ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:シャロームshalom

 
  復讐?告白?2
 
   「彼に神の救いなどあるものか」 (詩編3)
    楽山のブログ記事を改めて批判。
 
 
シャロームがしてきたことと同じような聖句の悪用です。都合の良いところだけ利用・悪用するのです。
 
ただ、終わりのほうで、楽山は、罪を認めるような発言をしています。罪の告白は、キリスト信仰において、重要な意味を持ちます。一般的にも、罪を認めるのと認めないのとは、判断において軽くはないはずです。どうなのでしょう。
 
また、罪についての重要な発言をしながら、それも嘘であったなら、もはや、神の前にも、人の前にも、誠実さは皆無ということです。だから、私は、より慎重が上にも慎重に、その実質があるかどうかを考えなければなりません。
 
そして、その後、罪の自覚は、皆無であると判断しています。つまり、嘘吐きが、嘘を吐いたということです。楽山は、本気で語る、ということが出来ない人だろうと思います。楽山を動かしているのは、真実への欲求ではなく、超常趣味かインテリ気取りの自己顕示欲だけのようです。
 
主よ、わたしを苦しめる者は
どこまで増えるのでしょうか。
多くの者がわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。
(詩編3:2-3)
 
楽山は、この聖句で、そのまま、神の救いなど無い、と言いたいのでしょう。
 
詩篇3:2は、以下のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
3:2
「彼には神の助けがない」と、
わたしについて言う者が多いのです。
3:3
しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、
わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
 (詩篇3:2-3、旧約聖書) 
 
楽山は、この聖句で、そのまま、神の救いなど無い、と言いたいのでしょうか。
 
ダビデ王が書いたとも言われる詩篇ですが、楽山はシャロームに酷似しています。批判されると、自分はこんなに苦しめられている、敵を滅ぼしてください、という聖句を並べてきました。
 
同じ体質を持っていることから、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、荒らしの易坊は、一人による成りすましではないかと疑っています。無反省の被害者気取りです。楽山は、芝居が好きのようです。ゆえに、わざとらしい対話形式の記事も書いてきました。
 
楽山が神の救いを信じているはずはないです。神を信じていたら、あるいは、最低限の謙虚さえ持っていたら、今までの私の批判もなかったわけです。真実に背くほうを選んだ人だと思います。高等な知性と感性も、そこからの、反省力や後悔の念や責任感も見られません。
 
キリスト者でもないのに、聖句を当ててきました。批判に対しても、反省はなく、弁明も反論もないのに、聖句を引用することは、キリストとキリスト者への嘲笑いと怒りしかなく、聖書を恐ろしく軽く扱っている自分を表しているようなものです。
 
聖書で、神の復讐を願う聖句として、適当に選んできたようですが、その心を理解しないまま、被害者気取りしか持たない自分によかれと悪用しているだけでしょう。詩篇3章という、はじめのほうというのも、手っ取り早いから選んだだけでしょう。
 
知らない土俵で相撲を取ることを企むと、こうなるのです。前に、根拠もなくシャロームの味方をしたときのように。キリスト教を知りもないのに、興味本位で、関わろうとするのは、宗教も分かっているという高慢な自己愛の証拠なのです。
 
怒らせて感情的になったら、こっちのものとでも、楽山は思っていたのでしょうか。
この聖句は、楽山に当てはまります。偽りを慕い求め、悩みを与える加害者として。
 
 (詩篇、口語訳)
4:1
わたしの義を助け守られる神よ、
わたしが呼ばわる時、お答えください。
あなたはわたしが悩んでいた時、
わたしをくつろがせてくださいました。
わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2
人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。
いつまでむなしい言葉を愛し、
偽りを慕い求めるのか。
 (詩篇4:1-2、旧約聖書)
 
ボンヤリ言語、ほのめかし、刷り込み、など、虚しい偽りの言葉しか言わない楽山に対して、当てはまると思います。妄想讃美の説教者のシャロームにも当てはまります。偽りの快楽だけを追い求めているので、不都合な本音をひたすら隠しているのです。
 
宗教関連の議論をしていると、
「彼は救われないだろう」
「彼は地獄に堕ちるだろう」
などと言う人がいるけど、
この詩を読むと、
そういうことを言う人は、
何千年も前から、いたようだ。
ということは、
こういう人たちは、
何千年経っても、
ずっと居続けるんだろうな。
 
あまりに、偽善性が酷い場合は、このままでは・・という推測から、言ってもいいのです。もちろん、先のことは、神のみぞ知ることで、人には分からないのですが、とても、救われるような人ではないと思っているわけです。
 
故意としか思えないような、偽り、偽善、隠蔽、偽装、改ざん、嘘、妄想、などが、ひどいシャロームと楽山なのです。ボンヤリ言語で書く楽山の記事は、ほぼ全部が芝居だと思っています。今の時点で、そう判断するしかないからです。
 
批判は、不正を指摘することです。だから、高慢、不遜、妄想的確信、訂正不能、など、信仰から、あまりに外れたことを言う人には、外れていると言いますし、キリスト者ではないとも相応しくないとも言います。
 
批判などの指摘によっても、反省しないため、反応する側の批判される態度・姿勢が変わらないで、相手が嫌になるようなことばかり書いてくるのは、偽善者やカルトの、一つの特徴です。いつも、人を下に見ているから、常に尊大で、それを隠すことはあっても、改めることはないのです。
 
でも、
人のことを
とやかく言っても仕方ないかな。
 
今まで、散々、呪いのように、とやかく言った後で、これを書くのは、冷静を装って柔和に見せかけるためです。普通、批判されたら、弁明し反論をするか、わけを聞いてくるか、投稿を控えるはずです。楽山、シャロームは、弁明も反論もできないので、婉曲的な当てつけをしてきます。
 
つまり、楽山の言説には、一貫した理路も情緒もないということです。言い換えれば、発言が、一方的で、かつ、その時その場の自分の都合によって、変わります。こういう人は、信用できませんし、こういう人を相手にしてはいけないのです。
 
まずは自分自身が、
人をむやみに裁いたり、
神の心を分かったつもりになって、
神は誰を救い、誰を救わない
などと言ったりしないように、
気をつけよう。
 
言ったりしないように気をつけるよりも、言われないように気をつけるべきです。宗教には、偽者やカルトが、付きまといます。無条件に、言わないようにしようと言う者は、大方言われている者であり、言われる理由がある者なのです。今まで、ずっとそうでした。
 
どうか、この、楽山という自己愛・自己中のペテン師に近づかないでください。今までのことから、性根から腐っているとしか思えません。だから、どんな善の芝居もするでしょう。そういう者を偽善者と言い、楽山は典型なのです。
 
ていうか、
考えてみれば、
自分も宗教にハマっているときに、
人に対して、「地獄行きだな」と言ったことがあったのだった。
自分はこのことはすっかり忘れていたのだが、
ずいぶん経ってから、当人から、次のようなことを言われて思い出した。
「ずっと前に、おまえから、地獄に堕ちると言われたことがあった。
あの時は、ぶんなぐってやろうと思ったぞ」
 
「ていうか」と若者を装っていますが、そんなに若くはないと思っています。
 
この話・・本当でしょうか。これも、芝居ではないでしょうか。不都合を無視する楽山です。ただ、何かを言って、それを、反省も訂正もしないだろうから、そのために怒りを買うことは、あるかもしれません。
 
シャロームは、最近の記事で、私のコメントを承認しないまま、他の人とは、丁寧語で返していました。その嘘吐きで隠蔽魔で削除魔のシャロームに、理路を弁えないで無条件に味方をしたのは楽山です。それ以降・・発言の信頼度はゼロになっているということです。
 
これは今、思い出しても恥ずかしくてたまらない。
胸がどきどきして苦しくなって、ご飯が食べられなくなるくらいの恥ずかしい。
恐らくは、この他にも、自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろうし、
ひたすら反省である…。
 
「恥ずかしく」「苦しく」「ひたすら反省」「自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろう」「ひたすら反省」、・・総て芝居だと思います。根拠は、芝居がかっている、ということと、言葉だけ言ってみても、今まで、これらに相当する心が表れたことはないからです。
 
今回、楽山が、この記事を書いたのは、前の記事を私が批判しているからでしょう。受けを一足飛びに、よくして、善人ぶる必要があったのでしょう。そういう理由と因果があります。
 
笑いと怒りしか感じない、その体質だけが今までの記事に表れてきた、楽山とシャロームは、書く記事も、上からの嘲りが怒りの裏返しになった大仰なものです。この辺も、シャロームの讃美口調に、よく似ています。
 
それに、「ご飯が食べられなくなるくらい恥ずかしい」そして、罪を認めるような話で、罪を認めているなら、今までにも、そういう話が出てきているはずです。それに、ボンヤリ言語による暗示の刷り込みをする必要など全くないのです。
 
人間にとって、罪や失敗のたぐいは、大小含めると、稀ではありません。今になって、山盛りの形容といっしょに、どどっと書いてくることこそ、怪しいと思わざるを得ません。
 
今さら、言葉だけ、謙虚を装っても、実質がないのです。芝居がかった、わざとらしさ以外、ずっと、私が見る限り、どこにも謙虚さは書かれていなかったのです。その体質から、急ごしらえのフィクションと受け狙いの芝居ではないかと思います。狼と少年に似ています。
 
例えば、シャローム、楽山が、悲しくて泣くシーンを想像できません。悲しくて沈んでいるシーンも想像できません。ずっと、人を食っている態度だったからです。私は、それで、批判を始めて、かつ、続けているのです。
 
つまり、心を痛めて、胸がドキドキ、ご飯が食べられない、などということとは無縁の尊大さを、示してきたのが、シャローム、楽山、易坊なのです。形容・修飾が多ければ、真実味が増すとは限らない例でしょう。
 
さらに、今回批判するために見てみると、末尾に、前は、わざとらしく「とほほ。」と書いてあったのを、「…。」に書き換えたようです。
 
とはいえ、以上は、もう一度言いますが、今までの経過を根拠とした推測です。弁明と反論をするかどうかは、楽山が決めることです。ただ、一時しのぎだと判断されたときには、今まで以上に、より巧妙で悪質な嘘を吐いた、という証拠になります。
 
楽山は、「罪はたくさんあるだろう」という罪を認める発言、これは、信仰の告白とは違って、今までにも、嘘として表れてきたことです。信仰にも良心にもよらずに、赦される必要を、あざ笑っているのです。真に受けないでください。楽山は、嘘を吐き過ぎました。
 
 
さまよう怨念

さまよう怨念
 
 
(2019年06月25日、同日一部修正)
(2021年10月05日、再録+)
 
 
 
  千巌山
 
昨日癒えた傷が
今日はまた開いて血がにじんでいる
 
千巌山へは永遠に行けないと思ってしまう
展望台の壁に書かれた落書きは
どこの老人会だったか
 
血の味は知っている
臭いに近い味だ
血が命の流れなら
今味わっている血は既に死んでいるのか
 
高い山ではない
車を降りてしばらく歩く
頂上付近が吹きさらしの
岩山になっている
来た人は皆吸い込まれていく
目をやられるのだ
 
自転車に撥ねられること数回
鼻血は数知れず
予感がすると必ず出てきた
運動場の隅の日陰で
子供のころ恨めしげに見ていたのは
 
松の木と岩
レストランも何もない
小さい展望台は
こぞって押しかけるには狭すぎる
 
群衆を拒む岩場の狭さから
天草五橋が全部見えるほどの広さに
視界を空や海に入れて
うっかり見渡せば
魂を置き忘れてしまうのだ
誰も景色になれない
 
抜いたはずの歯に
かけらか何か残っていたらしい
歯を磨いて歯肉をこすって
血まみれになった口内から
うがいをして吐き出せば
命を奪われた血の海が
渦を巻いて吸い込まれてゆく
 
この世の果て
 
以来
命を持って流れる血を見たことがない
 
 
  耐えてひるまず
 
虐げられたという怒りの前に
なだめるように墓標は立つでしょう
虐げたことは一度もないと言えますか
 
そして哀しげに見回すでしょう
恨みを晴らしたいのですか
それとも不正をただしたいのですか
恨みを晴らしたいのなら
怒りに身をゆだねるのが早くたやすいこと
 
しかしもし不正をただしたいのなら
いかなる闘いにおいても
人が人を切ることの恐れと罪を知り
できるかぎりの義を足場とするべきでしょう
 
怒りは怒りを生むだけだから
いかなる不幸を前にしても
最後まで耐え忍ぶべきことがあるはずです
あらゆる理不尽と不正と
差別と犯罪に対して闘うことを
勇気と呼ぶために
 
主イエスは言われました
「心の柔和な者は幸いである」
そして命を賭した柔和さを示されました
 
この身はたとえ死の谷を歩もうとも
墓標の石板に
それら勇者の名は刻まれる
人には悲しい戒めのように
 
ディスクリミネーション
クライム
耐えてひるまず
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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  議論と保身(11)2
 
 嫌われる勇気
 楽山ブログのコメント欄の続き。
 私のコメントは、大方、記事用です。一部編集。
 批判対象:楽山と、シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼 )
  を改めて批判。(名前)のないところが今回の加筆。
 
 
前に、楽山、シャロームと、遣り取りがありました。シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい・・などと言ったことから、偽キリスト者、偽牧師であることがバレています。
 
(私)
だんだん、本性を表してきました。楽山とシャロームの意地の悪さが全開です。
 
(楽山)
stさんの意見は、的外れのことが多いけれども、
その原因は、この辺りにあるのでしょう。
気の毒なのは、
stさんは、構造、本質が分からないために、
自分が的外れなことを言っていることも分からず、
それがために、
なぜみんな自分の意見を理解してくれないんだという
不平不満、苛立ちを抱えているだろうということ。
 
これが楽山の筆致です。相手を可哀想な人に仕立ててきます。根拠のない決めつけです。
 
(私)
私が書く動機は、何度も言ってきたことです。不平不満や苛立ちではありません。
それが、文章から分からないのは、楽山の読解力不足です。
それに、最初から、あなた方の話で満足できる人は、いてもお仲間だけだと思っています。
 
私は、何度も言っていたわけです。
 
(楽山)
これは本当に気の毒だけども、
本人が気づかない限りは、
外から何も言っても無駄であるし、
誰にもなんともできないのだから仕方がない。
 
楽山は、丁寧語で、ボロクソに言っています。
 
(私)
仕方がないと言いながら、なお、おとしめてくるのも、
批判する大きな動機にも理由にもなるでしょう。
楽山は、化けの皮がはがれて、もろに侮辱しています。
 
(楽山)
stさんが、他人の意見に素直に従うタイプであれば、
別だろうけど、
 
楽山は、奴隷を集めているのでしょうか。
 
(私)
楽山が「他人の意見に素直に従うタイプ」と言っているのは
騙されやすくて従順な犠牲者のことを言っているのです。
 
(楽山)
そうではないのだから、傍からはどうもできない。
結局は、stさんと話しても徒労に終わるという結論になる。残念。
2019/8/30(金) 午前 9:39[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
残念と書いていますが、私のほうは、徒労は承知の上で書いています。
ある時点から、言っても無駄だろうとは思っています。
批判として、有害で邪悪な言説に、貼りつけるやり方です。
 
楽山に、誰も近づかないようにと願っているわけです。
 
(楽山)
>shalomさん
私の方でも、この辺りで終わりにします。
あとは、stさんに反論してもらい、
記事保存、ブログ整理するだけ。
最後まで、
優しいお心遣い、ありがとうございました。
2019/8/30(金) 午前 9:46[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
偽善者同士の仲間ぼめは、何とも言えない気色の悪さです。
(私)
楽山とシャロームは、和みに誘ってきますが、決して和んではいけないブロガーです。
 
こういうところから、楽山とシャロームは、同一人物ではないかと疑うようになります。PCが2台以上あれば、できることです。
 
(楽山)
stさんの反論があったら、
それでコメ欄を閉めて、コピペ保存するつもりでしたが、
相変わらず、おかしなことばかり書いてます。
もうそれらをいちいち指摘する気にはなれませんが、
分かりやすい箇所を少し書くと、この辺りです。
2019/8/30(金) 午後 1:26 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
>おかしなことばかり書いています
 」
このようにカルトの浮かれ具合は、侮辱することしか出来なくなることに表れてきます。
このような人たちに、誰が導かれたいと思うのでしょう。 
 
(楽山)
「 
>>stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた。
 」
>楽山から「愚か」も飛び出してきました。丁寧な楽山の、面影はありません。
こういうことなんです。
2019/8/30(金) 午前 11:19st5402jp
 」
私は自虐的なことは、わりとよく書いてます。
自分のことを、愚か者、迂闊者、ばか…いろいろ。
だから上の文章は、いつものことです。
でも、stさんは、どうも
私がstさんのことを「愚か」と言ったと誤読してるっぽいです。
stさんはこの手の勘違いから
ああだこうだ騒いでることが、ちょいちょい見受けられます。
2019/8/30(金) 午後 1:27 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
誤読ではなく、楽山は、相手と遣り取りする自分が愚か、ということは、相手にしてはいけない愚かな者を相手にしているからという侮辱になることを知らないようです。言葉の表面しか理解できず、人の気持ちが分からない者の特徴が出ています。
 
(私)
楽山が、文脈とも筆致とも理路とも言わず、構造と言ったのは、
ニュアンスが把握できないために、機械的に考えているからのようです。
日本語のニュアンスが分からない人のようです。
これは、自虐に見せかけた侮辱です。
「stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた。」
つまり、あんな奴と付き合ってる自分が嫌になったというのと同じで、
では、stについては、どう思っているかと考えてみると、
相手している楽山自身が愚かに見えるほどに、愚かだと言っているわけです。
決して自虐ではありません。いや、寒気がするほど、悪質な言い方です。
 
(楽山)
>マリアさんは、モラハラ男は拒否するという当然のことをしただけ
 」
>楽山から「モラハラ男」とか飛び出しました。
>2019/8/30(金) 午前 11:19st5402jp
 」
stさんのなかでは、
私は「モラハラ男」は使わないことになってるのでしょうか。
モラハラ男、DV男…普通に使いますけどね。
 
ふつうに相手に向ける言葉ではありません。人間離れした楽山の常識のなさが表れています。
 
(楽山)
モラハラ野郎、DV野郎でも使えます。
マリアさんの記事を読んだら、そういう感想を持つのは当然でしょう。
ここは何というか、
楽山のまちがいを批判するというよりも、
楽山のことは全て否定したい、ケチつけたいという本音が、
あからさまになってしまってます。
カルトだから批判するのでなく、
憎くてたまらないから批判するという感じ。
これは恥ずかしいことです。
2019/8/30(金) 午後 1:32 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
楽山が丁寧ではなくなったことを言ったのですが、
「モラハラ男」のどこが普通なのでしょう。蔑称というものです。
楽山の丁寧な言葉遣いが嘘だったという意味です。
やさしそうな言い方をしてきた楽山が
野獣の本性を出しているだけだから分からないのです。
(私)
侮辱しかできないため、侮辱の度合いを酷いものになっています。
これが、ケダモノの性根というのでしょう。
嫌悪感は、半端なくありますが、憎しみではありません。
憐れみでもありません。この者たちは公共での話をする資格がない
という実感です。
 
(楽山)
上の点について、
stさんは、修正釈明するかしないか自由に決めてください。
その後は、コメ欄は閉じて、stさんとの交流は終わりとします。
2019/8/30(金) 午後 1:33 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
相手が悪いと決めつけたうえで、修正釈明する自由と修正釈明しない自由いう選択を与えていますが、楽山が決めることではなく、余計なお世話なのです。言えることがなくなっている表れです。
 
(私)
俄然、命令調になってきた。
ふざけないでください。荒らしの本領発揮の筆致が出ているということは、
今までの丁寧な書き方が読者を騙すための三文芝居だったということです。
野獣登場ということです。あなたは、そういう人。
 
(シャローム)
> st5402jpさん こんにちは
 
(私)
この白々しい挨拶のことを言っても、同じように書いてくるのは
底意地の悪い証拠ですが、前にも書いたと思うが、
シャロームは、またしても、むしろあざ笑うかのように挨拶を入れてきます。
これが、シャロームの、不感不応のモンスターたるゆえんです。
 
(シャローム)
「(私)
私が書く動機は、何度も言ってきたことです。不平不満や苛立ちではありません。
それが、文章から分からないのは、楽山の読解力不足です。
それに、最初から、あなた方の話で満足できる人は、いてもお仲間だけだと思っています。
2019/8/30(金) 午前 11:37st5402jp返信する」
 」
長いお付き合いですが、stさんの批判に同調し、支持し、交わりを続けている方はおられますか。
stさんの執拗なたくさんのコメントを読まれ、stさんにやめるようにたくさんコメントされた方を思い出しますが、stさんも覚えていて、それらの人はみんな荒らしであって、私のなりすましであるとか、仲間であるとか繰り返し書いておられますね。みなさん読解力がなかったのでしょうか。
2019/8/30(金) 午後 1:58 [ shalom ] 返信する
 
(私)
私は、シャロームと楽山をいっしょに批判しよう、ではなく、何よりも二人に関わらないようにと、いつも、お願いしています。だから、シャロームに関わる人が少なくなればよいのです。いなくなれば、もっとよいのです。
(私)
数を頼むのは、下種の勘繰りです。私に、批判をやめるように言ってきた人は、事情をよく知らないか、シャロームの丁寧語に騙されている人です。シャロームは、悪性度が、普通とは違うのです。そのことが、このシャロームの嫌らしい嘲りのコメントに表れています。そして、シャロームにだけは、分からないのです。
(私)
シャロームは、お前には仲間がいないだろうと、私をおとしめています。
神に従っている人は、このような、自分のほうが偉いみたいな言い方はしません。
シャロームが、神もキリストも聖霊も信じておらず、恐れてもいない証拠です。
(私)
カルトには仲間がいるものだから、このように、
仲間がいないだろうと、侮辱してくるのは、今に始まったことではないのです。
シャロームの本質は、他者を下に、自分を上に置くことだという表れなのです。
仲間が多いかどうかで、測れると思っている偽善者の吐く息を覚えてください。
 
(シャローム)
stさんに同調し、支持し、私に対して注意された方のHNを教えてくださいませんか。私は一度もSTさんのきびしい度重なる警告にもかかわらず、一人もおられませんよ。
 
こういうとき、誰々とHNを書いてしまうと、その人が攻撃されて、大いに迷惑するわけです。実際は、私は、今のところ、一人であり、独りであり、その方が、自分の言葉を鍛えながら書くことが出来るので、誰かの助けは必要としていません。
 
さらに、キリスト者には、祈りがあります。祈りは一人でするものであり、そういう時間が大切で、そこで、一息ついて、かつ、内省することも、静けさのうちに、慰めを得ることもあります。
 
キリスト信仰の神は、キリストに表されたように、愛の神ですが、一方で、戒める神でもありますから、いつも神が自分の味方ということではないのです。しかし、神の前でのみ、人を気にせず、正直に告白できることがあります。
 
そこが、いつも訂正不能の妄想を味方とする楽山やシャロームとは、根本的に違うところです。
 
(私)
シャロームは、私が孤独であることをもって、仲間のいる自分を誇っているのです。このように、数に物を言わせることが、何よりも、シャロームが下種であることの証明なのです。
(私)
こういう、卑怯で、低劣で、嫌らしい皮肉を言ってくるのが、化けの皮の剥げつつあるシャロームの特徴なのでしょう。もっとひどくなるでしょう。
(私)
真実は、孤独のうちに、目覚めとして、開かれるものです。
シャロームのように、誰かを騙して、誰かに褒められて、開かれるものではないのです。
ましてや、シャロームの最悪な皮肉や当てつけで、真実が明らかになることは永遠にないのです。
 
(シャローム)
確かに自由さんは初め、私のコメントが皮肉のようで、そんなコメントがSTさんの批判を招くのではないのではないかと注意されたことは覚えています。
 
(私)
批判というものは、特に務めと意識している批判者にとっては、偽善者のコメントなど、全く当てにはしていないのです。
 
(シャローム)
はじめ好意的にstさんにかかわっておられた方は私がSTさんの思いや気持ちをよく理解されると思ってSTさんに紹介したverさんと今から一年ほど前から関わりが始まった自由さんでしょうか。
しかし残念ながらおふたりとも結果はご存知の通りです。
いくつものブログを開設して、つづけるのも大変でしょう。
stさんも5402生まれなのですから、若いとは言えませんが、徒労に終わるのではないでしょうか。
それともまた新しい人を探し出して続けられますか。
続けるのも自由、やめるのもSTさんの自由な意思にかかっているのであって、誰の責任でもありませんよ。
Shalom!
2019/8/30(金) 午後 1:58 [ shalom ] 返信する
 
(私)
ずっと前に関わった人のHN"ver"を持ち出してきました。手段を選ばないシャロームです。"ver"がシャロームを批判できなかったため、シャロームは、ネット寿命を延ばしていますが、それを、まるで、正しいことであるかのように言っているシャロームの無反省は、妄想宣伝家の、パリサイ人以上の偽善者ならでは・・なのでしょう。
(私)
この「Shalom!」という挨拶も、嫌がらせとして、いつも付けてくるのです。
シャロームは、悪意の人、時々の最後には脅迫しか手段がありません。
侮辱して悦ぶサディストだと書いたのは間違いではなかったようです。
(私)
そして、恩着せがましく、丁寧語で、お前しだいみたいなことを書いてきます。
この丁寧語に騙される人が、いなくなることを祈り願って止みません。
(私)
私は、もとより、孤独を覚悟の上で、批判しています。新しい人を探し出して世辞を言って、認められたがっているのは、シャロームに他なりません。
(私)
私の自由は当たり前のことです。言論の自由を勝手と勘違いして、言論の責任を負わないシャロームは、長きにわたって、嘘八百の妄想を宣伝してきました。総ては、シャロームの無責任で起こっている闇の不祥事を、私は、私の責任の範囲で批判しています。
 
verさんは、神学者のようでしたが、知識があったと思うけれど、なぜか、シャロームに反発することが出来ないようでした。こういうことから、キリスト教を悪用する、楽山やシャロームを含む群れか、同一人物の成りすましか、という推測になってゆきます。
 
シャロームは、社交の世辞で物を言うので、シャローム批判を始めた頃、別の人から、失礼なことを言ってる・・というコメントをもらいました。また、楽山には、やさしいお人柄・・というコメントが寄せられていました。ここが、脅威となり得るところです。
 
詐欺師は、うわべだけ、やさしいのです。そういう言葉に、人が弱いことも承知の上なのです。今の時代、だまされないための教育・・なされているでしょうか。そのためには、必ず、人の言うことを、鵜呑みにするのではなく、真意、深み、文脈を読み取ることが必要になります。
 
シャロームshalomは、平和という意味のヘブライ語の挨拶の言葉だそうです。楽山は、中国の観光地の名前から取ったのでしょうか。いずれにしても、あくどい2人、というより、同一の一人かもしれません。楽山は、他にも、多数のHNを使っています。
 
 
楽山の名は、隆かもしれません。それで、ツイッターの raku も taka も、楽山である可能性が高いです。筆致や内容も、ほぼ似たような方向性で、内容が薄く、ゴシップや興味本位のものばかりです。つまり、何かを真剣に考えて思想をまとめるということをしない人です。ひやかしだけなのです。
 
このシャロームと楽山の思想には軸がなく、ゆえに広がらず、その場その場で、体のよさだけを書き、真っ当な理路もなく、一定の結論もなく、いいかげんな先細りに終始します。求めているのは、分かっているらしいと受け取らせて好意的なコメントで満悦したいだけなのです。
 
ゆえに、言ったことに、一切責任を負いませんし、反省もしません。その時、その場限りで、言いたいことを言い、後は、大方、忘れているのだろうと思います。じっくり考察して真実を追求する人ではありません。自分の満足だけを求める自己愛性人格障害だろうと思っています。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自己中のために、自分を見ることが出来ません。自分というのが既に完成している病状で訂正不能だからです。ちゃんとしていると見せかけるために、反省、共感、とほほ、痛い、などという言葉だけを書きますが、反省も共感も後悔も出来ない人です。
 
信仰は、神の辻褄を分かることではありません。キリスト教の信仰は、聖書に表されたイエス・キリストに惹かれることです。悲劇が起こっているのは神のいない証拠のように言うのは酷い的外れです。逆であって、悲劇が起こっているから支えが必要だという動機から信仰は始まります。
 
キリスト教批判には多くの共有できる実がありますが、楽山の言には実がありません。信仰を受け取る心の問題を、楽山は、全く理解できません。出まかせの幼稚な辻褄で欺いて、他者の信仰とその始まりを妨害しているのが、楽山であります。楽山とは意見交換が成り立ちません。
 
キリスト信仰者は、神の辻褄によって信じるのではありません。ゆえに、神がどうのと、辻褄ばかり語っている楽山は、だいたい無神論者でさえありません。楽山には、いかなる論も成り立っていません。小学生が、屁理屈を繰り返して駄々をこねているようなものです。
 
信仰は、理屈では表せません。信仰は、人間らしい温もりと潤いを持った心で受け取るものです。もちろん、受け取らないのは、個人の自由です。しかし、受け取っていないのに、文句だけ言って、信仰と神を、机上の空論として扱う弊害をもたらしているのが、楽山その人であります。
 
真実の信仰者からは、体験と心情が表れてくるでしょう。偽信仰者もたくさんいて、シャロームがその典型です。楽山と同一人物かもしれません。宗教と信仰を、手のひらで、机上で、語れると思っているこの二人には、どうか近づかないでください。信仰について恐ろしく愚鈍なのに執拗です。
 
 
毒満ちるまなこの裏

毒満ちる まなこの裏
 
 
(2019年09月07日)
(2021年09月15日、再録+)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
(昔々・・)
 
 
 
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  個人カルトの惨状2
     以前の記事とダブっているところがあります。
     改めて考えてみます。
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活がなくてはならない、と信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中が増えてきて、人間と人間は、なかなか一致しないものですから、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えて、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。言動が合ってないような気がするとき、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能の固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、怒り恨んで人のせいにするでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (漱石4:5-7、旧約聖書)
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、不都合で怒り、他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて、絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって、好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての関係です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように、恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ信じ方の形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。信仰の目覚めには、このことに気づくことが必ず含まれると思っています。どうか人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 
個人カルトの果て2

個人カルトの果て
 
 
(2019年07月17日)
(2021年08月03日、再録+)
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前に、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前でも、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 
批判してきた約2年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけなのです。
 
 
 
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  知るべきこと(再)2
 
 
旧約から信仰の節操を学び
新約から信仰の愛を学ぶ
 
旧約聖書から
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神のあり方を表す言葉を受け取ることは
それを理解することではなく
(人間に理解できることではない)
神と人の決定的な違いを
創造主と被造物の決定的な違いを
あくまで人の側において学ぶことである。
 
神に対しては
人のいかなる自信も自慢も通用しない。
人のいかなる知性も感性も
そして、いかなる偉業と呼ばれるものも通用しない。
神に対して人が捧げて届くのは
正直な告白のみである。
 
それ以外は通用しないことを学ぶ。
これを信仰の節操と呼ぶ。
 
新約聖書から
救い主イエス・キリストの神性を学ぶことは
それを理解することではなく
(人間に物や肉体の奇跡は理解できない)
またそれが自分に起こると信じることでもなく
(自分に神の行為を結び付けるのは人の傲慢である)
神性が人間性の低みに身をおろした
ということを
あくまで人の側において
人間性に相応しい理解をすることである。
 
すなわち
キリストの洞察力と共感力を知り
またキリストの同伴の恵みを知ることは
信仰の愛を知ることである。
 
信仰の愛を支えとして
信仰の節操を弁えながら
耐え忍んで生きるのがキリスト者の道である。
 
 
 
神の意志と行為を決めつけて
奇跡による救いを信じるのは
神への冒涜であり偶像崇拝である。
 
信仰は、唯一、
神と人の違いを弁える節操において
厳しいと知るべきである。
 
神は友達ではない。
神は
やさしいおじさんでもお爺さんでもない。
偉い御方にとどまる者ではない。
 
絶対の正義に人間は耐えられない。
ということは
神はご自身のような正しさを人に求めてはいない。
 
神を信じるという信仰は
神の前に偽りが通用しない
ということを信じること。
 
それが神を恐れるということ。
 
神は
その初めから終わりまで
在って在る者、
人知を超えた理由とあり方で
創造主であり万物を統べる御方である。
 
 (出エジプト記、口語訳)
3:13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:13-14、旧約聖書)
 
キリストは権威ある仲保者である。
神と人の間をとりなす御方である。
ゆえに人間に共感し
その苦しみを負われた御方であり
命を惜しまぬ愛を
罪深い人間のために捧げた御方である。
 
贖罪の教理を知っても
キリストの愛を知らなければ信仰ではない。
 
キリストの愛に答えて
キリストを愛するのが信仰である。
 
贖罪の教理によって
いつも赦されるから無罪であるかのように振る舞うのは
神への直接の背きである。
 
信仰は
いつも喜びだけを与えるわけではない。
信仰は
むしろ悲しみを通して成長するために与えられている。
 
いつも喜んでいるように振る舞うのは
迫害が迫る時代と違って
現代においては、大方、嘘であり
神の前に嘘は通用しない。
 
そのようなあり方は
祈りの体裁だけを整えることであり
それによって信仰は少しも整うことはない。
 
信仰は
神の言葉だからと
聖書の文言だけにこだわることではない。
それは教条主義に陥る。
 
信仰は
聖書を興味本位に読むことではない。
黙示されていることを知ろうとするのは
信仰ではなく興味に過ぎない。
 
聖書は暗号の謎解きのために書かれてはいない。
信仰が難しい謎解きを必要とするなら
いったい誰が救われると言うのか。
 
聖書は人間のために
信仰を伝えるためにのみ書かれている。
 
信仰者を信仰にとどめるのは
キリストの愛に答える信仰者の愛であり
それゆえ人が道を外れても
神の全能もキリストの愛も滅びることはないのだから
正直に告白して赦される道は
神の側から断ち切られることはない。
 
偽善者と背教者は
悔いることがないゆえに救われないのであって
 
神が人を見捨てることはないのである。
 
神の愛は節操のみにおいて
この上なく厳しく
キリストのもとに帰る恵みにおいては
この上なく寛容である。
 
 
(2019年07月16日)
 
 
シャローム:
批判している途上で、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、キリスト信仰とは正反対の信条をあらわにした。これ以後、反キリストと見なしている。
世辞と、おとしめ言葉を、同じコメントに書いて、不自然さを覚えない不感不応の、偽善者であり、サイコパスと見なしている。
 
易坊:
シャロームとともに、私の、当時のヤフーブログを荒らして、50~100コメ超の遣り取りを強いてきたカルト的荒らし。サイコパスとしか思えない。
 
楽山:
無宗教を気取りながら、ときに、反キリストの記事を書き、キリスト教をおとしめてくる。また、一方では、キリスト教的な祈りのような文言を書いてきて、理解者を気取っている。主張が一定しないが、唯物論や進化論を用いて、神信仰を否定するのは、やはり、反キリストとしか思えない。
 
その後の、訂正不能、自己愛性の人格障害、学習不能、無反省、などによって、サイコパスと見なしている。楽山は、自己中カルトのアドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた。それは、楽山の自己中カルトとして、今も、様々な詭弁を弄して、続いている。
 
シャローム、楽山、易坊については、一人による成りすましの疑いもある。
 
自称マグダラと自称ヨシュア:
この二人は、最近、ご無沙汰である。
ヨシュアは、戒めを守って完全になれるのです、などと豪語して、私が批判していると、しばしば、私の個人情報を出してきて、発狂するかのように、私のことを、ダメ人間、精神病などと罵り、罵詈雑言を並べた。
自称マグダラも、同様に、批判すると、別人のように、攻撃的になるが、プププ、ケロッ、などと、奇妙な台詞を吐きながら罵る。俗的な意味で、ヒステリックである。
この二人については、一人の成りすましを疑っている。
 
アドラー心理学:
私は、カルトだと思うので、アドラー教と呼んでいる。気に入らないことは無視しましょう、あるいは、私の課題ではありませんと無視することを、誘い文句として勧めているので、"日本人アホ化計画" を企てているカルトとして批判している。楽山は、その宣伝者であろう。
"無視" がもたらすものは、学習がないために、成長しなくなることで、恐らく、人の気持ちの分からない、知性と感性が鈍麻した、ぼうっとした自己中人格に帰結するのだろうと思います。
 
以上の者たちは、私が死んだ後も、生き続ける者たちです、巻き込まれることのないように気を付けてください。
 
個人の人生の最終的な闘いと、人類の歴史の最終的な闘いは、人の世界の現象としては、恐らく、普通の良心と、サイコパスとの闘いになるでしょう。
 
 
私に誤りがあれば指摘してほしいと思いますが、私は、人間としての標準的な理路と、信仰者としての直観的および直感的理解に基づいて書いています。修正し改めるには、自他からの説得力を持つ説明~批判が必要です。なお、楽山のような嘘と詭弁だらけのは、批判とは言いません。
 
 
直観・理路、直感・共感、絆(きずな)

直観・理路、直感・共感、絆(きずな)
 
 
(2020年07月16日、一部修正して再録)
(2021年07月17日、再録+)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる思考実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
 不信仰告白
   (キリスト以外の
    神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
アンバー
@cult_of_happy
·7月14日
HSに関して言えば信者が対立するのは当たり前なんだよな
言ってる事とやってる事が違う、言ってる事がコロコロ変わる、反社的な事も肯定される場合がある…
こんなの自分の主張をどこに置くかで誰とでも対立する
更に絶対正義を体現してる気でいるから妥協したり折り合い付けたりできない
午後11:52 · 2021年7月14日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山の非常識と病質を批判しています。楽山は、無反省のために学習ができず、ゆえに、成長せず、誰とも意思疎通と共感が成り立ちません。それを何度指摘しても、人の意見を受け取らず、考えることもなく、病魔の因業を繰り返します。
 
ツイートの内容は、楽山の言動パターンに似ています。楽山は、キリスト教と信仰について、否定したり肯定したり、全く一貫していないにもかかわらず、自説を反省して、まとめたり訂正することも出来ません。成長がないので、説得力もなく、同じような非常識で不誠実で表面的な言説を繰り返します。
 
楽山は、自分の主張に満悦してしまって、これなら分かるでしょ、なぜわからないの?、・・みたいに、自己の正当を疑いもしない人です。たぶん本気でしょうから、自己愛性人格障害NPDだろうと思います。自己愛性は、学習しない、成長しない、発展しない性質です。
 
人格と能力に何の根拠もなく、一人前を装う人がいます。関わってはいけない人です。
 
 
※ 
 
夜遊びする子供に、ああせい、こうせい、勉強しろ、とか言ったら、子供にバカにされて、そのあと言ったこと・・「このオレが説教か・・」と自嘲して吐き捨てる、これ、映画「ロッキー」の中のセリフ字幕です。私は、感動しました。
 
偏屈でいいんです。視野が狭いでいいんです。その自覚さえあれば、立派に面白く生きられます。
 
 
 
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  悪用する楽山
 
 念仏を悪用する善人?
 (『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著)
 楽山日記(LD) 2021年06月16日
  を批判。
 
楽山は、字面の机上の表面的理解?だけですから、実質が何もないということだけが表れてきます。キリスト教において、そうであり、今度は、仏教において、また、同様です。言ってることと、してきたことが、まるで、整合しない、という病的な人物の日記です。
 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』を読んでいたら、念仏について書いてあったのでメモしておきたい。
まず念仏には、次の誤解がつきものだったという。
「どんなに悪いことをしても、死ぬ前に念仏を唱えれば阿弥陀さまが救ってくれるんですよね。じゃあ、どんどん悪いことをしちゃいます。よし、おまえら! 偉いお坊さんのお墨付きが出たぜ、ヒャッハー!」
(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著、河出書房新社〈河出文庫〉、2018年、p.382)
 」
 
楽山やシャロームの意地悪な笑いじゃあるまいし、念仏を唱えれば何をやってもいい、なんてことは、恐らく浄土宗・浄土真宗の人も考えていないと思います。楽山は、今度は、すさまじい仏教への侮辱です。楽山は、野良犬から、狂犬へと向かっているようです。
 
ヒャッハー!・・は、楽山の笑いでしょう。また、楽山へのブーメランか吹き返しとなっています。いかなる良書も、自分を飾り正当化するためだけの、言葉あさりとなってしまう楽山には、実りなき砂漠の乾燥した痛い風が、返ってくるだけなのです。
 
しかし実際のところ、「そういった誤解をする者は、すべて「(親鸞が言うところの念仏の効能が働きにくい)善人」なのだという。その理由は次による。 
なぜなら、彼らは「他人に迷惑をかけようと、最後に自分だけが救われればよく、それが賢い『うまい生き方』なのだ」という価値観を持っており、その価値観のとおり「自分が正しいと思うこと」をやって満足しているのだから、実際には悪事を働いていようとも彼らは「善人」であり、「他力」の境地にいたることはないのである。
(同上、pp.382-383)
 」
なるほど、悪人正機説でいう悪人は、罪の自覚が強くあり、正しくありたいと願いつつも、それができず、残された道は他力にすがるしかないという心境にある者とすれば、上の念仏を誤解する者は罪の自覚なく、他力にすがることもなく、自分で自分の生き方を決定できると思い込んでいるのだからそれとは正反対である。
 
恐らく、親鸞の言う善人は、善人の自覚だけか、偽善者に近いのではないかと思います。人間が、完全な善の人になることは不可能です。私たち人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思って傷つけることがあり、善とは言えないのです。
 
ゆえに、悪人、そして、罪人の自覚は、最低限、必要なのでしょう。その自覚のベースにおいて、キリスト信仰においては、赦しと祈りがあるわけです。それを、全く自覚しないで、無反省と無責任の生き方をしている楽山は、対立軸以外の意味はありません。
 
楽山は「自分で自分の生き方を決定」して、宗教をオモチャにしているのだから、仏教においても、キリスト教においても、正反対のあり方ということです。よりによって正反対の楽山が、他者一般のことを「正反対である」などと言うのは、自分を見ない者の宿命であり、とても、滑稽です。
 
「死ぬ間際に念仏を唱えれば救われるんだったら、それまでは好き勝手にヤリたり放題して生きようぜ」というのは間違いだと感じはしても、どこがどう間違っているかはうまく説明できなかったのだが、この解説を読んでよく合点がいった。いい気分。
とはいえ、この定義でゆけば、自分はまだまだ「善人」の傾向が強く、「悪人」になりきれていないのがつらいところだ。とほほ。
 
楽山は、そういう意味では、"善人" でもなく、罪人より悪質の、偽善者という言葉がぴったりなのです。それで、善が分かったとばかり「いい気分」なのです。自分を人間として俎上に載せることのできない自己愛性人格障害の楽山ですから、真剣味が表れたことなど一度もない人です。
 
詭弁屋そして嘘吐きの楽山の「とほほ」=テヘヘ(ごまかしウソ泣き)と思ったほうがいいと思います。病質者なので、書くことを止められないのです。おそらく、一生、しらばくれて、善人ぶっては、裏切り、疲労と徒労だけを他者に与え続けることでしょう。
 
楽山の今までを見れば、否定を言って、のちに反省も訂正もなく、肯定を言う繰り返しですから、矛盾であり、平気で言い続けるのは、責任感がなくて、高等感情もなくて、いい加減な人格であることを示すと同時に、内実は何もないということを示し続けているだけなのです。
 
 
自らの不毛を知らず

自らの不毛を知らず
 
 
(2021年06月17日)
 
 
 
  切符
 
前触れもなく場面が変わって
切符がない
切符を切る人もいない
大事な仕組みだったような気がする
探す街並みは区別がつかない
名前を忘れていることさえ忘れて
切符を探す
ここに住んでいる埃(ほこり)は
どこにでも入っていって水や油と親和する
埃を逃れて郊外へ続く道すがら
幾つもの大小の跳躍が道の限界を教えるが
切符さえあれば
切符
片道でもいい
なくした顔の数々を刻んで
切符
数々の挨拶を葬りながら
辿(たど)り着き立ち尽くす
廃線の廃虚の駅から
敷き詰められた砂利の下に
どこまでも続く線路が
片道切符を教えている
 
 
  烏兎怱怱(うとそうそう)
 
太陽が烏(カラス)だったころ
烏は金色の熱と霜を連れてきた
 
月が兎(ウサギ)だったころ
兎は満ち欠けと星を連れてきた
 
烏兎怱怱(うとそうそう)
 
兎は逃げて切り株に転び
逃げ回って草を食(は)むことに長じた
 
烏は人里を飛んで黒い雲に染まり下りて
啄(ついば)んで嘴(くちばし)を曲げた
 
日が昇ると人里に幾つもの縮んだ瞳が瞬き
月が昇ると森に光る瞳が開くのだが
 
霜から泥濘(ぬかるみ)に落ちた
かつての縁(えにし)を
星はもう映さなかった
 
(90年代か)
 
 
 
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