ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:ネトウヨ

 
  楽山の我執2
 
 「死について」西尾幹二著
 2021年03月15日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
西尾寛治は、右翼の思想家です。別の右翼の人を介してサイトなどを見ただけですが。この人だけでなく、楽山は、右翼としての記事も書いています。おべっかでしょうか。体質的に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、一貫した思想はありません。
 
楽山は、感情・情緒の鈍麻によって、感じなくなった精神から、死と死後を恐れていないかのようなことを言っています。信仰による平安ではなく、詭弁の妄想的捏造と、老化による鈍麻に縋りつくしかなくなるのではないでしょうか。
 
 
*死後、人の意識は存続するのか?
『西尾幹二の思想と行動③』に収録されている「死について」というエセーを読んでみた。著者はまず冒頭において、死をテーマにした文章は多々あれども、「死は振り返って回顧できない」ものであるから、「死の経験は誰にも書けない」としつつ、次のような自身の考えを表明している。
私は、私の体が亡びると共に個体としての私も消滅し、「自分の意識」もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えをもつことがどうしても出来ない。
(『西尾幹二の思想と行動③ 論争の精神』「死について」西尾幹二著、扶桑社、2000年、p.131)
 」
この後、著者は上田三四二の『この世この生』、岸本英夫の『死を見つめる心』の文章を紹介しているが、どちらも基本的には著者と同じ死生観であり、死んだら無になるのだから、一度だけの人生を悔いのないように生きようと考えているようだ。
 
一度だけの人生を、悔いることなく、改めることなく、反省することなく、責任を負うことなく、言葉の垂れ流しで、生きているのが、楽山であります。そりゃ、楽山に悔いはないでしょう。楽山には罪悪感がないからです。
 
 
*輪廻転生の可能性
著者は上の結論に至る理由の一つとして次のように述べている。
もし来世というものが存在し、今のこの現世というものに生を得ている「自分の意識」が来世にひきつがれるというのであるなら、われわれは現世に生きながら、それに先立つ前世からひきつがれている「自分の意識」を、なにほどか記憶していなくてはならないはずだからである。記憶がなければ意識は存続していないのと同じである。
(同上、p.131)
 」
 
この手の議論には、さほど重要な意味はありません。人生はリアルですが、死後は想像~空想に過ぎないからです。それを信じ込むのが信仰というのは、全くの誤謬であります。信仰はリアルの人生を生きるためにあります。
 
 
スピリチュアリズム方面の書物を読めば、前世の記憶が失われている理由だとか、死後の生が存在する〝証拠〟とされるものはいくつも提示されてはいるのではあるが、現実を先入観なしにみるならば、熟睡しているときは意識がなくなるように死は永遠の眠りであろうとか、前世の記憶がないことをもって生まれ変わりはないだろうとするのは当然の結論ではある。
 
空想的死生観は、簡単な理路で、上に書いたように、真理の理解としては単純に否定されるということです。キリスト者は、神を恐れるので、空想としてではなく、リアルとして、不完全なる自分を、完全なる神の前に、正直に差し出すことを信条とするべきでしょう。
 
それ以上の、特に超常についての断定は、神を恐れるなら、するべきではありません。超常ではない人間としての身の程を弁えるのが信仰であり、神を恐れることであります。人間は、与えられた知性と感性を生かして生きるべきです。それ以上の神秘や超常は、神のみのものです。
 
楽山は、永遠という時間が把握できるのでしょうか。楽山は、やたら、宗教といえば、超常を語りたがりますが、現実の、嘘も詭弁も、何も気にしないで、永遠を分かって、過ごせるのでしょうか。とんでもない曲解です。何が、当然の結論でしょう。この問題に、この地上で、結論などないのです。
 
 
*死んだら無になるという怖ろしさ
このエセーにおいて、著者は死に対する考察とともに恐怖についても書いている。死後、自己の意識は消え失せ、無になることを想像するのは怖ろしくてならないと。
 
当然のことです。無になる自分を、想像だに出来ないのが、人間です。
 
思い返してみれば、自分も同じような怖ろしさを感じていたのだった。理屈としては、死んだら無になるなら、恐怖や苦痛を感じる自分も無くなるわけで、それなら何も心配する必要はないのではあるが、それでもやっぱり怖いと思わないではいられなかったのだ。
 
楽山の感じる恐ろしさは、引用とは違うと思います。そういう実感のある共感が成立しないのが楽山です。何も分からないのが怖いわけですが、楽山は、その怖さを感じることが出来ません。だから、何も分からなくても平気でいるのでしょう。
 
何も心配する必要がないの、というより、心配することが無意味だということです。特に、楽山のように、我執で悪行を重ねている者は、あの世を心配すればするほど、恐怖するしかないでしょう。現在形~未来形~永遠形です。有名人の言葉を引用しても、楽山は、乖離しており、違うのです。
 
 
でもどういうわけが最近はそんな感覚は薄れて、「死んだら無になるのでも、霊になってあの世に行くのでも、どっちでもいい」という気分になってきている。死後の状態について、こうであるはずだ、こうならなければ嫌だという強い願望はなくなってしまったのである。
 
どっちでもいい、と思うことを、分からないから、ではなく、願望がないという言い方をしています。願望があってもなくても、恐怖してもしなくても、謙虚な懐のない楽山には分からないし、今の無駄は、ずっと無駄なのです。死んでからのお苦しみということでしょうか。
 
 
こういう変化は大方は年を取ったせいだろうし、人は毎晩眠りに落ちるたびに無になっていること、自分の意識は過去から連続しているようでも実際には過去の自分は既に消え去っており、現在の自分もやがて消え去ることに合点が行ったことなどもその理由ではある。
 
合点が行くはずのない、自らが無となることに、合点が行くと言っている時点で、作為的で、かつ、嘘であることがバレています。実際には、楽山には、横暴を極めている現実も、嘘吐きの幻想も、実感などというものはないだろうと思います。楽山の人生が幻想だから、酷いことが言えるのです。
 
現在の自分は、明日には、もういません。年を取って、ボケてくると、恐怖が薄れるというものでもないでしょう。楽山が「合点が行った」と思っているのとは、楽山が大好きな、ホラーに登場するようなものかもしれません。楽山自身が、ホラーです。
 
こうであるはずだという願望が薄れるのは、できるだけの真実を追求してきた人でしょう。楽山は、できることをせず、してはいけないことをしてきたのだから、死が迫るほどに、恐怖は増大すると思います。それを、今、感じないのは、意志が強いからではなく、ますます鈍感になったからでしょう。
 
 
このあたりの感覚は人それぞれではあろうが、自分の場合はこのような思考を経て、死後に無になることはさほど気にならなくなった次第である。釈尊は執着を去れば平安が得られると説いたというけれども、上の経験からするとこれは本当にその通りだと思う。
 
面倒臭くなったときの「人それぞれ」がまた出てきました。有名人の言葉にも使っています。執着だらけの楽山が、何かを書く技量などない証拠でしょう。楽山は、今まで書いてきたことからは、自己顕示欲という欲への執着だけしか見せていません。
 
楽山は、死ぬまで、執着を去ることはないでしょう。一生涯、我執だけに生きて、我執だけに、ニヤニヤする快感と、煤のような悪意をもって生きてきたから、我執に追われることになるでしょう。それこそ、認知症になったほうが楽ではないかと思います。
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
草@kusaweod
·19時間
青天を衝けで渋沢栄一が祈祷師のインチキを見破って追い払ったエピソードは実話のようでここで読める。
500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった | 日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
午後9:23 · 2021年3月14日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/kusaweod/status/1371074629582741514
<<
https://twitter.com/komo266
 
楽山と、明治の実業家である渋沢栄一とは、当たり前ですが、何の関係もありません。渋沢栄一は、大河ドラマで、旬であり、一般の人からも注目されているところでしょう。いつもの楽山の宗教への悪口とは何の関係もないのです。
 
しかし、楽山という反宗教が、今まで、いかに、宗教、特にキリスト教を、詭弁で、おとしめる投稿をしてきたかを思うとき、この他者のツイート引用を、見逃すことは出来ません。引用元の様々な有名人を自己顕示欲のために利用~悪用してきたのです。まともに受け取ることは出来ません。
 
キーワードは、"祈祷"師であります。真面目に宗教を考えることのないの楽山は、いつも宗教をおとしめることばかり考えているのでしょう。恐らく合理的な考え方の渋沢栄一が、インチキ祈祷師の嘘を見破った、ということが、楽山には、えも言われぬ痛快事なのでしょう。
 
祈祷と宗教を同一視すると、楽山の詭弁になります。一般とは違って、楽山の真意は、素直ではなく、捻じ曲がったものです。宗教は皆インチキと思っている楽山にとっては、宗教をおとしめる格好の材料に思えたのでしょう。
 
つまり、わざわざ、このエピソードを引用した楽山の意図は、偉い人が、宗教のインチキを見破った話として、受け取っているのだろうと思います。インチキ祈祷師と宗教を一緒に見ている楽山の、いかにも、あざとい宗教攻撃なのです。
 
楽山は、何を言っても理路も共感も成り立たなず、誰にとっても益とならない文章になります。気安いところで、偉人の言動を出してきて、気慰みにするのです。偉人は懐の大きさで図太い肝を持って見抜き、楽山のようなインチキな小者は、ネズミのような小心で動いて、的を外しているのです。
 
 
ちなみに楽山日記に
2017年05月11日
HS関連ブログを読む 18
という気の遠くなりそうな長い記事がありますが、渋沢栄一のことを書いています。
 
一部抜粋。
 
「書痴の楽園」を見てたら、渡部昇一は渋沢栄一を評して、常に道徳的に正しかったと語ってた。道徳と成功を両立させていたと…。
考えてみれば、論語と算盤と、あの世とこの世を貫く幸福は、似たところがあるかもしれない。真理(倫理)にかなった生活をしつつ、本当の幸福(成功)を得ようというところとか。
 
真理を知らず、倫理に全然かなっていない嘘吐きの楽山が言っています。「この世」に適っていないで、「あの世」を貫く幸福が、楽山には分かるのでしょうか。「真理(倫理)」に適うことが、楽山に分かるのでしょうか。真理と倫理は同義語でしょうか。表れるのは、分かるっぽい?自認~妄想だけです。
 
 
とはいえ、後者の方がより宗教的であるという相違点もあるけれど…。
近頃のHS本は、さっぱり読んでないけれど、ひょっとしたらこういうことは既に語られているのかなあ。どうだろう。
 
どの後者なのでしょう。道徳と成功でしょうか、あの世とこの世でしょうか、真理と幸福でしょうか、倫理と成功でしょうか。楽山の考える宗教が、さっぱり不明なのは、何も考えていないからではないでしょうか。楽山は、気が遠くなっているのでしょうか。
 
右翼思想家に、経済人にと、生死にかかわらず、有名人の名前と言葉面だけを、宗教をけなすために、我執と我執で利用~悪用する楽山です。
 
 
引きずる我執の醜い素顔

引きずる我執の醜い素顔
 
 
(2021年03月16日、同日一部修正)
(2022年03月17日、再録+加筆)
 
 
 
  懐かしき訪問者
 
四角い静物の部屋に
タバコ一本の煙
上っていく
 
友と呼んでいいのか
珍客と呼んだらいいのか
どんな縁かもよくわからない人
ともかくも久々に我が家に迎えた
懐かしき訪問者は
二泊三日で忙しそうに帰っていった
 
何てシャバダバな人生なんだ
ぐらいの話はしたかったのだが
 
 
※ (ネットより)
シャバダバとは、意味のない音でメロディーを即興的につないでいくスキャットという歌い方で、おもにジャズで使われ、楽器を弾けなくても表現できる方法のひとつです。
 
 
 
  問いと問い
 
昨日があるから今日がある
そう でも
今日があるから昨日がある
でも どこか
では明日は
明日は?
 
 
  家の階段
 
数えることもないから
数えきれない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
 
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
 
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
 
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  祝福
 
この あかりの もれいづる
この いえに すまう ものは
つとめを はたして いこう もの
いこいを もとめて つとめる もの
ひとごとながら いのりを こめて
きぼうの くいを うちこめば
やみは またたいて ほしを かくす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山が、自らの嘘と無反省と無責任など、とんでもない偽善の最悪について「これも一種の、人間の性」と言った時点で、「人で在り続ける」ことをやめている証拠です。ブログやツイッターで好きなように、他者を、だまし、誘導してきたわけですから、「開いた出店を畳むしかない」ということです。
 
 
 
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  我欲のエコラリア楽山
 
 『日本国紀』百田尚樹著(2018年)
 2021年12月18日 楽山日記(LD)
 
 
ネトウヨですが人格破壊の進行した楽山は、史実への執着性によって浮かれ、気分高揚を来たしています。ゆえに、現実の問題を、何一つ、理解も自覚もできない有り様で、無駄口を叩き続ける自己愛性パーソナリティ障害NPDの証拠を積み重ねてゆくのです。
 
*日本人はすごい!
『日本国紀』を通読してみた。日本人の優秀さを示すエピソードがいくつも紹介されているので、「日本人はすごい!」と思えた。
とはいえ、万世一系に関する記述については疑問に感ずるところはあった。
 
「日本人の優秀さ」と、楽山は、何の関係もないと思います。「日本人の優秀さ」は、優秀な人々がいたということでしょう。それで、舞い上がる楽山の「日本人はすごい!」は、自分もすごい、という我欲による、楽山の中だけのエコラリア(反響言語)なのでしょう。人格破壊の実相です。
 
*万世一系
まず著者は、万世一系についてこう書いている。
我が国、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系で二十一世紀の現代まで続いているとされている。こんな国は世界のどこにもない。 
(『日本国紀』百田尚樹著、幻冬舎、2018年11月10日第一刷、p.8)
 」
日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった。
(同上、p.486)
 」
日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だというのは、保守としては当然の主張だと思う。
 
万世一系という神話時代からの伝統であり象徴であるわけです。今さら、その史実性にこだわって、何か良いものが生まれるでしょうか。楽山は、このように、何の役にも立たないことを、学識もなく、云々して、自分を、インテリ評論家に見せかけたいだけなのです。
 
*王朝交代あり?
でも著者は、他の箇所では皇統は断絶しているとしている。
歴史研究家の中には、この時に王朝が入れ替わったのではないかという説を唱える人が少なくない。仲哀天皇は、熊襲との戦いで戦死し、代わって熊襲が大和朝廷を滅ぼして権力を掌握したという説だ。なら、なぜ日本書紀にそれが書かれていないのか。記紀が書かれた八世紀頃は、「皇統は万世一系であらねばならない」という不文律がすでにあったので、記紀編纂者がそのあたりをうまく工夫して書いたというのだ。定説にはなっていないが、私はこの説はかなり説得力があるものと考えている。
(同上、p.26)
 」
現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ。
(同上、pp.31-32)
 」
万世一系に対して異説が存在するという紹介だけなら、さして問題はない。
でもここでは、その説を紹介するだけにはとどまらず、強く支持するところまで踏み込んでいる。
これは、日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だという先の主張と矛盾するのではなかろうか。
 
このように、楽山は、過去の辻褄にこだわって、それで、現代を語ろうとする半端者だと分かります。私たちは、現代を生きています。皇室の歴史よりも、今皇室の果たしている役割のほうが大事だということが、楽山には分からないのです。
 
楽山は、歴史を、ろくに知らないにもかかわらず、歴史家などの意見を引用して、自分を、学者であるかのように見せかけたいのでしょう。それが、楽山の生業なのでしょう。宗教についても、奇跡と超常にこだわって、神を否定したいのでしょう。心に響くことを全く理解できないからです。
 
*著者の見解
この矛盾について、著者の真意はどういうものなのかと頁を繰ってみると、こんな記述があった。
「万世一系」という考え方がどのようにして生まれたのかはわからない。しかし『日本書紀』編纂時にはすでに、崩してはならない伝統としてあったと見られる。これ以後、千三百年以上にわたって男系は一度も途切れることなく継承されている。
(同上、p.34)
 」
つまり万世一系は途中からだということらしい。
著者はさらりと書いているけれども、これは保守、右派という立場からすれば相当に大胆な発言だろうと思う。
 
「万世」なのに「途中から」だそうです。楽山は、否定しているのでしょうか、擁護しているのでしょうか。どちらも書いて、どちらも断定せずに、責任問題は生じない、ということが、楽山の、以前からのスタンスらしくて、つまり、何の主張もない人です。
 
それで、一方では、信仰を批判したつもりになり、信仰を否定するわけです。まともな意見を、何一つ持ち得ないことを、今まで、ごまかして、善人ぶってきたのが、楽山という偽善者であり、もはや、真実の追求を、かき乱すだけの人でなしであります。
 
*いろいろな歴史観
本書にはさまざまな批判があり、その中には「歴史ファンタジー」という揶揄もあった。
自分はこれらを読んで、本書は相当に右寄りなものなのだろうと想像していたのだけれども、上記の点を見る限りにおいては自分にはとても右寄りとは思えなかった。むしろ左寄りではなかろうか。もっともこの辺りの判断は相対的なものにすぎないかもしれないけれど…。
 
右も左も、一枚岩ではない、という当たり前のことが、楽山には分からないようで、相対的と言ってバランスを取ろうとしています。相対性さえも定位置に置くことが、楽山の安心なのですが、中身が空っぽです。思想ではなく、楽山が納得するための辻褄合わせの合理化規制なのでしょう。
 
ところで、『日本国紀』の評価は人それぞれとしても、一人の作家による通史というアイディア自体は実に面白い試みであると思う。これを機会に、他の著者による通史も読んでみたいものである。
通史ブームが到来し、幾人もの作家たちがそれぞれの視点から綴ったさまざまな通史…皇国史観によるもの、唯物史観によるものなど…を刊行したなら愉快だろうと思う。
 
楽山は、結局、いつものボンヤリ言語で、何も始まらない結論「それぞれの視点から綴ったさまざまな通史」「愉快だろうと思う」と言うわけです。楽山の記事に、時間を使うのが、いかに無益であるかを、楽山自身が明らかにしています。毎度、呆れてしまう楽山の暇つぶしです。
 
楽山は「愉快」になっている場合ではないのです。「愉快だろうと」思っている場合でもないのです。積み重ねてきた罪と偽善が、人を疲労させ傷つけてきた自己中の病質が、楽山自身の人格を虫食み、何も状況を把握できない盲目の常同行為へと運んでいます。
 
 
独りで反響する無駄口

独りで反響する無駄口
 
 
(2021年12月19日)
 
 
 
  ブレーキングボール
 
ひねったつもりのブレーキングボールは
力なく外角へ落ちていく
そのあとに黒い軌跡が残る
 
一日を無駄にしたような気持ちで
メモ帳を一枚破り捨てる
 
部屋から出ていったあの男
別の自分に会いにいったつもりなのだ
 
行きつけの喫茶店などないのに
無駄な空気と
家畜になったような気持ちといっしょに
やがて帰ってくる
 
ぼろぼろの顔になって
また一枚ボールを走らせては
また一日意味のない軌跡を残す
 
あしたどんな軌跡を残すのか
もう一枚
もう一枚
ぼろぼろのメモ帳が笑っている
 
 
  ため息
 
瞬きと一緒に
どれだけの呼気の中に
ため息が去っていったのだろう
 
ゆっくり吸い込まれ
声帯を震わせないで
粘膜を撫でながら漏れるときの
湿気と温もりと過去
 
今ため息が出て行きました
熱を失う体のどこかで
フイルムが瞬く間に早送りされました
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は書き、読まれることで、堕ちてゆくのですが、本人は、上のコメントと同様に、全く、それを自覚しません。空疎に空疎を重ねて、文字が並んでいることで、インテリらしくかけた!・・と満悦するのでしょうか。そういうとき、いかに自分が見苦しいか、分からないのでしょうか。
 
 
 
 
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  インチキ思想の楽山
 
 『決定版 日本人論』渡部昇一著
 2021年11月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山には、宗教も思想も成り立たないので、政治思想を語れば、とにかく右翼的に書けばいいじゃろ・・という投げやりが見られます。今までも、ずっとそうだったのでしょう。言葉を覚えても、言葉を使うための、心が無いのです。ゆえに、説得力もなくなっています。
 
楽山は、人に分かるように説明することが出来ないのです。人に分かるように工夫することが出来ないのです。自己愛性人格障害だからでしょう。インテリ気取りで発表して、満悦する人です。共感性がないので、読む側の気持ちを察することが出来ないのです。
 
インテリ気取りで、まともに見せかけようとしても、読んで受け取れるものが何もない文章です。例えば、小中学校で、感想を聞かれて、・・ヨカッタ・・と答えて、先生に叱られる部類の文章です。それに類する語尾が多いと思います。
 
例えば、「筋が通っているようだ」「何かしたいと思わせるものでもある」「一読の価値ありと思う」・・こういう褒め言葉だけで、曖昧で婉曲で、無責任な結論だけで、切実さが、何も感じられません。「ようだ」「思わせる」「ありと思う」・・楽山の、ボンヤリ言語と呼んでいます。
 
著者は本書において、日本の歴史を振り返りつつ、日本の長所および日本の独自性について語っている。皇室、神社、大和言葉、本地垂迹説、武士道など。
 
日本の長所と独自性を、右翼思想で語ろうというのでしょうか。言葉を、並べてみても、その説明も説得力もないなら、読者に無駄な時間を費やさせるだけの、短絡、幼稚、字面だけ、妄想的、訂正不能の危険思想にしか出てこないという楽山の精神病理が、より明らかになるだけです。
 
記事を書いても、文章は短く、短いのに中身がなく、理路は散乱~滅裂となり、思想を語るのではなく、思想の偏りだけが鮮明になってゆくようです。根拠のない偏りを、押し出してくる楽山は、無反省と無責任のペテン師ぶりを、書くたびに明らかにしています。
 
とはいえ著者は日本を褒めてばかりいるわけではない。たとえば靖国神社参拝を問題視する人々の浅薄さを批判したり、
 
靖国参拝を問題視しなくていいという根拠を何も書いていません。結論だけで、説得力の無いことが、明らかです。右翼の旗を振って、その旗に、絡まって、転びながら、言葉と結論だけが、浮いて、納まりもつかないことで、楽山が、いかに、いい加減に思想を唱えているかを表すのです。
 
他者が批判したことを書いて、何の意味があるでしょう。いつものように、怠慢な楽山は、面倒だから、自分で批判しないのでしょうか。それだけではなく、理路を正した批判ができないものだから、無駄に、丁寧語でありながら、シュプレヒコールのように、賛同だけを繰り返すのでしょう。
 
日本は東京裁判の判決は受け入れても、その裁判を受け入れたわけではないにもかかわらず、近年は政治家の中にさえ、この区別に無頓着で判決のみならず、裁判をも受け入れたと勘違いしている輩がいるとして憤り、かつ憂えている。
 
判決は受け入れて、裁判を受け入れない、という摩訶不思議な理屈を、「政治家」という言葉だけをあげて、箔をつけたいのでしょうか。何も言えない楽山の、無理、怠慢、偏見、思い込みが、羅列されてゆく文章など、もはや、理路が散乱して、読んでも、空疎でしかありません。
 
受け入れるかどうかではなく、日本人300万人の命を奪った戦争について、何の見解も持ち得ない楽山の、右翼だから右翼の思想の言葉を並べるだけ、という気色の悪い自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の末路が、ここに表れています。
 
そういわれてみれば確かに東京裁判には、事後法だとか、共同謀議を立証できなかったとか、裁判官は中立国でなく戦勝国人ばかりだったなどという批判がある。とすれば、やむなく刑には服したとしても、その裁判は受け入れないというのは筋が通っているようだ。
 
このように「筋が通っているようだ」とボンヤリ言語で書いても、楽山は、根拠と説明が、右翼の意見を書けばいいじゃろ・・という安易さに、帰結しているだけで、知性のまとまりがなくなっています。右でも左でも中立でも、無責任思想の迷惑だけを表している楽山です。
 
本書は「日本人でよかった」という気分にさせてくれる本である。しかしそれと同時に「このままではいけない。日本のために何かしたい」と思わせるものでもある。
 
楽山の言の、どこに「日本人でよかった」「このままではいけない。日本のために何かしたい」という説明が表されているでしょう。このような安い刷り込みをしてくる楽山は、右翼でも思想家でもありません。もはや、右翼的な言葉を、壊れたエンジンのようにブルブルブルと失禁するだけです。
 
右翼に短絡しただけで、右翼を書くだけの素養が何もないのです。さらに、筋の通った思想一般に、楽山の居場所など無いと言えるでしょう。あらゆることに責任を負わない無緊張の生き方は、楽山に、喜びではなく、笑われることだけを与えるでしょう。楽山の思路が、弛緩しています。
 
楽山には、反省も、修正も、学習もしないまま、インテリや学者を真似た気取りだけで、一人前を装う無理が、どんどん表れているようです。全てが、大根役者の、三文芝居だったのでしょう。何事にも、人生をかける気力も勇気も、楽山には感じられないのです。
 
現状を肯定するとともに、現状打破を志すというのはなにやら矛盾しているようではあるが、この矛盾こそが前に進むために原動力となるものなのだろう。月並みな言い方ではあるが、本書は日本人なら一読の価値ありと思う。
 
結びに「日本人なら一読の価値あり」と、理路の過程を何も書かず、結論だけを書いて、ごまかしています。このように、つまるところ、何も分かるような説明など出来ない楽山です。楽山は、自らの現状を打破できないのに、人に、現状打破を向けて、何が成り立つと言うのでしょう。
 
楽山は、何事を主張するにも根拠を示せない、ということが分かる結びです。現状肯定と現状打破、矛盾が原動力、などと、意味のない理路を並べています。こうなってしまうのは、楽山に、心が無いからです。楽山においては、肯定も否定も安っぽくなって、結局、何も主張できないのです。
 
こういう人がいると、その集団の主張は混乱し、詭弁だらけとなり、嘘だらけとなり、丁寧語で、ごまかしても、いずれ、馬脚をあらわして、誰からも信用されなくなります。まともそうだけど、見ているうちに、ただの自信過剰の怠け者だとバレてしまうのです。
 
楽山は、右翼ではなく、我欲しかありません。楽山は、思想ではなく、屎尿のような臭さだけの文章を、恥知らずだから、載せてくるのでしょう。楽山は思想など持ってはいません。楽山の心無い精神においては、何も、まとまらないのです。人格破壊が進んでいます。
 
 
屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)

屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)
 
 
(2021年11月24日)
 
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
  仲間と責め
 
ねえねえ
・・・だって
・・・だよねえ
ねえ
孤独な仲間たち
寄り添う
似たような視線になる
責めをすり替える
身を守る
捨てられたものがある
ときに加担する
ときに捨てられる
仲間ではない仲間
責めではない責め
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
すごい容赦ない言葉だ。
でもこれが残酷な真実というやつか…顔文字(考えている顔)
引用ツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
 · 11月17日
頭の悪い人は自分の無知・愚かさを理解できていない。自分の欠点を認める謙虚さが足りない傲慢な人達です。そんな人に理解させようとしても時間の無駄。本人の意欲が低く、努力ができないのなら、もうどうしようもない人だと諦めることも賢人には必要です。そうしないと、あなたまで狂わされる。
午前8:48 · 2021年11月17日
 」
午後9:09 · 2021年11月17日
 
人のことしか言えず、自分を見ない楽山は「考えて」はいないと思います。相手の理路を受け取って、その上で物を言う、ということが、全然できない人です。挨拶と世辞の遣り取り以外は全く無意味です。正誤ではなく、正常な遣り取りが出来ないので、異常な疲労が残るだけです。
 
楽山は他人事と思って書いているようですが、引用ツイートが、楽山に、ぴったり当てはまっています。実に「残酷な真実」です。精神衛生の問題として、人格を破壊されたくなかったら、楽山と議論しても経過も結論も成り立たないので、関わらないことです。
 
「無知・愚かさを理解できていない。」「欠点を認める謙虚さが足りない傲慢」「理解させようとしても時間の無駄」「意欲が低く、努力ができない」「どうしようもない人だと諦める」「必要」「そうしないと」「狂わされる」・・ほぼ全文ですが、楽山は、そういう人です。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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  楽山のネトウヨ煽動
 
 『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』
 ペマ・ギャルポ著 2021年11月14日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、A級戦犯を褒めるなど、ネトウヨとしての記事も書いています。自分の問題から逃れたいために自己愛性人格障害者がすることは、ケチな煽動屋がしそうなこと、つまり、話題を逸らせることでしょう。信仰を思い切りディスった後は、中国の脅威を煽ってきました。
 
(ネットより)
ペマ・ギャルポ(チベット語: པདྨ་རྒྱལ་བོ〈ラテン文字翻字形:Pema Gyalpo〉、1953年6月18日 - )は、日本の政治学者。チベット出身で日本に帰化したチベット系日本人。拓殖大学国際日本文化研究所教授、岐阜女子大学南アジア研究センター所長。専門は、国際関係論、国際政治学。
亜細亜大学法学部卒業。モンゴル国立大学政治学博士[1]。所属する学術機関はチベット文化研究所[2]等多数。所属する芸能事務所はサラブレッド・プロモーション[3]。
 
チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。
 
*概要
恐ろしいタイトルの本だけども、これは知っておいた方がよさそうだと思ったので通読してみた。
その概要は、前半は中国はどのようにしてチベットを侵略したかが語られ、後半は中国はすでに日本に対して相当の影響力を持つに至っていること、日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべきことが語られている。ここでは中国の日本侵略の兆しとおぼしき事例をいくつも紹介しているが、その一つ一つが背筋が寒くなるようなものばかりである。
 
楽山には、政治や国家を、とやかく言う資格はありません。話題に飢えている楽山の、政治も分かるんですアピール~宣伝に過ぎません。「日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべき」・・どういう対策を講じられるというのでしょう。無責任に、恐怖だけ煽っている楽山です。
 
楽山は、自分を高めることや、インテリ気取りに熱心ですが、楽山自身の、罪と悪と偽善の問題や、無反省、無責任な体質については、一切認めず、無視し続けてきました。逃げていると分かるようなことしか出来ないのでしょう。どんどん、真実からも、現実からも、乖離してゆくようです。
 
*チベット再訪
本書の中でもっとも印象的な話を二つほど挙げておくと、まず一つは著者がチベットを再訪した折に出会った子供たちの様子である。
子供たちは盛んに「私に名前をつけてください」といいます。どういう訳かと思ったら、驚いたことに子供たちの名前は数字なのです。「九・二三」「三・五」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、彼らは誕生日や体重や侮蔑の意味を持つ言葉で呼ばれていたのです。中国当局は「反革命」だとして、チベット名を禁じているのだといいます。
(『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』ペマ・ギャルポ著、飛鳥新社、2012年、p.85)
 」
近頃はウイグル弾圧についての報道は増えつつあるように思うが、チベット関連のニュースはいまだに殆どない。もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う。
 
もう一度言います。チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。
 
「もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う」・・このような、正義の味方?が当たり前に言うようなことに、だまされないでください。楽山は、外国のことも、他人のことも、本気で心配したことはないと思います。
 
むしろ、楽山のような人が、増えれば増えるほど、理非もお構いなしに、状況分析もせずに、平和を思わず、やたら恐怖を煽って、事態を悪化させ、戦争へと導いてゆく、ということを肝に銘じておくべきでしょう。自己顕示欲が高じると、危険だという例になります。
 
理路と情緒ともに劣っていて、思想がまとまらず何も深いことなど書けないのに、これならいいだろうと書いてくる楽山の安易さが目立つばかりです。あらゆる顰蹙(ひんしゅく)が当てはまる楽山には、決して、関わらないでください。とても乱暴な精神です。
 
それに、名前のことが書いてありますが、楽山が様々なHNを使い、素性を明かさないのも、書いていることの重大さに比して、結局、いかなる責任も負わず、何事にも関わりたくない怠慢な性根を表すものでしょう。
 
*クレーム
もう一つは、日本のテレビの話である。
私は二〇年ほど前から、TBSと読売テレビでコメンテーターをさせていただいていますが、例えばチベット国旗を出す場合、わざわざ聞く必要もないのに、スタッフが中国大使館に電話をしてお伺いを立てるのです。当然ながら、いいと言うはずがないのですが、報道の自由を侵害することになるので、あまり強くは出てきません。
その代わり何をするかと言えば、例えば親中派団体の人間などに番組あてに、また番組のスポンサーには番組編成局あてにクレーム電話をかけさせるのです。そしてその件と関係ないことでも、事あるごとに「ペマ・ギャルポを番組から降ろせ」といったクレームが来る。
(同上、p.127)
 」
本書の発行日は2012年であるが、今は当時より状況は好転しているとは言い難いのは辛い…。
 
隣国が干渉してくるのは脅威ですが、自己中の楽山が、無責任に無反省に、口を出してくるのは大きな災いです。私は強制的に追放する権限を持ちませんが、楽山こそ、リアルとネットの災いであり、言論から一刻も早く追放されるべきです。あらゆる真実の追求を邪魔する病質者です。
 
*計画?
こちらは本書の裏表紙である。
『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ著、裏(省略)
中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ。
 
総じて、チベット出身の人が書いている本を、中国を脅威と決めつける具材にして、「天皇の処刑」などという恐ろしいことを、そのまま書いて「不気味だ」(≒気味が悪い)で済ませて、面白がり、かつ、不安を煽るなど、もはや、右翼とさえ思えません。
 
いったい、どんな立場に立っているつもりなのでしょう。煽って気を引こうとする野次馬根性には、一片の愛国心も見い出せません。楽山の書く必然が、どこにあるというのでしょう。見境のない楽山の、自分は特別だから何を扱っても言ってもいいじゃろ・・という自意識の傲慢が表れています。
 
テレビなど見ていて、皇室と、皇室関連の記事を書く人が、どれだけ言葉に気をつけているか、分からないのでしょうか。楽山の自己愛と自己中が、いかに高等感情と慎重さを欠いているかという記事です。皇室と、日本と、読者に、危機を煽って机上で玩ぶ病質は、全く有害無益です。
 
楽山の無思慮と無遠慮と厚顔無恥が明らかになっています。思いやりの欠片もなく、繊細さを弁えず、危機や脅威の自覚もない筆致で「不気味」と言って、ホラーのように面白がるとは、生まれ育ちによる自己愛性人格障害だけではないのだろうか。あるいは、脳が器質的にやられているのだろうか。
 
誰もが慎重にならざるを得ないところを「中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ」・・中国、本当に、計画、不気味、これら全て、迂闊(うかつ)というべきであり、楽山の体質を表しています。楽山には、皮があり、肉があり、骨がなく、髄がありません。
 
迂闊:(ネットより)
う‐かつ〔‐クワツ〕【×迂×闊】 の解説
[名・形動]
1 うっかりしていて心の行き届かないこと。また、そのさま。「そんな大事なことを見落とすとは―だった」「―にも口を滑らす」
2 回り遠くて実情にそぐわないこと。実際の役に立たないこと。また、そのさま。
 
皮肉骨髄:(ネットより)
禅宗の僧侶、達磨大師が四人の弟子たちを「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と評価した言葉。
骨や髄は「要点」の喩えで「物事の本質の理解」を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。
 
 
蒼ざめる煽り

蒼ざめる煽り(あおざめるあおり)
 
 
(2021年11月15日)
 
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのかも
しらない まま きっと
 
 
  風の笛
 
ほとんど風のない日だったが
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
 
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
 
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
 
手の中の小さな手も
その子もいなかった
 
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
 
  月
 
心臓が出ていた
果てもない夜空に
ひとり蒼白く生きる
 
 
  祈りと叫び

いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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  楽山のねっとり右翼
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張し誘導したいようです。楽山は、そこでアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性パーソナリティ障害者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合う・・などということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだ、という、体験者とは別の話なのです。面談したというのは、また、楽山の、インテリ気取りの作り話の自慢話ではないでしょうか。
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の臭いがプンプンしてきます。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性パーソナリティ障害は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
立場など無い者

立場など無い者
 
 
(2021年08月23日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らない、謝ったからいいじゃろ・・という言い訳は成り立たない、という話です。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話でもあります。
 
決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、謝りもしない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。
 
楽山は、また、勘違いして、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、いっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山は、そういう印象操作をする人です。だまされないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより「ほととぎす・・・ほととぎす」
と自分の名を頻(しき)りに唱えている
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない
・・・
から
 
 
  忸怩
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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