ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年09月

 
  楽山の背教の証拠(2)3
 
 「第八講 ヨブ愛の神に訴う」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年09月12日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、書けないところを、引用と、要約の "つもり" と、広がりのない表現で、ごまかしてきます。今までも、恐らく、これからも、楽山は、言論から、いちばん遠いところで、我田引水で引用して迷惑をかけることしか出来ないと思います。
 
楽山は、読書したつもりだけで、読み取ってはいません。信仰を持たない楽山は、信仰を否定するために都合のよいところを引用しているだけです。信仰も、神も、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、言葉の字面以上ではありません。
 
(ネットより)
がでん-いんすい【我田引水】
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。自分の田んぼにだけ水を引き入れる意から。
 
 
「第八講 ヨブ愛の神に訴う」を読んだので、内容をメモ。 
ヨブは「友の提唱する所の神学の神、教会の神に反抗し」、「別に真まことの神を発見せんとする努力に入った」。
「そもそも時代の神学思想に反抗して、別にわが魂の飢渇を医やすに足るべき神を見出さんとする苦闘は必しもヨブに限らない、他にも類例が多いのである」
「人一人が神の絶大なる努力の結果として現われたるものにして、一人は大宇宙全体と匹敵する」
「神はその所作にかかる忠誠なる魂を決して棄てず、たとい一時彼を苦しむることあるも、しかして彼の生命断たるることあるも、神は復活の恵を以て彼を起し永遠の生命を彼に与えて彼をして最後のかつ永久の勝利を獲しむ」
 
教義・教理的な話です。「一人は大宇宙全体と匹敵する」などは大仰で語弊があるとも思われますが、書き記すにあたって、著者の、神を賛美したい情熱と志が表れているようです。楽山は、超常ホラーが好きな趣味だけで、こういう大袈裟な表現に反応するようです。
 
 
西洋では、ロッジ、ロムブロゾーら、科学者も、心霊研究など、来世についての研究をしている。
「第十章全部を心に置きて考うるにヨブは義の神に対して愛の神を求めているのである」
「神は義たるに止まらずまた愛なり」「神を義と見るは不充分である。ためにヨブは解決点を得ないのである」
「神を義とのみ見る時人の心は平安を得ない。罪を罰し悪をただし規律を維持するをのみ神の属性と見做みなす時、人はわが罪の報むくいを怖れて平安を得ない。この時キリストを通して愛の神を知るに至れば、神観一転化を経て赦免の恩恵を実感し以て光明に入るのである」
疑問、悩みがあるときは、焦らず、急がず、慌てず、希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと。
 
「希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと」で、楽山は、納得するのでしょうか。もし、そうならば、今日のような有り様にはならないはずです。恐らく、殆ど理解できないために、引用だけして、読んだことにしたいのでしょう。
 
おもに、旧約聖書は、神と人の決定的な違い、神の恐るべき全能、戒め懲らしめる神、などを語っています。旧約だけだと、超常的また教条的になりやすいというリスクがあります。内村鑑三は、はっきり書いています。「キリストを通して愛の神を知る」・・楽山は読み取っていません。
 
おもに、新約聖書は、キリストの愛と共感による赦しと救いを述べています。新約だけだと、信仰は、感傷的になりやすいリスクがあると言われます。旧約だけだと、パリサイ人のような戒律主義や、教条主義になりやすいのです。
 
楽山は、教条主義的な解釈にも満たず、情緒的に感受することも出来ず、屁理屈に堕ちるだけのようです。つまり、最初から、楽山は、信仰を持つ意志などない人で、いちゃもん屋であり、自分を高めたいだけの偽善者だと思います。
 
さらに批判されて、弁明できないのに、成り立たないことを丁寧語で繰り返す行為は、宗教と信仰に対する明らかな嫌がらせの悪意ということになります。これによって、楽山の総ての丁寧語は、見せかけだけだと分かり、心無い世辞として否定されるべきなのです。
 
丁寧語を使うのは、そうすれば、冷静だと思われるだろうという狙いでしょう。楽山の意見は、ことごとく、思想のベースから成り立っておらず、かつ、進めてゆくほどに、さらに破綻しますが、お構いなしに不感不応の無反省と無責任のまま押し出してきます。
 
楽山は、内村鑑三の硬質な引用文と、楽山の自信ありげな丁寧語に、だまされる人が出てくることを狙っており、そのことを、こちらは危惧し憂慮して、批判を続けています。
 
 
しばらく読書を中断していたので、文章に慣れるまで難渋してしまったが、ゆっくり読んでいると徐々に文章のリズムになれ、その内容も頭に入ってくるようになった。こういう切り替えは、若いうちは無意識にやっていたけれども、年を取ってからはなかなかに難しく、けっこう時間がかかるからやっかいだ。ほんと、年は取りたくないものだ。
 
「内容も頭に入ってくるように」なっていません。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、読書できない人です。つまり、自分に好都合な文言を漁っているだけで、それを読書と呼んでいるのです。
 
前から言っていますが、楽山は、まともな読書など出来ないので、都合の良い字面を拾っているだけという無理解が、ずっと続いています。だから、頭にも心にも入ってもいないと思います。何を「切り替え」たというのでしょう。ずいぶん前に言って批判されたことを、また言っているだけなのです。
 
 
この講義を読むと、内村鑑三はスピリチュアリズムのことを知っていたようだ。当時の知識人としては、これは当然か。
 
キリスト教でも、聖霊と悪霊など、霊という言葉は使いますが、使ったからといって、なんとなく神妙な気分になったとしても、神妙や神霊が分かったことにはなりません。人間の心を持たない楽山のスピリチュアリズムは、まるで地獄の虚妄の異世界から物を言っているような外れ方なのです。
 
ましてや、キリスト教の霊は、間違っても、楽山のような、親族のことを霊が分からないっぽいと言って、自分は霊が分かるっぽい?という自覚にのぼせ上がったスピリチュアルとか超常の霊能力?とかのことではありません。
 
このように、字面だけ引っ掛けて、神妙に見せかけて、自分を高めてくる楽山です。カルト性の欺きが酷いです。超常が分かるという楽山のスピリチュアリズムは、いかなる鋭さも発揮したことがなく、愚鈍な自己顕示欲のペテンに過ぎません。
 
 
ヨブは、神学の神でも、教会の神でもない、それらとは別の真の神を求めたというけれども、個人でそういう志をもち、実行するのはとてつもなく勇気のいることであったろうと想像する。
「神は義たるに止まらずまた愛なり」との言葉は、心に深く食い込むところがある。
 
「神は義たるに止まらずまた愛なり」・・義を弁えず、愛を共感できない楽山の「心に深く食い込む」のは、怨念だけです。人間が吐ける中で最も悪質な嘘ですから、決して受け入れてはいけません。楽山は、こういう嘘や詭弁を、今までも、呆れるほど平気で垂れ流してきたのです。
 
楽山は、"神学の神"、"教会の神" などと軽口で、気安く言っていますが、実際に憂慮されるのは、キリスト教の内外に、カルト思想を蔓延させようとする楽山の言のような汚染と公害の伝染が広がることでしょう。新コロナより、台風より、有害だと思います。過ぎ去らないで粘着するからです。
 
楽山は「神学の神」?も「教会の神」?も「真の神」も全く知りません。ヒントさえ持ちません。楽山を許容すれば、個人としても、集団としても、何を言っても、無視して、訂正不能に、同じことを刷り込もうとする無神教カルトの類が、ますます、人々を惑わしてくるのではないかと危惧しています。
 
「心に深く食い込む」・・こういう言葉だけのべた褒めを書いておくのが、楽山のイージーな書き方です。詳しい説明が何も出来ないのです。楽山は、"愛" さえも、字面だけ書いていると思います。言葉だけ書けば、その通りに思ってくれると、思っているのでしょう。ペテン師の特徴です。
 
書いて表現することの難しさを痛感している立場から見れば、楽山は、とんでもない悪意のピエロなのです。字面だけ書いて、世辞を返されるのが大好きな楽山です。したがって、広がりがないので、楽山の文章からは、意味も、感動も、共感も、生まれないのです。
 
愛は、おおざっぱには、共感より生まれる高等感情ですが、楽山が、それを、見せたことも、表したことも、説明したこともありません。言葉についての安易さだけが、楽山の書くものの特徴として表れてきました。まさに自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の特徴でしょう。
 
 
 【内部告発】HSUについて
 2020年09月12日 
 
 
自分自身を見ないで、人のことばかり言っている楽山。カルト批判どころではなく、楽山自身が、自己満カルトで、無神教カルトです。(記事の大部分、省略。)
 
 
傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけだ。その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無いのは丸わかりだ。
 
楽山の言こそ「傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけ」であり、楽山こそ「その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無い」ということです。自分が言われそうなことを、人に向けるのは、楽山の特徴です。作為なのです。
 
あるいは、楽山は、人を無視するし、自分を見ないので、自分の言葉が自分に返ってくるのが、分からないのでしょう。自己愛に凝り固まると、こうなるという見本のようです。こういう人にだけは、なりたくないものです。HSなどより、はるかに有害です。
 
(ネットより)
まる‐わかり【丸分(か)り】 の解説
対象となる事柄のすべてを理解できること。丸ごとわかること。
 
自覚というものがない人は、いつのまにか、相手を批判しているつもりのことが、ブーメランのように、自分に当てはまってしまうのです。このブーメランという言葉を、先に、使ったのは、楽山のほうです。にもかかわらず「丸わかりだ」と完全を誇るに至っては呆れてしまいます。
 
恐らく、同じことを言っても、自分を省みない楽山である前提を考えれば異常~邪悪としか言えない、ということが起こってくるでしょう。言うことが、大方、今までのキレイごとの発言と矛盾してくるから、嘘だと分かってしまうからです。
 
長い経過という文脈では、人のことを言う資格も器量もない楽山だから、無理してキレイごとを言っても、みな、嘘になります。既に、正体は、かなり悪魔的だとバレているので、何を言っても無駄なのです。楽山の言は、ことごとく、楽山の因業に過ぎません。信頼度はゼロです。
 
楽山は、すごい崩れ方を呈しています。楽山は、常識めいた書き方をしていますが、だまされないでください。彼の病巣は、もっと深いところにあります。獣性と偽善性と病原性を隠しての減らず口の記事3連発なのです。ゆえに、体質の異常と呼ぶしかないのです。
 
また、自らを見ずに、他を批判している楽山です。しぶといのではなく、無神経だから、平気で繰り返し書けるのです。嘘が分かりやすいカルトより、楽山が、いちばんの病原です。楽山発狂祖とでも呼ぶべきでしょうか。
 
楽山が、自身の有り様に気づくこともなく、何の努力もせず、真剣味もなく、正義の味方気取りで、正当な批判をしているつもりでいるのは、病質によって罪悪感がないためで、他のカルトより遥かに悪質だと思うから批判しています。楽山は、いつも、"つもり" だけの人です。
 
 
メモ的に:
 
楽山は、現実に悲劇が起こっていることをもって、神がいるならおかしいという言い方をしてきました。この時、楽山は、神よりも上に立って、こともあろうに、神を見下し評価し裁く態度なのです。楽山にとって、神は、自分の欲望と都合に合わせる召使でないと気が済まないのです。
 
信仰者は、現実に悲劇が起こっていて、その原因も理由もわからず、人間として、自分でどうしようもないゆえに、より大きな存在を寄る辺とするために、神を、信じ、仰ぎ、希望とするのです。そして、罪と悲しみを正直に告白して祈ります。
 
 
因業の独り言

因業の独り言
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月30日、再録+加筆)
 
 
 
 (偶像)
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
 
光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
 
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
  偏頭痛
 
それはまさに
視野の中心から始まる
ふと見えにくいのに気づく
そのときはもう遅いのだ
ギラギラと光って
視界を遮る塊が
いびつな輪となって
ゆっくり広がるにつれて
突き刺すような痛みが
重く伸しかかる
青空は暗く傾き
地平線は割れ
散歩道は焦土と化し
くすぶり続ける煙が
あらゆる目的への歩みを
くびきのように抑え込む
口に含む薬の苦味
もう動けない
過ぎ去るのを待つしかない
そう過ぎ去るのだ
幾度となく忍びやかなる死の訪れは
まだ一度も殺意を成し遂げていない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、根拠もなく決めつけ、必然もなく言い張り、反省もなく思い込み、後悔もなく繰り返し、悔いることなく人を傷つけ、意味もなく笑い、冷血のうちに悦び、ブーメランの雑言を吐き、石のように不感不応で、何事も無かったかのように世辞を言い、それを、まともだと思っているパラノイア(偏執)です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これが信仰というものなんでしょう。
教祖が、ロシア上げ、ウクライナ下げをすれば、その通り信じ、それに反することはあらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない。
>>引用ツイート
柴犬茶トラ
@qN2ka3mHe9xI1Cl
幸福の科学の信者はロシアの言うプロパガンダの投票数を信じ込んでいるようです。本当に呆れる・・・ twitter.com/JustBeBeliver/…
<<
2022年9月29日
 
本物も偽物も区別できない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、節操もなく書いています。「あらゆる屁理屈を用いてでも否定し」て来たのは、楽山その人です。無神経、無反省、無責任、不感不応の他者無視、なのに、インテリ気取りで書いてくる自己顕示欲の鬼畜です。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の悪あがき2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想が続いています。楽山には、恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、楽山という人は、平気で投稿できるのでしょう。
 
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足の手段と言えば否定しやすいだろうという楽山の陰気な顔貌~願望~欲望が表れています。深いところが見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、など考えることが多いのですが、楽山は自分のイドのレベルに合わせて単純な願望充足だと決めつけます。
 
信仰によって、楽山が言うような願望が、はたして充足されるでしょうか。楽山が言っているのはご利益宗教です。それは、折々の願いの動機にはなって、人生を支える救いにはならないのです。楽山は、どこまでも、宗教、特にキリスト教を安っぽく語ってくる知恵足らずなのです。
 
低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取れないために起こることです。
 
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん低くなり、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
欲望の集積というのは、宗教ではなく、楽山の自我なのです。宗教を貶したつもりで、ブーメランとして、楽山が楽山を表しています。なにせ、楽山には、他には何もないのですから。理性もなく、感性もなく、節操もなく、人と宗教を貶めることに集中して、自分を貶めて、破壊しつつあるのです。
 
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういう、すり替えか刷り込みしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。短絡や詭弁が、日常語になっているようです。
 
争いをもたらしているのは、楽山のようなサイコパスが宗教に関わることから起こってきます。自己愛の病質のために、教祖願望があり、それこそ、神と同値になりたくて、神を対象物のように扱い、語り、自らの惨めさの代償としています。
 
そして、傲慢不遜となって、自分を絶対正義、他者を不全という決めつけで、上から見下ろして、愚にもつかぬ嘘と詭弁で、人々を操ろうとするのです。その醜い欲望を、丁寧語で糊塗して、印象を刷り込んでくるのが楽山です。決して関わってはいけません。
 
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
まず、信仰は、超自然ではありません。一部の、自己顕示欲の強い妄想家が、超常話を豪語するかもしれませんが、信仰は、現実をどう生きるかという問題に、人間理解と共感によって、思いやりの温もりを与え、静かに反省する潤いを与えて、人生を支えるものです。
 
信仰は、楽山のような心の醜い者が悪さをするような生きにくい現実世界にあっても、勇気をもって生きるためにあります。超自然的なものを求める欲望の典型は、楽山です。ずっと、空想の超常に生きて、現実に生きていないのも、楽山です。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な力、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えません。空想を書いて排泄してくるだけなのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とだけみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。神の敵、そして、下種の極みらしい発言が明らかになってきました。
 
義人はいないのです。信仰は、正義を得るのではなく、正義ではない不完全を自覚して生きる道です。捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となります。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないことを、自ら証明しています。
 
宗教と信仰の悪い例をもって、全体を否定する楽山の詭弁には、無神教カルトの教祖願望が潜んでいます。楽山がもたらすのは、救いではなく、疲労と徒労と人格破壊です。粘液のような悪意が、蛇のように首に巻き付いてくるので、決して近づかないでください。
 
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
無神教カルトの奴隷となっている楽山は、何も学んでいないし、理解していない人です。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、学習することが出来ない人です。そのために訂正不能になって、日常的に、醜態を演じています。
 
楽山は、奇妙な化粧をして、学者気取りで、実は、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せようとします。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。おめいているだけの、精神暴走族、あるいは、ネットという路上の狂人でしかありません。
 
何も学ぼうとしない楽山の「知らないだけなら学べば済む」という気安い誘い文句に乗らないでください。無信仰カルトの発想に、単純に賛同して、都合のよい文献を漁って、引用して褒めまくっています。自分の発想も意見も理路も感性も、どこまでも、まとまったことのない楽山です。
 
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「そう言われてみれば、たしかにその通りだ」・・こういう賛同を示すしかない楽山です。まるで、太鼓持ちです。「存在するかどうか分からぬ神」だからと、愛と共感の感受性のない楽山が、いくら否定しても、不細工なピエロの失敗芸にしかならないのです。みにくいです。
 
無神教カルトは、科学をひけらかします。しかし、宗教と信仰は、科学ではありません。精神世界の救いの話であり、つまり、心の救いなのです。それ以上のことについては、神にお任せすることです。だから、科学的事実を持ち出してきても、話は何も進んでいません。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。構造が単純すぎるのです。天動説にも劣るという言い回しで、宗教は愚かだと決めつけています。この根拠の薄弱な決めつけこそ、愚かなのです。いわゆる都合の悪そうな言葉面をもって否定する詭弁です。
 
なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。人には見えませんし聞こえません。聖書と思いを含めた人生の出来事を通して、その存在を暗示しますが、自己中人格には受け皿がないのです。
 
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどは、ひどい徒労であり、関わっている間、人生は無駄です。
 
宗教と信仰を、科学で否定できるという考えが、まず、幼稚な無理解であります。科学をどんなに追及しても、愛に到達することは出来ません。楽山は、何か、物質的なもので愛を測りたいのでしょうか。それこそ、ひどい詐欺になるでしょう。つまり、楽山は、感性の欠陥を白状しているに過ぎません。
 
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。楽山は、動物に近い人です。だから、謙虚さが皆無です。分からないと気が済まず、結論の出ないことまで、分かったふうに唾を飛ばします。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。無神教カルトに賛同して、そのメンバーになりたいのでしょうか。自分がいちばん偉いと思っている、とても醜い人。
 
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
人間の成長と人生を、進化論で片づけようとしています。人間は、一人一人違います。人生も、一人一人違います。腹を立ててもしょうがないですが、楽山のような体質的な傲慢な無理解に対しては、当然、怒りも覚えます。早く退散してほしいと思います。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状として「精神性が低い」ため「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと、自分で慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのは、楽山その人です。次元の低い八つ当たりなのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。病質の結果として、あらゆる感受性が鈍くなってきたということです。ますます、酷いことになりつつあるのでしょう。楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、「人を裁くな」を引用したものです。どういう曲解なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという教えです。
 
楽山は、批判と混同する詭弁で、批判するなと言いたいのでしょうか。誰も批判しなかったら、楽山には都合が良いでしょう。しかし、それは、邪悪な自己中の罪を養うようなものです。裁きは、最終的には神に任されます。その成り行きでは、楽山は、批判される・・どころではなくなるでしょう。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
裁くのは、地上では裁判所、最終と天上では、神であります。しかし、楽山は、この分別さえ持っておらず、自分を裁くな、好きにさせろ、と言っているわけです。楽山は、自分が特別に悪質であることに、指摘されても気づかない人です。だから私は、楽山に読者が近づかないように、批判しています。
 
 
どこまでも寒い人

どこまでも寒い人
 
 
(2021年)
(2022年09月29日、再録+加筆)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。
 
しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば自分の信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山であり、見せかけだけの学者気取りも、楽山において顕著なことであります。楽山こそ、何らかの教祖願望ではないかと思われます。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に醜いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、引用が多く、しかも、言葉だけ、べた褒めして、なぞるように、へつらいます。自分の文章が書けず、いつも、都合のよさそうなものに、飛びつくこと、なびくことしか出来ません。独立した人格ではなく、どこまでも、孤立した病質なのです。書くことで明らかになってきたのに、気づかないのです。
 
 
 
風珍について:ヤフーQ&A
 
徴兵が来たら、露者の人は、素直に応じて、獣と弾丸を受け取ってください。そして、一人または複数で、何処を、誰を、狙うべきかを、じっくり考えてください。他国にはどうしようもありません。世界大戦~核戦争になる恐れがあると思います。風珍は、人格障害だと思います。
 
 
 
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  反面の者(改)3
 
 私の記事「反面の偽善者」
 を修正再録します。
 
 
信仰について
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う人がいます。
 
(人が、どう受け取るかは、議論の対象になります。)
 
また、"ああでもない、こうでもない、ていうか、
それが信仰というものなのかなあ" ・・みたいな言い方をする人がいます。
 
(楽山などの、否定するための曖昧表現は、クズです。)
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない人たちは、
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるでしょう。
受け入れないと、次には、侮り、あざ笑ってくるでしょう。
 
ずっと神聖と人に向かって立小便をしているような
真実を排泄物に変えてゆく人たちです。
 
このような真実を求めない者になってはいけない
というモデルとなるために生きているのでしょうか。
 
罪の門口に行って
やがて来るものを待つためでしょうか。
 
 
御心は測りがたい。
 
偽善者の
謀ることは御心ではない。
 
神の前では総てが明らかにされ
というより既に明らかであり
反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者には
御心は測りがたくても
折に触れて反省はいくらでもできることが
神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白によって祈り
 
偽善者は虚偽と不感不応の顔で笑って讃美しまくる。
嘘がバレないとでも思っているのだろうか。
 
神の啓示と聖霊の導きについては
人は、これがそうだとは言えない。
 
神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
感じることと考えることを怠っているのであり、
既に信仰者ではない。
 
また、幼稚で滑稽な詭弁を
さも重要であるかのように
言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
言葉の語尾にこだわるが
言葉の中身を考えていない。
このような者は
不遜に生きて腐肉を食らう者であり
怠慢に生きて砂を重ねる者であり
滅びを生きて自らの有り様を自覚できない。
 
ゆえに彼らは
人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
 
彼らの褒め合い笑い合うに任せよ。
信仰者は
信仰にとって破壊者にしかならない者たちに
近づいてはいけない。
彼らは見え透いた嘘のように虚しい。
 
これらのような偽善者に関わってはいけないが
偽善者について知ることは重要である。
その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は神聖を
おのれの正しさの根拠にはできない。
神の啓示と聖霊の導きについては、
不完全な、ゆえに、罪深い人間は、
これがそうだと言える能力はない。
 
信仰に満たされたつもりでも
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。
そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。
そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆく。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり
人は、神を恐れるならば、すなわち、信仰者ならば、
神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
信仰者が聖書を読み
信仰者が語っても
説得力がないのを
御言葉だからと正当化してはいけない。
 
神の言葉は絶対だが
人の言葉は不完全だ。
 
聖句は神の言葉だが
人が受け
人が語るとき
人の理解の言葉となっており
既に聖ではなく
ゆえに特効薬の常備薬ではない。
人は神の言葉を語れるわけではない。
 
人の語るのは人知であり
判断に過ぎず
和しても闘っても
罪なき者は一人もいない
という共感を忘れてはいけない。
 
信仰者は正義に生きているのではない。
信仰者は罪の支配から解放されて生きる人間であり
神の正しさに人の正しさが遠く及ばないことを知って
決めつけて裁く自己正当化の生き方から
判断して行い神に告白する心を学ぶ生き方へと解放されている。
 
それは、
神に裁きを任せることと、
主イエスの同伴によって、
神の心になるのではなく
人間に相応しい心があることを知ったからである。
 
信仰は、不変の安楽を得ることでも売ることでもなく
神の前で生き、人の道を祈り求めることである。
 
 
 
キリスト者が
敬虔なる異教徒を否定しないのは
安っぽい憐れみではなく
 
神が
キリスト教を通さずに
人を選び
使命を与え
守っている
という可能性を否定できないからである。
 
キリスト者の使命は
闘争ではなく
伝道である。
 
キリスト者が批判するのは
対象が無信仰だからではなく
異教だからでもなく
有害な雑言を語る対象者が
他者の人生の貴重な時間を奪い
無益な偏見の徒労と疲労へ誘導するからである。
 
 
 (エペソ人への手紙、新約聖書)
実を結ばない暗闇の業に加わらないで、
むしろ、それを明るみに出しなさい。
彼らがひそかに行っているのは、
口にするのも恥ずかしいことなのです。
 (エペソ5:11-12)
 
 
正体不明 色が 無い

正体不明 色が 無い
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年09月28日、再録+加筆)
 
 
 
  保証のない契約
 
改めて保証のない契約について
私は語れたらと思う
生まれて初めて他者に気づき
生死の是非を自らに問うたときから
いかに私が裏切りを重ねてきたかを
 
しかし私は語れない
そのことばかりは
 
私は遊んで暮らすのです
転がるプライドを箱に納め
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
今日も春風に震えながら出掛けるのだ
行きて帰らず
それでもいいのです
目的地は着いてから探す
ああ埒(らち)もない
 
この春に芽吹き過ぎた
草木たちにでも聞いて下さい
私は知り得ないでしょう
なぜ見送ってしまったのか
この春までに散っていったものたちを
私が何度
馬鹿野郎と呟いたかを
 
 
  裏切り
 
肌と肌は
合わせられた汗が乾くように
いつか離れてゆくだろう
残されて冷めた皮膚の下に
毒々しい鮮血の筋肉を
ときおり凍らせ
ときおり焼きながら滅ぼすまで
影と影は
互いに召されたように遠く
いつか盲信のように
沈黙の厚い衣を纏(まと)い
すでに独りであることさえ
忘れながら踞(うずくま)るだろう
影は一滴の黒い雫(しずく)を落とすが
それは何処にも届かない
もはや土に帰るよりも先に葬られ
薄れゆく皮肉である
 
 
  空しさⅡ
 
いくつもの夕日を浴び
そのたびに月日が経ち年をとる
こんなに空しいことはない
 
いくつもの空に焼かれ
焼けてなお生き残る
こんなに空しいことはない
 
いくつもの朝に寝返りを打ち
目をこすって涙も出ない
こんなに空しいことはない
 
いくつもの間に人がいて裏切り
裏切り返して余命を削る
こんなに空しく
空しさは出て行き
命あるものは
帰ってくる強さを持っている
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
最近、楽山は、直接キリスト教を揶揄し否定するよりも、他のテーマで短く書いてくることが多いようです。しかし、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という体質的病魔の症状は、必ず表れてくることが分かります。長く書いても短く書いても、逃げ道は、細くなってゆくのです。
 
 
 
 (再考)
★こも/楽山日記3
@komo266
自力信仰では、この考え方が王道であり、正論だろうと思います。
ただ他力信仰では、信仰や救いは、本人の意志や努力によるのでなく、神の恵みであるとされるでしょう。
自力信仰は否定しませんし、信じるのはその人の自由と思いますけど、今の私はどっちかというと他力信仰の方をリアルに感じます。
引用ツイート
 
楽山のような自己中は、正論も正道も語れません。自らを制御する客観的な軸がないからです。自力だの他力だのと分かったふうに書いても、リアルに感じることのないのが楽山です。だから、評論家ぶって客観視みたいに装いますが、表面的で、しかも、自家製の結論しか書けないのです。
 
推測ですが、楽山は、リアルで自己実現が出来ないものだから、ネットなら何でもできるとばかり、嘘を吐きまくって、学者・知恵者・評論家気取りを謳歌していたつもりなのでしょう。しかし、書いたものに、性根も欠陥も表れてくるのです。誰も見ない丘の上で遠吠えする痩せ犬となっています。
 
楽山は、恐らく、自室の狭い了見しかない箱庭を世界と勘違いして、それを見下ろして世界を見ている幻想に酔い痴れていると思います。自分を見ることの出来ない無反省の視野が捏造する妄想世界で、世界と真善美を語っても底が知れており、いずれ、視野外からの訪問を受けることになるでしょう。
 
 
 
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  信仰者の立場から(改、再録)2
 
 
私は、もう長いこと、教会には行っていない。
教会を否定しているわけではないが、向かないと思ったことはある。
「誤解」
 
 
今まで書いてきたことを、キリスト信仰の立場から考えてみようと思ったが、
思い出話になったかもしれない。
 
教会で説教を聞いて、心がふるえるほど感動することは、恐らくないだろう。
魂の救いを求めているけれど、それこそ、短兵急に得られると思うのは間違いだろう。
 
私が洗礼を受けるに至った経緯は、牧師の説教に感動したからではない。
聖書に興味を持ち、説教にも、興味くらいは湧いたと思うが。
讃美歌も、かなり影響を受けた。歌詞に孤独な魂の救いと感じることがあった。
 
牧師は、毎週、説教を考えないといけない職業である。
多くを、ましてや、総てを手短に求めるほうが無理というものだ。
 
 
聖書に忠実な説教や記事というのは、神とキリストを中心に書いてあることが多く、その中で、その時の神の意志と行為が書かれているが、神の意志と行為である。つまり、奇跡を起こしても不思議のない御方のなされようである。ときに残酷と感じるし、大方手に負えない。
 
キリストについては、教理が中心となることが多い。処女懐妊、数々の奇跡、十字架の贖い、肉体を含めた復活、超常現象としか言いようがないもので、それを否定することはできないが、超常ではない今の自分にとって、物や肉体の奇跡は、やはり、手に負えない。
 
物や肉体の奇跡が手に負えないという意味は、否定はしないが、驚きはしても、今生きていて、滅多に起こらないわけだし、生きる支えとして当てにするには、現実離れしすぎているという意味である。
 
聖書において、キリストと人々の心の交流の記事に比べると、超常の奇跡は、孤独からの解放にもなりそうにないということは、今までも書いてきたことである。
 
その奇跡だけで、驚いて、ありがたくて、涙が出るようなことは、私にはない。素適な説教でしたとありがたがる人は、ありがたがらなければならないという強迫観念があるのではないかとさえ思っている。
 
私の記事においては、キリストと、救われた人々の間の遣り取り、キリストの言葉、などを中心に書いてきたつもりで、祈りにおいて神に対しては立派な祈りや讃美を・・ではなく、神の前に正直でしかありえなかった人が、犯したであろう罪によらず、救われていることを書いてきた。
 
そして、キリスト者の善行は、信仰の結果に過ぎないとも書いた。高が知れている人の善行に救いの鍵はないと思っている。私が惹かれたのは、神を信仰することの真善美ではなく、神の前においてだけは正直であるということだ。既に総てをご存知の神の前に、正直以外は意味を持たないからだ。
 
聖書、特に、福音書を読む場合、どういう人が救われ、どういう人が批判されたかが、特に重要だと思っている。ここには、信仰生活の努力、すなわち、できることをする、という方向のようなものが暗示されていると思う。
 
 
私は、長いものでは10年間、批判記事を書き続けている。キリスト者の立場から批判をする、という人は、あまりいないようである。悪い言葉を使ってはいけない、という教えの誤解か曲解によるところの、批判=悪口、という先入観があるような気がしてならない。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
キリスト者だと偽って、さらに、元牧師だと偽って、罪を認めず悔い改めもしない、という、とんでもない者がいるのに、さらに、キリスト教系、また、キリスト教内部から、カルトが出てくるのに、悪い言葉を使ってなならないという聖句は、批判しないことを正当化するための言い訳に過ぎないと感じる。
 
聖句を利用して正当化するならば偽善になってしまうのだから、批判をしたくないのなら、正直に率直に、そういう気にならないとか、苦手だと言えば済むことなのです。それで責められることはありません。
 
偽善者は、批判返しをしない代わりに、批判に対しては、嫌らしい当てつけや皮肉や決めつけなどの悪口を返してくる。詭弁も常套手段で、実際は、反論も弁明もできないからだろうと思っている。
 
それに関連しているような気もするのだが、敬虔というのを、腰が低く、口数少なく、控えめで、丁寧で、優しいことと理解して、実行ではなく、うわべだけを真似をしている人がいます。その者は、真っ赤な偽キリスト者です。
 
偽キリスト者、偽牧師の言です。
「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」
「悔い改めは神が与える」など。
 
私に言わせれば、敬虔は、神を恐れることから表れることであって、弱い自分を隠さないことであり、身振りや口数とは関係ないと思う。正しくなることは結果であり、正しくなることが信仰ではない。悔い改めは、それまでの人生と、生きるための軸が変わるということである。神の民となるからです。
 
「恐れる」を「畏れる」と書いて、神は恐怖ではなく畏敬だという考え方には反対です。言葉とイメージの辻褄合わせだと思います。
 
雷や嵐とともに顕れ、背く者たちを滅ぼしたりする旧約の神のイメージは、恐怖以外の何ものでもない。恐怖と同じくらい、仮に、人は神に直接出会ったら、おののくしかないと思っている。神について、私には、優しい父のイメージはない。
 
神に祈れるのは、キリスト・イエスがおられるからであることは言うまでもないことです。
 
信仰者は、辻褄が合うからではなく、孤独からの解放と癒しの恵みによって、
神は全知全能の創造主と、キリストは救い主と、信じるしかありません。
 
もしおられるなら、全知全能こそは何よりも怖いのである。総て既に知っておられる、というのは近づきがたい存在である。もしおられるなら、と書きました。存在の証明も出来ず、会ったこともないという意味であります。
 
神はいますよ!という確信を持つべきだと言う人は、心の中の偶像作りを促進するようなものだと思います。そういうところから、敬虔を忘れて、内なる高慢を、信仰として、ふくらませてゆく人もいるのでしょう。
 
 
キリスト者の、神についての認識は、非信仰者の常識を超えるものではないのです。聖書を読んだからといって、非信仰者と違って超常や神を分かっているなどと思い上がってはいけないと思います。
 
神は、人の認識の対象になるような御方ではありません。神は、人の認識の枠の中に納まるような、人の言葉で表せるような、事物と同じように対象となるような御方ではありません。
 
そこを勘違いして、分かっていると思い込んで熱心な信者気取りや、また一方で、逆に、矛盾しているから存在しないと思い込む無神論者が、いっぱいいるのは、嘆かわしいことです。
 
信仰は、絶えることのない希望であり、神はいる!と信じ込んで言い張ることではありません。
 
神がいるとは思えない世の中について、信仰者は、非信仰者との間には、反発ではなく、共感があるべきです。何故なら、信仰者は、そのような世の中だからこそ、信じること、つまり、唯一の希望として信仰することを必要としているという道を歩んできたし、歩んでゆくからです。
 
神について、分かっている、知っている、見えている、という発言や思想に対して、私は、とても気色が悪くなります。前に、教えを守って完全になれるのです、などと言ったキリスト教系カルトを、もはや人間とさえ思えなくなっているような気がします。
 
 
幸福になるにはどうしたら、ということが、ネットでも、あちこちでブログの話題やテーマになっているようです。その一つで、私はアドラー教と呼んでいるが、アドラー心理学というのを批判しています。
 
アドラー教は、人間の不完全な言葉の詭弁であり、ときに極端に断定し豪語し、ときに言い訳めいたことを、また、疑問に対して否定だけで語っているようで、両極端であり、一種のカルトだと思います。
 
気に入らないことは無視しましょうと言いながら、試行錯誤を必然として進めたり、完全を実現できるような高ぶった調子でありながら、できないときはできないと言い、それを補うかのように、ダメなら他のことに没頭すれば結果は出る、というような安請け合いの慰めを言うアドラー教を信頼できません。
 
聖書には、完全を目指したら、バベルの塔のことがあり、思い上がり浮かれてしまえば、ソドムとゴモラの滅亡やノアの洪水があり、キリスト信仰においては、何よりも、神の前で、パリサイ人のように自慢したり戒律の形式だけになってゆく堕落が書かれています。
 
 
人間が完全を目指すとき、あるいは自認するとき、安らぎであれ、成功であれ、人間の言葉の不完全さが、もろに表れてくるのです。パリサイ人は、ついには、キリストを殺すことになって最大の悪役となるのは、聖書を読めば、必然なのでしょう。
 
神秘を説くのではなく、神秘、特に奇跡を、そのまま信じこむのではなく、私たちは、どのような人が救われ、どのような人がキリストの敵となったかを聖書から考えるべきです。
 
 
嘘ばかり吐いて、それでも神は自分をどんでん返しの奇跡で守り救うと言い張っている偽牧師もいますが、失言と嘘だけが目立つようになり、どんどん壊れてゆくようで、いくら彼が、神は救うと豪語しても、キリストの名前に巣食っているだけの反キリストだと判断しています。
 
神はいつも優しく微笑んでいるばかりではないことくらい、聖書を読めばわかるはずなのです。恐らく、彼は、聖書も、ろくに読んでいない偽善者だと思う。裁きは、最終的に、神がなさることですが、人間は、信仰の節操を弁えていないと、自ら信仰の道から遠ざかり、偽善者となり、自らを破壊してゆきます。 
偽牧師の彼は、キリスト者と称しながら、人の話を殆ど受け取っていません。すでに通用しない自説を、また繰り返してくる始末です。今は所在不明となっています。反キリスト楽山の成りすましである可能性もあります。
 
 
神の前では、つまり一人で祈るときには、努めて、故意に嘘は吐かないでください。人に対して隠したり飾ったりしても、神の前では通用しません。神は全知の御方であり、既に見抜いておられるからです。そして、正直な祈りを捧げることに精いっぱい努めることだけが、救いに与る必要十分条件です。
 
悔い改めということについては、罪を犯さなくなることだとしたら、果たして罪を犯さなくなるだろうかと考えると、無理があるような気がします。神に正直に祈ることこそが、言い換えると神に祈り正直さに立ち返ることであり、世俗のほうから神のほうへ向きを変えることが、悔い改めだろうと思っています。
 
思わず、嘘を吐いたら、あるいは、言うべきことを言わなかったら、気づいたときに、また祈ればいいのです。それが、キリスト者の負うべき、キリストのくびきの負いやすさであり、キリストの荷の、言い換えると、負荷の軽さであり、また、神の限りない寛容であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-29、新約聖書)
 
ここに書いたことは、キリスト者のつもりでいる私という個人の見解に過ぎません。そして、私は、もっと心に響く信仰の考え方や感じ方があれば、見解を修正する用意があると思っています。
 
これは、とても大事なことで、修正不能になった信仰は、新しいことが受け入れられなくなり、成長しなくなり、言葉に、行ないに、儀式に、しがみついて、人の技の細工か習慣に過ぎなくなり、キリスト信仰の真実の深みを失ってしまうからです。
 
ゆえに、自分について、違和感を感じたり、おかしいと思ったときには、正直に祈ることが大切です。精神的にも、祈ること自体が発散になり、反省になり、癒しの効果を持つかもしれません。立派な祈りをしようと、きれいごとや理想や "べき" を並べるのは、癒しと赦しを求めたい心に反しています。
 
神は、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、どこまでも寛容であり、キリストは、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、命を惜しまぬほどに共感し、限りない愛を用意して、同伴されるでしょう。
 
信仰の節操は、負いやすく軽いのです。そして、信仰の情熱は、ときに、エロスの愛のように、一途でさえあり得るのです。
 
 
進む力

進む力
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年09月27日、再録+加筆)
 
 
 
  神様の約束
 
神様は救うと約束されました
それは神様との新しい契約
生にあっても死に臨んでも
命の全ては神様の手の中にあるのだから
 
諦めるのは捨てることではなく
諦めると言えるのは
それで穏やかな目覚めを望むときだけ
 
ひとつの夢が断たれたからといって
諦めてはならないのです
多くの努力が報われなかったからといって
諦めてはならないのです
まだ心があり体があり
動かす手足もある
今できることから考えてごらんなさい
 
体が病んだからといって
病人と思ってはならないのです
まだ心がある
戦おうとしています
感覚し反応する
清流を求めてごらんなさい
 
心が病んだからといって
努力さえできなくなったからといって
全てを失ったと思うことはないのです
まだ体があり目があり耳がある
残された心が願うものを探してごらんなさい
 
身も心も病んだからといって
何もかも終わったと思うことはないのです
病んでいることは生きていること
まだ命がある
何かが動いている
動けるものを見つめてごらんなさい
 
起きてもいい
寝ていてもいい
何をしてもいい
何をしなくてもいい、でも
諦めてはならないのです
忘れてはならないのです
神様との約束だけは
 
※ これは、昔聞いた、あるクリスチャンの言葉から連想したものです。
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
 
以下は、反キリスト楽山のコメント欄です。
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
この記事に書いたことに、理解することなく、笑いながら、背くのが、楽山です。ときに、世辞でキリスト教を褒めたりしますが、理解はしていません。人間ならば分かるはずの、共感性がないからでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だと思っています。
 
楽山は、他力と自力で宗教を分けるという安易さです。キリスト信仰者は努力しないとでも言うのでしょうか。また、聖書についても、否定するために、奇跡の事実性に、いつまでも、こだわるという幼児的執着を見せています。宗教と信仰について、ひと言も信頼できない楽山です。
 
楽山は理解不能の人です。楽山を理解できないし、楽山は他者の意見を理解していません。安い理屈を論理学に見せかけて、勝ったつもりになる病的ナルシストです。訂正不能なので、議論や交流をする意義は全くありません。詭弁に振り回されるだけですから、接触があったら、関わらず、拒否してください。
 
楽山は、理路の代わりに詭弁を弄します。共感の代わりに芝居をします。最初だまされて、ひどく疲れます。正体を知ってからは、この世で最も軽蔑する対象になります。最初の数か月の遣り取りで病的な疲労を味わい、その後の3年以上、誰も同じ目に遭わないように関わらないように批判しています。
 
 
 
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  楽山の臭い感想文
 
 『清張さんと司馬さん』半藤一利著
 2022年09月25日 楽山日記(LD)
 
 
また短い記事です。松本清張、司馬遼太郎、さらには夏目漱石のことも書いていますが、どう読んだら、このような短い文章で済ませられるのでしょうか。読んでいないんじゃないかとさえ思えてきます。楽山の病気、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)が書かせているのでしょうか。
 
 
*二人の大作家
本書は、編集者として二人の大作家を担当していた著者が、その当時の思い出を綴っているものであるが、その語り口は非常に巧みなので、まるで二人の大作家の日常を眼前に見るようである。
自分は司馬遼太郎の作品は愛読していても、松本清張の作品はほとんど読んでいなかったのだが、俄然、松本清張にも興味が出てきたし、その作品も興味が出てきた。
 
「ほとんど読んでいなかった」のに、「興味が出てきた」「作品も興味が出てきた」のは、何故かを、書かないのでしょうか。文学に興味がある自分を繰り返し言って、感想になるでしょうか、否、自己顕示欲でしかないと思います。
 
 
*知らなかったこと
司馬遼太郎の人となりについては、それなりにいろいろな読んでいたつもりだったが、本書ではじめて知ったことがあったので、忘れないうちにここにメモしておきたい。
まず一つは「戦争中、最前線の硫黄島への転属を熱望した」(p.13)という話であり、もう一つは戦後、就職した会社で「事務所の女の子に死ぬほどの片恋をして、辞めてしまった」(p.13)という話である。
 
これが、書くべきエピソードでしょうか。片恋をした軍国主義者になってしまいます。文学的業績や筆致について何も書けないのでしょうか。しかも、これが「忘れないうちにここにメモ」して、しかも、公開することでしょうか。書くべきことの焦点も何もあったものではない。
 
 
司馬遼太郎がこれほど感情量が多く、激しい人だったとは意外である一方、妙に納得できるところもある。独自の美意識からスマートに振る舞っていても、心の内では熱い情熱が燃え盛っていたからこそあれだけの作品を書き続けられたのだろうなと。
 
「熱い情熱が燃え盛っていたからこそあれだけの作品を書き続けられたのだろう」・・熱い情熱が燃え盛ったら、小説が書けるのでしょうか。単純で、読者としての独自性のない、意外性のない、月並みで退屈な感想文、いつまで書き続けるつもりでしょう。自分以上に、読者の時間を無駄にしているのです。
 
ドラマの原作にもなっているから、また、文学の人は大方そうですから、感情の豊かな人であることは、当然でしょう。それを欠くだけで感想文になるでしょうか。身の程を弁えて、ペンを控えることは考えないのでしょうか。自己顕示欲を満たせば、それで満足してしまうのでしょうか。
 
 
*神格化
余談ながら、本書には漱石についても面白い逸話を記してある。なんでも漱石は東郷元帥を讃美する門下生に、「東郷さんはそんなに偉いかね。僕だってあの位置におかれたら、あれだけの仕事は立派にやってのけられるね。人間を神様扱いするのはいちばんいけないことだと思う」(p.89)と言ったとのことである。
これについては引用元が記されていないので、そのまま信じるのには躊躇するが、漱石の芥川宛の書簡からは、人から持ち上げられるのは嫌いな性格であることはうかがえるし、それなら人を持ち上げるのも同じように嫌いだったとしてもおかしくはないなとは思う。
 
人から持ち上げられるのが嫌いなら、人を持ち上げるのも嫌いなのでしょうか。それで、東郷さんを貶したと言いたいのでしょうか。説明が皆無です。思いつきだけで文章を書いて、書いたことで満悦する楽山の筆致です。「面白い逸話」でしょうか、伝わってきません。
 
あるいは、人を持ち上げることは神格化だと言いたいのでしょうか。人を貶し、宗教と信仰を貶してきた楽山は、いったい何を讃えるのでしょう。恐らく、自分だけでしょう。こういうふうに、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、いろんなところで顔を出してくるのです。
 
四人の有名作家の名前を出して、僅かこれだけの記事を書いて、書いたつもりになって、読書家気取りに箔をつけたつもりの楽山です。小説家や評論家と、楽山の文章とを、比較することで、必要十分と、不必要不十分の違いを学ぶしかありません。自己顕示欲の、おぞましさを感じます。
 
恐らく、楽山は、持ち上げられるも、褒められることもなかったのでしょう。こういう恥ずかしい文章を書いて、楽山だけが、有名人と肩を並べたつもりになるのでしょうか。楽山を読むことに時間を使うのは、批判目的以外では、徒労の極みと言えるでしょう。
 
いつも臭い文章ばかり書いてくる楽山です。もともと、悪口を並べ、嘘と詭弁で誘導するのが、楽山の生業(なりわい)です。それを防ぐには、関わらないこと以外にはありません。批判は、それを知らせるために書いています。自己愛は、訂正不能になると、自他の人格を、鈍麻させ、破壊してゆくのです。
 
 
まじめぶったテヘテヘ

まじめぶったテヘテヘ
 
 
(2022年09月26日)
 
 
 
  一途な方法
 
例えば物事と事物の違いを
一途(いちず)に大真面目に
一生懸命に考えて
老化も老後も気づかぬうちに
ある日 事切(ことき)れている
数ヶ月後にミイラか白骨として発見され
こんな人 いましたっけ ?・・・
 
財産も遺言もなく身寄りも墓もなく
それでもじきに
きれいさっぱり片付けられ いなくなる
 
存在と不在が仲好しに過ぎて
ほとんど同質のように
誰にも仕事とも研究とも呼んでもらえず
一笑に付されるか無視されることに
一所も一生も費やして
見えない炎のうちに燃え尽きる
 
例えば空気を写実する方法
例えば水気を彫刻する方法
例えば悲しみを悲しむ方法
方法と途方に明け暮れて
追いかけて追いかけて
動くことなく動くことなく
こよなく矛盾をいとおしみ
迷いなく身を投じていられたら
もはや生も死もなく本当に
哀(かな)しみを哀しめるかもしれない
 
 
  私のウソ
 
いつか公の場に
引き出されることがあったら
嘘は吐(つ)くまいと思っている
今までずっとウソつきだったから
真面目に真剣に
ウソをついてきたから
 
このウソつきの顔から滲み出て
雫にならないまま蒸発してしまう
汗の冷たさが分かるかい
 
生ける屍と廃人の違いが
生ける屍は肉体が死ぬまでの間
ときには懸命に
伝えたいことを表そうとする
 
廃人は肉体的であれ精神的であれ
もはや伝える術を持たない
だから廃人などいないのだ
 
分からなくても忘れてもいい
罪があれば裁きがあり
罰がある 身を震わせ
狡さと悪と罪悪感を総身で受けて
限りある打算と情けに助けられて
生ける屍を受け入れてしまった
待つ身でしかない男は
そのとき引き回されながらも
認める他はないのだ
 
もし本当と呼べるものが
あるとしたら このウソと
ウソに住むことだけが
私の温もりと優しさであったと
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀がうまくいったときの
ほくそ笑み
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎上に燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
自力信仰では、この考え方が王道であり、正論だろうと思います。
ただ他力信仰では、信仰や救いは、本人の意志や努力によるのでなく、神の恵みであるとされるでしょう。
自力信仰は否定しませんし、信じるのはその人の自由と思いますけど、今の私はどっちかというと他力信仰の方をリアルに感じます。
引用ツイート
午前11:49 · 2022年9月25日
 
楽山には、神の恵みを語る資格はありません。楽山は、無神教カルトであり、反キリストです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、自分信仰しか持っていません。楽山は、他力信仰など信じてはいません。楽山の神は、楽山なのです。ゆえに、訂正不能の末路を歩んでいます。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ついでにもう一つ。
人はその心と行動によって救われるかどうかが決まるとすれば、誰を救うかという神の判断は、人によって左右されていることになり、神は絶対ではないことになります。→
午後0:04 · 2022年9月25日
 
このように、楽山は、神を、どこかのボスのようにしか見ていません。絶対でない神は、本当の神ではありません。心のない楽山は、人間ではありません。真の絶対の神に対して、感受性を持たず、いかなる恐れも知りません。ゆえに、いかなる信仰よりも、自分を上に置いてしまうのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
一方、神は絶対であり、その判断は人の心や行動によって変わることはないとすると、救われるかどうかは既に決定されており、人が何を思おうと何をしようと変わることはないことになります。
そしてこの思考では、救われるかどうかは本人の心と行動によるとする自力信仰は、涜神のおそれありです。
午後0:08 · 2022年9月25日
 
神と人との間には、人から神への祈りがあります。そのことを全く理解できない楽山は、全てを自らの理屈で済ませてしまうゆえに、神を、聖書と体験からの、共感の関係において想うことが出来ません。根っからの自分信仰であり、根っからの不感不応の自己中であります。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山はアンチではありません。学習意欲もなく、自己顕示欲だけで空っぽの文章を書いて、出来たつもりに満悦する楽山です。それで、評論家気取り、インテリ気取りで、悪い噂のような先入観と偏見の悪口を刷り込んできます。言論と良心の敵であり、病質のために、罪悪感もなく、反省もしないのです。
 
 
 
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