楽山の捨ててゆく時3
時は金なり、命なり
2020年07月19日 楽山日記(LD)
を改めて批判。
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、どうか巻き込まれないでください。
>
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
<
楽山こそが、その人、話の通じない人です。世辞か無視かしか返ってきません。楽山にとっては、相手の言うことは、いちゃもんを付けるか、体よくあしらうか、無視するかになります。自分が言いたいだけなのです。当てつけ、世辞、そして、何も気にせず、何も進展しない。・・相手にしないことです。
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てることに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。またブーメランで楽山に返ります。
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかすために、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、出禁にして、直接の対話を避けています。
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。楽山は、アドラー教ゆずりの自己中によって、自分に都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。反省せず、学習せず、使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
しかしながら、楽山が、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習せず、成長しないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、無視からの正当化の詭弁です。
>
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
<
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
>
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
<
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、いつも他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の、ふざけた芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔性です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。反省ではなく、楽山の、ふざけた言い回しです。
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
>
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
<
時間を大切にすることを「けちん坊」と言うのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。楽山と直接やり取りすることこそ、時間をドブに捨てるようなものです。こういう魔性とは、何より関わらないことが大事です。
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。人格から、良心や罪悪感や共感などが、見られません。
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。人格破壊にもつながります。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
>
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
<
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。他者を無視することを正当化したい楽山の詭弁=汚言です。
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
詭弁→汚言クラブ
(2020年)
(2021年)
(2022年07月31日、再録+加筆)
朝を行く
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
(※ 昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・同様の楽山について、しばしばアップすることになりそうです。)
衰える繰り言
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
スイッチ
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
農道
空の色とは似ても似つかぬ
ソラ色のビニールの
雨に汚れたカバーの下に
石灰に包まれた魂が
瞳のない目をあけている
材木が二本
細く黒ずんで
不揃いにソラ色から足を出し
降ってくる空の恵みの下で
垂れてくるソラの恵みを受けながら
暖かい腐敗を待っている
点々と水たまりが追いかけてゆく
走り去る轍の上を
その向こう遠くの山が
流れない雲になって
消えるあたりを目指して
近づかない風景を歩む
雨は上がった
音・・・?
生き物がいる
瞬(まばた)きしている
>
★こも/楽山日記3
@komo266
「
⑤ 信仰者でも地獄へ行く事はある。生き方次第では私が地獄に落ちる事も当然ありえる。
」
昔はそう説かれてましたが、『救世の法』によれば、HS信者は、悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ。
>>>(サーバーか)
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。
<<<
午後10:33 · 2022年7月29日
<
「悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ」・・楽山は、HSを支えたいのでしょうか。自分が教祖にでもなりたいのでしょうか。天国に行くための何の準備も言動もしていない楽山です。どの口で、安心できることを言うのでしょう。
>
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏が自分教になってる原因に、恐らく総裁の言葉の軽視があります。
普通の信者は①であり総裁の言葉から離れませんが、棒氏は②だから総裁の言葉から離れてしまうのでしょう。
①総裁の言葉→気づき→総裁の言葉→気づき→総裁の言葉…
②総裁の言葉→気づき→気づき→気づき→気づき…
午後2:16 · 2022年7月30日·Twitter Web App
<
楽山は、総裁の言葉を重視しているのでしょうか。つまり、HSに賛同しているのでしょうか。楽山は、総裁の言葉を重視して、気づきを重ねて、アンチHSという立場は嘘だったということでしょうか。自分教の楽山は、実は、アンチではなく、信者なのでしょうか。
>
★こも/楽山日記3
@komo266
他の信者と交流していれば、自然と①になり、総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れると思うので、棒氏はアンチに噛みつき、自説を書き綴るより、もっと積極的に信者と交流したらいいです。
午後2:23 · 2022年7月30日·Twitter Web App
<
「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」と言っている楽山は「信者と交流」し「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」ことを勧めているようですが、楽山がアンチではないことを、自ら証明しているのでしょうか。
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
「
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
」
>
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
<
良心を育て損なっている楽山には罪悪感がありません。サイコパスという言葉は、元々、精神病質と呼ばれる病気でした。精神病と紛らわしいからか、最近は、反社会性人格障害と言われているようです。反社会性が表れてからでは遅いような気がして、自己愛性でいいのではないかと思います。
楽山は、書けば書くほど、自己主張と嘘と詭弁だけだと、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスである証拠となってゆくのだと、分からないのでしょう。宿命か因業のように、悪臭をネットに垂れ流してゆくようです。丁寧語が汚言となる例であります。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
(古い記事は載っていません)
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
ブログランキング