、HSは少数派です。このことは幸福実現党の選挙結果からも分かるはずです。
HSは信じないのが多数派であり、一般の意見だというのが現実ですよ。
 
楽山と交わっていると、楽山の意見が、まともに見える人がいるでしょう。しかし、そこから汲み取れる真実も救いも、楽山は用意していません。楽山は、ただ、対立者に文句を言って、おとしめてくるだけです。説得力に見せかけている発言は、みな、自分自身を除外して言っているのです。
 
楽山には教祖願望、リーダー願望があると思います。元々霊能者気取りと、霊能を礼賛する性根があります。無神教カルトである楽山が信じているのは、いつか自分がリーダーになる欲望であり、そこに、救いとか愛とか共感とかの、人間らしい思いやりが、まるで無いのです。
 
リーダーの資格から最初に除外されるのが、楽山のような罪悪感のないサイコパスなのです。理屈屋の、いたずら小僧が、いい気になりたいために、思いやり芝居や、柔和芝居や、中立芝居をしているのが楽山です。高慢ちきとも言います。
 
(ネットより)
高慢ちき:
〘名〙 (形動) (「ちき」は接尾語) 年齢、経歴、実力などの点で、威張る資格がないのに、高慢であること。また、そのさま。また、その人をののしっていう語。
コトバンクより
 
楽山は、見せかけだけに生きている、とても惨めな人です。自分をコントロールできず、学者気取りで物を言い、よく読めば、恥ずかしい無理が、明らかになっています。拠るべき何ものもなく、その腹いせのように、通らない嘘と詭弁をぶつけて、あとは忘れて、責任を負わない人です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑧について。
一つ、二つの小さな難点があるからといって、全体を否定するのは大雑把すぎます。
でも、たとえ小さな難点でも、それが無数にあるなら、全体も駄目と結論づけるのは妥当でしょう。
ちなみに私は、演繹より帰納、合理主義より経験主義が好みです。
 
難点が、小さいのではなく、無数にあり、全体にわたっているのが、楽山です。そして「演繹より帰納、合理主義より経験主義」に見せかけてきます。実際には、バラバラな、その場しのぎの屁理屈に過ぎません。楽山の論理芝居に、騙されないでください。矛盾が矛盾を指摘する矛盾、それが楽山です。
 
楽山については、全体が身勝手で、難点というより、作為の矛盾、即ち、三文芝居の机上の辻褄でしかなく、生きている人間の実感がありません。本当と嘘を混ぜてくるのがいちばん厄介、という例になっているのが、楽山です。我が身を振り返ることのない自己中なのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑨について。
既に指摘されてるけど、棒氏はノルマ議論において、「ノルマはなかった」⇔「過去の一定期間の出来事」と意見を変えてました。
他の議論では、行き詰まる度に「どうぞ、ご自由に」と逃げることを繰り返してた。
論点ズラシと逃避は、アンチでなく棒氏の得意技ですよ。
 
論点がなく、あるように見えても、一切、責任を負わないのが、楽山です。否定を言い、肯定を言ったから、断定してないから、責任問題は生じない・・とは、楽山の発言です。その場その場で、責任を捨ててゆく楽山の人生に、付き合ってはいけません。楽山の格好付けは、もはや襤褸(ボロ)なのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑩について。
これは棒氏の誤読です。
アンチ諸氏は、過去の経験は、過去の経験として語ってます。またHS内で、大改革の号令がなければ、今もさして変わってないだろうとするの当然です。アンチ諸氏は経験と推論はきちんと分けて語ってますよ。
 
楽山の得意技は、自分が言ったことを、人の言ったことを、そっくり無視することです。いつも、その時の思いつきから言い始めて、過去を無視し、現在を否定し、未来を何も語れません。ゆえに、希望につながる感動が、まるでありません。その場しのぎなのです。
 
楽山を相手にすると、ふつうの理路が通じないことに苛立ち、疲労し、空しくなり、知情意が、そっくり鈍麻してゆきます。病原と言ったのは、このことです。病的ナルシストは、何も気にしません。都合の悪いことは、その感覚も、脳にも心にも残らないからです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑪について。
アンチ諸氏は、相手の発言をそのまま引用した上で、意見を述べてます。
一方、棒氏は、相手の発言を、歪めて要約した上で、否定してます。
ストローマン論法をしてるのは、棒氏の方ですよ。
 
(ネットより)
ストローマン(英: straw man)は、議論において、相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す[1]。ストローマン手法、藁人形論法、案山子論法(かかし論法)ともいう。
1.相手が示した意見を歪め、あるいは一部のみを取り出して解釈し、それを相手が発言したかのように言い返す。
2.さらに発言を引用する形で一見では否定しがたい持論を作り出し、自らの発言の正当性を補強する。
3.相手の意見に同調する不完全な擁護意見を持ち出し、充分な主張・再反論がされたようにみせかける。
4.発言の中から一見関係ありそうな問題や考え方を取り出し、さも相手側の意見はこれを象徴するものとして非難する。
ストローマン(Wiki)
 
楽山は説明をしません。公共お構いなしの怠慢ですが、学があると見せかけるためです。人は、だいたい自分の器に合わせて、生きてゆきます。多くの経験と学習がそうさせるのですが、自己愛者は、学習しないので、自我を拡大して、人より大きく見せて満悦するのです。
 
ストローマン(案山子(かかし)、藁人形)は、楽山です。両手を広げて、世辞を言い、おとしめてくるが、自分は少しも動いていないのです。いつも、圏外から、評論家気取りで書いて、インテリを気取り、独りで満悦する世界に住んでいます。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑫について。
引用は最小限に留めるのがルールです。
それなら引用スクショも最小限にするのは当然です。
にも関わらず、棒氏は「都合の良い部分だけスクショ」と、いかにも悪意でしているかのように決め付けてます。
棒氏はこういう邪推、印象操作が多いです。いい加減に止めて下さい。
 
スクショをどうのこうのと言っていますが、楽山は、呆れるような多数の記事を書いたり、偏見を根拠に悪口を言ったり、ルール外の、いかなる手段も使ってきます。個人情報の扱いには、十分、注意してください。楽山は、自分に有利なら、手段を選びません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏はいつものパターンになってますね。
①棒氏はアンチ批判の長文を書き連ねる
②アンチから論破される
③アンチを愚弄する捨て台詞を吐いて逃げる。自らのツイート削除
④しばらくすると、棒氏はまたアンチ批判を始めて、①②③を繰り返す
 
長文について、楽山に何が言えるのでしょう。楽山が削除しているものは深刻です。・・良心、反省力、責任感、思いやり、共感、修正機能、学習と成長、学者やインテリなど様々な気取り、等々、多くの良きものを捨ててきた楽山です。
 
似たようなことを何度も書いて繰り返すのも楽山の特講です。特に神否定については執拗です。代わりの救いを何も用意できていないのに、楽山は、助言者気取りで書いてきます。楽山のようになったら、人間は終わりだと思います。
 
 
*負けず嫌い
ツイッターをみてると、今も棒氏はアンチ批判を書き続けている。これを止めるつもりは、まったく無いらしい。なかなかの負けず嫌いだ。
 
楽山は「負けず嫌い」ではなく、一切の負けを認めない詭弁屋です。これは、自己愛性人格障害のベースにあり、症状を発現するところの、訂正不能の確信であり、しばしば、非合理で確信が強く訂正不能という妄想の定義に当てはまります。しかも、その内容は現実に影響するところ大です。
 
 ※
 
私は、楽山が書いた文章に表れるところの、私が考えてきた楽山の実像と異なるものや、楽山の体質的な精神の欠陥、そして、人の振り見て我が身を直さない楽山の病質などを、指摘して批判してきました。良心や共感のない者が、どのように暴走するかということを見てきました。
 
やたら長い、または、やたら数が多い、というのが、楽山の書く文章の特徴ですが、一方で、それ以外の文章には、何が言いたいのか分からない、実感のない、とても短い文章もありました。何ごとにも、自分の都合しか考えない自己愛性人格障害らしい筆致と内容と症状になっています。
 
まだまだ説明の足りないところがいっぱいあるでしょうが、神の前に、私は、修正可能の位置にいるつもりですから、楽山のような病的発作ではなく、できるだけ考えて、命があって書けるあいだは、こつことと批判を続けてゆこうと思っています。
 
 
乱心の装い

乱心の装い
 
 
(2022年06月30日)
 
 
 
  イザヤ書抜粋
 
イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 
イザヤ書54:7-8
「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、
大いなるあわれみをもってあなたを集める。
あふれる憤りをもって、
しばしばわが顔を隠したけれども、
とこしえのいつくしみをもって、
あなたをあわれむ」と
あなたをあがなわれる主は言われる。
 
イザヤ書57:15より
わたしは高く、聖なる所に住み、
また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、
砕けたる者の心をいかす。
 
イザヤ書60:15
あなたは捨てられ、憎まれて、
その中を過ぎる者もなかったが、
わたしはあなたを、とこしえの誇(ほこり)、
世々の喜びとする。
 
 
  イザヤ書53抜粋
 
53:3
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
 
一人称を用いるので恐縮ですが
 
お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って辻褄を合わせ
説明し納得させ了承を得る必要がどこにあるか!
 」
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
 
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
 
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書があります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間性を持たなず、良心を持たず、罪悪感を持たず、妄想的慢心に酔って吠えている楽山は、反省というものを一切しません。楽山は、いつもニヤニヤと笑っており、自信といっても妄想の炎から、的外れに指摘して、自らを省みずに、断罪したつもりです。
 
しかし、ブーメランとして、批判は楽山に帰ってくるのです。楽山に、ふつうの感受性があれば、自分の書いたもののために、立っていられなくなるでしょう。楽山には、当たり前の感受性が備わっていないので、亡者のように闇へ闇へと、燃え尽きてゆくのでしょう。
 
 
 
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  読書3
  
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連と楽山批判がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。他の人々から、読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分で、母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、人生の教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな。理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットの病的ナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのか、それで分かったような書き方をしてよいのか、という問題があります。
 
しかし、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。楽山の言葉を拾ってみると、「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」・・八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。
 
実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。そして、「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」・・どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。
 
悪い意味で、すごいのは、楽山が、唯物論、というデカい言葉を、平然と使っていることです。こういう、学術用語、専門用語を使うのが、楽山の好みであり、気取りであり、見栄なのでしょう。今まで、学問の言葉を好みながら、一方では、学問することをサボってきた楽山ならではのことです。
 
 
(ネットより)唯物論: → Wikiですが、なぜ載せたかピンと来なくなったので、文末へ移動。
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などを表せるはずはないのです。
 
楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。機械論と創造論のことについても、同様でしょう。一般的にも推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになりますが、当然、違います。
 
宗教の知識をいくら学んでも、一生、信仰を知らない人もいます。一方で、聖書の一つの言葉に救われることもあるわけです。
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが、唯物論は、「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
世の中、金や、金や、という意味でしょうか。違うと思います。また、それが革命で良い方向に実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は、まともには動かないと思っているので、あまり興味はありません。物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もないからです。楽山の理屈は、これまで、結局、狭窄した視野から、短絡して出来た決めつけです。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいないと言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけだということです。
 
さらに、楽山が、ずっと心霊について書いてきたことが、半端ながら、楽山の唯物論を、否定しているのです。楽山の、心霊つまりスピリチュアルと、超常カルト妄想と、教祖願望などから、楽山が、唯物論者などとは、到底、思えません。はっきり言って、何も知らないのではないか。
 
いくら、楽山が、聖書とキリスト教について語っても、聖書は、精神衛生の正常な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。史実かどうかとか、言葉の辻褄とかでは、信仰は語れません。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけからの浅い概念を受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、楽山に近づかないでください。
 
 
字面に滑り落ちる者

字面に滑り落ちる者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月29日、再録+加筆)
 
 
 
  わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう。
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学+のお勉強を時々していた。
 
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さとか、
X軸回転体の表面積とか、
高校の時には考えなかったことが
解けたときと似たような感じを覚える。
 
数学は独特の感覚的理解を要求するので、
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない。
 
詩や文学・芸術にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる。
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが、
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない。
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の解放感
を必ず伴なう。
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない。
 
 
  (抜粋)
 
寝食を忘れるほど
夢中になれる好きなこと
とうとう見つからなかったのは
病気の所為(せい)だ
とは言いたくないから
読書家でもない怠け者は
今さら精神的資産を
構築できるはずもなく
今さらのように
生産しない面(つら)
を晒(さら)して
限りある物質的資産を
消費しに出かけるのだが
いけない
そろそろ馬鹿面(ばかづら)丸出しだ
と早々に帰宅し
貪(むさぼ)る
自らを貪り
人を貪っている
 
昔まだ働いていた頃
病院を支える先生と言われて
支えるなんてできない
ぶら下がって生きる
と言い返した
勤続を前提にした冗談だったが
奇(く)しくも文字通り
ぶら下がるだけで生きている
 
生産しない顔が
いかに醜くなるか
何度も鏡で確かめながら
 
残る資産を貪り食い尽くし
食い尽くしたときに罪でも罰でも
生きて地獄でも死んで地獄でも
呆けた私は嘯(うそぶ)くだろう
「私は何不自由なく暮らしました」
 
 
  利口な風
 
弄(まさぐ)る肌より
解(と)け合う心
二十代大学生だった私は
君を抱きたかった
よりも先に
君とじっくり話をしたかった
あのお別れの二十分では話せないことを
読書好きの君と
学問・芸術・学びと遊びについて
贈ることのできるものは
あまりにも少ないだろうが
多くを受けることができただろう
君は理科系を目指していたようだが
文科系の方が向いている
大学に進むべきだ
今からでも遅くはない
 
笑顔で話し込む二人の姿を
何度も夢想したものだ
しかし君は利口な人
結婚という
ごく普通の道を選んだ
私が最初で最後に告白した人
君は利口な女(ひと)
私の欠点を既に見抜いていた
今も詩を書いているのだろうか
どこかで名を上げているのだろうか
フッと解(ほど)けない心で笑う
三十年も昔のことではないか
 
独りで乗ってきた車を降りて
自動販売機へ向かう白髪の
男の背中から
海風は体液を奪い
体質だけを残していった
 
 
 
数学は、数学の感性と理路を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
詩は、詩の感性と発想を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
 
少なくとも日常的な人間の感性と知性を持っている人なら、多くの文章を読むことも書くことも出来るでしょう。ふつうの感性と知性は、学習することで、磨かれます。
 
しかし、その感性と知性を、努力もなしに、妄想的な前提で固定してしまう自己愛性人格障害者には、読んで受け取ることも書くことも、歪んで矮小化されてしまうのです。そういう者が、一人前に書こうとしても、書けないために、嘘を吐いて偉そうに見せたり、詭弁で誘導するしかなくなります。
 
体質的な自己愛者は、丁寧語や、優しそうな言葉で、取り入って、婉曲表現の多い文章に、よく読めば、偏った思想の流れが見えてくるのです。遣り取りとしていると、学習の欠乏と、筋の通らない妄想的な内容や、隠された怨念や攻撃性が表れることがあります。
 
自己愛者は、他者の意見を受け取らずに、自分の意見を繰り返し、手を変え品を変えて言ってきますが。訂正不能であるばかりでなく、小学生のように幼稚な内容を、学者の名前でごまかして、知識人を気取る有り様が、その未発達な異常性を見抜くきっかけになるでしょう。
 
人間は、他者の意見を受け取って、不十分ながら理解したうえで、責任をもって、つまり、間違ったら訂正や反省をすることを通して、言論を生かしてゆくでしょう。少なくとも努力の姿勢が見えてくるはずです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、それがありません。
 
しかしながら、自己愛者が、こちらの疑問に全く答えられず、反論も弁明も出来ないだけでなく、さらに、何も理解しないまま、自己顕示欲だけから、気取りだけで、学問や学派や学者を語る様は、とても醜いものです。そういう意味では、自己愛者は、現実のホラーと言ってもよいくらいです。
 
反省を全くしないこと、人のことばかり言い、人のせいにばかりすることから、自己愛者だと知ったら、その者が、決定的な破綻をきたす前に、出会ったら、逃げること、関わらないことを、お勧めします。ひどくなれば、犯罪に結びつきやすいと思います。
 
ドラマなどに出てくるような、怒りと笑いと芝居だけで出来ているような犯罪者は、自己愛性人格障害、人格破綻者、精神病質、サイコパス、情性欠如者、などと呼ばれます。似たようなものです。病識と自覚は全く見られませんが、謙虚芝居をすることがあります。くれぐれも警戒してください。
 
 
俗にナルシストと言われる人の中には、単なる自慢好きも含まれているかもしれません。そういう人と、自己愛性人格障害者という病的ナルシストの違いですが、前者は、人が困っていたり、のっぴきならない事態であるときには、それを感受して、一気に実直になれることでしょう。
 
後者の病的ナルシストは、いかなる事態にも、どんなに人が迷惑していても、それ以前と同じように、平然と、自己愛からの発信を続けるだろうと思います。その経過は、批判を開始してから3年余り、変わりなく、謙虚を装って、ときに笑いながら、自慢を続けてきた楽山に、如実に表れてきました。
 
病的自己愛者には、ブレーキがかかることはないのですが、都合が悪くなって、様子を見たり、やり方を変えてみたりはあると思います。それは、反省とは全く異なるもので、策の練り直しであり、狡猾な精神の表れなのです。
 
 
 
2021年06月26日
三島由紀夫の霊言?
「幸福の科学とは何だろう?」ブログ by 楽山
 
楽山は、この記事で、ORによる「三島由紀夫の霊言」なるものへのリンクを貼っています。それが、どうだとかは、書かずに、リンク付けて、何が言いたいのでしょうか。楽山自身と共通点のある教祖のことを書いて、おかしいでしょ・・と言いたいのでしょうか。見るがよい・・だけでしょうか。
 
個人メールか、宣伝ビラのような考えでしょうか。書けば、見る、見れば、分かる、という気安さで書いて、ブログで発信することの公共性を、ほとんど考えない楽山です。
 
 
 
(ネットより)唯物論:参考までに。
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
 (省略)
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
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1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
学びも不十分で、センスも乏しく、苦手な分野のことには、ふつう余計な口は慎むものです。しかし、楽山は、おおよそ、自身が、信仰を持たず分かってもいないキリスト教について、殆ど、アニメ的な超常話の具材にしています。どうか、この無神教カルトの度外れた曲解に付き合わないでください。
 
 
 
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  楽山の弁神論?2
 
 神義論、弁神論についての対話 1
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 
 
弁神論は、神義論とも言い、神の正しさについて追究する学問のようですが、学問で、論理で、神の正しさが証明できる、ということについて、私は、気持ち悪いだけです。楽山のような、半端な知識を振り回す者は、弁神論が大好きなようですが、肯定も否定も成り立つことはありません。
 
対話形式の、信者も老人も、楽山です。楽山の悪意が発火しています。愚か者は、冷静な理路を通さずに、怒り始めています。これが、楽山の正体なのです。楽山の立場は、反キリストです。惑わされないでください。
 
 
*再訪
信者 「こんばんは」
老人 「どうも、こんばんは。息が荒いようだが走ってきたのかな」
信者 「走ってなんかいません。あなたのブログ記事に呆れたんです。いつにもまして酷い事を書いてますね。ったく、腹立たしくてなりません!」
老人 「どの記事のことを言っているのかな。そんなに立腹されるようなことを書いた覚えはないのだが…」
信者 「つまり、悪い事をしたという自覚がないんですね。最悪…」
 
「悪い事をしたという自覚がない」のは、楽山であります。今回もですが、キリスト教を、安っぽい屁理屈で、おとしめ、否定してくるようです。情緒面での共感性がない楽山の白々しい感情表現を入れた三文芝居です。
 
老人 「ともかく、私の記事のどこが問題なのか、具体的に指摘してほしいのだが…」
信者 「具体的に指摘したら削除しますか」
老人 「現時点ではそんな約束はできないが、話の内容によっては検討しないでもない」
信者 「随分と逃げ腰で、歯切れの悪い返答だこと(笑)。でも、まあいいでしょう。問題はここですよ。『神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか。この世にこれだけ悪があるということは、神は存在しないということを示しているのではなかろうか。そんな疑問を抱かざるを得ない』って何ですか。神がいないわけがないでしょう。何をバカなことを言ってるんですか」
 
「どこが問題なのか」に対して答えずに、「神がいないわけがないでしょう」と言って、頑な護教を示しています。注意してください。楽山に護教精神などありません。悪い例として、論(あげつら)いたいだけなのです。二人は、いずれも、楽山その人であります。楽山には神はいないのかもしれません。
 
勘違いしないでください。楽山は、無神教カルトです。「神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか」といったようなことは、神はいないということの根拠として楽山が書いてきたことです。神は信仰の対象です。信じる人は、決して、神に条件をつけません。
 
人の世界に、悪があるからこそ、悲劇が起こるからこそ、生きる支えとして、神を、キリストを、必要とする人がいるのです。悲劇が起こるから、と言い張って、楽山が、いつまでも、いつまでも、神不在の精神で生きるのは、楽山の勝手ですが、信仰者への侮辱ですから批判対象となっています。
 
 
*神義論、弁神論の前提
老人 「それは神は存在しないと結論付けているのではなくて、『神がいるなら、なぜ悪があるのか?』という問題提起だね。私は基本的には不可知論的な立場だから、あれこれ考えはしても、神は存在するとか、存在しないとか、断言はしない」
信者 「おやまあ、また逃げてますね」
老人 「逃げるもなにも、どうも誤解があるようだから、自分の立場を理解してもらえるように、説明しているだけなのだが」
信者 「言い訳がしたいなら、好きなだけ言い訳をしたらいいですよ」
 
老人も信者も、楽山です。醜い三文芝居で、結局、信仰者を侮辱してくるのです。理路が壊れていて、誰とも議論できないものだから、楽山が勝利するような独り芝居の対話形式で、捏造概念の神?を語っているだけです。その神?は、キリストの父なる神とは関係ありません。
 
 
老人 「そうかね。では、あと一つ、ついでに説明すると、この問題は、神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じるものだ。これを前提とすると、『神は全能であるなら、悪を止めることができるはずだ、それなのに止めないのはなぜだ?』『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問が出てくるということだよ」
信者 「いつもの屁理屈がはじまりましたね」
 
老人も楽山だということを忘れないでください。神の意志と行為を、人が解明することは出来ません。とんでもない決めつけで、楽山は、神をレイプするような大罪を犯しています。神の意志と行為と在り方は、人の論理を超えており、人が扱って答えが出ると考えることが背教であります。
 
楽山は、全能なら悲劇を止めることが出来るのに、止めないじゃないか、ゆえに、神はいないという理屈というよりクレームですが、神が全能をもって何をなさるかは、神に任されることです。祈り願うことは出来ますが、地上世界への執着からああだこうだの悪口は、反キリストの信仰無縁と同値です。
 
 
老人 「間違っていたら申し訳ないのだが、あなたが信じている神は、どのような神なのかな。もし前述の全能、絶対、完全な神ではなく、いわゆる多神教的な神々だとか、高級諸神霊というような存在を念頭において、この問題を考えているなら、それはちょっとズレてると言わざるを得ない。ここのところは、よく気をつけてほしい」
信者 「そんなことは、いちいち言われなくても分かってますよ」
老人 「そうか、それならよかった」
 
先ず、楽山は、不可知論的な立場ではありません。ただの、安っぽい無神教カルトです。しかも、とても下劣で、卑怯な詐欺師のような人物です。そこを棚に上げて、論者を気取り、一流を気取っているところの、反宗教の偽善者です。
 
私は、神の意志と行為を説明できる論は人間の側にはないと以前から言っています。神聖について、見える、説明できる、知っている、分かっている、という意見を、背教として否定する立場です。悲劇が起こるからおかしいではなく、悲劇が起こるから支えを必要とするのです。部外者は黙るべきです。
 
「神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じる」・・違います。問題は、その全能を、人知で理解しようとするから起こることです。さらに、分かったつもりの者は、かえって、分からないことだらけになるでしょう。それゆえに、ますます、神を貶(けな)すのです。愚連隊のようです。
 
何でも分かる、ということにしないと気の済まない楽山が、その思い上がりによって、上のような屁理屈いちゃもんを捏(こ)ね上げているだけなのです。楽山は、自らの、"完全"、に思い上がっているものだから、神に、信仰に、いちゃもんをつけてくる慮外者です。
 
楽山は、人間として罪深さを自覚できないので、とんがって吹聴し、結果、最悪の醜態を曝(さら)しているわけです。いくら、芝居の対話を作っても、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山の嫌らしさ、きたなさだけが表れてくるのです。
 
「『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問」、呆れます。これは楽山などの自己愛の疑問であって、人間の疑問ではありません。人間として、人間の罪の性質を、自覚できない楽山です。神?として君臨したい妄想が表れています。
 
ゆえに、楽山は、多神教のようなと、いい加減な見方で、どうにでもなる神?を、「分かっていますよ」、と言っています。楽山は、神?を哀れみたいのです。この場合、楽山は、どういう立場でしょう、神の上に君臨するものという立場に舞い上がっているわけです。楽山には誰も近づいてはいけません。
 
楽山は、自己愛性人格障害の、恐ろしい顔を見せてきました。恐らく、この辺りの小理屈で、楽山は、何の学習も成長も進歩も反省もなく、一生涯、堂々巡りをすることになるのでしょう。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。かつ、責任を負わない精神不全者である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を考える。
特に批判に対して不感不応。理解力がない。
理路が理解できない。理路を組み立てることも出来ない。
泡沫的屁理屈。噴霧される悪意。
反論や批判には無視と忘却で生きている。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、深い議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶(おとし)めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、未熟で幼稚な疑問のまま、思考と感性の発育が止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
情報化社会の現代は、聖書の時代と違って、迫害者や偽善者や反キリストが、それだと、すぐに分かるような時代ではありません。彼ら邪悪な者たちは、様々な、だまし方をもって、良心を攻撃してくるでしょう。
 
楽山は、否定か肯定か、はっきり言わず、キリスト者とも付き合い、ときには、世辞も言いますが、最後には、キリスト教は正しくないと言えなくもない、などと言って、裏切るでしょう。楽山は、自らが教祖になる企みを持ち歩いている狡猾な偽善者です。
 
人間らしい心があれば、誰でも、深い信仰に至ることは可能ですが、自己中で無反省の心無い者だけは、どんなに見せかけの知性を振り回しても、神を知らず、真のキリスト者にはなれないのです。
 
楽山は、人の意見を全く聞かずに自分の言いたいことだけを言うことに、恥も罪も感じないほど、それゆえに、また、ネットでもリアルでも、彼に出会うことは不幸としか言いようがないほど、疲労だけを与えて混乱させる人格破壊の加害者です。
 
・・怒鳴るより悪い、いやらしい言い方、というのが楽山には分からないんでしょうね・・
 
楽山ほど物わかりの悪い人も珍しいです。しかも、恐れを知りません。神に抵抗する勇者でも気取っているのか。しかし、表れているのは、楽山の救いがたい無知と無恥と、知性と感性の、ふしだらな倒錯だけなのです。このような楽山とは、交わること自体が不幸と言えるでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
いちゃもん屋の精神症状

いちゃもん屋の精神症状
 
 
(2020年)
(2022年06月28日、再録+加筆)
 
 
 
  肉声が伝える等々
 
肉声は文字と違って
同じ内容でも
声の高低・調子・表情・タイミング
などにより或(あ)る種の感情
悪意・好意・無関心
無関係でありたい気持ち
などを伝える
言っている人は気付かなくても
言われている人も気付かなくても
必ず流れている
ときには内容より
含まれた感情の方が重たいことがある
そして中にはその時に
あるいは後で思い出されて
脆弱(ぜいじゃく)な胸を打ったり刺したりする
当然敏感~鈍感な胸があり
耳があり口がある
鈍感な口は
内容以外に伝わるものがあることなど
知りも気付きもしない平気さで
日々悪意や好意を振り撒(ま)いている
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、今も、ツイッターで、正義の味方を気取って、HS批判を書いています。一方で、自分を見ることせず、他者の批判だけするということが、成り立たないことを知らないのです。だから、楽山が元気であることが偽善を促進するわけですから、楽山周辺は、裏を返せば腐敗臭に満ちてゆくのです。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(3)3
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。若者も老人も楽山です。楽山の自我であり、我欲であり、利己であり、自己優越の快感モドキなのです。これくらい、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は救いがたいほど思い上がるということです。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。宗教という重大なテーマに、サイクリングでもするような気やすさで出かけたのだから、転倒することになります。 
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山には、神も人も、相互に交流などできないから、扱う対象になるのでしょう。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。教祖願望なのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。前もって知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか受け取っていないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
神を知るという言い方は語弊があります。聖書の記事から知り得ることはあるでしょう。しかし、それは、神の意志と行為や辻褄を理解するには、あまりにも拙劣で未熟な理解なのです。思い込み信仰やカルトの入り口になりやすいところです。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる理由です。楽山の記事は、読者を、楽山の恣意に誘導する性質を、企みとして、必ず持っていると言ってよいのです。それが楽山の目的だからです。
 
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
「一理ある」という薄い言葉理解で、神を判断している楽山です。最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、恥を知らないのでしょうか。詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もない独り芝居です。
 
反キリストの楽山が、神の信じ方を云々することで、この記事が、意地の悪い詭弁そして刷り込みだと分かるのです。どこまでも白々しいインチキで、楽山だけが、支持されているという妄想の世界に住んでいます。緩やかに発狂してゆく病気が、この楽山に典型的な体質的人格障害です。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
超常趣味であり、超常現象が好きで、霊が分かると思っている。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで、または、本の中の引用で、理解したと慢心する。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。そして、バレていることにも気づかないのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
色あせた色褪せた独り芝居の果て

色褪せた色褪せた独り芝居の果て
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月27日、再録+加筆)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が繰り返す
明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはつまり、棒氏は、自分の失敗パターンを認識し、同じパターンにはまらないようにするという反省の教えを実践できてないということです。
余計なお節介かもしれませんが、守護霊がどうした、アンチがどうしたというよりも、まずは、心の教をきちんと学び、実践することをおすすめします!
午前6:55 · 2022年6月26日·Twitter Web App
 
楽山は、まず、自分の失敗を認めない人です。楽山は「心の教をきちんと学び、実践すること」など、したことはないと思います。楽山は、まったく「余計なお節介」だけをしていますが、人のことを、とやかく言う資格などない人です。楽山は、宗教と信仰の、最悪の背教者そして偽善者なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己陶酔とナルシズムと不感不応の鈍感と薄情な独り芝居に生きている楽山は、恐らく感動も共感もしたことはないと思います。しかし、反省という言葉だけ使うのと同じように、感動という言葉も使ってきました。つまり、気安い見せかけと誘導の芝居には何も実感がないのです。
 
情けないほど、楽山には、宗教性が見られません。心に受け取る器がないようです。だから、楽山が聖書や本を読んだことにして書いても、何も糧にも参考にもなりません。嫌がらせをしたいだけのサイコパスだと思います。もっと悪くなるかもしれません。どうか楽山にだけは関わらないでください。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(2)3
 
 神についての対話 2 
 楽山日記(LD) 2020年06月21日
  を改めて批判。
 
 
楽山が悪意の人であることが表れています。信仰が分からないから、信仰について、文句が言いたいのでしょう。そして、終わりに、小説から、ふざけたことを言って、楽山の大好きな三文芝居で、自分で自分を褒めて、神を笑う気持ち悪さなのです。
 
努力している信仰者も非信仰者も、たくさんいるでしょうに、楽山は、反キリストとして、自覚もなく、努力もせず、教祖願望的な、霊が分かるっぽい特別の地位を欲して主張しているのだろうと思います。
 
神を、いないだの、そして、人を、決めつけだのと、崩れた理屈に納めたつもりの楽山が、いちばん決めつけと自己満悦の権化でありながら、決めつけはよくないと書いても、何の説得力もないのです。楽山の、自己愛こそ、自己中こそ、無反省こそ、楽山が決めつけた自分信仰です。
 
楽山は、対話形式にして、工夫をしたつもりで、ますます、演技的になって、芝居がかってる、わざとらしい、などと思われることを予想しなかったのでしょうか。
 
自分に酔う者は、芝居の度合いを増すことで、ますます、いい気になり、観客つまり読者がどう思うかが分からなくなるようです。まさに、自己顕示欲が、自らを滅ぼしてゆく楽山の独り芝居です。
 
 
*神のイメージの幅
若者 「えぇっと、ちょっと待ってください。いま、お話を聞きながら、妙なことを考えてしまったのですが…」
老人 「妙なこと? どんなことだい?」
若者 「い、いえ、やっぱりいいです。すごくバカバカしいことなんです」
 
とても気持ちの悪い謙虚芝居です。このような対話形式でなくても、「とほほ」など、楽山は、同情を誘いたいのか、この手の作為の白々しい芝居をしてきます。舌打ちをして耐えるしかありません。
 
 
老人 「ひらめきや思い付きには、あまり自己検閲をかけすぎない方がいいと思うよ」
若者 「そうですか。では言いますけど、あなたの意見は、人には神のことは分からないのだから、『神は~である』とは断言できないし、『神が××であるなら~だろう』と仮定として話すか、『私には神は~と思える』と感想を話すくらいしかできず、誰かが抱く神のイメージについて確信をもって正しいとも、間違っているとも言えないということですよね」
 
楽山が、神を、自分の理屈で云々している時点で、否定し揶揄するためだと分かりますし、人と違う神の存在について安易な思い込みの中の神?をいじくっているだけということが明らかであり、人が神の正邪を云々するという見当外れもいいとこです。
 
楽山は、自らの不良品の倉庫で、自らの出来損ないの堂々巡りをしているだけで、直観的な洞察が皆無のために、自分の小理屈で神を語るという、むしろ、いちばん的外れなことをしており、楽山だけが、無益な精神作業だと分からない亡者となっています。
 
神を、表現だけ「だろう」の推測で語っても、楽山には、神などいるもんかという否定を刷り込むための、誘い水であるに過ぎず、そのことが、楽山の我執の唯我独尊の有頂天世界には、いかなる共感もないことを表して、人間の崩れ方を見せる結果になります。
 
 
老人 「そうだ。他人が抱いている神のイメージについては、共感したりしなかったりはできるが、どういうイメージが正解であるかは分からないのだから、正しいとか、間違っているとかは言えない」
若者 「そこで僕は思ったのです。それでは、もし『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人がいても、それを否定できないのではありませんか? これはおかしくありませんか?」
老人 「神は残酷だということについては、私の記憶では、たしか、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』にそういう表現があったね。主人公の少年は、親友が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、牧師の下に通い、信仰に目覚め、その後は多大な犠牲を払いながらも、邪悪な存在と闘い、その活動を阻止するという物語なんだ。少年は自分には邪悪な存在の活動を防ぐ使命があり、その使命を果たすために自分が霊的なことに目覚める必要があり、そのきっかけとして友人が事故に遭うことが計画されていたことに気づき、神は残酷だと呟いていた。運命論的な考え方、すべては神の摂理によって支配されているという考え方からゆけば、悲劇は神によって予定されていたことになるわけだし、そういう感想を持つのは致し方ない面はあるだろうし、そこに真理は少しも含まれていないということはないだろうな」
 
「『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人」・・これこそ、楽山なのです。自分で若者に疑問を言わせ、自分で老人に説明をさせています。条件法で、神を語る楽山は、同じやり方の詭弁でしか答えることが出来ません。神は、条件の対象にはなりません。神は、信じ仰ぐ対象です。
 
本当に、楽山は、神が嫌いで信じないのなら、何も書かなければよいのに、・・ならば・・、という言い方の対象に、神をおとしめて、摂理の使命・・的な話のネタにしています。何処にも、糧になるものがないのが、楽山の、捏造フィクションの、それこそ、運命なのです。
 
楽山のように、神を、登場人物として、自身の貧弱な辻褄合わせで語れると思う者は、神について、キリストについて、人についても、何か良きものを、感じることも、受け取ることもないでしょう。
 
「真理は少しも含まれていないということはないだろうな」・・楽山の、二重否定です。大事なところで、確証がないのか、ごまかしたいのか、曖昧な表現が表れます。とても気色の悪い婉曲表現、まるで祟りのように楽山の内部を巡る因業のボンヤリ言語です。
 
こういう人と遣り取りすると、絶望的な疲労を受け取ることになると知ったので、私は、批判記事だけにして、コメントの遣り取りをやめました。長々と、愚にもつかぬ表面的な理屈、即ち、屁理屈を並べて、疲労させてゆくのが、実感というものを持ち得ない楽山の手口なのです。
 
楽山の書く思い付きの文章の邪悪さは、神を否定しながら、他に、救いも、救いにつながるヒントも書けないことにあります。自己愛が強いからでしょう。文句だけ言って、責任を負わない楽山は、他者も、自分の言ったことさえも、不感不応で気にしない体質なのです。
 
 
信仰者は、いかなる悲劇があっても、キリストの愛を忘れることの出来ない人間です。臆病や疑いのために、キリストのもとを離れる人もいるでしょう。また戻ってくる人もいるでしょう。信仰は、一度で決定することではなく、正直でありうるなら、神の愛の寛容によって、いつでも、やり直せるのです。
 
信仰は洗礼を受ければ後は心配ないという信仰ではなく、様々な疑惑という経緯があって離れても、主のもとに帰る道があります。ゆえに、少なくとも、楽山のような者の意見を真に受けるよりは、はるかにマシだと言えます。楽山は、無益な言葉によって他者の人格を破壊する方向だけなのです。
 
キリスト信仰は、境地の固定ではなく、成長するための道です。楽山は、常同的で非生産的なことを繰り返して、言い得たと思うわけですから、成長できない、そして、成長しないでいいと思っているようです。これは、人間を生かす思想ではなく、徒労の反復妄想です。
 
そういう腐敗に腐敗を重ねるような人生は、楽山やシャロームなどの限られた厚顔無恥の異常者にとどめるために、私は書いています。彼らに、誰も、近づかないでください。
 
 
若者 「神は邪悪であるというイメージについてはどうですか」
老人 「『神は善であろう』と仮定すれば、神のイメージは善から外れるものは認められないことになるけれども、『神はすべてであろう』としたらそのイメージは必ずしも善に限定さなければならないというわけではなくなるだろうね。『神は善悪を超越しているだろう』としても、そのイメージは善に限定されるものではなくなる」
 
学者みたいな書き方をしていますが、邪悪なことも起こして、放置しているから、神は邪悪だぁ・・という妄想の刷り込みです。元々、人が、神の善悪を云々することが傲慢であります。信仰者は、既に、生きるための幸いを受け取っているからです。
 
楽山の言い分は、自分が正しく視野が広い、という妄想の土台から言っているだけです。限定されない神のイメージを、楽山の、字面の善と悪と善悪、という言葉で書いて満悦しているのです。"善悪を超越" という言葉を安易に使う楽山は、何も分からないまま、反キリストの策略の泡を吹いています。
 
人は、神の正しさが分かるから信仰者になるのではありません。それも、私のブログに書いてきました。信仰は、神の義と善に従うためにあるのではありません。それは、人間には出来ないのです。そんなことも分からないで、いちゃもんで誘導する楽山は、呆れた幼稚としか言いようがありません。
 
不完全で罪深い人間が、神に対して出来るのは、祈りにおいて、精いっぱい正直であることだけです。それが、信仰なのです。神は、人間に完全な義のないことを承知の上で、正直だけで、信仰の義を与える御方です。人間の側からは、そうとしか、神について考えようがないのです。
 
楽山は、都合の悪いことは無視して、自己顕示欲を小細工で論理的に見せかけて、自身をインテリっぽく見せかけるために、中庸みたいなことを、前から書いていますが、実際は、通念的字面に終始して、何も言えなくなる虚無へ誘っているだけの悪魔性です。
 
楽山は、信仰の救いについて、体験がないために、何も理解していません。さらに、分からないのだからという謙虚さもないために、書くことを控えることもせず、反キリストらしく、無秩序に、いちゃもんをつけてきます。
 
楽山は、自らの混乱を伝染しようとしているだけです。恐らく、よほど、お仲間以外の、誰からも相手にされなかったのだろうと思います。実際、混乱を招いて、共感も責任感もない楽山は、けっして相手にしてはいけない相手なのです。
 
 
若者 「神は善であると言い切れないのだとすると、なんだか辛いですね。僕はやっぱり神は善だと信じたいです」
老人 「宗教のなかには、神のことを善神と悪神に分けているものもある。住民に虐殺命令を下したり、さほどの落ち度もない人物を不幸のどん底に突き落としてその反応を見てみようという悪魔の提案を受け入れる神もいる。また世界の神話には、現代的視点から見たら、とても善なる存在とは思えぬ神々が描かれている。神は善であるとは限らないという考え方は、そう珍しいものではないよ」
若者 「うーん、確かにそうですね」
 
今度は、神を虐殺魔に仕立て上げたいようです。仕立てあげる文章を書いた時点で、虐殺魔の心を持っているのは、書いた人、つまり、楽山だと自分で言っているようなものです。楽山の、敬虔とは逆の、破壊的放言は、楽山自身の何らかの不遇に対する復讐なのでしょうか。
 
「神は善であると言い切れない」・・ひどい虚言~妄想です。人は神の絶対の善を知りえないということです。楽山は、自分の善悪の判断に、どれほど舞い上がっているのでしょう。むしろ、楽山こそが、神に対する善悪の判断はもちろん、人の善悪の判断も出来ない厚顔無恥なのです。
 
「神のことを善神と悪神に分けている」・・それは、キリスト信仰とは何の関係もありません。悪魔のことなら、それを、神とは呼びません。
 
神の与える救いは、地上と御国を含んでいるので、楽山のように、現世が不服で、神に文句を言って、神を否定するのは、自己中の極みでしょう。キリスト信仰は、分からないことをも、神にお任せする信仰です。だらだらと、愚にもつかず、疲労しか与えない楽山の独り芝居とは違うのです。
 
楽山は、まるで、聖書の話を、これをやったから神はおかしい、という、けなし方ですが、神を机上の対象にしている時点で、分からない楽山の不感と、それに見合わない高慢が明らかになるのです。神を仰ぐのではなく、神?を頭の中に概念として捏造して、幼稚な云々遊びをしているのが楽山です。
 
楽山が言ったことに、「うーん、確かにそうですね」と、楽山が答える。笑止のインチキ芝居の自己顕示であります。時と場合を弁えない楽山、"自分が何をしているか分からずにいるのです" という聖句を思い出します。
 
私は、楽山のボンヤリ言語で、楽山のようなボンヤリ人間が増えるのを、できる範囲で防ぎたいと、切に願っています。それこそ、悪魔のように、訂正不能に何度も屁理屈をこねてくる楽山に、決して、近づかないでください。
 
楽山は、人間らしい活性と生産性がないために、同じことを言ってくるのです。問答形式にしたところで無駄なのです。中身は、知らない世界まで知ったことにしないと気の済まない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病的ナルシストの常習的な醜い生業です。
 
 
老人 「善悪の基準は、時代、地域などによって変化するものだ。だから古代人が善なる神をイメージしたとしても、それは現代人からみればとても善とは思えず、理解不能なものになることもありえる。今きみが精一杯に善なる神をイメージしたとしても、それは未来の人々と共有できる善なる神とは限らないし、どちらかといえば理解されない可能性の方が高いのではないだろうか」
若者 「そうかもしれません」
 
楽山の捏造神?概念は、世界中を網羅して、様々な神の像を空想で書いてきます。そのことが、既に、楽山には信じるに値する神がいない、そして、自らを、神と同等に書いてくる傲慢だということを表しているのです。
 
人は、精いっぱい善なる神をイメージして信じるのではありません。神の正しさは、不可知の神の、不可知の善として、人は、祈りにおいて、反省し、黙想し、正直に告白するのが信仰です。それ以上は、人には出来ません。それが絶対孤独から逃れる信仰の道なのです。
 
楽山の、信仰についての勘違いは、殆ど妄想化しているので、交流や議論は無意味であり、批判をせざるを得ないのです。この妄想的確信ゆえに、楽山は、人間らしい良心の感受と気づきをもって信仰を理解する、ということができないのです。
 
また、それゆえに、楽山は、自身が信仰を理解できないものだから、手段を選ばず自分を高めたくて、手段を選ばず敵意を表して、神も人も貶めてきます。対話形式だから、分かりやすくなるような要素は、楽山の主張にはありません。姑息な楽山の独り芝居です。
 
 
老人 「そうであれば、きみが神は善であると考え、イメージしたとしても、それはあくまで個人的なイメージにすぎず、それに賛同しない人が現れて、『この若者は、到底、善とは思えぬ邪悪な存在を神だとしている。これは神に対する冒涜だ!』と噛みついてくることもあるかもしれない」
若者 「世の中には、いろいろな人がいますからね。まさかとは思いますが、ひょっとすると、そんなことも起こり得るかもしれません。少なくとも絶対ないとは言い切れないですね」
老人 「人には、絶対なんてことは言えないからね」
 
楽山にも絶対はないのです。老人も若者も楽山です。ともに、邪悪な神を刷り込んでいます。楽山の語る神は、楽山の神であり、邪悪な存在であり、楽山自身なのです。
 
楽山は、結局、楽山の言うような、幼稚で、無反省で、無責任で、乱暴で、訂正不能の、反キリスト思想を、自己正当化し、自画自賛して、馬脚をあらわしているだけなのです。人間の原罪による不完全性も理解できず、赦されて救われることもなく、どこまでも自己満悦妄想を語っているだけです。
 
神の善は、地上では、人のものとはならないことを、人は判断しているに過ぎないことを弁えるべきことも、私は書いてきました。しかし、楽山の言は、おとしめるためだけに、キリスト教を信じるとこうなりますよ的なことを捏造しながら書いてくる裏の闇の印象操作です。
 
「絶対ないとは言い切れない」、これは、だから注意するべきだ、という意味ですが、楽山は、自身の文章と思想に溢れている偽りに、全く、意を注がず、こちらに向けてきます。そういう人が、言っている、ということを忘れないでください。
 
楽山は、キリスト信仰への、いちゃもんを否定されることを、迫害であるかのように言って、真実の殉教者であるかのような書き方をしています。安い詭弁です。むしろ、楽山は、生まれて今まで嘘吐きの悪魔性だと、絶対ないとは言い切れない、楽山に近づかないように・・ということになるでしょう。
 
 
*宗教批判について 
若者 「これまでお話をうかがって、前よりずっと、あなたの考えを理解できてきたように思います」
老人 「それはよかった」
若者 「でも、あの……」
老人 「どうしたんだい?」
若者 「すいません。また疑問がわいてきてしまったんです」
老人 「どんな疑問かな?」
若者 「ええっと、ですね…あなたの考え方は、神は不可知であって、人には分からないものだということでしたね」
老人 「そうだ」
若者 「だから、人には『神は~である』と断定的には言えないと」
老人 「そうだ」
若者 「神について語るときは、『神は××とすると、~であろう』と限定的に言うか、『私には神は~と感じられる』というように感想を言うくらいしかできないと」
老人 「そうだ」
若者 「神については確かなことは知り得ないのだから、他の人が語る神について、それがどういうものであっても、それについて正しいとも、間違っているとも断言できないとも」
老人 「そうだ」
 
楽山が、楽山に、良かった、良かった、と言う独り芝居です。人の言うことを無視するだけの楽山が、感想を言うくらいに重みがないなら、書かないことです。空しい惑わしであり、悪質な刷り込みであり、かつ、実際に、楽山は、発言の責任をいっさい負わない人です。
 
楽山の卑怯さが全開です。神について、楽山が好きなように言うのを、正しいとも間違っているとも言うな!・・と言いたいようです。ですから、言います。楽山は、邪悪で、間違っています。否定される宗教思想は、このまま、多くの人が信じたら、社会悪に結ぶ付くものです。
 
楽山の、自己中、無反省、無視、訂正不能、虚言、無理解、などの体質は、社会悪やサイコパスに、そのまま当てはまるでしょう。宗教を、自己愛や自己中で語れないことは明らかであり、反省しなければ、いつか、犯罪に結びつく恐れが大であるからです。野放しにして、宣伝させてはいけません。
 
楽山は、明らかに間違っているのです。しかも、故意なのです。ゆえに、反キリストなのです。違法行為がないと逮捕は出来ませんが、批判は、言論の自由だから、いつでも出来るのです。その批判に対して、見苦しい愚痴と嘘と詭弁と三文芝居を返してくるのが楽山なのです。
 
 
若者 「そこで一つ疑問があるのです。あなたの考え方からゆくと、間違った宗教を批判することはできなくなるのではありませんか。世界には、反社会的なカルト宗教というものがあります。神を自称する教祖もいます。人には神のことは分からなず、他の人が語る神について断固否定することはできないのだとすると、そのようなカルト宗教や教祖を批判することはできなくなってしまうのではありませんか。これはおかしいです」
 
楽山の宗教批判が、あまりに低劣な嫌がらせだから、批判しています。知識もなく、思考も詭弁だらけで、かつ、共感性が皆無の楽山は、正当な議論など出来ない人です。キリスト教とカルトをごっちゃにして、批判にもならない、いちゃもんだけの楽山です。芝居を書いても無駄なのです。
 
 
老人 「たしかに、きみの言う通りだ。でもそれは宗教的な見地からは有効な批判はできないというだけのことで、他の面からはいくらでも批判はできるんだよ」
若者 「はあ…、それはどういうことですか」
老人 「人には神について確かなことは分からないのだから、カルト教団が語る神について、それは正しいとも、間違っているとも断言できないし、その教祖が神であるかどうかも確実なことは言えないけれども、その教団および教祖が、違法行為や人権侵害行為をしているならばそれを指摘することは可能だ。教祖の言行不一致や奇行についても指摘できる。教義に論理的矛盾があればそれも指摘できる」
 
楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無だと言いました。今も言っています。既に、私は、それに対して、カルトは、犯罪に及ぶ前日はカルトではないのか、と書きました。
 
上のことは、カルトの定義ではなく、逮捕できるかどうかの基準に過ぎません。特にネットの時代においては、カルトを早期に発見して、何よりも批判をすることが必要だとも書きました。
 
まさに、カルトに対しても、キリスト教に対しても、訂正不能と無反省と無視を貫いて自己中と不整な自説を広めようとしている楽山は、カルトと同質の批判対象なのです。矛盾がどうこう以前に、楽山の言は、何も整っていないのです。
 
しかも、結果としてではなく、故意なのです。都合の悪いことを総て無視して、同じことを、手を変え品を変えて、今回は、独り言で恐ろしく長い対話を捏造して、また、言ってくるのです。
 
 
若者 「つまり宗教的な見地からは確実なことは言えないとしても、人権、法律、道徳、倫理、論理などの見地からは意見が言えるということですか」
老人 「そうだ。しかしその宗教において、神は、人権、法律、道徳、倫理、論理などは超越し、何らの束縛もうけないとしており、信者たちがそれを信じているならば、それらに基づく批判はさほど有効なものではなくなるだろう」
若者 「うーん。そういう宗教や教祖が間違っていることを証明するのは無理なんでしょうか。それができないなんて納得できないし、すごく悔しいです」
老人 「それをするためには、神とは何かという問題を解決しなければならないし、それができない以上は、どうにも仕方ないことだね」
若者 「そうですか…」
 
神とは何かという問題を解決しなければと言っています。神とは何か、分かるなら、その神?は、人知を超えた神ではなく、信仰にもなりえないと思います。宗教の基本的な見方が、楽山には出来ていないようで、とても、幼稚です。
 
楽山の扱い方で、神とは何か、分かると言うなら、それは、楽山の、真っ赤な嘘です。いちばん信仰に大切なことが、自己愛・自己中ゆえに、楽山は分からないまま、いちゃもんだけを言っています。あたかも、議論しているかのような小細工を弄して。
 
独り芝居の楽山は、問うたつもりで、主張しており、不可知と言いながら、ならば、解決しなければと言い、かつ、「どうにも仕方ない」 と言う始末です。信頼度ゼロのペテン師です。
 
 
*到底、神とは思えない神
老人 「タイトルは失念したが、ずいぶん前に、酒場に入りびたる天使が出てくる小説を読んだことがあるよ」
若者 「天使が酒場に入りびたってるんですか?」
老人 「そうだよ。小説の主人公のところに、ある人物が訪ねてきて、自分は天使だというんだ。でもその人物は酒場に出入りしていて、とても天使には見えない。だから主人公は、『酒場に入りびたる天使なんかいるわけがない。あいつが天使であるはずがない。でももし本当に天使であったとしたら、それを信じなかった自分はいったいどうなるんだ? 不信仰の罪を犯すことになるのか?』と悩むんだ」
若者 「結末はどうなるんですか」
老人 「主人公は、信じることを選択するんだよ。そして実際、その者は本当に天使だったんだ」
若者 「酒場の天使ですか…どうにもイメージできません」
老人 「私もきみと同じだよ。でも神は全能であり、なんにでもなることができるとしたら、酒場で泥酔している姿で現れないとも限らないだろう。それだったら神が何らかの目的をもって、カルト教祖として現れないとも限らないだろう。場合によっては、空飛ぶスパゲッティモンスターとして現れることもあるかもしれない」
若者 「ははは。それは冗談でしょう。もし冗談でなければ、いくら何でも極論過ぎてついていけません(苦笑)」
老人 「まあ、なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいいだろうね。せいぜい自分には神はこうであると思われるという程度にしておいた方がいい」
 
楽山の「神はこうであると思われる」は、暴言と言ってよいほどの悪性です。命題ではなく、印象操作だからです。邪悪で半端な知能犯は、このように、一見理屈であるなのような詭弁を弄してくるということです。語尾を曖昧にしても、悪意の決めつけは、その執拗さによって、表れてくるのです。
 
フィクションである小説に出てきた神?を、真顔で、神の前提として話を進めている楽山の詭弁に気づいてほしいと思います。「(苦笑)」は、その軽さを表しているのです。楽山は、卑怯で汚い男です。
 
酒場で泥酔、カルト教祖、空飛ぶスパゲッティモンスター、という神、・・これは、明らかに、楽山の悪意による侮辱です。酒びたりの天使の、宗教的発言・行為を書かず、酒びたりというイメージだけで、あざ笑いの対象としています。これも詭弁でしょう。
 
そして、「なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいい」と言っています。印象操作や刷り込みは、婉曲の分、いっそう、悪質な決めつけです。議論のあり方を自己中で破壊する楽山に近づかないでください。
 
聖書に表された神は、全知全能・絶対完全・永遠不変という人間の手に負えない御方です。キリストは、人に共感する救い主です。ゆえに、キリスト・イエスを、神と人の間の仲保者という言い方もあります。楽山のような矮小な病質者に語れることは何もありません。
 
聖書についても信仰についても短絡した意見しか持ちえない楽山は、その一方的な思想から、神を、雲か霞のような、薄ぼんやりとした存在感のないものという印象を吹き込みたいようです。楽山は、固定観念で云々しますが、神とキリストは、人が固定できる存在ではないのです。
 
楽山にとって、神という存在は、ボンヤリした存在に過ぎないのでしょう。そこが、字面だけで考える楽山の宗教観の限界であり、即ち、神について語る心の資質を、楽山は持っていないということが、楽山によって、示されているのです。
 
にもかかわらず、神を、机上で決めつけて、神がいるならなぜ悪があるのか、などと、けなしてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、神を、楽山の字面だけの理屈の中で決めつけてきたのです。楽山のような偽善者がいるから、むしろ信仰は必要であり、批判しないと社会悪になるでしょう。
 
私は、何度も、神とその意志と行為を決めつけてはいけない、と書いてきました。決めつけないことが、私の信仰観の中心の一つだからです。決めつけてはいけないと言いながら悪い印象を吹き込んでゆくのが、楽山という狡猾な偽善者なのです。
 
こちらの言い分を、無視するのが、楽山という先入観の形骸のような人です。それは、読書にも表れてきました。学者や評論家と肩を並べるかのように、都合の良いところだけ引用して、自身の軽率で拙劣な理路の中に置いて利用し満悦するのが楽山です。
 
今回も、ふざけて、満悦し、神を、高みから見下ろして、神を冗談のネタにして笑う楽山です。まさに、楽山が、今、野放しになっていることが、神様どうしてですか、という祈りにつながると言えるでしょう。書くたびに、書いた文章に斬られてゆく楽山を、暴露してゆきます。
 
楽山の独り芝居の詭弁と悪意に対しては、私が書けるあいだ、改めて批判を書いて、何度でも投稿また再投稿してゆくしかありません。楽山は、反キリストの偽善者の典型です。
 
 
詭弁が招くのは末路

詭弁が招くのは末路
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月26日、再録+加筆)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
 
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
青年の初めて着た背広姿が
 
いつも歩く散歩道の一歩一歩
死を弄(もてあそ)べる老人が
 
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
 
  徒
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
 
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
 
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
 
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
「徒」は、信徒の徒と、徒(いたずら)のつもりです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、小中学校の頃から自己中であったろうと思われます。自慢をするが、実体のない人なのでしょう。それで、受けのよい体裁だけを身につけてきたのだろうと思います。ふつう、足らざるを思えば努力するものですが、怠慢のため、嘘に走り、気取りだけを覚えたのだろうと思います。
 
そういう気取りで、その場を凌げることもあり、褒められることもあったのでしょう。大人になってからも、続けている人だと思います。しかし、その総決算は、気が付けばだれもいないという末路において顕著となるでしょう。まだ、ずっと、同じことを続けている楽山です。
 
 
 
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