ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:イデオロギー

 
  戦争の時代3
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡がお里です。父母は日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。そして、父と母は、ともに、中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういう時代に私の親は生きていました。不幸な戦争の時代です。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。父は2003年に死にました。母は、今、介護付き老人ホームにいます。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、多く、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。そして、明るく、元気で、活発なことばかり教えられているような気がします。悲劇が教訓となることを、ちゃんと教えられているでしょうか。
 
平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているような若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、映画やテレビで見ていたのです。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画、ヒーローもの、などと同じような、アクション、娯楽の視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマン、裕次郎や、若大将の時代でもあり、その1950~60年代、私は子供で、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
約77年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
国民(人間)よりも国(観念)を大事にすると、そうなるのでしょう。歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言う人もいます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
優しそうな顔で美辞麗句を語るだけの政治になっていないでしょうか。皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃと?、ジージツ、、シジュウカラ?、始終空?
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。美しい、正しい・・が、努力目標ではなく、無条件の前提になっていないでしょうか。
 
平和が前提となる真善美は、多くの犠牲と命懸けの歴史を通して、実現されるものです。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、いつも、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。
 
世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。我が国は3つの独裁国家と、海を隔てて、隣国であります。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が、疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。言葉だけで分かったような気になってしまう教条主義なども同様です。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
戦争の時代

戦争の時代
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月22日、再録+加筆)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴ですが、楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 私の信仰について、過去の記事より断片
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
こちらが、書かずにいると、楽山は、また、のぼせて書いてくるでしょう。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、罪悪感がなく、物事の流れや筋道を組み立てることも、理解して弁えることも出来ません。平気で、刷り込みと印象操作の嘘と詭弁を、泡立てることでしょう。
 
 
 
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  イデオロギー3
  
 
ここでは、イデオロギーと題していますが、信条や教条など、思想が言葉や理屈で固定され、心の直感的共感を持たないものを意味しています。宗教にも、政治にも、あらゆる分野に深く関係する非人間的な固定・固着の教条です。
 
(ネットより)
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
イデオロギー(ウィキペディア)
 
 
イデオロギーは
心の面倒を見ません。
 
論理は
心の面倒を見ません。
 
教条は
心の面倒を見ません。
 
言葉は
それらだけでは
心の面倒を見ません。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきました。
 
宗教も
言葉だけの
思想・信条・イデオロギーと化してしまえば
同様でしょう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を凝固させ変形させます。
 
言葉は
心を伝えるための
暗号に過ぎません。
 
聖書が神の言葉でも
読む私たちは人の言葉しか持っていません。
神の言葉だからと振り回す人は
心を失いつつあります。
 
人は人の言葉を絶対化してはいけません。
人は絶対ではないのだから
人は何も絶対化できないはずです。
思想、宗教、政治、総てにおいて
 
しかし
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがあります。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すでしょう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからです。
 
心の努力は
惜しむべきではないのです。
 
信仰は不変の平安の境地ではありません。
 
信仰は生きて学ぶ道です。
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示しています。
 
歌は、哀しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆきます。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶と情感は不可分であります。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
記憶されることへの希望となります。
 
言葉が心を動かすのは
言葉によって表されたものを
心が受け取れた場合だけです。
 
心が動くのは
人間の心として受け取れるものだけです。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、
これらは、人間の手には負えません。
神の性質を表していますが、人が神を理解するための言葉ではありません。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身
に気づかせるための言葉です。
 
神の全知全能を人が理解することはなく
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られます。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきなのです。
 
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在しています。
 
 
神の寛容は
悪や偽善をも赦すということではありません。
讃美の言葉なら、無難で正しいというわけでもありません。
神には正直以外通用しません。
 
神は
人に対して正しさや善を求めるのではなく、
神は
人の不完全と罪深さを知っておられるので、
御前に捧げられる祈りにおいて
精いっぱいの正直だけを求めておられ、
それだけをもって信仰の義とされる御方です。
 
神は、正直な告白の祈りを待っておられます。
 
祈りの言葉を間違えたら、
正直でなかったら、飾ったら、
また、祈ればよいのです。
それが、神の寛容と言われます。
 
 
神と人、神に対して、共感と人の言葉、信仰と人の絶対、これらを同一のように語って、訂正不能に陥っているカルト的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者がいます。神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
祈りは、独りでするものです。集団の祈りは、何かのきっかけになることはありますが、大方、讃美歌と同じであり、人々は、讃美だけで生きられるものではないほどに、心に、しこりや、闇を、気づかぬうちに抱えています。本当の祈りは、故意に隠すことのないように、独りでしてください。
 
 
神に 人は

神に 人は
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月31日、再録+加筆)
 
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
祈りは夜とともにあった
言葉は夜であった
光は夜のかたすみに
あやうい形で揺れていた
祈りは涙と親しく
いつしかお互いに拒んでいた
涙は形にならなかった
祈りはさまざまに否みながら
光となって揺れていた
光は言葉であった
それらすべてを包み込む
形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集
 2021年08月29日 Comment(0) 楽山日記(LD)
 
 
今まで、楽山が、他者にかけてきた迷惑など、何とも思っていないのに、まとめたことにして、整理したことにして、ちゃんとやっているふうを見せないと、楽山は気が済まないのでしょうか。整えることを、いちばん、妨害してきたのは、楽山その人です。
 
*発言集まとめ
他所で、ひさしぶりにブログ村騒動の記事をまとめたので、ここにも保存しておこうと思う。
・「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
・「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
・「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
・「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
・「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
・「ブログ村騒動」発言集(補選 中立的な意見)
・「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)ブログ村騒動とは何だったのか?
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2【追記あり】
ちなみに、ブログ村騒動というのは、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内における信者同士の喧嘩のことである。これは数年に渡って断続的に続いた。主な参加者は、ガン、レオ、ぽん吉、ピア健、コウ(敬称略)などであり、ぽん吉、ピア健はこの騒動の途中で退会し、アンチHSとなったのだった。
 
ずらっとリンク(省略)が並んでいます。今まで書いてきた記事ですから、このように、楽山は、自分を責めることが出来ず、その分、それぞれの記事で、また、まとめて、ここで、他者を責めてくる人です。他者のHNを、並べて、さらし首でしょうか。自慢したいのでしょうか。
 
楽山が言いたいのは、"自分は悪くない、自分は悪くない、あれが悪い、これが悪い"、などと自己中に言い続けて止まないということです。つまり、楽山という人は、どこまでも、他罰的で、共感性がなく、自分を省みない人なのです。
 
どうか、楽山と付き合わないでください。楽山と付き合って、何も、良いことはないと思います。そして、後になって、上の一覧と、それぞれの記事として、ネチネチと悪者にされてゆきます。この間、反省は、皆無です。これほど、非人間となるのは、自己愛性人格障害としか考えられません。
 
楽山に対するには、楽山の執拗さと同じように、逐一批判をもって、終わることのない批判を続けるしかないのです。楽山に対して、病んで、または、逃げて、黙り込む人にもならず、批判し続ける人にもならないためには、関わらないこと以外にはないのです。
 
楽山には、罪悪感がありません。もし、生存をかけて闘っていた戦国時代であれば、信頼への裏切りは決して許されることはなく、はりつけ、やりぶすま、八つ裂き、さらし首、火あぶり、それ以上となったでしょう。今の時代に、個人は、批判と非難を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山の「反省、とほほ」は、"無反省、えへへ" だと思ってください。楽山は、臆病だから恐慌状態にはなっても、しんみり悲しむことも泣くことも出来ない人です。嘘と詭弁で世渡りして、言ってくることに、真実の欠片もない人格の形骸です。
 
ドラマなどで、ときに出てくるサイコパス(精神病質)というのは、反社会性人格障害の旧名です。罪悪感がなく犯罪性が高い人格障害です。サイコパスは、自己中で自己愛性なので、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害は、近縁の人格障害です。
 
楽山のような病質者は、逃げられない状況で説教をされると、頷くかもしれません。しかし、説教が終わると、さーっと立ち去って、また同じ悪さを、さっさと続ける、平気で繰り返す、という具合に、訂正不能の無反省を基調とします。
 
恐らく、表情は基本的には乏しく、感情は、根深い怒り憎しみと嘲笑いで、本当の思いやりの温もりと悲しみの涙という潤いが、欠落しているのだろうと思います。
 
つまり、感情に深みがありません。だから、反省、共感、理解、よく分かった、読んだ、などの、言葉だけの表面的な言い方を多用し、とほほ、かなあ、と言えなくもない、などと、曖昧にして、断定していないと、後で問われる責任を逃れているつもりです。
 
味も素っ気もなく生きていて、我執の自己顕示欲で出しゃばって言って、他者のことを書きながら、他者に関心はなく、他者を全く必要とせず、ただ、自己を受け入れさせようと芝居をするのが、自己愛性病質者の症状であり、目的であり、非人間性の生き甲斐です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·3時間
私もそんな感じに考えてます。
信者は、現実の教祖というより、自分好みに理想化した教祖像を信じている
この両者の差異に気づき、理想像を維持できなくなったときは、教祖に失望し、信仰の危機となる…と。
午後7:00 · 2021年8月29日
 
楽山は、キリスト教と信仰についても、信じ過ぎてはいけない・・など、一方的な決めつけをしてくる反キリストです。楽山は、自分はバランスが取れていて適切だと思い込んで訂正不能の妄想を語ることから、楽山には教祖願望があるように思われます。
 
神を、信じ過ぎてはいけないのではなく、自分の思い込みから訂正不能の心になってしまうのはカルトなのです。楽山は、無神教カルトとして訂正不能です。視野が広いつもりでいるようですが、信仰については、楽山に視野はありません。
 
楽山は、人を操りたいのです。しかし、言うことは、ことごとく、嘘と詭弁であり、印象操作であり、刷り込みであり、誘導であります。そういう楽山の言から、私は、楽山が自己愛性人格障害であることを何度も書いてきましたが、楽山は、反論も弁明も出来ていません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の自己愛は、自分を大切に・・などという調和ではなく、自己絶対の訂正不能を招いている妄想であります。楽山が教祖になったら癒しも救いもあったものではないのです。何故なら、楽山は、自分の言ったことに責任を負う気が全くないからです。楽山の言には、方向も目標もないのです。
 
 
 
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  教条主義2
 
 
繰り返す決まり文句は、心の面倒を見ない。
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
イデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
そこにアクティブな波動がないからだ。
 
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
【教条主義】
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。▷ dogmatism の訳語。
「教条主義」Oxford Languagesの定義
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表しています。偽善の多くが、教条主義の所産です。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪なのです。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られます。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、慢心し、人間の心を忘れていました。よって、キリストにとって最悪の敵となったのです。
 
多くの思いは言葉で表され、言葉は伝達のための暗号であります。つまり、ダイレクトに心を伝えているわけではないことを弁えておく必要があるでしょう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかであります。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになります。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってきます。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってきます。真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、努力目標であったりなど、当為と事実が混同している場合もあるのです。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいません。神を信じているという意志表示に過ぎない場合があります。神の偉大さを知って信じるのではありません。しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはあるというように、言葉による表現は、曖昧であることが多いです。
 
しかし、表現を変えてはいけないと思い込み、同じ言葉だから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてきます。そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいでしょう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともあります。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのです。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがあります。典型は、やはり、パリサイ人です。神の言葉と言っても、受け取る人間は人の言葉しか持ちません。
 
また、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山のように、浅い屁理屈をもてあそんで、人間に人生に必要なことを汲み取れず、深みもなく、共感もなく、慢心して、繰り言のように言い張るということもあります。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己満足の絶対化から、逆に、非人間的な言動が目立つようになります。論理性が、辻褄合わせになり、故意に合わせるために、的外れな理路になり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、詭弁となって無理を押し通して破綻してゆきます。
 
実際は、浅はかで不自然な言動となって表れます。思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくでしょう。教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆきます。
 
いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになります。そうして楽山のような反キリストの教条主義が生まれます。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたします。理路も情緒も、深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手や、さらには、神のせいにする特徴を持ちます。
 
楽山もそうですが、教条主義者は、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってきます。そして、屁理屈遊びで、相手を負かそうとするのです。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人ですが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような自他の人格の変容~破壊を来たしやすいでしょう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もありますが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきです。つまり、悪を隠して善に見せかけるという偽善者なのです。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いようです。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、被害者によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いであります。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
心の中身がない

心の中身がない
 
 
(2021年04月17日)
(2022年05月04日、再録+加筆)
 
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
  夏の朝
 
夏の朝まだ早く
外はまだ暗く
しかしぼんやりと夜明けの気配
まだ眠っている頭と心を
揺さぶるように告げるもの
 
もうすぐ朝だよ
すっかり明るくなった頃には
また汗と蒸し暑さの中で
悲鳴をあげる元気もなく
重たい体を持ち上げて
その時はっきり見えるものを
呪いたくなるだけだから
いま眠気の中に咲こうとしている朝に
力を抜いてご覧なさい
 
やがて暑くなる夏の日だって
都会から田舎まで
夢見る若者から老人まで
健やかな者だけでなく傷ついた者まで
等しく朝の予感を用意してくれている
 
ぼんやりと見ている目が
静かに受け取る機会を与えられた
明け方の涼しいひとときを
心の薄明かりのゆえに
ただの薄明かりに過ぎないかどうか
動かなくてもいい
力を抜いてご覧なさい
 
寝ていてもいい
起きてもいい
たとえ朝もやの
霧の
低い雲の
水滴の
みずみずしさに触れなくても
見えない日記はすでに記している
 
ただこのひとときが
その傷と苦悩の中で
許されたことを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の言うことは、とても幼稚な理屈で、かつ、とても曖昧なことが多いのに、そこに、詭弁を絡ませてくるから、冷静で柔和だと思って受け容れてしまう人が出てくるのです。そういう悪の実績があるのでしょう、楽山は、一人前の思想や宗教を語ったつもりになって、続けている嘘吐きとなっています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
英さんの話を読んで思い出したが、英さんは乱暴な発言が多いが、迷言もあるんだよね。たとえば、これとか↓
たぶん、東大での討論と、自衛隊駐屯地での割腹がごっちゃになったと思われる。
午後7:36 · 2022年5月3日
 
「乱暴」「迷言」「だよね」と、なじっておいて、相手の間違いを指摘しています。つまり、単なる記憶違いの指摘ではなく、傷つけて、おとしめたい、という病質からの悪意が表れています。楽山は、冷静を装いますが、人をバカにした態度は、表れてしまうのです。それが生き甲斐だからでしょう。
 
私は、楽山に厳しい批判を向けていますが、そこにあるのは、バカにしたいのではなく、真剣に怒っているからです。ゆえにこそ、感情を抑制して表現を考えます。おとしめたいのではなく、楽山には、堕ちてゆく、かつ、他者を落としてゆく病質があるという判断に基づいています。
 
 
 
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  戦争の時代2
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれたそうです。日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。
 
そして、父と母は、ともに、今のJTBの前身の、前身の、・・中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないか・・という若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、特に映画など、見ていたところもありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。ジージツ、ジージツ、・・
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか

きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
(2021年09月14日、再録+)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
(90年代~?)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害である楽山の特徴です。楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 
 
 信仰について、2年前の記事より断片
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
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  イデオロギー2
 
 
ここでは、イデオロギーと題していますが、信条や教条など、思想が言葉や理屈で固定され、心の直感的共感を持たないものを意味しています。宗教にも、政治にも、あらゆる分野に深く関係する非人間的な固定・固着です。
 
(ネットより)
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
 
 
イデオロギーは
心の面倒を見ません。
 
論理は
心の面倒を見ません。
 
言葉は
それだけでは
心の面倒を見ません。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきました。
 
宗教も
言葉だけの
思想・信条・イデオロギーと化してしまえば
同様でしょう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を凝固させ変形させます。
 
言葉は
心を伝えるための
暗号に過ぎません。
 
聖書が神の言葉でも
読む私たちは人の言葉しか持っていません。
神の言葉だからと振り回す人は
心を失いつつあります。
 
人は人の言葉を絶対化してはいけません。
 
人は絶対ではないのだから
人は何も絶対化できないはずです。
 
思想、宗教、政治、総てにおいて
 
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがあります。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すでしょう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからです。
 
心の努力は
惜しむべきではないのです。
 
信仰は不変の平安の境地ではありません。
 
信仰は生きて学ぶ道です。
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示しています。
 
歌は、悲しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆきます。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶と情感は不可分であります。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
記憶されることへの希望となります。
 
言葉が心を動かすのは
言葉によって表されたものを
心が受け取れた場合だけです。
 
心が動くのは
人間の心として受け取れるものだけです。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、
これらは、人間の手には負えません。
神の性質を表していますが、人が神を理解するための言葉ではありません。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身に
限界があることを気づかせるための言葉です。
 
神の全知全能を人が理解することはなく
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られます。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきなのです。
 
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在しています。
 
 
神の寛容は
悪や偽善をも赦すということではありません。
讃美の言葉なら、無難で正しいというわけでもありません。
神には正直以外通用しません。
 
神は
人に対して正しさや善を求めるのではなく、
神は
人の不完全と罪深さを知っておられるので、
御前に捧げられる祈りにおいて
精いっぱいの正直だけを求めておられ、
それだけをもって信仰の義とされる御方です。
 
神は、正直な告白の祈りを待っておられます。
 
祈りの言葉を間違えたら、また、祈ればよいのです。
それが、神の寛容と言われます。
 
 
神と人、共感と言葉、信仰と人の絶対、これらを同一のように語って、訂正不能に陥っているカルト的自己愛性パーソナリティ障害NPDがいます。
 
神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
神と人、言葉と心

神と人、言葉と心
 
 
(2020年08月08日)
(2021年08月30日、再録+加筆)
 
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
(90年代か)
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集
 2021年08月29日 Comment(0) 楽山日記(LD)
 
 
今まで、楽山が、他者にかけてきた迷惑など、何とも思っていないのに、まとめたことにして、整理したことにして、ちゃんとやっているふうを見せないと、楽山は気が済まないのでしょうか。整えることを、いちばん、妨害してきたのは、楽山その人です。
 
*発言集まとめ
他所で、ひさしぶりにブログ村騒動の記事をまとめたので、ここにも保存しておこうと思う。
・「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
・「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
・「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
・「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
・「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
・「ブログ村騒動」発言集(補選 中立的な意見)
・「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)ブログ村騒動とは何だったのか?
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2【追記あり】
ちなみに、ブログ村騒動というのは、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内における信者同士の喧嘩のことである。これは数年に渡って断続的に続いた。主な参加者は、ガン、レオ、ぽん吉、ピア健、コウ(敬称略)などであり、ぽん吉、ピア健はこの騒動の途中で退会し、アンチHSとなったのだった。
 
ずらっとリンク(省略)が並んでいます。今まで書いてきた記事ですから、このように、楽山は、自分を責めることが出来ず、その分、それぞれの記事で、また、まとめて、ここで、他者を責めてくる人です。他者のHNを、並べて、さらし首でしょうか。
 
楽山が言いたいのは、"自分は悪くない、自分は悪くない、分析すればですね、あれが悪い、これが悪い"、などと自己中に言い続けて止まないということです。つまり、楽山という人は、どこまでも、他罰的で、共感性がなく、自分を省みない人なのです。
 
どうか、楽山と付き合わないでください。楽山と付き合って、何も、良いことはないと思います。そして、後になって、上の一覧と、それぞれの記事として、ネチネチと悪者にされてゆきます。この間、反省は、皆無です。これほど、非人間となるのは、自己愛性人格障害としか考えられません。
 
楽山に対するには、楽山の執拗さと同じように、逐一批判をもって、終わることのない批判を続けるしかないのです。楽山に対して、病んで、または、逃げて、黙り込む人にもならず、批判し続ける人にもならないためには、関わらないこと以外にはないのです。
 
楽山には、罪悪感がありません。もし、生存をかけて闘っていた戦国時代であれば、信頼への裏切りは決して許されることはなく、はりつけ、やりぶすま、八つ裂き、さらし首、火あぶり、それ以上となったでしょう。今の時代に、個人は、批判と非難を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山の「反省、とほほ」は、"無反省、えへへ" だと思ってください。楽山は、臆病だから恐慌状態にはなっても、しんみり悲しむことも泣くことも出来ない人です。嘘と詭弁で世渡りして、言ってくることに、真実の欠片もない人格の形骸です。
 
ドラマなどで、ときに出てくるサイコパス(精神病質)というのは、反社会性人格障害の旧名です。罪悪感がなく犯罪性が高い人格障害です。サイコパスは、自己中で自己愛性なので、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害は、近縁の人格障害です。
 
楽山のような病質者は、逃げられない状況で説教をされると、頷くかもしれません。しかし、説教が終わると、さーっと立ち去って、また同じ悪さを、さっさと続ける、平気で繰り返す、という具合に、訂正不能の無反省を基調とします。
 
恐らく、表情は基本的には乏しく、感情は、根深い怒り憎しみと嘲笑いで、本当の思いやりの温もりと悲しみの涙という潤いが、欠落しているのだろうと思います。
 
つまり、感情に深みがありません。だから、反省、共感、理解、よく分かった、読んだ、などの、言葉だけの表面的な言い方を多用し、とほほ、かなあ、と言えなくもない、などと、曖昧にして、断定していないと、後で問われる責任を逃れているつもりです。
 
味も素っ気もなく生きていて、我執の自己顕示欲で出しゃばって言って、他者のことを書きながら、他者に関心はなく、他者を全く必要とせず、ただ、自己を受け入れさせようと芝居をするのが、自己愛性病質者の症状であり、目的であり、非人間性の生き甲斐です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·3時間
私もそんな感じに考えてます。
信者は、現実の教祖というより、自分好みに理想化した教祖像を信じている
この両者の差異に気づき、理想像を維持できなくなったときは、教祖に失望し、信仰の危機となる…と。
午後7:00 · 2021年8月29日
 
楽山は、キリスト教と信仰についても、信じ過ぎてはいけない・・など、似たような決めつけをしてくる反キリストです。楽山は、自分の言うことはバランスが取れていて適切だと思い込んで訂正不能の妄想となっていることから、楽山には、教祖になりたい願望があるように思われます。
 
楽山は、人を操りたいのです。しかし、言うことは、ことごとく、嘘と詭弁であり、印象操作であり、刷り込みであり、誘導であります。そういう楽山の言から、私は、楽山が自己愛性人格障害であることを何度も書いてきましたが、楽山は、反論も弁明も出来ていません。
 
 
 
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