ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年11月

 
  楽山に交われば3
 
 朱に交われば紅くなる?
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
古い記事です。楽山の白々しい嘘と、今も変わらない迷惑要素が表れています。削除していないから、成長のない楽山は、今も、そう思っているのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の災いです。
 
 
五 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
 
楽山に交われば気が狂う・・と書いて置きます。理路が整わず、情感がなく、冷酷な楽山に交わると、話が通じない、遣り取りになっていない、何にも分かっていないのに、まともなつもりでいる、それは、自己愛性人格障害だからです。教祖というより発狂素とでも言うべきでしょう。
 
学ぶべきお手本を何一つ持ち合わせていないのに、上から、教える態度で、忠告する姿勢で、言葉だけ丁寧に語ってきて、結局、嘘と詭弁以外、何もなかった・・こういう人は、はっきり言って、要りません。誰でも持っているはずの共感性も良心もないのが自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。
 
 
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
 
「一理ある」と、楽山が言っても、楽山からは「一理」など受け取ることはないのです。世辞を言われて、いい気になっても、三歩歩けば忘れる人です。傍若無人が丁寧語を使って、ごまかしの人生を笑いながら過ごしているだけなのです。
 
 
また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
 
楽山を真に受ける者は堕落します。楽山に近づく者は、自分をを滅ぼすことになるでしょう。「何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なこと」・・楽山の嘘の始まりです。楽山は、「すぐれた状態」を知らず、「正しき者」を知らず、病気の自我によって、他者の良心を食い荒らす者です。
 
 
 
 信仰を意識しない生活
  (ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、罪も、偽善も、人の迷惑も、省みず、「意識しない生活」の話です。
 
 
もともと彼は非常に宗教的な人間だったために、かえって神を思考することが少なかった。神の中に生きていたので、神を信じるにはおよばなかった。
(ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 
クリスチャンホーム(キリスト者の家庭)に育った人は、信仰に、さして疑問をいだかないで暮らしてきたために、のちに、現実の問題に接して疑い、信仰を捨てる人も出てくるでしょうし、信仰を見直して、余計なものを捨て、大事なものを得て、自分の信仰としてゆく人もいるでしょう。
 
 
自分は、いわゆる無宗教で育った
神棚と仏壇が併存していても大して気にせず
神社、仏閣、お墓では手を合わせて拝み
彼岸には団子を食べ
クリスマスにはケーキを食べる
そんな家庭で育った
 
このような、日本人に多い育ち方をしても、楽山のように、能力不足を努力で補う代わりに、人をだますことで慰めを得ようとするような者もいます。楽山は、体質として素因もあるでしょうが、性格として怠慢で、学ばないで、自己満足を選んで、人の精神を貪(むさぼ)ってきたのでしょう。
 
私も、クリスチャンホームで育ったわけではなく、上と似たような環境で、家には仏壇がありますが、聖書に接する機会を得て、罪ということ、人間は不完全ということ、キリストの愛と共感・・などを学んで、まじめに祈る人間にはなってきたようです。善人になったわけではありません。
 
 
無宗教とはいっても
無神論や唯物論に染まっているわけではなく
ただ単に特定の宗教を信じているわけではないというだけで
神、霊、あの世の存在は当たり前のように受け入れていた
 
楽山が最近言っているのは、無神論や唯物論が多いと思います。一方で、"仏様の心が分からないっぽい親戚に驚いた" 、仏様の気持ちが分かって、"仏様が喜んでいたよ" などと言い、霊能者気取りですが、霊能を示したことは一度もありません。洞察力も理解力もない人です。
 
楽山は、うまくいかない自分を、全部、人のせいにしてきたのでしょう。その分、ストレスはないでしょう。嘘と詭弁は復讐なのでしょうか。そうして、甚だ迷惑なだけの人物になっています。「神、霊、あの世の存在」を、当たり前のように浅薄な知識に貶めて、バカにしてきたのです。
 
 
今、振り返ってみれば
自分の半生の中では、この時期が一番よい生き方をしていたし
神様の近くにいたような気はする
それにこの頃は、なぜか運もよかった
そのせいか、上のロマン・ロランの文章にはとても共感できる
弱い人々、あるいは弱くなっている人々の貧血している生活は神の信仰を必要とする! 彼らは草木が太陽にあこがれるように神にあこがれる。死にかかっている者は生命にしがみつく。しかし、太陽と生命とを自分のうちに持っている者は、自分の外のどこにそれらをさがしに行くことがあろう?
(同上)
 」
 
信仰は、生命の光を、自分のうちに与えられ、気づいて、育ててゆくことです。ここでも、楽山は、反キリストであることが分かります。楽山が「自分のうちに持っている」のは、自分をも人をも欺いて、自己満足と優越感を貪るという下種の人生なのです。楽山が持っている太陽は真っ黒です。
 
 
無宗教だった自分は
もっとも弱っていた時期に幸福の科学と出会い、入会し
じきに退会することになったのだった
その後はしばらくの間は
幸福の科学の代わりになるものを探したが
これだという宗教には出会うことなく、今に至り
そのことに納得している
つまり元のさやに戻り、無宗教に落ち着いている
 
楽山は、ちっとも落ち着いていません。自己顕示欲の権化となって思考が散乱しています。自己顕示欲によって症例情報だけは豊富な自己愛性人格障害の見本として、気づかれないあいだだけ、いい気になり、結局は、人に多大な精神的疲労~人格破壊という迷惑をかけ続けているのです。
 
楽山は、自分を完全とするカルトであり、宗教と信仰の感受性がありません。かつ、まともな人間としての、共感も持っていません。そういう人間であるあいだ「宗教には出会うこと」などあり得ないのです。ゆえに楽山は、宗教を教条の辻褄でしか考えないので、信仰者と求道者の敵であります。
 
 
これは上の文章にそって考えれば
内なる太陽と生命を失っているときには宗教を求めたものの
今は内なる太陽と生命が蘇ってきたので
以前ほど宗教を求めなくなったということかもしれない
 
楽山の豪語です。「内なる太陽と生命」を持っているそうです。その時点で、自己愛性パーソナリティ障害NPDとして、迷惑だけをかける男となり、自分が神となり、ブレーキが効かなくなり、宗教を求めることなど、全く、なくなって、思い込みだけの自尊カルトとなるのです。
 
 
なんだか
ずいぶん都合の良い考え方であるし
遠回りしたようでもあるけれども
本来の自分を取り戻しつつあるようで、うれしい感じはする
宗教感覚は、人によっていろいろだろうけれども
自分にとっては無宗教が一番合っているようではある。
 
楽山の、ボンヤリ言語とトホホ言語です。「都合のよい考え方」で反省を装い「遠回り」で謙虚を装い、「本来の自分を取り戻し」たとは、病識の欠如を表しています。つまり、「人によっていろいろ」で自己中を正当化して「無宗教が一番合っている」という自己満足に浸っている醜態です。
 
無反省、無責任、自己中、訂正不能、霊能者気取り、インテリ気取り、怠慢、高等感情の鈍麻、罪悪感の欠如、嘘吐き、詭弁屋、悪いことを全て人のせいにするなど、・・どこが「合っている」というのでしょう。明らかな人格障害~人格崩壊を表しています。ここまで来てしまうのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも、文字に書かれた思想でもありません。自己愛妄想を身に着けて罪悪感を感じないところの、サイコパスです。精神病質、自己愛性~反社会性人格障害などと呼ばれるものです。楽山の、これからは、恐怖です。決して近づかないでください。
 
 
無理解を誇る病質

無理解を誇る病質
 
 
(2021年)
(2022年11月30日、再録+加筆)
 
 
 
 山上の垂訓について
 
(マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
(マタイ5:27-28、新約聖書)
 
守ることの不可能な教えに思えますが、十戒の拡大解釈であります。守れという道徳を言っているのではないということです。キリストは、厳しい教えを、守れとも、できるだけ守れと言っているのでもなく、罪なき者は一人もいない、という人間の例外なき罪性を言っているのです。
 
神は、正直な告白と祈りだけを求めておられます。教えをそのまま守ることは不可能とご存知だからです。間違っても、正直以外のものを、神に向けてはいけません。なお、信仰者においても、洗礼は、信仰の意志表示であり、生命保険ではありません。弁えるべき態度は、同じです。
 
 
 
  悪魔と基督
 
悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる
 
基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さない
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ
 
肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない
 
このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難であって
父・御子・御霊の大いなる導きだけが頼みであり
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である
 
※ 軛(くびき)、絆(きずな)
 
 
  最後の逃げ道
 
神様は必ず逃げ道を
用意してくださる
最初に聞いたのは映画でした
 
この世の富を得て幸福な者は
不老長寿を追い求める
一方で富から見放されて
幸福からも見放されたと
死ぬことを考える人がいる
 
今の世にあって
逃げ道があることを知り
祈り求める人は幸いです
 
しかし人には
富める者にも貧しき者にも
悪しき者にも正しき者にも
逃(のが)れることのできない
定められた時が来るのです
しかもそれは必ずしも
納得のいく訪れ方をする
とは限りません
生きるのが辛(つら)い人はいても
死ぬのが大好き
という人はいないでしょう
 
だからこそ知る人は幸いです
逃れようのない時にも
最後の逃げ道は
用意されているのです
 
御子を信じる者が
ひとりも滅びることのないように…
 
それは御国へ至る道
穢(けが)れた肉体が壊され
塵に帰るときも
御使いに「ごくろうさま」と
言ってもらえるかどうか知らないが
肩や首筋に溜まった
凝りが解(ほぐ)されるように
重荷は解(と)かれ
軽やかに安らかに
引き上げてもらえる
最後の逃げ道
 
死が美しいと
思ったことはありません
けれど賜る死が必ずしも
悲しみだけではないことを知り
言うは易(やす)く
行うは難(かた)けれど…
祈り願います
 
御心は必ず成就するから
神様との約束は
必ず最後まで果たされるから
 
 
 
天国は、人間が感動するとき、どのような心境になるか、ということがヒントであります。ヒント以上の具体性を持って、地上の人が天国を理解することはありません。想像は想像であり、空想は空想であり、お伽噺はお伽噺以上ではありません。天国について、決めつけてはいけません。
 
信仰による慰めは一生を支えるものです。大丈夫と言ってくれる友人からの慰めとは違います。人の言葉で表されるものとは違います。また、魔法ではありません。人が神秘を理解することはありません。ぺらぺらと人の言葉で表して、分かったつもりの反キリストがいますが、何も分かってはいないのです。
 
心貧しいとは、心に先入観がないということです。心の貧困な反キリストや無神教カルトが何を豪語してきても、信仰を持っている人は空しさしか感じません。彼らが全く心に響かないことを信仰のように述べても、そういう反キリストの言は、野辺に放置された骨にも足りません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「だよなあ」「なんでしょうかね」は、楽山のボンヤリ言語です。丁寧を装う詭弁であり奇弁であります。自己愛に有頂天になり続ける災いの人が、分かったつもりになっているだけなのです。だから、平気で嘘を吐き、後悔せず、反省せず、無責任のまま、書く続けてきたのです。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ煽動2
 
 『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』
 ペマ・ギャルポ著 2021年11月14日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
(ネットより)
ペマ・ギャルポ(チベット語: པདྨ་རྒྱལ་བོ〈ラテン文字翻字形:Pema Gyalpo〉、1953年6月18日 - )は、日本の政治学者。チベット出身で日本に帰化したチベット系日本人。拓殖大学国際日本文化研究所教授、岐阜女子大学南アジア研究センター所長。専門は、国際関係論、国際政治学。
亜細亜大学法学部卒業。モンゴル国立大学政治学博士[1]。所属する学術機関はチベット文化研究所[2]等多数。所属する芸能事務所はサラブレッド・プロモーション[3]。
ぺマ・ギャルポ:ウィキペディアより
 
楽山は、A級戦犯を褒めるなど、ネトウヨとしての記事も書いています。自分の問題から逃れたいために自己愛性人格障害者がすることは、ケチな煽動屋がしそうなこと、つまり、話題を逸らせることでしょう。信仰を思い切りディスった後は、中国の脅威を煽ってきました。
 
チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自分を高めるために、評論家気取りで利用~悪用するのです。
 
 
*概要
恐ろしいタイトルの本だけども、これは知っておいた方がよさそうだと思ったので通読してみた。
その概要は、前半は中国はどのようにしてチベットを侵略したかが語られ、後半は中国はすでに日本に対して相当の影響力を持つに至っていること、日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべきことが語られている。ここでは中国の日本侵略の兆しとおぼしき事例をいくつも紹介しているが、その一つ一つが背筋が寒くなるようなものばかりである。
 
楽山には、政治や国家を、とやかく言う資格はありません。食欲のように話題に飢えている楽山の、政治も分かるんですアピール~宣伝に過ぎません。「日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべき」・・どういう対策を講じられるというのでしょう。無責任に、恐怖だけ煽っている楽山です。
 
楽山は、自分を高めることや、インテリ気取りに熱心ですが、楽山自身の、罪と悪と偽善の問題や、無反省、無責任な体質については、一切認めず、無視し続けてきました。逃げていると分かるようなことしか書けないのでしょう。どんどん、真実からも、現実からも、乖離してゆくようです。
 
 
*チベット再訪
本書の中でもっとも印象的な話を二つほど挙げておくと、まず一つは著者がチベットを再訪した折に出会った子供たちの様子である。
子供たちは盛んに「私に名前をつけてください」といいます。どういう訳かと思ったら、驚いたことに子供たちの名前は数字なのです。「九・二三」「三・五」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、彼らは誕生日や体重や侮蔑の意味を持つ言葉で呼ばれていたのです。中国当局は「反革命」だとして、チベット名を禁じているのだといいます。
(『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』ペマ・ギャルポ著、飛鳥新社、2012年、p.85)
 」
近頃はウイグル弾圧についての報道は増えつつあるように思うが、チベット関連のニュースはいまだに殆どない。もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う。
 
もう一度言います。チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。そして、具体的なことは、何も語れないのです。
 
「もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う」・・このような、正義の味方?が当たり前に言うようなことに、だまされないでください。楽山は、外国のことも、他人のことも、本気で心配したことはないと思います。自分に何が降りかかってくるか、何も気づかない人です。
 
むしろ、楽山のような人が、増えれば増えるほど、理非もお構いなしに、状況分析もせずに、平和を思わず、やたら恐怖を煽って、事態を悪化させ、戦争へと導いてゆく、ということを肝に銘じておくべきでしょう。自己顕示欲が高じると、危険だという例になります。
 
理路と情緒ともに劣っていて、思想がまとまらず何も深いことなど書けないのに、これならいいだろうと書いてくる楽山の安易さが目立つばかりです。あらゆる顰蹙(ひんしゅく)が当てはまる楽山には、決して、関わらないでください。とても乱暴な精神です。
 
それに、名前のことが書いてありますが、楽山が様々なHNを使い、素性を明かさないのも、書いていることの重大さに比して、結局、いかなる責任も負わず、何事にも関わりたくない怠慢な性根を表すものでしょう。間違っても楽山を信頼しないでください。
 
 
*クレーム
もう一つは、日本のテレビの話である。
私は二〇年ほど前から、TBSと読売テレビでコメンテーターをさせていただいていますが、例えばチベット国旗を出す場合、わざわざ聞く必要もないのに、スタッフが中国大使館に電話をしてお伺いを立てるのです。当然ながら、いいと言うはずがないのですが、報道の自由を侵害することになるので、あまり強くは出てきません。
その代わり何をするかと言えば、例えば親中派団体の人間などに番組あてに、また番組のスポンサーには番組編成局あてにクレーム電話をかけさせるのです。そしてその件と関係ないことでも、事あるごとに「ペマ・ギャルポを番組から降ろせ」といったクレームが来る。
(同上、p.127)
 」
本書の発行日は2012年であるが、今は当時より状況は好転しているとは言い難いのは辛い…。
 
隣国が干渉してくるのは将来の脅威ですが、自己中の楽山が、無責任に無反省に口を出してくるのは現時点の大きな災いです。私は楽山を強制的に追放する権限を持ちませんが、楽山こそ、リアルとネットの災いであり、言論から一刻も早く追放されるべきです。あらゆる真実の追求を邪魔する病質者です。
 
 
*計画?
こちらは本書の裏表紙である。
『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ著、裏(省略)
中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ。
 
本当なら「不気味」ではなく恐怖です。総じて、チベット出身の人が書いている本を、中国を脅威と決めつける具材にして「天皇の処刑」などという恐ろしいことを、そのまま書いて「不気味だ」(≒気味が悪い)で済ませて、面白がり、かつ、不安を煽るなど、もはや、右翼とさえ思えません。
 
いったい、どんな立場に立っているつもりなのでしょう。煽って気を引こうとする野次馬根性には、一片の愛国心も見い出せません。楽山の書く必然が、どこにあるというのでしょう。見境のない楽山の、自分は特別だから何を扱っても言ってもいいかのような、自意識の傲慢が表れています。
 
テレビなど見ていて、皇室と、皇室関連の記事を書く人が、どれだけ言葉に気をつけているか、分からないのでしょうか。楽山の自己愛と自己中が、いかに高等感情と慎重さを欠いているかという記事です。皇室と、日本と、読者に、危機を煽って机上で玩ぶ病質は、全く有害無益です。
 
楽山の無思慮と無遠慮と厚顔無恥が明らかになっています。思いやりの欠片もなく、繊細さを弁えず、危機や脅威の自覚もない筆致で「不気味」と言って、ホラーのように面白がるとは、生まれ育ちによる自己愛性人格障害だけではないのだろうか。あるいは、脳が器質的にやられているのだろうか。
 
誰もが慎重にならざるを得ないところを「中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ」と、あっさり楽山特有のボンヤリ言語で言うのは、迂闊な暴言です。高等感情鈍麻の楽山の体質を表しています。楽山には、皮があり、肉があり、骨がなく、髄がありません。
 
迂闊:(ネットより)
う‐かつ〔‐クワツ〕【×迂×闊】 の解説
[名・形動]
1 うっかりしていて心の行き届かないこと。また、そのさま。「そんな大事なことを見落とすとは―だった」「―にも口を滑らす」
2 回り遠くて実情にそぐわないこと。実際の役に立たないこと。また、そのさま。
 
皮肉骨髄:(ネットより)
禅宗の僧侶、達磨大師が四人の弟子たちを「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と評価した言葉。
骨や髄は「要点」の喩えで「物事の本質の理解」を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。
 
 
迂闊(うかつ)危険

迂闊(うかつ)危険
 
 
(2021年)
(2022年11月29日、再録+加筆)
 
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのかも
しらない まま きっと
 
 
  風の笛
 
ほとんど風のない日だったが
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
 
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
 
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
 
手の中の小さな手も
その子もいなかった
 
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
 
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
 
  月
 
心臓が出ていた
果てもない夜空に
ひとり蒼白く生きる
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
  診断基準
(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition[DSM-5])
自己愛性パーソナリティ障害の診断を下すには,患者に以下が認められる必要がある:
 
誇大性,賞賛の要求,および共感の欠如の持続的なパターン
このパターンは,以下のうちの5つ以上が認められることによって示される:
 
自分の重要性および才能についての誇大な,根拠のない感覚(誇大性)
途方もない業績,影響力,権力,知能,美しさ,または無欠の恋という空想にとらわれている
自分が特別かつ独特であり,最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている
無条件に賞賛されたいという欲求
特権意識
目標を達成するために他者を利用する
共感の欠如
他者への嫉妬および他者が自分を嫉妬していると信じている
傲慢,横柄
また,症状は成人期早期までに始まっている必要がある。
自己愛性パーソナリティ障害(MSDマニュアル)
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の症状
 
人より優れていると信じている
権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
業績や才能を誇張する
絶え間ない賛美と称賛を期待する
自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
人の感情や感覚を認識しそこなう
人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
人を利用する
劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
嫉妬されていると思い込む
他人を嫉妬する
多くの人間関係においてトラブルが見られる
非現実的な目標を定める
容易に傷つき、拒否されたと感じる
脆く崩れやすい自尊心を抱えている
感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
(ウィキペディア)
 
 
 
 私としては、シャロームshalom、楽山を見てきて、
加えて、
 
笑いと怒り・憎しみの感情はあるが、
共感がないのと同様に、しんみり悲しむ悲しみの情がなく。
他者を責めるが、自分を責めることがない。反省しない。
ひやかして笑ったり、皮肉や雑言を言うが、説得力は皆無。
真剣味がなく、洞察がなく、皮相であり、深みがない。
評論家気取り、インテリ気取りがあり、学術用語を使いたがる。
罪悪感や羞恥心がない。
批判されても受け取らず、不感不応。弁明・反論が出来ない。
代わりに、平気で同じ結論を言い続ける。
 
言い方だけ、丁寧語を使うことがある。
都合が良いと他者の言を、褒めるが、表現は月並みで、大袈裟である。
・・などなど・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではないし、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。砕けた言い回しに、騙されないようにしてください。
 
 
 
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  恥丸出しの深みの無さ
 
 『「孝経」人生をひらく心得』伊與田覺著
 2022年11月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山の人生が、いかに、ごまかしで閉じてゆくプロセスであるかが、表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の悲惨な自己正当化のボンヤリ言語の例と言えるでしょう。本人だけが、書を読み、書を理解したつもりで、自慢しているのです。
 
 
*まえおき
古典名著はできるだけ目を通しておきたいと思いつつ、「孝経」はその書名はよく聞くにもかかわらず、一度も通読していなかったので、本文紹介とともにわかり易く解説してある本書を読んでみた。
 
思考の理路も、情緒面の感受性も、楽山に、古典が読めるとは、とうてい思えないのですが、感想文のつもりのようです。短くて、中身が薄く浅いのは、楽山が、実際には、読書障害であることを表してきました。感想の中身が書けないのでしょう。不親切で、浅はかな表現ばかりです。
 
 
恥ずかしい話であるが、「身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」という言葉は前々から知ってはいたが、これが孝経の言葉だとは本書を読んではじめて知った。古典を読むと、有名な名言名句を再発見できるところは楽しい。
 
楽山は「前々から知ってはいたが」説明はしないのでしょうか。細かいところにも自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は表れてきます。つまり、読んだ、読めるんだ、という読書家気取りの自慢だけなのです。「楽しい」では、小学校でも怒られそうです。見栄張ってもしょうがないでしょう。
 
髪膚
はっ‐ぷ【髪膚】 の解説
髪の毛と皮膚。転じて、からだ。「身体―」
毀傷
き‐しょう〔‐シヤウ〕【毀傷】 の解説
[名](スル)損ない傷つけること。
「彼も此も―せられたり」〈鴎外・藤鞆絵〉
 
 
*心に残った言葉
ちなみに、本書中で特に心に残ったのは、この言葉だった。
>>
「故に其の親を愛せずして他人を愛する者、之を悖徳と謂う」。
自分の親を愛さないで他人を愛する者を悖徳という。
「其の」というのは「自分の」。「悖」は「悖る」で、正しいあり方に反する。徳に悖る者を「悖徳漢」といったりします。自分の親を疎かにして他人を愛するような人は悖徳漢ですね。
(『「孝経」人生をひらく心得』伊與田覺著、致知出版社、平成21年、pp.135-136)
<<
毒親問題が広く認知されるようになっている現代では、どんなに人に親切にしたとしても、親孝行ができていなければ悖徳漢だとはなかなかに厳しく、暴論とも思えるのではあるが、一般論としては親不孝な状態ではいくら他人に親切にしても、おそらくは心の中から罪悪感は消せなかろうし、それならこの考え方はそう見当違いというわけでもなく、完全に否定されるものではないのだろうと思う。
 
はい‐とく【背徳/×悖徳】 の解説
道徳にそむくこと。「―行為」「―者」
 
音読み ハイ・ ボツ
訓読み もとる・ みだれる
意味
①もとる。道理にはずれる。そむく。「悖徳」 ②みだれる。「悖乱」 ③さかん。さかんに起こるさま。「悖然(ボツゼン)」 [類]勃(ボツ)
書きかえ
①「背」に書きかえられるものがある。 
 
はいとく‐かん【背徳漢・悖徳漢】
〘名〙 人倫、道徳にそむく男。背徳者。
楽山は、人に善意で何かを親切にしたことはないのではないかと思います。「親孝行ができていなければ悖徳漢だとはなかなかに厳しく、暴論とも思える」・・こういうところに、親不孝を正当化する楽山の詭弁が表れています。ゆえに、楽山には親不孝の経験がありそうです。あとは、いつもの自己正当化です。
 
「心の中から罪悪感は消せなかろう」・・楽山に、心からの罪悪感が表れたことはありません。偽っておいて「この考え方はそう見当違いというわけでもなく、完全に否定されるものではないのだろうと思う」という、極めて、婉曲的な賛同の辻褄合わせで、ごまかしています。白々しいとはこのことです。
 
 
親不孝の生い立ち

親不孝の生い立ち
 
 
(2022年11月28日)
 
 
 
  あの夜と病
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
 
 楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の思考が齟齬を来たし、元々欠落している感受性のために、いい加減で、拙劣な文章しか書けないようです。それだけ自己崩壊してゆきながら、なおも、自慢だけは忘れないという病質は、哀れではありますが、仕出かしてきた悪事を思えば、手加減は出来ません。なぜ、書くのを止めないのでしょう。
 
 
 
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  信仰者と偽善者2
 
 私の記事「嘘と世辞と侮辱(4)」から
 抜粋して、まとめてみます。
  嘘と世辞と侮辱(2)のコメント欄
 
 
殺伐とした批判記事が多い私のブログですが、気分転換のために、過去記事からの、まとめ的なことを少し書いておきます。人間なら分かることなのですが、楽山やシャロームには、まるで通じないことであります。共感、感動、説得力を大切にして、事実から当為(「べき」の付くこと)を導く思考について。
 
文系の論理というのは、数学などの理系の論理とは違います。よりファジー(fuzzy,曖昧)ということですが、加えて、心を動かすかどうか、言い換えると共感~感動があるかということが正しさの問題になるのです。それは、言い換えれば、説得力、ということになります。
 
 何の説得力もない文章を、排泄のように、だらだら書き続けている偽善者もいます。
 
信仰者の活動は、世をないがしろにすることではありません。しかし、実績や、何かの役に立つとかは、願いであると同時に欲望でもあります。信仰者は、そのベースとして、神の憐れみを受けるに相応しくなりたいという心で行動します。
 
すなわち、効率とか仕事量とか結果とか人気とかよりも、できることをする、という生き方になります。それが、世に仕えず、神に仕えることであり、神のほうを向く、ということであります。そして、私たちは、良いことをしようとして、したつもりで、効率の悪い見当ちがいなことをすることがあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:7-10、新約聖書)
 
正直な祈りのうちに、罪に気づけばそれを悔い、世俗から神へと向きを改め、生きる道を求めてゆく生き方になります。つまり、神を、具体的には体験と聖書を、命と人生の拠り所にするということです。
 
信仰は、結局は、キリスト信仰者である個人が決心することゆえに、キリスト信仰は、キリスト教と同義ではないということになるのです。語弊があるかもしれませんが、キリスト教は組織を含めて授ける側の教えを中心とし、キリスト信仰は受ける側の心を中心とします。
 
聖書に書かれている、いつも讃美する、また、ほめたたえよ、というのは、迫害が迫りつつある状況で、今ある命を喜ぶ、ということが前提となっています。そうあれ、というのは、まさに、激励であります。そこを、まじないのように讃美を繰り返すべきだなどという勘違いすることだけはしないでください。
 
偽善者が相手でも、信仰の学習は可能です。偽善を学んでいるのではありません。悪があれば、その対極に善を推測する、あるいは、そのヒントを見出す、ということが可能です。偽善者の言の対極にあるものを、学習するのです。偽善者と親しくならないために、偽善者の情報を学習することも必要です。
 
心貧しさも、敬虔も、損なってしまった偽善者は、余裕があるような芝居をします。聖書の文字面を唱え、いつも白々しく讃美しており、それが信仰だと思い込み、吹聴します。そして、いつも、笑っています。批判されると、怒りと憎しみに走ります。しんみり悲しむという深い情緒がありません。
 
偽善者は、余裕ありげに、作り笑いを浮かべ、あざ笑い、ほくそ笑み、・・笑いは、いつも良いことだとは限りません・・、つまり、中身よりも、うわべを装うことで、上から、高みから、下へ教えを垂れるように、新しくもないことを、だらだら言ってきます。
 
信仰があるから、いつも讃美する、さらに、いつも笑う、というのは、嘘の場合があり、正直に "分かりません" と言う心を失って、自己正当化の手段として使われることがある、ということに気づくべきであります。偽善者は、信仰ではなく、悟りの高い位置を自慢したいだけのペテン師なのです。
 
悲しみがなくなるのが信仰だと思い込む者たちは、不都合を無視し、好都合だけを大仰に吹聴します。そして、節操もなく讃美しまくり、自己顕示欲で教えたがります。そして、讃美を勧め、本音においては、人を憎み、神を憎み、最後には、自分を憎むしかなくなるでしょう。
 
(マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 
悲しみを知る人は、好都合であれ、不都合であれ、神の前に正直であります。聖書においても、そのような人たちが、キリストによって、見出され、救われているのです。
 
 
教えと体験

教えと体験
 
 
(2020年)
(2022年11月27日、再録+加筆)
 
 
 
  群衆の中に
 
たくさんの頭が見える
それぞれ上下に弾みながら
喧騒のはずなのに
音がしない
ときおり顔が半分
見えたり隠れたり
顔はそれぞれ違うのに
笑顔も泣き顔もない
その中に自分もいたような気がする
でも通勤ラッシュの経験はない
学生の頃か
何かの列
何かの群れ
思い出せない
これからの行く末の一齣(こま)を
垣間見たのかも知れない
 
 
  きぼう Ⅱ さびしさ
 
だれも しらない ところにある
なみの ない
つめたい いずみに
てを つけるような
さびしさ
 
なみだ が でないからといって
なみだが ないわけではない
 
あした の ない
ひとりの せかいから
あしたを
おもうほか
することのない
いま へ
わたされる
ひややかな
かぜ
 
あせ が でないからといって
あせが ないわけではない
 
きっと だれも
そして じぶんも しらない
ねがいが
かみしめた くちびるのうらがわで
そとへ でようと
あせっている
 
みのり が みえないからといって
みのりが ないわけでは ないのだと
 
 
  あなたはいつも傍に
 
あなたはいつも傍(そば)にいる
今にも刃物で胸を突き
切り裂こうとする人の、
仮面の裏で口を潰しながら
燃えて突き上げる殺意を育む人の、
不眠不休で残務に追われながら
燃える札束に轢(ひ)かれる人の、
死の床の痛みが撥(は)ねて繰り返す吃逆(きつぎゃく)の
不眠の過去を呪うしかない人の、
肩を組む千鳥足の、
肩を抱く独りぼっちの、
あなたはいつも傍にいる
傍には距離はないのだろうか
それとも永遠の距離だろうか、まるで
いつも一緒にいながら遂に
認め合うことのない者たちの一人
ででもあるかのように、しかし
どこにいても
あなたはいつも傍にいる
殺されながら無視されながら
なおもあなたのやさしさは
傍にいることでしかないかのように
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは当たってる気がする。
引用ツイート
>>
レイ(三浦綾子記念文学館公式キャラクター)北海道旭川市
11月23日
#三浦綾子 #今日は何の日
自分のほうが悪いと思っていて喧嘩になることはない。が、自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく。
(『聖書に見る人間の罪』)
<<
2022年11月23日
 
訂正不能に、繰り返し、言い張って、さらに、それらしく見せかける引用で、自己正当化するのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山であり、典型的に「自分のほうが正しい」と思い込んでいる病的ナルシストです。自分の欠点を他者に当てつける常習者です。
 
このような引用による空しい印象操作だけしてくる卑怯者が、楽山です。卑怯で、見苦しい異常人格であり、今まで、一度も、正当な批判も弁明も反論も出来たことがありません。なのに、引用という手段で当てつけてきます。良心も罪悪感もないので、反省も後悔もしないからです。
 
「自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく」・・執念深くリツイートまでしてくるのは、自分で言い訳できないからです。以前、書いてきたことは、全く的外れの、幼稚な主張の繰り返しと論理遊びに過ぎず、相手を疲れさせ退かせるためでした。決して関わらないでください。
 
 
 
楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「詐欺だ!」と断言するのはまずいんじゃないかと思ってたら、弁護士会のページでも「詐欺です!」と断言してるんですね。
「詐欺か?」とぼかした方がいいと思ってたが、弁護士会が断言してるということはそれでいいのかな。わからん。
>>引用ツイート
弁護士がネット公開した情報で噓をつくと思いますか?弁護士が嘘をつくはずがないと思うならこの記事の内容を信じてください。
<<このスレッドを表示
午後10:03 · 2022年11月13日
·Twitter Web App
 
以前から、私は、楽山のことをペテン師と呼んでいます。ペテン師には、罪を認めて償わない限り、ペテンをあげつらう資格はありません。しかも「わからん」ということだから、こういうのに本気はなく、オチャラケを言っているだけです。目くそ、鼻くそを笑う・・楽山です。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の人の特徴
 
「自己愛性」と聞くと、なんとなく「自分大好き!」な人が浮かびませんか?周囲にいる自分大好きな人…自分の自慢話ばかり…人のことなんておかまいなし…ちょっと迷惑な存在ですよね。
 
けれど、自己愛性パーソナリティ障害は、「自分大好き」な人ではありません。反対に、「あるがままの自分を愛せない」人達です。自分を愛せないし、他人も上手く愛せません。自己愛性パーソナリティ障害は、愛情という感覚が働けなくなった状態とも言えるわけです。
 
自分の失敗や否を、絶対に認めようとはしない
他者の評価に対する過剰な反応
他者への愛情の欠落、思いやりの無さ
自分の問題への無自覚
 
自己愛性パーソナリティ障害の方との付き合い方
距離を保ち、相手の言葉に動揺しないようにしましょう。
困った時は、「相談」という形で病院に受診できることが多いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
聖書のパリサイ人、偽善者、サイコパス、精神病質、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPD、ペテン師、詭弁屋、読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、などを、楽山について書いてきました。笑いと怒りがあり、悲しみがない人です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山を信じないで2
 
 映画『夜明けを信じて。』を見てきた。
 2020年10月30日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の駄文です。3年以上見てきましたが、楽山が書けば、いつも駄文です。思い付きだけです。感性も知性も原始的で、オリジナルではない既製品の教養を振り回しますが、実質的根拠を示せたことがありません。つまり、真剣に考えることをしない人です。
 
批判しても、罪悪感と羞恥心のない病質の楽山に対しては無駄ですが、読者が楽山の災いに巻き込まれることのないように、関わらないようにしてほしいと思って批判を書いています。根拠と理路は読者に向けての注意喚起であり、楽山に対しては嘘と詭弁を暴いて否定します。
 
価値なき者は、無視されてきた腹いせに、忠告と批判の一切を無視して、他者の価値を損なうことを悦びとするのでしょう。本当の生きる喜びではなくて、楽山が一途に求めているのは、そういうサディスティックな悦楽なのでしょう。不遇の怨念と嫉妬から、腹いせをしたいだけかもしれません。
 
他者を無視して、自分だけの悦楽を求めて、何もかもを自分だけのために扱おうとするような、楽山の世界に、幻はあっても、夜明けはありません。果てしなく闇に向かって、トンネルを掘っているだけだからです。うわべだけの丁寧語に騙されないでください。
 
 
*メモの整理(ネタバレあり)
映画を見ながら、心に浮かんだことをメモしておいたので、ここで簡単に整理してみる。
 
読んでみた感じとしては、何も整理されていないと思います。整理されていないおもちゃ箱を、そのままひっくり返して、バラまいた感じです。楽山の心に浮かんでくるものは、まるで整理不能で、思い付きのようにランダムなままなのでしょう。
 
楽山が書いているものに、ストーリーの全体と関わりがあることの説明がなされていません。登場人物についても、要領を得ません。つまり、楽山は、読者のことを考えずに、好きなように書いて、書いたこと自体に満悦するようです。反背がないから、成長もないのです。
 
恐らく、楽山は、万事が、そういう、いい加減だということを表しているに過ぎません。楽山の人格を見る上では参考になります。傍らに人無きが如き恣意の煮汁と、惜しみなく不躾(ぶしつけ)の、楽山の面の皮が表れているということです。
 
 
・映画がはじまる前の予告集はおもしろい。どの作品も、見てみたいと思える。でも難病ものは苦手だ。その手のものは敬遠したい。
 
なぜ難病ものが苦手なのでしょう。恐らく、楽山には、こういうことになったら大変だろう、という、苦悩の共感性がないからだと思います。楽山は、超常とか霊とか、何か派手で、でっかいことが好きで、弱さや、悲しみに共感できないのです。
 
 
・本作は、『さらば青春、されど青春。』のリメイク作品らしい。千眼美子(清水富美加)は、本作でも前作と同じ役どころのようだが、これは随分珍しいことではなかろうか。前の作品でもリメイクでも同じ役を同じ女優が担当するというのは聞いたことない。
 
この映画は、HSの製作した映画、つまり、宣伝用の映画のようです。千限美子はHS信者という設定のようです。楽山は、アンチとしてHS批判をしていたつもりだったと思いますが、何が言いたいのでしょう。楽山には軸がないことを表しているわけです。
 
HS映画の批判でなければ、嘘を吐いていたことになります。プラス・マイナス、つまり、賛同・批判、どちらにも、ふらふらしていることになります。同一性障害でしょうか。解離性でしょうか。ペテン師でしょうか。嘘吐きの自己顕示欲でしょうか。
 
 
・主人公の一条悟は、品行方正で、努力家で、才能もあり、周囲からも高く評価されている人物として描かれている。女性にもモテる。これが大川隆法にとって、理想の自分なんだろう。
 
カルトの一般的特徴として、当たり前に、教祖は、頭も、人格も、飛びぬけている天才か予言者か聖人かスーパー霊能者という芝居であることが多いです。楽山は、スーパーな人物を好むようです。楽山は、HS批判をしていたはずですが、嘘だらけだということです。
 
 
・一条悟が兄を責めたり、友人に向かって傲慢発言をするところもあるが、これは反省シーンのための伏線で、わざと間違いを犯させているようだ。
・マスコミは、宗教家としての一条悟を高く評価し、好意的に報道している。一条悟は誰からも好かれ、尊敬される人。
 
この辺も、教祖を思わせたいのでしょうか。「誰からも好かれ」たいのでしょうか。本性はバレないと高を括っているのでしょうか。「わざと間違いを犯させ」たということにして、あとで反省するというのでしょうか。楽山は反省の実質を表したことが一度もないのですが。
 
「宗教家」として高く評価されたいのは、楽山でしょうから、感情移入しているのでしょうか、それとも、本能的に保身しているのでしょうか。感想を書いても、批判にもならず、要点が不明で、茶化しているだけの駄文になる楽山です。
 
 
・風の声を聞かないかというのは、村上春樹の『風の歌を聴け』みたいだ。
・千眼美子の演じる立花美穂が、一条悟の乗った車を追いかけている。この役どころは、そんな風にバタバタしない人のような感じがするけど…。なんというか、立花美穂も、それ以外も、女性キャラはみな、昭和のおじさんが理想とする清純派として造形されている。
フェミ、ジェンフリ、ポリコレ…などは苦手だが、こういう女性像ばかり見せられると、それらも必要ではないかと思えてくる。千眼さんらは、こういう女性の描き方に違和感はないのかな。
 
カルトに出てくる女性は、大方、淑女であり、稀に、女傑や、女予言者みたいなキャラになるのではないかと思われます。楽山は、ここで、自身の女性の好みについて語っています。興味本位でしかない楽山は、HS批判などする気はない、どうでもよいということです。
 
 
・母の回想、子供時代のエピソードはいい感じだ。『平凡からの出発』で紹介されていた話らしい。でも寒い寒いと言いながら重ね着してるのに、半ズボンを履いているのはどういうわけか。あのお母さんなら、ズボン下を履かせそうだけど。
 
楽山は、HSに対して批判をしていたはずですが、半ズボンにこだわるのでしょうか。ただ、思いついたことを書いて、映画評論家気取りの楽山です。真に受けて考えることはしないほうがよいと思います。楽山は、万事につけ、真剣味がありません。
 
 
>・映画としては『さらされ』よりも、よい出来だ。
 
「よい出来」?・・なにが、どこが、上から評価の結論を書くだけで、偉そうで、そのくせ、説明力も説得力も皆無なのです。楽山のHS批判が、自分は分かっているんだという自慢話であり、自己顕示に過ぎないことを表しています。
 
 
・いま、二位を50点引き離したと言ったかな? それはいくらなんでも…。
・成績一番の生徒が、他のクラスメイトから反発される例が多いというのは、自分にはリアリティがない。自分の周囲では、一番とか先頭グループにいる者は、勉強だけでなく、道徳的にもきちんとしていて、他から嫌われたり、攻撃されるタイプはいなかった。
 
引用が断片的で主旨が不明ですが、リアリティがないでしょうか。様々だと思います。楽山は、優等生が好きだったのでしょうか。優等生にゴマをすっていたのでしょうか。優等生になりたかったのでしょうか、なれなかったのでしょうか。嫉妬でもあるのでしょうか。
 
 
・「だいじょうぶ、だいじょうぶ、ぜったい、だいじょうぶよぉ」って、すごい大根役者。大川隆法の本で、文化祭で舞台に立ったら、演劇部からスカウトされたという話を読んだ記憶があるけど、それはなさそう。
 
自分は、もっとうまい芝居をするとでも?・・人をけなせば、返ってくる、ブーメランです。楽山の記事の、クリスチャン芝居は、あざとくて、白々しくて、寒くて、気持ち悪くて読めたものではなかったです。つまり、大根役者の楽山が、身の程も弁えずに、他者の芝居をけなしているだけでしょう。
 
 
・図書室での出会い。男女が同じ本を取ろうとして手が重なるなんて…。HS映画は、本作に限らず、人との出会いのエピソードは、なんかおかしい。
 
「なんかおかしい」の「なんか」を説明できない楽山です。書く必要のなかった記事ばかりです。評論家気取りだけで、その資質の無さだけが、惜しみなく表れています。小学生の感想文でも、もう少し、まとまっているものがあるでしょう。
 
つまり、これも、評論としても、感想文としても、実質がなく、結局、いつものように、楽山が、体質的に、唯一書けるところの、いちゃもんなのです。浅さが身に染みるということが、楽山にはないのでしょう。羞恥心がなく、おまけに、罪悪感もないのだろうと思われます。
 
 
・女が眼を大きくして、男を正面から見つめている。こういうタイプの女性が無遠慮に男を見るなんて、いまいちリアリティがない。ロマン・ロランの『ピエールとリュース』では、ヒロインは男の方を振り向きもせず、目をそらしているようでいながら、実際にはじっくり観察していたが、こちらの方が本当らしい。
 
全くの自分の好みだけで、楽山は、映画の演技指導まで始めました。教える立場に、立ちたい、あるいは、既に、立っているつもりの楽山の自己顕示欲が表れています。「リアリティがない」のは、楽山の書く文章なのです。「いまいち」は、楽山の、真剣味の無さを表すボンヤリ言語の類でしょう。
 
つまり、楽山は、何も確証も確信もないところから、決めつけてくるのです。言い換えれば、根拠のないところから、決めつけてくるわけです。その萌芽というか、片鱗というか、そういったものが、日常的な作文にも表れています。それで、責任を負わず反省も学習もしないのだから、話になりません。
 
 
>・図書館の一条悟。筆圧はものすごく強そう。これでは長い文章は書けなかろう。
 
これは、揶揄でしょうか。なんだこれという感じの書き方です。余計なお世話であり、意味はないと思います。他者を、軽視して、対象物にして、必要もないのに助言者を気取って、面白がるのが、楽山なのでしょう。からかって悦に入る楽山の体質でしょう。
 
 
・これはいくらなんでも、あまりに一方的な恋だ。旧太陽の法では、ほとんど話をしたこともない相手に、小包にしてラブレターを送ったが、うすい手紙一枚の返事でふられたとしていたし、宏洋氏の証言だと、大川隆法は大学時代に駅で女性を待ち伏せした話を自慢げに話していたということだが、どれも自己中心な恋であることは共通している。
 
他者を無視して「一方的」に決めつけて、けなしてくる楽山に言う資格はないと思います。楽山は、無条件に、自分を正常人のインテリという立場に置いているようだが、実際には、それとは逆の証拠しか表れていません。自己中は、無反省無責任と並んで、楽山の大きな特徴です。
 
このように、一方的な人格というのは、自分のことをまるで自覚できないことが、今までの文章にも、ここにも表れているのです。楽山は、恐らく、双方向の、話し合いも、議論も、恋愛も、できないし、したこともないのだろうと思います。ヒーロー気取りの白昼夢で代償するタイプのようです。
 
 
・挿入歌の歌詞は相変わらず説明調だ。カタカナ英語もすごい。
・女の手紙の内容は、高橋信次の霊言にあったジイドの『狭き門』解釈と同じだ。男が女を理想化しすぎると、女は現実の自分を男に知られ幻滅されることを恐れ、自ら身を引こうとする云々という話。
 
楽山のゴシップ好きが表れています。真面目な題材よりも、おふざけで語ろうとする傾向が、文章全体に、ブログ全体に、表れているのです。そして、揶揄して、面白がるのです。説明も出来ずに言い張って、丁寧語でごまかす楽山が「説明調」と言っても、我田引水が空しいだけでしょう。
 
(ネットより)
がでん-いんすい【我田引水】
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。自分の田んぼにだけ水を引き入れる意から。
グー辞書
 
 
・自分が受け取ったラブレターを、ずっと持ってる女性がいることは知っている。そういう人と会ったことはある。ドストエフスキーの『地下室の手記』の後半にも、その手のエピソードはある。でもこの映画の女性なら、一条悟に断りの手紙を書いたときに、それまでに受け取った手紙は全部返送しそうではある。なぜそうしないのだろう。
 
「それまでに受け取った手紙は全部返送」する?・・気持ち悪いです。私、殆ど経験がないけれど、返送するより、踏ん切りをつけるなら、捨てるんじゃないですか、それが出来なければ思い出として取っておくでしょう。「なぜそうしないのだろう」・・楽山の偏執的な恋愛模様が、想像されます。
 
 
・思想的に間違っていると思うことは、それを指摘しないではいられないというのは分からなくもない。でも事実関係についての議論ならまだしも、思想、信仰に関する議論では、ああ言えばこう言うにしかならぬし、時間の無駄でしかないとは思う。
 
「思想、信仰に関する議論では、ああ言えばこう言うにしかならぬ」・・楽山が書けばそうなるということです。これは、楽山の性質であって、思想や信仰の性質ではありません。そういう議論や考察は、一致することより、冷静に立場の違いを明らかにするためです。
 
ようやく本題に触れてきました。しかも、ついでの、当てつけの、嫌がらせです。さらに、楽山が前にも言ったことを繰り返しているだけです。もう通用しないことが分からないから、平気で書いて、それゆえに、無反省・無責任という判断になっています。
 
信仰に関する議論において「ああ言えばこう言うにしかならぬし、時間の無駄でしかない」と同じようなことを言って、こちらの批判も解説も理解できないで、反論も弁明も出来ない楽山は、信仰と神についての誤謬と偏見を訂正することもなく、幼稚な言いっぱなしのまま、無視することを是としたのです。
 
ネット・ブログという公共の場における文責というものを、全く弁えていないのが楽山です。それゆえに、楽山だけは相手にしないほうがいいと、機会あるごとに、批判記事を書くたびに、私は書いています。楽山は、成人としての節操が育たなかった人なのです。
 
 
・バケツの中に入っているのは小鮒のようだが、岩や石がごろごろしている浅い川では、小鮒は釣れなかろうと思う。
・えっ!? 芳本美代子? 母親役かあ。これは本作では自分にとっては一番の驚き。
・『愛のあとさき』を会社で配っとる。しかも「聖少女」が注目されてる。ちなみに、「聖少女」は、こちらでよめる→「『愛のあとさき』大川隆法詩集より」。改めて読むと、「デザート」もすごいが、「聖少女」もすごい。この他の詩でも、処女へのこだわりは露骨なのだった。また、ここでも自分の美化された部分だけ好かれて、汚い部分はそうでないという薀蓄がでてる。
 
全般に、楽山ブログを通して、自分の都合の良いところだけ積極的に書いて自分を「美化」して、汚い大部分について、事実も批判も無視している楽山であり、今回も、別のテーマであっても、その体質をもろに表してしまう楽山です。
 
さらに、今回も、性懲りもなく、しでかした愚事と、おのれの愚かさについて、無視したまま、何事もなかったかのように、一人前のインテリ評論家気取りで、いちゃもんだけを書いてくるのは、社会にも正義にも、怨念だけを持っていて、ゴミ屋敷から汚物をまき散らすどこかのオジサンのようです。
 
 
・下戸なら、オレンジジュースより、ウーロン茶の方がいいのではなかろうか。見た目的には。
・夢に向かって努力する立花さんの方が、僕は好きだなというのは、いかにも若者らしい発言だ。「わたしのために、あなたの夢をあきらめないで」とか、「僕のために、きみの夢をあきらめないでほしい」とか、そういうやりとりは、上昇思考の強い若者の間では実際あることと思う。そういえば、これはC7にも通じるものがあるかな。「あたしには あなたより 大事なものがある あなたには あたしより 大事なものがある~♪(【中日歌詞】GO!GO!7188 - C7)」
 
楽山は、関わる人の、夢も意見も節操も踏みにじる男です。病質的自己愛体質というのは、そういうものであり、神も人も公共も恐れない厚かましさを持っています。ジュースとウーロン茶にこだわっても、重大なことと胡散臭いことの区別も出来ない楽山です。
 
"善" という漢字が入っていて最も醜いのが偽善というのに似ています。讃えるふりして、見下すのが、楽山です。楽山の言うことを信頼してはいけません。善を語る偽善、正義を語る偽善、平気で嘘を吐くペテン師の楽山が、のぼせて、いい気になって、徘徊しています。
 
 
・「本当のあなたは、一体、何者なの?」って、立花さんほどの人物であっても、その本質を見抜けないほど、一条悟は大きな存在だといいたいのだろうか。
・HS映画の悪魔は、いつも分かり易い存在だ。最後の山場は、いつものように降魔シーンになっている。
・二人は別れたかと思ったら、また会っている。デートでカレー。二人共、スパイシーな息を吐くということか。二人はすごく親密だったり、他人行儀だったりと、分かり難い関係だ。
 
ふつう、分かったと感じたところを書くのが感想なのですが、酒でも飲んでいるのでしょうか。「本質を見抜けない」「大きな存在」「分かり難い関係」なら、何も書かないことです。全体に、揶揄の笑い、エヘヘかアハハがベースの気分のようです。興味本位で他者をあざける態度でしょう。
 
楽山の書く文章には、文章から、感動とか感慨とか、大事なものを取り去った鶏ガラのような印象があります。味が無くて、腹も頭も心も壊してしまいそうなので、飲みこむことが出来ません。楽山は、こういう鬱陶しい文章を書くことしかできない、という履歴を積んでいます。
 
 
>・一条悟の退社時に、同僚たちが頭を下げて詫びている。
 
この一行では詫びる情景も背景も、あらすじも浮かんでこないことに、お構いもなく、思いついたら書いてゆく、という楽山の、欲望と衝動任せの、いい加減人生の話になります。揶揄と嫌がらせの雑言だけを書いて楽しいのでしょうか。
 
 
>・万年筆を立てて書いている。カリカリ音が聞こえてきそうだ。
 
だから、何なんでしょうか。書かないし、書けないのです。
 
 
・ラストシーンでは、一条悟はひとりで山の方へ歩いている。「ひとり」が強調されているようだが、神道では、山というのはあちら側の世界ということになっているのではなかったか。また山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」というものがある。青山とは墓場のことだという。このラストシーンには、何か意味がありそう。
 
さて、もう一度言いますが、楽山は、HSを批判していたのではなかったでしょうか。何が言いたかったのでしょう。受け入れたのか批判したのか、肯定か否定か、この記事を書いた目的が不明です。いったい何を読者に伝えたかったのでしょう。
 
注意し警戒してください。人生至るところに青山あり、というのもありますが、人生、どこに、落とし穴を設けて、自己中カルトが待ち構えているかも分からないのです。信じてもいないのに、先入観だけでキリスト教を否定してくる楽山に対しては、根拠を嫌というほど添えて否定するしかありません。
 
特にネットには、どんでもない人物が、責任を問われても無視すればよいと、ネットの気軽さに乗じて、だまし文句の詭弁を、そして、見かけだけの優しさを、共感もなく独り笑いながら用意して待っているのです。その典型のような楽山は、青山には独りで行くように。
 
 
・一番最後に「この映画は事実に基づいたフィクションです」と断り書きがでてる。そりゃそうだろう。
以上、映画を見ていて、こんなことを思った次第である。
メモはもうちょっとあるけど、全部書き写すのは大変なので、とりあえずここまで。
 
私としては、楽山が、いかに不真面目な文章を、考察もなく、思い付きだけの自己満足だけで書いてくるかということを表すことが、ずっと、務めになっています。感想も、思想も、散乱して、まとまらない不備と、それを反省することもなく続けている傲慢だけの楽山です。
 
楽山の、思ったこと、というより、思いつきを、そのまま人に見せる、という、読んでもらうための手続きを全く考えない自分勝手な趣味の放言であり、無駄が多く、ゆえに、やたら長くなっていて、全体にも、部分にも、自己中な性格が、にじみ出ている記事でした。
 
楽山には、誰も近づかないでください。楽山は、登るのに楽な山から落ちている空き缶のような人です。片づける必要があるのに誰もやらないくらい面倒なのです。楽山に関わることは、人生の時間の無駄というばかりでなく、取り返しのつかない徒労と疲労と人格破壊というゴミの山に続く道です。
 
 
おめでたい雑言屋

おめでたい雑言屋
 
 
(2020年)
(2022年11月26日、再録+加筆)
 
 
 
  通過と圧力
 
次から次に礫(つぶて)を投げてくる口は
ちょうど列車が通過するガード下
を通過するように無言である
 
光を除外した反射を幾たびも経て
細く向けられる上目遣いの
耳を持たない微笑の眼差しは
うっかり渡ってしまった横断歩道上の
歩行者に迫り来る轟音と雑言である
 
であるからである
を繰り返して階段を下りてくる論理が
転げ落ちるしかなかったように
すべて嚥下(えんげ)して受けてしまったものは
下って落ちてゆくしかないものとして
すでに口を通過しており
食道を通過して胃を腸管を・・・
詰まりであるからも糞もなく
ゆっくり潰しにかかる種々の圧力によって
ワームの消化管が失ってゆく容積に等しい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の書く文章は、ネジの弛んだ玩具のようなものです。反省もせずに悪口雑言を書いて笑うことを趣味としています。人間ならば学習しているはずの羞恥心と罪悪感を持たないまま生きてきた病者であり病原であります。一人前の大人の心を育て損なって、その自覚もないのです。近づかないでください。
 
 
 
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