ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

カテゴリ: 理念・断片

 
  楽山のネトウヨ刷り込み2
 
 『昭和風雲録』満田巌著
 2021年07月17日 楽山日記(LD)
 
 
過激な右翼思想家のA級戦犯を讃える記事を書いたことのある楽山が、ネトウヨぶりを表しています。楽山のような信頼のおけない人が書いても、誰かを目覚めさせることはないと思います。何故なら、楽山自身が、目覚めてもおらず、まともな活動もしていないからです。
 
著者の満田巌については、検索しても、はっきりと詳しく書かれているサイトがありません。定かではないようです。有名人かどうかも分かりません。昭和史上の右翼の暴発について、参照されることのある本のようです。
 
楽山は、説明や解説の出来ない人なので、著者について書かず、ただ、読んだぞ、聞け・・とでも言うのでしょうか。人間性と情感が乏しく、自己中だけが強いと、このような書き方になる、という見本になるでしょう。
 
しかし、意見のまとまらない楽山は、引用だけといってもいいような記事になっています。自分で、理解しようとしない、理解できない、でも、書いて自己顕示したい、という楽山の特徴が表れています。それにしても、右寄りの一面的なことばかり書いて悦に入る呆れた心境です。
 
 
*概要
戦前戦中の考え方を知りたいと思ったので、昭和20年3月15日第26版(初版昭和15年)の本書を調べてみた。ざっと全体を眺めてみると、前半は第一次大戦後の日本は既得権益の確保を目論む米英から平和軍縮条約を押し付けられ、満州では排日運動が激化し、双方から圧迫されていたこと、
 
「戦前戦中の考え方を知りたい」と思って、右翼の主張を読めば、知り得るのでしょうか。こういう偏った読書を宣伝したいのでしょうか。「目論む米英」「押し付けられ」「圧迫されて」・・当時の日本について、外国を悪者扱いしている楽山の、他罰的な右翼政治思想が表れています。
 
 
後半はそのような状況を転換させようとする者たちが昭和血盟団事件、五一五事件、神兵隊事件、相澤事件、二二六事件などを起こしたこと、最後は満州事変、国際連盟脱退などについて触れており、真珠湾攻撃前夜の様子がよくわかるものになっている。
 
右翼についての本を読んで、楽山は、ネトウヨならでは・・と言うべきか、気安く、昭和の流血事件について、あっさり「よくわかる」と書いています。ネズミのように、こそこそと立ち回り、嘘を吐く活動しか出来ない楽山は、右翼の怖い勢いだけであっても借りたい心境なのでしょうか。
 
 
*繰り返し
本書中、著者の考え方として特に興味深かったものは次の通りである(旧字は新字に変えた)。
 
どう興味深かったのでしょう。書けば、ネトウヨぶりが表れるので、書かず、引用だけで、まともに見せかけようとしているのか、メモだけならば、公開する必要はないのです。引用だけの奇妙な刷り込みで、自尊過大を表す楽山です。
 
 
某代議士の如きは「軍備といふ如きものがあるから、戦争が起るのである。よろしく軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つであろう」とまで極言した。しかし、雨降る故に傘あり、傘ある故に雨が降るのではない。かくの如き非論理的な暴言が堂々として吐かれる程、当時の非戦的気運は圧倒的であった。
(『昭和風雲録』満田巌著、新紀元社、昭和20年、p.50)
 」
 
「軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つ」という考えの愚かさを暗示したいようです。かといって、軍備を増強したら戦争はなくなるということでもありません。陳腐な揶揄を書いて、楽山には、建設的な意見は皆無なのです。
 
 
ワシントン条約、ロンドン条約等は、世界を去勢せんために米英現状維持国が企んだ平和攻撃の一手段であり、国際連盟、不戦条約等と密接に関連するものである。米英現状維持国は、一に平和を鼓舞し、他に軍縮を高唱して、自己の優越的地位の保持に全力を傾倒した。
(同上、p.50)
 」
 
これも、日本が米英に脅威と感じてられていた、また、日本は米英を脅威と感じていた、という歴史状況を書いています。今につながるものがないことを、楽山は書いて、何を伝えたいのでしょうか。俺は右翼だ、宗教だけでなく政治も分かってるんだ・・と言いたいのでしょうか。
 
 
思へば拙劣な外交であった。口に平和を唱へる所謂協調外交が、米英の現状維持を保証する以外の何ものであったか。その間、却って米英の軽侮を招き、更に支那満州の排日を激化したのみではなかったか。
(同上、p.75)
 」
 
協調外交が拙劣だと書いて、楽山は、自分ならば・・戦争、云々、と言いたいのか、またしても、他者の口を借りて、月並みな右翼への傾倒を表しているだけの感想文、しかも、そのやり方は、印象操作に過ぎません。読書して、書くたびに、読書できないことを表してしまう楽山です。
 
 
そのモットーとする所は、徹底的な平和主義といふより屈服主義であり、国際連盟に心酔し切つて軍縮に大童となり、大陸及び太平洋への発言権を自ら捨てて、米英の意を迎へるに汲汲とした。その間、貴族院、枢密院、政友会そのほか国民各層の不満にも拘らず、米英は、日本に於ける唯一の国際外交の権威なりとして幣原外交への賛辞を惜しまなかつた。
(同上、p.76)
 」
 
引用しているということは、楽山も、屈服主義と書いて自己満足ということになります。結局、日本は、屈服せず、アジアを侵略して、アメリカと戦争して、自滅の道を進みましたが、楽山の言は、喧嘩に負けた子供が、相手への悪口で、腹いせをしている有り様にしかならないでしょう。
 
しかも責任を負えないものだから、引用だけというお粗末さは、責任のある言動の出来ないのに、見かけだけ評論家を気取って自己満足するという、今までの楽山を、やはり、そういう人だった・・と復習させる愚痴にしかならないのです。
 
 
こうしてみると平和外交とそれに対する批判は、昔も今もさほど変わらず同じことを繰り返しているようだ。人というものはそう簡単に変わるものではないだろうから、これも当然のことなのだろう。
 
右翼思想を書いて「人というものはそう簡単に変わるものではない」と、今を好ましくないかのように書きながら「当然のこと」と書いています。右翼思想を表しながら、面倒はごめんだと保身をする筆致、楽山の卑怯なボンヤリ言語で、右に行っても左に行っても、頼りにされることはないのです。
 
 
*将来
ところで、本書には連盟脱退についてこのように書いてある。
日本の連盟脱退こそは、連盟の本質が英米の自己擁護機関たる外何物でもないことを身を以て世界に明示したものであり、同時にまた白人旧世界体制に対する致命的な一撃であつた。
 」
 
何処が、英米に対する致命的な一撃だったのでしょう。歴史を見れば明らかです。忍耐もなく致命的一歩を踏み出したのは日本でした。この部分への感想は・・やれやれ・・だけです。
 
 
条約違反或いは経済封鎖を以てする彼等の威嚇に抗して、ここに日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出したのである。
 」
 
これ、戦争のことですよね。世界新秩序の第一歩どころか、結果として、日本を破壊するだけに終わったのです。今になって、自画自賛の豪語が成立することはありません。
 
 
これにつづいて独伊また連盟を脱退し、連盟の旧体制的構成は全く無内容と化し去つた。しかもこの寂寞の連盟にソ連が加入(昭和九年――一九三四年)し、その内実は旧国際連盟から国際人民戦線へと変貌した。一方に於ける日独伊、他方に於ける英米仏ソ――今や世界は瞭然たる二大勢力に分れ新旧闘争の決定的世界史転換の時代を迎えたのである。
(同上、pp.359-360)
 」
 
今さら、負け戦を宣伝する、あるいは、引用することが、とても見苦しく、無意味だということが、楽山には分からないのでしょう。語れば語るほど、現実離れした楽山の、妄想的幻想的右翼ファンタジーが、流れています。
 
「連盟の本質が英米の自己擁護機関」「白人旧世界体制に対する致命的な一撃」「日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出した」・・否定してないから、これは戦争礼賛になります。「世界史転換の時代を迎えた」・・万歳三唱でもしたいのかって感じになっています。楽山は偏狭な右翼だという証拠です。
 
 
最近は国連離れが加速しているようではあるし、もし「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」というのが本当であるならば、近未来において日本およびその他の国々が国連を脱退して世界新秩序建設への第一歩を踏み出すということもあるのだろうか。そんな想像をすると何やら恐ろしい気がする。
 
国連離れが加速しているのでしょうか。国連離れで検索してみると、トランプの名が出てくる程度です。さらに、もはや陳腐とさえ思える「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」という漠然としたことを書いて、新秩序、想像、恐ろしい、などと書いて楽山のファンタジーは終わりなのです。
 
新秩序建設というのは、戦争が起こるかもしれない、ということでしょうか。そうならないために、楽山は、何か政治的言動をしたのでしょうか。不安を煽っているだけでしょう。主張の見えてこない思想の話、何を書いても、いつもと同じ、中身のない評論家気取りしか見えてきません。
 
何を書いても、まともな理路にならない楽山の、右翼的な印象操作と刷り込みです。しかも、はっきりした自分の意見を持たないから、偏った本の選択と引用によって、またしても、無責任ぶりが全開の楽山です。新しいものや独自のものが何もなく、読む価値のない記事だと思います。
 
批判しても何も答えない、なのに、手を変え品を変え、書いてきて、分かってると自己顕示してくる欺瞞は、自己中の世界に陶酔しているだけの自己愛性パーソナリティでなければ、ありえない醜態であり、分かるべき身近なことさえ分かろうとしない楽山の実態であります。
 
 
  青春のない楽山
 
 マイケル・シェンカーの青春論によるマイコン解除(『飛翔伝説』)
 2021年07月17日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山には、恐らく、青春などなかったのではないかと思います。その復讐なのでしょうか。嘘と詭弁の煽動者になり、批判しても、なお、平気で書き続ける自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を表して、救われない者という病的人格のモデルとなっています。その腹いせでしょうか。
 
 
*マイケル・シェンカーの青春論
本の整理をしていたら、マイケル・シェンカーの『飛翔伝説』が出てきた。中身を確かめてみると、こんなことが書いてある。
(画像省略)
「自分自身であれ!」「自分に嘘はつくな!」「自分の意思を貫き通せ!」「人は人、自分は自分だ!」という考え方は、ギタープレイだけに限定されず、人生全般に言えることであろうし、昔も今も変わらず共感する。
 
(ネットより)
マイケル・シェンカー
ミヒャエル・シェンカー
マイケル・シェンカー(ミヒャエル・シェンカー、Michael Schenker、1955年1月10日 - )は、ドイツ出身のハードロックのギタリスト。
マイケル・シェンカー (ウィキペディア)
 
自分を見失って、自分にも嘘を吐き、自分の身勝手な妄想を訂正不能に投げているのが楽山です。また出してきましたが、「人は人、自分は自分」と、自己中とは、全然、違います。楽山は、真逆の勘違い妄想を共感と呼んで、また嘘を吐いているのです。音楽家を持ち出してくるのも驚きです。
 
 
*スピリチュアリズム
思うに、自分はこの流れで、「自分自身を信じよ」「自分の内なる神(良心)を信じよ」というスピリチュアリズム的な考え方にも共感し、これにつらなる幸福の科学にも傾倒したのだった。
 
楽山が信じて振り回しているのは、「内なる神」どころではなく、病質からの我執であります。それだけが、楽山の書いてくるものに表れてきたのです。楽山の言うスピリチュアリズムは、自らの霊能者気取りに過ぎず、それを勘違いした結果、不感不応の自己中に囚われています。
 
訂正不能の我執からの自己主張と詭弁と嘘が、楽山の恐ろしさであり、何度、批判しても、また、同じことを書いてくるのです。もはや、関わらないことと近づかないこと以外には、対処法がなくなっています。楽山から、良きものを受け取ることはありません。
 
 
*退会
でも幸福の科学は、当初は「内なる神を信じよ」と説いていたものの、途中からは次のような教えに変わってしまった。「大川隆法を信じよ。自身の小さな頭で考えたところで何がわかるか。大川隆法にはもっと深いお考えがあるのだ。大川隆法を信じてついてゆけ」云々。
 
誰も信頼していない楽山、信頼できる友のいない楽山、自分だけしか信じない楽山、丁寧語と詭弁で自分に引き寄せては、人をだまして疲れさせるだけの楽山です。楽山自身が、霊が分かるっぽいという自己中心のカルト的妄想に支配されています。そして、疲れさせることで人格を破壊します。
 
 
自分は信者として、この教えに自分を合わせようとしたものの、結局はそれを徹底することはできず、「内なる神を信じよ」「自分自身を信じよ」という思想に戻ることになった。
 
楽山の信条は、自分という神・絶対者を訂正不能に信じて、他者を、いっさい無視することです。無理解・無神経のまま、言ったら、言いっぱなし、無反省・無責任の、詭弁屋で嘘吐きですから、決して関わってはいけません。約3年間のペテン師の資料となっています。
 
 
ある意味、マイケル・シェンカーの青春論が心に染み付いていたおかげで、マインド・コントロールから抜け出すことができたということだろう。
 
楽山は、都合のよい文言を利用しているだけで、楽山に染みついているのは、自己中だけです。自己愛性パーソナリティ障害からの自己絶対の自尊過大の、身勝手ぶりです。質問と疑問を浴びせれば、正体を表しますが、そこで、こちらが、疲労し消耗して、人格を損なう恐れがあります。
 
 
*感謝
マイケル・シェンカー本人からしたら自身の発言が極東の一人の若者をカルトから救うことになるとは想像もしていなかったろうが、実際自分はそのようになったわけでマイケル・シェンカーには心から感謝したいと思う。
 
とても作為的な醜い世辞~勘違い~嘘です。楽山は、誰にも感謝したことはないと思います。「極東の一人の若者」である楽山は、「カルトから救」われたのではなく、恐らく最初から、自分自身がカルト思想だけに染まって、訂正不能に慢心しているだけなのです。決して近づいてはいけません。
 
 
偏向と詭弁に酔い痴れる愚か者

偏向と詭弁に酔い痴れる愚か者
 
 
(2021年)
(2022年07月24日、再録+加筆)
 
 
 
  彷彿
 
ワイパーが水滴と一緒に
視界を拭(ぬぐ)い去る向こうに
道はあるとアクセルを踏むから
車は暗がりを轢(ひ)いてゆく
 
ときに所々の街の灯(ひ)が
一瞬だけ信号に見えたりするから
ブレーキは早めの後ろから
大型トラックがぴったりついて来る
 
進めばよいのか止まればよいのか
後退でもすればよいのか
最初から出かけなければよい
飛ぶこと以外望まないのなら
 
空色の信号が浮かんでいる
そこでもチェックは厳重だ
拭い去れないものを火が乾かす
拒めば落ちてゆくことだけには限りがない
明るい人も大地も星も
水天彷彿(ほうふつ)みな落ち続けている
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  信じ方
 
病人よ
病人よ
汚れた肉体を布団に残して
どこをさまよっている
多くの顔と名前が乱れて去っていった
彼岸のあたりか
そこから命はもう行けない
魂は抜かれるだろう
抜歯のようにこともなく
麻酔でしびれた
歯肉の穴の形を
固まりかけてまだ熱を残している
血の味と臭いとともに
舌が探っている
抜かれた魂の
跡の形を探っている
 
顔のない天使の合唱が近づいて来る
♪どうしても救えない
 どうしても救えない・・・(遠ざかる)
何も知らない少女が
教えられたとおりに歌うような
くりかえしに
思わず顔をしかめる
 
恵まれているのか
試されているのか
許されているのか
裁かれているのか
わからない病人よ
信じ方を忘れた病人よ
忘恩と裏切り
魂の責め苦に寝返った
肉体は痛みを離れてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山はネトウヨです。年齢は分かりません。オジサンかもしれないが、若さを気取っています。楽山の思想は、若者の思想ではありません。情熱の欠片もないからです。おじさんの思想でもありません。思慮深さが全然ないからです。楽山が書けば書くほど、愚にもつかない、という反発が可能でしょう。
 
 
 
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  戦争の時代2
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれたそうです。日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。
 
そして、父と母は、ともに、今のJTBの前身の、前身の、・・中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないか・・という若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、特に映画など、見ていたところもありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。ジージツ、ジージツ、・・
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか

きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
(2021年09月14日、再録+)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
(90年代~?)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害である楽山の特徴です。楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 
 
 信仰について、2年前の記事より断片
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
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一息つきます。再録です。今日と明日。
 
  他人・水・氷(再録)
 
 
  他人と自分
 
いろいろな能力それぞれに
とても優れた人がいる
うらやましい
その能力を持ちたいか
持ちたい
その人になりたいか
なりたくはない
 
疑うことを知らないような
信仰厚き人がいる
その信仰を持ちたいか
その人になりたいか
どちらも即座に
おぞましいことのように
気持ち悪いことのように
なりたくない
 
能力は人が生かすもの
人格は生きる人そのもの
信仰は人を生かすもの
 
他人がどうであれ
自分がどうであれ
他人になりたいか
 
なりたくなどないのである
 
(2010年12月30日)
 
 
  水の生き物
 
ガラスの内側でも
川の流れでも
お前は水
流れても淀んでも
腐っても
お前は水
コップに注いで
これから飲もうとする
イオンに洗われるか
細菌に吐かれるか
渇きを癒すか
下痢を来たすか
何も告げずに
今宵かすかな光に
揺らめいて屈折する
お前の前に
何も知らずに
受けるしかない
屈折した水の生き物
 
(1998年1月4日)
 
 
  氷たち
 
氷は自らを溶かしながら滑る
滑らせる
切れ味を試すように
溶けて役に立つ氷
溶けずに邪魔になる氷
人を悩ませる氷
人を殺す氷
美しい雪景の下に凍った人が眠る
人を殺さない氷
誰も悩ませない氷
邪魔にもならない氷
溶けても溶けなくても役に立たない氷
味のない氷
切れるものが何処にあろうか
自らを削ること以外に術(すべ)を持たない
氷は自らを溶かしながら滑る
滑った果てに消えてなくなるまで
注がれる眼差しもない僅(わず)かの
水を残しながら
水を干しながら
 
(1999年12月25日)
 
 
  冬の悲鳴
 
ひええっ
と細い木が立っていた
寒風に吹かれて
幹は揺れ
枝は震えながら
花も実も葉も落ちて痩せ細った裸のように
でも萎えてはいなかった
裸でもなかった
枝は天空のあらゆる方向を指していたし
幹は樹皮に覆われ揺れながらも
真っ直ぐ上に向かって立っていた
すでに春の訪れを知っているかのように
強(したた)かに芽吹きの準備をしているのだろう
とても冷たい風の強い日だった
気が立っているのか萎えているのか結局
ひええっ
だけが私のものだった
 
(2000年02月07日)
 
 
正義

正義?
 
 
(2020年12月31日、再録)
 
 
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  戦争の時代
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれた日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。そして、父と母は、中国の青島(チンタオ)で出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代、および、それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないかと思うことがあります。その若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように見ていた部分もありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙運動のスピーチでした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。
 
世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、そして、世界では、戦争が実際に起こっています。外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。
 
気づいておられるでしょうか。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、以前より多くなってきています。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとでごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは徐々に進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
 
 
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  会うということ
 
 
精神科の面接は "対決" とも呼ばれるくらい
自分の全人格の全神経を注いでも足りないくらいの
相対性に満ちています。
 
何々検査で異常値ですからあなたは統合失調症です
などという診断の成り立たない分野です。
自然科学で語れないところの多い分野です。
 
つまり、医学・医療の中で、
今も、面接が主要な診断の手段になっていて、
いちばん人文科学のお世話になっている
という、未発達の分野だということです。
 
精神医学が検査で分かるようになるか、
あり得ないとまでは言いません。
しかし、精神病が全部
検査で診断し薬で治る病気になる
と言い切れるかと言えば、ノーでしょう。
 
医学は、人体を基盤に発達してきました。
しかし、その中で精神医学は、
心という途方もない個人の秘密を探ってきたのです。
 
好きな詩があります。不正確かもしれませんが、
 
 病院には肉体の秘密がない
 
 したがって精神はますます多くを秘密にする
 
  (谷川俊太郎)
 
詩の入門書で見つけて感動した作品の一部です。
分かります。病院という場所は、
白っぽくて冷たくて、温もりも潤いもなくて、
自分の秘密を守りたくなる場所なのです。
 
私は適性もなく、自らの避けようのない必然から、
精神科を目指して医学部を受験した者です。
 
少なくとも
「好きなんよ」という博多弁?で、
面接の興味だけで、殆ど遊び心で、
未熟な医学生が面接すれば、
依存されて、痛い目に遭うだけなのです。
 
ただでさえ精神科の患者さんが抱えている秘密について
つまり病的な自我と思考について
率直に聞くということは素人には不可能なのです。
そして、一般に、やってはいけないことに分類されることです。
 
前にも書きましたが、乏しい私の体験からは、
精神科の患者さんに対しては、
"好意的な、よそよそしさ" を持つことが大切です。
 
つまり
別人格であるという意識と自覚と恐れと尊重が必要です。
だから最初は普通の敬語でなければいけません。
「なあんね」といったような砕けた聞き方は
親しみを込めたつもりでも、
馴染んでいないなら、雑であり、
相手を下に見ている乱暴な物言いです。
 
特に精神科に来る研修医の中には
精神的に劣った人を診てあげる
という上からの先入観が働いている場合があります。
そこが対等にならないと前には進めません。
 
精神科は、研修医にとって、医者にとって、過ごしやすい診療科です。
間違いが、はっきりデータとして出てこないからです。
全部、患者のせいにしても成り立つような未発達ぶりなのです。
ですから、なおのこと遊び半分で来てもらっては困るのです。
 
精神科の面接は
特殊な学問の知識、専門の知識と技とか、
そういったものが必要だから難しいと主張する向きには
なんだか怪しい高慢を感じます。
 
精神科医になった医師には、
少し変わった、半分病気のような、私のような者もいますが、
精神科医の適性は、それは、優劣ではなく、選抜でもなく、
ふつうの良心のある医学生であればよいのです。
 
精神科医の資格と適性は、高名な精神科医が決めることではありません。
誰も未だ、精神科医はこうでないといけない、とか言える段階にありません。
患者が精神科医と与え合う影響によって、
個別に決まってくるとしか言いようがないことです。
 
精神科医の適性について
自らの信念めいた決めつけを当ててくる医者は
それだけで、その医者こそが、不適性と言ってよいでしょう。
 
未だ自然科学たりえない未開の分野に
おのれの自我の思い込みを当てはめているからです。
 
そういう人間は、気取り屋で、気障で、
"ひらめきとしてね" などと平気で自慢を言ってきますし、
 
また、都合が悪くなると、
いつのまにか、いなくなったり、
踏切で素知らぬ顔をして空を見回して
知らぬふりをすることができる人であり、
 
精神科のみならず医者としての
さらには人間としての適性を疑うことになるのです。
 
"一期一会" という言葉は
一生に一度だけ会うというほどの誠意が必要だという意味らしいです。
その誠意がない人には
一生に一度も会わないことが幸いだと感じることもあります。
 
特殊な場合として
特殊な人格を持った医者と
特殊な人格を持った患者は
それぞれ医学部講師と医学生となっても
まるでカルト教祖とカルト信者のような関係が
持続することがあるようです。
そのことが、その二人以外の人に影響するなら
これ以上の災いはないのです。
 
出会うということの
恵みの不思議だけでなく
罪悪の不可解を思わざるを得ません。
 
 
近況:
 
母が入所している老健施設に行きました。今日の用事が何だったかを忘れそうなほど、暑くてぼうっとしたまま、受付から事務の人に教えられて、古い書類の切れ端と思っていたものの中に必要な本物があって、ありゃ・・という感じで、結局、入所手続きが済みました。
 
既に保健証は市役所で再発行してもらっていましたが、介護保険証と限度額認定証は、再発行してもらわなくてよかったのでした。再発行申請のための書類は、必要なかった。書類手続きは、昔から苦手でしたが、老化による健忘が加わって、自分独りで、空回りして、難渋していました。
 
あと、母のためのTシャツを持ってきてくださいと、前回、言われていて、そう言われても、家にあって、私に分かるのは、私用に買っておいた男性用Tシャツしか見当たらないので、それを2枚持っていって渡しておきました。
 
途中コンビニで、アイスを10個ほど買って、帰って来てすぐ、3個ほど、ガブガブ、サクサク、と食べました。週5日の宅配弁当があるのに、ついでに、パンとサンドイッチも買って置いてあります。母が施設にいるのに、今週は少しのんびりできるかな・・などと思っているのは甘いわけで、若い頃からの、ものぐさもいいとこです。
 
この成り行き、何とかしてくだせぇ・・と、神様に、母と私のこと、今後のこと、祈りました。拝。
 
 
(2020年08月18日)
 
 
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