ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の根腐れ
 
 ほんと、ワガママな人だなあ。(st氏のツイッター)
 2022年03月12日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  抜粋して批判します。
 
 
「だなあ」で済むような問題ではないのです。語尾だけ、おどけています。本文は、殆ど、自己正当化と他罰精神に満ちています。表面だけ、柔らかく見せたつもりでも、楽山は、かかえた闇の最悪の単方向の自我を曝しています。既に、そういう人だと承知しています。
 
楽山は、また、ツイッターをコピペして、自分に有利な文脈を捏造しています。このような卑怯な細工が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の生業(なりわい)であり、楽山は、そういう作為の故意の悪意に生きているということです。今日も、厚顔無恥が全開です。
 
恐らく、断片的な意見であるツイートの中から、自分に都合のよいものを載せて、刷り込んでいると思います。楽山の、底知れない悪意と、性懲りの無さと、理路も文脈も弁えないで書くことに、良心の呵責も罪悪感もないサイコパスの性根を見逃さないでほしいと思います。
 
私のツイートは、楽山が既にコピペで載せているものもあるので省略します。それに付けた楽山の記事の文章に、楽山の体質が表れています。傍若無人であり、それを、いかにも被害者であるかのように書いてくる善人芝居です。怒らせて、乱したいのです。ここまでの狡猾な悪意は珍しいと思います。
 
 
*出入り禁止
前記事の追記でも触れたが、st氏は自身のツイッターに、楽山はコメントしてはいけないと書いてた。
これは理不尽な要求だが、こちらとしてはst氏に譲歩し、彼のツイッターにはコメントしないことにした。
 
楽山と直接の遣り取りをすることは、詭弁の迷路に嵌って、徒労~疲労~人格破壊の罠に落ちることです。経験済みです。それが、楽山の、人間性を失って、丁寧芝居、被害者芝居で、自己正当化を図る唯一の手段なのです。楽山は、決して関わってはいけない変質者だということです。
 
 
*メンション
でも、どういうわけか、st氏は、「@komo266」を入れたツイートをして、こちらの視界に入ってくるのだから、わけが分からん。
私宛のツイートをしていながら、反論コメントは禁止だというのは、さすがに自己中すぎるだろう。 
 
楽山批判ですから、楽山のHNを書くのは当然です。当たり前に、楽山の視界には入れようとしています。しかし、批判の主目的は、私のブログ・ツイッターに書いて、広く、楽山の赦しがたい悪の情報を敷衍することです。楽山を変えようとすることは既に諦めています。訂正不能の悪だからです。
 
楽山に反論コメントを赦したら墓穴を掘るようなものです。双方向の、まともな遣り取りなど、楽山は出来ません。楽山の汚い詭弁に直接さらされるのはごめんです。経験済みです。ゆえに精神衛生上、直接の遣り取りだけは避けています。楽山は、つまり、精神衛生上の加害者であり、精神の病原なのです。
 
 
*支離滅裂
そういえば、st氏は以前から、楽山と話をするつもりはないと言いながらも、自分を無視するのは許せないなどと怒ることが多かった。
今回もこれと同じだ。楽山は出入り禁止と言いながら、楽山の視界に繰り返し侵入してくると…。
いやはや、こういう人にはどう対応したらいいか分からんね。
 
「自分を無視するのは許せない」と怒った覚えはないです。楽山の、無反省、無責任、嘘、詭弁、などは赦せないということです。楽山の対応など求めていません。一般の読者への情報として書いています。楽山は体質的な根腐れのサイコパスなので、直接相手にすることは、自傷~自殺行為となりえます。
 
このツイッターのような、ふてぶてしい嘘の吐き方が、楽山の根底を流れ続ける犯罪心理クリミナルマインドなのです。呆れ芝居の良心のない攻撃が、3年余りの批判の流れの中で、しばしば顔を出してきました。しらばっくれて相手をおとしめる・・という筆致が、楽山の根腐れを表してきました。
 
 
◇◆ 追記 2022.3.12 ◆◇
*もう一つ
今になって気がついたけど、支離滅裂といえば、これもそうだ。
「 
楽山からの反論なるものは、反論ではなく中傷であり、論理ではなく詭弁であり、思考ではなく疲労物質です。寿命を縮めるような楽山は、ずっと、出禁です。
 」
これほどまでに楽山のことが大嫌いなのに、楽山のブログ、ツイッターを何年にも渡って追いかけないではいられないというのは、ほんと、どうかしてる。
 
批判するのは批判対象の楽山を変えるためではなく、身の毛がよだつような楽山という鬼畜の情報を一般読者に知らせるためだという批判の在り方が、楽山には分からないようです。楽山の知性と感性は正常人より酷く劣っています。だから、普通では考えられないような不感不応の嘲りが出来るのです。
 
楽山には、常識と良心からの反応ができません。こちらが「寿命を縮めるような」と書いても、「ほんと、どうかしてる」という、楽山特有の軽口の侮辱を平気で書けるのです。高等感情、つまり、思いやり、共感、羞恥心、罪悪感、などが、致命的に欠けている者の筆致です。
 
まさに「楽山からの反論なるものは、反論ではなく中傷であり、論理ではなく詭弁であり、思考ではなく疲労物質です。寿命を縮めるような楽山は、ずっと、出禁です。」ということです。批判を続けるのは、私の安全のためではなく、誰も、楽山の犠牲者になってほしくないからです。
 
楽山には、誰も関わってはいけません、近づいてはいけません。ましてや、コメントの遣り取りなどは、飛んで火にいる春夏秋冬の虫です。楽山は、誰の意見も心情も無視して書いてきます。楽山の害から逃れるためには、楽山が何を書いてきても、楽山を虫として無視して意識から削除することです。
 
楽山の丁寧語や冷静を装う芝居は、よく見れば、罵詈雑言の類だと分かります。客観や中立を装うのは、読者を誘導し、読者に印象を吹き込むための、楽山の企みですが、文脈と表現のあちこちに、楽山からの軽蔑と底知れない悪意は、ずっと表れてきました。自分を見ることだけは出来ない人だからです。
 
楽山は、他者の言うことを、マニュアルのようにしか見ていません。心が無いからです。ゆえに、マニュアルのように書いてきます。ときに、くだけた表現を使いますが、なごみの心を持たず、世辞と同じような芝居に過ぎません。結果として、自分に異常を感じることが出来ません。
 
そして、受け取って理解して反応して書くのではなく、自分が言いたいことだけを書きます。だから、永遠に、議論のプロセスにも結論にもなりません。楽山には、前もっての自分の結論しかないからです。楽山との議論は成立せず、楽山の自己満足だけが、楽山にだけ残る脳のプロセスなのです。
 
3年余りも批判されて、楽山の反応は、受け取って考えることがないのです。つまり楽山は単方向だけで、学習も成長もないのです。極めて時間の無駄なのです。それで、議論ではなく、こちらも、楽山の言を引用して批判することに専念しています。楽山との議論は、誰にとっても禁忌だと思います。
 
楽山は病的な自己中なので、客観的に自分を見ることができません。認識の中心が自我で満たされて、そこから離れられず、いつも上から裁く態度で見ている、それが、楽山の本能的な姿勢です。成長しようがない幼稚な妄想自我です。ゆえに、悔いることなく嘘を吐けるのでしょう。
 
 
悪意の 虚偽の 誘導 狼狽

悪意の 虚偽の 誘導 狼狽
 
 
(2022年03月14日)
 
 
 
  (拙作断片)
 
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
 
子供の靴下よりも
大人の袋や箱よりも恐いもの
悪意や誘惑のプレゼントを配っては
心の中にキーンキーン
キーンキーンと響きを忍ばせて隠しておくんだ
見えない足跡を残しておくんだ
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記のコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山は、恐らく人格と能力の不足のために、小児期~思春期に、不都合を経験し、ルサンチマン(弱者に募る怨念)が蓄積して、他者無視そして不都合無視の、自己絶対が固定されたのかもしれません。それによって、内省、反省、罪悪感、共感性、などが、さらに欠損してゆくのです。
 
楽山が死んだとき悲しむ人がいるだろうか・・と思います。ネットで、インテリ常識人を気取っていますが、やっていることは、インチキ占い師やペテン師レベルでしかありません。いつか、公共において暴かれるでしょう。前に言っていた、責任問題は生じない、など、通用しないのです。
 
 
 
 ※
 
楽山の仲間でしょうか、私のツイッターの通知欄に、楽山ツイッターのタイトル画像と、楽山の発言を載せてきています。明らかな嫌がらせです。逆らう者には、そういうことをしてくる楽山です。楽山に関わることの災いを表しています。人としての品格の欠片もない楽山、下種の極みであります。
 
楽山は、マニュアルのようなアニマル、決まり文句を覚えても、その文脈を考えて書くことが出来ず、我欲の本能任せに、仲間を頼んで、ウイルスのような毒性をまき散らすヒト型肉食獣、または、人間界に巣食う悪性黒色腫のような、どこまでも汚い癌細胞なのです。
 
楽山の仲間ということは、早晩、楽山とともに堕ちてゆくのでしょうか。楽山の底知れぬ恐ろしさを思います。感じることも考えることもできない楽山の罠に堕ちることは、人間としての良心や真善美の感性から、限りなく乖離してゆくことを意味します。肛門周囲炎のような臭い熱を感じます。
 
今回のことで、楽山には、仲間がいる、または、だまされて同類になった人がいる、または、複数の成りすましをしている・・などという可能性が高くなります。どんどん悪の性根を表してくる楽山です。荒らし軍団の登場です。実に不潔です。最終的には、この中の誰かが、楽山をぶん殴るのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山のカルト性
 
 
カルト批判に見せかけて、無反省・無責任・無理解・無神経に、放言して、評論家気取りで、自己愛を満たそうとしてきたカルト思想宣伝者、楽山のツイートとリツイートですが、なりを潜めたかと思えば、またしても、人の書いたものを、今度は他者のツイートを利用して、自己正当化を図ろうとしています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
フォローありがとうございます。
「朱に交われば赤くなる」など、ことわざには、経験的には一理あるものが多いですね。
午前10:07 · 2021年2月20日·Twitter Web App
 
楽山は、犠牲者となってゆく人を募集しているのでしょうか。
 
(ネットより)
朱に交われば赤くなる:
朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。
https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%B1%E3%81%AB%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%B0%E8%B5%A4%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B
 
ことわざについて、上のような感想しか書けないのでしょうか。「善悪どちらにも感化される」ということを、楽山は書かず、「一理あるものが多いですね」という平板な感想を書いて済ましています。一理もないことわざがあるのでしょうか。
 
楽山のような偽善者に関わると、疲労し、頷き、受け入れて、悪と偽善に感化され、楽山と似たような、無反省・無責任な、社交だけで、実質は、鈍麻した無神経の、傍らに人亡きがごとき無法者になってゆくという場合もあるということです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
返信先: 
@Algorab_MAIKA
さん
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。(続)
午後8:34 · 2021年2月16日·Twitter Web App
 
有害極まりない自己愛性パーソナリティ障害の楽山の、性根を表すものとして注目するべきことであります。今までの、他者が書いた本を自己正当化に悪用するだけでなく、他者の、しかも、アンチカルトのツイートさえも悪用してくるという根性腐れの卑怯な楽山であります。
 
信教の自由が保証されているために、カルトに対しては、その宗教的内容の是非よりも、“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問うことを突破口にするという考え方のようです。しかし、ここには、大きな欠陥があります。これは、強制捜査や逮捕の基準に過ぎません。
 
言い換えると、犯罪行為に及んだら捕まえる、という、当たり前のことを言っているに過ぎないからです。前に、私の記事に書いたことですが、犯罪行為に及ぶ一日前はカルトではなかったのですか・・否・・という大きな疑問があります。前にも書いたことです。楽山は、何も受け取らない病質者だから、また、同じことを、他者のツイート引用リツイートで言ってきます。
 
つまり、こういう考え方の欠陥は、カルトに対するに、法的強制力に頼ることしか考えていない、ということなのです。カルトに対して、強制的にやめさせようとする構えだけでいるから、こういう考え方になってしまいます。
 
カルトに酷い目に遭わされるということは、どういうことでしょう。犯罪を犯すようになるから、というのは、かなりカルトに、のめりこんでいる場合であります。マインドコントロール・洗脳、そして、迷惑行為は、既に、犯罪以前に起こり始めています。
 
大事なことは、犯罪以前において、私たちには言論があると言うことです。即ち、カルトの勧誘が取り締まれなくても、信じたら酷いことになる信条だと思ったら、信じてはいけないカルトだと思ったら、批判することができるということです。しかも、その批判を敷衍することも出来るということです。
 
上のツイッターを載せている楽山(こも楽山)こそは、HS批判を装いながら、自身の妄想的心霊理解を、HSへの批判の反発力を利用して広めようとする軟派カルトなのです。
 
楽山は、人の言うことを聞かず、受け取らず、無視して、分かりもしないキリスト教の悪口をブログに書き、かつ、クリスチャン芝居をして、反対と賛同の両方を書いたことをもって、断定していないから責任問題は発生しないなどと言って、幼稚で勝手な、成り立たない屁理屈で、好きなように宗教をいじくって遊んでいる異常人格であります。
 
楽山の武器は、ボンヤリ言語、即ち、肯定も否定もせずに責任逃れをして、丁寧語で、宗教を、特にキリスト教を、侮辱して悦に入るような、婉曲否定と、トホホ言語、即ち、同情をひくための、反省、トホホ、共感、などという、自分に欠損しているものの言葉だけを書いて、柔和を装う偽善者の手練手管を振り回しているのです。
 
今回も、楽山の、オレが言ったのではないから責任はないじゃろ・・という企みが見え見えであります。何かに賛同したら、賛同した責任が生じます。楽山が、既存の宗教を揶揄し否定しておきながら、その責任を負わず、遊びのように自分を高めることだけを熱望しないではおれない人格破綻者であるならば、決して、その言を受け入れてはいけない、という実例であります。
 
楽山は、訂正不能の自己愛という病魔によって、非を認めない無反省、曖昧に書きながら丁寧語の遠回しな刷り込みをしてきて、かつ、責任を負いません。
 
また、楽山の履歴として、児童心理学を心霊の話にすり替える無理解を表し、奇跡の理路を書いたつもりで何の説得力もない自己矛盾と理解力の欠乏を表し、恐らく深い情緒や思いやりを感じ得ない情性からの他者が傷つくのを楽しんでいる心性を表し、何よりも、自身の欠点を、全く認めようとしないで、不都合を人のせいにする他罰性を表す、等々によって特徴づけられることが、ここ2年ほどの批判で明らかになっています。
 
今後も、他者の意見を引用して、自分の都合に合わせて悪用することがあるでしょう。楽山、こも楽山、というHNを覚えてください。誘われて応じたら、応じた分だけ、言いようのない疲労をもたらされることになる楽山はサイコパス的人格です。批判に見せかけたカルト思想宣伝者なのです。
 
誘われて非常に疲れる、ということが起こったら、HNは違っても、楽山が関わっている可能性を、考えるべきだと思います。楽山は、いかなる言論の中心にも端っこにも辺縁にもいてはならない特定疲労性病原です。
 
楽山は、右翼思想を礼賛する者であり、他者の精神を破壊するようなカルト的思想~妄想を刷り込んできますが、本質は、幼稚な自己満足と自己愛による霊能者気取りであります。やり口が、集団のカルトよりも、卑怯で、汚いということです。ブログを書かないときは、何事か、その他のメディア、例えば、ツイッターで、企んで書いてきます。
 
非常に傍迷惑で嫌気がさすことは、上記のツイートを書いた人が、楽山本人である可能性を考えなければならなくなることです。楽山が、犯罪に及ばない限りカルトとは言えない、という同じようなことを書いていたからです。楽山は、策士であり、詐欺師であり、嘘吐きであり、詭弁屋であります。
 
楽山には良心がないと思いますが、同時に、楽山は、他者の良心を破壊する病原です。良心と宗教と信仰と思想に対して、何らかの根深い怨念があるだろうと思われます。書けば書くほど正体がばれるのに、今になっても、まだ、誰かを騙すつもりでいるのしょうか。怖いことです。
 
 
 2021年02月20日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 霊的真相とは?(ツイート保存)
  抜粋して批判。
 
最も凶悪な者というのは、悪ばかり語るのではなく、悪と善を、真と偽を、混ぜて言ってくるから厄介、というのを聞いたことがあります。楽山という詭弁屋は、まさに、そのようです。
 
HSに限らず、概して宗教というものは、苦難困難に対して何らかの宗教的な意味づけをすることで乗り越えようとするものではあろうが、HSのいう霊的真相はその中でも極めて特殊、極端に過ぎるし、ここはもう少し穏当、理性的なものに改めた方がいいのではないかと思う。
 
楽山は、他者の苦難困難に乗じて、何らかの詭弁的な意味づけをして、相手を追いつめ、疲労させてきます。そして、何か言われて揶揄の返しも出来ないときは、無視してゆきます。当然、相手は、実に甚だしく消耗し、疲労します。それをいつも狙っているのが、楽山であります。楽山には、人間に相応しい理性はないと思います。
 
楽山の霊的真相は、自己愛による自己満悦・我執絶対の妄想です。それは、よく読まないと明らかにならないというのが、楽山の、ボンヤリ言語、そして、トホホ言語です。体質的に身につけたそれらの偽善の悪意は、人格レベルで固定されて、何を言っても訂正不能です。楽山の悪と偽善の害は、人格を含めて、全否定して、相手にしないことでしか、防ぎようがないのです。
 
 
また騙すつもりか

また騙すつもりか
 
 
(2021年02月21日)
 
 
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