楽山の独裁
「自由の意味」田中美知太郎著
2021年03月18日 楽山日記(LD)批判
楽山が、本を読んだと言っても「メモしておきたい」と書いているように、都合のよい文言を拾ってくるだけですから、読書になっていないと思います。聖書において顕著であります。
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*自由の定義
『人間であること』に収録されている「自由の意味」を読んだので、その内容をメモしておきたい。
まず著者は、自由について次にように定義している。
「
「自由」とは何か。これをいろいろなふうに定義しますけれども、最もそのものずばりで言うと、自由というのは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ということでしょう。
(『人間であること』「自由の意味」、田中美知太郎著、文藝春秋、昭和59年、p.120)
」
著者によれば、これはプラトンの「国家」第八巻による定義とのことである。
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(ネットより)
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日[2] - 1985年(昭和60年)12月18日[2])は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」というのは、このままでは、自己中心と区別しにくくなります。
つまり、自由が成り立つのは、責任ある大人としての弁えが出来ている人の場合です。それが前提なので、無責任な楽山には当てはまりません。楽山の引用自体が、自分をまともに見せたいがための詭弁でしょう。
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*現実
次に著者は、自由とは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ことであるが、現実には「自由社会」といえども、皆がそのような自由を行使できるわけではないとしている。
「
つまり現実としてわれわれは、決して自由ではないし、自由ではありえない。これをはっきりと認め、そして今日の社会というものを考えなければならないわけです。
(同上、p.123)
」
自由は何でも好きにできることではあるが、現実としてそれは不可能であるから、自由はある程度は規制、制限されることになるというのは当たり前のことではある。
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「言いたいことを言い、したいことをすることができる」という自由が、現実として不可能と言いながら、責任とか義務とかに言及しないのが、狡猾な楽山の詭弁です。ひどいものです。
まるで、現実がそうさせていると言っているようです。つまり、自分の責任を書かないのも、自己中の楽山の特徴なのです。読書したふりで、分かっているふうに書いているぶん作為が際立ってきます。
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*自由の基本的な意味
著者によれば、古代ギリシアにおいて、自由の基本的な意味は二つあり、一つは国家の独立であるという。当時、外国から侵略、支配されるということは、殺されるか、奴隷にされることであったので、自由のためにはまず国家主権の確保が条件であったというのである。
もう一つは独裁の排除であるという。独裁政治の下では自由はあり得ないというのは容易に理解できることではある。
本講演がなされた当時は、国家は自由を圧迫する悪役とされていただろうことからすると、自由の守護者としての国家を語るには相当な困難があったろうと想像する。
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哲学者の名を出して、偉そうに書いてくる楽山の、中身が詭弁という虚偽性には、うんざりします。
ここで、国家の独立を持ち出して、話を複雑にしてきました。人の自由がテーマではないのでしょうか。「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ではないのでしょうか。楽山は、個人として独立していないのに、どうして、国家の独立を語れるというのでしょう。
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*「公的な自由」と「個人的な自由」
著者は、上の二つの条件…他国及び独裁からの解放を公的な自由とし、「言いたいことを言い、したいことをすること」を個人的な自由と分類しつつ、両者については前者があってこそ後者は可能となるとしている。
これは分かりきったことのようにも思えるが、上と同じく当時の政治状況を意識した発言なのだろう。
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楽山は、個人としての責任を負う気がないのだから、公的な責任など負えません。つまり、書いたものを公開するということも出来ない、してはならない、ということが分かります。
楽山は、書いたものを、いかがでしょう、という姿勢で問い、意見や批判・批評を受け取って、成長の糧とすることが全くできない人です。
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*自由社会と人の本性(独裁政治を生む危険性)
著者は本講演の最後に、自由社会から独裁が生まれる過程について書いている。その理屈はこういうことらしい。
まず社会全体に自由が行き渡ると、あれもよい、これもよいとされ、「どんな人の生活もそれぞれを平等に同じ価値のものとして認め」ることとなり、これは「どっちにしたところで大した代わりはない、どっちでもいい」という考え方に行き着くことになる。
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何を、他人事のように言っているのでしょう。自由には責任が伴う、ということを、まるで無視した楽山の、都合のよいところだけ拾って書いてくる自己中の病質的な解釈が表れています。楽山の言は、何の参考にもなりえないのです。書いてくる我執だけが臭気となって流れるだけです。
またしても、人それぞれ、というのが出てきます。今までも、ここでも、ずっと、楽山の、人それぞれだから、勝手にしていいじゃろ・・という無反省・無責任な欲望だけが表れてくるのです。このような繰り言は、もはや、ボケ老人にも似てきます。
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このように、こうでなければならないという社会的な規範による圧力が弱まり、それぞれがそれぞれの自由にしてよいということになれば、外圧による善ではなく、自発的な善をなすことが可能となり、「本当の善人」が生まれることになる。
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そうして、楽山は、「本当の善人」どころか、自発的な悪と偽善を、ほしいままに為してきたのです。勝手放題では人間関係も社会も成り立たなくなるので、自発的に責任を負わない者には、永遠に自由を許してはいけません。
自由には責任が伴う、という、小学校レベルの道徳を、楽山は、理解できないようです。
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しかしその一方で、これとは「正反対の非常に悪い人間」も出現することになる。「最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくる」ともいえる。「人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力をねらう最悪な人間が出て、政治的指導者になる」恐れもある、というのである。
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実際、歴史においては、そのような最悪が実現されてきたわけです。そして、ネットでは、楽山という自己愛性人格障害の偽善者が、教えを垂れるふうに書いてきて公害となっています。
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これは一つの理屈にすぎないのではあるが、歴史を振り返れば、民主政治の中から独裁が生まれるというのはあり得ない話ではないのだから、注意は必要だろうとは思う。
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理屈ではなく、ネットでは、現に、楽山が、恣意的に実行してきた自己中のことなのです。今、注意が必要なのは、楽山に対してです。今、排除するべきは、言論の責任を負わない楽山であります。楽山は、未だに、自由と責任というものを理解しようともしないのです。
楽山は、まさに、病質の怖さを見せています。ゆえに、「注意は必要だろうとは思う」という、安易で鈍い当たり前のことしか言えないのでしょう。
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*いろいろな考え方
自由については、政治、宗教、哲学、語源など、さまざまな方面からの考察があるが、本講演の場合は古代ギリシアの考え方を基礎にして語られており、非常に興味深いものがある。ひきつづき自由とな何であるのか、過去にどんなことが語られていたのか、調べてゆきたいと思う。
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楽山には、興味深いのでしょうか。わざわざ、偽善を斬り損なっている文章の部分を引用してきたのです。楽山は、ただ、曖昧な言葉に、食らいつき、縋りついているだけなのです。
自由とはなんであるのか、恣意的に書いて、好きなように曲げて、本当の自由を邪魔している楽山に分かることはないと思います。
このように、本を読んだことにして、また読んでいこうという姿勢を書いて終わりです。何も、糧となることを書けないのが、楽山という病質者です。「非常に興味深いものがある」・・このような、ボンヤリ言語の曖昧言葉で、楽山は、嫌がらせのように、執拗に、また書くぞ、と言っています。
自室のPCの前だけの独裁国家を謳歌しているのでしょうか。中身のない楽山の繰り言であります。
楽山の自由は、誰にとっての自由とも相容れない独裁的な自己中であり、平たく言えば、身勝手な自己愛性パーソナリティ障害の症状だと判断しています。
自己中は、自由とは違う。自己中は、他者の自由を阻害し、かき乱す。こういう、徒労と疲労だけを与えるような輩の、人格破壊的な害を知らせるために批判記事を書いています。
楽山が、執拗に発信だけを続けること自体が、今までのことを踏まえるということが病的体質のために出来ないという症状なのです。
詭弁ばかり書いてくる楽山の理解力は、結局、小学生以下だと思います。楽山は、自由を乱す自己虫に過ぎなくなっています。
このような判断は強化されてきました。楽山が、今まで、嫌らしい詭弁と誘導を書いてくるだけだったからです。楽山は、言論の妨害者です。

自己中は自由とは違う
(2021年03月19日)
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