ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:トホホ言語

 
  楽山の害2
 
 
この記事は、確定に至っておりませんので、今後、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
◯ 楽山の狡猾で執拗な詭弁:ボンヤリ言語による詭弁の刷り込み。
 
批判する意志を持たずに読めば、気づかないうちに、楽山を、そう言えばそうかな、みたいに、否定できないでいて、やがて、それが、受け入れ、肯定してゆくことにつながってゆくことになります。
 
丁寧語、ときに若者言葉、曖昧表現、社交の世辞、などを使って、はっきり言わず、先入観的な内容や印象を、刷り込んでゆくところの、ボンヤリ言語は、特に感動したわけでもないのに、いつのまにか、受け入れてしまうという事態を生じます。
 
犠牲者は、ゆくゆくは、楽山に似た人格傾向が表れると思います。つまり、全体に、うすぼんやりした発言しかしなくなる危険があり、それによって、楽山と同じように、自己満足して、刷り込みによって、責任を回避しようとすることになるでしょう。
 
楽山の、不感不応による無反省と無責任と無理解と他者の無視と同じような人格像に陥るかもしれません。曖昧にネチネチ言い張ることしか出来なくなり、言葉の使い方にとどまらず、人格そのものが鈍化してゆくでしょう。これは、成長の要素が皆無であり、人格破壊と言ってよいと思います。
 
似て非なる言葉の同一視による刷り込みもあります。例えば、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」「自分を貫く」といった平板で曖昧な妥当性からの、"自己中心" の正当化などがあります。実際は、上の3つは、個人の意志の尊重であり、自己中とは全く意味が違います。
 
楽山の、極めて有害で人格破壊的な詭弁としての、「と言えなくもない」「と否定できなくもない」「なさそうである」「相通ずるものがある」「ならなかったのではなかろうか」「かなあ」「ていうか」「なんだろうな」という言い回しは、責任回避のための、異常な婉曲表現です。
 
〇 楽山の反省芝居:トホホ言語による謙虚芝居。
 
反省、および、反省を表す言葉、実際に "とほほ"、自己否定的な言葉、これらは、総て、楽山の三文芝居です。
 
ゆえに、文脈において表現が浮いており、その前後においても、楽山は、何も変わっていないことが、流れの中で、判断の証拠となってきました。つまり、楽山は、平気で、利己のために、嘘を吐く男です。読んでいく時の、何とも言えない違和感・不快感に気づかくことが大切です。
 
楽山は、弱気など持っていません。弱気を表すのは、卑劣な受け狙いであり、ゆえに、極めて有害な、三文芝居による詐欺行為であります。つまり、楽山は、弱気どころか、真逆の、訂正不能の鉄面皮の、厚顔無恥であります。恐らく、高等感情の鈍麻から来ていると思われます。
 
楽山は、共感、深い、心から、感動、などという言葉を、わざとらしく書いて強調することがありますが、前後の文脈から乖離しており、それまでの記事の流れとも矛盾しており、作為的な、冷淡な人格を隠すための嘘なのです。
 
楽山には、しんみり悲しむこと、共感すること、などの深い情緒の感受性が、欠落していると思われるので、真に受けてはいけません。楽山の理路は幼稚で、簡単な理路を組み立てることも出来ないことが、深い理解もなく、気安く、オモチャを並べるような文章に表れてきたからです。
 
そのくせ、結果だけを、執拗に書いてくる筆致は、先入観に執着するだけの表れであり、訂正不能になっています。楽山は、学習しないから成長せず、都合の良い材料を、他者の文章から探してきて、そのまま、繰り返すしかなくなっています。
 
本を読んでも、新鮮な知識や情緒を受け取ることが出来ず、楽山自身の、軸のない先入観の固定観念に合うもの部分だけを、自分の好みで拾って書いて強調するだけになるのです。偉そうな人の文章を、偉そうに、分かったふうに、引用して論じているつもりになっているのです。
 
人間は、一生涯、学習し、反省し、成長する生き物です。そういう努力をしない者は、どれだけ、本の数を重ねても、どんな有名人の話を引用しても、努力したことにはなりません。本や有名人の名前を出してきても、信用してはいけません。
 
言論にしても、思想にしても、感想にしても、公表するだけで、賛否を問うて反省と学習をしなければ、思考の糧になることはないわけですから、楽山の無反省は、無意味で一方的な主張の繰り返しにしかならないわけです。それは、子供が、言い張って、聞かないのと同じなのです。
 
そういう者は、結局、よく思われるために、うわべを繕うことしか出来ず、そのために、数々の、嘘や詭弁や、権威や有名人の名前までも利用~悪用して、飾って、だますしかなくなるのです。悪用したとしても、ネットの片隅だから、迷惑行為もバレないと高をくくっているのでしょう。
 
それにしても、約3年も批判されて、まともに弁明できないくせに、反省もせず、修正もせず、嫌がらせのような記事とツイートを書いてくるだけで、答えにも返しにもなっていないのに、書くことだけはやめない高慢というのは、どう考えても、異常であります。
 
そう考えてゆくと、相当に、思想も精神も荒廃しているとしか言えない、というのが、今までの経過であります。つまり、飽くなき、無反省、無神経、無責任、無理解が、自己愛と自己中によって、無益な文章を書き続けている病質であろうと判断しています。
 
 
ネットですから、私は、楽山の書いた文章から判断しています。
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悪質な詭弁屋で、精神の詐欺師だという判断です。
 
楽山については、既に、批判する前の、だまされていた数か月を、私は経験済みですが、結局おかしいと気づいた時も、その後の、それぞれの記事を読んだ時にも、いつも、吐き気がして、加えて、ただの意見の相違にとどまらない、とても異常な疲労感を覚えます。
 
私自身への害だけを考えるなら、関わらず、批判を書かなければ済むことですが、それでは、キリスト教の信仰を、ほしいままに、おとしめる者がいることを知りながら放置することになるので、やせても枯れても言論するキリスト者としては、看過できないということであります。
 
こういう場合に、神の導きに任せる、などと言うことは、できることがあるのに、それを放棄することになります。キリスト者の実践的務めは、ただただ、できることする、ということに尽きます。ですから、何かできることがあるのに、しないというのは、明らかに、神の前に、怠慢であります。
 
この記事は、私レベルでも、確定には至ることはありません。今後、生きておれば、必要なら加筆して、再録することになりそうです。楽山は、偽善者の典型的な病質の実例なのです。
 
 
荒廃

荒廃
 
 
(2020年12月16日)
(2021年12月22日、再録+)
 
 
 
  慙
 
沸沸と込み上げてくる
筋を切り道を荒らし押しのけて
辻褄(つじつま)を引き裂きながら
 
胸を叩き頬を打ち
(過ぎた幸運は転落のための落差だ)
乱れた髪を何度も何度も
掻き毟(むし)るように掴(つか)む
疲れ頽(くずお)れて
眠る
 
暗い部屋に座して
項垂(うなだ)れている黒い影は
黒い雫(しずく)を落とす
涙でも汗でもない
影の雫を落としながら
毀(こぼ)れてゆく
 
自分の頬を自分の手で思いきり引っ叩(ぱた)いたことありますか
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の、誰にでもあるじゃろ・・という、ごまかしの言葉「自分もそんな風」「人間の性」という詭弁に、だまされないでください。実際には、詫びない、正さない、嘘ばかり、保身だけ、卑怯者、魅力の欠片もないという種類であり、質(たち)の悪い自己正当化なのです。
 
楽山、同一だと思われる、rakuは、リツイートで、ごまかしています。takaは、ブロックされたままのようです。(12月21日、午後12:53時点)
 
反キリスト楽山と偽牧師シャロームshalom というHNは、観光案内や、お店の宣伝や、趣味のブログに、似たようなHNやタイトルを見ることが出来ます。楽山は、最初から、そういうHNを選んで似せたのかもしれません。
 
 
 
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  楽山のインテリ気取り
 
 「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
 2021年08月06日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
前記事と主旨は変わらないようです。プロデューサー気取りで、最初に、書く時の注意したことなど、同じパターンの、書き方も同じような前書きがあるのですが、後は、だらだら長い長い引用だけで、結局、自分の見解は、何も書いていません。書けば、批判されるからでしょうか。
 
>この騒動における発言をまとめてみました。
 
何もまとまっていません。引用して並べただけで、まとめようともしていません。
 
だったら、記事自体を書くべきではないでしょう。資料としたつもりでしょうか。だったら、記事に納まるような量ではないはずです。私事を言えば、偽牧師シャロームは10年、楽山は2年半、資料となり、どちらも、とても一つの記事で表せるものではありません。
 
私の記事に書いたと思いますが、楽山の原始反応なのでしょう。書けば批判される、書かなければ満悦気分に浸ることが出来ない、ということで、ずっと前からの習性として、他人の口を持ってきて、書いたという充足感を得たいのでしょう。前記事と同じく、数年前の論争だそうです。
 
読もうという気にさせない記事です。しかし、勘違いした人が、長い記事書きましたね・・と思ってくれることを期待しているのでしょう。そして、苦労しましたが、一助となればと思って・・みたいなインテリ気分を味わいたいのでしょうか。まことに酸味に溢れる楽山です。
 
この異味と異臭は、楽山が、何も考えない、組み立てられない、書けない、責任負う気もないから自分の意見を言うとボロが出る、・・という現実と、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害NPDの内的欲求の間を、他人のコメントを並べればいいじゃろ・・と短絡した結果なのでしょう。
 
前置き以外は、うんざりするほど、引用が長々と続いているだけです。しかも、クリックで、さらに続きが見れるようにしています。楽山は、何をプロデュースしたのでしょう。自分はこのコメントを把握している、という、インテリに見せることでしょうか。
 
昔だまされて食べたことのある、祭りの出店の、タコの入ってないタコ焼きみたいなインチキです。楽山は、コピペだけを並べて、べったら漬けにしています。これも、インテロ楽山の専門分野なのでしょう。しかも失敗して腐臭ばかりを垂れ流すべったら余言者、楽山です。
 
 
 「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
 2021年08月07日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
その後も、楽山は、数年前の騒動について、執拗に、長いだけの、引用だけの記事を、アップし続けているようです。異様な長さです。狂ったのかと思いたくなるほどの、3つの、数年前の騒動の、引用だけ長い記事です。
 
楽山が勝手に無駄な体力を使っているだけで、これを読む人がいるのだろうかと思います。自己満足だけで生きている者は、こうなるのかと、楽山の症状を眺めています。
 
今回は、楽山のコメントもあるようです。楽山以前のHNは「自由」でした。それにしても、分かりやすさからは程遠い編集です。
 
*かわいそう
この記事を読むと、コウさん、ピッポさんが気の毒になってくる。
ガンさんの批判の仕方は、コウさん、ピッポさんの発言趣旨や、言葉のあや、話の流れなどにはあまり配慮せず、一部の問題発言を切り取り、教義的にダメ出しをし、そこからさらに推し進めて、全人格をも否定するというやり方だからね。これでは二人があまりにかわいそうだ。
 
登場人物の人格は知りませんが、楽山について言えば、批判するべきは、まさに、楽山の人格であり、つまり、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDであり、そこからの、詭弁、嘘、逃避、自己満足、無反省、無責任、などと言う、人間とは思えない異常性であります。
 
恐らく、人格異常は治らないでしょう。しかし、だからこそ、こういう異常者がいます・・ということを、批判記事として、当ててゆくしかないのです。関わると引き込まれ、疲労し、鈍麻し、従属状態となるなどは、カルトと同じなのです。情報を広めて、予防するしかないのです。
 
楽山には、高等感情が欠けており、思いやりや共感が出来ないと思います。その分、言葉だけ、可哀想、と繰り返すしかないのでしょう。今まで、何度も、そういう安いセリフを使ってきた楽山は、三文芝居の大根役者なのに、自分だけ、論者気分の、名優気取りなのでしょう。
 
その中の楽山のコメントを、一部抜粋してみます。
 
こういってはなんだけど、コウ、ピッポさんは自分の心にあることを、正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではないし、議論に不慣れで、理論武装も十分でない。そういう人の発言を、趣旨、あやに配慮せず、問題視して、やっつけるのはどうかしてる。
もう少しだけでも、彼等の発言趣旨、言葉のあやなどを思いやってあげればいいのにと思う。
◇真理が素直に入ってこない人達の特徴|やすらぎのガンブロ
2016/9/26(月) 午後 8:43[ 自由 ]
 
見逃さないでほしいのは、ここに、楽山の、自己愛からの自慢が表れていることです。そして、思いやったつもりの人たちのことを、自分より低い人だという満悦の優越感を表しています。楽山は、そういうのが失礼だということを感じることができないのです。
 
「正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではない」「議論に不慣れで、理論武装も十分でない」「思いやってあげればいいのに」・・楽山の同情は、同情してやるということです。それは、自分は上にいて、劣った者を下に見て、かわいそうにと憐れむ態度なのです。
 
また、引用することになります。
「殴られるより悪いことがある」(三島由紀夫原作映画「午後の曳航」セリフ字幕)
いつも優越意識がある楽山に哀れまれて、勝手に書かれて、ありがたがる人がいるでしょうか。楽山をまともだと思って楽山に関わっている人は、早く目覚めてほしいと思います。
 
ガンさんは、自分は悪口を言われた被害者と考えてるらしい。あれだけのことを書いといて、悪口を言い過ぎたという、やましさがないというのは中々、面白いね。
・・・
2016/7/26(火) 午後 9:59[ 自由 ]
 
楽山が、インテリ気取りの、婉曲ボンヤリ言語の皮肉・当てつけです。相手に「やましさがない」ということを、おかしいじゃないか・・ではなく、「面白いね」と言っています。下種がインテリを気取るときの、実に、白々しい、穏やかさを装った、くさい丁寧語です。
 
楽山は、インテリではありません。知識も、知性の理路も、感性の情感も、整っていません。だから、こういう言い方で書いて満足できるのです。本当の相手の気持ちを察することの出来ない人がやることでしょう。
 
いよいよ、リアルに追いつめられたら、楽山は言うでしょうか、サスペンスドラマなどでよく見るの悪役のセリフ「君は、誰に物を言っているか分かっているのかね」。それとも、パニックでしょうか。支離滅裂になって狼狽するでしょうか。狼狽して引っ込んでほしいです。
 
 
今、私は、楽山という、自己愛性パーソナリティ障害NPDで、反省せず、理解力がないのに、自己満足で他者に意見したがる人のことで、正体を暴いて広く知らせるために、物を言っています。
 
私は、インテリではありません。読書も苦手です。知識も乏しいです。しかし、不完全で罪深いから、人についても、自分についても、考えることは好きなほうです。
 
 
気取るほどに孤独

気取るほどに孤独
 
 
(2021年08月08日)
 
 
 
  欲しいもの
 
車を買った
新車である
しかも増車である
さらに外車である
といっても軽自動車である
 
大きい車体と大排気量で
ステータスを欲しがる人に
それを売ってくれる外車メーカーが
戯れのように試みに作った
無駄なスペースがなく
必要なスペースも足りない玩具?
 
この小さい車でステータスを気取れば
笑われるだけでなく
車を2台も持っているなんてと
顰蹙(ひんしゅく)も買うことになる
 
買わずに残しておけば
半年~一年暮らせる金額
今持っている車が壊れてから
次に国産なら
チャージャー付きのフル装備の
上級グレードの軽自動車が買えるが
というものが五体満足で
運転できる神経を持った状態で
はたして私にあるだろうか
 
欲しい物があり
それが軽よりも小さい軽であり
買うお金が今はあるから
買った
ただそれだけのこと
 
いつ終わるか先のことなど
わからない寿命・余命
については無視した
ただそれだけのことだが
経済的寿命と肉体的寿命
同期してくれたら・・・?
 
本当に欲しいものは他にある
と我慢しているものも
あるにはあるのだ
 
走行距離約千五百キロの
慣らし運転を終えて平均燃費は
リッター二四・五キロメートル
楽しめる贅沢(ぜいたく)な玩具は
剽軽(ひょうきん)なマスクをして
家の前に居座り
私を無視も注視もしない
 
 
※ ずいぶん昔のことです。スマートK、という500ccの軽自動車の外車?に乗っていたことがあります。2人乗りというより2人しか乗れない。価格はシビックより安い車です。リアエンジンで、シフトするたびに、軽いフロントがピョンコピョンコ上下して、風景も上下しました。6速AT/6速クラッチレスマニュアルフロアシフトを楽しんでいました。ターボが付いて、動力性能は、私には十分でした。独りだからできた遊びでした。50代前半で運転は車もバイクも止めています。
 
スマートK

昔の記事「鯛夢トンネル」スマートK(2010年9月)
 
 
 
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  楽山の捨ててゆく時2
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。どうか巻き込まれないでください。
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てるのに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
 
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。
 
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかし、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。アドラー教ゆずりの自己中によって、都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
 
しかしながら、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習することが出来ないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、この記事がそうです。
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
 
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
 
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔物です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。
 
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など、世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
時間に「けちん坊」というのがあるのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。
 
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
 
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
 
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。
 
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。
 
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
 
 
悪意の詭弁

悪意の詭弁
 
 
(2020年07月20日、同日一部修正)
(2021年07月23日、加筆して再録+)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
(※ 前にもアップしたと思いますが、昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・楽山については、しばしばアップすることになりそうです。)
 
 
  衰える繰り言
 
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
 
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
 
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
 
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
 
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
 
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
 
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
 
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
 
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
 
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと一致しているとは限りません。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  偽善者の語り口
 
 
特徴的な詭弁をあげておきます。偽善者との遣り取りで見られた攻撃の言葉
 
"ですね攻撃"
 
シャロームにおいて顕著です。
 
1「少しも実践していないようですね。」
2「アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!」
3「まだまだ私に比べてお若いのに・・・」
 
1,2が、それにあたります。3は、2の後に続けられた文言で、皮肉、当てつけの部類。シャロームの傲慢だけが表れています。
 
自分が上で、批判者が下だ、という蔑みを向けており、信仰者は、このような嫌らしいことは言いません。信仰者が批判するときには、できることをする、言えることを言う、否は否である、という姿勢を貫くことが必要です。
 
シャロームにおいては、あと、自分からの大仰な讃美、また、讃美の聖句を、だらだらと長く引用してきます。讃美しておけばクリスチャン、という安易さが、しばしば見られることです。過ぎた讃美は、信仰自慢であり、同時に、カルトに特徴的な自画自賛でもあるということです。
 
"ボンヤリ言語"
 
楽山において顕著です。
 
「ていうか」「かなあ」「っぽい」などという大人の言論に相応しくない、くだけた表現のつもりの、受けねらいの、わざとらしい言い方で、かつ、断定を避けています。いわゆる、言葉を濁して、責任を回避したい表れです。「と言えなくもない」という言い方もあります。
 
「本当に決めつけないなら、「一度もないということだ」と断定できず、「一度もないように私には思われる」という」・・
断定しないのならば、「一度もない」、という言い方が、むしろ、変です。
 
総ての言論に、『と思う』は暗に付いてくることを受け入れられず、「思われる」を、いちいち付けないと気の済まない楽山の強迫症状です。これで、強意表現などが全部間違いに見えるのでしょう。言葉の勢いとか情緒といったものを理解できない楽山にありがちなことかもしれません。
 
そういうことを気にして、ロボットのように機械的にこだわって、ボンヤリした表現を進んで使いながら、そのボンヤリ言語に、断定していないから責任はないといい、作為の印象操作や刷り込みの誘導を含ませてくるのが、楽山であります。
 
楽山は、神がいるなら、どうして災いが起こり悪がはびこるのだ!とクレームをつけてきます。災いや悪は、他動的に起こる、即ち、神が起こすか、神が止めないから起こる、という言い分のようです。
 
これこそ、自らを省みることのないサイコパスが、自分に起こった災いも、人類に起こった災いも、神のせいにして、楽山の、自己に慢心の醜態から、神さえも上から中立に見ているつもりで裁こうとするのです。
 
しかし、このようなことは、考えるだけ虚しくなるだけだから、小学生にも笑われそうな、幼稚な短絡です。それを、楽山は、あたかも真理を語るかのように、恥ずかしげもなく書いてくるのです。
 
いかに楽山のレベルが低く、かつ、同じことを言い続けているほど、学習も進歩も成長もないか、ということを表しているのです。こういうのに付き合わされたほうは、たまったものではありません。このように、恥とか醜態とか嘘とか誤謬とか罪悪とかに、全く自覚のないのが、楽山であります。
 
"トホホ言語"
 
私が、楽山のことを、反省しない、共感することができない、と言った後あたりから、楽山が盛んに書いてきたことがあり、「反省。トホホ」などとも書いています。謙虚芝居でもあります。「共感」という言葉も使うようになりましたが、反省も共感も、その内実が、その前と後で、全く見られない特徴があります。
 
言葉を書けばいいと思っているだけなのです。中身がないから、たとえるなら、言葉の、深い意味を考えもせず、文字列を真似て繰り返し、ハンセー、ハンセー、キョーカン、キョーカンと、オウムが鳴いているだけのようなものになっています。
 
楽山が、あざとく、いくら卑下して見せても、その前と後で、変化が見られないならば、受けねらいで、同情をひくためだけの、柔和芝居、謙虚芝居だと分かるのです。同情を求めて、というより、同情をひくことを狙って、いくら大仰に書いても、無駄です。
 
 
人の日常感覚で、神を語ることは出来ません。大事なのは、確定的には何も語れない超常ではなく、絶対に対する私たち人間の相対性、即ち、私たちの不完全性=罪の性質について考えることです。そのための絶対の存在であり、勘違いしないでほしいのは、絶対の神は、人に対して、救われる生き方を与える御方であり、決して、話の分かる仲間の頷きを求めているのではないということです。
 
人は日常感覚しか持っていないのに、その感覚で、超常の神の意志と行為を、先入観と偏見に満ちた固定観念の決めつけで語ってくるのが、楽山であります。そして、人間のお粗末な日常の理屈で、自ら反省することなく、神を、楽山の頭の中の、机上の、貧弱な空想の、ターゲットにして、おとしめてくるのです。
 
人の日常感覚で、根拠もないのに、超常の意志が分かったつもりになり、あげくの果ては、神が自分に、不変の好意だけを向けてくるという信じ方をしているのが、シャロームであります。自身のお粗末な日常の理屈で、自らを反省せず、悔いることなく、その結果、やたら、神を賛美して、結局、自分を褒め讃えているのです。
 
信仰は、人間が良心のある成長可能な人間になることを促すのであって、決して、人間が、超常の感覚や境地を持つためにあるのではありません。何故なら、超常の感覚を求めるようになると、だんだん、日常の感覚に注意を向けなくなったり、良心の人間的な感性を疎かにする罪の性質が人間にはあるからです。
 
キリスト者にも、先入観にとらわれている人はいると思います。しかし、そういう人に、批判で斬りこむことは、事態を悪化させることもありそうなので控えています。
 
シャロームと楽山については、恐らく、"キリスト教、くみやすし"、と思っているような、反キリストの偽善者という判断ですから、事態を悪化させることを恐れて和んだり調子合わせをすること自体が、最悪の事態ですから、全否定で批判しています。
 
特に、楽山は、批判して、あとで、賛同みたいなこと書いたら、プラマイゼロで断定していないから責任問題は発生しないなどと言っていました。間違っていたと訂正しないで主張を変えることは、卑怯者のすることです。
 
楽山は、いかなる話し合いにも議論にも相手にしてはいけない人です。楽山は、正常な一人前の大人になっていないと思います。そういうことだから、トラブルが発生し、ごまかすために、嘘と詭弁を書く習性だけが身についたのだろうと思います。
 
私も経験済みですが、楽山は、付き合えば付き合うほど、異常な精神疲労をもたらします。正常人ではないと思って、相手にしない、関わらない、付き合わない、近づかないことが必要です。
 
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(2)〈KENTO氏の主張〉
 2021年01月31日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判します。
 
 
楽山は、好きなだけ、様々な、多くは故人の、言葉を、自分の都合のために、偏って引用して、偉人もこう言っている、という書き方で、楽山の快感と都合を通そうとするのです。つまり、楽山の倫理性は、メチャクチャになっているということです。
 
偽善者というのは、善人のふりをします。楽山は、さらに、批評家のふりをします。そして、他者を責めるのです。他人のゴシップは大好きだが、自分の反省はしない楽山です。これからも、そういうことは、多々あるでしょう。
 
法的に問題となる盗用よりも、深刻な問題が、楽山の精神性にはあります。他者を責めて、はしゃいでいる異常者の快感が表れているからです。
 
「無断引用」とは、当該卒論は、一定の条件を満たし容認される無断引用ではなく、一定の条件を満たさず決して容認されない無断引用がされていたという意味であり、盗用というのを最大限に婉曲に表現したということなのだろう。
 
こういう法的な意味とは別になる問題があります。人をあざける者の悪意の反倫理性という問題です。楽山としては、ひどいこと、やってる、自分は引用だから、まだマシ・・という逃げ道を、あらかじめ用意して、キリスト教を揶揄するために、有名人や学者の引用を日常のように利用してきたのです。
 
不正は不正として、裁判にもなるのでしょう。それよりも、法に触れないことを良いことに、悪意の羽を、バサバサと、好きなように振り回して、誤解~曲解を、悪用して、煽動してきた反倫理性が、言論において、そのまま放置されることはないのです。
 
完全なる自己中の笑いが見え透いてくる楽山の、他人のことだけは責めて、自分を責める批判には、耳を貸さず、スルーというが、実際は、不都合を無視することでしか凌げない偽善者の記事なのです。
 
*裁判
私見ながら、裁判の可能性についても一言述べておくと、この件は当人にとってはもちろん、HSにとっても大学にとっても不名誉なことであり、大事にはしたくないだろうし、研究者は若い人を訴える気にはなれないだろうし、当事者および関係者には誰も裁判にしたい人はいなかろうと思う。
 
このように、楽山は、裁判の可能性を書いています。自分の、勝手な引用は、どんなに引用元をおとしめても、多くは故人でもあり、関係ないという担保の上で、あぐらを掻いている姿勢です。まさに高みの見物人である楽山が、倫理や人間としてのあり方を責められて、ストレス解消のために、大声でやじっている風情となっています。大声と分からない書き方で。
 
楽山に、他者を責める資格はありません。隠し事と、嘘と詭弁で、だましておいて、平気でいる異常な心性の気晴らしに、法的問題をあげて、裁判、裁判、大変だ、という、筆致とは裏腹な扇情的内容です。よく書けるものだ、やはり異常者だからだろうと思わせる記事であります。
 
自分が責められているときに、自分は何事もなかったように、別件をあげて、他者を責めるのが、楽山のストレス解消法のようですが、いずれ、総てが瓦解するときには、そういう行動パターンも、姿勢も、また、責められる対象となるでしょう。
 
特にHSは、週刊誌記事に対しては何度も訴訟を繰り返しているにもかかわらず、この件についてそういう話は聞かないことからすると、大事にしたくないという思いは特に強いのではあるまいか。
 
不正を大きな事件にしたくないHSを、暗に責めていますが、楽山は、一時ではなく、少なくとも2年にわたる自らの不正を、大きな事件にしたくなくて、無視して、隠蔽している人です。
 
将来的に咲也加氏が存在感を増し、目立った動きをするようになれば、マスコミは再びこの件を喧伝するだろうし、そうなった場合、HSの対応も変わってくるかもしれないが、現状では当事者の中でこの件を蒸し返したい人はおらず、訴訟になることはあるまいと思う。
 
このように、楽山は、敵対する者を、いずれ、大騒ぎになるぞ、とばかり、呪っているようです。楽山が法的制裁を受けるかどうかは、今後の問題ですが、大騒ぎというより、多くの人を無視した分、多くの人に無視されてゆくでしょう。
 
ネズミのように逃げ回る者は、早く巣に戻って口を閉ざし、じっとしているべきですが、何せ異常で過剰な自己顕示欲のために、信頼を失っても、何か言って、自己満足したい楽山の、飽くことのない衝動であります。
 
楽山の記事には、ツイッターからの引用コピーが豊富に載せられています。本当に、自分の問題を、全く自覚しないで、他者が責められるのを、話題にして面白がる、という楽山の厚顔無恥と傍若無人ぶりが、鮮やかに表れている楽山の長ぁ~い記事です。
 
楽山は、次は、ウイルスのように潜在して、蔓延して、また、誰かの欠点を、あざ笑うのでしょうか。「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、楽山は、人の振り見て責めるだけ、人の振り見て我が振り直さず、責める対象を漁るだけ、といったところでしょう。
 
言うまでもなく、批判を無視する楽山が、隠蔽している楽山固有の不祥事について、楽山が気晴らしに他者の不祥事でストレス解消していところを、実態をあばくことで、逆に、無視して別の他者のことだけを言う楽山という気楽な山を、批判を重ねることで、ストレスで埋め尽くすことが目的ともなるのです。
 
 
かたる

かたる
 
祈り「主よ、他にする人がいないようなので、できると思ったことをしております。悪者になりました。疲れています。御心でしたら、しばしの安息へ、お導き下さい」
 
 
(2021年02月01日、同日一部修正)
 
 
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  楽山とは何だろう?
 
 成人式のスピーチ問題について、信者の反応は…?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年01月19日
 さまざまな情報を集めつつ、幸福の科学とは何であるのか考えてます。
 抜粋して批判します。
 
 
楽山は、批判され続けていながら、それには全く答えず、反論も弁明も成り立たないまま、別の他者を批判しています。まるで、批判など無視していいよ・・ということを前提に書いているようなものです。まとも芝居をして、自己顕示欲を満たしているだけですから、説得力は皆無だと思います。
 
新たにブログを作って、ネズミのように逃げ隠れして逃げ回るようなものを許していいはずがありません。楽山批判は、約2年間に及びますが、悪口・嘘・詭弁・嫌がらせ・当てつけ、などが返ってきただけで、まともな返しなど、したことのない楽山です。悪意の病質者と判断しています。
 
*論点
前の記事において、この問題の論点はおよそ三つあるのではないかと書いたが、もう一度書くと、それはこのようなものだ。
信仰告白は是か非かという信教の自由の問題
 
一見、自由だと答えそうですが、反社会的思想であったり、嘘と詭弁だらけであったり、言いっぱなしで無反省・無責任であったりすれば、批判されて当然であります。楽山がその典型です。
 
成人式において特定宗教の宣伝は容認されるかという政教分離の問題
 
上に書いた反社会的な迷惑や反人道的なものでなく、強制的でないならば、儀式と宣伝は、可なのでしょうが、楽山は、人の迷惑を省みず、嘘と詭弁を使いまくるので、決して容認してはいけない存在です。ですから、楽山が誰かを批判する資格などないと思います。
 
信仰告白のために人を騙していいのかという道義上の問題
 
まさに、丁寧であいまいなボンヤリ言語と、同情をひくための芝居であるトホホ言語によって、人をだましているのが、楽山その人であります。
 
反対を書いて、その後、賛成と受け取れる祈り芝居などをしてきて、そして、断定していないから責任問題は発生しないなどと、成り立たない言い訳をするような楽山こそ、道義上も、宗教上も、害悪と偽善にまみれている偽善者であります。
 
そして、一切、反省も訂正もしないのだから、いかなる寛容の精神をもってしても、その因業を続けることなど、容認してはいけません。
 
つまり、楽山は、一人前の正常な成人ではないということです。かといって、薬などの治療が効くわけでもない病質者なので、何からの和解も期待できず、治療によって改善可能な精神障害についての考え方も成り立ちません。自己愛と自己顕示欲に支配された精神病質だという判断です。
 
楽山は、いかなる悪と偽善を行っても、罪悪感を感じていないだろうと思います。優しさに見せかけた丁寧語にだまされないでください。決して信用しないでください、相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください、という意見で批判記事を書いてきました。
 
私見ながら、HSとその信者は、信教の自由の問題についてうんぬんするが、あとの二つについてはまったくといっていいほど語らず、そもそも関心がないようだ。
 
楽山は、信教の自由の問題についても、また、上に述べたように、政教分離の問題や、詐欺的行為についても、批判の対象になることはあっても、批判者になってはいけない人です。最低限の道理も道徳も弁えていないで、どうして、他者を批判できるでしょう。
 
一方、アンチ側は、あとの二つについて議論することが多く、信教の自由の問題についてはそれほど語ることはないようだ。信教の自由を認めないというのではなく、それは当然と認めた上で、あとの二つについて問題ありとしているのだ。
 
楽山は、言うだけで、返せない人なので、議論も、コメントの遣り取りも、成り立ったことはありません。ただ、だまされた人が、だまされている間、まともだと思っているだけです。柔和で中立を装うペテン師に、もう、だまされないでください。私も数か月だまされてから、批判に転じています。
 
「信仰告白は自由ではあるが、成人式においてそのような行為を容認するのは政教分離に反するのではないか?」「信仰告白は自由ではあるが、そのために人を騙してもいいものであろうか?」など。
あとはアンチ側には、いわゆるゲリラスピーチをした青年の将来を案ずる声が散見されるのが印象的である。
 
(ネットより)
政教分離原則(せいきょうぶぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう[1][2]。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう[3]。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す[4]。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている[5]。
 
要は、政治は、宗教に対して、中立・不介入ということでしょう。また、そういう不当な介入を戒めてもいると考えるならば、自分の罪や偽善を省みず、平気で、柔和・中立芝居をして、宗教やカルト批判をしている楽山は、言論を歪曲する煽動者であり、むしろ、言論の自由を乱すものと考えるべきでしょう。ですから、楽山は、批判の対象となるのであって、批判の主体となる資格はないということです。
 
*提案
信者氏らは、信仰告白こそが最優先であって、そのために嘘をついたとしても、政教分離に違反したとしても大した問題ではないと考えていそうだが、世の中は大半が信者ではないのだし、信仰告白のためなら嘘があっても政教分離に反しても構わないという考え方が通るわけもない。信者氏にはこの辺りのことについてよく考えてみてほしいと思う。
 
世の中の大半は、楽山の「賛同者ではないのだし」、信仰告白の嘘のみならず、反信仰の実体と実態についても、楽山の嘘と詭弁は、当然、批判されてゆくわけです。楽山という最も悪質な個人カルトは、自らに対する批判には答えず、他者を批判し、かつ、他者に教えようとする体質的変質者です。
 
楽山は、批判されると、長々と自慢げに返してきたときも、嘘と詭弁の、いちゃもんしか書けない人です。楽山は、分からないことでも、平気で嘘を吐き、平気で詭弁を弄します。総ては、作為なのです。人の助けになろうとする気はなく、実態は、人を操りたいだけなのです。それが快感だからです。
 
楽山の、自らの偽善と悪を無視した宗教批判など「通るわけもない」のです。楽山は、他者を批判することで、結果として、自らの害悪を証明してゆくことになるでしょう。楽山は、何も考えていない自己中なのだから「よく考えてみてほしい」などと、人に言う資格もないのです。
 
以前から "反省" とか "トホホ" とか書いて、反省している柔和な人柄が伝わると思っていることも、笑止であり、記事の流れの時系列や前後の文脈に反省が表れたことがなければ芝居だと分かるのです。わざとらしい卑下をしても中身がなく、前後の高慢が総てを否定しているのです。
 
言葉の内実の代わりに連想されるのは、反省とは裏腹なニヤニヤした自己満悦の笑いだけなのです。「共感」なども言葉だけです。実際には、したこともなく、共感できない体質と性格が指摘された流れの中では、狙いだけが際立って、白々しくて見苦しく、滑稽でさえあります。皮肉として、楽山が使った謙虚芝居の台詞「かなあ」とか「ていうか」とかを付けたいところです。
 
楽山が、自らを改めることがないのに、人に改めるように言っているのは、精神機能の良心という大事なところが欠損した体質が、生まれ育ったときには固定してしまって改まらないところの、著しい非道なのであります。楽山は、言論者ではありません。芝居にだまされないでください。決して楽山の言うことを受け取らないでください。
 
 
偽善の末路

偽善の末路
 
 
(2021年01月26日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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