ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年07月

 
  楽山の捨ててゆく時3
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、どうか巻き込まれないでください。
 
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
楽山こそが、その人、話の通じない人です。世辞か無視かしか返ってきません。楽山にとっては、相手の言うことは、いちゃもんを付けるか、体よくあしらうか、無視するかになります。自分が言いたいだけなのです。当てつけ、世辞、そして、何も気にせず、何も進展しない。・・相手にしないことです。
 
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てることに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
 
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。またブーメランで楽山に返ります。
 
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかすために、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、出禁にして、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。楽山は、アドラー教ゆずりの自己中によって、自分に都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。反省せず、学習せず、使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
 
しかしながら、楽山が、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習せず、成長しないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、無視からの正当化の詭弁です。
 
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
 
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
 
 
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、いつも他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の、ふざけた芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔性です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。反省ではなく、楽山の、ふざけた言い回しです。
 
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
 
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
時間を大切にすることを「けちん坊」と言うのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。楽山と直接やり取りすることこそ、時間をドブに捨てるようなものです。こういう魔性とは、何より関わらないことが大事です。
 
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
 
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
 
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。人格から、良心や罪悪感や共感などが、見られません。
 
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。人格破壊にもつながります。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
 
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。他者を無視することを正当化したい楽山の詭弁=汚言です。
 
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
 
 
詭弁→汚言クラブ

詭弁→汚言クラブ
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月31日、再録+加筆)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
(※ 昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・同様の楽山について、しばしばアップすることになりそうです。)
 
 
  衰える繰り言
 
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
 
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
 
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
 
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
 
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
 
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
 
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
 
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
 
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
 
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
 
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  農道
 
空の色とは似ても似つかぬ
ソラ色のビニールの
雨に汚れたカバーの下に
石灰に包まれた魂が
瞳のない目をあけている
材木が二本
細く黒ずんで
不揃いにソラ色から足を出し
降ってくる空の恵みの下で
垂れてくるソラの恵みを受けながら
暖かい腐敗を待っている
 
点々と水たまりが追いかけてゆく
走り去る轍の上を
その向こう遠くの山が
流れない雲になって
消えるあたりを目指して
近づかない風景を歩む
雨は上がった
音・・・?
 
生き物がいる
瞬(まばた)きしている
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑤ 信仰者でも地獄へ行く事はある。生き方次第では私が地獄に落ちる事も当然ありえる。
 」
昔はそう説かれてましたが、『救世の法』によれば、HS信者は、悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ。
>>>(サーバーか)
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<<<
午後10:33 · 2022年7月29日
 
「悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ」・・楽山は、HSを支えたいのでしょうか。自分が教祖にでもなりたいのでしょうか。天国に行くための何の準備も言動もしていない楽山です。どの口で、安心できることを言うのでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏が自分教になってる原因に、恐らく総裁の言葉の軽視があります。
普通の信者は①であり総裁の言葉から離れませんが、棒氏は②だから総裁の言葉から離れてしまうのでしょう。
①総裁の言葉→気づき→総裁の言葉→気づき→総裁の言葉…
②総裁の言葉→気づき→気づき→気づき→気づき…
午後2:16 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
楽山は、総裁の言葉を重視しているのでしょうか。つまり、HSに賛同しているのでしょうか。楽山は、総裁の言葉を重視して、気づきを重ねて、アンチHSという立場は嘘だったということでしょうか。自分教の楽山は、実は、アンチではなく、信者なのでしょうか。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
他の信者と交流していれば、自然と①になり、総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れると思うので、棒氏はアンチに噛みつき、自説を書き綴るより、もっと積極的に信者と交流したらいいです。
午後2:23 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」と言っている楽山は「信者と交流」し「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」ことを勧めているようですが、楽山がアンチではないことを、自ら証明しているのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心を育て損なっている楽山には罪悪感がありません。サイコパスという言葉は、元々、精神病質と呼ばれる病気でした。精神病と紛らわしいからか、最近は、反社会性人格障害と言われているようです。反社会性が表れてからでは遅いような気がして、自己愛性でいいのではないかと思います。
 
楽山は、書けば書くほど、自己主張と嘘と詭弁だけだと、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスである証拠となってゆくのだと、分からないのでしょう。宿命か因業のように、悪臭をネットに垂れ流してゆくようです。丁寧語が汚言となる例であります。
 
 
 
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  楽山の被害者芝居3
 
 楽山日記(LD)
 『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉
 占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著
 2020年07月13日 
  を改めて批判。
 
 
楽山は、今までもあったことですが、カルトの被害者を気取っています。しかし、楽山こそが、訂正不能、不感不応の、カルトだと思います。無神教カルトと呼んでいます。柔和、謙遜、中庸、とほほ、何でも平気で芝居してくるところに、楽山の恐ろしさがあります。
 
そして、それら楽山の芝居は、ことごとく、今までの経過において否定されています。それに対して、楽山は、何も答えられなかったのです。にもかかわらず、否定されたことを忘れて、また、平気で書いてくるのです。無節操と鈍麻の極みです。
 
 
本書は、1巻と同じく、中学生女子を主人公にした物語と、香山リカの解説という構成になっている。
物語のあらすじは、中学生女子はひょんなことから某カルト教団のことを知り、カルトの危険性について学ぶというものである。終盤、主人公の友人が、あやしげな占い師に騙されそうになる場面はスリルがあって面白い。
 
ドラマを見ている気分でしょうか。「カルトの危険性について学ぶ」のが「スリルがあって面白い」と書いています。実感というものを感じられず、分別も節操もなく、全くの興味本位で語ってきます。楽山は、どんなテーマでも、冗談半分でしかなく、本気がないのです。
 
 
香山リカの解説では、マインド・コントロールの手口について次のようにまとめてある。これはすごく分かりやすい。
・あなたを待っていました。ここに来たのは運命です、などと言って歓迎する。
・これまでの人生は間違っていたのです、などとその人の生き方や考え方を否定する。
・これを信じればすべてが救われます、と新しい価値観を与える。
(『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著、汐文社、2009年、p.45)
 
嘘と詭弁と婉曲表現と同情芝居で、人の心をもてあそんできた楽山が、マインドコントロールについて語る資格はないです。カルトの、大袈裟で安請け合いの説教と違って、楽山は、常識人を気取って仲介でもするかのように、優しい言葉遣いで近寄ってきます。もっと厄介な新手なのでしょう。
 
運命と言って歓迎、これまでの人生は間違っていた、新しい価値観を与える、こういう勧誘と脅しが、カルトの手口、ということを書いて、楽山は自らを、カルトに対峙する者、という印象を吹き込んできますが、いちばん、怪しいのは、今、楽山その人なのです。
 
何事についても、理解力に欠けているのに、遺伝子がどうの、超常がどうの、学者の本がどうの・・と書いて、知識があるかのように宣伝してきました。カルトもスピリチュアルも大好きで霊が分かるっぽい自覚?の楽山ですが、評論家気取りで書いてきます。
 
このように、意見の方向性が、バラバラなのも、楽山の特徴です。恐らく、カルト被害者に共感するように見せかけて、実際は、宗教と信仰を、軽い道徳レベルにおとしめたいのだと思います。そのリーダーか教祖になって、正義の味方として讃えられたい自己顕示欲が動機でしょう。
 
 
振り返ってみれば、自分がカルト宗教にハマってしまった時も、これと似た話を聞かされたのだった。たとえばこんな感じだ。
 
元HS信者でアンチHSを気取っていますが、この2年余りの経過では、楽山が常識人だとは、とても思えません。今までのことを訂正もしないで、ときによって、カルトの犠牲者を装い、カルトを「(笑)」を入れながら、批判めいたことを書いて面白がっているのです。
 
しかし、一方で、霊が分かるっぽいことを書いていましたし、また、霊言などを引用しています。宗教と信仰についての理解は、小学生レベルの、超常ホラー趣味以上ではありません。いちばん警戒するべき相手は、カルトと心霊の妄想にこだわっている楽山その人です。
 
 
「あなたには大きな使命があります。天上界において『地上に降りたならば、〇〇様の下に集い、その教えを広め、人々の幸福のために働きます』と誓って生まれてきたことを思い出してください。あなたが今、〇〇様と出会ったことは偶然ではないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は、様々な詭弁で、キリスト教をけがし、自らを、まるで、学者であるかのように、刷り込んできました。その楽山が、白々しく、カルトの手口を言っているというのが、楽山の新しい手口なのです。実際は、楽山は、自分教の教祖です。
 
こうやって、楽山は、自分は違います、自分は大丈夫ですと、印象を吹き込んでゆくのです。このような騙し方は、まるで、悪魔の狡猾さに似ています。訂正も修正も学習もなく、平気で、なおも、だましてくるのは、良心のない悪魔性としか思えません。教祖願望の表れでしょう。
 
 
「自らの間違いを反省し、この教えによって自己変革をしましょう。この教えを知る前と、知った後で変わらなかったら嘘です。本当の自分に目覚めてください。
「現代社会では、唯物論という間違った考え方が広まっているために、多くの人々が死後、地獄に落ちています。今こそ、正しい教え…真理を明らかにすべきときです。これこそすべての人を幸福にする教えです。この教えに基づくユートピア建設を目指しましょう」云々。
 
反省、自己変革、変わる、これらは、楽山には、全然できないことです。ゆえに、それを、楽山は、カルトの説教に当てはめて批判し、責任を逃れようとしてきます。楽山の、いちばん大きな悪性は、自らの非を認めず、反省をせず、一切の責任を負わないことです。
 
キリスト信仰の反省は、罪深く不完全な自分を自覚して、世俗の騒音から、神の前に、正直な祈りをすることです。決して、楽山が言うような、正しくなることでも、真理を明らかにすることでも、ユートピアを目指すことでもありません。人間は、どこまでいっても、不完全です。
 
唯物論こそ、楽山が、その曲解によって、宗教をおとしめ、人の心を腐らせるために選んだ手段であり、それによって、逆に唯物論をもけがし、進化論もけがし、自己流に、自己中に、悪用し、人々から宗教も信仰も心も奪ってゆく手法なのです。
 
 
改めて思い出すと、こんな主張はカルト丸出しであり、陳腐この上ないものだ。これで騙される奴なんかいるのかよと思わないではいられない。でも、ほかならぬ自分がそうだったのだから恥ずかしくてたまらない。根がどこまでも、お人好しの理想主義者にできていたので、重要感を持たせられ、向上心を刺激され、世のため人のために働きましょうと持ち掛けられて、コロッとまいってしまったのだろう。
 
他ならぬ自分が、カルトに嵌ったなどと言っていますが、これも、恐らく嘘です。楽山は、だますほうであり、だまされるほうではありません。楽山は、自己中なので、他者の影響を受けません。楽山は、自分カルトの、霊も、科学も、分かっている、知っている、という妄想がベースなのです。
 
楽山は、恥知らずで、どこまでも、悪意によって、理想も宗教も信仰も科学も自己愛の下に置いて、けがす者です。楽山は、信仰なんか持たずに、向上心も持たずに、世のために働くこともせずに、怠慢を貪って、楽山の言うことを聞いておればよいと、自己満悦教?を広めたがっています。
 
 
結局のところ、宗教にしろ、占いにしろ、それによって、いい気分になったり、不安になったり、感動したりするなど大きく心を動かされたなら、そのまま突進するのではなく、ある程度の距離をとって冷静さを取り戻すことが大事なのだろう。結論を出すのはその後で十分だ。
 
ある程度の距離を取って、と言って、楽山が言いたい本音は、宗教否定であり、その矛先を、何度もキリスト教に向けながら、私の批判に答えられず、結局、自分は何でも知っている神?相当のものだということを、極めて狡猾な婉曲的表現によって、植え付けようとしてきます。
 
楽山は、悪霊のブタのように、崖に向かって突進する厄病神として生まれたのでしょうか。楽山は、自分以外とは、距離を取って、信じるな、と言っているわけです。楽山の宗教観は、小学校レベルの幼稚なものであり、そこになびいたら、知性も感性も破壊されるでしょう。
 
信仰には、距離を取るとか、信じ過ぎるとか、信じ足りないとかは、ありません。
 
聖書は、人間らしい、潤いと温もり、悲しみと愛を知る心がある人には、響くものです。
 
響くという共感性に、過ぎるとか足りないとかはないのです。
 
楽山には、心がありません。だから、何も響かないのです。
 
楽山は、自分の心無いカルト思想を基準に、宗教と信仰を語っていますが、はっきり言って、楽山については、本当の信仰に触れたことが一度もない、ということが明らかになってきただけです。だから、信仰を語っても、的外れだけがあらわになってきました。
 
 
宗教側は「天変地異が迫っている」「早くしないと大きな不幸が起きる」などと急かしてくるかもしれないが、そんな脅しに耳を貸してはいけないのだ。こういうことは当たり前のことだけども、宗教と出会って、「これは間違いなく本物だ!」と感動してしまうと、ついつい忘れてしまいがちなことではある。恥ずかしながら自分はそうだった。この点はよくよく反省したい。
 
「これは間違いなく本物だ!」とカルトを信じるのは、話の辻褄にだまされているだけで、本当の感動ではありません。人間らしい良心のない楽山の勝手な見なしに、だまされないでください。批判者を装って、自分の自己中妄想に染めようとしているのです。
 
「恥ずかしながら」「よくよく反省したい」・・楽山の反省芝居に、だまされないでください。こう書いておけばいい・・という軽さで書いてきます。楽山は反省したことなど一度も無いと思います。楽山は非を認めることができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
楽山は、だまされるほうではなく、恐らく最初から、だますほうとしか言いようがありません。楽山は、悪意の、カルト、偽善者、自己愛性人格障害、教祖願望、霊能者気取り、有識者気取りを持つ、凶悪で狡猾なカルト煽動者です。
 
楽山の言語は、一見、物わかりのいいような語り口ですが、結局、理路は詭弁であり、情緒的感受性に欠けており、洞察のない屁理屈だけしか持っていません。満足するのは、楽山だけであり、誰も、何も、深くて良いものを受け取ることなどあり得ない、口先の虚偽につながってゆきます。
 
楽山の言は、ボンヤリ言語とトホホ言語と名付けていますが、柔和に見せかける婉曲表現と、謙虚を装う芝居で出来ています。この記事も、中庸(ちゅうよう)を気取っていますが、実際は、何も理解できないまま、自説だけを吹聴する、単方向の、軟派カルトの楽山の悪知恵に過ぎません。
 
楽山には、宗教を語る理路がありません、信仰を語る良心がありません。ゆえに、楽山の語る宗教と信仰には、節操も敬虔も、他にないという真剣さも、感動を呼ぶ説得力も、皆無です。平板で、通念的なことから始めて、いかがわしい超常の話を語ることで悦に入るのです。
 
楽山には、小学生レベルの、軽佻浮薄の思い付きしかなく、そこから、全く、成長していないのです。だから、読んでも、見栄と執拗さ以外には何もないので、疲労と徒労が残るだけです。付き合い続けると、楽山と同じような、ボンヤリして鈍い人格破壊に至る恐れがあります。
 
(ネットより)
けいちょう-ふはく【軽佻浮薄】
考えや行動などが軽はずみで、浮ついているさま。▽「軽佻」は落ち着きがなく、よく考えないで言動するさま。「浮薄」は浮ついて軽々しいさま。信念がなく他に動かされやすいさま。「佻」は「窕」とも書く。
 
楽山は、真面目に真実を追求するブロガーとも、趣味を書くブロガーとも、日常を書くブロガーとも、全く違う人種です。楽山ブログは、妄想的結論から始まって、詭弁から破壊に至る害毒日記です。
 
恐らく、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害のために、生きてゆくのに、芝居をするしかなかったのかもしれません。しかし、それは無責任であってはならず、無反省であってはならないものです。どちらも楽山は無視して、人を傷つけるだけのサディストになっています。
 
性悪の根腐れの楽山に声を掛けるなら、今までも、これからも、
 
・・あっちに行け・・だけです
 
人生を大切にしたいなら、決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
※ 
 
楽山は、神がいるなら神が悲劇から救うはずだから悲劇は起こらないはずなのに、救われない悲劇が実際あるのだから神はいない、という言い分のようです。楽山の考える幸・不幸を、知りもしないし信じてもいない神に向けて決めつけています。こういう柔和の欠片もない確信が悲劇をもたらすのです。
 
信仰からではなく、心からでもなく、楽山は、物と好都合だけを欲しがる欲望の人です。そういう人が、声高に、無神論なるものを吹聴しています。人は、有神も、無神も、証明できません。信仰という形無きものは心の中で活きています。それが分からないのが、楽山のような心無き者たちです。
 
楽山の大きな罪そして偽善は、神に代わる救いを何も提供できないことであり、さらには、絶望している人に、神はいないぞと、傷に塩を塗るようなことを言っているに等しいということです。絶望を解決できず、いかなる救いも知らず、自説自慢だけで、口だけは減りません。
 
信仰者としては、どうしようもない地上の世界だからこそ、神という最善の絶対者を信じ仰ぐことが必要になるという動機であります。そして、救いがあるとは思えなかった人が、キリストの愛と共感に導かれて、祈りにおいて神の前の正直さだけを捧げて生きているのです。
 
神は、その全能を、人の卑しい欲望含みの思考で分かるように示すことは、なさらないのです。神の救いは、地上だけでもないかもしれません。例えば、地上以外のことについて、感性の貧困な楽山は、ホラー以外、何も希望を語れないにもかかわらず、神?とか霊について得々と語る偽善者です。
 
神と人を引き離そうとする反キリストの幼稚で次元の低い話に惑わされないでください。信仰者も、あの世の希望だけにすがっているわけではありません。理屈ではなく、既に、地上において、キリストの気高さへの憧れと共感という賜物を恵まれて、キリストを忘れられない人が、信仰者になります。
 
 
ずるっとだまして知らぬふり

ずるっとだまして知らぬふり
 
 
(2021年)
(2022年07月30日、再録+加筆)
 
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  秋の日・一
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
さわやかな秋の日だ
 
 
  台風一・上陸間近
 
台風は上陸するらしい
お前はもう終わりだ
おしまいだ
と言わんばかりに
 
風音が家を壁を窓を
軋(きし)ませる震わせる
時々金物か瓦か何か固い物が
ぶつかり合う音が聞こえる
 
外のバイクは大丈夫か
月極駐車場に置いてある車は
夏に除草剤を撒(ま)いた庭に
秋になって思いがけず
生えてきた草の中に
咲いていた赤紫の小さい花たちは
テレビは終夜放送で台風情報
 
外は荒れ狂っている
 
言わんばかりに
死の実感を持たないのは
お前だけだと
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
幸福の科学も、このタイプですね。
すべての宗教が入ってて、「俺様偉い」と。
>>引用ツイート
@rumrumrumrum
 · 21時間
もう一回、韓国の統一教会の
孔子とブッダとキリストとコーランが腰に手を回し合う像の写真を載せておこ。コーラン(本)と仲良くしてるキリストが不憫。
カルトって「全ての宗教がオールインワンで入ってます」みたいな思想好きよね。聞いてみたら、すっとこどっこいの「俺様偉い」の内容だけど。
<<
午後9:27 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
すべての宗教より「俺様偉い」と思っているのは楽山です。自己愛性人格障害の楽山は、宗教も信仰も見下ろす視線しか持っていません。伝統宗教もカルトも、同じ視線で見ています。霊言などの超常が宗教だと思っているのです。聖書も読み方も、頭の中だけの辻褄合わせだけで、心が無いのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
>>
唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。
<<
これは耳に痛い言葉だ。新興宗教にハマって、「これこそ、本当の真理だーっ」と思いこんでしまった経験があるので。
>>引用ツイート
本ノ猪
@honnoinosisi555
 · 7月28日
「唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。唯一無二の真実を宣言するということは、言葉を「急速冷凍」して、その結果、新しい意味が現れる可能性を狭めてしまうということです。」(伊藤守監訳『現実はいつも対話から生まれる』P49)
<<
午後9:08 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
「新興宗教にハマって」は、かなり嘘くさいです。楽山は、真理=自分の思想、という見方です。つまり楽山は「世界をたった一つの固定された言葉へと単純化」して客観視だと思い込んでいるのです。その結果、心無いために、洞察も根拠もなく、言論を月並みな「急速冷凍」食品にして満腹しているのです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
kazu 訳あり3児育ててます(^^)
@kazu75543205
精神科から親子がポロポロ泣きながら出てきた。子に病名がついたらしく、母親が「今まで叱ってばかりでごめんね。そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいいよ。あなたはあなただからね。お母さんがいるうちは全力であなたを守るから!」と話していて、盗み聞きした私号(泣号)(泣汗マーク)
午前11:24 · 2021年7月19日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
自分の精神的利益のために都合がよいと思ったら、人の迷惑お構いなしに引用してくる楽山を批判しています。楽山は、どこまでも正義の味方のふりをして、背伸びして、背伸びして、自分の言うことは意味があると思わせたくて、顎を外しかけています。
 
楽山が、これを引用するのは、「そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいい」というところでしょう。楽山は、自分も、こういう脳で生まれてきたから悪くない、そのままでいい、と言いたいのです。違いが分からないのは幼稚すぎます。
 
これまでも、言葉面だけ都合のよさそうな話を、本から、ネットから、引用してきた楽山です。反省と修正のための知性と感性が足りないことの証明です。言葉面だけで、直感がないのです。自分で弁明できないから、人の口を利用して、その目的は、自分の正当化・・なんて、呆れた話です。
 
不可抗力の過ちや病気と、悪意からの悪行は違います。楽山は、意志を持ち、その意志によって、嘘を吐き、詭弁ばかりを弄してきたのです。これが悪くないなら、この世は、悪人の天国になります。楽山は、だんだん、程度の低い詭弁を弄するようになっています。
 
過ちを認めて、親が責任を負うのと、楽山のように、非を認めず、無視して、無反省、無責任に、悪行を続けるのとは、全く違います。大人の年齢である楽山の責任を負うてくれる人はいないでしょう。この話を、お涙ちょうだいにおとしめて、楽山は、恥ずかしくないのでしょうか。
 
楽山が、他者を引用するとき、必ずと言っていいほど、楽山の都合に合わせた暗示か詭弁の作為が働いています。読者が読んで何となく良い話として受け入れることを楽山は狙っているのです。どこまで、いつまで、言葉の盗人家業を続けるのでしょう。最低だと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
罪悪感のない、真剣味のない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山を批判しています。楽山が書けば書いただけ、その病理と症状が現れてきます。それでも書いてくれば、それが、無反省で無責任で無神経な、楽山という人格だという証明になってゆく経過です。
 
 
 
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  神と人と言葉3
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように都合のよい神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。カルトらしい受け取り方でした。
 
しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。金の器のように輝くわけでもなく、地味で、かつ、壊れやすい、土の器 ・・人間の心を表しているように感じました。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心が働くところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。
 
絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、その神?は、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性、即ち、罪深さによるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。超常を引き寄せたいという欲望は、空想と欲望の産物であるカルトの特徴です。
 
そういう、欲望が空けた隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりとモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、相対的で不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの共感の愛であり、キリストへ共感のの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない、ある日の愚痴です・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神と人の言葉

神と人の言葉
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月29日、再録+加筆)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
  置き忘れ

君の気持ちを置き忘れ
君の面影を置き忘れ
あの言葉を置き忘れ置き忘れたことに気づいても
取りに行けないものが多すぎて
長い長い
永い永い
知らない町に住んでいた
上手な明日をこねようとして
下手な朝をこぼして
昼から夕へころんで
みずぼらしい夜に流れていった
思えばあっという間だったと
言うそばから歩きだすウソ
恐らくは余命の尽きるまで
人には失せた他人の首に過ぎなく
おろおろと探している
頭のないその頭
見なかったはずだと背を向けて
数えきれない影も声も
物忘れの箱に
無理に押し込めようとして
きしんだ老化
置き忘れられて久しく
まだ育ってもいないのに
窓をそめてゆく光のなかで
またひとつ
そこなわれてゆく夕暮れ時
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実たち
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった無数の貝殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  神を恐れる心4
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
 
 
信仰の弁えは、神を恐れる心から生まれます。
神は漠然としているのではありません。
漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
人の知恵では "決めつけられない" 御方ということです。
 
聖書の記述から作ったイメージも人のわざに過ぎません。
漠然とした神のイメージもまた正しくありません。
神は、人において規定されるようなお方ではありません。
私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
神は、決して人の見識の対象とはなりません。
私たちは、祈り願い、告白する立場でしかありません。
 
私たちの言葉は、一語は一つの意味だけでしょうか、違います。多義を持つ言葉があり、かつ、人によって受け取り方が違い、かつ、時によって受け取り方が違うのです。神の言葉は絶対ですが、それを読み取る私たちの言葉は、決して絶対ではないのです。感動は、次からは、感動した記憶になります。
 
キリストが父と呼び、私たちが信じる神は、私たちが知らないだけであって、漠然とした神などではありません。漠然としているのは私たち人間のほうです。だから、様々なことに、神の存在でさえも、言葉で、条件を付けたがります。
 
不変の神に比べて、移り気で変わりやすく、不安定で偏りやすいのは、私たち人間のほうなのです。ゆえに、私たち人間から見た神が、多様になってしまうのです。それを救うのは、教理の正しさではなく、神に対して不完全な罪人であること認めて、正直に祈ることだけです。
 
私たちは神について想い考えますが、それは、不正確な想像という罪を承知で、想い考えるに当たってそうするしかないからであって、信仰の内実において神を対象化してはいけません。神は、人の想いと思考などという有限が向かう所に対象として並んでいるような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての
人の見識の絶対性を否定することです。
神についての
人の思いを相対的とすることです。
そして
キリストからの共感を知り
キリストに共感することです。
 
神の御心は変わることはありませんが、神について人が思うことは、そのときの思いに過ぎません。だから祈りのうちに、さらなる導きを待つしかないのです。キリストの同伴が、その生き方を支えることが信仰生活を成してゆきます。
 
神と人の契約とは、赦しと救いの約束であり、人が人らしく、神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ無効になることはありません。ときに思い上がっても、のちに悔いて、正直に祈るなら、寛容な神は、赦しをもって関係を回復してくださるでしょう。救いに手遅れはないからです。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは、自分が神と同等だと言うに等しく、人が神の前に故意に隠したり飾ったり偽ったりすることは、自分が神を騙せると思うに等しく、いずれも人が、神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
 
それは、神に対する反逆であり、ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。つまり、神と人の契約を破棄するのは、まさに、人の側でのみ起こることなのです。神が、救いの約束を破棄されることはありません。
 
繰り返しますが、あるとき傲慢であっても、そのあと悔い改めて、神を恐れるに相応しい信仰になれば、神の側は破棄していないのだから、この上ない神の寛容によって、救いの約束は恵みとして復活し有効であり続けます。
 
人を愛し救い、人に命の恵みを与える神が、あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり、私を含め、人間なんぞが、うっかり友だちのように、近いなどと思ってはいけないことに気づき、神を恐れること、それが信仰の節操の始まりです。馴れ合いは、神に対しては成り立たないということです。
 
神は、人間の俎上や机上に乗る御方ではありません。恐るべき神を知り、聖書から、キリストに愛され癒やされることに気づき、キリストを愛するようになること、それが信仰の情熱の始まりです。信仰は、人にとって、超越的に現実離れして神がかるような、超常のものではありません。
 
神という永遠不変は、人が、超常を知らないこと、いたらないことを、隅から隅までご存知ですから、超常を知らなくても理解と共感が可能な人間として正直な信仰を、超常と地上の間の仲保者として、キリストを遣わすことで与えられたのです。
 
神は理解する対象ではありません。
希望として信じ仰ぐ対象です。
何よりも正直な祈りを捧げる対象です。
 
神に対して、人の真・善・美・義は完全にはなりません。
人は、真も善も美も義も努めることが必要ですが、完全に到達することはありません。
 
したがって、
真も善も美も義も、
人の努力目標にはなっても、
人の信仰の芯にはなりえません。
これらは道徳か目標に過ぎません。
完全に守れる人はいません。
 
神に対して
通用する唯一の言動は
正直な祈りだけです。
人が救われるための必要十分条件です。
だから、信仰はシンプルなのです。
 
 
恐るべき神 共感の救い主

恐るべき神 共感の救い主
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月28日、再録+加筆)
 
 
 
 愛の実態
 
愛は寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
 
とうに「愛」の理想は
人の実態において死んだが
ここにおいて
いまだ「愛」は死んでいない。
 
守れる者が一人もいないので
神の寛容が用意されるからである。
 
※ 以上は、以下の聖句を否定肯定を逆にしたものです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということである。
 
本質的なところでは、信仰に、信条はない。
 
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように片方の合意がなくなれば消えてしまうというものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしても、キリストがその絆(きずな)で捉えて離しません。
 
何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるといったような部分に結び付けられているからではないでしょうか。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しかし言葉に尽くせるものではありません。 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-30、新約聖書)
 
いつからか私は信仰について、糧(かて)と干物を区別したくて、心に響くものと響かない美辞麗句を区別したくて、理屈で考えることを控えるようになった。
 
思いで納得しなければ何も語ることのできない人の性(さが)、この矛盾を孕(はら)みながら、総てが既に知られている所から、日々の糧は与えられている
 
 
 
  祈り・フリー
 
過ごし
見過ごし
死に損なってゆく一日一日に
意味も喜びも見出せずにいますが
長年の柵(しがらみ)からは
フリーになりました
フリーです
自由です
自由契約です
要するに無職です
ワァーォ
過去の罪は消えないとしても
少し肩の荷が下りた気分があります
と同時にカウントダウンが始まりました
(数年後の経済状態
 を考えるのだけは…やめよう)
主よ、あなたが成就し
実践された愛するという使命も果たせないまま
じっと黙って心臓が止まるのを
待つだけの人生になりそうです
自殺は、どう考えても
御心に適(かな)っているとは思えないから
できるだけしないように努めますが
自力では運べません
運んでください できれば
許されるものなら
気の遠くなるところへ
肉の遠くなるところへ
何もかも無意味だったから
元々意味も名前も持たない遠くへ
遠くへ…
 
 
  時を探すとき
 
水は流れるとき
樋(とい)を探すだろうか
火は燃えるとき
炉を探すだろうか
風は吹くとき
崖を避けるだろうか
山は爆発するとき
焼かれることを恐れるだろうか
 
いつのことだったろう
山が燃えていた
街が燃えていた
海が燃えていた
 
人は喋(しゃべ)るとき
相手を探す
相手を見つけて喋る
相手が自分のときは独り言
時々か屡々(しばしば)
いかなる相手も見つけずに
独り言を喋っていた
 
誰に向かってでもなく
吐息を漏らすとき
 
相手はいない
探しもしない
ただほんの一瞬
吐息のない過去を見ている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」・・楽山の安易な言い訳のようですが、誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵はサイコパスです。サイコパスは、いたるところに、少ないが含まれています。罪悪感が無く、自己中心で、反省も後悔もせず、しんみり悲しむという深い情感と共感がなく、笑いと怒りに支配されている亡者のような存在です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者時代に似た経験がありました。
HS信者仲間に、邪教とされる宗教の本を読んでることをいったら、「よくそんな波動の悪い本を読めるなあ…」云々と。
邪教とされる宗教信者と知り合ったから、その人に伝道するために、まず相手の信仰を知ろうという動機だったけど、理解してもらえませんでした。
 
楽山自身が邪教だと思います。アンチではなく、むしろ教祖願望があるのではないかと思っています。「まず相手の信仰を知ろう」・・楽山は、正当な、いかなる宗教も信仰も知りえません。信仰の心が無いからです。代わりに、自分信仰としての自尊過大が、楽山の病質です。自分信仰は反信仰です。
 
 
 
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  印象操作と陰謀2
 
   楽山日記(a)
 
 
HSを脱会したと言い、アドラー教を宣伝し、似たような体質を持ち、クリスチャン芝居をし、一方で、キリスト教に、幼稚な疑問を当てつける否定の印象操作をする、という、とても、いい加減な楽山が、また、反省もなく、訂正もなく、よりによって、カルトとマインドコントロールについて書いてきました。
 
自己正当化の言い逃れであることは言うまでもありません。このように、自己中で、何を言われても無視して平気でいられるのが、楽山やシャロームなどの軟派カルトであります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だろうと思っています。
 
 
>・【書評】「カルト宗教信じてました。」を、カルト教祖の息子が解説します!<
 
楽山は、こういうところを、利用して、カルトはひどいですね、などと言う感じで、アンチカルトに共感があるかのような文章を書いて、自分は安心で大丈夫と、カルトとは無関係を装うのでしょう。そのための賛同の受けねらいの意図のようです。
 
 
*カルトはどこも一緒
この本はまだ未見なので、こういう動画を見ると読みたい気持ちが高まってくるなあ。
「カルトはどこも一緒…」という言葉については大いに共感する。紹介されてる書籍はまだ読んでないけど、他のカルト関連の本を読んでても、元信者さんらの言葉を聞いてても、そういう感想はもちますね。
カルトによって、その程度、言葉遣い、信仰対象などに違いがあったとしても、基本的なところは同じだなあと。
 
楽山の「気持ちが高まってくるなあ」は悪意が興奮することだろうと思います。楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分かないっぽいのに驚いたと言ったことがあります。心霊や超常の話に興味があることを表し、仏様や霊の気持ちが分かるみたいなことを言っています。
 
カルトなどの超常現象に惹かれるゆえに、カルト寄りの楽山が、今回は、硬派カルトの、うるささや汚さや体罰的なことを表している動画を見て賛同し、ヤバいことをする奴らは特別だからと、共感を装いながら、自分は全然違うという印象を吹き込もうとしています。
 
つまり、カルトはどこも一緒で、おかしいところがすぐ分かる、という印象操作をしています。実際は、硬派カルトだけでなく、友だち関係を求めてくるような、やさしさを装う詐欺みたいな、軟派カルトというのもいると思います。そして、その典型が、無神教カルトの楽山です。
 
楽山の主張は、自己中、身勝手、訂正不能で、広まれば社会悪になる可能性を持っていると思います。そして、楽山は、遣り取りや、交流が、全く成り立たない人です。相手にすると、とても異常は疲労を与えてきます。関わってはいけない人です。楽山は、理路も感性も偽物で、有害だと思います。
 
つまり、カルトが、どこも一緒ではないことは、楽山とシャロームを見れば分かるわけです。つまり、この二人は、先ず、受け入れられるために、やさしい人柄を装ってきます。それが、シャロームの丁寧語と、楽山のボンヤリ言語なのです。
 
しかし、よく見て考えながら付き合っているうちに、宗教についての記事やコメントから、宗教と信仰についての無理解や、社会悪につながりやすい性質、つまり、自己中心、訂正不能、無反省、自尊過剰、理路の単方向、他者への軽蔑と上から目線などが見られます。
 
表面的なものや法制度上のことに話をすり替える意図ですから、それに乗って騙されてはいけないのです。カルトは、犯罪が明らかになるまで、カルトではない、と言いたい楽山は、その発言からカルトに甘いこと、むしろ、カルト寄りであることを明らかにしているわけです。
 
カルト批判ではなく、自分は違うと見せかけるための、カルトのひどいイメージを借りて批判に見せかける偽装なのです。カルトの定義を、警察につかまらなきゃカルトじゃないよ、と印象付けたいのです。直ちに取り締まることは出来ませんが、批判するのは自由です。
 
 
*にがい顔
エホバの証人については、自分は、二、三の思い出がある。一つは社会見学のつもりで、王国会館に行ってみたときに、自分の隣りでにがい顔をして座ってた男性に「信者ですか」と聞いたら、ぶすっとして首を振っていたことだ。
そのときは、信者の奥さんに無理矢理つきあわされて、ぶすっとしてるんだろうと想像しただけだったが、今にして思うと、いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態というのは、よほどのことだったろうなと、前以上にこの男性に同情してしまう…。
 
今度は、カルトは愛想が悪い、ぶすっとしている、などと言う印象を与えようとしています。自分は全然違うでしょ・・と言いたいのでしょう。典型的な印象操作です。それと「みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌」云々・・は、先入観による乱暴な決めつけでしょう。
 
「いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態」
 
いい年した大人の男性は、みなが笑顔でいるところでは、笑顔でなければいけないでしょうか。楽山の見方は、一面的で、人それぞれの事情をかえりみない、みんな井戸端会議か社交みたいに見なして、笑い合い世辞を言い合うというのは、相当、偏った奇妙な考え方だと思います。
 
ぶすっとしていることは、カルトを示すこととは関係ないでしょう。こういうところにも、印象操作と刷り込みの意図を感じます。このように、楽山の理路というのは、根拠と成りえないことを決め手のように語ってくるので、真に受けてはいけないのです。
 
カルトが、誘導する目的を持っているなら、柔和そうな、パリピのような、楽しそうな、友達みたいな、物わかりのよさそうな、にこやかに近づいてくるキャラを装っても不思議はない。まさに、楽山とシャロームは、薄っぺらに表面的に、そういう柔和芝居のキャラで近づいてきます。
 
楽山の「だなあ」「ていうか」といった若い人に共感があるかのような書き方や、以前の、いかにも、共に自分も考えています的な、共感ありげな「自分も気をつけなくてはならないことではあるけど」、「やっぱり正しいように思える」などという婉曲的な言い方も、共感芝居の刷り込みでしょう。
 
 
*マイコン
もう一つの思い出は、近所の本屋の店員さんがエホバの証人だったので、「輸血拒否っておかしくないですか」と聞いたら、微笑を浮かべつつ、ゆったりと頷き、「勉強すれば分かりますよ」と言ってたことだ。
 
これも、カルトの極端な主張です。誰もが、おかしいと感じることを書いて、自分はそんなことは言いませんよ、という暗示によって、楽山は、カルトと対極にあり、カルトを分析しているかのような態度をアピールしてきます。
 
しかし、このような、あざとい、戦術的な言論の持っていき方が、既に、十分に怪しいのです。これは、今までの経過の中で、シャロームの肩を持ったり、当たり前や幼稚なことを、さもキーポイントであるかのように語る楽山の口車に表れてきたことです。楽山は、策士なのです。
 
楽山もシャロームも、世辞以外に、非を認めたことがありません。弱さ、不完全さを実感しているような文章を書いたことがありません。見せかけで書くのは、動機が分からないような文脈での、わざとらしく謙虚ぶる態度でしかありません。
 
楽山は、ペテンの芝居をするので、要注意です。自己顕示欲が強いために、陶酔するような芝居もありますが、心の感性が鈍麻しているために、子供だましの下手さ加減が分からないのです。文脈の流れで読むと、気色が悪く、わざとらしい大根役者でしかありません。
 
 
ちなみに先の記事に取り上げた本だと、疑問に対して「今にわかるよ! もっと勉強せねば!」というのは、マインド・コントロールで使われる常套句らしい。常識的にはおかしいことに思えるかもしれないが、教義を学ぶと真実だと分かりますという風に、教義を学び、その通りに思考することを促す言葉。
 
楽山の、友だちのように親し気に近づいて、勉強しなくても分かります、分かるでしょ、みたいな、ねちねちした誘導の仕方も要注意~恐怖なのです。楽山は、カルトの特徴の目立つところだけを書いています。目立たないところに潜ませる誘導や印象操作や詭弁が、本当は怖いものだと知ってほしいです。
 
 
当たり前に考えてみれば、その宗教の教義を学ばなければ分からないというのは、ようするにマイコンされなければ分からないということなんだから、そんなことは分からないままでいるのが正解なんだけども、教団の中にどっぷりつかっていると、この辺りの常識を見失ってしまうのが悲しいところだ。
 
楽山は、カルトの教義と言うべきところを、宗教の教義を学ぶことが、マインドコントロールされることだと言っています。殆ど、カルトと宗教を区別しないところも、宗教は、みんな、いっしょに、ひっくるめている、いい加減さが、滲み出ているのでしょう。
 
マインドコントロールされて初めて宗教が分かるなどと言う楽山は、カルトではない本当の宗教の恵みと幸いを何一つ分かっていません。宗教もカルトも一緒にして、侮辱してくるのが楽山です。そして、楽山こそが、宗教をバカにしながら、自前の、一種異様な無神教カルトを広める教祖願望なのです。
 
楽山もシャロームも、宗教人ではなく、宗教を利用して、カルト的な教えを広め、自分の自尊心を満足させたい病的ナルシシストだと思っています。彼らは、基本は、宗教嫌いなのです。宗教嫌いが、カルトを広める、これは、宗教を舐めてかかっているゆえに最も陰険な恐怖の企みであります。
 
教義の鵜呑みが、いちばん、カルトへの近道になります。それは、硬派カルトだけでなく、誤った未熟な宗教理解をする者によって、硬派カルト以外でも遠回しに教えられているかもしれません。そういうところからは、勇気をもって、きっぱり縁を切り、完全に離れることが必要です。
 
それと同じくらいに、あたかも、みんなと同じ常識人であるかのように振る舞って、その奥底に、誰が何と言っても何も聞き入れない自尊の固まりによって暗躍しているのが、楽山とシャロームのような、汚らしい軟派カルトの悪意の産物なのです。
 
シャロームは、いつも、自分が正しいという前提で物を言い、もはや、なんの資格も正しさもないことが明らかになっても、修正が利かなくなっている廃人のような存在です。丁寧語で世辞を言って、それだけで、自分は柔和だと思い込んでいる人格の病人です。関わらないでください。
 
楽山も、自分が正しくて中立な立場でいる人、自分はまともなことを言う人、という固まっている前提があり、修正不能であり、人の言うことを聞きません。そういう心性のために、未熟なまま、大人になり、今も、神について同じ疑問を書いて、真実を語ったつもりでいるお粗末な自己愛が支配する人格です。
 
シャロームより、狡賢く、言い方を変えてくるのが特徴です。関わらないでください。そして、二人とも、結託しているかのように、ともにキリスト信仰の心を無視~否定し、ときには一緒に、嫌がらせを書いたりもしました。
 
楽山批判の文章にシャロームの名前が出ると、嫌がらせのコメントをライブドアの私のブログに書いてくるので、シャロームのほうは、楽山の手助けをしているつもりなのでしょう。二人とも、仲間意識で結び付いているようです。
 
その仲間同士の無条件同意以外では、理路も、共感も、成り立ったことがありません。彼らの仲間意識には、人を生かす共感がありません。彼らには、欠点のある人間同士、という共感による付き合いが、まるで成り立たないのです。宗教とは対極の自尊の固まりが寄り添っているようなものです。
 
そういうことから、楽山とシャロームは、同一人物の成りすましではないかと疑うようになりました。この疑惑は、ネットでは証明は困難ですが、その可能性を知っていることは必要だと思っています。誰が誰に化けているか、分からないのがネットなのです。
 
 
教団内では、教義に則って考え、行動する人ばかりなんで、そういう人たちに囲まれていると、自分からすすんで教義に染まり、みなと同じになりたいと思わないではいられなくなるとか。
 
楽山の話を、間違って受け容れると、やさしい人柄だから、きっと、バランスのとれた話をしてくれるんですよ・・みたいな感想を持つかもしれませんが、その時が、既に、危険信号なのです。その根底には、企みはあっても、ふつうに通用するような共感の素地が全くないからです。
 
楽山やシャロームのような、共感性の欠片もないのに、そのことを隠している危険人物に、間違っても、受け入れたり、同じになりたいなどという経過になってはならず、そのためにも、好意的に関わってはいけないと思います。
 
腹黒いシャローム、陰謀家の病的ナルシスト楽山、という印象を持っています。その判断を改めさせるような彼らの言論は、今まで、一度も見たことが無いという現状です。
 
 
マイコンはカルトに限らず、大なり小なり至るところに存在するという見方もあるけれども、カルトのように一般常識から極端にズレたことを正当と思わせるというのは、巷によくある誤解、偏見、先入観の類とは大分ちがうし、本人にとっても社会にとっても悲劇だし、ここは気をつけなければならんと改めて思う。
 
また、楽山は、この記事で、重ねて、カルトのマインドコントロールというものを、ホラー的に常識からズレたものであるとして、自らが行っている誘導、詭弁、ボンヤリ言語による刷り込み、印象操作を、それに比べさせて、大丈夫なものという暗示で、刷り込もうとしています。
 
いつも、文章を、企みの目的をもって書いてくるのが楽山です。暗示と刷り込みに遭わないためにも、決して関わらないでください。楽山がこの記事を書いたのは、社会にとっての悲劇としてカルトのことを語り、自分とは異なるものという印象を重ねることが目的なのでしょう。
 
ということは、既に、このような印象操作が功を奏したことがあるのかもしれません。そうして、気軽に、友達、お気に入り仲間として、付き合って、言葉を交わしているうちに、知らず知らず、楽山の言うことには、いつのまにか、頷(うなず)いてしまうようになってゆくのかもしれません。
 
どこかで、軽いぜ・・と、味を占めてきたのだろうか。従来の豪語する硬派カルトにも、楽山やシャロームのような軟派カルトにも、惑わされることのないように、祈っています。拝。
 
 
※ 
 
キリスト信仰も、キリスト教も、堕落して、カルトになることはあり得ます。それは、神に対する節操としての、人間の不完全、すなわち、罪の性質を自覚するのではなく、逆に、信仰?ゆえに、自分は大丈夫だと確信してしまうところから生じてきます。
 
そうして、恐らく、神の前にも、こんなことは言ってはいけないというタブーが生まれ、祈りを飾るようになるのかもしれません。そこさえ間違わなければ、信仰者は、いつでも、主のもとに帰ることが出来るでしょう。
 
人が自分で勝手に確信して信じ込んで訂正不能にしなければ、人は、いつも赦しと憐れみを必要とする神の民であるからです。
 
キリスト信仰者は、おもに、旧約聖書の神の存在によって、自らの不完全性と罪性を自覚し、神への恐れと敬虔を学びます。そして、おもに、新約聖書のキリストの存在によって、人生におけるその同伴という共感という愛を知るのだろうと思います。
 
キリスト教によって、私たちは、罪と恐れと敬虔を学び、
私たち一人一人は、キリスト信仰によって、罪と赦しと愛を知るのでしょう。
 
キリスト教は、キリスト信仰の知識のベースであり、キリスト信仰のためにキリスト教があると言えるでしょう。
 
聖書にある物や肉体の奇跡の話は、神の偉大さと、神聖への恐れを伝えています。
福音書にある心~魂の奇跡の話は、キリストの人に対する限りない共感を伝えています。
 
どういう人がキリストによって救われ、どういう人がキリストの敵となったかを読み取ることが、聖書を読むうえで一番大事なポイントだと思います。
 
救われた人は悲しみを知る人でした。
悲しみを持ちうるかどうかが、信仰と、反信仰を分けるのです。
 
キリストの敵となった人たちは、悲しみを知らず、不都合に際して、誰かに怒り、誰かを憎む人たちです。そのサイコパス的な憎しみがキリストを殺しました。
 
私たちは、キリストの死の意味を深く理解するべきです。キリストの死を思わず、キリストは復活したのだからと済まして、讃美に明け暮れるのは、信仰者の態度ではありません。
 
 
悲しみへのいつくしみは共感

悲しみへのいつくしみは共感
 
 
(2019年)
(2022年07月27日、再録+加筆) 
 
 
 
  ある人に
 
引くに引けない柵(しがらみ)の中で
無理に無理を重ねて働いて
過労で倒れることが
予め定められた神の御旨であるのなら
私のサタンは退き
人のことを思わず神のことを思い
あなたが天に積むであろう宝
に想いを馳せるでありましょう
 
しかし私は生きている限り人であり
しかも不信仰な怠け者であり
人の思いから離れられません
あなたのことについて私は
まだ悟ることができません
だから私は人として
あなたの健康を祈るばかり
 
引きっぱなしで籠もる明け暮れの中で
惰眠と不眠を重ねて貪って
日毎の目覚めに仰天することが
私であるなら
祈るがいい
信仰の薄い私よ
しるしも証も導きも悟らぬ者よ
 
人の健康を祈りながら
自らの不信仰告白によって
失うであろう数多(あまた)のもの
に気づくとき私の不幸とは
比べものにならない
沈黙のうちに愛されて
なお愛すべき栄光の
無償の賜物を知るだろう
 
 
  在る・祈る
 
あの頃に戻りたい
という あの頃が
いくら探しても見当たらない
 
人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今
 
かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々
 
感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし
 
コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる
愛と呼ばれるものの
実相が浮かび上がる
 
賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世に在って
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ祈りへ
 
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 
 (コリント1,13:4-8、新約聖書)
 
 
興味深いのは、この章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることです。知識があっても、信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということであります。
 
愛と、悲しみと、共感する心によって、信仰は成り立っています。キリストが、お手本なのです。しかし、キリストのようになることは出来ません。キリストを目指すのでもありません。私たち信仰者は、キリストの民であります。そして、しばしば反逆の民であります。
 
その反逆の罪を知り、折々に、悔い改めることが祈りです。感謝と讃美より、大切なのは、正直な告白です。神は、人の言動を、既に、余すところなく、ご存じなのですから、正直以外、神に通用することはありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏はまたストローマン論法を使ってる。
私の意見は①です。
①「『仏陀再誕』の仏陀への帰依は、HS信仰の基本だ」
②「HS信仰は、『仏陀再誕』の仏陀への信仰だけだ」
私の意見を②の形に歪めた上で、反論してもダメですよ。
 
(ネットより)
ストローマンとは英語で案山子のような「人間のフリをさせるための等身大藁人形」を指す。ストローマン論法とは、相手の主張を取り違えたり歪曲したりして出来上がった脆弱な主張をストローマン(相手の代理)として打倒し、そのことによって相手の主張を論破したことにしようとする論点すり替えによる詭弁である。ストロー(藁)マンを直訳して藁人形論法(わら人形論法)とも呼ぶ
ニコニコ大百科
 
楽山は、信仰を語れる人ではありません。なのに、HSも、キリスト教も、同じように扱い、揶揄してきます。正常な分別を持たず、詭弁に生きています。真実を求める気はなく、自分の優越感を満たすためだけに書いてきます。精神衛生のために、決して、直接の遣り取りをしてはいけない人です。
 
楽山は、論客気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど、気取りだけなのです。実際は、理路を組み立てることも理解することも共感することも出来ません。真実の追求などする意思も能力もありません。既に真理を得ているという腐った高慢の悪臭が、書くものに染みついて表れてきます。
 
楽山は、文脈の理解に至らず、ただ、相手をストローマン(藁人形)のように見なして、その端くれの汚れを、中心であるかのように指摘して否定してゆきます。しかし、楽山は、心が無いので、実際は、何も理解していないのです。相手にしようなどと思ってはいけません。
 
ブーメランのように、楽山から出たものは楽山に返ってきます。本人が気づかないだけで、楽山の言は、楽山を責めているのです。楽山は、良識と良心を持った人間ではなく、人の不備を突いて悦に入る自己満足が生き甲斐の、それこそ棘(とげ)付きのストローマンなのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも宗教でもありません。人類の敵は、良心と罪悪感を持たない楽山のような無反省で無責任な病質人格、つまり、反社会性人格障害≒自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、ひと言で言えば、サイコパス(精神病質者)なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘吐きで詭弁屋で無神教カルトの楽山が、悪意の文脈によって実に軽々しく決めつけて否定する神は、キリスト教の神とも、キリストとも、何の関係もありません。楽山は、自ら捏造したキリスト教?の神?の安っぽい概念を、神として否定したために、永い批判にさらされることになっています。
 
 
 
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