Rose Garden
私の受け取った意味でいいのか
英語、詳しくはないので、よく分かりません。
多くの人が知っているでしょう。
若き日に聴いた素適な歌です。
http://oyogetaiyakukun.blogspot.com/2017/08/i-never-promised-you-rose-garden-lynn.html
I beg your parden
I never promise you a rose garden
Along with the sunshine
There's got to be a little rain sometimes
リン・アンダーソン (Lynn Anderson)
私は、1-2行目を
「ごめんなさい。
私はバラの花園を約束したわけじゃないの。」
という意味だと思っていましたが、どうも違っていたようです。
上のサイトでは
「ちょっと待てよ,悪いけど
そんなこと言った覚えは一度もないよ,バラの花に囲まれて
いつだってお天気で,幸せに暮らせるなんて
だって雨が降るように,イヤなことは起こるんだ」
と訳されていました。ずいぶん違うニュアンスに感じます。
でも、1行目を間違えましたし、never は、強い否定ですね。
当時、私は大学生で、洗礼を受けたのが高3の時で、
聖書には逆説的表現が多いことから、
無価値の価値?とか、哲学風味を気取っていた頃です。
実際は、哲学とか、知りません。
教訓的な歌詞の、人生の歌ではあります。
でも、教訓以上に、恋の歌でした。
特にキリスト教についての歌ではないのですが
私は結び付けたのでした。
洗礼を受けても、天国の約束は、
地上で生きている間、薔薇の花園とは限らない
というような意味に受け取りました。
rain を、いいことばかりじゃないよ、という意味に受け取りました。
それは、ほぼ、その通りの歌詞だったようです。
信仰者の陶酔や有頂天というのを感じることがあり
それに対して、そろそろ、食傷気味になっていた頃のことです。
その信仰誤解~曲解のパターンは
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
3.この世を敵とするようなけんまくの豪語
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
7.信仰の戒めを守って完全になれるという信条、殆どパリサイ人です。
この中には、私が長い間批判してきた偽善者の言ったことも含まれています。
つまり、誤解~曲解~偽善~カルトの言い分です。
こういった宗教やカルトに対して
にこやかに頷くことにさえ、嫌気がさしてくる頃でした。
それで、キリスト教文化の英語圏の、この歌が印象に残ったのでしょう。
歌詞の
Love shouldn't be so melancholy
私の受け取った意味は
「愛はそんなに憂鬱なものじゃないはずよ」
上のサイトの訳は
「そんなの「恋」に似合わない」
・・何か、これも勘違いしてたのかな・・
男女の愛は、特殊だが、愛一般の本質は共通、と思うことにします。
実は、上の方と、ここしか、聞き取れていなかったかもしれません。(汗)
というわけで(?)、歌は切っ掛けに過ぎなかったことになり、
とまどいながらですが、キリスト信仰の話をします。
今まで書いてきたことですが、あるカルトは、奇跡によって病気を癒やされたという体験を語り、どんでん返しの奇跡によって救われると豪語していました。
その信条は「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」というものでした。そして、総てが益となるように神は計らってくれると、手段として世辞を言い、自己の権威主義に賛同という利益を求め、たくさんの嘘を平気で吐いてきました。
私は、彼を、8~9年間、批判し続けて、ヤフーブログ終了に伴って、今、彼は所在不明になっています。私のライブドアのブログにコメントを入れてきて、私は、逐一、批判しましたが、彼は、受けて答えることができません。彼は、そこで、名無し、と名乗り始めました。
罪を認めることからキリスト信仰は始まります。
彼の言うようなキリスト教もキリスト信仰も、どこにも存在しません。典型的な偽善者です。
キリストを信じたからといって、すべてがうまくゆくわけではありません。キリスト者は、苦しみ悲しむようなことにも出会うでしょう。それを正直に、祈りにおいて、告白することが、神様のほうを向くということです。それで、絶対孤独から解放され、赦され、癒され、立ち直る時と所を与えられるのです。
地上は、天国ではありません。しかし、天国を垣間見ることはあります。それが、信仰者の共感であります。ときに奇跡的と思うほどの感動を伴うこともあります。魂の奇跡と呼んでいます。
(ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
(ルカ17:20-21、新約聖書)
「あなたがたのただ中にある」とは、その共感による感動ではないかと思っています。
信仰が確実に与える奇跡は、物や肉体の奇跡ではありません。そういう奇跡頼みの信仰は、超常趣味~思いこみであって、キリスト信仰ではないからです。
信仰も希望も愛も、憂鬱で嫌な気分を、直接薬物のように生物学的に軽快させるものではありません。
しかし、私は、
思い煩うな、一日の苦しみはその一日だけで十分である、明日は明日が思い煩うであろう、という教えや、
キリストに食らいつくように縋りつくように、小犬でも主人の落としたパンくずはいただきますと言って、へりくだりながら必死でキリストに救いを求めた女性の信仰を、キリストが褒めた、という聖句など、
他にも多くの聖句に感動を覚えたので、信じることを止めないでいます。
(2020年01月21日)
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コメント
コメント一覧 (19)
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
st5402jp
が
しました
宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
>
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
<
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
st5402jp
が
しました
あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。
>
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
<
血潮に罪贖われ、などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。
st5402jp
が
しました
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
<
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も悔い改めも、あなたが受け取っていないことの証明です。
>
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
<
これも、前に、あなたシャロームが、言ったこと。ここにしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、じぶんもよい、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの醜さ全開。
st5402jp
が
しました
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
<
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが悪魔性です。
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。
st5402jp
が
しました
1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
(ヤコブ1:15-16、新約聖書)
これが、あなたシャロームです。そして
(ヤコブの手紙、口語訳)
1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
(ヤコブ1:17-18、新約聖書)
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
st5402jp
が
しました
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
<
ふざけたHNと態度で、聖書とキリストを語るな。
あなたシャロームは、聖書に、聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。
あなたは、あなた自身の惨状にさえ、気づかなくなっています。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、一切は無駄なのです。
st5402jp
が
しました
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
(ローマ10:14-17、新約聖書)
(ネットより)
御言葉を通して主と人格的な交わりを持つ事はもっと重要です。
http://shinjuku-shalom.com/archives/4227
新宿シャローム教会・・同じシャロームでも、えらい違い。
st5402jp
が
しました
したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。
あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけを表してきたのです。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。
st5402jp
が
しました
あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。
恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。
st5402jp
が
しました
とまどいながらですが、キリスト信仰の話をします。」
とのことですが、
stさんの聖書理解は英詩の翻訳のように自分の思い込みによる読み込み理解のようですね。自分の目や心にかけているフィルターの色によって見るものすべてが色づいて見えるのと同じように、st5402さんのキリスト信仰の話も同じようですね。
名無しの猫かぶり
st5402jp
が
しました
恐らく、シャロームは、普通の感性がなくて、歌を味わうことも出来ないのでしょう。普通の理路がなくて、聖書を読めないのと同じだと思います。
邪悪なフィルターを、逆に、自慢することになってしまうシャロームの醜態です。すっかり壊れています。
名前を書け。卑怯者の名無し。
st5402jp
が
しました
私が英語の歌を題材にして記事を書けば、それを、シャロームは、思い込み、フィルター、と決めつけて、信仰の話も同じだと短絡しています。幼稚すぎて何の説得力もないのに、言い得たつもりになるのでしょう。全く根拠になっていないことを書いてくるのは、今に始まったことではありませんが、ひどい有り様です。
シャロームは、本音の敵意と侮辱の感情を秘めても漏らしながら、世辞や丁寧語で書いてきます。それが、どんなに成り立たなくても、シャロームは、言い得たと満悦するような体質を持ってしまっているようです。
シャロームの思い込みは、フィルターどころではなく、人間離れと神がかりという単方向しか持っていないシャロームのためだけの信条によるものです。その根拠は、神の啓示と聖霊の導きだそうです。それは、シャロームが、預言者かキリストか神またはその代行者という自覚を持っていることに等しいわけで、妄想か大嘘以外の何ものでもありません。
st5402jp
が
しました
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
さらに、シャロームの言には自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになります。
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神のほうを向いて、正直に罪を告白し祈ることです。
つまり、ここにおいて、シャロームの信仰が偽物であることは既に証明されています。
st5402jp
が
しました
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
(ローマ2:4、新約聖書)
聖句の、神が悔い改めに導く、とは、ゆえに、悔い改めよ、ということです。そうしないことは、神の慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじることだ、と言っています。
まさに、シャロームは、神を軽んじ、それだけでなく、真逆の信条と詭弁を豪語して、はばからなかったし、そのことを訂正してもいないのです。
以上は、理路が明白であり、共感も直観的に可能なのに、シャロームは、無視して、とぼけていますから、これから、シャロームの発言を"エヘヘ言語"と呼ぶことにします。
決して、シャロームを、キリスト者(クリスチャン)だなどと思わないでください。
シャロームは、キリスト教とキリスト信仰をネタにした詐欺師です。
st5402jp
が
しました
私は、このように、強がらず、音痴も、読書苦手~障害も、信仰者としても、弱みや欠点は、認めています。
シャロームは、いつも、見えている、分かっている、知っている、ちゃんとしている、という立場から、見下ろして、ふざけた書き方で侮辱してきます。神の目で見ないといけないみたいなことを書いたこともあります。こういうことが、逆に、シャロームの信仰が、真っ赤な偽ものであることの証拠となってきたことを、シャロームは、恐らく体質的に、自覚できないのです。
st5402jp
が
しました
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
さらに、シャロームの言には自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになります。
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神のほうを向いて、正直に罪を告白し祈ることです。
つまり、ここにおいて、シャロームの信仰が偽物であることは既に証明されています。
st5402jp
が
しました
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
(ローマ2:4、新約聖書)
聖句の、神が悔い改めに導く、とは、ゆえに、悔い改めよ、ということです。そうしないことは、神の慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじることだ、と言っています。
まさに、シャロームは、神を軽んじ、それだけでなく、真逆の信条と詭弁を豪語して、はばからなかったし、そのことを訂正してもいないのです。
以上は、理路が明白であり、共感も直観的に可能なのに、シャロームは、無視して、とぼけていますから、これから、シャロームの発言を"エヘヘ言語"と呼ぶことにします。
決して、シャロームを、キリスト者(クリスチャン)だなどと思わないでください。
シャロームは、キリスト教とキリスト信仰をネタにした詐欺師です。
st5402jp
が
しました
シャロームの信仰?について考えるときには、キリスト教の教理に合っているかどうかよりも、彼の信条を多くの人が信じたなら、どういうことになるか、ということを考えています。
シャロームは、訂正不能の信条として、罪を認めず、悔い改め、すなわち、神に正直に告白することを、しないのだから、それは、身勝手な自分信仰となり、彼は、偽っても悔いることなく、自分の妄想を、神の啓示と受け取ってよいことになります。
実際、シャロームは、平気で嘘を吐きますし、悪意の嫌がらせを向けますし、それでも、妄想に詭弁を付け加えて、自己正当化を言い張っているのです。
彼が、彼の言うところのキリスト者?そして元牧師?として受け容れられたら、良心とは正反対の社会悪が広まることは必須であります。そういうことにだけはならないように、批判を貼りつけてゆく必要があるのです。
ネットではHN変えれば分からないという欠点がありますが、今、できることをする、という思いで書いています。
st5402jp
が
しました